低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
レックス調査拠点へ戻った時には、すでに陽が傾き始めていた。
木柵の上から見張りが一行を確認し、門の内側へ声を飛ばす。
「調査隊が戻ったぞ」
門が開く。
出迎えた者たちは、まず人数を数えた。
出発した者と、帰ってきた者。
一人も欠けていないことを確認してから、門番がエルドへ尋ねる。
「負傷者は」
「なし」
安堵が広がりかける。
だが、エルドは続けた。
「危険物を持ち帰った。黒い体液らしきものと、魔力を残した認証札だ」
拠点の空気が、すぐに引き締まった。
「隔離室を開けろ。資料と危険物は別々に運ぶ」
「分かりました」
黒いものを収めた金属容器は、宿泊棟や資料棟から離れた石造りの小屋へ運ばれる。
認証札は別の保管室。
紙片や布片は資料棟の前に設けられた作業場へ。
レックスから持ち帰ったものを、何も考えずに一か所へ集めることはない。
一つが燃えれば、すべてが燃える。
一つに毒があれば、すべてが汚染される。
持ち帰るまでが探索ではない。
安全に分け、記録し、保存して初めて成果となる。
◇
「先に全員の身体と装備を調べます」
クラウゼの指示で、調査隊は男女に分かれた。
男性は資材小屋の裏手。
女性は宿泊棟に付属する洗濯室。
それぞれ同性の調査員が立ち会い、外套、靴、手袋を外して確認する。
黒い液体の付着。
コカトリスの血。
自覚のない擦り傷。
羽毛や寄生虫の混入。
ロックは男性用の区画で外套を脱ぎ、護衛の一人と互いの背中を確認した。
「何か付いていますか」
「砂と埃だけだな」
「それなら助かります」
「そっちは」
「右肩に羽根が一本」
ロックは指で摘ままず、火箸で取り除いた。
回収用の皿へ入れる。
ただのコカトリスの羽根だとしても、遺跡の中で付着したものは勝手に捨てない。
「傷はありません」
「こっちもだ」
隣ではエルドが腕を広げ、若い調査員に背中を見せていた。
「先生、腰に擦り傷があります」
「瓦礫に引っ掛けたか」
「洗って薬を塗ってください」
「この程度なら」
「黒いものが入り込んでからでは遅いです」
「分かった、分かった」
女性側でも同じ確認が行われているらしい。
壁の向こうから、ミリシャの声が聞こえた。
「クラウゼ先生、外套の裾に血が付いています」
「コカトリスのものです」
「分かっていても洗浄対象です」
「承知しています」
ロックは少しだけ笑った。
弟子であっても、こういう時には容赦がないらしい。
◇
衣服と装備の確認が終わると、使った道具は種類ごとに分けられた。
水洗いするもの。
砂で汚れを落とすもの。
火へ近づけてもよいもの。
魔力を帯びているため、下手に触れないもの。
「認証札も洗いますか」
ミリシャが尋ねる。
「洗いません」
クラウゼは即答した。
「何に反応するか分からない魔法の品へ、水を掛けるべきではありません」
「では、汚れは」
「乾いた刷毛を使います。ただし、今は触れません」
認証札は陶器の浅い箱へ入れられ、その箱ごと石造りの小部屋へ運ばれた。
部屋の中央には机が一つ。
周囲には水桶と砂袋。
火や煙が出た時のため、扉の外には見張りが立つ。
「随分と厳重ですね」
ロックが青い石の埋め込まれた金属札を見る。
「厳重で何も起きなければ、それが一番です」
クラウゼが答えた。
◇
ロックは認証札から少し離れ、魔力の気配へ意識を向けた。
札そのものに、扉を動かすほど大きな力は感じない。
攻撃のための魔力でもない。
細く整えられた流れが、金属板に刻まれた紋様を巡っている。
何かを伝えるための道具。
そう思えた。
「鍵というより、証明書に近い気がします」
「証明書?」
「札が扉を開けるのではなく、扉へ許可を示すんです」
クラウゼが札へ視線を落とす。
「所有者や搬入物の情報が刻まれている可能性がありますね」
「そこまで分かるんですか」
ミリシャが尋ねる。
「可能性だけです」
ロックは首を振った。
「魔力の流れが、何かを照合する形に見えるだけです」
「断定しないのはよいことです」
「先生に教わりました」
「私はまだ、あなたを弟子にした覚えはありません」
「では、見て覚えました」
クラウゼは僅かに口元を緩めた。
◇
次に調べるのは、認証扉の下から滲み出した黒いものだった。
隔離室へ入る人数は絞られた。
エルド。
クラウゼ。
ロック。
ミリシャは外側の記録台に残り、小窓越しに観察内容を書き留める。
男女で分けるためではない。
危険物へ近づく人数を減らすためだ。
金属容器は石台の中央へ置かれている。
運搬中に動いた形跡はない。
「開けるぞ」
エルドが長い棒で留め具を外す。
クラウゼは厚い革手袋を着け、長い火箸に似た道具を持った。
ロックは少し離れ、スタッフスリングを構える。
物理的な武器が通じる相手なのかさえ分からない。
それでも、何も持たずに立つよりはよかった。
◇
蓋が僅かに持ち上がる。
反応はない。
さらに開く。
容器の底には、砂と一緒に回収された黒い塊が残っていた。
搬入庫では液体のように見えた。
今は、濡れた糸を幾重にも絡めたような姿になっている。
「乾いたのでしょうか」
小窓の向こうからミリシャが尋ねる。
「違います」
クラウゼが目を細めた。
「自分で縮んでいます」
黒い糸の一本が持ち上がった。
空気を探るように揺れ、容器の縁へ触れる。
次の瞬間、弾かれたように引っ込んだ。
「金属を嫌った?」
ロックが言う。
「冷たさかもしれません」
「光への反応かもしれん」
エルドが長い挟み道具を伸ばした。
「決めつけるなよ」
「先生が一番触ろうとしています」
「触らねば分からんこともある」
「直接触らないでください」
「分かっている」
◇
挟み道具が黒い糸の端を摘まむ。
塊全体が強く縮んだ。
糸は細いが、簡単には切れない。
エルドが僅かに持ち上げると、その下から白い欠片が現れた。
「骨でしょうか」
ロックが目を凝らす。
自然に折れた骨とは違う。
表面には細かな溝が刻まれ、端には等間隔の穴が開いていた。
「搬入庫の巣から見つけたものと似ています」
クラウゼが答える。
黒い糸は、白い欠片へ絡みついているのではない。
穴の内側から伸びているように見えた。
「骨から生えている?」
「そのように見えます」
「生き物の一部でしょうか」
「あるいは、魔法で作られた組織です」
クラウゼの声が低くなる。
「損傷した身体を繋ぎ止めるためのものかもしれません」
「固定装置と関係がある?」
「可能性はあります」
搬入対象。
一時固定。
保存容器。
下層保管室。
そして、扉の向こうで今も動いている何か。
断片だけだった情報が、少しずつ同じ場所へ集まり始めていた。
◇
「ここまでにします」
クラウゼが告げた。
「もう少し調べられませんか」
ミリシャが小窓越しに尋ねる。
「今の設備では無理です」
「魔術師ギルドへ運びますか」
「まだ運びません」
クラウゼは黒い塊を見つめた。
「何なのか分からないものを、人の多い場所へ持ち込むべきではありません」
エルドが黒い糸を容器へ戻す。
蓋を閉じ、革帯で固定した。
容器の周囲には乾いた砂を薄く撒く。
何かが這い出せば、跡が残る。
「夜間も見張りを置く」
エルドが言う。
「異変があれば鐘を三度だ」
「何も起きなかった場合は?」
扉の外にいた護衛が尋ねる。
「朝になったら笑えばいい」
「起きた場合は」
「笑っている暇はないな」
◇
資料棟では、男女を問わず記録の扱いに慣れた者たちが、回収物の整理を進めていた。
ただし、汚れを落とす作業台と、清潔な紙片を並べる机は離されている。
乾いた刷毛で糞や土を落とす。
湿った紙は重ねず、一枚ずつ板へ載せる。
破れ目の合う断片を探す。
ミリシャが二枚の紙片を並べた。
「ここ、繋がります」
破れた輪郭が一致する。
クラウゼが古代語を追った。
「第七搬送対象」
「損傷あり」
「生命活動を維持したまま、下層保管室へ移送」
ロックは紙片を覗き込んだ。
「第七ということは、少なくとも七つあった?」
「番号が個体数を示しているなら」
クラウゼは慎重に答える。
「七番目の部屋や、七番目の計画を示す可能性もあります」
「まだ数は分からないんですね」
「分からないことを分からないまま記録するのも、調査です」
◇
別の紙片には、一語だけが残っていた。
「再生」
ミリシャが読み上げる。
その前後は破れている。
それでも、無視できる言葉ではなかった。
損傷した搬送対象。
生命活動を維持したまま移送。
下層保管室。
再生。
「治療施設だったのでしょうか」
ロックが尋ねる。
「治療する相手を、搬入対象とは呼ばんだろう」
エルドが腕を組む。
「研究材料だった可能性があります」
クラウゼが言う。
古代王国の魔術師たちが、生き物をどのように扱っていたのか。
今の常識だけで考えるべきではない。
「次は扉を開けますか」
ロックが尋ねた。
「すぐには開けん」
エルドは地図を広げた。
「前衛を増やす」
「神官を同行させる」
「黒い組織に対処できる道具も用意する」
「それから認証札の情報を、可能な限り調べる」
「準備している間に、扉の中のものが出てくる可能性は」
「ある」
エルドは迷わず答えた。
「だから急ぐ」
続いて、扉の位置へ指を置く。
「だが、分からないまま開けるほど急ぎはせん」
レックスは待ってくれない。
それでも、急ぐことと飛び込むことは違う。
ロックは地図の上に記された搬入庫を見つめた。
明日も扉が閉じている保証はない。
中のものが眠っている保証もない。
だからこそ、次に扉の前へ立つ時には、開いた後まで考えておかなければならなかった。