低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第72話 積み重ねられた知

 資料棟の中は静まり返っていた。

 

 分厚い石壁が夏の熱気を遮り、室内には羊皮紙と革、それに古いインクの匂いが満ちている。

 

 壁一面の書架には、年代ごと、調査区画ごとに分類された帳簿が隙間なく並んでいた。

 

 魔術師たちは部屋へ入ると、それぞれ迷うことなく目当ての棚へ向かう。

 

 どこに何があるのか、身体が覚えているのだ。

 

     ◇

 

 クラウゼは一冊の革装丁の帳簿を机へ置いた。

 

 表紙には端正な文字で、

 

 『レックス遺跡 第三区画調査記録』

 

 と記されている。

 

「ロックさん」

 

「はい」

 

「まず、この一冊をご覧ください」

 

 ロックは帳簿を開いた。

 

 最初の頁には遺跡の見取り図が描かれている。

 

 部屋。

 

 通路。

 

 階段。

 

 崩落地点。

 

 調査済み区域。

 

 未調査区域。

 

 それらが色の違うインクで何度も書き加えられていた。

 

「全部、一度に描かれたものではありません」

 

 クラウゼが地図の隅を指差す。

 

「最初は入口周辺だけでした」

 

 そこには掌ほどの範囲しか描かれていない。

 

「その後、新しい通路が見つかるたびに加筆されています」

 

 ロックは目を凝らした。

 

 線の太さも違う。

 

 インクの色も違う。

 

 書き手の癖も違う。

 

 何十年にもわたる調査の積み重ねが、そのまま一枚の地図に残されていた。

 

     ◇

 

「遺跡は一度で調べ尽くすものではありません」

 

 クラウゼは静かに言う。

 

「一度目は入口だけ」

 

「二度目で隣の部屋」

 

「三度目で地下への階段」

 

「危険なら引き返す」

 

「崩落したなら数年後に再調査する」

 

 ロックは人工始原の巨人の探索を思い出した。

 

 あちらは目的が明確だった。

 

 心臓。

 

 肝臓。

 

 再生炉。

 

 行くべき場所が分かっていたから、そこを目指せばよかった。

 

 だが、レックスは違う。

 

 何がどこへ繋がっているのか誰にも分からない。

 

 だから少しずつ道を拓き、少しずつ地図を完成させるしかないのだ。

 

     ◇

 

「先生」

 

 ミリシャが両腕いっぱいに帳簿を抱えて戻ってきた。

 

「第五区画と第六区画、それから周辺区域の記録も持ってきました」

 

「ありがとうございます」

 

 机の上には十冊近い帳簿が積み上がる。

 

 ロックは苦笑した。

 

「全部読むんですか?」

 

「全部です」

 

 ミリシャは真顔だった。

 

「今回の調査は第三区画ですよね?」

 

「だから周辺も必要なんです」

 

 答えたのはクラウゼだった。

 

「遺跡は壁一枚隔てて繋がっていることがあります」

 

「別区画の記録が重要になることも少なくありません」

 

「過去の記録を知らなければ、同じ失敗を繰り返します」

 

 ロックは静かに頷いた。

 

 魔術師は発見を競っているのではない。

 

 知識を受け継ぎ、積み重ねているのだ。

 

     ◇

 

 ロックも一冊手に取る。

 

 最初に書かれていたのは財宝ではなかった。

 

 調査日。

 

 天候。

 

 同行者。

 

 護衛の人数。

 

 使用した灯火。

 

 持ち込んだ食料。

 

 帰還時刻。

 

 そんな記録ばかりが並んでいる。

 

「ここまで細かく書くんですか?」

 

「必要だからです」

 

 クラウゼは即答した。

 

「雨が降れば地下水位が変わります」

 

「灯火の消費量は調査時間の目安になります」

 

「同行者が分かれば証言の照合もできます」

 

 成果だけでは足りない。

 

 どうやってその成果へ至ったのか。

 

 そこまで残して初めて調査記録になる。

 

 ロックはその意味を理解した。

 

     ◇

 

 さらに読み進める。

 

 ある頁で手が止まった。

 

 『通路行き止まり。崩落のため調査中止』

 

 その数頁先。

 

 日付は五年後になっている。

 

 『崩落部が自然崩壊。新たな部屋を確認』

 

 ロックは思わず顔を上げた。

 

「五年後ですか」

 

「はい」

 

 クラウゼは穏やかに頷く。

 

「遺跡は逃げません」

 

「無理をする必要もありません」

 

「今日入れなくてもいいんですね」

 

「十年後でも構いません」

 

 冒険者なら違う。

 

 依頼には期限がある。

 

 財宝は誰かに持ち去られるかもしれない。

 

 だから急ぐ。

 

 しかし、学術調査は違う。

 

 百年前から眠っていた遺跡なら、十年後もそこにある。

 

 命を危険へ晒してまで急ぐ理由はない。

 

     ◇

 

 その時、資料室の扉が開いた。

 

 一人の老魔術師が姿を現す。

 

 白髪を後ろで束ね、長年使い込まれた長衣をまとっていた。

 

 六十を過ぎているだろう。

 

 だが、その瞳には衰えがない。

 

「クラウゼか」

 

「ご無沙汰しております」

 

 二人は軽く礼を交わす。

 

「今回の調査隊です」

 

「ほう」

 

 老魔術師の視線がロックへ向く。

 

「冒険者か」

 

「はい」

 

「レックスは初めてだな」

 

「はい」

 

 老人は小さく笑った。

 

「良い」

 

「初めて来る者は皆、財宝ばかり見ようとする」

 

 そう言って、書架を見渡した。

 

「だが、本当に価値があるのはここだ」

 

 静かな部屋に、その声だけが響く。

 

「一冊ではない」

 

「一人でもない」

 

「何世代もの魔術師が命を繋ぎ、知識を積み重ねた結果が、この部屋にある」

 

 ロックは書架を見つめた。

 

 何百冊もの帳簿。

 

 何千枚もの羊皮紙。

 

 それは一人の天才では築けない財産だった。

 

     ◇

 

「自己紹介が遅れた」

 

 老人は穏やかに微笑む。

 

「私はレックス調査隊主任、エルド・マナライ」

 

 その姓にロックは反応した。

 

「マナライ……」

 

「初代オラン魔術師ギルド長、マナ・ライの子孫だ」

 

 老人は肩をすくめた。

 

「祖先ほど立派ではない」

 

「私は先人の知を守り、次の世代へ渡す役目を負っているだけだ」

 

 そう言って、一冊の帳簿へ静かに手を置く。

 

「焦る必要はない」

 

「知識を持って遺跡へ入れば、生きて帰る可能性は高くなる」

 

「知識を軽んじれば、この遺跡は容赦なく命を奪う」

 

 その言葉には、長年レックスと向き合い続けた者だけが持つ重みがあった。

 

 ロックは静かに頭を下げる。

 

 明日から始まる探索は、宝探しではない。

 

 何百年も積み重ねられてきた知識の、その先へ一歩だけ進むための調査なのだった。

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