低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
染物工房の床下には、古い排水路が残っていた。
かつて染料を含んだ水を流していた溝である。
石積みの水路は人一人が身体を屈めれば通れるほどの幅しかない。
しかも長年放置されていたせいで、底には泥と腐った布切れが溜まり、鼻を突く臭気が漂っていた。
「ここを通るのか」
少年が顔をしかめる。
「表から出れば、また矢が飛んできます」
ロックは短く答えた。
工房の窓へ近づく者はいない。
だが、外に人影がないからといって安全とは限らない。
相手は屋根から毒矢を射てる。
しかも、一人とは限らなかった。
「先頭は俺が行く」
ヨアヒムが水路を覗き込む。
「ロックは少年を連れろ。ケスラーは最後だ」
「私はこんな場所を通るのか」
縛られたラウルが嫌悪を露わにする。
「嫌なら置いていくぞ」
「そうしてくれ」
「置いていったら、狙撃手に殺されるでしょうね」
ロックが言うと、ラウルは口を閉じた。
自分も口封じの対象だと理解している。
だからこそ、工房へ残ることもできない。
「縄を外せ」
「逃げるでしょう」
「この状態では歩けない」
「足は縛っていません」
「転んだらどうする」
「自分で起きてください」
ラウルは何か言い返そうとした。
だが、ヨアヒムに睨まれて諦める。
「少年」
ロックは肩を貸したまま尋ねた。
「名前を聞いても?」
少年は一瞬だけ迷った。
「カイ」
「本名ですか」
「今は、それでいい」
「分かりました」
身元を明かしたくない理由がある。
だが、今はそこへ踏み込む必要はない。
カイは男爵が信頼した使者。
それだけで十分だった。
◇
排水路の石蓋を外す。
湿った冷気が下から吹き上がった。
ヨアヒムが先に降りる。
片手に短剣。
もう片方の手で壁を探りながら、慎重に進んでいく。
「途中で外へ出る穴があるはずだ」
「どこまで続いているんです」
「染物職人がいた頃なら、裏の水路までだろう」
「崩れていなければいいですね」
「縁起でもないことを言うな」
ロックはカイを支えながら降りた。
右脚が不自由なため、狭い水路を進むだけでも苦しそうだった。
「無理なら背負います」
「いらない」
「時間がありません」
「歩ける」
カイは強情だった。
男爵に託された手紙と首飾りを、自分の手で届けようとしている。
それが彼にとって、男爵への最後の恩返しなのだろう。
ロックは無理に奪わなかった。
後ろからはラウルの悪態が聞こえる。
「服が台無しだ」
「命より服が大事ですか」
「この上着がいくらすると思っている」
「知りません」
「お前の装備一式より高い」
「今は僕の装備の方が役に立っています」
返す言葉を失ったのか、ラウルは黙った。
◇
水路は想像以上に長かった。
壁には青や赤の染料が染みつき、暗闇の中でも奇妙な模様を作っている。
所々から木の根が入り込み、足元の泥へ絡みついていた。
ヨアヒムが先頭で立ち止まる。
「分かれ道だ」
細い排水路が左右へ分かれている。
片方は緩やかに下り、もう片方は壁際を沿うように伸びていた。
「どちらが外へ?」
「さあな」
「染料を流すなら低い方では」
「低い方が詰まっていたら終わりだ」
ロックは壁へ手を当てた。
片方から、ごく弱い風が流れてくる。
「右です」
「分かるのか」
「風があります」
ヨアヒムが右側へ身体を滑り込ませる。
「確かに流れているな」
後に続こうとした時。
上から小さな音がした。
カリッ
石の上を、何かが擦る音。
ロックは足を止めた。
「待ってください」
「どうした」
「上に誰かいます」
全員が黙る。
頭上には工房の床。
いや。
すでに工房の外へ出ているはずだ。
今いる場所の上は、裏路地か別の建物。
再び音がする。
今度は、明らかな足音だった。
誰かが水路の上を歩いている。
「追われています」
ロックが囁く。
「排水路に入ったことが見つかったか」
「工房の床を調べられたんでしょう」
「急ぐぞ」
ヨアヒムが進み始める。
だが、カイの足では速度を上げられない。
「背負います」
「だから――」
「手紙を届けるんでしょう」
カイは歯を食いしばった。
数秒だけ迷い、やがて杖を握り直す。
「落とすなよ」
「それはこっちの台詞です」
ロックはカイを背負った。
軽い。
年齢のわりに、あまりにも軽かった。
十分に食べてこなかった身体だ。
「首飾りは持っていますか」
「まだ二階だ」
「え?」
「床板の下に隠してある」
ロックの足が止まる。
「先ほど取りに行こうとしたのは?」
「手紙だけだ」
「首飾りは?」
「場所を言う前に矢が飛んできた」
ヨアヒムが振り返る。
「先に言え」
「聞かれなかった」
「屁理屈を言っている場合か」
「男爵様は、首飾りと手紙を一緒に届けろって言った」
工房へ戻らなければならない。
だが今は狙撃手がいる。
そして、こちらを追っている者までいる。
「手紙だけでは駄目なんですか」
「駄目だ」
「どうして」
「首飾りが証明になるからだ」
「手紙が本物だという?」
「それだけじゃない」
カイはロックの背中で息を整えた。
「あれは男爵様の物じゃない」
「誰の物です」
「名簿に載ってる人の一人が持ってた」
「名簿?」
「売られた人たちの」
ロックは足を止めずに聞く。
「首飾りの持ち主は?」
「女の人」
「名前は?」
「エルマ」
ラウルが後ろで息を呑んだ。
それをロックは聞き逃さなかった。
「知っていますね」
「知らない」
「今、反応しました」
「名前くらいどこにでもある」
「その人はどうなったんです」
カイは答えなかった。
代わりに、ラウルが小さく呟く。
「死んだ」
水路の中が静まる。
「なぜ知っているんです」
「帳簿に名前があった」
「あなたは見たんですね」
「男爵に見せられた」
「どんな人でした」
ラウルはしばらく黙った。
「仕立屋の娘だ」
「借金で売られた?」
「父親が借金をした」
「それで娘が」
「奉公契約という形で連れていかれた」
ヨアヒムが吐き捨てる。
「奉公先が国外だったわけか」
「ああ」
「戻ってこなかった」
「戻る前に死んだ」
「病気ですか」
ラウルは答えない。
その沈黙で十分だった。
まともな死に方ではない。
「首飾りは、彼女の物だった」
カイが言う。
「男爵様が買い戻した」
「競売に出ていたのは、持ち主が死んだから?」
「そうだ」
首飾りは単なる証明品ではない。
人身売買の被害者が実在した証拠。
名簿に書かれた名前。
競売に出された遺品。
そして、その流れを示す手紙。
男爵はそれらをラーダ神殿の学者へ届けようとしていた。
「首飾りを残してきたなら、戻るしかありませんね」
ロックが言う。
ヨアヒムは振り返らない。
「今戻れば待ち伏せだ」
「でも、なければ男爵の証拠が不完全になります」
「手紙だけ先に届ける」
「その間に首飾りを奪われます」
「なら、どうする」
ロックは少し考えた。
敵は工房を監視している。
排水路にも気づいた。
なら、こちらが神殿へ向かうことも予想するはずだ。
正面からラーダ神殿へ行けば、途中で襲われる。
カイを守りながら戦うのは難しい。
「役割を分けます」
「どう分ける」
「ヨアヒムさんはカイと手紙を神殿へ」
「お前は?」
「工房へ戻ります」
カイが背中で身体を動かす。
「一人で?」
「一人の方が動きやすい」
「狙撃手がいる」
「だから、正面からは戻りません」
ロックは水路の壁を見た。
染物工房の排水路は、この一本だけではない。
周囲には別の廃工房が並んでいる。
水路はどこかで繋がっているはずだった。
「別の工房から回り込みます」
「首飾りの場所を知らないだろ」
「カイに聞きます」
「教えたら、お前が持ち逃げするかもしれない」
「今さらですか」
カイは黙った。
ロックは続ける。
「僕が首飾りを盗むつもりなら、ラウルから助ける必要はありませんでした」
「それは……」
「男爵との約束を守りたいんでしょう」
「うん」
「なら僕を使ってください」
カイの腕から力が抜けた。
「二階の寝床の下だ」
「床板?」
「三枚目。釘が一本だけ錆びてない」
「分かりました」
「青い布に包んである」
「手紙と同じ場所ではないんですね」
「一緒に盗られないように分けた」
「良い判断です」
ラウルが鼻で笑う。
「子供を褒めている場合か」
「あなたより信用できます」
「何だと」
「少なくとも、彼は自分の都合で他人を売っていない」
ラウルは何も言えなくなった。
◇
やがて、水路の先に薄明かりが見えた。
鉄格子の向こうを、小さな水路が流れている。
貴族街の下水道ほど大きくはない。
市場の排水を集める水路だった。
「外へ出られる」
ヨアヒムが鉄格子へ手を掛ける。
錆びついているが、完全には固定されていない。
全員で押すと、鈍い音を立てて外れた。
まずヨアヒムが出る。
周囲を確認し、手招きする。
「誰もいない」
ロックはカイを背負ったまま外へ出た。
ラウルも泥まみれになりながら続く。
出口は染物工房から二本ほど離れた裏路地だった。
近くに人影はない。
だが、遠くで複数の足音が聞こえている。
「追手が水路の入口を探しています」
「時間がないな」
ロックはカイを下ろした。
「ここからラーダ神殿までは?」
「歩けば半刻以上だ」
ヨアヒムが答える。
「カイの足ではもっとかかる」
「馬車を使えば目立ちます」
「盗賊ギルドの隠れ家を経由する」
「近くにあるんですか」
「王都中にあると思え」
さすが盗賊ギルドだった。
「ラウルも連れていってください」
「お前は本当に一人で戻るのか」
「ええ」
「狙撃手を見つけても追うな」
「分かっています」
「分かっていない顔だな」
「首飾りを取ったら、すぐ逃げます」
ヨアヒムは信用していない顔をした。
それでも、今は別案がない。
「これを持っていけ」
ヨアヒムが小さな笛を投げる。
「危なくなったら吹け」
「誰か来るんですか」
「近くに俺の部下がいればな」
「いなければ?」
「音が鳴るだけだ」
「便利ですね」
「盗賊は神官じゃない。奇跡は起こせん」
ロックは笛を懐へ入れた。
「カイ」
ロックが呼ぶと、少年が振り返る。
「必ず首飾りを持っていきます」
「なくすなよ」
「分かっています」
「壊すな」
「善処します」
「善処じゃ駄目だ」
カイは不安そうだった。
それでも、最後には小さく頷く。
「頼む」
「任せてください」
◇
ヨアヒムたちは路地の奥へ消えた。
ロックは一人になる。
遠くでは追手の足音が続いている。
敵はまだ、全員が排水路を抜けたとは気づいていない。
今なら逆に工房へ戻れる。
ロックは廃工房の壁へ手を掛けた。
正面の路地は使わない。
屋根へ上がり、建物伝いに進む。
狙撃手が屋根を使うなら、自分も同じ高さへ出る。
相手にとって安全な場所を、安全なままにしておく必要はなかった。
壁の出っ張りへ足を掛け、窓枠を掴む。
音を立てずに二階へ上がった。
隣の工房の屋根へ出る。
夕暮れが近づき、王都の屋根は薄い橙色に染まり始めていた。
前方に、染物工房の煙突が見える。
その屋根の上で。
灰色の外套を着た人影が、こちらへ背を向けていた。
狙撃手ではない。
長弓を持っていない。
その男は工房の窓から中を覗き、誰かへ合図を送っている。
そして右手には。
黒い石を嵌めた、鳥の形の指輪があった。
ロックは屋根へ伏せる。
オスカー・ヴァルデン。
男爵の書斎にいた男。
事件の中心にいる《夜鴉》が、自ら工房へ来ていた。
首飾りを奪うために。
ロックは短剣へ手を添えた。
推理はもう十分だった。
ここから必要なのは。
相手より先に動き、証拠を奪い返し、生きて逃げることだった。