低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第98話 流れを止める

 歯の裏側の板を開いた時、奥から低い音が響いてきた。

 

 ロックは足掛かりを降り、その場で立ち止まった。

 

 前に聞いたものと同じだ。

 

 重い物が動き、途中で止まる。しばらくすると、また動き始める。

 

 排出弁は、まだ塞がれているらしい。

 

 ロックは鉤を肩から下ろした。柄の根元には縄を結び、その端を畳んで留めてある。

 

 腕にも、腰にも結ばない。

 

 引かれたら、まず手を放す。その後で道具を取り戻せるか考える。

 

 前にあの口を見た時、柄を握ったまま踏ん張っていたらどうなったか。

 

 それだけは、試す気になれなかった。

 

     ◇

 

 点検室へ向かう途中、ロックは窓から下を見た。

 

 石の盛り上がりが、前より小さくなっている。

 

 液体が増えていた。

 

 壁際の段は、長い範囲にわたって濡れている。最初に縄で下りた場所も、今は足を置けそうになかった。

 

 ロックは窓から離れた。

 

 先に行くのは、排出弁の部屋ではない。

 

 手帳を開き、写してきた保守記録の図を辿る。

 

 流入を止めるための操作箇所は、一本手前の分岐から上へ向かったところにあった。

 

 ここで道を間違えたくない。

 

 曲がり角の文字と、手帳の写しを照らし合わせてから、ロックは上り始めた。

 

     ◇

 

 石の階段を上がると、壁へ金属の輪が三つ並んでいた。

 

 どれも両手で回せる大きさだ。

 

 輪の上には、それぞれ別の文字がある。

 

 流入。

 洗浄。

 予備。

 

 その横に、開閉の向きを示す印。

 

 ロックは、一番目の輪へ灯りを寄せた。

 

 輪から伸びた軸が壁へ入り、その傍には細い溝がある。溝の中に嵌まった金属片は、上の端近くを指していた。

 

 保守記録の図と同じ造りだった。

 

 ただ、図の文字を読めたからといって、今もそのとおり動くとは限らない。

 

 ロックは輪の根元を調べた。

 

 割れは見えない。壁との間には細かい埃が溜まっているが、錆で膨れ上がった様子もなかった。

 

 両手で握り、僅かに力を掛ける。

 

 動かない。

 

 足を開き、もう少し力を込めた。

 

 輪が、指一本分ほど回った。

 

 壁の奥で、鈍い音がした。

 

     ◇

 

 ロックは手を止めた。

 

 頭上から埃が落ちる。

 

 しばらく待ったが、床も壁も動かなかった。

 

 もう一度、輪を回す。

 

 今度は、さっきより軽い。

 

 溝の中の金属片が、少し下がった。

 

 ロックは輪と金属片を交互に見ながら、ゆっくりと回した。途中で引っ掛かるところは、無理に押し切らず、一度僅かに戻してから動かし直す。

 

 やがて金属片が下端へ届き、輪が止まった。

 

 閉。

 

 その文字を確かめ、ロックは手を離した。

 

 肩から腕まで、重い疲れが残っていた。

 

 ほかの二つには触れない。

 

 まず、何が変わったかを見に行く。

 

     ◇

 

 窓の前で、ロックは耳を澄ました。

 

 上から液体が落ちてくる音は、まだ聞こえる。

 

 止まっていないのか。

 

 そう思ったが、見ているうちに流れは細くなった。

 

 石の縁を越えていた液体が途切れ、最後に幾筋かの雫へ変わる。

 

 途中の通路に残っていた分が、流れ落ちたのだろうか。

 

 ロックは、しばらく待った。

 

 新しい流れは来なかった。

 

「止まった……」

 

 呟いてから、下の液面を見る。

 

 すぐに低くなるわけではない。

 

 排出弁が塞がれたままなのだから、当然だった。

 

 それでも、増え続ける中で作業せずに済む。

 

 ロックは手帳へ時点を記し、排出弁の点検室へ向かった。

 

     ◇

 

 液面を示す棒は、前に記した印より高い位置にあった。

 

 だが、見ている間に上がる様子はなかった。

 

 床の点検口は閉じたままにする。

 

 その真下には、口を開くものがいた。

 

 今日使うのは、壁際にある横の作業口だ。

 

 前に写した図を見ながら、石の台の脇へ屈む。

 

 小さな蓋があった。

 

 中央に丸い穴。その穴を塞ぐ、厚い栓。

 

 栓の根元へ、留め金が二つ掛けられている。

 

 ロックは作業口と床の点検口を見比べた。

 

 下で繋がっているなら、ここから鉤を差し込めるはずだ。

 

 傍らには、金属の輪も埋め込まれていた。

 

 図では、道具を支える線がそこへ伸びている。

 

 ロックは鉤の縄を輪へ通した。端は縛らず、扉近くまで延ばしておく。

 

 自分は、その輪と作業口を結ぶ線の横へ立った。

 

     ◇

 

 留め金を外し、栓を僅かに引く。

 

 湿った空気が漏れた。

 

 液体は出てこない。

 

 さらに引き抜くと、壁の厚みを貫く細い穴が現れた。

 

 ロックは灯りを近づけたが、奥までは見えなかった。

 

 鉤を入れる前に、細い棒を差し込む。

 

 壁に触れる。

 

 向きを変えると、その先が下へ抜けた。

 

 図のとおり、穴は途中で傾いているらしい。

 

 棒を抜き、鉤へ持ち替えた。

 

 先端を横へ向け、少しずつ送り込む。

 

 金属が石を擦る音。

 

 その後で、柔らかいものへ触れた。

 

 ロックは押すのをやめた。

 

     ◇

 

 柄へ、重みが掛かった。

 

 先端が、ゆっくりと下へ引かれる。

 

 ロックは指を緩めた。

 

 鉤が滑る。

 

 結んであった縄が張り、輪へ擦れた。

 

 ロックは手を放し、横へ退いた。

 

 柄が作業口の縁へ当たり、硬い音を立てた。

 

 そのまま、止まる。

 

 縄の端は床を這い、少しずつ輪の方へ寄っていた。

 

 ロックは踏みつけなかった。

 

 相手の力が分からないまま、自分の体重で止めるつもりはない。

 

 しばらくすると、縄が動かなくなった。

 

 柄が、僅かに上がる。

 

 引く力が緩んだらしい。

 

 ロックは縄の端を拾い、作業口から離れたまま、軽く引いた。

 

 鉤は戻らなかった。

 

「……噛んだな」

 

 先端が引っ掛かっただけかもしれない。

 

 だが、最初は押してもいないのに、向こうから引いてきた。

 

 少なくとも、触った場所には動くものがいる。

 

     ◇

 

 ロックは縄を置き、保守記録を開いた。

 

 異物を突き落とす。

 

 掻き寄せる。

 

 絡んだものを、引き剥がす。

 

 描かれた道具の使い方を、一つずつ確かめる。

 

 どれも、相手が道具を掴んで引くことまでは考えていないようだった。

 

 ロックは扉の傍へ置いた鞄を見た。

 

 中には、肉の包みがある。

 

 床にいた小さなものは、肉を追った。

 

 下にいるものも、同じとは限らない。

 

 それでも、鉤を力ずくで引き合うよりは試せる。

 

 ロックは肉を一片取り出し、試験用に持ってきた細紐を結びつけた。

 

     ◇

 

 作業口の端へ、肉を押し込む。

 

 鉤の柄が邪魔だったが、細い棒を添えれば隙間を通せた。

 

 紐を少しずつ送る。

 

 やがて、先が下へ落ちた。

 

 ロックは紐を摘まみ、軽く上下させた。

 

 何も起こらない。

 

 もう少し下ろす。

 

 ふいに、指先へ震えが伝わった。

 

 引く。

 

 途中で止まった。

 

 ロックはすぐに紐を離した。

 

 細い端が穴へ吸い込まれ、見えなくなる。

 

 ほとんど同時に、鉤の柄が跳ねた。

 

 先端を掴んでいたものが離れたのかもしれない。

 

 ロックは縄を取り、引いた。

 

 今度は動いた。

 

 片手の幅ずつ戻し、最後に柄を握って引き抜く。

 

 鉤の先には、薄く透明なものが絡みついていた。

 

 表面には、細かな傷がいくつもある。

 

 ロックは素手で触れず、陶器の皿へ置いた。

 

     ◇

 

 下で、水音が変わった。

 

 それまで続いていた低い唸りが、一度大きく鳴る。

 

 石の奥で何かが動いた。

 

 続いて、液体が一斉に落ちていくような音。

 

 ロックは栓を取り、作業口を塞いだ。

 

 留め金を掛けてから、液面を示す棒へ向かう。

 

 棒が下がっていた。

 

 ゆっくりだが、目で追えるほど確かに。

 

 ロックは顔を上げた。

 

 排出弁が開いた。

 

 あの生き物が肉へ向かったため、挟まっていた部分が抜けたのだろうか。

 

 理由は、まだ確かめられない。

 

 だが、液体は減っている。

 

 ロックは扉へ寄せた荷物を持ち上げ、通路の窓へ向かった。

 

     ◇

 

 広い部屋の水面に、流れの筋が現れていた。

 

 石の盛り上がりが、少しずつ大きくなる。

 

 溜まっていた液体が排液口へ引かれ、その周囲では屑が回っていた。

 

 透明な生き物たちも動いている。

 

 流れの中から壁へ寄るもの。

 

 石の高い部分へ張りつくもの。

 

 ロックは、排液口の近くへ灯りを向けた。

 

 黒ずんだ塊が、石の輪から離れつつあった。

 

 屑を絡めた身体が持ち上がる。

 

 長い。

 

 輪の向こうへ消えていた部分が、まだ続いている。

 

 それが縮むと、濡れた屑が塊の下から落ちた。

 

 ロックは息を呑んだ。

 

 格子越しに見た口は、この身体の一部にすぎなかった。

 

     ◇

 

 流れが強まった。

 

 黒ずんだ身体の後端が、排液口へ引かれる。

 

 前端は床へ広がり、石へ貼りついていた。

 

 その間で、身体が細く延びる。

 

 下へ流されるのか。

 

 そう思った時、前端が剥がれた。

 

 身体が半ばまで、輪の奥へ滑り込む。

 

 重い音がした。

 

 弁が戻りかけたのだ。

 

 透明な部分が、板と石の間へ挟まった。

 

 液体が跳ね上がり、窓の下の壁を濡らした。

 

 ロックは後ろへ退いた。

 

     ◇

 

 水音は続いていた。

 

 完全には塞がっていない。

 

 だが、あの身体も抜けてはいなかった。

 

 窓から見えるのは、石の輪へ貼りついた前端と、弁に挟まった細い部分だけだ。

 

 その前端が、ゆっくりと向きを変えた。

 

 壁へ伸びる。

 

 短い突起が石へ触れた。

 

 続いて、幅のある身体が持ち上がる。

 

 ロックは窓の高さを見た。

 

 床から離れている。

 

 しかし、あの生き物は壁を登る。

 

 距離を、高さだけで考えることはできなかった。

 

     ◇

 

 点検室へ戻る。

 

 床の蓋は閉じている。

 

 横の作業口も、栓をした。

 

 ロックは鉤と縄をまとめ、皿へ残してあった透明な欠片を容器へ収めた。

 

 液面を示す棒は、下がり続けている。

 

 流入は止めたままだ。

 

 あえて戻す必要はない。

 

 今は、このまま液体を減らしたい。

 

 ロックは保守記録へ目を落とした。

 

 次に探すのは、弁を開いた位置で留めるための仕組みだ。

 

 閉じたり開いたりする板が相手を挟むたびに、あの生き物はここから動かなくなる。

 

 弁を固定できれば、流れも道具も、もう少し使える。

 

 ロックは鉤の柄へ残った濡れ跡を見た。

 

 肉一片で、弁は一度開いた。

 

 けれど、もう一度同じことをすれば済む相手ではなかった。

 

 窓の向こうで、石を擦る音がした。

 

 ロックは灯りを持ち上げた。

 

 まず、あれがどこまで登ってくるのか。

 

 今度は、こちらが見失わずに確かめる番だった。

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