低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
北市場の喧騒を抜けると、王都の空気が一変した。
人の声は遠ざかり、代わりに風が古い板戸を揺らす音が聞こえてくる。
かつて染物職人が集まっていた一角だった。
だが今では、多くの工房が廃業している。
壁には色の抜けた染料の染みが残り、軒下には使われなくなった木桶が転がっていた。
路地を流れる水も、以前は赤や青に染まっていたのだろう。
今は雨水が薄い泥を運んでいるだけだった。
「ここだ」
ヨアヒムが顎を上げる。
路地の奥に、二階建ての古い工房があった。
看板は外されている。
窓の半分は板で塞がれ、漆喰の壁には大きな亀裂が走っていた。
それでも完全な廃屋ではない。
煙突には新しい煤が付いている。
裏手には乾いた薪が積まれ、一階の扉だけは新しい錠前へ取り替えられていた。
「人が住んでいますね」
「ああ。隠れて暮らすには悪くない場所だ」
市場から離れすぎてはいない。
食料や薪は手に入る。
それでいて、近隣の建物はほとんど使われていない。
人目を避けながら生活するには都合がよかった。
ロックは工房へ近づこうとして、足を止めた。
路地の向こうから車輪の音が聞こえてきたからだ。
一台の小型馬車が角を曲がり、工房の前で止まる。
御者台の男は降りない。
客だけを下ろすと、少し離れた場所まで馬車を進めた。
降りてきたのは、ラウル・ケスラーだった。
「追跡していた奴からの報せより早いな」
ヨアヒムが低く呟く。
「真っ直ぐ来たんでしょう」
ラウルは周囲を見回した。
先ほど男爵邸で見せていた、余裕のある商人の顔ではない。
唇を固く結び、何度も背後を確かめている。
ロックとヨアヒムは、向かいの廃工房の陰へ身を隠した。
ラウルは古い染物工房の扉へ近づき、決まった調子で叩く。
三回。
短く間を置き、二回。
初めて訪れた者の叩き方ではなかった。
「合図を知っています」
「それだけじゃない。中にいる奴も、ラウルを知っている」
しばらくして、扉がわずかに開いた。
隙間から黒い髪が見える。
現れたのは小柄な少年だった。
年齢はロックより一つか二つ下だろう。
痩せた顔。
警戒心の強い青い目。
身体を支えるため、左手に短い杖を持っている。
扉を開ける時も、右脚へ体重を掛けないようにしていた。
エルンストが《小鳥》と呼んでいた少年に間違いなかった。
「どうして来た」
少年が低い声で言った。
「中へ入れてくれ」
「嫌だ」
「話をしなければならない」
「もう話すことなんてない」
少年は扉を閉めようとした。
ラウルが素早く手を差し込む。
「待て」
「離せ!」
少年が扉を引く。
だが、片脚が不自由な少年と成人男性では力が違う。
ラウルは強引に扉を押し開いた。
「男爵が死んだ。お前も聞いたはずだ」
「知ってる」
「なら、ここにいては危険だ」
「危険にしたのは、あんただろ!」
少年の声が路地へ響く。
ラウルの顔から表情が消えた。
「誰に何を話した」
「誰にも話してない」
「首飾りはどこだ」
ロックはヨアヒムを見る。
ヨアヒムもわずかに頷いた。
ラウルは少年の無事を確かめに来たのではない。
最初から首飾りが目的だった。
「知らない」
「男爵がお前へ預けたことは分かっている」
「帰れ」
「渡せば、もう二度と関わらない」
「嘘だ」
少年は扉の内側へ後退する。
ラウルも一歩踏み込んだ。
「男爵はもういない。お前を守る者もいないんだ」
「来るな!」
少年が杖を振り上げる。
ラウルはそれを片手で掴み、捻り上げた。
少年が痛みに顔を歪める。
ロックは物陰から飛び出した。
「その手を離してください」
ラウルが振り返る。
驚きは一瞬だった。
すぐに少年を突き飛ばし、腰へ手を伸ばす。
抜かれたのは、細身の短剣だった。
「なぜ、ここにいる」
「あなたと同じ理由です」
「首飾りを奪いに来たのか」
「話を聞きに来ました」
「嘘をつけ!」
ラウルが踏み込む。
先ほど男爵邸で見た商人の身のこなしではない。
短剣を身体の陰へ隠し、相手の腹へ突き込む。
街の喧嘩で身につく動きでもなかった。
人へ刃物を突き立てることに慣れている。
ロックは右足を引いた。
短剣の切っ先が上着を掠める。
左手でラウルの手首を外から押し、刃の向きを逸らす。
同時に肩を当てた。
ラウルの身体が扉へぶつかる。
「くっ!」
ラウルは短剣を引き戻そうとする。
ロックは手首を掴んだまま、肘を内側へ捻った。
短剣が石床へ落ちる。
だが、ラウルもすぐには諦めなかった。
空いた手でロックの顔を殴ろうとする。
ロックが頭を下げたところへ、ヨアヒムの腕が伸びた。
ラウルの襟首を掴み、そのまま地面へ引き倒す。
「大人しくしていろ」
「離せ!」
「短剣で子供を刺そうとした男が、何を喚いている」
「そいつが首飾りを盗んだんだ!」
ラウルは工房の中にいる少年を指さした。
「男爵から盗んだ。私は取り戻そうとしただけだ」
「だったら衛兵を連れてくればよかったでしょう」
ロックが言う。
「男爵家の醜聞を公にできるものか」
「男爵が死んだ直後に、短剣を持って押し入るより大きな醜聞ですか」
ラウルは答えない。
ヨアヒムが彼の両腕を背中へ回し、帯で縛った。
「逃げようとするな。次は肩を外す」
「盗賊風情が……」
「盗賊を利用していた商人に言われたくはないな」
ラウルの顔が強張った。
◇
少年は工房の壁際へ座り込んでいた。
落とした杖を拾おうとしているが、手が震えて上手く掴めない。
ロックは杖を拾い、手の届く場所へ置いた。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「押されただけだ」
少年はロックとヨアヒムを交互に見る。
「お前たちは誰だ」
「男爵を殺した犯人を探しています」
「衛兵じゃないのか」
「違います」
「盗賊?」
ロックはヨアヒムを見る。
ヨアヒムは肩をすくめた。
「そっちの男は否定できません」
「お前は?」
「冒険者です」
「冒険者が、どうして男爵の事件を調べてる」
「捕まった人が犯人ではないからです」
少年は目を細める。
「女盗賊のことか」
「知っているんですか」
「男爵様が死んだ後、近くで捕まったって聞いた」
「彼女は男爵を殺していません」
「分かってる」
ロックは少年の顔を見た。
「なぜ分かるんです」
「俺が男爵様に会った時、女なんていなかった」
「昨夜、男爵邸へ行ったんですね」
少年は唇を噛んだ。
逃げ道を探すように視線を動かす。
だが扉にはヨアヒムが立ち、その足元には縛られたラウルがいる。
「裏門から入りましたか」
「……うん」
「男爵に呼ばれた?」
「来いって言われた」
「どうやって連絡を」
「昼間、エルンストが来た」
男爵の御者だ。
「何時に屋敷へ着きました」
「鐘なんて気にしてない」
「空は?」
「暗くなってた。でも、夜中じゃない」
「雨は?」
「止んでた」
裏門の泥についた痕跡とも一致する。
「門は誰が開けました」
「最初から少し開いてた」
「男爵が開けておいた?」
「分からない」
「屋敷の中で、誰かに会いましたか」
「誰にも」
「書斎へは一人で?」
「男爵様が裏口の近くで待ってた」
男爵自身が少年を迎えた。
だから番犬も激しく吠えなかったのだろう。
一度だけ声を上げたという証言は、少年の匂いや姿に反応したものかもしれない。
「男爵は何のために呼んだんです」
少年は答えなかった。
視線が床へ落ちる。
「首飾りのことですか」
ラウルが顔を上げる。
「答えるな!」
ヨアヒムがラウルの肩を踏みつけた。
「お前には聞いていない」
「そいつは何も知らない!」
「では、なぜ首飾りを取りに来たんです」
ロックが問うと、ラウルは口を閉ざした。
少年は怯えた顔でラウルを見る。
その反応だけで、二人の関係が対等ではないと分かった。
「ラウルから情報を渡されていたんですか」
「違う」
「では、男爵とラウルの間に何があったのか知っている?」
「全部じゃない」
「知っている範囲で話してください」
「話したら殺される」
「すでに狙われています」
ロックは縛られたラウルを見る。
「この男だけとは限りません」
少年の顔から血の気が引く。
「昨夜、書斎には他にも誰かいましたか」
少年はしばらく黙っていた。
やがて小さく頷く。
「いた」
「誰です」
「知らない男」
「ラウルではない?」
「違う」
ラウルの目が動いた。
少年が別の男について話し始めることを恐れている。
「どんな人物でした」
「背が高かった。灰色の外套を着てた」
「顔は?」
「少ししか見てない」
「年齢は?」
「男爵様より若いと思う」
「髪の色は」
「暗かった」
「特徴は?」
少年は記憶を探るように目を閉じた。
「右手に指輪をしてた」
「どんな指輪です」
「黒い石が付いてた。丸じゃなくて……鳥みたいな形だった」
ヨアヒムの表情が変わる。
「家紋か」
「分かりません」
ロックはラウルを見る。
ラウルは視線を逸らした。
「知っていますね」
「知らない」
「今の話を聞いた時、少年ではなく指輪に反応しました」
「想像だ」
「では、その男が誰なのか聞かれても困りませんね」
「私は昨夜、男爵と二人で話していた。第三者など見ていない」
「少年が来る前に帰ったからでは?」
ラウルは黙った。
「あなたは九つの鐘より前に帰ったと言いました」
「帰った」
「少年は、その後に来た」
「そうだろう」
「それなら第三者を見ていなくても不思議ではない」
「そのとおりだ」
ラウルは勢い込んで同意する。
ロックは続けた。
「ですが、今の話だけでは、その男があなたと入れ替わりに来たのか、あなたがいる間から屋敷にいたのか分かりません」
ラウルの口が止まる。
「少年」
ロックは尋ねた。
「書斎へ入った時、その男はすでにいましたか」
「いた」
「ラウルもいましたか」
少年は床に伏せられた男を見る。
「馬車で帰るところを見た」
「どこで?」
「裏門へ行く途中。廊下の先にいた」
「ラウルは裏門から帰ったんですか」
「多分」
男爵邸での証言が崩れた。
ラウルは正門から帰ったと話している。
だが少年は、彼が屋敷の奥から裏門側へ向かうところを見た。
「嘘だ!」
ラウルが身体を起こそうとする。
「その子供は私を陥れようとしている!」
「どうして少年があなたを陥れるんです」
「首飾りを盗んだからだ!」
「男爵から預かったんだ!」
少年が叫ぶ。
「盗んでない!」
「証拠があるのか!」
「男爵様が書いた手紙がある!」
工房の中が静まり返った。
少年は自分の口を押さえた。
言うつもりのなかったことまで漏らしてしまったのだろう。
ロックは声を落とす。
「その手紙はどこにあります」
「……言えない」
「ラウルは知っていますか」
「知らないはずだ」
「首飾りと一緒ですか」
少年は答えなかった。
だが沈黙で十分だった。
「男爵は、首飾りと手紙を誰かへ渡すように言ったんですね」
「うん」
「誰へ?」
少年は迷った。
そして、小さく答える。
「知識神ラーダの神殿」
ロックは一度だけ瞬きをした。
公の神殿へ届けるなら、なぜ男爵自身が持っていかなかったのか。
なぜ妻や家令ではなく、隠している少年へ託したのか。
「神殿の誰にでも渡せばいいんですか」
「違う」
「指定された人物がいる?」
「神官じゃない」
「では、誰です」
「神殿の書庫で働いている学者」
「名前は?」
「アウグスト・リンデル」
ヨアヒムが低く唸った。
「聞いたことがある。古文書や商家の記録を調べている男だ」
「男爵とはどういう関係です」
「知らない」
「首飾りの中に秘密がある?」
少年は首を横に振った。
「首飾りそのものが印なんだって」
「何の印です」
「手紙が本物だと証明するための印」
宝石は財産ではなかった。
秘密の文書に添える証明品。
男爵は、自分の死を予期していた。
だから妻にも家令にも預けず、屋敷の外に隠していた少年へ託した。
「男爵は昨夜、手紙を渡したんですね」
「うん」
「その時、何と言いました」
「今夜を越えられなかったら、明日の朝に届けろって」
「越えられなかったら?」
「男爵様は、自分が殺されるかもしれないと思っていました」
少年の声が震える。
「怖がってた」
「誰を?」
「書斎にいた男を」
「それでも会ったんですか」
「逃げたら、もっと多くの人が死ぬって」
ロックはラウルを見る。
「何の話です」
「知らない」
「本当に?」
「私は債権の取引をしていただけだ」
「破られた帳簿の頁と関係がありますか」
ラウルは答えない。
帳簿。
債権。
偽の盗難。
首飾りを証明に使う手紙。
そして、知識神ラーダの神殿で古文書や商家の記録を調べる学者。
男爵は何かを調べていた。
それは単なる浮気でも、個人的な借金でもない。
「手紙を見せてください」
ロックが頼む。
「嫌だ」
「ここに置いておく方が危険です」
「お前たちが持ち逃げするかもしれない」
「それなら、あなたが持ったまま神殿へ向かいましょう」
少年はロックを見つめた。
「俺も?」
「男爵から頼まれたのは、あなたです」
しばらく考えた後、少年は小さく頷いた。
「分かった」
彼は杖を使って立ち上がり、階段へ向かう。
右脚を引きずりながら、一段ずつ上がり始めた。
ロックも後に続こうとした。
その時――
窓板が破裂した。
「伏せろ!」
ヨアヒムが叫ぶ。
鋭い風切り音。
一本の矢が工房の中へ飛び込み、少年の背中を狙う。
ロックは咄嗟に少年の身体を横へ押した。
矢は肩口を掠め、階段の柱へ突き刺さる。
少年が転倒する。
ロックはその身体を抱えて床へ伏せた。
「外だ!」
ヨアヒムが扉を蹴り開ける。
向かいの建物の屋根で、灰色の影が動いた。
長弓を持った人間が、煙突の裏へ身を隠す。
ヨアヒムが追い掛けようとする。
「待ってください!」
ロックが止めた。
二本目の矢が飛んできた。
扉の縁へ突き刺さる。
ヨアヒムはすぐに身を引いた。
「一人じゃない可能性があります」
「だが逃げるぞ」
「今は少年と手紙が先です」
狙撃手の目的は明らかだった。
少年の口封じ。
あるいは手紙の奪取。
こちらが事件の核心へ近づいた証拠でもある。
ロックは柱へ刺さった矢を見た。
鏃には黒い液体が塗られている。
「毒か」
ヨアヒムが顔をしかめる。
「掠っただけでも危険かもしれません」
ロックは少年の肩を確認した。
衣服は裂けている。
肌には細い傷が走っていた。
血が一筋だけ流れている。
「傷を洗います」
「大丈夫だ」
「毒矢です」
少年の顔が青ざめる。
ロックは水筒を取り出し、傷口へ惜しみなく水を流した。
布で血を拭い、傷の周囲を強く押す。
「痛い!」
「我慢してください」
「毒が入ったのか」
「分かりません。掠っただけなら助かります」
ラウルは床に伏せたまま、狙撃された窓を見ていた。
その表情には恐怖があった。
自分も殺されると分かっている顔だ。
「誰です」
ロックが尋ねる。
「知らない」
「今の狙撃手です」
「知らない!」
「あなたも狙われる可能性があります」
「私を解放しろ。ここから逃げる」
「解放した瞬間に口封じされますよ」
ラウルが黙る。
「書斎にいた男の名前を話してください」
「言えば、私が殺される」
「言わなくても殺されます」
「衛兵に保護させろ」
「衛兵の中に相手の手が伸びていないと、どうして断言できます」
男爵は衛兵でも家族でもなく、身元を隠した少年へ手紙を託した。
公的な経路を信用していなかった可能性が高い。
ラウルもそれを理解しているからこそ、顔を歪めた。
「ラウル」
少年が床から声を上げる。
「男爵様を売ったのか」
「違う」
「俺のことを教えただろ」
「教えていない」
「じゃあ、どうしてこいつらがここを知ってる!」
ラウルは答えない。
「男爵様は、あんたを信用してた」
「私は何もしていない!」
「嘘だ!」
少年の叫びが工房へ響く。
「首飾りがここにあるって、あんたしか知らなかった!」
ロックは少年を見る。
「男爵とラウル以外には?」
「エルンストも、箱を運んだことしか知らない。中身まで知ってたのはラウルだけだ」
「なぜラウルが知っていたんです」
「首飾りを用意したのが、こいつだからだ」
競売の仲介だけではない。
男爵は最初から、首飾りを秘密の証明品として使うために入手した。
その手配をしたのがラウルだった。
「夫人への贈り物という話は?」
「表向きだ」
少年が答える。
「人に聞かれても困らないように、そういうことにしたって」
夫人は偽装のために利用された。
そして何も知らされないまま、夫の愛人を疑った。
「ラウル」
ロックは縛られた男へ向き直る。
「あなたがリュンクスへ首飾りの情報を流したんですね」
「知らない」
「首飾りが男爵邸にないことも知っていた」
「知らない」
「それでも、彼女を屋敷へ向かわせた」
「知らないと言っている!」
「彼女が捕まれば、誰が得をします」
「私ではない!」
言葉が変わった。
否定するのではなく、自分以外の存在を示している。
「誰です」
ラウルは歯を食いしばる。
「書斎にいた男ですか」
ラウルの視線が、黒い石の指輪を思い出すように揺れた。
「名前を話してください」
「……オスカーだ」
ロックは聞き返した。
「家令の?」
「違う。同じ名なだけだ」
「正式な名前は?」
ラウルは恐怖に耐えるように目を閉じる。
「オスカー・ヴァルデン」
「何者です」
「表向きは金融商人だ」
「本当は?」
「金を貸すだけじゃない」
「何をしているんです」
「債務者を囲い込み、人を売る。密輸も、恐喝も、役人の買収もする」
ヨアヒムの目が鋭くなる。
「黒石の鳥の指輪か」
「知っているんですか」
「《夜鴉》だ」
ヨアヒムは短く答えた。
「王都の盗賊ギルドへ属さず、商人と貴族の間へ根を張る連中だ。表の契約を使って人間を食う」
「男爵は、彼らを調べていた?」
ラウルが頷く。
「債権の売買記録から、奴隷として売られた者の名を追っていた」
「アレクラストでは奴隷売買は公に認められていない」
「だから借金の返済契約に見せかける」
ヨアヒムが吐き捨てるように言う。
「奉公契約、身元保証、国外労働。名目はいくらでも作れる」
男爵が破られた帳簿の頁に記していたもの。
ラーダ神殿の学者へ届けようとした手紙。
秘密の証明に使われる首飾り。
すべてが一本の線で繋がった。
男爵は、人身売買の証拠を掴んでいた。
そのために殺された。
そしてリュンクスは、偽の侵入犯として利用された。
「オスカー・ヴァルデンは、男爵を殺しましたか」
「私は見ていない」
「ですが、そのつもりで来たと知っていた」
ラウルは答えなかった。
「あなたは男爵を売った」
「私は脅されていた!」
「何を脅されていたんです」
「家族だ」
ラウルの声が掠れる。
「妻と娘を殺すと言われた。男爵が何を掴んだか探れと命じられた」
「それでリュンクスを屋敷へ向かわせた?」
「ヴァルデンが、盗賊を一人用意しろと言った」
「あなたが選んだ」
「殺されるとは思わなかった!」
「男爵ではなく、リュンクスが?」
ラウルは目を逸らした。
盗賊一人へ罪を着せる。
捕らえられた後に何が起きるか、想像できなかったはずがない。
「首飾りの情報を流せば、彼女は屋敷へ入ると思った」
「屋敷にはないと知りながら」
「そうだ」
「男爵が殺されることも?」
「そこまでは聞かされていなかった」
「でも、今朝になって少年から首飾りを奪おうとした」
「ヴァルデンより先に証拠を手に入れれば、交渉できると思った」
自分と家族を守るため。
そのために別の人間を差し出し、さらに男爵の遺した証拠まで奪おうとした。
ラウルは主犯ではない。
だが無実でもなかった。
「手紙を回収します」
ロックは立ち上がった。
「それからラーダ神殿へ向かいます」
「狙撃手はどうする」
「外にはまだいるかもしれません」
「正面から出れば狙われるな」
ヨアヒムは工房の奥を見る。
「染物工房なら、排水路があるはずだ」
かつて染料を流していた水路。
大人が通れるほどではなくとも、裏手へ抜ける経路が残っている可能性がある。
「探しましょう」
ロックは少年へ肩を貸した。
「歩けますか」
「大丈夫」
「無理をしないでください」
「手紙は俺が持つ」
「ええ」
男爵が最後に選んだ使者は、この少年だった。
その役目を奪うべきではない。
ただし、一人では行かせられない。
外には毒矢を放つ狙撃手がいる。
屋敷には《夜鴉》と呼ばれる男が痕跡を残している。
衛兵の捜査はリュンクスの逮捕で止まり、真犯人はまだ自由に動いている。
ロックは階段の上を見た。
首飾りと手紙。
それをラーダ神殿へ届ければ、男爵が命を懸けた理由が明らかになる。
同時に、敵も手段を選ばなくなるだろう。
「ヨアヒムさん」
「何だ」
「男爵邸へ戻るのは後です」
「先に神殿か」
「ええ。犯人を捕まえる前に、男爵の証拠を生かします」
殺された者が遺したものを守る。
それがリュンクスを救う最短の道でもあった。
ロックたちは、毒矢の飛び込んだ窓から身を離す。
古い染物工房の床下では、長年使われなかった排水路が暗い口を開けていた。