低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
長い棒の先に、革の切れ端が揺れていた。
その下には、古びた石の床。
表面を薄く覆う液体が、灯りを受けて鈍く光っている。
ロックは棒を伸ばし、革を液体へ触れさせた。
音はしなかった。
煙も出ない。
それでも、すぐには引き上げなかった。
触れた途端に溶け始めるとは限らない。薬品を扱う男にも、そう言われている。
膝をついた場所は乾いていた。
背後には、人工始原の巨人の巨大な「口」が開いている。
かつて二体のスケルトンウォーリアが立っていた場所には、もう何もいなかった。
◇
抗酸剤は、試験に使う少量だけを買った。
それを塗った革と、何もしていない革。
同じ大きさに切り、別々の棒へ留めてある。
薬品を使った方には、柄へ二本の刻みをつけた。札が濡れて読めなくなっても、見分けられるようにするためだ。
ロックは二本を交互に確かめた。
塗っていない革の端が、僅かに反り始めていた。
棒を持ち上げる。
液体を切り、持参した浅い陶器の皿へ載せた。
すぐには触らない。
次に、抗酸剤を使った方も引き上げる。
こちらは、見たところ大きく変わっていなかった。
「……違いはあるな」
少なくとも、買った物がまるで役に立たないわけではなさそうだった。
だが、いつまで保つのかは分からない。
一度使えば、その後も同じように守られるのかも。
ロックは手帳へ、革を浸した場所と様子を書き込んだ。
足を入れて試さずに済んだだけでも、準備した甲斐があった。
◇
入口を越えた先は、緩やかな下りになっていた。
左右の壁は内側へ曲がり、天井も丸く覆いかぶさっている。
人が通るための廊下というより、何かを奥へ送るための溝に近かった。
床の両端には、細い段が続いていた。
中央よりは高い。
液体が流れるのは、主に低くなった中央部分らしい。
ロックはその段へ灯りを向けた。
乾いている場所。
濡れている場所。
色の変わった場所。
同じように見える石にも、違いがある。
長い棒で先を確かめ、乾いた場所へ足を置いた。
一歩進むたび、肩から下げた無限のバッグが脇へ触れる。
外側には、厚い布で作った覆いを掛けてある。
酸に耐えるための物ではない。
擦れや汚れを防ぎ、何かが飛んできた時に、すぐ表面へ触れないようにするだけだ。
濡れたら、そこで止まる。
それを決めて持ち込んでいた。
◇
少し進んだところで、ロックは振り返った。
巨大な歯の隙間から、入口の明かりが見える。
まだ、戻れる。
壁際へ小さく印を残し、さらに先を覗いた。
下りは、その先で急になっていた。
床に刻まれているのは、階段ではない。
浅い溝が、横へ幾筋も走っている。
足掛かりに見えたが、よく見ると間隔も形も揃っていなかった。
何かを引っ掛け、奥へ運ぶためのものかもしれない。
ロックは屈み、溝の端へ棒を当てた。
動かない。
押しても、叩いても、ただ固い感触が返ってくる。
それでも、溝へ指を入れる気にはなれなかった。
少し先に、小石が挟まっていた。
その周囲だけ、薄く汚れが削れている。
ロックは灯りを近づけた。
傷は、一方向に伸びていた。
下へ。
「動いたことがある……?」
今は止まっている。
それだけは分かる。
いつ、何のために動いたのかまでは分からなかった。
◇
ロックは入口近くまで戻った。
そこで縄を取り出す。
結ぶ場所は、入る前から見ておいた。
石の突起へ巻けばよさそうにも思えたが、それが動く設備の一部では困る。壁と一続きになっている部分を確かめ、縄を回した。
引く。
体重を掛ける。
緩みはない。
結び目を確かめてから、縄の端を持って下りへ戻った。
荷物を運べるようになったからこそ、余分の縄を持ってこられた。
無限のバッグを買って、最初に役立ったのがこれなのは、悪くないと思った。
ただし、鞄を買った金額を思い出すと、もう少し派手な役立ち方をしてほしい気もする。
ロックはその考えを脇へ置き、縄を下へ送った。
◇
急な斜面の下で、通路は途切れていた。
灯りを低く掲げる。
縁の向こうに、暗い空間がある。
最初は縦穴に見えた。
しかし、光が届く範囲を確かめると、向こう側にも壁が見える。通路から、そのまま広い部屋の上部へ出ているらしかった。
床までは、かなりある。
ロックは腹這いになり、縁へ近づいた。
身体の下には、持ってきた敷物を挟んでいる。
石は湿っていた。長く触れていたい感触ではない。
縄を下ろす。
しばらくして、先端が何かへ触れた。
軽く引くと、抵抗なく動いた。
絡んではいない。
だが、床が平らかどうかも、その場所が乾いているかどうかも、上からでは分からない。
ここで降りる。
そして、足元を確かめてから次を考える。
それでは遅かった。
◇
ロックは縄を引き戻し、先へ小さな重りを結んだ。
その少し上へ、試験用の布を留める。
もう一度、下ろした。
底へ触れたところで、手を止める。
縄の張り具合を変え、近くを少し探った。
重りが転がる。
その音が、妙に遠く聞こえた。
部屋は、見えている以上に広いのかもしれない。
引き上げた布は、濡れていた。
透明に近い液体が染み込んでいる。
ロックは用意していた容器へ試験片を収め、蓋をした。
薬品を塗った物でも、同じことを試す。
下へ入りたい気持ちはあった。
覚えたばかりの魔法もある。
だが、落下を遅くする魔法を使えるようになったからといって、進んで落ちなければならない理由はない。
帰りに登る縄も、そこに残っていなければ困る。
ロックは、縁へ触れていた縄を調べた。
表面に、薄い汚れがついていた。
爪で擦らず、そのまま別の布へ包む。
使った縄を、予備と同じ場所へ戻す気にはなれなかった。
◇
その時、下で音がした。
水が落ちたような、小さな音だった。
ロックは灯りを伏せた。
動かず、耳を澄ます。
しばらくして、もう一度。
今度は、少し長い。
何かが床を擦ったようにも聞こえた。
ロックは剣の柄へ手を置いた。
抜かない。
この縁で剣を構えても、下から来るものへ届くとは限らない。
音は、やがて止まった。
水なのか。
設備なのか。
生き物なのか。
分からない。
ロックは、背後の縄を確かめた。
入口へ続いている。
戻るために必要な物は、まだ使える。
◇
縁から離れようとした時、足元に震えが伝わった。
ロックは即座に身体を低くした。
壁の奥で、重い物が噛み合う。
石と石が擦れるような音。
それが頭上から背後へ、ゆっくりと移っていった。
ロックは来た道を見た。
斜面の中央にあった溝が、一つ、陰へ沈んだ。
続いて、その隣も。
床の一部が動いている。
ロックは縄を掴み、壁際へ身体を寄せた。
しばらくして、中央の斜面を液体が流れ下ってきた。
量は多くない。
だが、先ほどまで足を置いていた辺りを濡らし、そのまま縁から下へ落ちていく。
暗い部屋で、水音が広がった。
さっき聞いたものと、似ていた。
ロックは唇を結んだ。
ここは、放置された地下室ではない。
止まっていた設備が、今、動いた。
次も同じ量が流れるのか。
壁際の段まで届くことはないのか。
何をきっかけに動いたのか。
知らないことが、一度に増えた。
◇
流れが途切れるまで待ち、ロックは戻り始めた。
急がなかった。
急いで足を滑らせれば、中央へ落ちる。
縄を頼りに、一歩ずつ足場を確かめる。
入口の歯が見えた時、ようやく肩の力が少し抜けた。
外へ出てから、持ち込んだ物を順に並べる。
試験片。
容器。
使った縄。
棒。
鞄の覆いにも目を走らせた。
濡れた跡はない。
靴底を確かめ、手袋を外す。
指先に異常はなかった。
ロックは壁へ背を預け、手帳を開いた。
入口から続く下り。
動く床。
上部へ開いた通路。
下にある広い部屋。
流れ込む液体。
見たことだけを、順に書く。
最後に、下で聞いた音も記した。
その横へ、短く付け足す。
原因不明。
ビッグブロブのように、姿を見せてくれる障害ばかりではない。
ロックは手帳を閉じた。
今日は、下へ降りなかった。
次に降りるために、持ち帰る物はできた。