低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
資料棟の中は静まり返っていた。
分厚い石壁が夏の熱気を遮り、室内には羊皮紙と革、それに古いインクの匂いが満ちている。
壁一面の書架には、年代ごと、調査区画ごとに分類された帳簿が隙間なく並んでいた。
魔術師たちは部屋へ入ると、それぞれ迷うことなく目当ての棚へ向かう。
どこに何があるのか、身体が覚えているのだ。
◇
クラウゼは一冊の革装丁の帳簿を机へ置いた。
表紙には端正な文字で、
『レックス遺跡 第三区画調査記録』
と記されている。
「ロックさん」
「はい」
「まず、この一冊をご覧ください」
ロックは帳簿を開いた。
最初の頁には遺跡の見取り図が描かれている。
部屋。
通路。
階段。
崩落地点。
調査済み区域。
未調査区域。
それらが色の違うインクで何度も書き加えられていた。
「全部、一度に描かれたものではありません」
クラウゼが地図の隅を指差す。
「最初は入口周辺だけでした」
そこには掌ほどの範囲しか描かれていない。
「その後、新しい通路が見つかるたびに加筆されています」
ロックは目を凝らした。
線の太さも違う。
インクの色も違う。
書き手の癖も違う。
何十年にもわたる調査の積み重ねが、そのまま一枚の地図に残されていた。
◇
「遺跡は一度で調べ尽くすものではありません」
クラウゼは静かに言う。
「一度目は入口だけ」
「二度目で隣の部屋」
「三度目で地下への階段」
「危険なら引き返す」
「崩落したなら数年後に再調査する」
ロックは人工始原の巨人の探索を思い出した。
あちらは目的が明確だった。
心臓。
肝臓。
再生炉。
行くべき場所が分かっていたから、そこを目指せばよかった。
だが、レックスは違う。
何がどこへ繋がっているのか誰にも分からない。
だから少しずつ道を拓き、少しずつ地図を完成させるしかないのだ。
◇
「先生」
ミリシャが両腕いっぱいに帳簿を抱えて戻ってきた。
「第五区画と第六区画、それから周辺区域の記録も持ってきました」
「ありがとうございます」
机の上には十冊近い帳簿が積み上がる。
ロックは苦笑した。
「全部読むんですか?」
「全部です」
ミリシャは真顔だった。
「今回の調査は第三区画ですよね?」
「だから周辺も必要なんです」
答えたのはクラウゼだった。
「遺跡は壁一枚隔てて繋がっていることがあります」
「別区画の記録が重要になることも少なくありません」
「過去の記録を知らなければ、同じ失敗を繰り返します」
ロックは静かに頷いた。
魔術師は発見を競っているのではない。
知識を受け継ぎ、積み重ねているのだ。
◇
ロックも一冊手に取る。
最初に書かれていたのは財宝ではなかった。
調査日。
天候。
同行者。
護衛の人数。
使用した灯火。
持ち込んだ食料。
帰還時刻。
そんな記録ばかりが並んでいる。
「ここまで細かく書くんですか?」
「必要だからです」
クラウゼは即答した。
「雨が降れば地下水位が変わります」
「灯火の消費量は調査時間の目安になります」
「同行者が分かれば証言の照合もできます」
成果だけでは足りない。
どうやってその成果へ至ったのか。
そこまで残して初めて調査記録になる。
ロックはその意味を理解した。
◇
さらに読み進める。
ある頁で手が止まった。
『通路行き止まり。崩落のため調査中止』
その数頁先。
日付は五年後になっている。
『崩落部が自然崩壊。新たな部屋を確認』
ロックは思わず顔を上げた。
「五年後ですか」
「はい」
クラウゼは穏やかに頷く。
「遺跡は逃げません」
「無理をする必要もありません」
「今日入れなくてもいいんですね」
「十年後でも構いません」
冒険者なら違う。
依頼には期限がある。
財宝は誰かに持ち去られるかもしれない。
だから急ぐ。
しかし、学術調査は違う。
百年前から眠っていた遺跡なら、十年後もそこにある。
命を危険へ晒してまで急ぐ理由はない。
◇
その時、資料室の扉が開いた。
一人の老魔術師が姿を現す。
白髪を後ろで束ね、長年使い込まれた長衣をまとっていた。
六十を過ぎているだろう。
だが、その瞳には衰えがない。
「クラウゼか」
「ご無沙汰しております」
二人は軽く礼を交わす。
「今回の調査隊です」
「ほう」
老魔術師の視線がロックへ向く。
「冒険者か」
「はい」
「レックスは初めてだな」
「はい」
老人は小さく笑った。
「良い」
「初めて来る者は皆、財宝ばかり見ようとする」
そう言って、書架を見渡した。
「だが、本当に価値があるのはここだ」
静かな部屋に、その声だけが響く。
「一冊ではない」
「一人でもない」
「何世代もの魔術師が命を繋ぎ、知識を積み重ねた結果が、この部屋にある」
ロックは書架を見つめた。
何百冊もの帳簿。
何千枚もの羊皮紙。
それは一人の天才では築けない財産だった。
◇
「自己紹介が遅れた」
老人は穏やかに微笑む。
「私はレックス調査隊主任、エルド・マナライ」
その姓にロックは反応した。
「マナライ……」
「初代オラン魔術師ギルド長、マナ・ライの子孫だ」
老人は肩をすくめた。
「祖先ほど立派ではない」
「私は先人の知を守り、次の世代へ渡す役目を負っているだけだ」
そう言って、一冊の帳簿へ静かに手を置く。
「焦る必要はない」
「知識を持って遺跡へ入れば、生きて帰る可能性は高くなる」
「知識を軽んじれば、この遺跡は容赦なく命を奪う」
その言葉には、長年レックスと向き合い続けた者だけが持つ重みがあった。
ロックは静かに頭を下げる。
明日から始まる探索は、宝探しではない。
何百年も積み重ねられてきた知識の、その先へ一歩だけ進むための調査なのだった。