低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第89話 口の奥へ

 長い棒の先に、革の切れ端が揺れていた。

 

 その下には、古びた石の床。

 

 表面を薄く覆う液体が、灯りを受けて鈍く光っている。

 

 ロックは棒を伸ばし、革を液体へ触れさせた。

 

 音はしなかった。

 

 煙も出ない。

 

 それでも、すぐには引き上げなかった。

 

 触れた途端に溶け始めるとは限らない。薬品を扱う男にも、そう言われている。

 

 膝をついた場所は乾いていた。

 

 背後には、人工始原の巨人の巨大な「口」が開いている。

 

 かつて二体のスケルトンウォーリアが立っていた場所には、もう何もいなかった。

 

     ◇

 

 抗酸剤は、試験に使う少量だけを買った。

 

 それを塗った革と、何もしていない革。

 

 同じ大きさに切り、別々の棒へ留めてある。

 

 薬品を使った方には、柄へ二本の刻みをつけた。札が濡れて読めなくなっても、見分けられるようにするためだ。

 

 ロックは二本を交互に確かめた。

 

 塗っていない革の端が、僅かに反り始めていた。

 

 棒を持ち上げる。

 

 液体を切り、持参した浅い陶器の皿へ載せた。

 

 すぐには触らない。

 

 次に、抗酸剤を使った方も引き上げる。

 

 こちらは、見たところ大きく変わっていなかった。

 

「……違いはあるな」

 

 少なくとも、買った物がまるで役に立たないわけではなさそうだった。

 

 だが、いつまで保つのかは分からない。

 

 一度使えば、その後も同じように守られるのかも。

 

 ロックは手帳へ、革を浸した場所と様子を書き込んだ。

 

 足を入れて試さずに済んだだけでも、準備した甲斐があった。

 

     ◇

 

 入口を越えた先は、緩やかな下りになっていた。

 

 左右の壁は内側へ曲がり、天井も丸く覆いかぶさっている。

 

 人が通るための廊下というより、何かを奥へ送るための溝に近かった。

 

 床の両端には、細い段が続いていた。

 

 中央よりは高い。

 

 液体が流れるのは、主に低くなった中央部分らしい。

 

 ロックはその段へ灯りを向けた。

 

 乾いている場所。

 濡れている場所。

 色の変わった場所。

 

 同じように見える石にも、違いがある。

 

 長い棒で先を確かめ、乾いた場所へ足を置いた。

 

 一歩進むたび、肩から下げた無限のバッグが脇へ触れる。

 

 外側には、厚い布で作った覆いを掛けてある。

 

 酸に耐えるための物ではない。

 

 擦れや汚れを防ぎ、何かが飛んできた時に、すぐ表面へ触れないようにするだけだ。

 

 濡れたら、そこで止まる。

 

 それを決めて持ち込んでいた。

 

     ◇

 

 少し進んだところで、ロックは振り返った。

 

 巨大な歯の隙間から、入口の明かりが見える。

 

 まだ、戻れる。

 

 壁際へ小さく印を残し、さらに先を覗いた。

 

 下りは、その先で急になっていた。

 

 床に刻まれているのは、階段ではない。

 

 浅い溝が、横へ幾筋も走っている。

 

 足掛かりに見えたが、よく見ると間隔も形も揃っていなかった。

 

 何かを引っ掛け、奥へ運ぶためのものかもしれない。

 

 ロックは屈み、溝の端へ棒を当てた。

 

 動かない。

 

 押しても、叩いても、ただ固い感触が返ってくる。

 

 それでも、溝へ指を入れる気にはなれなかった。

 

 少し先に、小石が挟まっていた。

 

 その周囲だけ、薄く汚れが削れている。

 

 ロックは灯りを近づけた。

 

 傷は、一方向に伸びていた。

 

 下へ。

 

「動いたことがある……?」

 

 今は止まっている。

 

 それだけは分かる。

 

 いつ、何のために動いたのかまでは分からなかった。

 

     ◇

 

 ロックは入口近くまで戻った。

 

 そこで縄を取り出す。

 

 結ぶ場所は、入る前から見ておいた。

 

 石の突起へ巻けばよさそうにも思えたが、それが動く設備の一部では困る。壁と一続きになっている部分を確かめ、縄を回した。

 

 引く。

 

 体重を掛ける。

 

 緩みはない。

 

 結び目を確かめてから、縄の端を持って下りへ戻った。

 

 荷物を運べるようになったからこそ、余分の縄を持ってこられた。

 

 無限のバッグを買って、最初に役立ったのがこれなのは、悪くないと思った。

 

 ただし、鞄を買った金額を思い出すと、もう少し派手な役立ち方をしてほしい気もする。

 

 ロックはその考えを脇へ置き、縄を下へ送った。

 

     ◇

 

 急な斜面の下で、通路は途切れていた。

 

 灯りを低く掲げる。

 

 縁の向こうに、暗い空間がある。

 

 最初は縦穴に見えた。

 

 しかし、光が届く範囲を確かめると、向こう側にも壁が見える。通路から、そのまま広い部屋の上部へ出ているらしかった。

 

 床までは、かなりある。

 

 ロックは腹這いになり、縁へ近づいた。

 

 身体の下には、持ってきた敷物を挟んでいる。

 

 石は湿っていた。長く触れていたい感触ではない。

 

 縄を下ろす。

 

 しばらくして、先端が何かへ触れた。

 

 軽く引くと、抵抗なく動いた。

 

 絡んではいない。

 

 だが、床が平らかどうかも、その場所が乾いているかどうかも、上からでは分からない。

 

 ここで降りる。

 

 そして、足元を確かめてから次を考える。

 

 それでは遅かった。

 

     ◇

 

 ロックは縄を引き戻し、先へ小さな重りを結んだ。

 

 その少し上へ、試験用の布を留める。

 

 もう一度、下ろした。

 

 底へ触れたところで、手を止める。

 

 縄の張り具合を変え、近くを少し探った。

 

 重りが転がる。

 

 その音が、妙に遠く聞こえた。

 

 部屋は、見えている以上に広いのかもしれない。

 

 引き上げた布は、濡れていた。

 

 透明に近い液体が染み込んでいる。

 

 ロックは用意していた容器へ試験片を収め、蓋をした。

 

 薬品を塗った物でも、同じことを試す。

 

 下へ入りたい気持ちはあった。

 

 覚えたばかりの魔法もある。

 

 だが、落下を遅くする魔法を使えるようになったからといって、進んで落ちなければならない理由はない。

 

 帰りに登る縄も、そこに残っていなければ困る。

 

 ロックは、縁へ触れていた縄を調べた。

 

 表面に、薄い汚れがついていた。

 

 爪で擦らず、そのまま別の布へ包む。

 

 使った縄を、予備と同じ場所へ戻す気にはなれなかった。

 

     ◇

 

 その時、下で音がした。

 

 水が落ちたような、小さな音だった。

 

 ロックは灯りを伏せた。

 

 動かず、耳を澄ます。

 

 しばらくして、もう一度。

 

 今度は、少し長い。

 

 何かが床を擦ったようにも聞こえた。

 

 ロックは剣の柄へ手を置いた。

 

 抜かない。

 

 この縁で剣を構えても、下から来るものへ届くとは限らない。

 

 音は、やがて止まった。

 

 水なのか。

 設備なのか。

 生き物なのか。

 

 分からない。

 

 ロックは、背後の縄を確かめた。

 

 入口へ続いている。

 

 戻るために必要な物は、まだ使える。

 

     ◇

 

 縁から離れようとした時、足元に震えが伝わった。

 

 ロックは即座に身体を低くした。

 

 壁の奥で、重い物が噛み合う。

 

 石と石が擦れるような音。

 

 それが頭上から背後へ、ゆっくりと移っていった。

 

 ロックは来た道を見た。

 

 斜面の中央にあった溝が、一つ、陰へ沈んだ。

 

 続いて、その隣も。

 

 床の一部が動いている。

 

 ロックは縄を掴み、壁際へ身体を寄せた。

 

 しばらくして、中央の斜面を液体が流れ下ってきた。

 

 量は多くない。

 

 だが、先ほどまで足を置いていた辺りを濡らし、そのまま縁から下へ落ちていく。

 

 暗い部屋で、水音が広がった。

 

 さっき聞いたものと、似ていた。

 

 ロックは唇を結んだ。

 

 ここは、放置された地下室ではない。

 

 止まっていた設備が、今、動いた。

 

 次も同じ量が流れるのか。

 

 壁際の段まで届くことはないのか。

 

 何をきっかけに動いたのか。

 

 知らないことが、一度に増えた。

 

     ◇

 

 流れが途切れるまで待ち、ロックは戻り始めた。

 

 急がなかった。

 

 急いで足を滑らせれば、中央へ落ちる。

 

 縄を頼りに、一歩ずつ足場を確かめる。

 

 入口の歯が見えた時、ようやく肩の力が少し抜けた。

 

 外へ出てから、持ち込んだ物を順に並べる。

 

 試験片。

 容器。

 使った縄。

 棒。

 

 鞄の覆いにも目を走らせた。

 

 濡れた跡はない。

 

 靴底を確かめ、手袋を外す。

 

 指先に異常はなかった。

 

 ロックは壁へ背を預け、手帳を開いた。

 

 入口から続く下り。

 動く床。

 上部へ開いた通路。

 下にある広い部屋。

 流れ込む液体。

 

 見たことだけを、順に書く。

 

 最後に、下で聞いた音も記した。

 

 その横へ、短く付け足す。

 

 原因不明。

 

 ビッグブロブのように、姿を見せてくれる障害ばかりではない。

 

 ロックは手帳を閉じた。

 

 今日は、下へ降りなかった。

 

 次に降りるために、持ち帰る物はできた。

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