低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
作業台には、二枚の金属片が並んでいた。
どちらも、遺跡から採ってきた液体へ浸した物だ。
片方は表面が曇り、縁に細かな荒れが出ている。もう片方には、薄く黄ばんだ膜が残っていた。
「差は出たぞ」
薬品庫の担当者が、皿をロックの方へ押した。
「使えるんですね?」
「金物にはな。少なくとも、お前が持ってきた液体に対しては、塗らないより保った。だが、革に塗った方を見ろ」
隣の皿には、折り曲げた革が載っている。
塗剤は、曲げたところで筋になって剥がれていた。
ロックは身を屈めた。剥がれた部分だけ、その下の革が濃く変色している。
「手袋や靴には、向きませんか」
「そのままではな。元々、動かない器具へ使っていたんだろう。何にでも同じように使える物じゃない」
ロックは頷いた。
これで、身体を丸ごと守れるわけではない。
それでも、鉤や留め具、金属の容器を守れるなら助かる。買った抗酸剤を、全ての道具へ使わずに済む。
担当者は平たい容器の蓋を閉め、ロックへ返した。
「残りだ。使う前に汚れを落とせ。塗った後も、剥がれたところがないか確かめろよ」
「ありがとうございます。もう一つ、同じ物らしい容器を見つけたんですが、比べてもらえますか?」
「持ってこい。札が同じでも、中身まで同じ状態とは限らんからな」
ロックは道具袋から、包んだ容器を取り出した。
◇
遺跡から持ち帰った鉤は、継ぎ目に少し緩みがあった。
ロックは職人へ直してもらい、柄を握り直した。長く伸ばしても、先端がふらつかない。
そこへ塗剤を薄く延ばす。
剣へ使うのは、まだやめておいた。刃や鞘へ何が起こるか分からない。
まずは、元々この施設で使われていた道具からだ。
塗り終えた鉤を立て掛け、手帳を開く。
歯の裏側の入口。
保守通路。
器材庫。
その先にある点検箇所を、順に辿った。
広い部屋の底へ降りる前に、壁の外側から見ておきたい。見える場所が増えれば、透明な生き物がどこへ集まっているのかも分かるはずだった。
ロックは地図を畳み、必要な物を鞄へ収めた。
◇
歯の裏側から入った通路は、前に来た時と同じように乾いていた。
ただ、奥から響く音が違った。
低く、長い。
ロックは足を止め、壁へ触れない距離で耳を澄ました。
何かが擦れている。
重い物を、無理に引いているような音だった。
前に聞いた床の動く音には、始まりと終わりがあった。今は、途中で止まり、しばらくしてまた鳴る。
ロックは手帳を開いた。
音がする方角には、排液路の先がある。
そこへ向かう通路を確かめ、灯りを下げて歩き始めた。
◇
最初の窓から見えた床には、液体が溜まっていた。
前よりも多い。
窪みを繋いでいた細い流れが見えなくなり、石の盛り上がりだけが、水面から背を出している。
ロックは窓の下端へ目を移した。
まだ、そこまでは届いていない。
だが、壁沿いの細い段は、ところどころ濡れていた。
肉を食わせて渡った場所だ。
「……あっちから入っていたら、困ったな」
口に出してから、ロックは入口を振り返った。
保守通路が乾いているからといって、この先も同じとは限らない。
窓へ近づきすぎず、次の点検箇所へ向かった。
◇
通路の突き当たりは、小さな部屋になっていた。
壁際に石の台があり、その上へ金属の枠が並んでいる。
枠の一つには、細い棒が立っていた。
横に目盛りがある。
棒の端は、その途中で小刻みに揺れていた。
ロックは手を触れず、傍の文字を読んだ。
液面。
その下には、刻まれた線と、矢印。
今の棒の位置は、線より上だった。
どうやって動いているのかは分からない。しかし、外の液体が増えていることを示しているのなら、見たものとは合う。
ロックは位置を書き写した。
台の奥には、薄い板を綴じた物が置かれていた。
表紙の文字は、保守記録。
指を掛け、ゆっくりと開く。
紙ではなかった。薄い金属板へ、小さな文字が刻み込まれている。
湿気の多い場所で使うためだろうか。
ロックは灯りを寄せ、読めるところから拾った。
◇
日付。
担当者の名。
点検した場所と、その状態。
同じ形式の記録が続いていた。
途中から、同じ言葉が何度も現れる。
排液不良。
流入停止。
異物除去。
ロックは前の板へ戻った。
排液が悪くなった時には、先に流入を止めている。その後で、格子や排液口を調べていた。
自分が見た下の通路でも、流れてきた塊が格子へ引っ掛かっていた。
あの時は、肉を食わせた生き物から逃げていたため、取り除く余裕がなかった。
あれが残っているのだろうか。
ロックは記録の図を見た。
場所が違う。
自分の通った点検扉より、さらに下流だった。
図の先には、大きな円と、幾枚もの板を重ねたような印がある。
排出弁。
ロックは文字を指で追った。
液体を溜め、必要な時に先へ送る。
そのための仕組みがあるらしかった。
◇
部屋の奥には、蓋を閉じた点検口があった。
蓋の中央に輪があり、その脇へ留め金が掛かっている。
ロックは先に、周囲を調べた。
床には、蓋から入口側へ向かう浅い溝が切られていた。その先は壁の小穴へ続いている。
漏れた液体を逃がすためなのかもしれない。
留め金を外す前に、部屋の扉へ戻った。
開く。
通路は乾いている。
入口までの道を頭の中で辿り、荷物を扉の近くへ寄せた。
それから点検口へ戻り、鉤の先で輪を引いた。
蓋が僅かに浮く。
湿った空気が、隙間から上がってきた。
ロックは横へ避け、しばらく待った。
液体は出てこない。
灯りを近づけると、蓋の下には金属の格子があった。
そこから、下を覗ける造りだった。
◇
排液口が見えた。
広い部屋から集まった液体が、緩やかな渦を巻いている。
その先に、大きな石の輪。
輪の中では、弁らしい板が少し開き、また戻っていた。
低い音が鳴る。
ロックは眉を寄せた。
挟まっている。
板と石の輪の間に、黒ずんだ物があった。
細い繊維を絡ませた、塊のように見える。
流れが押しても、抜けない。
弁が動くたびに形を変え、隙間へ食い込んでいた。
保守記録の言葉が、頭に浮かんだ。
異物除去。
だが、その前には流入停止とあった。
流れを止めずに引けば、詰まっていた液体が一度に抜けるかもしれない。道具ごと持っていかれれば、ロックも格子へ引きつけられる。
鉤を握ったまま、手を止めた。
◇
しばらく見ていると、塊の端が動いた。
流れに揺れたのではない。
輪の表面へ、薄いものが貼りつくように広がった。
ロックは灯りを少し引いた。
光の角度が変わる。
黒く見えていた塊の周りに、透明な縁が現れた。
その中へ、木片や繊維が幾つも埋まっている。
ロックは息を止めた。
濡れた床へ広がっていたものと、似ている。
しかし、大きさが分からない。
見えているのは、弁に挟まった部分だけだ。その先は、暗い排液口へ続いている。
弁が動いた。
透明な縁が縮み、黒い塊が持ち上がる。
次の瞬間、格子の下へ何かが叩きつけられた。
ロックは反射的に身体を引いた。
◇
金属が鳴った。
格子の向こうで、濡れた面が膨らんでいる。
ただの塊ではなかった。
その表面に筋が入り、左右へ開いた。
内側には、短い鉤のような突起が幾重にも並んでいる。
ロックは、あの生き物が肉へ被さった時のことを思い出した。
下からは、見えなかった。
今、格子へ押しつけられているのは、その食べる部分なのかもしれない。
濡れた面が格子を擦った。
ロックは鉤を引き戻し、点検口の蓋を落とした。
重い音が部屋へ響く。
留め金を掛ける手が、一度滑った。
掛け直し、輪から離れる。
蓋の下で、何かが擦れた。
◇
ロックは部屋の入口まで退いた。
追ってくるものはない。
床へ液体が漏れ出す様子もなかった。
それを確かめてから、ようやく息を吐いた。
詰まっている物を、引けばよい。
そう考えていた。
鉤が届くかどうか、もう少し近くで見たくなっていた。
もし差し込んでいたら。
握っていた柄へ目を落とす。
長い道具でも、繋がっているのは自分の手だ。
ロックは鉤を壁へ立て掛け、手帳を開いた。
◇
排出弁に、何かがいる。
流れてきた屑を抱え込んでいる。
弁の動きへ耐え、隙間を塞いでいる。
そして、上の区画では液体が増えていた。
これが、直接の原因なのだろうか。
断定はできない。
それでも、排液不良と、弁に絡んだ生き物を、別々の出来事として考えるわけにもいかなかった。
ロックは保守記録へ戻った。
最初に読む時とは、探す言葉が変わっていた。
流入を止める場所。
排出弁を固定する方法。
それから、この先へ別の出口があるかどうか。
読みながら、必要な部分を写していく。
◇
金属板の端へ、小さな図があった。
先ほど見た排出弁と、その上の点検口。
さらに横から、細い線が伸びている。
人が入るための道ではない。
線の先には、器材庫で見た物によく似た、長い道具が描かれていた。
ロックは鉤の先を見た。
使う場所は、上の格子ではなかったらしい。
横から道具を差し込み、弁を塞いだ物を動かすための口がある。
それなら、真上から覗き込まずに済む。
ただし、道具が引かれる危険は残る。
ロックは図の脇へ、縄と書き足した。
道具を落とさないための縄ではない。
引かれた時、自分が手を放せるようにするためだった。
◇
帰る前に、液面を示す棒を確かめた。
最初に写した位置より、僅かに高い。
ロックは二つの印を見比べた。
このまま増え続けるとは限らない。
だが、次に来た時も保守通路が乾いていると、当てにする気にはなれなかった。
記録を閉じる。
持ち帰りたかったが、作業手順が残る場所からなくしてしまうのも困る。必要な図と文字は、手帳へ写した。
ロックは鉤を担ぎ、部屋を出た。
今度は、調べたい場所が漠然としていない。
流入を止めるところ。
弁を横から調べるところ。
その二つを、次に確かめる。
背後で、また重い音が鳴った。
途中で止まり、やがてもう一度鳴る。
ロックは歩調を速めた。
足元を確かめながら、それでも、来た時より急いでいた。