低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
ロックは屋根の陰へ身体を沈めた。
灰色の外套をまとった男は、染物工房の窓から中を覗いている。
右手には黒い石の指輪。
鳥が翼を畳んだような意匠だった。
オスカー・ヴァルデン。
男爵の書斎にいた男。
そして、男爵が恐れていた相手。
ロックは短剣へ触れたまま、すぐには動かなかった。
あの男を倒せば終わり。
そんな状況ではない。
ヴァルデンは屋根に一人で立っている。
だが工房の中へ合図を送っていた。
つまり、仲間がいる。
狙撃手もまだ近くにいるかもしれない。
今ここで戦えば、首飾りを回収する前に包囲される。
優先するべきなのは証拠だった。
ロックは屋根瓦の隙間から、工房の周囲を観察する。
正面の路地には誰もいない。
裏口にも人影は見えない。
だが、一階の割れた窓の奥で影が動いた。
一人。
二人。
少なくとも、工房の中には二人いる。
ヴァルデンを合わせて三人。
狙撃手が別にいるなら四人。
「正面からは無理ですね」
ロックは小さく呟いた。
相手より強い必要はない。
相手より先に目的を果たせばいい。
◇
ヴァルデンが屋根から身を引いた。
隣の建物へ渡り、裏側へ降りていく。
工房の内部を調べさせ、自分は逃げ道を押さえるつもりだろう。
ロックは男が完全に見えなくなるまで待った。
それから屋根を這うように移動する。
カイの寝床は二階。
床板の三枚目。
釘が一本だけ錆びていない。
問題は、そこへどう入るかだった。
二階の窓は先ほど毒矢で破られている。
開口部としては使える。
だが、そこから入れば一階にいる男たちへ音を聞かれる。
ロックは屋根の上を探った。
古い染物工房には、染料を煮るための大きな炉がある。
その煙を逃がすため、煙突も太い。
しかし、人が通れるほどではない。
代わりに屋根の端に、小さな換気窓があった。
湿気と熱気を逃がすためのものだろう。
板で塞がれているが、釘は古い。
ロックは腰の道具袋から細い金具を取り出した。
板と屋根の隙間へ差し込み、少しずつ持ち上げる。
力を掛けすぎれば、乾いた木が割れる。
音が出る。
だから急がない。
一本。
二本。
三本。
古い釘をゆっくり浮かせる。
板が外れた。
中は暗い。
だが、二階の梁までは手が届く。
ロックは身体を滑り込ませた。
◇
二階には誰もいなかった。
一階から、荒々しく物を動かす音が聞こえる。
「箱はどこだ」
「分からねえ。上じゃないのか」
「上は後だ。先に床下を探せ」
男たちは排水路を調べている。
ロックたちがそこから逃げたと気づいたのだろう。
カイの隠し場所までは知らない。
だが時間の問題だった。
ロックは梁の上を進む。
足の裏へ体重を分散させ、古い木材を軋ませない。
二階の床へ降りる。
寝床はすぐ見つかった。
薄い毛布。
藁を詰めた粗末な寝台。
壁際には木箱が一つ。
暮らしに必要な物は、それだけだった。
ロックは寝台をわずかに持ち上げる。
床板を数える。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
釘は四本。
そのうち一本だけ、確かに錆びていない。
新しく打ち直した跡がある。
ロックは金具を差し込み、釘を抜く。
床板を持ち上げた。
中には青い布包みがあった。
手に取る。
軽い。
布を少しだけ開くと、銀色の鎖と青い宝石が見えた。
男爵夫人が見た首飾り。
リュンクスが盗みに入った目的。
そして、死んだ女性が実在した証拠。
ロックは布を閉じ、懐へ入れた。
その瞬間。
一階の音が止まった。
「今、上で音がしたぞ」
気づかれた。
◇
階段を上る足音。
一人。
続いてもう一人。
ロックは寝台を戻した。
首飾りを取った痕跡までは隠せない。
だが、すぐに見つからなければいい。
部屋を見回す。
窓。
換気口。
階段。
逃げ道は三つ。
だが換気口へ戻るには時間が掛かる。
窓から飛び出せば、狙撃される可能性がある。
階段は敵が上がってきている。
ロックは木箱を開いた。
中には古着と布切れ。
染物工房らしく、使いかけの染料壺もある。
赤。
青。
黄色。
ほとんど乾いている。
その中に一つだけ、蓋が閉じられた小壺があった。
開ける。
濃い黒色の粉。
染料ではない。
煤と細かな灰を混ぜたものだった。
カイが火を起こす時に使っていたのだろう。
ロックは部屋の隅にあった水差しを手に取る。
黒い粉を入れ、軽く振った。
階段の足音が近づく。
「上にいるぞ」
「窓を見ろ」
ロックは水差しを階段脇へ置いた。
それから細い紐を取出し、取っ手へ結ぶ。
反対側を寝台の脚へ回す。
短い仕掛けだった。
大した罠ではない。
人を傷つけるためでもない。
ただ、一瞬だけ視界と足を奪う。
それで十分だった。
ロックは窓の下へ移動し、壁へ背をつけた。
足音が階段を上り切る。
一人目の男が部屋へ顔を出した。
「誰だ!」
男はロックを見つける。
同時に踏み込む。
足が紐へ引っ掛かった。
水差しが倒れる。
黒い水が男の顔と胸へ飛び散った。
「うわっ!」
男は目を押さえる。
後ろから来た仲間がぶつかる。
二人が階段の上で絡み合った。
ロックは走った。
一人目の肩を踏み台にする。
「貴様!」
二人目が腕を伸ばす。
ロックは身体を捻り、その手を躱した。
階段の手摺へ片足を掛ける。
そのまま一階へ飛び降りた。
着地と同時に転がる。
背後で怒鳴り声が響く。
「逃がすな!」
◇
一階にはもう一人いた。
排水路の蓋を調べていた男だ。
男は棍棒を持っている。
ロックが降りてくるのを見ると、迷わず振り上げた。
正面は塞がれた。
裏口までは男の横を抜けなければならない。
ロックは走る速度を落とさない。
男が棍棒を振る。
狙いは頭。
大きな一撃だった。
当たれば終わる。
だが、大きく振った武器は途中で止められない。
ロックは床へ低く滑り込んだ。
棍棒が頭上を通り過ぎる。
男の足元へ入り、片足を払う。
「ぐっ!」
男が体勢を崩す。
ロックは起き上がりながら背中を押した。
男は染料桶へ頭から突っ込んだ。
空の桶が派手な音を立てて転がる。
「この野郎!」
階段から二人が降りてくる。
ロックは裏口へ向かった。
扉には閂が掛かっている。
外す。
扉を開ける。
そこに、灰色の外套が立っていた。
ヴァルデンだった。
◇
「やはり戻ってきたか」
ヴァルデンは落ち着いていた。
手には細身の剣。
屋根で見た時と同じ黒い石の指輪が光っている。
「首飾りを渡せ」
「何のことでしょう」
「子供の使う手ではない。余計なことを覚えるな」
背後から足音が迫る。
前にはヴァルデン。
後ろには三人。
ロックは裏口の敷居で立ち止まった。
「男爵を殺しましたか」
「今さら聞くことか」
「答えないんですね」
「答えを知ってどうする」
「衛兵へ渡します」
ヴァルデンは笑った。
「衛兵が君を信じると思うか」
「証拠があります」
「その証拠を持ったまま、ここから出られればな」
ヴァルデンは剣先をわずかに上げる。
背後の男たちも間合いを詰める。
正面突破はできない。
ロックは周囲を見る。
裏路地。
積まれた薪。
崩れかけた塀。
屋根から下がる古い滑車。
染め上げた布を吊るすために使っていたものだろう。
滑車には太い縄が残っている。
縄の先は二階の窓の近くへ繋がっていた。
ロックは左手を懐へ入れた。
ヴァルデンの視線が動く。
「首飾りを出せ」
「嫌です」
「なら、その手ごと落とす」
ヴァルデンが踏み込んだ。
ロックは懐から何かを投げる。
青い布包み。
ヴァルデンの目がそちらへ向く。
「取れ!」
背後の男が叫ぶ。
布包みは薪の山へ落ちた。
ヴァルデンが一瞬だけ進路を変える。
それが狙いだった。
中身は首飾りではない。
カイの部屋から拾った古い鎖と石を、布切れで包んだだけの偽物。
ロックは滑車の縄を掴んだ。
短剣で留め縄を切る。
上に吊られていた古い染料桶が落下した。
「下がれ!」
ヴァルデンが叫ぶ。
桶が路地へ叩きつけられる。
中に残っていた染料の粉と埃が、一気に舞い上がった。
灰色の雲が視界を覆う。
ロックは塀へ走った。
「逃がすな!」
声は聞こえる。
だが相手も見えていない。
ロックは塀へ足を掛ける。
上へ。
崩れた煉瓦を掴む。
向こう側へ身体を投げ出す。
着地した先は別の工房の裏庭だった。
そのまま走る。
止まらない。
振り返らない。
◇
三本目の路地を曲がったところで、背後から風切り音がした。
矢が壁へ突き刺さる。
狙撃手だ。
まだ屋根にいる。
ロックは建物の陰へ飛び込む。
二本目は来ない。
角度が切れた。
だが、ヴァルデンたちもすぐ追ってくる。
ロックは懐からヨアヒムにもらった笛を取り出した。
強く吹く。
甲高い音が路地へ響く。
一度。
二度。
三度。
返事はない。
「本当に音が鳴るだけですね」
ロックは苦笑した。
だが、笛の音を聞いたのは仲間だけではない。
周囲の家々で戸が開く。
「何だ?」
「火事か?」
「誰か呼んだのか?」
人の声が増える。
窓から顔を出す者もいる。
ヴァルデンたちにとって、人目は邪魔になる。
ロックは大通りへ向かった。
人の多い場所へ出れば、相手は簡単には刃を振るえない。
後ろから足音が追ってくる。
近い。
ロックは角を曲がる。
その先に、荷車が停まっていた。
積まれているのは染料袋。
御者は笛の音に驚き、周囲を見回している。
「すみません!」
ロックは荷車へ飛び乗った。
「何だお前!」
「後で謝ります!」
荷袋の陰へ潜り込む。
直後、ヴァルデンの男たちが路地から飛び出してきた。
「小僧を見なかったか!」
「知らねえよ!」
「灰色の服を着た奴だ!」
「勝手に荷車へ触るな!」
御者が怒鳴る。
追手は荷車の中を調べようとする。
その時、近くから別の声が響いた。
「そこで何をしている!」
巡回中の衛兵だった。
笛の音と騒ぎを聞きつけたらしい。
「何でもありません」
「刃物を持って何でもないわけがあるか!」
追手の足が止まる。
ロックは荷袋の隙間から様子を窺う。
ヴァルデンの姿はない。
追ってきたのは手下だけ。
主人はすでに退いたのだろう。
衛兵が男たちを問い詰める。
その間に荷車が動き出した。
「まったく、何なんだ今日は」
御者が悪態をつく。
ロックは荷袋の陰で息を整えた。
懐には、本物の首飾りがある。
奪われていない。
壊れてもいない。
これでカイとの約束は果たせる。
◇
しばらくして、ロックは荷車から降りた。
御者へ事情をすべて話すわけにはいかない。
代わりに、懐から小銭を渡す。
「ご迷惑をおかけしました」
「本当だよ。もう勝手に乗るな」
「気をつけます」
「次にやったら衛兵へ突き出すぞ」
「はい」
御者は不機嫌なまま去っていった。
ロックは周囲を確認する。
ここは北市場の外れ。
ラーダ神殿へ向かう道からは少し外れている。
だが追手を撒くには都合がいい。
ロックは首飾りの包みを確かめた。
青い布。
銀の鎖。
深い青色の宝石。
見た目は美しい。
だが、今では一人の女性が売られ、死んだことを示す遺品でもある。
男爵はこれを買い戻した。
名簿と手紙だけでは、数字や文字として処理されてしまう。
だから遺品を添えた。
そこに人間がいたことを示すために。
ロックは布を閉じた。
「届けますよ」
誰に言うでもなく呟く。
男爵へ。
カイへ。
あるいは、首飾りの元の持ち主へ。
それからラーダ神殿へ向かって歩き出した。
◇
神殿へ近づくにつれ、辺りは明るくなっていく。
夕暮れの中でも、知識神の神殿には灯りが多い。
夜も書物を読む者のためだろう。
石造りの正面階段。
柱に刻まれた文字。
出入りする神官や学者。
ここまで来れば、さすがにヴァルデンも簡単には襲えない。
ロックは少しだけ息を緩めた。
しかし、階段の下で足を止める。
ヨアヒムの姿が見えない。
カイもいない。
ラウルもいない。
先に着いているはずだった。
ロックは神殿の門番へ近づいた。
「アウグスト・リンデルという学者に会いたいのですが」
「面会の約束は?」
「ありません」
「用件は」
「バルテル・レーヴェン男爵からの届け物です」
門番の表情が変わった。
「少し待て」
神殿の中へ入っていく。
ほどなくして、別の神官が現れた。
年配の男だった。
「君が届け物を?」
「僕だけではありません。先に、足の悪い少年と灰色の髪の男が来ているはずです」
神官は眉をひそめる。
「そのような者は来ていない」
「本当に?」
「少なくとも正門からは」
嫌な予感がした。
ヨアヒムは盗賊ギルドの隠れ家を経由すると言っていた。
多少遅れることはある。
だが、ラーダ神殿までの距離を考えても遅すぎる。
「裏門はありますか」
「あるが、関係者しか使わない」
「アウグスト・リンデルさんは神殿に?」
神官の顔が曇る。
「それが……」
「何かあったんですか」
「リンデル殿は今日、神殿へ来ていない」
「休みですか」
「連絡がない」
「住居は?」
「神殿の裏手だ」
「案内してください」
「なぜだ」
ロックは首飾りの包みを見せた。
「男爵は殺されました」
神官の表情が強張る。
「この首飾りと手紙を、リンデルさんへ届ける予定だったそうです」
「手紙はどこに」
「僕の仲間が持っています」
「その仲間も来ていないのか」
「ええ」
神官はすぐに若い神官を呼ぶ。
「衛士を二人。リンデル殿の住居へ向かう」
「僕も行きます」
「危険かもしれない」
「だからです」
神官はロックを見つめた。
少年を連れていくべきか迷っている。
だが、首飾りを持っているのはロックだ。
「離れるな」
「分かりました」
◇
リンデルの住居は神殿の裏手にあった。
二階建ての小さな家。
書庫で働く学者らしく、窓辺に本が積まれている。
だが灯りはついていない。
扉も閉まっている。
神殿の衛士がノックした。
「リンデル殿」
返事はない。
もう一度。
やはり返事はなかった。
衛士が扉へ手を掛ける。
「鍵が開いている」
全員の表情が変わった。
衛士が剣を抜く。
扉を押し開ける。
室内は暗い。
床には本が散乱している。
棚が倒され、机の引き出しがすべて開けられていた。
荒らされている。
ロックは入口から部屋を見た。
「リンデルさん!」
神官が声を上げる。
奥から返事はない。
衛士が一部屋ずつ調べる。
やがて二階から声が響いた。
「こちらへ!」
ロックたちは階段を上る。
寝室の床に、一人の男が倒れていた。
痩せた中年の男。
眼鏡が割れている。
頭の近くには血が広がっていた。
神官が駆け寄り、首筋へ指を当てる。
「生きている」
ロックは息を吐いた。
「すぐ治療を」
「分かった」
衛士が男を抱き起こす。
その時。
リンデルの指がわずかに動いた。
目を開く。
焦点の合わない目で周囲を見る。
「……手紙」
掠れた声だった。
「男爵の……」
「手紙を知っているんですね」
ロックが近づく。
リンデルは頷こうとする。
「取られた……」
「何を?」
「名簿の……写し……」
「誰にです」
リンデルの唇が震える。
「神殿の……中に……」
そこで意識を失った。
ロックは神官を見る。
神官の顔から血の気が引いている。
敵は外だけではない。
衛兵だけでもない。
ラーダ神殿の内部にも、《夜鴉》へ通じる者がいる。
だから男爵は、正式な届け出ではなくカイを使った。
だからリンデルも襲われた。
そして、ヨアヒムたちはまだ神殿へ到着していない。
ロックは窓から外を見た。
日が沈み始めている。
王都の通りに長い影が伸びていた。
首飾りは守った。
だが手紙は、まだ届いていない。
ヨアヒムとカイは。
その途中で、敵に捕まった可能性があった。