低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第99話 弁を噛むもの

 窓の向こうで、濡れた身体が壁を登っていた。

 

 前端が伸び、石へ張りつく。その後から、屑を抱え込んだ太い部分が持ち上がる。

 

 だが、途中までしか進めない。

 

 排出弁に挟まれた後端が張ると、身体全体が引き戻された。

 

 ロックは窓から離れ、横の壁へ灯りを寄せた。

 

 透明な板の周囲には、細い枠が嵌まっている。枠と石の間に隙間は見えず、濡れた跡もなかった。

 

 今は、これが相手との間にある。

 

 それでも、目の前へ来てから強さを確かめる気にはなれなかった。

 

 ロックは点検室へ戻った。

 

     ◇

 

 液面を示す棒は、まだ下がっていた。

 

 流入を止めた効果はある。弁の隙間から、溜まった液体も少しずつ抜けている。

 

 だが、その間も設備は動こうとしていた。

 

 低い音が鳴るたび、床から細かな震えが伝わる。

 

 このまま放っておけば、相手が抜けるかもしれない。

 

 反対に、弁の方が壊れるかもしれない。

 

 ロックは保守記録を開いた。

 

 排出弁の図へ戻り、前に読み飛ばした文字を追う。図の脇には、輪の形をした操作具と、そこへ差し込む短い棒が描かれていた。

 

 開放。

 

 保持。

 

 解除。

 

 点検の間、弁を開けたままにする仕組みらしい。

 

 ロックは台の下を覗いた。

 

 埃を被った金属の輪がある。その横に、鎖で繋がれた棒が下がっていた。

 

     ◇

 

 周囲の汚れを払い、輪の根元を調べた。

 

 流入を止めた場所にあった物より小さい。軸は床の中へ延び、脇に細い刻みが並んでいる。

 

 鎖の先の棒は、軸の穴へ差し込む形だった。

 

 回した輪が戻らないように留めるのだろう。

 

 ロックは、操作具と記録を見比べた。

 

 弁を開けば、あの生き物を挟んでいるものも外れる。

 

 その後、どちらへ動くのか。

 

 肉には反応した。

 

 鉤にも噛みついた。

 

 ならば、こちらで用意した物へ食いつかせられるかもしれない。

 

 ロックは鉤の先に残った傷を見た。

 

 金属を歪めるほどではない。だが、手で引っ張り合うには十分すぎる力だった。

 

「噛むなら……こっちを噛めばいい」

 

 腰から、予備の縄を取り出した。

 

     ◇

 

 すぐには輪を回さなかった。

 

 先に、横の作業口を使う。

 

 鉤の柄へ縄を結び直し、壁の輪へ通した。今度はその端を作業口のすぐ近くへ置かず、部屋の外まで延ばす。

 

 柄の後端には、短い棒を横向きに縛った。

 

 万一、縄を放しても、柄ごと穴の奥へ消えないためだ。

 

 次に、肉を細紐で鉤へ巻きつける。

 

 肉だけ引き抜かれないよう、曲がった先の内側へ押し込み、何重にも留めた。

 

 試しに引く。

 

 外れない。

 

 ロックは扉を開け、道具と縄の置き場所を確かめた。

 

 操作具まで、足を引っ掛けずに動ける。

 

 荷物は、その先の通路へ寄せた。

 

     ◇

 

 栓を抜いた時、下から湿った息のような空気が上がってきた。

 

 ロックは顔を横へ向け、鉤を差し込む。

 

 先端が下へ抜けたところで止めた。

 

 柄を少し動かす。

 

 何も触れない。

 

 壁を登ろうとしているなら、作業口の下からは離れているのかもしれない。

 

 ロックは肉を巻いた先端を、石へ軽く当てた。

 

 硬い音が下へ響く。

 

 少し待ち、もう一度。

 

 柄へ重みが掛かった。

 

 ロックは手を緩め、縄へ持ち替えた。

 

 鉤が下へ引かれる。

 

 縄が張った。

 

 ロックは扉の脇へ退き、相手の動きに合わせて少しだけ送り出した。

 

 止めると、向こうも止まった。

 

 引けば、また強い力が返ってくる。

 

 噛んでいる。

 

 ロックは縄を床へ置いた。手を離しても、鉤の後端に縛った横棒が作業口へ当たり、奥へは抜けなかった。

 

     ◇

 

 操作具へ戻り、輪を握る。

 

 開く方向は、記録で確かめてある。

 

 ロックは身体を寄せ、ゆっくりと回した。

 

 下で、石が擦れた。

 

 輪が急に重くなる。

 

 そこで止め、足の位置を変える。

 

 もう一度、回す。

 

 床の下から、長く低い音がした。

 

 続いて、液体の落ちる音が大きくなる。

 

 弁が開いている。

 

 ロックは輪の横へ下がっていた棒を取り、軸の穴へ差し込んだ。

 

 手を緩めると、僅かに戻った輪が棒へ当たり、止まる。

 

 開いたまま、留められた。

 

 ロックは操作具から離れ、縄を取りに戻った。

 

     ◇

 

 縄が動いた。

 

 壁の輪へ擦れながら、一度大きく引かれる。

 

 鉤の後端が作業口へ打ちつけられた。

 

 横棒が、嫌な音を立てた。

 

 ロックは触らず、扉の陰へ退いた。

 

 下では激しい水音が続いている。

 

 後端を挟んでいた弁が開いたため、相手は自由になったはずだ。

 

 そのまま流されてくれればいい。

 

 そう思った。

 

 だが、縄は下へ引かれ続けた。

 

 肉を離していない。

 

 ロックは通路の窓へ回った。

 

     ◇

 

 排液口の上に、長い身体が渡されていた。

 

 前端は作業口の下。

 

 肉を巻いた鉤へ被さり、その周囲を口で包み込んでいる。

 

 後ろの身体は排液口を越え、反対側の石へ張りついていた。

 

 弁からは抜けている。

 

 その代わり、流れへ身体を逆らわせ、両側へ踏ん張るような形になっていた。

 

 液体が、その腹の下へ潜り込んでいく。

 

 ロックは手帳の図を思い浮かべた。

 

 排出弁は、今、身体の真下で開いている。

 

 相手を挟んでいた時よりも、ずっと太い部分が、その上にあった。

 

 ロックは窓から離れた。

 

     ◇

 

 輪を留めた棒には、力が掛かっていた。

 

 引いても抜けない。

 

 ロックは操作具を開く側へ僅かに回した。

 

 棒が動く。

 

 片手で引き抜き、すぐに輪へ両手を戻した。

 

 戻る力が、腕へ掛かる。

 

 ここで手を離せば、輪が勢いよく回るかもしれない。

 

 ロックは足を踏ん張り、少しずつ戻した。

 

 金属が鳴る。

 

 床の下で、弁が動いた。

 

 水音が変わった。

 

 その直後、作業口で鉤が跳ねた。

 

 ロックの視界の端を、縄が走った。

 

     ◇

 

 輪が止まった。

 

 閉じ切ってはいない。

 

 柄の軸へ、細かい震えが伝わってくる。

 

 下で何かが擦れ、叩かれている。

 

 ロックは輪を握ったまま待った。

 

 鉤の後端が、作業口へ何度も当たる。

 

 横棒の片側が折れた。

 

 ロックは輪から手を離し、扉へ飛び退いた。

 

 鉤の柄が、穴の奥へ引き込まれる。

 

 床へ延ばしてあった縄が跳ね上がり、壁の輪を抜けていった。

 

 最後の端が、作業口へ消えた。

 

 ロックは、扉の向こうからそれを見送った。

 

 道具を失った。

 

 だが、自分の手は空いていた。

 

     ◇

 

 部屋が静かになるまで、ロックは戻らなかった。

 

 流れの音はする。

 

 重い物を擦る音も、時折聞こえる。

 

 しかし、鉤を引いていた時の激しさはなかった。

 

 ロックは長い棒を取り、作業口へ差し入れた。

 

 すぐ下では、何も触れない。

 

 そのまま栓を戻し、留め金を掛ける。

 

 それから、通路の窓へ向かった。

 

     ◇

 

 太い身体が、排出弁へ挟まっていた。

 

 前端は、作業口の下から離れている。

 

 失った鉤が、濡れた屑と一緒に見えた。

 

 肉は、もうない。

 

 ロックは窓越しに、弁の縁を見た。

 

 狭い隙間へ入り込んでいた時とは違う。

 

 今は、広がった身体を、動く板が押さえ込んでいる。

 

 前端が縮み、壁へ伸びようとした。

 

 しかし、途中で力を失い、床へ落ちた。

 

 その下を液体が流れる。

 

 ロックは、じっと見ていた。

 

 少しして、また動いた。

 

 まだ、生きている。

 

     ◇

 

 ロックは点検室へ戻った。

 

 ここで弁を開けば、相手を放すことになる。

 

 閉じようとしても、挟まった身体のために止まっている。

 

 今、操作具へ余計な力を掛ける必要はなかった。

 

 代わりに、保守記録をもう一度読む。

 

 弁に異物が残った時の手順。

 

 そこには、手動操作の後、点検が終わるまで自動で動かさないための留め方が記されていた。

 

 ロックは図を見ながら、輪の脇へ下がった別の金具を調べた。

 

 動いている軸へ手を差し込まない。

 

 棒を使って位置を合わせ、留め具を掛ける。

 

 しばらくすると、繰り返していた低い音が途切れた。

 

 弁は、その位置で止まった。

 

     ◇

 

 ロックは窓の前で、水を飲んだ。

 

 口の中が、ひどく乾いていた。

 

 手にも、肩にも力が入りすぎていたらしい。革袋の口を結び直す指が、少しぎこちなかった。

 

 窓の向こうでは、相手の前端が動いている。

 

 先ほどより、小さい動きだ。

 

 ロックは、その様子を手帳へ残した。

 

 このまま動けなくなるのか。

 

 身体を捨てて抜け出すのか。

 

 分からない。

 

 だから、死んだと決めて近づくことはしなかった。

 

 ただ、今は排液口から離れられない。

 

 壁を登り、こちらへ来ることもできない。

 

 それを確かめ、ロックは部屋の入口へ戻った。

 

     ◇

 

 流入は止めたまま。

 

 排出弁は、相手を挟んだ位置で固定。

 

 点検口と作業口は、どちらも閉めた。

 

 液面を示す棒は、ゆっくりと下がり続けている。

 

 ロックは、帰り道の窓を順に見て回った。

 

 壁際の段が、ところどころ姿を現していた。

 

 その上へ、透明な小さなものが這い上がっている。

 

 下の区画が安全になったわけではない。

 

 それでも、溜まった液体に保守通路まで追われる心配は、ひとまず遠ざかった。

 

 ロックは最後に、排出弁の方角を振り返った。

 

 剣で斬り合ったわけではない。

 

 だが、腕も肩も、戦った後のように重かった。

 

 買い直した鉤と、縄一本。

 

 それが今日の代価だった。

 

「次は、噛んだまま離さない物を、もう少し選んでくれよ……」

 

 誰へともなく呟き、ロックは出口へ歩き始めた。

 

 次に来る時には、あの身体がどうなっているかを、最初に確かめる。

 

 そのための道は、まだ乾いていた。

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