低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第72話 残された一刻

 資料棟の扉を開けると、紙と革、古いインクの匂いが押し寄せた。

 

 壁際には天井まで届く書架が並び、調査記録を綴じた帳簿や、丸められた地図が区画ごとに収められている。

 

 しかし、静かな書庫という印象はなかった。

 

 机では三人の魔術師が頁を繰り、記録係が必要な箇所を書き写している。別の卓では護衛が地図を囲み、退路と合流地点を確認していた。

 

 誰も一冊を最初から読もうとはしていない。

 

 必要な記録を探し、必要な部分だけを抜き出している。

 

「これが第三区画の最新図だ」

 

 エルド・マナライが机の上へ一枚の地図を広げた。

 

 黄ばんだ紙には、崩れた建物と瓦礫の隙間を縫うように、幾つもの線が引かれている。

 

 一部は黒。

 

 一部は赤。

 

 さらに新しい青い線が、地図の端から短く伸びていた。

 

「青い部分が昨日見つかった通路ですか」

 

 ロックが尋ねる。

 

「そうだ」

 

 エルドは青線の先を指で叩いた。

 

「昨日の昼、壁面の一部が崩れた」

 

「その下から石造りの通路が露出した」

 

「確認できたのは入口から十五歩ほどです」

 

 クラウゼが補足する。

 

「奥に扉らしきものがあります」

 

「らしきもの?」

 

「半分ほど瓦礫に埋まっています」

 

 ミリシャが別の紙を差し出した。

 

 通路の簡単な見取り図だった。

 

 左右の壁。

 

 天井の高さ。

 

 床の傾斜。

 

 崩落箇所。

 

 入口から見えた範囲だけが、細かく記されている。

 

「ここまで調べて、昨日は戻ったんですか」

 

「日が落ちたからだ」

 

 エルドが答える。

 

「暗闇の中で初見の通路へ入るほど、急いではいない」

 

「ですが、今朝には魔物の痕跡があった」

 

「そういうことだ」

 

 急ぐ。

 

 だが、焦らない。

 

 その境目を見誤れば、調査隊は簡単に全滅するのだろう。

 

     ◇

 

「足跡は四つ足です」

 

 若い調査員が木板を机へ置いた。

 

 湿らせた土へ、発見した足跡の形を写し取ったものだ。

 

 指は三本。

 

 爪が長い。

 

 大きさは人の手ほどもある。

 

 ロックは足跡を見つめた。

 

「ゴブリンではありませんね」

 

「ゴブリンなら分かりやすかったんだがな」

 

 エルドが腕を組む。

 

「数は?」

 

「少なくとも二体」

 

「入口から入った痕跡はありません」

 

 クラウゼが眉を寄せた。

 

「では、遺跡の内部から出てきた可能性があります」

 

「その可能性が高い」

 

 地図上では行き止まりに見える。

 

 だが、壁の向こうや床下に別の通路があるなら、魔物はそちらから移動してきたことになる。

 

「種類は分かりますか」

 

 ミリシャが尋ねた。

 

「足跡だけでは断定できん」

 

 エルドは首を振る。

 

「コカトリスの幼体に似ているという者もいる」

 

 室内の空気が僅かに張り詰めた。

 

「幼体ですか」

 

 ロックは足跡をもう一度見る。

 

「成体なら、もう少し大きい」

 

「なら安心というわけでもないがな」

 

「石にされれば、大きさは関係ありませんね」

 

「そういうことだ」

 

 レックスでは浅い場所だから安全とは限らない。

 

 都市が墜ちた後、魔物は地上からも地下からも入り込んだ。

 

 人の通れる場所だけが道ではない。

 

 空洞。

 

 亀裂。

 

 排水路。

 

 古代の魔法装置が開いた穴。

 

 どこから何が現れるのか、予測しきることなどできないのだ。

 

     ◇

 

「今回の目的は三つだ」

 

 エルドが地図の上へ木札を並べた。

 

「第一に通路内の安全確認」

 

 一枚目。

 

「第二に奥の扉の記録」

 

 二枚目。

 

「第三に持ち出せる記録物の回収」

 

 三枚目。

 

「魔法の品は後回しですか」

 

 ロックが聞く。

 

「品物は比較的残る」

 

 エルドは即答した。

 

「だが、紙や布、木札、壁面の顔料は残らん」

 

「魔物が踏み荒らす」

 

「湿気で腐る」

 

「誰かが火を使えば燃える」

 

「だから、壊れやすいものから救う」

 

 ロックは頷いた。

 

 価値の高いものを先に持ち出すのではない。

 

 失われやすいものを先に残す。

 

 魔術師ギルドの調査とは、そういう仕事らしい。

 

「発見物を見つけた者は勝手に動かすな」

 

 クラウゼが全員を見渡した。

 

「ただし、失われる危険が迫っている場合は別です」

 

「現場で判断しろということですね」

 

「ええ」

 

「迷ったら?」

 

「持ち帰れるなら持ち帰る」

 

 エルドが答えた。

 

「後で叱られればよい」

 

 ミリシャが僅かに目を丸くする。

 

「先生とは違うことを言いますね」

 

「私は状況を見ずに触るなと言っています」

 

 クラウゼは冷静に返した。

 

「壊れかけた資料を前に、私の許可を待てとは言いません」

 

「なら安心しました」

 

「何をするつもりですか」

 

「何もしません」

 

 返事が早すぎた。

 

 ロックは口元を押さえた。

 

     ◇

 

 装備の確認は短時間で終わった。

 

 先頭は盾を持った護衛が二人。

 

 その後ろにロック。

 

 中央にエルド、クラウゼ、ミリシャ、記録係。

 

 後方を残る護衛が固める。

 

 灯火は三つ。

 

 一つが消えても進める。

 

 二つ消えた時点で撤退。

 

 退路には白い石粉で印を残す。

 

 異音、異臭、風向きの変化を感じた者は、身分や役割にかかわらず即座に声を上げる。

 

「魔物がいた場合は?」

 

 護衛の一人が尋ねた。

 

「排除できるなら排除する」

 

 エルドは迷わず答えた。

 

「無理なら退く」

 

「逃げた魔物は追わん」

 

「資料を持って逃げた場合は?」

 

「価値次第だ」

 

「現場で判断する」

 

 何もかもを規則で縛ることはできない。

 

 遺跡の中では、予想外の出来事が必ず起こる。

 

 最後に頼れるのは、そこにいる者たちの経験と判断だった。

 

     ◇

 

 資料棟を出ると、拠点の空気はさらに慌ただしくなっていた。

 

 人夫が予備の盾を運び、職人が松明の燃え具合を確認している。

 

 見張り台から鐘が一度鳴った。

 

 都市側で動くものを見つけた合図だった。

 

 全員の視線が、墜ちた都市へ向く。

 

 崩れた壁の上を、小さな影が横切った。

 

 遠すぎて正体は分からない。

 

 だが、人間ではなかった。

 

「急ぐぞ」

 

 エルドの声に、調査隊が動き始める。

 

 ロックは荷袋を背負い直した。

 

 昨日見つかった通路。

 

 夜の間に現れた魔物。

 

 朝にはまだ残っている扉。

 

 昼まで残っている保証はない。

 

 遺跡は待たない。

 

 魔物も待たない。

 

 失われるものは、誰にも見つけられないまま消えていく。

 

 だから彼らは向かう。

 

 命を守りながら。

 

 機会を逃さず。

 

 今この時にしか拾えない、古代王国の断片を求めて。

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