低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
水は、壁際の排水口から勢いよく流れ込んだ。
沈砂槽を満たすほどの量ではない。
だが、円形の足場を濡らし、長年積もった泥を浮かせるには十分だった。
「足元を見ろ!」
ヴァルデンが叫ぶ。
遅い。
配下の一人が踏み込んだ瞬間、靴底を滑らせた。
身体が傾く。
剣先が石床を叩く。
そこへ、暗がりからヨアヒムが飛び込んだ。
男の手首を蹴り上げる。
剣が宙を舞った。
「一人!」
ヨアヒムが数える。
「まだ早いですよ!」
ロックは声を返しながら、足場の外周へ走った。
ヴァルデンの狙いは首飾りと手紙。
ならば、ロックを追わずにはいられない。
「小僧を止めろ!」
ヴァルデンの命令で、二人がロックへ向かう。
一人は短剣。
もう一人は棍棒。
濡れた石床を警戒し、歩幅を狭くしている。
判断は正しい。
だが遅い。
ロックは壁際の金具へ手を伸ばした。
あらかじめ通しておいた麻紐を引く。
足場の一部へ積んであった砂袋が倒れた。
乾いた砂が泥水の上へ広がる。
追手たちは反射的に足を止めた。
罠だと思ったのだろう。
「罠ではありませんよ」
ロックは砂の上を踏んで駆け抜ける。
そこだけは滑らない。
罠ではない。
自分の通り道を作っただけだ。
「ふざけるな!」
棍棒の男が追う。
ロックは振り返らない。
円形の足場を半周。
途中に、壁から突き出した古い鉄環がある。
その横を通り過ぎる瞬間、腰の短剣で細い縄を切った。
頭上から布袋が落ちる。
棍棒の男が腕で受けた。
袋が裂ける。
中から白い粉が飛び散った。
「うっ!」
石灰ではない。
乾燥させた泥と灰。
目へ入れば痛むが、命を奪うほどのものではない。
男が顔を覆う。
ロックは反転した。
両手でスタッフスリングを握り、男の膝裏へ横から叩き込む。
男が倒れた。
短剣を持つもう一人が迫る。
突き出された刃を、ロックは杖の柄で外へ弾いた。
受け止めない。
向きを変える。
相手の力を横へ逃がし、そのまま足元へ潜る。
肩で腰を押す。
男の上体が前へ流れた。
滑る泥。
踏ん張れない足。
男は中央の水溜まりへ落ちた。
深くはない。
だが腰まで泥水へ沈む。
「二人!」
ヨアヒムの声。
「そちらの一人を数えてください!」
「細かいな!」
◇
反対側では、ラーダ神官が配下の一人を押さえていた。
年配の神官は、短い棍棒を両手で構えている。
足運びに無駄がない。
法衣を着た学者には見えなかった。
相手の剣が振り下ろされる。
神官は半歩だけ下がる。
刃が石床を打った瞬間、棍棒を男の手首へ叩きつけた。
「ぐっ!」
剣が落ちる。
若い神官が横から飛びつき、男の腕を背中へ回した。
「抵抗するな!」
「神官が二人掛かりか!」
「知識は共有するものだ!」
「今それを言いますか!」
ロックは思わず叫んだ。
年配の神官が怒鳴り返す。
「黙って自分の相手をしろ!」
もう一人。
狙撃手が壁際へ下がっていた。
地下では長弓を十分に引けない。
持っているのは小型の弩だった。
狙いはロック。
ロックは射線へ気づいた。
だが、避けられない。
足場の外周。
右には壁。
左には水溜まり。
正面には立ち上がろうとする男。
弩の弦が鳴った。
矢が飛ぶ。
直前。
ヨアヒムが蹴り上げた剣が、石床を滑ってきた。
ロックはその剣の腹をスタッフスリングで跳ね上げる。
矢が剣身へ当たった。
鋭い音。
軌道が逸れ、壁へ突き刺さる。
一瞬遅れて、ロックの背筋に冷たい汗が流れた。
「今のは偶然か?」
ヨアヒムが聞く。
「半分くらい!」
「残り半分は何だ!」
「必死でした!」
「正直でよろしい!」
◇
ヴァルデンは動いていなかった。
配下が次々に崩される中でも。
ただロックを見ている。
細身の剣を下げたまま。
「なるほど」
低い声だった。
「男爵の周りを嗅ぎ回っていたのは、運のいい子供だと思っていた」
「間違ってはいませんよ」
「罠を作ったのもお前か」
「皆に手伝ってもらいました」
「謙遜するな」
「本当です。一人では水門も動かせません」
ヴァルデンの視線が、沈砂槽の左右へ向く。
ヨアヒム。
二人の盗賊。
二人の神官。
そしてロック。
「自分より強い者を集めたか」
「一人で勝てないなら、そうします」
「卑怯だとは思わないのか」
「あなたが五人で来たので」
ヴァルデンの口元がわずかに歪んだ。
「面白い」
次の瞬間。
ヴァルデンが消えた。
そう見えるほど速かった。
濡れた足場をものともせず、一直線にロックへ迫る。
細身の剣が閃いた。
ロックはスタッフスリングを立てる。
受け止めた瞬間。
両腕へ衝撃が走った。
杖ごと押し込まれる。
技量だけではない。
力もある。
ロックは正面から競わなかった。
刃を滑らせ、身体を横へ逃がす。
だがヴァルデンは追ってくる。
二撃目。
三撃目。
いずれも急所を狙っていた。
試す剣ではない。
殺す剣。
ロックは後退する。
一歩。
二歩。
三歩。
背後は中央の水溜まり。
逃げ場がなくなる。
「終わりだ」
ヴァルデンが踏み込む。
ロックは青い布包みを投げた。
高く。
ヴァルデンの頭上へ。
男の視線が動く。
ほんの一瞬。
ロックは水溜まりへ飛び込んだ。
「何?」
腰まで泥水に沈む。
ヴァルデンは足場の縁で止まった。
青い包みが落ちてくる。
左手で受け止める。
そのままロックへ剣を向けた。
「逃げたつもりか」
「いいえ」
ロックは水の中で紐を引いた。
ヴァルデンの足元。
石板の隙間から金属音がした。
足場の縁へ固定されていた鉄鎖が外れる。
古く脆くなった石板が傾いた。
ヴァルデンの身体が沈む。
「っ!」
男は咄嗟に跳んだ。
完全には落ちない。
水溜まりの中へ片足を入れただけで耐える。
やはり強い。
だが、それで十分だった。
ヨアヒムが背後から迫っている。
ヴァルデンは振り向きざまに剣を払った。
ヨアヒムは短剣で受ける。
火花が散る。
「なるほど。お前が《灰鼠》か」
「鴉に名前を覚えられるとは光栄だ」
「地下を這うしかできない鼠が」
「飛べない場所へ降りてきた鳥よりはましだろ」
ヨアヒムが押す。
ヴァルデンが押し返す。
二人の刃が激しく交差した。
一撃。
二撃。
三撃。
ロックには、すべてを目で追えない。
ヨアヒムはシーフとして王都の裏を生き抜いてきた男。
ヴァルデンも同等の使い手。
正面から戦えば、ロックが割って入る余地はない。
だから。
正面からは入らない。
◇
ロックは泥水の中を進んだ。
水面下には、古い排水溝がある。
事前に位置を確かめていた。
足先で縁を探す。
見つける。
身体を沈め。
鉄の蓋へ手を掛ける。
少しだけ持ち上げた。
泥水が排水溝へ吸い込まれ始める。
水面が渦を巻く。
ヴァルデンの片足は、まだ水溜まりの中。
流れが足首へ絡む。
ほんのわずかな力。
だが剣士同士の均衡を崩すには、それでいい。
ヴァルデンの重心が動いた。
ヨアヒムは見逃さなかった。
短剣を剣の鍔元へ当てる。
捻る。
細身の剣がヴァルデンの手を離れた。
ヴァルデンはすぐに後退する。
だが、背後にはロックがいた。
泥水の中から立ち上がり、スタッフスリングを横薙ぎに振る。
狙いは頭ではない。
手首。
黒い石の指輪。
杖が当たる。
指輪が外れ、水へ落ちた。
「貴様!」
ヴァルデンの拳がロックの頬へ入った。
視界が揺れる。
身体が水へ倒れる。
口の中に血の味が広がった。
だが、ロックは指輪を掴んでいた。
泥水の底へ沈む前に。
「ロック!」
ヨアヒムの声。
ヴァルデンがロックへ手を伸ばす。
首を掴むつもりだ。
その腕へ、年配の神官の棍棒が叩き込まれた。
「少年から離れろ!」
さらに若い神官が背後から組みつく。
ヴァルデンは振り払おうとした。
だが片足は水の中。
足場は滑る。
ヨアヒムが前から腕を取る。
盗賊ギルドの二人も加わった。
四人掛かり。
それでもヴァルデンは倒れない。
「離せ!」
「嫌だね!」
ヨアヒムが腕を捻る。
「お前は、生きたまま話してもらう!」
ヴァルデンの膝が石床へついた。
若い神官が縄を回す。
片腕。
もう片腕。
胴。
最後に脚。
ようやく。
オスカー・ヴァルデンは拘束された。
◇
「ロック、生きているか」
ヨアヒムが泥水の中へ手を伸ばす。
ロックはその手を掴んだ。
引き上げられる。
「口の中を切りました」
「それだけか」
「頬も痛いです」
「なら生きてるな」
「判断が雑です」
ロックは袖で口元を拭った。
血が付く。
殴られた場所も腫れてきている。
カイに見られれば笑われるかもしれない。
それよりも。
「青い布は?」
全員が一瞬、黙った。
ヨアヒムがヴァルデンを見る。
男の左手には何もない。
「落としたのか?」
「途中で」
ロックは水面を見る。
泥水。
流れ。
排水溝。
「まずい」
水を抜いたせいで、布包みまで排水溝へ吸い込まれた可能性がある。
「偽物だろ」
若い神官が言う。
「中身はです」
「何が問題なんだ」
「布を持ち帰ると約束しました」
「誰に」
「カイに」
ヨアヒムが額へ手を当てる。
「今探すのか」
「探します」
「捕まえた男たちはどうする」
「縛ってあります」
「また水が増えるぞ」
「だから急ぎます」
ロックは水溜まりへ戻った。
ヨアヒムが深いため息を吐く。
「一人で探すな。俺もやる」
「怪我人でしょう」
「お前に言われたくない」
年配の神官も法衣の裾を上げる。
「私も手伝おう」
「神官様まで?」
「約束は守るべきだ」
「ラーダの教えですか」
「今、私が決めた」
「勝手に増やさないでください」
◇
青い布包みは、排水溝の鉄格子へ引っ掛かっていた。
中の小石は失われていた。
古い鎖も水へ流されている。
だが布そのものは破れていない。
ロックは泥を絞り、丁寧に畳んだ。
「これで約束は守れます」
「首飾りでも手紙でもなく、最後に一番必死になったのが布か」
ヨアヒムが呆れる。
「人によって大切な物は違います」
「そのとおりではあるがな」
捕らえた者は五人。
ヴァルデン。
弩を持っていた狙撃手。
短剣使いが二人。
棍棒を持った男が一人。
死者はいない。
重傷者もいない。
ただし、全員泥まみれだった。
若い神官が黒い指輪を確認する。
「これが《夜鴉》の印か」
「おそらく」
ロックは指輪を布で拭いた。
黒い石の表面に、翼を畳んだ鳥が彫られている。
「ヴァルデンと、酒場で接触した男が同じ物を持っていました」
「組織の証拠になるか」
「これだけでは難しいでしょう」
ヨアヒムがヴァルデンの懐を調べる。
財布。
小型の鍵。
薬瓶。
薄い革袋。
「こっちは何だ」
革袋の中には、小さく折られた紙が入っていた。
開く。
名前と数字が並んでいる。
王都の店。
倉庫。
運び屋。
それぞれの横へ、金額らしき数字。
「支払いの記録か」
年配の神官が紙を覗き込む。
「暗号ではありませんね」
ロックが言う。
「略号だけです。照合する帳簿が別にあるのでしょう」
「使えるのか」
「捕らえた人たちの名前と、立ち寄った場所を調べれば」
ヨアヒムが頷く。
「少なくとも、末端は洗える」
「男爵の手紙と首飾りもあります」
「リンデルが回復すれば、奪われた名簿の写しについても聞ける」
証拠は完全ではない。
だが繋がり始めている。
男爵の手紙。
エルマの首飾り。
リンデルの証言。
ヴァルデンの所持品。
捕らえた配下。
一つだけなら否定できる。
だが、すべてを同時に消すことはできない。
「これで終わると思うな」
拘束されたヴァルデンが言った。
泥に汚れていても、目だけは鋭い。
「俺を捕らえただけだ」
「ええ」
ロックは否定しなかった。
「《夜鴉》は一人ではない」
「そうでしょうね」
「なら分かるはずだ。お前も、あの少年も、宿の者も狙われる」
「だから、あなたから聞きます」
「俺が話すと思うか」
「思いません」
「では何をする」
ロックは黒い指輪と支払い記録を見せた。
「あなたが話さなくても調べます」
「子供の遊びだ」
「男爵も、そう思われたのでしょうね」
ヴァルデンの表情が変わった。
「彼は殺されました。でも残した物は届きました」
青い布。
首飾り。
手紙。
そして、カイ。
「あなたは止められなかった」
ヴァルデンは何も答えなかった。
◇
地上へ戻る頃には、東の空がわずかに明るくなっていた。
捕虜は、盗賊ギルドとラーダ神殿の双方が立ち会う場所へ運ばれる。
衛兵へ引き渡すのは、その後。
一つの組織へ任せれば、途中で証拠や捕虜が消える危険がある。
双方が互いを監視する。
ヨアヒムと年配の神官が決めたことだった。
「俺たちは神殿を信用していない」
ヨアヒムが言う。
「私たちも盗賊ギルドを信用していない」
神官が返す。
「気が合うな」
「不愉快だ」
ロックは二人の間を歩いた。
頬が痛い。
身体も冷えている。
靴の中には泥水が入ったまま。
それでも、青い布は懐にある。
「ロック」
ヨアヒムが呼んだ。
「何ですか」
「今回の件で、報酬を期待するなよ」
「依頼を受けていませんからね」
「分かっているじゃないか」
「宿の迷惑料くらいは、誰かに払ってほしいです」
「男爵家へ請求しろ」
「遺族へですか」
「ではラーダ神殿」
年配の神官が即座に首を振った。
「なぜ我々が払う」
「神殿へ内通者を入れていたからだ」
「日雇いの薪運びだ!」
「入れていたことには変わらん」
「盗賊ギルドにも裏切り者はいるだろう!」
「山ほどいる」
「開き直るな!」
二人が言い争い始める。
ロックは少しだけ笑った。
報酬がなくても構わない。
成り行きで始まった事件だ。
リュンクスの無実を証明し。
カイを守り。
男爵の残した物を届ける。
それができれば十分だった。
もっとも。
今回の最大の障害が、どれほどの相手だったのか。
それを知った時。
ロックは別の意味で、頭を抱えることになるのだが。
最終収支
項目 内容
金銭報酬 0ガメル
必要経費 数十ガメル程度
取得経験点 3000点
人脈 ラーダ神官サムソン《知恵は力》
その他 ヨアヒムからの評価上昇、リュンクスの借り
社会的功績 男爵殺害事件解決、《夜鴉》の一部摘発
現金は赤字。
しかし、経験点3000点と、ラーダ神殿・盗賊ギルド・リュンクスとの人脈を得た。
ロック編らしい、非常に大きな黒字です。