低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
窓の向こうで、濡れた身体が壁を登っていた。
前端が伸び、石へ張りつく。その後から、屑を抱え込んだ太い部分が持ち上がる。
だが、途中までしか進めない。
排出弁に挟まれた後端が張ると、身体全体が引き戻された。
ロックは窓から離れ、横の壁へ灯りを寄せた。
透明な板の周囲には、細い枠が嵌まっている。枠と石の間に隙間は見えず、濡れた跡もなかった。
今は、これが相手との間にある。
それでも、目の前へ来てから強さを確かめる気にはなれなかった。
ロックは点検室へ戻った。
◇
液面を示す棒は、まだ下がっていた。
流入を止めた効果はある。弁の隙間から、溜まった液体も少しずつ抜けている。
だが、その間も設備は動こうとしていた。
低い音が鳴るたび、床から細かな震えが伝わる。
このまま放っておけば、相手が抜けるかもしれない。
反対に、弁の方が壊れるかもしれない。
ロックは保守記録を開いた。
排出弁の図へ戻り、前に読み飛ばした文字を追う。図の脇には、輪の形をした操作具と、そこへ差し込む短い棒が描かれていた。
開放。
保持。
解除。
点検の間、弁を開けたままにする仕組みらしい。
ロックは台の下を覗いた。
埃を被った金属の輪がある。その横に、鎖で繋がれた棒が下がっていた。
◇
周囲の汚れを払い、輪の根元を調べた。
流入を止めた場所にあった物より小さい。軸は床の中へ延び、脇に細い刻みが並んでいる。
鎖の先の棒は、軸の穴へ差し込む形だった。
回した輪が戻らないように留めるのだろう。
ロックは、操作具と記録を見比べた。
弁を開けば、あの生き物を挟んでいるものも外れる。
その後、どちらへ動くのか。
肉には反応した。
鉤にも噛みついた。
ならば、こちらで用意した物へ食いつかせられるかもしれない。
ロックは鉤の先に残った傷を見た。
金属を歪めるほどではない。だが、手で引っ張り合うには十分すぎる力だった。
「噛むなら……こっちを噛めばいい」
腰から、予備の縄を取り出した。
◇
すぐには輪を回さなかった。
先に、横の作業口を使う。
鉤の柄へ縄を結び直し、壁の輪へ通した。今度はその端を作業口のすぐ近くへ置かず、部屋の外まで延ばす。
柄の後端には、短い棒を横向きに縛った。
万一、縄を放しても、柄ごと穴の奥へ消えないためだ。
次に、肉を細紐で鉤へ巻きつける。
肉だけ引き抜かれないよう、曲がった先の内側へ押し込み、何重にも留めた。
試しに引く。
外れない。
ロックは扉を開け、道具と縄の置き場所を確かめた。
操作具まで、足を引っ掛けずに動ける。
荷物は、その先の通路へ寄せた。
◇
栓を抜いた時、下から湿った息のような空気が上がってきた。
ロックは顔を横へ向け、鉤を差し込む。
先端が下へ抜けたところで止めた。
柄を少し動かす。
何も触れない。
壁を登ろうとしているなら、作業口の下からは離れているのかもしれない。
ロックは肉を巻いた先端を、石へ軽く当てた。
硬い音が下へ響く。
少し待ち、もう一度。
柄へ重みが掛かった。
ロックは手を緩め、縄へ持ち替えた。
鉤が下へ引かれる。
縄が張った。
ロックは扉の脇へ退き、相手の動きに合わせて少しだけ送り出した。
止めると、向こうも止まった。
引けば、また強い力が返ってくる。
噛んでいる。
ロックは縄を床へ置いた。手を離しても、鉤の後端に縛った横棒が作業口へ当たり、奥へは抜けなかった。
◇
操作具へ戻り、輪を握る。
開く方向は、記録で確かめてある。
ロックは身体を寄せ、ゆっくりと回した。
下で、石が擦れた。
輪が急に重くなる。
そこで止め、足の位置を変える。
もう一度、回す。
床の下から、長く低い音がした。
続いて、液体の落ちる音が大きくなる。
弁が開いている。
ロックは輪の横へ下がっていた棒を取り、軸の穴へ差し込んだ。
手を緩めると、僅かに戻った輪が棒へ当たり、止まる。
開いたまま、留められた。
ロックは操作具から離れ、縄を取りに戻った。
◇
縄が動いた。
壁の輪へ擦れながら、一度大きく引かれる。
鉤の後端が作業口へ打ちつけられた。
横棒が、嫌な音を立てた。
ロックは触らず、扉の陰へ退いた。
下では激しい水音が続いている。
後端を挟んでいた弁が開いたため、相手は自由になったはずだ。
そのまま流されてくれればいい。
そう思った。
だが、縄は下へ引かれ続けた。
肉を離していない。
ロックは通路の窓へ回った。
◇
排液口の上に、長い身体が渡されていた。
前端は作業口の下。
肉を巻いた鉤へ被さり、その周囲を口で包み込んでいる。
後ろの身体は排液口を越え、反対側の石へ張りついていた。
弁からは抜けている。
その代わり、流れへ身体を逆らわせ、両側へ踏ん張るような形になっていた。
液体が、その腹の下へ潜り込んでいく。
ロックは手帳の図を思い浮かべた。
排出弁は、今、身体の真下で開いている。
相手を挟んでいた時よりも、ずっと太い部分が、その上にあった。
ロックは窓から離れた。
◇
輪を留めた棒には、力が掛かっていた。
引いても抜けない。
ロックは操作具を開く側へ僅かに回した。
棒が動く。
片手で引き抜き、すぐに輪へ両手を戻した。
戻る力が、腕へ掛かる。
ここで手を離せば、輪が勢いよく回るかもしれない。
ロックは足を踏ん張り、少しずつ戻した。
金属が鳴る。
床の下で、弁が動いた。
水音が変わった。
その直後、作業口で鉤が跳ねた。
ロックの視界の端を、縄が走った。
◇
輪が止まった。
閉じ切ってはいない。
柄の軸へ、細かい震えが伝わってくる。
下で何かが擦れ、叩かれている。
ロックは輪を握ったまま待った。
鉤の後端が、作業口へ何度も当たる。
横棒の片側が折れた。
ロックは輪から手を離し、扉へ飛び退いた。
鉤の柄が、穴の奥へ引き込まれる。
床へ延ばしてあった縄が跳ね上がり、壁の輪を抜けていった。
最後の端が、作業口へ消えた。
ロックは、扉の向こうからそれを見送った。
道具を失った。
だが、自分の手は空いていた。
◇
部屋が静かになるまで、ロックは戻らなかった。
流れの音はする。
重い物を擦る音も、時折聞こえる。
しかし、鉤を引いていた時の激しさはなかった。
ロックは長い棒を取り、作業口へ差し入れた。
すぐ下では、何も触れない。
そのまま栓を戻し、留め金を掛ける。
それから、通路の窓へ向かった。
◇
太い身体が、排出弁へ挟まっていた。
前端は、作業口の下から離れている。
失った鉤が、濡れた屑と一緒に見えた。
肉は、もうない。
ロックは窓越しに、弁の縁を見た。
狭い隙間へ入り込んでいた時とは違う。
今は、広がった身体を、動く板が押さえ込んでいる。
前端が縮み、壁へ伸びようとした。
しかし、途中で力を失い、床へ落ちた。
その下を液体が流れる。
ロックは、じっと見ていた。
少しして、また動いた。
まだ、生きている。
◇
ロックは点検室へ戻った。
ここで弁を開けば、相手を放すことになる。
閉じようとしても、挟まった身体のために止まっている。
今、操作具へ余計な力を掛ける必要はなかった。
代わりに、保守記録をもう一度読む。
弁に異物が残った時の手順。
そこには、手動操作の後、点検が終わるまで自動で動かさないための留め方が記されていた。
ロックは図を見ながら、輪の脇へ下がった別の金具を調べた。
動いている軸へ手を差し込まない。
棒を使って位置を合わせ、留め具を掛ける。
しばらくすると、繰り返していた低い音が途切れた。
弁は、その位置で止まった。
◇
ロックは窓の前で、水を飲んだ。
口の中が、ひどく乾いていた。
手にも、肩にも力が入りすぎていたらしい。革袋の口を結び直す指が、少しぎこちなかった。
窓の向こうでは、相手の前端が動いている。
先ほどより、小さい動きだ。
ロックは、その様子を手帳へ残した。
このまま動けなくなるのか。
身体を捨てて抜け出すのか。
分からない。
だから、死んだと決めて近づくことはしなかった。
ただ、今は排液口から離れられない。
壁を登り、こちらへ来ることもできない。
それを確かめ、ロックは部屋の入口へ戻った。
◇
流入は止めたまま。
排出弁は、相手を挟んだ位置で固定。
点検口と作業口は、どちらも閉めた。
液面を示す棒は、ゆっくりと下がり続けている。
ロックは、帰り道の窓を順に見て回った。
壁際の段が、ところどころ姿を現していた。
その上へ、透明な小さなものが這い上がっている。
下の区画が安全になったわけではない。
それでも、溜まった液体に保守通路まで追われる心配は、ひとまず遠ざかった。
ロックは最後に、排出弁の方角を振り返った。
剣で斬り合ったわけではない。
だが、腕も肩も、戦った後のように重かった。
買い直した鉤と、縄一本。
それが今日の代価だった。
「次は、噛んだまま離さない物を、もう少し選んでくれよ……」
誰へともなく呟き、ロックは出口へ歩き始めた。
次に来る時には、あの身体がどうなっているかを、最初に確かめる。
そのための道は、まだ乾いていた。