低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
翌朝、ロックは肉を買わなかった。
代わりに縄を補充し、丈夫な布と、口を固く閉じられる容器を用意した。
宿の主人が、カウンター越しに長い荷物を見る。
「また棒を増やしたのか?」
「前のは、食われました」
「お前の行くところには、薪まで食うものがいるのか」
「肉だけで満足してほしかったんですけどね」
ロックは肩の鞄を持ち直した。
無限のバッグがあっても、長い道具を全部そこへ収めてしまうと、必要な時に取り出しにくい。
今朝は手に持ったままだった。
「棒で済んだなら、安いものだ。先に食っていけ」
カウンターへ、温かい椀が置かれた。
ロックは一度、荷物を見下ろした。それから壁際へ立て掛け、椅子へ座った。
今日は、相手が死んでいるかどうかを確かめる。
生きていた場合のことも考えるなら、空腹で行く理由はなかった。
◇
歯の裏側から保守通路へ降りると、昨日まで続いていた低い音が聞こえなかった。
ロックは入口の仕組みを確かめてから、奥へ進んだ。
窓の下に、濡れた帯が残っている。
液面は、その帯よりも低かった。
石の床が広く現れ、窪みに残った液体だけが灯りを返している。透明な小さなものは、残った流れの近くへ集まっていた。
ロックは、排液口の見える窓で止まった。
大きな身体は、まだそこにある。
弁に挟まれた部分を境に、前端が床へ垂れていた。昨日は伸びたり縮んだりしていた縁も、今は波打たない。
灯りを動かす。
反応はなかった。
窓の枠を、棒で軽く叩いてみる。
やはり動かない。
それでも、窓越しに見ただけで死んだと決めるつもりはなかった。
◇
点検室の床は乾いていた。
液面を示す棒は、昨日最後に記した位置から大きく下がっている。
ロックは荷物を通路へ置き、横の作業口を開いた。
湿った空気は上がってくる。
だが、栓を外した時に何かが寄ってくる気配はなかった。
細い棒を差し入れる。
先端へ触れたのは、柔らかいものだった。
少し押すと動く。しかし、向こうから掴んではこない。
棒を引いて、もう一度。
位置を変えても、返ってくるのは押した分の重みだけだった。
ロックは棒を戻した。
次に、床の点検口を開ける。
蓋の下には格子が残っている。身体を真上へ載せず、横から灯りを差し向けた。
昨日、格子へ口を押しつけてきたものは、ずっと下にあった。
太い身体を押さえる弁の縁に沿って、深い裂け目ができている。
そこから流れ出たものが、石の輪へ薄く広がっていた。
ロックはしばらく見ていた。
流れが触れても、身体の端が揺れるだけだ。
短い突起も伸びてこない。
ようやく、肩から力が抜けた。
「……今度は、動かないな」
◇
倒れていても、弁を塞いでいることには変わりがなかった。
このまま流入を戻せば、同じところへ液体が溜まる。
ロックは保守記録と、今見えている状態を比べた。
昨日のような激しい流れはない。液面も下がり、弁の周囲が見えるようになっている。
失った鉤の柄が、身体の横から突き出していた。
縄も残っている。
途中で石の縁へ引っ掛かり、濡れたまま垂れ下がっていた。
取り戻せるかもしれない。
だが、それを帰り道で使う縄へ混ぜるつもりはなかった。
ロックは器材庫へ戻り、昨日使った物とは先の形が違う、長い道具を選んだ。
先端が平たく、片側だけ曲がっている。
屑を掻き寄せるための道具らしかった。
柄と継ぎ目を調べ、塗剤を使う。それから予備の縄を結び、点検室へ運んだ。
◇
横の作業口から道具を差し入れ、引っ掛かった縄を探った。
一度では届かない。
先を少し回し、下へ送る。
細い抵抗があった。
ゆっくり引くと、縄の輪が作業口まで上がってきた。
ロックは直接握らず、短い鉤へ掛けて引き出した。
泥のような汚れが、縄から床へ落ちる。
下では、失った道具の柄が動いていた。
まず、噛みつかれていた鉤を身体から外す。
昨日は引いても、相手が引き返してきた。
今日は違う。
縄を引くたびに柄が少しずつ動き、やがて先端が外れたらしく、急に軽くなった。
ロックは引きすぎず、道具を壁際へ寄せた。
その時、動かない身体から、短い突起が一本伸びた。
ロックは手を放した。
◇
肉を置いていた時よりも、小さなものだった。
太い身体の下から這い出し、すぐ傍の石へ張りつく。
続いて、もう一つ。
ロックは格子から離れ、窓へ回った。
小さな個体が、大きな身体へ被さっていた。
屑に隠れていたのか、後から寄ってきたのかは分からない。
大きな方は、触れられても動かなかった。
ロックは唇を引き結んだ。
死んだものでも、ほかの生き物が寄ってくる。
道具を取り戻そうとして素手を伸ばしていたら、小さな方へ触れていたかもしれなかった。
しばらく待つと、小さなものは身体の裂け目へ入り込んだ。
ロックは点検室へ戻った。
今度は、道具の先が見えない場所へ手を近づけないよう、縄の置き方から直した。
◇
弁の固定を外す前に、作業口へ道具を差し込んでおく。
先端は、大きな身体と石の輪の間。
柄が勝手に動いても、扉へ向かう足元を塞がない位置へ縄を延ばす。
ロックは操作具へ移った。
昨日と同じ方向へ輪を回す。
軸に掛かっていた力を抜き、留め具を外す。
さらに、少しだけ開く。
下で液体が落ちる音がした。
そこで止め、位置を保つための棒を差し込んだ。
格子から覗くと、弁の縁に押さえられていた身体が緩んでいる。
ロックは横の道具を動かした。
押す。
身体がずれる。
鉤で引くのではなく、石へ張りついた端を少しずつ剥がしていく。
濡れた重みが、柄を通して伝わってきた。
◇
急に、道具が軽くなった。
ロックは柄から手を離した。
縄が動く。
床の下で、大きな音がした。
格子へ近づかず、部屋の入口で待つ。
水音がしばらく続き、やがて弱まった。
ロックは窓へ向かった。
石の輪が見えていた。
挟まっていた身体は、そこからなくなっている。
残った液体が、開いた弁の隙間へ流れ込んでいた。
道具の先端が斜めに掛かり、縄が張っている。ロックは点検室へ戻り、少しずつ引き上げた。
身体を支えていた屑が、先へ絡まっている。
木片と、細い繊維。
その中に、黒く汚れた金属片があった。
◇
全て引き出してから、弁を開く。
水音は大きくなったが、昨日のように途中で止まらなかった。
しばらく流し、また閉じる。
今度は、輪が最後まで戻った。
ロックは手を離し、目盛りを確かめた。
閉じている。
もう一度開く。
動く。
低く長い唸りも、途中で何かを挟む音もなかった。
ロックは操作具の前へしゃがみ込み、膝へ手をついた。
腕が重い。
首筋を伝った汗が、服の襟へ染みた。
しばらく休んでから、保守記録へ向き直る。
流入を戻す前には、作業口を閉める。
道具を残さない。
点検口の蓋を戻す。
書かれていた順に、一つずつ済ませた。
◇
流入の輪を、元の位置へ戻した。
一度に回し切らず、少し開いては窓から様子を見る。
液体が部屋へ入り、窪みを伝い、排液口へ集まっていく。
前のように、床全体を覆ってはいかない。
透明な生き物たちは、流れの近くへ移動していた。石の高い場所に残ったものもいる。
部屋が安全になったわけではなかった。
それでも、液体は溜まり続けていない。
点検室へ戻ると、液面を示す棒は低い位置で揺れていた。
ロックはその位置を記した。
壁へ手を置きたくなったが、汚れた手袋を見てやめた。
代わりに、深く息を吐く。
ようやく、一つ片づいた。
◇
引き上げた屑の中から、金属片を取り出した。
輪がついている。
鍵かと思ったが、違った。
手のひらへ収まる大きさの札だ。
表面を覆う汚れを、道具の先で慎重に落とす。
刻まれた文字の一部が見えた。
回収。
その下に、区画を示すらしい印がある。
ロックは手帳を開いた。
壁の案内図に、同じ印があった。
保守通路の、さらに奥。
まだ行っていない場所だ。
札の縁には、留めていた革紐の残骸がついている。
あの生き物が、誰かの持ち物を呑み込んでいたのだろうか。
持ち主まで食べたのかは、分からない。
ロックは札を洗う物と分け、容器へ収めた。
◇
帰る前に、部屋の窓を順に見て回った。
壁際の段が現れている。
下の排液路へ続く辺りも、前よりよく見えた。
そこでロックは、一つの窪みに目を留めた。
流れの外側に、四角い縁がある。
石の床に埋まった、低い箱のようにも見えた。
液体が溜まっていた時には、全く見えなかったものだ。
手帳へ位置を書き込む。
今日は降りない。
手袋も道具も汚れている。弁を動かし続けた腕は、さっきから指を開くたびに痛んだ。
ただ、次に調べる場所は増えた。
回収と刻まれた札。
それと同じ印がある、通路の奥。
液体の下から現れた、四角いもの。
ロックは手帳を閉じ、鞄へしまった。
◇
歯の裏から外へ出ると、ひんやりした空気が頬へ触れた。
ロックは縄を回収し、石の床へ腰を下ろした。
取り戻した鉤は、先端が歪んでいた。
塗剤も、ところどころ剥がれている。
使った縄は、ほかの物と分けて包んだ。
また使えるかどうかは、持ち帰って調べなければ分からない。
ひと手間で金になるような探索ではなかった。
そのくせ、道具は減り、修理代は増える。
ロックは鞄の中から、先ほどの札を入れた容器を取り出した。
灯りの下で見ると、文字の下にある印が、少しはっきりした。
鍵穴へ差し込む物ではない。
だが、遺跡には、鍵で開けない扉もあった。
「今度は、こっちの番かな」
ロックは容器を収めた。
胃袋の底を塞いでいたものは、取り除いた。
その先に何が送られていたのか。
次は、それを見に行く。