低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第100話 胃袋が空く日

 翌朝、ロックは肉を買わなかった。

 

 代わりに縄を補充し、丈夫な布と、口を固く閉じられる容器を用意した。

 

 宿の主人が、カウンター越しに長い荷物を見る。

 

「また棒を増やしたのか?」

 

「前のは、食われました」

 

「お前の行くところには、薪まで食うものがいるのか」

 

「肉だけで満足してほしかったんですけどね」

 

 ロックは肩の鞄を持ち直した。

 

 無限のバッグがあっても、長い道具を全部そこへ収めてしまうと、必要な時に取り出しにくい。

 

 今朝は手に持ったままだった。

 

「棒で済んだなら、安いものだ。先に食っていけ」

 

 カウンターへ、温かい椀が置かれた。

 

 ロックは一度、荷物を見下ろした。それから壁際へ立て掛け、椅子へ座った。

 

 今日は、相手が死んでいるかどうかを確かめる。

 

 生きていた場合のことも考えるなら、空腹で行く理由はなかった。

 

     ◇

 

 歯の裏側から保守通路へ降りると、昨日まで続いていた低い音が聞こえなかった。

 

 ロックは入口の仕組みを確かめてから、奥へ進んだ。

 

 窓の下に、濡れた帯が残っている。

 

 液面は、その帯よりも低かった。

 

 石の床が広く現れ、窪みに残った液体だけが灯りを返している。透明な小さなものは、残った流れの近くへ集まっていた。

 

 ロックは、排液口の見える窓で止まった。

 

 大きな身体は、まだそこにある。

 

 弁に挟まれた部分を境に、前端が床へ垂れていた。昨日は伸びたり縮んだりしていた縁も、今は波打たない。

 

 灯りを動かす。

 

 反応はなかった。

 

 窓の枠を、棒で軽く叩いてみる。

 

 やはり動かない。

 

 それでも、窓越しに見ただけで死んだと決めるつもりはなかった。

 

     ◇

 

 点検室の床は乾いていた。

 

 液面を示す棒は、昨日最後に記した位置から大きく下がっている。

 

 ロックは荷物を通路へ置き、横の作業口を開いた。

 

 湿った空気は上がってくる。

 

 だが、栓を外した時に何かが寄ってくる気配はなかった。

 

 細い棒を差し入れる。

 

 先端へ触れたのは、柔らかいものだった。

 

 少し押すと動く。しかし、向こうから掴んではこない。

 

 棒を引いて、もう一度。

 

 位置を変えても、返ってくるのは押した分の重みだけだった。

 

 ロックは棒を戻した。

 

 次に、床の点検口を開ける。

 

 蓋の下には格子が残っている。身体を真上へ載せず、横から灯りを差し向けた。

 

 昨日、格子へ口を押しつけてきたものは、ずっと下にあった。

 

 太い身体を押さえる弁の縁に沿って、深い裂け目ができている。

 

 そこから流れ出たものが、石の輪へ薄く広がっていた。

 

 ロックはしばらく見ていた。

 

 流れが触れても、身体の端が揺れるだけだ。

 

 短い突起も伸びてこない。

 

 ようやく、肩から力が抜けた。

 

「……今度は、動かないな」

 

     ◇

 

 倒れていても、弁を塞いでいることには変わりがなかった。

 

 このまま流入を戻せば、同じところへ液体が溜まる。

 

 ロックは保守記録と、今見えている状態を比べた。

 

 昨日のような激しい流れはない。液面も下がり、弁の周囲が見えるようになっている。

 

 失った鉤の柄が、身体の横から突き出していた。

 

 縄も残っている。

 

 途中で石の縁へ引っ掛かり、濡れたまま垂れ下がっていた。

 

 取り戻せるかもしれない。

 

 だが、それを帰り道で使う縄へ混ぜるつもりはなかった。

 

 ロックは器材庫へ戻り、昨日使った物とは先の形が違う、長い道具を選んだ。

 

 先端が平たく、片側だけ曲がっている。

 

 屑を掻き寄せるための道具らしかった。

 

 柄と継ぎ目を調べ、塗剤を使う。それから予備の縄を結び、点検室へ運んだ。

 

     ◇

 

 横の作業口から道具を差し入れ、引っ掛かった縄を探った。

 

 一度では届かない。

 

 先を少し回し、下へ送る。

 

 細い抵抗があった。

 

 ゆっくり引くと、縄の輪が作業口まで上がってきた。

 

 ロックは直接握らず、短い鉤へ掛けて引き出した。

 

 泥のような汚れが、縄から床へ落ちる。

 

 下では、失った道具の柄が動いていた。

 

 まず、噛みつかれていた鉤を身体から外す。

 

 昨日は引いても、相手が引き返してきた。

 

 今日は違う。

 

 縄を引くたびに柄が少しずつ動き、やがて先端が外れたらしく、急に軽くなった。

 

 ロックは引きすぎず、道具を壁際へ寄せた。

 

 その時、動かない身体から、短い突起が一本伸びた。

 

 ロックは手を放した。

 

     ◇

 

 肉を置いていた時よりも、小さなものだった。

 

 太い身体の下から這い出し、すぐ傍の石へ張りつく。

 

 続いて、もう一つ。

 

 ロックは格子から離れ、窓へ回った。

 

 小さな個体が、大きな身体へ被さっていた。

 

 屑に隠れていたのか、後から寄ってきたのかは分からない。

 

 大きな方は、触れられても動かなかった。

 

 ロックは唇を引き結んだ。

 

 死んだものでも、ほかの生き物が寄ってくる。

 

 道具を取り戻そうとして素手を伸ばしていたら、小さな方へ触れていたかもしれなかった。

 

 しばらく待つと、小さなものは身体の裂け目へ入り込んだ。

 

 ロックは点検室へ戻った。

 

 今度は、道具の先が見えない場所へ手を近づけないよう、縄の置き方から直した。

 

     ◇

 

 弁の固定を外す前に、作業口へ道具を差し込んでおく。

 

 先端は、大きな身体と石の輪の間。

 

 柄が勝手に動いても、扉へ向かう足元を塞がない位置へ縄を延ばす。

 

 ロックは操作具へ移った。

 

 昨日と同じ方向へ輪を回す。

 

 軸に掛かっていた力を抜き、留め具を外す。

 

 さらに、少しだけ開く。

 

 下で液体が落ちる音がした。

 

 そこで止め、位置を保つための棒を差し込んだ。

 

 格子から覗くと、弁の縁に押さえられていた身体が緩んでいる。

 

 ロックは横の道具を動かした。

 

 押す。

 

 身体がずれる。

 

 鉤で引くのではなく、石へ張りついた端を少しずつ剥がしていく。

 

 濡れた重みが、柄を通して伝わってきた。

 

     ◇

 

 急に、道具が軽くなった。

 

 ロックは柄から手を離した。

 

 縄が動く。

 

 床の下で、大きな音がした。

 

 格子へ近づかず、部屋の入口で待つ。

 

 水音がしばらく続き、やがて弱まった。

 

 ロックは窓へ向かった。

 

 石の輪が見えていた。

 

 挟まっていた身体は、そこからなくなっている。

 

 残った液体が、開いた弁の隙間へ流れ込んでいた。

 

 道具の先端が斜めに掛かり、縄が張っている。ロックは点検室へ戻り、少しずつ引き上げた。

 

 身体を支えていた屑が、先へ絡まっている。

 

 木片と、細い繊維。

 

 その中に、黒く汚れた金属片があった。

 

     ◇

 

 全て引き出してから、弁を開く。

 

 水音は大きくなったが、昨日のように途中で止まらなかった。

 

 しばらく流し、また閉じる。

 

 今度は、輪が最後まで戻った。

 

 ロックは手を離し、目盛りを確かめた。

 

 閉じている。

 

 もう一度開く。

 

 動く。

 

 低く長い唸りも、途中で何かを挟む音もなかった。

 

 ロックは操作具の前へしゃがみ込み、膝へ手をついた。

 

 腕が重い。

 

 首筋を伝った汗が、服の襟へ染みた。

 

 しばらく休んでから、保守記録へ向き直る。

 

 流入を戻す前には、作業口を閉める。

 

 道具を残さない。

 

 点検口の蓋を戻す。

 

 書かれていた順に、一つずつ済ませた。

 

     ◇

 

 流入の輪を、元の位置へ戻した。

 

 一度に回し切らず、少し開いては窓から様子を見る。

 

 液体が部屋へ入り、窪みを伝い、排液口へ集まっていく。

 

 前のように、床全体を覆ってはいかない。

 

 透明な生き物たちは、流れの近くへ移動していた。石の高い場所に残ったものもいる。

 

 部屋が安全になったわけではなかった。

 

 それでも、液体は溜まり続けていない。

 

 点検室へ戻ると、液面を示す棒は低い位置で揺れていた。

 

 ロックはその位置を記した。

 

 壁へ手を置きたくなったが、汚れた手袋を見てやめた。

 

 代わりに、深く息を吐く。

 

 ようやく、一つ片づいた。

 

     ◇

 

 引き上げた屑の中から、金属片を取り出した。

 

 輪がついている。

 

 鍵かと思ったが、違った。

 

 手のひらへ収まる大きさの札だ。

 

 表面を覆う汚れを、道具の先で慎重に落とす。

 

 刻まれた文字の一部が見えた。

 

 回収。

 

 その下に、区画を示すらしい印がある。

 

 ロックは手帳を開いた。

 

 壁の案内図に、同じ印があった。

 

 保守通路の、さらに奥。

 

 まだ行っていない場所だ。

 

 札の縁には、留めていた革紐の残骸がついている。

 

 あの生き物が、誰かの持ち物を呑み込んでいたのだろうか。

 

 持ち主まで食べたのかは、分からない。

 

 ロックは札を洗う物と分け、容器へ収めた。

 

     ◇

 

 帰る前に、部屋の窓を順に見て回った。

 

 壁際の段が現れている。

 

 下の排液路へ続く辺りも、前よりよく見えた。

 

 そこでロックは、一つの窪みに目を留めた。

 

 流れの外側に、四角い縁がある。

 

 石の床に埋まった、低い箱のようにも見えた。

 

 液体が溜まっていた時には、全く見えなかったものだ。

 

 手帳へ位置を書き込む。

 

 今日は降りない。

 

 手袋も道具も汚れている。弁を動かし続けた腕は、さっきから指を開くたびに痛んだ。

 

 ただ、次に調べる場所は増えた。

 

 回収と刻まれた札。

 

 それと同じ印がある、通路の奥。

 

 液体の下から現れた、四角いもの。

 

 ロックは手帳を閉じ、鞄へしまった。

 

     ◇

 

 歯の裏から外へ出ると、ひんやりした空気が頬へ触れた。

 

 ロックは縄を回収し、石の床へ腰を下ろした。

 

 取り戻した鉤は、先端が歪んでいた。

 

 塗剤も、ところどころ剥がれている。

 

 使った縄は、ほかの物と分けて包んだ。

 

 また使えるかどうかは、持ち帰って調べなければ分からない。

 

 ひと手間で金になるような探索ではなかった。

 

 そのくせ、道具は減り、修理代は増える。

 

 ロックは鞄の中から、先ほどの札を入れた容器を取り出した。

 

 灯りの下で見ると、文字の下にある印が、少しはっきりした。

 

 鍵穴へ差し込む物ではない。

 

 だが、遺跡には、鍵で開けない扉もあった。

 

「今度は、こっちの番かな」

 

 ロックは容器を収めた。

 

 胃袋の底を塞いでいたものは、取り除いた。

 

 その先に何が送られていたのか。

 

 次は、それを見に行く。

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