低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
札の表面から汚れを落とすと、文字の下に細い線が現れた。
飾りではなかった。
幾本もの線が組み合わされ、小さな魔法陣を形作っている。
ロックは灯りへ透かし、それから裏返した。裏面にも同じような刻みがあるが、表と全く同じではない。
無理に磨かなくてよかった。
文字を読みやすくしようとして削っていれば、何かを壊していたかもしれない。
ロックは札を布で包み、手帳の写しと一緒にしまった。
修理に出した鉤の代わりには、先の細い道具を用意してある。手袋も替えた。前日の作業で汚れた縄は、もう探索用へ戻さなかった。
今日は、保守通路の奥にある回収区画へ向かう。
◇
点検室へ着くと、ロックはまず液面を確かめた。
低い位置で、棒の端が僅かに揺れている。
窓の向こうでは、液体が窪みを伝って排液口へ流れていた。弁が動く音にも、途中で何かを挟むような響きはない。
あの大きな生き物は見えなかった。
ただ、小さなものは残っている。
床へ降りるには、そちらのことも考えなければならない。液体が減ったからといって、歩き回ってよい場所になったわけではなかった。
ロックは手帳に確認したことを書き足し、通路の先へ進んだ。
昨日見つけた四角い縁は、窓から位置を確かめるだけに留める。
先に、上から行ける道を調べたかった。
◇
回収区画の扉は、両開きだった。
今までの点検扉より大きく、床にも幅がある。人が道具を抱えて出入りするだけでなく、何かを運ぶことも考えた造りらしかった。
扉の中央には取っ手が二つ。
鍵穴はない。
代わりに、脇の壁へ浅い窪みがあった。
ロックは、布に包んだ札を取り出した。
窪みと並べてみる。
幅も、角の形も、よく似ている。
札を近づける前に、扉の周りを調べた。枠の上、足元、蝶番。近くの壁にも灯りを当てる。
動くものは見えない。
扉の前から横へ寄り、腕だけを伸ばした。
札が、窪みへ収まる。
石の奥で、小さな音がした。
◇
ロックは札から手を離した。
勝手に扉が開くことはなかった。
取っ手へ布を巻き、僅かに引く。
動いた。
隙間から、湿った空気が流れてくる。点検室にあったような薬品の匂いに、古い泥の匂いが混じっていた。
ロックは扉を細く開けたまま待った。
耳を澄ます。
水滴が落ちる音。
それから、遠くで金属を打ち合わせるような音が、一度だけした。
灯りを入れる。
通路と同じ高さに、平らな床が続いていた。
その奥は、一段低くなっている。
ロックは札を窪みから外した。
扉は動かない。
開いた戸を少し戻し、また引く。それも問題なくできた。
札をしまってから、中へ足を踏み入れた。
◇
部屋には、浅い槽が幾つも並んでいた。
石で囲まれたもの。
金属の籠が嵌まったもの。
蓋を閉じたもの。
槽の間を、幅のある通路が繋いでいる。
壁の高い位置には、液体を流し込む口があった。その下へ斜めの板が続き、板の端には、大きさの違う穴が並んでいる。
何かを流し、分けていたのだろうか。
ロックは入口から、その配置を描いた。
奥の槽へ近づくと、底に光るものが見えた。
指輪か。
そう思って身を屈め、すぐに止まった。
槽の内側に、透明な筋が残っている。
まだ濡れていた。
◇
ロックは長い道具を伸ばした。
先端で光るものを動かすと、薄い金属片が裏返った。輪ではなく、丸く曲がった留め具だった。
その下には、小さな石と、黒い粒が混じっている。
底へ道具を当てる。
硬い。
少なくとも、溜まっている全てが生き物というわけではなさそうだった。
ロックは周囲の床を確かめてから、槽の縁へ灯りを寄せた。
内側の高い位置に、短い文字が刻まれている。
不溶。
その隣には、回収物の名を記すためらしい枠があった。
ロックは顔を上げた。
ここへ流れ着いたのは、液体だけではない。
溶けなかったものが、残されている。
◇
隣の槽には、歪んだ金属の塊があった。
いくつかは、元の形が分かる。
釘。
環。
細い板。
折れた刃のような物。
どれも、取り出したまま使える状態には見えなかった。
ただ、全てを捨てていたわけでもない。
槽の外側には、同じ素材らしい物を収める小箱が並んでいる。箱には文字と印がつけられ、空のものもあれば、底へ何かが残っているものもあった。
ロックは一つずつ蓋を開けなかった。
まず読める文字を書き写し、配置を覚える。
ここまで使ってきた抗酸剤も、元を辿れば材料が要る。
この施設でも、取り込んだ物を溶かした後で、使えるものを拾い直していたのかもしれない。
そう考えると、槽の並びにも意味がありそうだった。
◇
部屋の奥には、腰の高さの作業台があった。
その下に、扉つきの棚がある。
ロックは棚の周囲を調べ、取っ手を引いた。
閉まっている。
札を使う窪みはない。代わりに、小さな鍵穴があった。
三本の鍵を順に試す。
最後の一本が、奥まで入った。
回すと、錠が外れる。
扉を開く前に横へ避け、細い棒で押した。
中から何かが落ちてくることはなかった。
棚には、浅い皿と、小さな容器が並んでいた。
皿の一枚へ、赤いものが載っている。
ロックは灯りを近づけた。
石だった。
親指の爪ほどの大きさで、縁が少し欠けている。
手を伸ばす前に、古代語の呪文を唱えた。
◇
魔力があった。
ロックは赤い石を見たまま、隣の皿へ視線を移した。
そこにある黒い粒には、同じ反応はない。
石そのものに、何かが残っている。
魔晶石なのか。
別の魔法の品の欠片なのか。
それ以上は、今のロックには分からなかった。
皿の前には、小さな札が置かれていた。
再検。
その下へ、短い記号が続いている。
ロックは札の裏も確かめた。数字らしい刻みはあったが、値段や残された力の量と決めつけられるものではない。
ただ、ここで働いていた者も、そのまま材料箱へ放り込まなかったらしい。
ロックは皿を動かさず、まず文字と石の位置を描いた。
◇
赤い石は、持参した小さな容器へ収めた。
皿の底へ液体が残っていないかを確かめ、細い道具で移す。
それから蓋を閉め、何を入れた容器なのか、外へ札を結んだ。
魔力があるからといって、すぐ使えるわけではない。
だが、何の役にも立たないとも限らない。
これは持ち帰って調べたい。
棚の奥には、薄い金属板が束ねられていた。点検室の保守記録と似ているが、こちらには品物の形と、短い説明が並んでいる。
ロックは一枚目を開いた。
輪。
刃。
石。
破片。
回収された物の記録だった。
◇
読み進めるうちに、ロックは動きを止めた。
小さな図に、平たい札が描かれている。
脇には、魔法式の保存を確認、と読める文字。
ロックは自分の札を取り出した。
排出弁を塞いでいた生き物の身体に、木屑や繊維と一緒に絡まっていた物だ。
図の札とは印が違う。
しかし、形はよく似ていた。
この部屋へ入る時、確かに使えた。
何にでも溶かされず、魔法の働きを保つ物がある。
ロックは、手元の札を裏返した。
あの身体から出てきた物が、これ一枚だけとは限らない。
◇
遠くで、また金属の音がした。
ロックは記録を閉じた。
さっきより近い。
いや、同じ部屋の中だ。
灯りを向けると、入口から離れた槽の中で、金属の籠が僅かに揺れていた。
液体が流れ込んでいる。
壁の口から落ちた細い流れが、斜めの板を伝い、籠の上へ屑を運んでいた。
ロックは作業台の脇から動かず、様子を見た。
歪んだ金属片が一つ落ちる。
続いて、細い繊維。
その下に、薄く透明なものが混じっていた。
ロックは、排出弁から外れた大きな身体を思い出した。
◇
流れは、しばらくして止まった。
籠の中には、幾つかの屑が残っている。
透明なものは、籠の縁へ引っ掛かっていた。
動かない。
だが、ロックは近づいて手を入れなかった。
ここが下流へ繋がっているなら、死骸の一部が届いたのかもしれない。生きている小さな個体が流されてきた可能性もある。
先に、槽の外側を見る。
籠を引き上げるための金具がある。
その後ろには、腰の高さまで石の壁が立っていた。
作業する者が、流れてくるものを直接浴びずに済む位置だ。
ロックはその陰へ回り、長い道具を金具へ掛けた。
持ち上げると、籠の底から液体が落ちる。
少し引き、決められたらしい石の受けへ載せる。
籠は、そこで安定した。
◇
屑の中に、鉤があった。
柄のない、歪んだ先端だけだ。
昨日失い、今朝は身体の横へ寄せておいた道具。
ロックは自分の物と見比べる必要もなかった。職人に直してもらった継ぎ目の金具が、まだついている。
「ここへ来るのか……」
呟き、部屋を見回した。
排出弁の先へ落ちたものは、全部がそのまま遠くへ流されるわけではない。
少なくとも一部は、ここで受け止められる。
あの大きな身体も、どこかの途中に残っているのだろうか。
ロックは記録台の上へ戻り、回収槽の図を探した。
次に知りたいことが、はっきりしていた。
この籠の手前に、何があるのか。
◇
図の中では、太い流路が二つに分かれていた。
片方は、今いる部屋へ来る。
もう片方は、幅の広い槽へ落ちている。
その槽の上に、短い文字があった。
粗大物。
ロックは、そこから保守通路へ伸びる線を辿った。
扉が一つ。
今いる部屋の、奥の壁にある扉と位置が合う。
目を向けると、確かに同じ印が刻まれていた。
取っ手の下には、札を収める窪みがある。
ロックは赤い石を入れた容器を鞄へしまい、手帳を閉じた。
持ち帰る物は、一つできた。
だが、その前に確かめたい。
自分が押し流したものを、見えなくなったというだけで片づいたことにはできなかった。
ロックは札を握り、奥の扉へ向かった。