低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
資料棟の扉を開けると、紙と革、古いインクの匂いが押し寄せた。
壁際には天井まで届く書架が並び、調査記録を綴じた帳簿や、丸められた地図が区画ごとに収められている。
しかし、静かな書庫という印象はなかった。
机では三人の魔術師が頁を繰り、記録係が必要な箇所を書き写している。別の卓では護衛が地図を囲み、退路と合流地点を確認していた。
誰も一冊を最初から読もうとはしていない。
必要な記録を探し、必要な部分だけを抜き出している。
「これが第三区画の最新図だ」
エルド・マナライが机の上へ一枚の地図を広げた。
黄ばんだ紙には、崩れた建物と瓦礫の隙間を縫うように、幾つもの線が引かれている。
一部は黒。
一部は赤。
さらに新しい青い線が、地図の端から短く伸びていた。
「青い部分が昨日見つかった通路ですか」
ロックが尋ねる。
「そうだ」
エルドは青線の先を指で叩いた。
「昨日の昼、壁面の一部が崩れた」
「その下から石造りの通路が露出した」
「確認できたのは入口から十五歩ほどです」
クラウゼが補足する。
「奥に扉らしきものがあります」
「らしきもの?」
「半分ほど瓦礫に埋まっています」
ミリシャが別の紙を差し出した。
通路の簡単な見取り図だった。
左右の壁。
天井の高さ。
床の傾斜。
崩落箇所。
入口から見えた範囲だけが、細かく記されている。
「ここまで調べて、昨日は戻ったんですか」
「日が落ちたからだ」
エルドが答える。
「暗闇の中で初見の通路へ入るほど、急いではいない」
「ですが、今朝には魔物の痕跡があった」
「そういうことだ」
急ぐ。
だが、焦らない。
その境目を見誤れば、調査隊は簡単に全滅するのだろう。
◇
「足跡は四つ足です」
若い調査員が木板を机へ置いた。
湿らせた土へ、発見した足跡の形を写し取ったものだ。
指は三本。
爪が長い。
大きさは人の手ほどもある。
ロックは足跡を見つめた。
「ゴブリンではありませんね」
「ゴブリンなら分かりやすかったんだがな」
エルドが腕を組む。
「数は?」
「少なくとも二体」
「入口から入った痕跡はありません」
クラウゼが眉を寄せた。
「では、遺跡の内部から出てきた可能性があります」
「その可能性が高い」
地図上では行き止まりに見える。
だが、壁の向こうや床下に別の通路があるなら、魔物はそちらから移動してきたことになる。
「種類は分かりますか」
ミリシャが尋ねた。
「足跡だけでは断定できん」
エルドは首を振る。
「コカトリスの幼体に似ているという者もいる」
室内の空気が僅かに張り詰めた。
「幼体ですか」
ロックは足跡をもう一度見る。
「成体なら、もう少し大きい」
「なら安心というわけでもないがな」
「石にされれば、大きさは関係ありませんね」
「そういうことだ」
レックスでは浅い場所だから安全とは限らない。
都市が墜ちた後、魔物は地上からも地下からも入り込んだ。
人の通れる場所だけが道ではない。
空洞。
亀裂。
排水路。
古代の魔法装置が開いた穴。
どこから何が現れるのか、予測しきることなどできないのだ。
◇
「今回の目的は三つだ」
エルドが地図の上へ木札を並べた。
「第一に通路内の安全確認」
一枚目。
「第二に奥の扉の記録」
二枚目。
「第三に持ち出せる記録物の回収」
三枚目。
「魔法の品は後回しですか」
ロックが聞く。
「品物は比較的残る」
エルドは即答した。
「だが、紙や布、木札、壁面の顔料は残らん」
「魔物が踏み荒らす」
「湿気で腐る」
「誰かが火を使えば燃える」
「だから、壊れやすいものから救う」
ロックは頷いた。
価値の高いものを先に持ち出すのではない。
失われやすいものを先に残す。
魔術師ギルドの調査とは、そういう仕事らしい。
「発見物を見つけた者は勝手に動かすな」
クラウゼが全員を見渡した。
「ただし、失われる危険が迫っている場合は別です」
「現場で判断しろということですね」
「ええ」
「迷ったら?」
「持ち帰れるなら持ち帰る」
エルドが答えた。
「後で叱られればよい」
ミリシャが僅かに目を丸くする。
「先生とは違うことを言いますね」
「私は状況を見ずに触るなと言っています」
クラウゼは冷静に返した。
「壊れかけた資料を前に、私の許可を待てとは言いません」
「なら安心しました」
「何をするつもりですか」
「何もしません」
返事が早すぎた。
ロックは口元を押さえた。
◇
装備の確認は短時間で終わった。
先頭は盾を持った護衛が二人。
その後ろにロック。
中央にエルド、クラウゼ、ミリシャ、記録係。
後方を残る護衛が固める。
灯火は三つ。
一つが消えても進める。
二つ消えた時点で撤退。
退路には白い石粉で印を残す。
異音、異臭、風向きの変化を感じた者は、身分や役割にかかわらず即座に声を上げる。
「魔物がいた場合は?」
護衛の一人が尋ねた。
「排除できるなら排除する」
エルドは迷わず答えた。
「無理なら退く」
「逃げた魔物は追わん」
「資料を持って逃げた場合は?」
「価値次第だ」
「現場で判断する」
何もかもを規則で縛ることはできない。
遺跡の中では、予想外の出来事が必ず起こる。
最後に頼れるのは、そこにいる者たちの経験と判断だった。
◇
資料棟を出ると、拠点の空気はさらに慌ただしくなっていた。
人夫が予備の盾を運び、職人が松明の燃え具合を確認している。
見張り台から鐘が一度鳴った。
都市側で動くものを見つけた合図だった。
全員の視線が、墜ちた都市へ向く。
崩れた壁の上を、小さな影が横切った。
遠すぎて正体は分からない。
だが、人間ではなかった。
「急ぐぞ」
エルドの声に、調査隊が動き始める。
ロックは荷袋を背負い直した。
昨日見つかった通路。
夜の間に現れた魔物。
朝にはまだ残っている扉。
昼まで残っている保証はない。
遺跡は待たない。
魔物も待たない。
失われるものは、誰にも見つけられないまま消えていく。
だから彼らは向かう。
命を守りながら。
機会を逃さず。
今この時にしか拾えない、古代王国の断片を求めて。