低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
支度を整えた翌朝、ロックはいつものように『古代王国の扉』亭の食堂へ下りた。
ミスリルメッシュの上には、以前から使っていたソフトレザーを着込んでいる。わざわざ高価な鎧を買った後で、さらに革鎧を重ねるなど、普通なら無駄にしか見えない。
だが、ロックにとっては必要な偽装だった。
金属の輝きは完全に隠れ、外から見えるのは使い込まれた革だけだ。腰のブロードソードも装飾のない実用品で、指輪も鞘も、知らなければ魔法の品とは分からない。
少し装備を新調した新人冒険者。
それ以上には見えない。
ロックは朝食の黒パンをちぎりながら、壁に貼られた依頼書へ目を向けた。
王都の外へ出る依頼なら、日帰り。
長くとも一泊。
それ以上は断るつもりだった。
地下の遺跡を放置して、何日も王都を離れる気はない。
もっとも、人口十万を抱えるオランでは、城壁の外まで出なくとも仕事には困らなかった。盗難、失踪、商人同士の揉め事、倉庫へ入り込んだ獣の駆除、夜道の護衛。
人が多ければ、それだけ問題も多い。
今日はどの依頼を受けるか。
そう考えていた時、店の扉が開いた。
入ってきた男を見て、ロックはパンを持つ手を止めた。
灰色の外套。
目立たない服装。
だが、彼が現れた瞬間、食堂にいた何人かが無意識に声を落とした。
《灰鼠のヨアヒム》。
盗賊ギルドの実務を担う男が、朝から冒険者の店へ姿を見せる理由など、ろくなものではない。
ヨアヒムは店内を見回すと、迷うことなくロックの席へ歩いてきた。
「朝飯中か」
「見れば分かるでしょう」
「なら、食いながら聞け。時間がない」
向かいの椅子へ腰を下ろしたヨアヒムは、店主へ注文すらしなかった。
顔には疲労が浮かんでいる。
それ以上に、苛立ちを押し殺していた。
「リュンクスが捕まった」
ロックはパンを置いた。
「何をしました」
「盗みに入った」
「それなら捕まっても仕方ないでしょう」
「殺しまで押しつけられた」
食堂のざわめきが、遠ざかったように感じられた。
ロックは声を落とす。
「誰を殺したことになっているんです」
「バルテル・レーヴェン男爵。昨夜、自邸の書斎で喉を切られて死んだ」
名前に聞き覚えはなかった。
貴族社会に詳しくないロックには、それが大物なのか、名ばかりの下級貴族なのかも判断できない。
「リュンクスは、その屋敷へ入っていたんですね」
「ああ。そこは本人も認めている」
「何を盗みに?」
「宝石だ」
ヨアヒムは短く答えた。
リュンクスらしい。
ロックはそう思ったが、口にはしなかった。
「屋敷へ忍び込み、男爵が殺された夜に逃げた。しかも盗賊。衛兵には、ずいぶん分かりやすい犯人でしょうね」
「だから困っている」
「凶器は?」
「屋敷にあった短剣だ。柄からリュンクスの手袋に使われている染料と同じ赤い粉が見つかった」
「手袋?」
「逃げる途中で片方を落としている」
「ずいぶん親切な犯人ですね」
ヨアヒムの眉がわずかに動いた。
「お前もそう思うか」
「屋敷へ侵入した盗賊が、自分の持ち物を落とし、その染料を凶器に付け、死体の近くへ分かりやすく痕跡を残した。出来すぎています」
「衛兵はそうは考えん。盗みに入ったところを男爵に見つかり、咄嗟に殺した。逃げる時に手袋を落とした。それで話が通る」
「通ることと、本当であることは別です」
ロックは水を一口飲んだ。
「リュンクスは何と言っています」
「男爵の書斎には入っていない。目当ての宝石も見つからなかった。屋敷の中で人の気配が増えたから逃げた。殺人には関わっていない」
「犯行時刻は?」
「昨夜、九つの鐘が鳴る少し前から、鳴った直後まで。その辺りらしい」
ロックの指が止まった。
昨夜。
九つの鐘。
その時刻を、覚えている。
前線アジトへ運び込んだ物資を確認し、地下水道から戻ろうとしていた時だった。
遠く、石壁を伝って鐘の音が響いた。
そして、その直後。
暗い水路の向こうから、誰かが走ってきた。
細い体。
軽い足取り。
短い外套。
肩まで隠す頭巾の下から、一瞬だけ見えた銀色の髪。
リュンクスだった。
彼女はロックの姿を認めると、一瞬だけ足を止めた。
「今夜は何も見なかったことにしなさい」
そう言い残し、そのまま別の水路へ消えた。
ロックは追わなかった。
盗賊が夜中に地下水道を走っている程度、オランでは珍しい出来事でもない。
だが、あれが犯行時刻だったのなら。
リュンクスは、男爵邸の書斎にはいなかった。
ロックは彼女の無実を証明できる。
「どうした」
ヨアヒムの声で、ロックは意識を戻した。
「いえ」
「何か知っている顔だな」
「顔でそこまで分かりますか」
「分からなければ、この仕事はしていない」
ヨアヒムは、ロックから視線を外さなかった。
嘘をつけば見抜かれる。
かといって、正直に話すわけにもいかない。
なぜ昨夜、地下水道にいたのか。
その質問へ答えるには、遺跡へ通じる経路か、少なくとも地下水道の奥に個人的な拠点を持っていることを明かさなければならない。
曖昧に誤魔化せば、盗賊ギルドは調べる。
彼らは地下を縄張りにしている。
ロック一人が隠し通せるほど、甘い相手ではない。
リュンクスを助けるために証言すれば、遺跡を失うかもしれない。
黙っていれば、無実の人間が殺人犯として裁かれる。
もっとも、完全に無実ではない。
彼女は盗みに入っている。
だが、窃盗と殺人では、処罰が違いすぎる。
「リュンクスは、地下水道を通って逃げたと言っていますか」
ロックが尋ねると、ヨアヒムの目が細くなった。
「言っている」
「証人は?」
「いないと言っている」
「そうですか」
「本当に、何も知らないのか」
ロックは答えなかった。
ヨアヒムも、同じ質問を繰り返さなかった。
しばらくして、彼は懐から小さな布袋を取り出し、卓上へ置いた。
中で硬貨が鳴った。
「依頼だ」
「無実を証明しろと?」
「殺しをしていないことだけでいい。盗みに入った件まで消せとは言わん」
「ずいぶん現実的ですね」
「盗賊ギルドは、盗人を聖女に仕立てる商売じゃない」
その言葉には、妙な潔さがあった。
ロックは布袋へ手を伸ばさない。
「期限は?」
「明日の夕方までだ。その後は、領主側の取り調べへ移される」
「拷問ですか」
「貴族殺しだからな」
時間がない。
証言してしまえば、最も早い。
だが、それは最後の手段だった。
ロックは卓上へ視線を落とした。
凶器。
手袋。
赤い染料。
殺された男爵。
見つからなかった宝石。
そして、犯行時刻に地下水道を走っていたリュンクス。
証言を使わずに、無実を証明する。
そのためには、真犯人を見つけるか、少なくともリュンクスには不可能だったと示す物証が必要になる。
「男爵邸を調べられますか」
「衛兵が封鎖している」
「では、屋敷へ入れる人間を用意してください」
「誰を使う」
「僕ではありません」
ロックは、ようやく布袋を引き寄せた。
「殺人事件を調べる新人冒険者では怪しまれます。表向きの理由が必要です」
「何をするつもりだ」
「まず、リュンクスが何を盗もうとしていたのかを調べます」
「宝石だと言っただろう」
「どんな宝石です」
ヨアヒムが黙る。
その沈黙だけで、ロックには分かった。
ただ高価な石を適当に狙ったわけではない。
リュンクスが危険を冒してまで男爵邸へ入った理由がある。
「母親の宝石ですか」
ヨアヒムは、短く息を吐いた。
「青金石を囲んだ銀の首飾りだ。レーヴェン男爵が先月、競売で落とした」
「その首飾りは、屋敷から消えていますか」
「分からん」
「分からない?」
「衛兵の記録には載っていない。男爵の財産目録にもな」
ロックは考え込んだ。
リュンクスは、存在しないことになっている宝石を盗みに入った。
だが、宝石は見つからなかった。
その夜、男爵は殺された。
犯人はリュンクスの痕跡を、あまりにも都合よく現場へ残している。
「男爵は、その首飾りを公に所有できなかった」
「なぜそう思う」
「財産目録に載っていないからです。競売で買った事実を隠したかった。あるいは、競売そのものが表に出せない」
ロックは立ち上がった。
「リュンクスに会わせてください」
「衛兵の詰め所だ。面会は難しい」
「ヨアヒムさんなら、何とかできるでしょう」
「簡単に言うな」
「簡単でないから、あなたが来たんでしょう」
ヨアヒムはしばらくロックを睨み、やがて口元を歪めた。
「生意気になったな」
「装備が良くなったからでしょうか」
「革鎧しか見えんがな」
ロックは答えず、外套を羽織った。
ミスリルの輝きは、今日も誰にも見えない。
遺跡の存在も。
昨夜、地下水道でリュンクスと出会ったことも。
まだ、誰にも明かすつもりはなかった。
証言せずに救う。
その方法が見つからなければ、その時は――。
ロックはそこで考えるのをやめた。
まずは、捕まった盗賊から話を聞く。
殺人事件が起きた貴族の屋敷には、リュンクスだけでなく、もう一人の侵入者がいたはずだった。