低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第90話 流れる床

 宿へ戻ったロックは、使った縄を荷袋へ戻さなかった。

 

 浅い皿へ載せ、窓際で乾かす。

 

 水に濡れただけなら、いつもどおり手入れすればいい。

 

 だが、あの通路にあった液体を、ただの水として扱う気にはなれなかった。

 

 棒の先へ留めていた革も、別々の皿へ置いた。

 

 何も塗らなかった物。

 抗酸剤を使った物。

 

 見分けをつけるための刻みを確かめてから、ロックは手帳を開いた。

 

 入口から下り坂。

 

 動く床。

 

 その先は、広い部屋の上へ開いている。

 

 降り口は見つけた。

 

 まだ、帰り道にはできていなかった。

 

     ◇

 

「ここへ、流れてきました」

 

 翌朝。

 

 ロックは薬品を扱う店で、描き直した通路の図を広げた。

 

 店主は図よりも、持ち込まれた容器を先に見た。

 

「開けるなよ」

 

「はい」

 

「容器の外は?」

 

「採った液体がつかないように包んで、別にして運びました」

 

「どこへ入れてきた?」

 

 ロックは肩の鞄を指した。

 

「中で割れていたら、どうするつもりだった」

 

 思わず鞄を見る。

 

 厚布で包み、動かないようにした。それでも、絶対に割れないとは言えない。

 

「……次は、外へ分けます」

 

「分からん物を持ち歩くなら、ほかの荷物へ触れないようにしろ」

 

 店主は台の上を片づけ、ロックに容器を置かせた。

 

 それから、採取した時の様子を聞いた。

 

 どこにあったか。

 何へ触れさせたか。

 どのくらい待ったか。

 

 同じことを何度も確かめられたが、ロックは手帳を見ながら答えた。

 

 書いておいてよかった。

 

 記憶だけなら、もう順番が曖昧になっていた。

 

     ◇

 

 先に調べたのは、持ち帰った革だった。

 

 抗酸剤を使わなかった方は、端が縮み、表面も荒れている。

 

 塗った方にも変化はあった。

 

 ただ、同じではない。

 

「守ってはいるな」

 

 店主が言った。

 

「使えますか?」

 

「何に使うつもりだ?」

 

「装備です。靴とか、手袋とか」

 

「なら、曲がるところも試せ」

 

 ロックは革を見た。

 

 棒へ留めたままでは、ほとんど動かしていない。

 

 歩けば靴は曲がる。

 指を握れば手袋も曲がる。

 

 塗った部分がその動きに耐えるかは、別の話だった。

 

「それと、長く浸けた場合もな」

 

「ずっと浸かるつもりはありません」

 

「つもりどおりに済むなら、こんな物は要らん」

 

 ロックは返す言葉を失った。

 

 店主は二枚の革を並べた。

 

「こいつを塗ったから、濡れた床を好きに歩ける。そう考えるな。触れてしまった時に、少しでも間を稼ぐための物だと思え」

 

 ロックは、その言葉を手帳へ書いた。

 

     ◇

 

 昼までかけて、試験片を増やした。

 

 靴に近い厚さの革。

 薄い革。

 布。

 縄。

 

 同じ物を幾つかずつ用意し、扱いを教わりながら試す。

 

 店主へ預けておく物と、自分で持ち帰る物を分けた。

 

 薬品を使っても、縄を液体へ浸けたままにする使い方は避けたかった。

 

 手元で力を掛けて切れなかったからといって、縦穴で身体を預けられる証明にはならない。

 

 ロックは図を見直した。

 

 縄を下ろす場所が悪い。

 

 通路の中央から下ろせば、後から流れてくる液体を、まともに受ける。

 

 床を伝って縁へ来た液体が、そのまま縄を濡らす。

 

 昨日は、降りる前に引き戻した。

 

 もし下へ降りていたら。

 

 見上げた先で、帰るための縄に液体が流れ続けていたかもしれない。

 

「……横へ回せれば」

 

 図の端へ、線を引き直す。

 

 だが、壁際に縄を固定できる場所があるかは、まだ分からなかった。

 

     ◇

 

 翌日、ロックは再び巨大な「口」の前に立った。

 

 持ち込む物を減らしたわけではない。

 

 ただ、すぐ使う物は鞄の外へ分けた。

 

 灯り。

 棒。

 縄。

 

 試験片も、取り出しやすい場所にある。

 

 無限のバッグの覆いを確かめ、入口へ印を残した。

 

 今日は、流れを見る。

 

 下へ降りるかどうかは、それを見てから決める。

 

     ◇

 

 通路の中央は濡れていた。

 

 前に来た時よりも、少し広い範囲に光が返っている。

 

 ロックは壁際を進んだ。

 

 棒で確かめる。

 足を置く。

 後ろの足を運ぶ。

 

 急な斜面の手前で止まり、灯りを低くした。

 

 壁の奥から、かすかな響きが伝わってくる。

 

 まだ、床は動いていない。

 

 ロックは手帳を開き、最後に設備が動いた時の様子を読み返した。

 

 自分が縁へ近づいたからなのか。

 

 縄を下ろしたからなのか。

 

 それとも、人がいてもいなくても動くのか。

 

 まず、それを確かめたかった。

 

 壁際の乾いた場所へ腰を落とし、待つ。

 

 目は床へ。

 耳は壁の奥へ。

 

 しばらくして、重い音がした。

 

 ロックは手帳を閉じた。

 

     ◇

 

 溝が沈む。

 

 隣も動く。

 

 前に見たものと、同じ順番だった。

 

 その後から、液体が流れてくる。

 

 ロックは棒の先を壁へ寄せ、流れの端を確かめた。

 

 中央を落ちていく液体は、斜面の途中で少し広がる。

 

 石の継ぎ目へ入り、溝へ溜まり、やがて下へ抜けていく。

 

 壁際の段へは届かなかった。

 

 少なくとも、今の流れは。

 

 ロックは、濡れた場所の一番高いところを見た。

 

 壁には、それより上まで色の違う帯が残っている。

 

 古い汚れかもしれない。

 

 以前、そこまで流れた跡かもしれない。

 

 今、足元が乾いているだけで安心はできなかった。

 

     ◇

 

 流れが止まってから、ロックは斜面の先へ進んだ。

 

 前と同じように腹這いになる。

 

 ただし、今回は中央へ寄らない。

 

 壁際から、縁の形を確かめた。

 

 通路の端は、真っ直ぐ切れているわけではなかった。

 

 片側だけ、石が部屋の中へ少し張り出している。

 

 そこへ棒を伸ばす。

 

 表面を叩き、縁の裏へ回し、手元へ返ってくる感触を確かめる。

 

 張り出しの下に、細い隙間があった。

 

 ロックは灯りの向きを変えた。

 

 段だ。

 

 広い部屋の壁に沿って、細い石の段が続いている。

 

 立って歩けるほど広いかは、まだ分からない。

 

 しかし、真下へ降りずに済むかもしれなかった。

 

「そっちか……」

 

 通路の中央から覗いた時には、縁に隠れて見えなかった。

 

 ロックは身体を戻し、縄を手繰り寄せた。

 

     ◇

 

 固定する場所は、通路を少し戻ったところにあった。

 

 壁から突き出した石の部分だ。

 

 近くへ灯りを当て、床の溝と繋がっていないか確かめる。

 

 周囲には動いた跡も、擦れた跡も見えない。

 

 縄を掛け、引く。

 

 角へ当たる部分には、持ってきた厚布を挟んだ。

 

 それからもう一度、身体を預ける。

 

 縄は通路の端を通り、張り出しの横へ届く。

 

 中央の流れからは、離れていた。

 

 ロックは下へ試験片を送った。

 

 壁沿いの段へ触れさせ、引き上げる。

 

 濡れていない。

 

 次に、棒で段の表面を探る。

 

 端が欠けているところがある。

 

 真下に見える範囲は、足を置けそうだった。

 

     ◇

 

 ロックは荷物を確かめた。

 

 手袋。

 靴。

 鞄の覆い。

 縄の結び目。

 

 頭の中で、覚えた呪文を辿る。

 

 足場を失った時に唱えるためだ。

 

 魔法があるからといって、落ちてよいわけではなかった。

 

 身体を横へ向け、片足を縁の外へ出す。

 

 靴底で、壁を探る。

 

 石へ触れた。

 

 少し下げる。

 

 段を捉えた。

 

 縄を握り直し、ゆっくりと体重を移した。

 

 足場は動かない。

 

 もう片方の足も下ろす。

 

 そこで初めて、ロックは広い部屋の中へ顔を向けた。

 

     ◇

 

 床だと思っていた場所は、平らではなかった。

 

 浅い窪みと、盛り上がった筋が幾つも続いている。

 

 液体は、その間を伝って流れていた。

 

 部屋の奥までは見えない。

 

 中央へ降りていれば、立つ場所を探すところから始めることになっただろう。

 

 ロックが立っている段は、壁に沿って横へ伸びていた。

 

 ところどころ欠けているが、その先にも続いている。

 

 人が使うための道なのか。

 

 設備へ手を届かせるための足場なのか。

 

 まだ分からない。

 

 ただ、部屋の底へ降りる必要はなさそうだった。

 

 ロックは縄を離さず、横へ一歩動いた。

 

 その時だった。

 

 灯りの先で、濡れた筋が盛り上がった。

 

 流れているのではない。

 

 床の窪みを越えて、こちらへ向きを変えた。

 

 ロックは止まった。

 

 液体の表面に、灯りが映っている。

 

 その光が、壁際へ近づいてくる。

 

 今度は、音だけではなかった。

 

 ロックは頭上の縁を確かめた。

 

 戻れる高さだ。

 

 縄も、手の中にある。

 

 それから、もう一度、動いているものを見た。

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