低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第94話 水の来る前に

 ロックは、立ち上がりかけた姿勢のまま止まった。

 

 短い突起が、暗がりから伸びてくる。

 

 その後ろに、濡れた身体。

 

 上の部屋で見たものより、小さく見えた。

 

 だが、身体の大半はまだ闇の中だ。

 

 狭い場所だから小さく見えるだけかもしれない。

 

 ロックは後ろへ足を引いた。

 

 剣へ手を伸ばしかけ、止める。

 

 ここでは、長い棒さえ扱いにくい。

 

 相手を突き放す間に、足を踏み外して溝へ入れば、それで終わりだった。

 

     ◇

 

 腰の小袋から、残しておいた肉の包みを取り出した。

 

 紐を解く。

 

 その間にも、濡れた身体は近づいてくる。

 

 ロックは肉を一片、横へ投げた。

 

 溝を越えた向こう側。

 

 乾いた縁へ落ち、鈍い音がする。

 

 短い突起が縮んだ。

 

 前端が、肉の方へ向く。

 

 ロックは動かなかった。

 

 身体が斜めになり、溝を横切り始める。

 

 それを待って、ロックは下流へ退いた。

 

 一歩。

 もう一歩。

 

 相手の前端が、肉へ被さった。

 

 ロックはそこで向き直った。

 

     ◇

 

 走れる道ではなかった。

 

 片足を置く幅はある。

 

 しかし、隣には液体の流れる溝がある。

 

 天井も低く、気をつけなければ頭をぶつけそうだった。

 

 ロックは腰を落とし、灯りを前へ向けて進んだ。

 

 壁の角を曲がる。

 

 背後を見る。

 

 追ってくる姿はなかった。

 

 肉は、まだ残っている。

 

 小袋を握って確かめた。

 

 だが、何匹いても同じように食わせて進めるほど、多くは持ってきていない。

 

 帰る道が見つかるまで、使い切るわけにはいかなかった。

 

     ◇

 

 通路の先に、鉄格子があった。

 

 いや、近づいてみると、床から天井まで塞いでいるわけではない。

 

 中央の溝へ、格子が落とされている。

 

 流れてきた大きな物を受け止めるためのものらしかった。

 

 両側の縁は、そのまま続いている。

 

 ロックは片側へ灯りを寄せた。

 

 壁に、低い扉がある。

 

 取っ手の位置は腰より下。

 

 その脇へ、四角い錠前がついていた。

 

 ロックは膝をつきかけ、床を見た。

 

 薄く濡れている。

 

 立ったまま腰を曲げ、扉の周囲を調べた。

 

 仕掛けらしい物は見えない。

 

 枠には、古代語の文字が残っていた。

 

 点検。

 

 残りは汚れに隠れている。

 

 ロックは鍵の輪を取り出した。

 

     ◇

 

 一本目は、入らなかった。

 

 無理に押し込まず、抜く。

 

 二本目は入った。

 

 だが、奥まで届かない。

 

 三本目。

 

 差し込むと、指先へ小さな手応えが返ってきた。

 

 回す。

 

 動かない。

 

 ロックは鍵を少し戻し、扉を押した。

 

 錠へ掛かっていた重みが抜ける。

 

 もう一度。

 

 今度は回った。

 

 ロックは取っ手を引いた。

 

 扉は僅かに開き、そこで止まった。

 

 下の縁に、固まった汚れが噛んでいる。

 

 肩で押したくなったが、内側へ何があるか分からない。

 

 ロックは隙間へ灯りを向けた。

 

 床。

 

 すぐ奥に、上りの段。

 

 少なくとも、液体が流れ出てくる様子はなかった。

 

     ◇

 

 道具袋から、細い金属の道具を取り出した。

 

 扉の下へ差し込み、少しずつ汚れを崩す。

 

 乾いた欠片が落ちる。

 

 ロックは一度手を止め、背後を見た。

 

 何もいない。

 

 溝の水音だけが続いている。

 

 再び道具を入れた時、壁の奥で音がした。

 

 重い物が、ゆっくりと動き出す音。

 

 ロックは顔を上げた。

 

 上の部屋でも聞いた。

 

 床が動き、液体が流れ始める前の音だ。

 

     ◇

 

 溝を見る。

 

 流れが、僅かに速くなっていた。

 

 格子へ引っ掛かっていた欠片が震える。

 

 ロックは道具を持ち替えた。

 

 急ぎたい。

 

 だが、折れば取り除く物が増える。

 

 扉を少し持ち上げ、下へ押し込む。

 

 固まっていた物が割れた。

 

 引く。

 

 扉が、さっきより大きく開いた。

 

 まだ、人が通るには狭い。

 

 背後で、水音が変わった。

 

 ロックは肩の鞄を身体の前へ回した。

 

 厚い覆いが、扉の角へ触れる。

 

 腰を捻り、片足を隙間へ入れた。

 

 その時、上流から黒い塊が流れてきた。

 

     ◇

 

 木屑と、何かの繊維が絡んだ塊だった。

 

 格子へぶつかる。

 

 流れが、それを押しつける。

 

 ロックの足元で、液体が溝の縁を越えた。

 

 靴の先へ触れる。

 

 ロックは足を引き上げた。

 

 扉の内側にある、一段高いところへ置く。

 

 身体の半分を入れ、鞄を押し込む。

 

 腰の道具袋が引っ掛かった。

 

 ロックは息を止めた。

 

 無理に引けば、袋ごと扉の外へ残すことになる。

 

 少し戻り、帯の位置をずらす。

 

 外れた。

 

 もう片方の足を引き込んだ時、通路側から液体が流れ込んできた。

 

     ◇

 

 ロックは段を上がった。

 

 一段。

 二段。

 

 振り返る。

 

 扉の隙間から入った液体は、入口近くの窪みへ溜まっていた。

 

 すぐに上まで届く様子はない。

 

 しかし、格子のところで流れが塞がれれば、どうなるか分からない。

 

 ロックは取っ手へ手を掛けた。

 

 引く。

 

 重い。

 

 下へ溜まった汚れが、まだ扉を邪魔していた。

 

 足場の高い側から身体を低くし、両手で取っ手を握った。

 

 ゆっくり、引く。

 

 扉の縁が床を擦った。

 

 最後に、鈍い音がした。

 

 隙間が閉じた。

 

 ロックは取っ手を離さず、しばらく待った。

 

 押し戻される様子はない。

 

 内側には、閂があった。

 

 それを掛けてから、ようやく手を離した。

 

     ◇

 

 灯りを下げ、靴を見る。

 

 先端が濡れていた。

 

 抗酸剤を使ってある。

 

 だから大丈夫だと、そのままにする気にはなれなかった。

 

 教わった手順で液体を取り除き、使った布を別の容器へ収める。

 

 革の表面を確かめる。

 

 大きく変わった様子はない。

 

 縫い目は。

 

 底との継ぎ目は。

 

 指先で押す前に、灯りを近づけて見た。

 

 ロックは長く息を吐いた。

 

 間に合った。

 

 薬品がなければ、同じように済んだかどうかは分からなかった。

 

     ◇

 

 扉の向こうで、何かが格子へ当たった。

 

 一度。

 

 それから、擦れる音。

 

 ロックは剣の柄へ手を置いた。

 

 動かずに聞く。

 

 しばらくして、音は水音へ紛れた。

 

 肉を食べていた個体が流されてきたのか。

 

 別のものがいたのか。

 

 確かめるために扉を開けるつもりはなかった。

 

 ロックは上を見た。

 

 階段は、頭上の暗がりへ続いている。

 

 今度は、上りだった。

 

     ◇

 

 段は狭かったが、崩れてはいなかった。

 

 一段ずつ棒で確かめ、上がる。

 

 途中の踊り場には、小さな穴が幾つも開いていた。

 

 床へ入った液体を下へ抜くためだろうか。

 

 ロックは足を置かずに跨いだ。

 

 さらに上ると、扉があった。

 

 こちらは錠が掛かっていない。

 

 内側から押すと、乾いた音を立てて開いた。

 

 見覚えのある、壁の色。

 

 細い通路。

 

 窓の向こうには、広い部屋の床が見える。

 

 ロックはすぐには出なかった。

 

 床を調べ、扉の脇へ印をつけた。

 

 それから、壁沿いに進んだ。

 

     ◇

 

 曲がり角の先に、崩れた床が見えた。

 

 ロックは立ち止まった。

 

 穴の向こう側には、落ちる前に歩いていた通路が続いている。

 

 戻ってきた。

 

 ただし、反対側へ。

 

 床を抜けて落ち、下の排液路を通り、別の階段から上がったのだ。

 

 ロックは手帳を開いた。

 

 穴の位置。

 下へ続く通路。

 格子。

 点検扉。

 上り階段。

 

 線を繋ぐ。

 

 ようやく、一つの形になった。

 

 帰り道はある。

 

 だが、その帰り道を、また濡れた排液路へ求めるつもりはなかった。

 

     ◇

 

 穴は、飛び越えるには嫌な幅だった。

 

 向こう側の縁も、欠けている。

 

 着地した場所が、また崩れるかもしれない。

 

 ロックは距離を測り、手帳へ書いた。

 

 それから、来た方向とは反対へ灯りを向ける。

 

 通路は、まだ続いている。

 

 保守のための道なら、別の出入口へ繋がっている可能性もある。

 

 ただ、そう思いたいだけで進むわけにはいかない。

 

 ロックは持っている物を確かめた。

 

 灯り。

 水。

 食料。

 縄。

 残った肉。

 

 魔法を使った分、疲れもあった。

 

 肩も痛む。

 

 ここで長く探索を続けるべきではなかった。

 

 ロックは穴の向こうをもう一度見た。

 

 帰るために必要なのは、勢いではない。

 

 渡れる場所か、別の道だ。

 

 手帳を閉じ、通路の先へ進んだ。

 

 今度は、道の先を知るためではない。

 

 今日、ここから出るためだった。

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