低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
侍女マルタは三十歳ほどの女性だった。
茶色の髪を隙なく後ろで束ね、黒い侍女服には皺一つない。
主人に仕えることそのものを誇りとしている。
そんな印象を受ける女だった。
応接室へ案内されたマルタは、ロックたちへ静かに一礼した。
「何かお役に立てることがございましたら」
「昨夜のことを、もう一度確認させてください」
ロックは穏やかな口調で切り出した。
「夫人のお部屋にいたそうですね」
「はい」
「夕食後から事件が起きるまで?」
「そのとおりでございます」
「一度も部屋を出ていませんか」
「出ておりません」
迷いのない返答だった。
あらかじめ用意していた言葉を、そのまま口にしているように聞こえる。
「夫人は何をしていました」
「本を読んでおられました」
「本の題名は?」
マルタの視線が、わずかに揺れた。
「……存じません」
「そばでお世話をしていたのに?」
「表紙までは見ておりませんでした」
「どのような本だったかも分からない?」
「はい」
それだけなら、大きな矛盾ではない。
侍女が主人の読む本へ興味を持たなかったとしても不思議ではない。
だが人間は、事実を思い出して話す時と、決めておいた答えを口にする時とで、微妙に言葉の調子が変わる。
「男爵が亡くなったと知ったのは、いつです」
「家令様が奥様のお部屋へ駆け込んでこられた時です」
「家令は何と言いました」
「旦那様が……書斎で……」
マルタの声が震えた。
目には涙も浮かんでいる。
それが演技なのか、本当に男爵の死を悲しんでいるのか、ロックにはまだ判断できなかった。
「夫人は驚いていましたか」
「もちろんです」
先ほどまでより、明らかに強い口調だった。
「どのように?」
「お座りになっていた椅子から、すぐに立ち上がられました」
「本を落としましたか」
「……」
マルタが黙る。
「夫人は本を読んでいたんですよね」
「はい」
「突然、夫が殺されたと聞かされて立ち上がった。それなら、手に持っていた本を落とすか、机へ置くはずです」
「本は……机の上にございました」
「読んでいたのに?」
マルタは答えられなかった。
「夫人は本を読んでいませんでしたね」
ロックが静かに言うと、マルタは視線を伏せた。
◇
「本当は、何をしていたんです」
「……申し上げられません」
「殺人事件の捜査よりも重要なことですか」
「違います」
「なら話してください」
「それは……奥様の名誉に関わります」
「男爵は殺されています」
ロックは声を荒らげなかった。
「夫人の名誉を守るためについた嘘が、夫人を殺人犯にするかもしれません」
マルタの肩がわずかに動いた。
「あなたが夫人の部屋にいたという証言が崩れれば、夫人のアリバイも失われます」
「奥様は旦那様を殺してなどおりません」
「それを確かめるために聞いています」
長い沈黙が落ちた。
やがてマルタは諦めたように息を吐いた。
「旦那様には……別の女性がおりました」
「愛人ですか」
「はい」
ヨアヒムは壁際に立ったまま、わずかに眉を動かした。
ロックは表情を変えない。
「夫人は、そのことを知っていた?」
「以前から疑っておられました。最近になって確信されたようです」
「昨夜は、その話をしていたんですね」
「はい」
「夫婦で話していたわけではない?」
「奥様と私でございます」
「夫人が不満を話し、あなたが聞いていた」
「そのとおりです」
「だから、読書をしていたことにした?」
「旦那様に愛人がいたことが外へ漏れれば、奥様まで笑いものにされます」
貴族の屋敷らしい嘘だった。
主人の名誉。
家の体面。
夫婦の不和。
殺人とは直接関係がなくとも、使用人が必死に隠そうとする理由にはなる。
だが、まだ終わりではない。
「その話をしていたのは、いつからいつまでです」
「夕食の後から、家令様が来られるまでです」
「九つの鐘が鳴った時も、夫人と一緒にいた?」
「はい」
「一度も部屋を出ていませんか」
マルタは再び黙った。
ロックは追及する。
「別の侍女が、あなたが階段を下りる姿を見ています」
「……」
「今度こそ正直に答えてください」
「一度だけ部屋を出ました」
「何のために?」
「奥様が頭痛を訴えられたので、薬を取りに行きました」
「薬はどこにあります」
「一階の薬棚です」
「どのくらい部屋を離れていました」
「ほんのわずかです」
「どのくらい?」
「三分ほどだったと思います」
「その間、夫人は一人だった」
「はい」
ロックは屋敷の間取りを思い浮かべた。
夫人の部屋は二階の東側。
男爵の書斎は一階の西側。
階段を下り、廊下を横切り、書斎へ入り、男爵を殺して戻る。
三分では難しい。
走れば不可能ではないかもしれないが、その場合は廊下や階段で誰かに見られる危険が大きい。
「薬を取りに行ったことは、誰かに確認できますか」
「薬棚の近くで、侍女のエルザとすれ違いました」
「その侍女が、階段を下りるあなたを見た人物ですね」
「おそらくは」
マルタの証言が正しければ、夫人が一人だった時間は短い。
完全なアリバイではない。
だが、殺害を実行するには条件が悪すぎる。
夫人の容疑は、いったん優先順位を下げてもよさそうだった。
◇
「もう一つだけ聞きます」
「はい」
「青金石を銀で囲んだ首飾りをご存じですね」
マルタの呼吸が止まった。
ほんの一瞬だったが、はっきり分かった。
「知っているんですね」
「……」
「夫人は知らないと答えました」
「奥様は……」
「夫人を庇うための嘘ですか」
マルタは目を閉じた。
「旦那様は競売で、その首飾りを落札されました」
「そこまでは分かっています」
「旦那様は最初、奥様へ贈るとおっしゃっていたのです」
「しかし、渡さなかった」
「はい」
「夫人は愛人へ贈ったと考えた?」
「奥様は、そう疑っておられました」
「昨夜、あなたと話していたのも、その首飾りについてですね」
マルタはゆっくりと頷いた。
「奥様は、旦那様が自分には何も告げず、その女へ宝石を贈ったのではないかと……」
「夫人は首飾りの保管場所を知っていましたか」
「いいえ」
「屋敷の中を探したことは?」
「奥様が自ら探すようなことはございません」
「あなたは?」
マルタは顔を上げた。
「私は旦那様の持ち物を盗み見るような真似はいたしません」
「では、首飾りが今も屋敷にあるかどうかは分からない」
「はい」
「男爵が愛人へ贈ったという証拠もない」
「ございません」
夫人は首飾りの存在を知っていた。
だが、その行方は知らない。
そして夫が愛人へ渡したのではないかと疑っていた。
ロックは少し考え、最後の質問をした。
「夫人は男爵を殺していない。そう言い切れますか」
「はい」
マルタは迷わなかった。
「私が薬を取りに出たのは、ほんの短い間です。それに、奥様は旦那様を憎んでなどおりませんでした」
「愛人がいても?」
「悲しんではおられました。腹も立てておられました。それでも、殺したいなどとは一度も……」
マルタの声が詰まる。
今度の涙には、先ほどよりも真実味があった。
「奥様は、旦那様から離れたいのではありません。もう一度、奥様を見てほしかっただけなのです」
ロックは質問を終えた。
「ありがとうございました」
◇
マルタが部屋を出ると、ヨアヒムは閉じた扉を見ながら口を開いた。
「夫人は外すのか」
「完全には外しません。でも、優先順位は下げます」
「嘘をついていたぞ」
「ええ。ただし、嘘の目的が殺人を隠すためではありません」
ロックは聞き取った内容を紙へまとめた。
「夫婦の不和を隠した」
「愛人の存在を隠した」
「首飾りを知っていることを隠した」
「部屋を出たことを隠した」
「どれも、夫人と男爵家の体面を守るための嘘です」
「殺しを隠す嘘ではないと?」
「今のところは」
ヨアヒムが腕を組む。
「だが、夫人は三分間一人だった」
「書斎までの距離を考えれば、殺害して戻るのは難しいでしょう。それに、廊下や階段には使用人がいます」
「共犯がいれば?」
「可能性は残ります」
ロックは安易に切り捨てなかった。
ただ、夫人の動機と空白の時間だけでは真犯人へ届かない。
「それより重要なのは首飾りです」
「愛人に渡ったかもしれない宝石か」
「ええ」
男爵は夫人へ贈ると約束した。
だが、実際には渡さなかった。
夫人は愛人へ渡ったと疑っている。
首飾りは財産目録にも記載されていない。
「男爵がすでに愛人へ贈っていたなら、事件の夜に首飾りは屋敷になかったことになります」
「それでは、リュンクスは存在しない宝石を盗みに来たことになる」
「正確には、屋敷にあると思わされて来たことになります」
「情報が間違っていた?」
「偶然とは思えません」
ラウル・ケスラーは、男爵が首飾りを所有しているとリュンクスへ伝えた。
だが男爵が首飾りを愛人へ渡していたなら、その情報は古い。
あるいは、最初から誤った情報だった。
「誰かがリュンクスを男爵邸へ向かわせた」
ロックは言った。
「そして、その夜に男爵を殺した」
「リュンクスを犯人にするためか」
「その可能性が高くなりました」
盗賊が屋敷へ来ることを知っていれば、偽の足跡も、手袋の染料も用意できる。
殺害後、盗賊の犯行に見せかけることもできる。
犯人に必要なのは、リュンクスの計画を知る手段だった。
現時点で最も疑わしいのは、情報を売ったラウルである。
だが、男爵の愛人もまた、首飾りと男爵の双方に関わる人物だった。
「次は愛人を探します」
「名前は分かるのか」
「マルタは知らないと言いました」
「本当に知らないのか?」
「そこは嘘ではないと思います」
「では、どうやって探す」
「男爵が首飾りを持ち出した経路を追います」
競売で落札した品。
表の財産目録には載せていない。
夫人にも渡していない。
それでも、宝石はどこかへ運ばれた。
男爵が自分で持ち歩いたのか。
商人を使ったのか。
使用人に届けさせたのか。
「ラウルは、競売の仲介をしたと言っていました」
「また、あの男か」
「首飾りを落札したことを知り、代金の支払いにも関わり、リュンクスへ情報を流した」
首飾りの流れを最もよく知る人物である。
そして男爵と最後に会った人物でもある。
「ラウルの店と倉庫を調べます」
「衛兵の許可は出ないぞ」
「正式に捜索する必要はありません」
ロックはヨアヒムを見る。
「商人なら、荷物の出入りを完全には隠せません。荷運び人、御者、倉庫番。誰かが首飾りを運んだ箱を見ています」
「盗賊ギルドに調べろということか」
「そのためにあなたがいるんでしょう」
ヨアヒムは苦笑した。
「随分と使い方が荒くなったな」
「人が拷問されるまで時間がありません」
「分かった。ラウルの商会を洗わせる」
「僕は男爵の愛人を探します」
「手掛かりは?」
「夫人です」
ヨアヒムが怪訝な顔をした。
「夫人は名前を知らなくても、夫の変化には気づいています。外出が増えた曜日、使う香水、持ち帰った品、帳簿にない支出。愛人の姿を知らなくても、会いに行く習慣は知っているはずです」
侍女の嘘は、夫人を真犯人へ近づけるものではなかった。
だが、その嘘の奥から別の道が現れた。
首飾り。
男爵の愛人。
ラウル・ケスラー。
そして、意図的に男爵邸へ誘い込まれたリュンクス。
ロックは聞き取りの記録を折り畳んだ。
「男爵の殺害と首飾りの行方は、同じ事件です」
宝石を追えば、愛人へ届く。
愛人へ届けば、男爵が隠していた取引が見える。
その先に、リュンクスを罠へ掛けた人物がいる。
「次は、夫人に嘘をやめてもらいます」
主人を庇う侍女から話を聞いた。
今度は、死んだ夫を庇う妻から聞く番だった。