低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
ロックは、立ち上がりかけた姿勢のまま止まった。
短い突起が、暗がりから伸びてくる。
その後ろに、濡れた身体。
上の部屋で見たものより、小さく見えた。
だが、身体の大半はまだ闇の中だ。
狭い場所だから小さく見えるだけかもしれない。
ロックは後ろへ足を引いた。
剣へ手を伸ばしかけ、止める。
ここでは、長い棒さえ扱いにくい。
相手を突き放す間に、足を踏み外して溝へ入れば、それで終わりだった。
◇
腰の小袋から、残しておいた肉の包みを取り出した。
紐を解く。
その間にも、濡れた身体は近づいてくる。
ロックは肉を一片、横へ投げた。
溝を越えた向こう側。
乾いた縁へ落ち、鈍い音がする。
短い突起が縮んだ。
前端が、肉の方へ向く。
ロックは動かなかった。
身体が斜めになり、溝を横切り始める。
それを待って、ロックは下流へ退いた。
一歩。
もう一歩。
相手の前端が、肉へ被さった。
ロックはそこで向き直った。
◇
走れる道ではなかった。
片足を置く幅はある。
しかし、隣には液体の流れる溝がある。
天井も低く、気をつけなければ頭をぶつけそうだった。
ロックは腰を落とし、灯りを前へ向けて進んだ。
壁の角を曲がる。
背後を見る。
追ってくる姿はなかった。
肉は、まだ残っている。
小袋を握って確かめた。
だが、何匹いても同じように食わせて進めるほど、多くは持ってきていない。
帰る道が見つかるまで、使い切るわけにはいかなかった。
◇
通路の先に、鉄格子があった。
いや、近づいてみると、床から天井まで塞いでいるわけではない。
中央の溝へ、格子が落とされている。
流れてきた大きな物を受け止めるためのものらしかった。
両側の縁は、そのまま続いている。
ロックは片側へ灯りを寄せた。
壁に、低い扉がある。
取っ手の位置は腰より下。
その脇へ、四角い錠前がついていた。
ロックは膝をつきかけ、床を見た。
薄く濡れている。
立ったまま腰を曲げ、扉の周囲を調べた。
仕掛けらしい物は見えない。
枠には、古代語の文字が残っていた。
点検。
残りは汚れに隠れている。
ロックは鍵の輪を取り出した。
◇
一本目は、入らなかった。
無理に押し込まず、抜く。
二本目は入った。
だが、奥まで届かない。
三本目。
差し込むと、指先へ小さな手応えが返ってきた。
回す。
動かない。
ロックは鍵を少し戻し、扉を押した。
錠へ掛かっていた重みが抜ける。
もう一度。
今度は回った。
ロックは取っ手を引いた。
扉は僅かに開き、そこで止まった。
下の縁に、固まった汚れが噛んでいる。
肩で押したくなったが、内側へ何があるか分からない。
ロックは隙間へ灯りを向けた。
床。
すぐ奥に、上りの段。
少なくとも、液体が流れ出てくる様子はなかった。
◇
道具袋から、細い金属の道具を取り出した。
扉の下へ差し込み、少しずつ汚れを崩す。
乾いた欠片が落ちる。
ロックは一度手を止め、背後を見た。
何もいない。
溝の水音だけが続いている。
再び道具を入れた時、壁の奥で音がした。
重い物が、ゆっくりと動き出す音。
ロックは顔を上げた。
上の部屋でも聞いた。
床が動き、液体が流れ始める前の音だ。
◇
溝を見る。
流れが、僅かに速くなっていた。
格子へ引っ掛かっていた欠片が震える。
ロックは道具を持ち替えた。
急ぎたい。
だが、折れば取り除く物が増える。
扉を少し持ち上げ、下へ押し込む。
固まっていた物が割れた。
引く。
扉が、さっきより大きく開いた。
まだ、人が通るには狭い。
背後で、水音が変わった。
ロックは肩の鞄を身体の前へ回した。
厚い覆いが、扉の角へ触れる。
腰を捻り、片足を隙間へ入れた。
その時、上流から黒い塊が流れてきた。
◇
木屑と、何かの繊維が絡んだ塊だった。
格子へぶつかる。
流れが、それを押しつける。
ロックの足元で、液体が溝の縁を越えた。
靴の先へ触れる。
ロックは足を引き上げた。
扉の内側にある、一段高いところへ置く。
身体の半分を入れ、鞄を押し込む。
腰の道具袋が引っ掛かった。
ロックは息を止めた。
無理に引けば、袋ごと扉の外へ残すことになる。
少し戻り、帯の位置をずらす。
外れた。
もう片方の足を引き込んだ時、通路側から液体が流れ込んできた。
◇
ロックは段を上がった。
一段。
二段。
振り返る。
扉の隙間から入った液体は、入口近くの窪みへ溜まっていた。
すぐに上まで届く様子はない。
しかし、格子のところで流れが塞がれれば、どうなるか分からない。
ロックは取っ手へ手を掛けた。
引く。
重い。
下へ溜まった汚れが、まだ扉を邪魔していた。
足場の高い側から身体を低くし、両手で取っ手を握った。
ゆっくり、引く。
扉の縁が床を擦った。
最後に、鈍い音がした。
隙間が閉じた。
ロックは取っ手を離さず、しばらく待った。
押し戻される様子はない。
内側には、閂があった。
それを掛けてから、ようやく手を離した。
◇
灯りを下げ、靴を見る。
先端が濡れていた。
抗酸剤を使ってある。
だから大丈夫だと、そのままにする気にはなれなかった。
教わった手順で液体を取り除き、使った布を別の容器へ収める。
革の表面を確かめる。
大きく変わった様子はない。
縫い目は。
底との継ぎ目は。
指先で押す前に、灯りを近づけて見た。
ロックは長く息を吐いた。
間に合った。
薬品がなければ、同じように済んだかどうかは分からなかった。
◇
扉の向こうで、何かが格子へ当たった。
一度。
それから、擦れる音。
ロックは剣の柄へ手を置いた。
動かずに聞く。
しばらくして、音は水音へ紛れた。
肉を食べていた個体が流されてきたのか。
別のものがいたのか。
確かめるために扉を開けるつもりはなかった。
ロックは上を見た。
階段は、頭上の暗がりへ続いている。
今度は、上りだった。
◇
段は狭かったが、崩れてはいなかった。
一段ずつ棒で確かめ、上がる。
途中の踊り場には、小さな穴が幾つも開いていた。
床へ入った液体を下へ抜くためだろうか。
ロックは足を置かずに跨いだ。
さらに上ると、扉があった。
こちらは錠が掛かっていない。
内側から押すと、乾いた音を立てて開いた。
見覚えのある、壁の色。
細い通路。
窓の向こうには、広い部屋の床が見える。
ロックはすぐには出なかった。
床を調べ、扉の脇へ印をつけた。
それから、壁沿いに進んだ。
◇
曲がり角の先に、崩れた床が見えた。
ロックは立ち止まった。
穴の向こう側には、落ちる前に歩いていた通路が続いている。
戻ってきた。
ただし、反対側へ。
床を抜けて落ち、下の排液路を通り、別の階段から上がったのだ。
ロックは手帳を開いた。
穴の位置。
下へ続く通路。
格子。
点検扉。
上り階段。
線を繋ぐ。
ようやく、一つの形になった。
帰り道はある。
だが、その帰り道を、また濡れた排液路へ求めるつもりはなかった。
◇
穴は、飛び越えるには嫌な幅だった。
向こう側の縁も、欠けている。
着地した場所が、また崩れるかもしれない。
ロックは距離を測り、手帳へ書いた。
それから、来た方向とは反対へ灯りを向ける。
通路は、まだ続いている。
保守のための道なら、別の出入口へ繋がっている可能性もある。
ただ、そう思いたいだけで進むわけにはいかない。
ロックは持っている物を確かめた。
灯り。
水。
食料。
縄。
残った肉。
魔法を使った分、疲れもあった。
肩も痛む。
ここで長く探索を続けるべきではなかった。
ロックは穴の向こうをもう一度見た。
帰るために必要なのは、勢いではない。
渡れる場所か、別の道だ。
手帳を閉じ、通路の先へ進んだ。
今度は、道の先を知るためではない。
今日、ここから出るためだった。