低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
日が落ちると、パダの空気は変わった。
昼間は商人と冒険者の声が絶えない町も、夜になるにつれて通りごとの顔を見せる。
宿屋の並ぶ一角では、酒と笑い声が溢れ。
商館の周囲では、戸締まりを確かめる音が続き。
倉庫街では、夜番の持つ灯火だけがゆっくりと動いていた。
エドガーを乗せた囮の荷馬車は、すでに北門を出ている。
ガレスと商館の護衛が付き添い、町の外にある染料倉庫へ向かった。
予定では、日が完全に沈む前に倉庫へ到着する。
エドガーはそこで服を替え、商館の者に紛れて裏道から町へ戻る手筈だった。
ロックとマルコは、商館の二階から通りを見張っている。
リディアは一階。
本物の銀貨袋が隠された帳場と、商館の使用人たちを守っていた。
「四人とも荷馬車を追ったと思うか?」
窓辺から離れたマルコが、小声で尋ねる。
「一人か二人は残ると思います」
「商館へ入るために?」
「囮だと疑っているなら、確かめに来ます」
「疑っていなければ?」
「荷馬車を襲います」
「どちらにしても動くか」
ロックは窓の隙間から、向かいの酒場を眺めた。
客の出入りは続いている。
扉が開くたび、暖かな灯りが通りへ漏れ。
酔った男たちが肩を組んで出てきては、宿の方角へ歩いていく。
昼間に見た革帽子の男はいない。
籠を抱えていた女も見当たらなかった。
「静かだな」
「静かすぎますね」
「商館の夜は、こんなものじゃないのか」
「そうかもしれません」
「おい」
「僕は、パダの商館で夜を過ごしたことがありませんから」
「正直だな」
「分からないものを分かると言う方が危ないです」
マルコは小さく笑った。
「お前と話していると、年齢が分からなくなる」
「十五歳です」
「聞いてない」
「よく聞かれるので」
その時。
通りの向かいにある酒場の二階で、窓が閉じた。
それ自体は不自然ではない。
夜風が冷たくなってきた。
だが、閉じる直前。
窓辺に立つ男の手元で、小さな光が揺れた。
「マルコさん」
「ああ」
「見えましたか」
「鏡か?」
「たぶん」
灯りを反射させた合図。
誰に向けたものかは分からない。
だが、その直後。
商館の裏手から、木材が倒れる音が聞こえた。
大きくはない。
何かを運ぶ途中で、誤って落としたような音だった。
「裏だな」
「僕が見ます」
「一人で行くな」
「マルコさんが窓を離れると、正面を見張る人がいなくなります」
「だからといって、お前一人を行かせるわけにはいかない」
「一階のリディアさんに声をかけます」
ロックは窓辺から身を引いた。
「裏口から出るつもりか?」
「出ません。まず中から確認します」
「ならいい」
◇
一階では、商館の者たちが最後の片づけをしていた。
表の扉は閉ざされ。
分厚い横木が掛けられている。
リディアは帳場の近くに立ち、女主人と話していた。
旅の間は外套で隠れていたが、今は身軽に動けるよう肩口を開けている。
左腕には大きな盾。
腰には鉄頭のメイス。
相手を斬るためではなく、守り、押し返し、戦いを終わらせるための武具だった。
「裏で音がしました」
ロックが告げると、リディアはすぐに表情を引き締めた。
「誰かが残っているのでは?」
女主人が答える。
「夜番が一人。裏の倉庫を見回っているはずよ」
「その人の名前は?」
「ハンス」
「呼べますか」
女主人は使用人へ目を向けた。
「裏へは行かないで。中から呼びなさい」
使用人の青年が頷き、倉庫へ続く扉の前まで進んだ。
「ハンス!」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
やはり返事はなかった。
女主人の顔から、余裕が消える。
「怠けているような男ではないわ」
「扉を開けないでください」
ロックは倉庫へ続く扉を確かめた。
内側から閂が掛かっている。
今のところ、破られた様子はない。
「ほかに入口は?」
「裏の荷運び口と、隣の倉庫へ通じる小扉」
「窓は?」
「明かり取りだけ。人は通れない」
「屋根から入れますか」
「板を外せば……」
ロックは天井を見上げた。
商館の一階と倉庫は、屋根続きになっている。
外から屋根へ登れば、倉庫へ入り込むことは不可能ではない。
「リディアさん。皆を帳場から離してください」
「銀貨は?」
「そのままで」
女主人が驚いた顔をする。
「盗られたらどうするの」
「帳場に集まっていれば、そこに大事な物があると教えるようなものです」
「でも……」
「床下へ隠したことを知られていなければ、今は守ろうとしない方が安全です」
リディアは頷いた。
「奥の食堂へ移りましょう。灯りも持っていきます」
「全員ですか」
「全員です。ここで戦いになれば、巻き込まれます」
女主人は迷ったが、使用人たちへ指示を出した。
商館の者が奥へ移動する。
それを見届けてから、ロックは階段を見上げた。
「マルコさん」
大声ではなく、それでも二階へ届く声で呼ぶ。
すぐに返事があった。
「どうした」
「裏の夜番が返事をしません。屋根から入った可能性があります」
「正面は?」
「合図らしい光が見えました」
「なら、俺は残る」
「お願いします」
ロックは倉庫扉の前へ戻った。
耳を澄ませる。
木が軋む音。
布が擦れる音。
そして、何か硬い物が床へ触れる小さな音。
誰かいる。
倉庫の中。
しかも、一人ではないかもしれない。
「リディアさん」
「はい」
「扉を少しだけ開けます」
「私が前に立ちます」
リディアは大盾を持ち上げた。
身体のほとんどを覆える大きさだ。
狭い場所では動きにくいが、扉の向こうから飛んでくる物を受けるには都合がいい。
「僕が隙間から見ます」
「盾の陰から離れないでください」
「はい」
リディアが盾を扉の前へ据える。
ロックはその脇から閂へ手を伸ばした。
音を立てないよう、扉を僅かに引く。
暗い倉庫の中から、染料と油と木箱の匂いが流れてきた。
灯りはない。
月明かりもほとんど届かない。
だが、風が動いている。
屋根のどこかが開いていた。
ロックは扉の隙間から床を見る。
倒れている人影。
夜番のハンスだろう。
その少し先。
木箱の影で、何かが動いた。
「閉めます」
扉を戻した直後。
薄い刃が飛んできた。
硬い音と共に、大盾の表面へ当たる。
刃は弾かれ、床へ落ちた。
「いましたね」
リディアが静かに言った。
「少なくとも一人です」
倉庫の中から、低い舌打ちが聞こえる。
続いて、足音。
逃げる。
裏口か。
屋根か。
「マルコさん!」
ロックが叫ぶ。
「裏へ回りました!」
二階で床を蹴る音がした。
正面の見張りを捨て、マルコが動いたのだろう。
「開けます」
「私の後ろへ」
リディアが大盾を前へ出す。
ロックが扉を大きく開いた。
盾を先頭に、二人は倉庫へ踏み込む。
倒れたハンス。
奥へ走る黒い影が二つ。
一人は裏口へ。
もう一人は積み上げた木箱へ足を掛け、屋根の開口部を目指している。
「二人です!」
ロックは腰からジャヴェリンを抜いた。
逃げる男へ投げるのではない。
男が足場にしようとした木箱の隙間へ向ける。
短く助走をつけ。
低く投げた。
穂先が箱の板を割り。
柄が斜めに跳ね上がる。
男の足が引っ掛かった。
「ぐっ!」
体勢を崩し、箱の上から転がり落ちる。
床へ叩きつけられたが、すぐに起き上がろうとした。
リディアが距離を詰める。
メイスは振り上げない。
大盾の縁で男の肩を押し、そのまま木箱へ押さえ込んだ。
「動かないでください!」
男は短剣を抜こうとした。
リディアは盾をさらに押し込む。
腕ごと封じられ、刃へ手を届かせることができない。
もう一人は裏口へ走っていた。
扉の閂を外そうとする。
だが、外から扉が開いた。
侵入者が一歩退く。
扉の向こうには、マルコが立っていた。
「どこへ行く?」
短剣が月明かりを受ける。
侵入者は向きを変えた。
ロックたちの方へ突っ込んでくる。
手には短い刃。
狙いはリディアではない。
その脇を抜け、商館の奥へ逃げるつもりだ。
ロックはブロードソードを抜かなかった。
狭い倉庫。
木箱と油。
振り回すには危険すぎる。
代わりに、腰のレイピアを抜く。
侵入者が刃を振るう。
ロックは一歩退き、剣先で手首を払った。
短剣が床へ落ちる。
男はそのまま肩からぶつかってきた。
ロックは正面から受けず、半歩ずれる。
男の腕を取り。
勢いを殺さず、近くの木箱へ押しつけた。
鈍い音。
男の息が詰まる。
後ろからマルコが腕を捻り上げた。
「終わりだ」
「放せ!」
「放したら逃げるだろ」
床に押さえつけられた男が暴れる。
その指先。
黒い染み。
昼間の尾行者と同じ印だった。
「やっぱり同じ人たちですね」
ロックが言う。
「そうらしいな」
マルコは男の両手を革紐で縛った。
「もう一人は?」
「こちらです」
リディアは盾で男を押さえたまま答えた。
転落した男は足首を痛めたらしく、立ち上がれない。
それでも短剣へ手を伸ばそうとしている。
リディアは腰のメイスを抜いた。
鉄頭を振り下ろすのではなく、男の手と短剣の間へ突き立てる。
「次に手を伸ばしたら、指を折ります」
穏やかな声だった。
だからこそ、男は動きを止めた。
「ラーダの神官が脅すのかよ」
「警告です。これ以上、罪を重ねないための」
リディアは男の短剣を蹴り離した。
ロックは倒れていたハンスへ駆け寄る。
後頭部から血が流れている。
息はある。
「リディアさん」
「見ます」
捕らえた男をマルコへ任せ、リディアが膝をつく。
「命に関わる傷ではなさそうです。ただ、強く打たれています」
「治せますか」
「傷を塞ぐことはできます。ですが、すぐに起こさない方がいいでしょう」
リディアはメイスを腰へ戻した。
祈りの言葉を唱える。
淡い光が手のひらへ集まり、ハンスの傷口を包んだ。
流れていた血が止まる。
呼吸も少しずつ落ち着いた。
女主人たちが、恐る恐る倉庫へ戻ってきた。
「ハンス!」
「生きています」
リディアが答える。
「今夜は休ませてください。目を覚ましても、しばらくは一人にしない方がいいです」
女主人は安堵した後、捕らえられた二人を睨みつけた。
「うちの商館に忍び込んで、何を探していたの」
二人は答えない。
マルコが男の腰回りを調べる。
短剣。
細い縄。
小型の鉤。
蝋を塗った布。
鍵を開けるための細い金具。
そして、小さな木札。
「何だ、これは」
木札には、荷馬車を横から見た簡単な絵が刻まれていた。
その下に、縦線が二本。
「二台という意味でしょうか」
ロックが言う。
「囮の荷馬車だな」
「誰かから渡されたのかもしれません」
もう一人からも、似た木札が見つかった。
こちらには、四角い建物。
入口らしい印。
そして、床を示すような横線。
女主人の顔色が変わる。
「商館の見取り図……」
「床下まで知られていたんですか」
「違う」
女主人は木札を奪うように受け取った。
「これは昔の配置よ。帳場は、以前は奥にあった」
「いつ変えましたか」
「二年前」
「なら、古い情報です」
ロックは捕らえた男を見る。
「この人たちは、商館の中を詳しく知らない」
「昔、出入りしていた者から聞いた可能性はあるな」
マルコが言う。
「あるいは、古い仲間がいるか」
捕らえられた男の目が、僅かに動いた。
その一瞬を、ロックは見逃さなかった。
「商館の人ではありません」
「分かるのか?」
「商館の人を疑った時は反応しませんでした。昔の仲間と言った時だけ、こちらを見ました」
男は口元を歪めた。
「ガキが、賢そうな真似をするな」
「賢く見えましたか」
「黙れ」
「話してくれるなら、黙ります」
「誰が話すか」
「では、兵士に任せましょう」
ロックは女主人へ向き直った。
「町の兵を呼んでください。この二人だけではないはずです」
「すぐに」
使用人が表口へ向かう。
その時。
商館の外で、馬の蹄の音が近づいてきた。
一頭。
かなり急いでいる。
マルコが捕虜を押さえたまま、顔を上げる。
「ガレスか?」
「予定より早すぎます」
ロックは倉庫の裏口へ走った。
開いた扉から外を見る。
倉庫街の道を、一頭の馬が駆けてくる。
乗っているのは、商館の護衛だった。
囮の荷馬車へ付いていった二人のうちの一人。
男は商館の前で馬を止めると、転がるように降りた。
「襲われた!」
息を切らしながら叫ぶ。
「北の染料倉庫の手前だ! 十人以上いる!」
「ガレスさんたちは?」
「荷馬車を捨てて倉庫へ入った! エドガーも無事だ!」
男は膝へ手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「だが、囲まれてる! 表と裏を押さえられた!」
捕らえられた男が、僅かに笑った。
マルコがその顔を見下ろす。
「何がおかしい」
「もう遅い」
「何がだ」
「商人は帰ってこない」
マルコの目が細くなる。
ロックは男へ近づいた。
「荷馬車に銀貨はありません」
「……何?」
「中身は石です」
男の笑みが消えた。
「あなたたちは、囮を襲った」
「嘘だ」
「本物の銀貨は、ここにあります」
女主人がロックを見る。
言ってよいのかと、目で問うている。
だが、もう構わない。
商館へ忍び込んだ者は捕らえた。
外の一味は、空の荷馬車を囲んでいる。
今なら、町の兵と共に動ける。
「マルコさん」
「ああ」
「この二人を商館の人に任せて、染料倉庫へ行きましょう」
「兵を待つべきだ」
「待ちます。ただし、すぐ出られる準備をします」
「お前も来る気か?」
「依頼人が囲まれています」
「ここの銀貨は?」
「商館の人たちと町の兵に任せます。襲う人が減った今なら、こちらの方が安全です」
リディアが立ち上がる。
大盾の縁についた埃を払い、メイスの留め具を確かめた。
「私も行きます」
「ハンスさんは?」
「傷は塞ぎました。目を覚ますまでは、誰かが傍にいれば大丈夫です」
女主人が頷いた。
「任せて。銀貨も、この二人も、ハンスも守るわ」
「兵士が来るまで扉を開けないでください」
「分かっている」
捕らえられた男が、苛立った声を上げる。
「行っても無駄だ! 倉庫ごと燃やされるぞ!」
全員の動きが止まった。
ロックは男を見た。
「油を持っている人がいますか」
男は答えない。
「囮の荷馬車に火をつけるつもりですか」
「知らない」
「染料倉庫には、燃えやすい物がある」
女主人が青ざめた。
「油も、乾いた布も……」
捕虜が余計なことを口にした理由。
脅すためではない。
時間を稼ぐためだ。
こちらが迷っている間に、仲間が火をつける。
「待てません」
ロックは裏口へ向かった。
「町の兵が来る前に出るのか?」
マルコが問う。
「先に行きます。兵士には、後から追ってもらってください」
「三人で十人以上を相手にする気か」
「戦いません」
「では何をする」
「火をつけさせないようにします」
ロックはジャヴェリンを拾い上げ、穂先を確かめた。
「火がなければ、ガレスさんたちは倉庫で持ちこたえられます」
「どうやって止める」
「火を持つ人を見つけます」
「暗いぞ」
「だから見つけられます」
マルコは一瞬考え。
それから短剣を納めた。
「分かった。行くぞ」
「止めないんですか」
「止めても行くだろ」
「はい」
「なら、見失わない方がましだ」
リディアも外套を締め直した。
大盾を左腕へ固定し。
右手にはメイスを握る。
「私は前へ出ます。二人は盾の後ろから離れないでください」
「リディアさんも行くのですね」
「依頼人が危険に晒されていますから」
「神官らしいですね」
「あなたにだけは、無茶だと言われたくありません」
商館の表から、複数の足音が聞こえた。
町の兵士たちが到着したらしい。
女主人が表へ向かう。
「事情は私が話します!」
ロックたちは裏口から外へ出た。
夜の倉庫街。
北門の方角。
町の壁越しに、遠くで赤い光が揺れた。
松明か。
それとも、すでに火が放たれたのか。
「急ぎましょう」
三人は走り出した。
囮は成功した。
敵も動かした。
商館へ忍び込んだ者も捕らえた。
だが、依頼はまだ終わっていない。
銀貨を守るだけでは足りない。
その銀貨を持ち帰る商人もまた、無事でなければならなかった。