低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第13話 屋敷にいた者たち

 リュンクスという女盗賊を、ロックは友人だと思っていない。

 

 かといって、赤の他人でもなかった。

 

 王都オランの盗賊ギルドを通じて、何度か顔を合わせている。

 

 銀灰色の髪と、猫を思わせる鋭い目。

 

 身軽で、口が悪く、金貨と宝石への執着を隠そうともしない。とりわけ、没落した生家から散逸した母親の宝石については、普段の冷静さを失うほどだった。

 

 リュンクスは、それらを取り戻すために怪盗をしている。

 

 法に照らせば犯罪者である。

 

 それでもロックは、彼女が誰彼構わず殺す人間ではないことを知っていた。

 

 少なくとも、逃げるためだけに屋敷の主人の喉を切るような女ではない。

 

 そして昨夜、男爵が殺されたとされる時刻に、ロックは地下水道でリュンクスを目撃していた。

 

 証人になれる。

 

 ただし、その証言をすれば、今度はロックが問われる。

 

 なぜ、夜中に地下水道の奥を歩いていたのか。

 

 正直に答えれば、独占している古代王国の遺跡へ話が及ぶ。

 

 嘘をつけば、盗賊ギルドと衛兵の双方から調べられる。

 

 だから証言は最後の手段だった。

 

 使わずに済むなら、その方がいい。

 

 リュンクスが男爵を殺していないことを証明する。

 

 さらに可能なら、彼女が男爵邸へ盗みに入ったという前提そのものを崩す。

 

 盗賊の無実をどこまで証明できるか。

 

 そこまでやって初めて、この仕事は完全な成功になる。

 

          ◇

 

「昨夜、屋敷にいた者を全員挙げてください」

 

 衛兵詰め所へ向かう道すがら、ロックはヨアヒムへ尋ねた。

 

「男爵本人。夫人。長男。家令。執事。侍女が三人。料理人と下働きが二人。庭師。それに来客が一人だ」

 

「衛兵は?」

 

「殺害後に呼ばれた」

 

「屋敷の門番は」

 

「二人。交代で詰めていた」

 

「ずいぶん多いですね」

 

「貴族の屋敷だ。珍しくもない」

 

 ロックは人数を頭の中で並べた。

 

 死亡した男爵を除いても、屋敷の内外に十五人ほどいたことになる。

 

 衛兵は、その中からリュンクスを犯人に選んだ。

 

 理由は簡単だ。

 

 彼女が盗賊だからだ。

 

「衛兵は、屋敷にいた者全員から話を聞いたんですか」

 

「一応はな」

 

「一応?」

 

「貴族夫人とその息子を、盗賊と同じように問い詰められると思うか」

 

「思いません」

 

 ロックは即答した。

 

 身分の高い者には遠慮する。

 

 使用人には強く出る。

 

 そして、屋敷の外から侵入したらしい盗賊が見つかれば、そこで捜査を終える。

 

 衛兵の仕事がすべて杜撰だとは思わない。

 

 だが、分かりやすい犯人が用意されている時、人はそれ以上考えなくなる。

 

「まず、容疑者を絞ります」

 

「どうやってだ」

 

「昨夜、屋敷にいた者から事情を聞きます。誰がどこにいて、何を見て、誰と会ったのか。証言を並べれば、どこかに矛盾が出ます」

 

「全員が正直に話すと思うか」

 

「思いません。だから矛盾を探すんです」

 

 ヨアヒムは横目でロックを見た。

 

「探偵にでもなったつもりか」

 

「シーフの仕事と、そこまで違いません」

 

 罠を探す。

 

 足跡を読む。

 

 鍵の細工を調べる。

 

 人の警戒を避け、隠された通路を見つける。

 

 相手が遺跡ではなく人間になっただけだ。

 

「問題は、僕たちがどうやって男爵邸に入るかです」

 

「衛兵隊へは話を通してある」

 

「盗賊ギルドが?」

 

「俺が直接頼むわけがないだろう」

 

 ヨアヒムは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

「男爵家へ金を貸している商人がいる。そいつから、財産保全のために目録を確認したいと申し入れさせた」

 

「僕は商人の代理人ですか」

 

「護衛兼、盗難調査の専門家だ」

 

「ずいぶん都合のいい肩書ですね」

 

「都合がいいから用意した」

 

 盗賊ギルドらしい。

 

 正面から法を破るだけが盗賊ではない。

 

 商人、役人、職人、衛兵。

 

 王都に張り巡らせた人間関係を使い、必要な扉を正規の手続きで開けさせる。

 

 ヨアヒムが《灰鼠》と呼ばれる理由の一端だった。

 

          ◇

 

 レーヴェン男爵邸は、王都の西側にある貴族街の端に建っていた。

 

 大貴族の宮殿ほど広くはない。

 

 それでも石造りの母屋を中心に、庭園、馬屋、使用人棟、倉庫を備えた立派な屋敷だった。

 

 門前には衛兵が二人立っている。

 

 ロックたちを迎えたのは、口髭を整えた中年の衛兵だった。

 

「商人組合から来た調査役というのは、お前たちか」

 

「僕が調査を担当します」

 

 ロックが答えると、衛兵は露骨に眉をひそめた。

 

「子供ではないか」

 

「だから護衛をつけています」

 

 ヨアヒムはそう言って、何食わぬ顔でロックの後ろに立った。

 

 どう見ても、ヨアヒムの方が調査役に見える。

 

 衛兵も同じ感想を抱いたらしく、怪訝な目を向けた。

 

「盗まれた物の確認だけだ。殺人の捜査へ口を挟むな」

 

「承知しています」

 

 ロックは素直に頭を下げた。

 

 口を挟まないとは言っていない。

 

 質問しないとも言っていない。

 

 屋敷へ入ると、まず玄関広間へ通された。

 

 磨かれた床。

 

 壁に掛けられた狩猟絵。

 

 古びてはいるが、良質な調度品。

 

 一見すれば裕福な貴族の屋敷だ。

 

 しかし、ロックの目には別のものが見えた。

 

 絨毯の端が擦り切れている。

 

 燭台の一本だけ材質が違う。

 

 壁に飾られた絵のうち、二枚は額縁だけが上等で、中身は価値の低い模写。

 

 金がない。

 

 あるいは、急速に財産を失っている。

 

「財産目録に載っている品の中にも、すでに売られたものがありそうですね」

 

 ロックが小声で言うと、ヨアヒムが頷いた。

 

「男爵は賭場に出入りしていた。商売にも手を出して、何度か失敗している」

 

「借金は?」

 

「多い」

 

「それを最初に言ってください」

 

「聞かれなかった」

 

 ロックはヨアヒムを睨んだが、すぐに視線を戻した。

 

 借金を抱えた男爵。

 

 公にできない宝石。

 

 昨夜の来客。

 

 すでに事件の形が少しずつ見え始めていた。

 

「事情聴取は誰から始める」

 

 ヨアヒムが尋ねた。

 

「門番です」

 

「家族ではなく?」

 

「屋敷の出入りを見ていた人間からです。先に家族の話を聞けば、門番もそれに合わせるかもしれません」

 

 玄関広間の端で待っていた衛兵が、不満そうに口を挟んだ。

 

「門番からはもう聞いた。怪しい者は見ていないそうだ」

 

「それでは、リュンクスはどうやって入ったことになっているんです」

 

「塀を越えたのだろう」

 

「目撃者は?」

 

「いない」

 

「侵入した跡は?」

 

「庭に足跡があった」

 

「どの辺りに?」

 

「書斎の窓の下だ」

 

「塀から窓まで続いていましたか」

 

 衛兵が黙った。

 

「確認していないんですか」

 

「雨の後だ。庭にはいくらでも足跡がある」

 

「では、どうして書斎の窓の下の足跡だけが侵入者のものだと分かったんです」

 

「女物の靴跡だった」

 

「屋敷には夫人と侍女がいますよね」

 

「庭仕事をするような者たちではない」

 

「それを本人たちに確認しましたか」

 

 衛兵の顔が険しくなる。

 

 ヨアヒムが小さく咳払いした。

 

 ロックは一度口を閉じた。

 

 敵を増やしても仕方がない。

 

「失礼しました。僕は盗品調査のため、侵入経路を確かめたいだけです」

 

「……門番は使用人棟にいる」

 

「ありがとうございます」

 

          ◇

 

 昨夜、正門に詰めていた門番は二人いた。

 

 年嵩のブルーノと、若いハンス。

 

 二人は使用人棟の小部屋で、別々に話を聞かれることになった。

 

 最初はブルーノだった。

 

「昨夜、屋敷へ入った者を教えてください」

 

「日が暮れる前に、ゲオルグ様がお戻りになった」

 

「長男ですね」

 

「ああ。それから、八つの鐘が鳴る少し前に、お客様がお一人」

 

「名前は?」

 

「ラウル・ケスラー様。男爵様と商売をされている方だ」

 

「帰った時刻は?」

 

「九つの鐘より前だ」

 

「どれくらい前です」

 

「それは……半刻ほどだったと思う」

 

「あなたが門を開けた?」

 

「ああ」

 

「その間、ハンスさんは?」

 

「詰め所にいた」

 

「誰かが塀を越える音や、犬が吠える声は?」

 

「聞いていない」

 

「犬がいるんですか」

 

「番犬が二頭いる。知らない者が庭へ入れば、必ず吠える」

 

 ロックは視線を上げた。

 

「昨夜は吠えなかった?」

 

「少なくとも、俺は聞いていない」

 

「衛兵には話しましたか」

 

「聞かれなかった」

 

 ブルーノの話を終えると、次にハンスを呼んだ。

 

 質問の順序を少し変え、同じ内容を尋ねる。

 

「昨夜、ラウル様がお帰りになった時刻ですか。九つの鐘が鳴った後です」

 

 最初の矛盾が出た。

 

「確かですか」

 

「はい。鐘が鳴った後、少ししてから門を開けました」

 

「ブルーノさんも一緒でしたか」

 

「いえ。あの人は厠へ行っていました」

 

「あなた一人で見送った?」

 

「そうです」

 

「ラウルさん以外に、屋敷から出た者は?」

 

「いません」

 

「庭の犬は吠えましたか」

 

「一度だけ」

 

「いつです」

 

「八つの鐘と九つの鐘の間です。書斎の方だったと思います」

 

「確認しましたか」

 

「ブルーノさんが、猫か何かだろうと言ったので」

 

「ブルーノさんも吠え声を聞いていたんですね」

 

「はい」

 

 ロックは手元の紙へ印をつけた。

 

 ブルーノは、犬の声を聞いていないと言った。

 

 ハンスは、二人とも聞いたと言った。

 

 そして来客が帰った時刻も違う。

 

 どちらかが嘘をついている。

 

 あるいは、二人とも何かを隠している。

 

「昨夜、門番の交代はありましたか」

 

「ありません」

 

「厠へ行ったのは、ブルーノさんだけ?」

 

「はい」

 

「どのくらい戻りませんでした」

 

「四半刻ほどです」

 

「ずいぶん長いですね」

 

 ハンスの顔がこわばった。

 

「腹を壊していたのでしょう」

 

「厠はどこです」

 

「使用人棟の裏です」

 

「正門から見えますか」

 

「見えません」

 

 つまり、その間だけブルーノにはアリバイがない。

 

 だが、それだけで殺人犯とは言えない。

 

 ロックは次の質問へ移った。

 

「男爵家の人間で、普段から番犬に吠えられない者は?」

 

「家族と使用人は全員です。よく来る商人や御者にも吠えません」

 

「ラウル・ケスラーにも?」

 

「吠えません。何度も屋敷へ来ていますから」

 

 ロックは筆を止めた。

 

 番犬が吠えた。

 

 ならば、庭へ入ったのは見慣れない者だった可能性がある。

 

 しかし、リュンクスが塀を越えたなら、犬が一度吠えただけで済むだろうか。

 

 しかも、俊敏なリュンクスが、雨上がりの柔らかい庭土へ分かりやすく足跡を残す。

 

 不自然だった。

 

          ◇

 

 次に話を聞いたのは、男爵夫人エレオノーラだった。

 

 喪服には着替えていない。

 

 濃紺のドレスを着て、応接室の椅子へ背筋を伸ばして座っている。

 

 目元は赤かったが、泣き崩れた様子はない。

 

「盗品の調査と聞きましたが」

 

「はい。昨夜、屋敷から何か失われていないか確認しています」

 

「失われたのは夫の命です。それ以上に重要なものがありますか」

 

「ありません」

 

 ロックは否定しなかった。

 

「ですが、盗賊が何を目的に侵入したか分かれば、殺害との関係も見えてきます」

 

「犯人は捕まったのでしょう」

 

「容疑者が捕まっただけです」

 

 夫人の目が細くなった。

 

「盗賊を庇うのですか」

 

「誰も庇っていません。事実を確認しています」

 

「事実なら明白です。あの女が夫を殺した」

 

「リュンクスを見たのですか」

 

「いいえ」

 

「夫人は昨夜、どこにいました」

 

「自室です」

 

「一人で?」

 

「侍女のマルタがいました」

 

「何時から何時までです」

 

「夕食後から、夫が殺されたと知らせを受けるまで」

 

「途中で部屋を出ていませんか」

 

「出ていません」

 

 答えが早い。

 

 まるで、あらかじめ用意していたようだった。

 

「男爵と最後に話したのは?」

 

「夕食の席です」

 

「その時の様子は」

 

「いつもどおりでした」

 

「来客については?」

 

「存じません」

 

「ラウル・ケスラーという商人が来ていたそうです」

 

「夫の客を、すべて私が知っているわけではありません」

 

「青金石を囲んだ銀の首飾りをご存じですか」

 

 夫人の指が、膝の上でわずかに動いた。

 

「知りません」

 

「競売で男爵が購入したものです」

 

「夫が私に贈った宝石の中には、そのような品はありません」

 

 聞いていないことまで答えた。

 

 ロックはそれ以上追及しなかった。

 

「ありがとうございました」

 

 応接室を出ると、ヨアヒムが小声で言った。

 

「知っているな」

 

「ええ。少なくとも、首飾りが夫人への贈り物ではないことは知っています」

 

「愛人か」

 

「まだ分かりません」

 

 ただし、夫人が夫の隠し財産を把握していた可能性は高い。

 

          ◇

 

 長男ゲオルグは二十歳ほどの青年だった。

 

 父親が殺された翌日とは思えないほど身なりを整え、苛立たしげに酒杯を傾けている。

 

「いつまで屋敷を調べ回るつもりだ」

 

「必要な確認が終わるまでです」

 

「犯人は捕まっている」

 

「昨夜はどちらにいましたか」

 

「自室だ」

 

「一人で?」

 

「そうだ」

 

「証人はいない?」

 

「自分の家で夜を過ごすのに、証人が必要なのか」

 

「殺人事件が起きた夜なら」

 

 ゲオルグは酒杯を机へ置いた。

 

「貴様、誰に向かって口を利いている」

 

「借金の返済を心配している商人の代理人です」

 

 ロックは淡々と答えた。

 

「男爵が亡くなれば、借金は相続人へ引き継がれます。財産がどれだけ残っているか、こちらにも確認する権利があります」

 

 後ろに立つヨアヒムが、わずかに肩を揺らした。

 

 笑いを堪えたらしい。

 

「昨夜、屋敷へ戻った時刻は?」

 

「七つの鐘が鳴る前だ」

 

「門番は日暮れ前と言っています」

 

「同じようなものだろう」

 

「どこから戻ったんです」

 

「友人の家だ」

 

「友人の名前は?」

 

「貴様に教える必要はない」

 

「では確認できませんね」

 

「勝手にしろ」

 

 ゲオルグは顔を背けた。

 

 ロックは部屋の中を見回した。

 

 高価な酒瓶。

 

 新しい乗馬靴。

 

 賭け事に使う骨牌。

 

 父親と同じく、金遣いは荒そうだった。

 

「昨夜、犬が吠えたのを聞きましたか」

 

「聞いていない」

 

「九つの鐘は?」

 

「聞いた」

 

「その時、何をしていました」

 

「寝ていた」

 

 寝ていたのに、鐘は聞いた。

 

 犬の声は聞いていない。

 

「男爵が亡くなったことを、誰から聞きました」

 

「家令だ」

 

「何時です」

 

「九つの鐘の後だ」

 

「ラウル・ケスラーが帰る前ですか。後ですか」

 

 ゲオルグの視線が一瞬だけ揺れた。

 

「知らん」

 

「屋敷に来ていたことは知っているんですね」

 

「今、貴様が言っただろう」

 

 ロックはそれ以上問わず、部屋を出た。

 

「怪しいな」

 

 ヨアヒムが言う。

 

「怪しくない人間がいません」

 

「息子が親父を殺す理由なら、いくらでもありそうだ」

 

「理由だけでは足りません。今のところ、彼には証人のいない時間がある。それだけです」

 

          ◇

 

 家令。

 

 執事。

 

 三人の侍女。

 

 料理人。

 

 下働き。

 

 庭師。

 

 ロックは一人ずつ、別々に話を聞いた。

 

 聞く内容は同じではない。

 

 誰がどこにいたか。

 

 夕食に何が出たか。

 

 食器を下げたのは誰か。

 

 廊下の燭台へ火を入れたのは誰か。

 

 犬が吠えた時、何をしていたか。

 

 九つの鐘が鳴った時、誰と一緒にいたか。

 

 そして、男爵の死体を最初に見つけたのは誰か。

 

 答えを並べると、屋敷の動きが少しずつ形になった。

 

 夕食が終わったのは、八つの鐘より少し前。

 

 男爵は書斎へ向かった。

 

 夫人は侍女マルタを連れて自室へ戻った。

 

 長男ゲオルグも二階へ上がった。

 

 八つの鐘の直前にラウル・ケスラーが来訪。

 

 執事がラウルを書斎まで案内した。

 

 その後、侍女の一人が酒を運んだ。

 

 八つの鐘と九つの鐘の間に、番犬が一度吠えた。

 

 九つの鐘が鳴った後、家令が書斎へ入り、男爵の死体を発見した。

 

 ここまでは、おおむね一致している。

 

 問題はその前後だった。

 

 ラウルが帰った時刻。

 

 ブルーノは九つの鐘より半刻前と言った。

 

 ハンスは九つの鐘の後と言った。

 

 執事は八つの鐘の後、すぐに帰ったと証言した。

 

 家令は、死体を見つける直前までラウルが書斎にいたと思っていた。

 

 四人の証言が、すべて違う。

 

「来客が帰った時刻を、誰も正確に覚えていないのは妙ですね」

 

「夜の半刻くらい、曖昧でも不思議ではないだろう」

 

 ヨアヒムが言った。

 

「一人ならそうです。でも、門を開ける者、玄関まで見送る者、書斎から案内する者がいる。全員の記憶が違うのは、誰かが嘘をついているからです」

 

「何人かで口裏を合わせて、失敗した可能性もあるな」

 

「あります」

 

 さらに、侍女マルタは夫人の部屋を一度も離れていないと言った。

 

 ところが別の侍女は、八つの鐘の後にマルタが階段を下りる姿を見たと証言した。

 

 料理人は九つの鐘の少し前、裏口で家令と話したと言う。

 

 家令は、その時間ずっと帳簿室にいたと主張している。

 

 庭師は、夜になってから庭へ出ていないと言った。

 

 しかし、彼の長靴には新しい泥が付着していた。

 

 証言の矛盾は、一つや二つではない。

 

 全員が殺人に関わっているとは考えにくい。

 

 それぞれが殺人とは別の事情を隠しているのだ。

 

 不倫。

 

 横領。

 

 密会。

 

 盗み食い。

 

 雇い主への小さな裏切り。

 

 貴族の屋敷には、表へ出せない秘密がいくらでもある。

 

 それらを殺人の嘘と区別しなければならない。

 

「まず、確実に容疑から外せる者を決めます」

 

 ロックは聞き取った内容を紙へ並べた。

 

 料理人と下働きの一人は、厨房で互いを見ている。

 

 もう一人の下働きは、馬屋で御者と一緒だった。

 

 侍女の一人は、酒を運んだ後、洗濯室で別の侍女と作業している。

 

 彼らには、書斎へ入り男爵を殺す時間がほとんどない。

 

 完全ではないが、優先度は下げられる。

 

 一方で、犯行時刻に単独だった者。

 

 あるいは、証言が食い違っている者は残る。

 

 男爵夫人エレオノーラ。

 

 長男ゲオルグ。

 

 家令オスカー。

 

 執事フランツ。

 

 侍女マルタ。

 

 庭師ベルント。

 

 門番ブルーノ。

 

 そして来客、ラウル・ケスラー。

 

「八人か」

 

 ヨアヒムが言った。

 

「まだ多いですね」

 

「リュンクスを入れれば九人だ」

 

「入れません」

 

 ロックは即答した。

 

「なぜだ」

 

「少なくとも、屋敷の人間が説明している侵入経路は成立していません」

 

「犬か」

 

「犬だけではありません」

 

 ロックは書斎の窓の下を指した。

 

 衛兵が侵入者のものだと決めつけた足跡。

 

 それは窓の真下に、三つだけ残っていた。

 

 塀から続いていない。

 

 庭の小道からも続いていない。

 

 まるで、誰かがその場所で靴を履き、三歩だけ歩いたように。

 

「リュンクスが塀を越えてきたなら、足跡は途中から続くはずです」

 

「飛んできたのでなければな」

 

「そして、この足跡は深さが揃いすぎています。走ってきた人間の足跡ではない」

 

 前後の傾きもない。

 

 踏み込みの差もない。

 

 侵入者が残したのではなく、誰かが靴を地面へ押しつけて作った跡だ。

 

「女物の靴を使って、盗賊が窓から入ったように見せた」

 

「なら、リュンクスは屋敷に入っていないことになるか」

 

「まだ証明にはなりません。別の場所から入った可能性は残ります」

 

 ロックは窓枠を調べた。

 

 鍵は内側から閉まっている。

 

 枠にこじ開けた傷はない。

 

 外壁を登った痕跡もない。

 

「ただし、衛兵が考えている侵入方法は間違いです」

 

 リュンクスが実際にはどこまで屋敷へ入ったのか。

 

 ロックは本人からまだ詳しく聞いていない。

 

 だが、少なくとも現場に残された証拠は、彼女を捕らえるために作られている。

 

 殺人だけでなく、侵入そのものまで。

 

「誰かが、リュンクスが男爵邸へ盗みに来ることを知っていた」

 

 ヨアヒムの表情から、わずかに余裕が消えた。

 

「どういうことだ」

 

「手袋の染料。女物の足跡。目当てだった首飾り。偶然にしては揃いすぎています」

 

 犯人は、どこかでリュンクスの計画を知った。

 

 あるいは、彼女が来るように仕向けた。

 

 そして殺人の罪を着せるため、証拠を用意した。

 

「リュンクスは、首飾りの情報をどこから得たんです」

 

 ロックが尋ねると、ヨアヒムは答えなかった。

 

「ヨアヒムさん」

 

「情報屋から買った」

 

「誰です」

 

「ギルドの人間ではない」

 

「名前は?」

 

「ラウル・ケスラー」

 

 ロックは黙った。

 

 昨夜、男爵邸にいた来客。

 

 男爵が首飾りを持っていると、リュンクスへ教えた人物。

 

 そして、屋敷を出た時刻について証言が一致しない男。

 

「最初から言わなかった理由は?」

 

「リュンクスが勝手に買った情報だ。俺も今朝になって知った」

 

「ラウル本人から事情を聞きましょう」

 

「居場所は分かる」

 

「その前に、書斎を見ます」

 

 ロックは閉ざされた扉へ目を向けた。

 

 男爵が殺された場所。

 

 衛兵は、そこに残された分かりやすい証拠だけを拾った。

 

 だが、犯人が偽の証拠を置いたのなら、その作業そのものが新しい痕跡を残している。

 

「容疑者は八人。ただし、事件へリュンクスを引き込めた人間は限られます」

 

 首飾りの存在を知る者。

 

 リュンクスが狙っていることを知る者。

 

 屋敷の構造を知る者。

 

 犯行時刻に自由に動けた者。

 

 そして、殺された男爵に近づけた者。

 

 条件を重ねるほど、候補は減っていく。

 

「まずは書斎です。凶器と手袋、それから男爵が最後に何をしていたのかを確認します」

 

「盗みの証明は後回しか」

 

「逆です」

 

 ロックは答えた。

 

「犯人がリュンクスを陥れるために証拠を作ったと証明できれば、殺人だけでなく、屋敷へ侵入したという容疑まで崩せます」

 

 たとえ彼女が本当に盗みに来ていたとしても。

 

 衛兵が立証できるのは、現場に残された証拠だけだ。

 

 その証拠が偽物なら、リュンクスが屋敷へ入ったことを示すものは何も残らない。

 

 ザルのような推理で捕まえたのなら、その穴から逃がしてやればいい。

 

「証言は使わないのか」

 

 ヨアヒムが低く尋ねた。

 

 ロックは一瞬だけ、彼を見た。

 

 昨夜の地下水道。

 

 九つの鐘。

 

 走り去った銀灰色の髪。

 

「必要ありません」

 

 今はまだ。

 

 ロックは書斎の扉へ手を伸ばした。

 

 扉の向こうにあるのは、男爵の死体が残した答えだけではない。

 

 犯人が作り上げた、あまりにも都合のよい物語。

 

 その綻びを見つければいい。

 

 誰が嘘をついたのか。

 

 何を隠しているのか。

 

 そして、なぜリュンクスが選ばれたのか。

 

 戦う相手が見えないのなら、まず盤上から余計な駒を取り除く。

 

 最後に残った一人が――真犯人だ。

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