低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
宿へ戻ったロックは、使った縄を荷袋へ戻さなかった。
浅い皿へ載せ、窓際で乾かす。
水に濡れただけなら、いつもどおり手入れすればいい。
だが、あの通路にあった液体を、ただの水として扱う気にはなれなかった。
棒の先へ留めていた革も、別々の皿へ置いた。
何も塗らなかった物。
抗酸剤を使った物。
見分けをつけるための刻みを確かめてから、ロックは手帳を開いた。
入口から下り坂。
動く床。
その先は、広い部屋の上へ開いている。
降り口は見つけた。
まだ、帰り道にはできていなかった。
◇
「ここへ、流れてきました」
翌朝。
ロックは薬品を扱う店で、描き直した通路の図を広げた。
店主は図よりも、持ち込まれた容器を先に見た。
「開けるなよ」
「はい」
「容器の外は?」
「採った液体がつかないように包んで、別にして運びました」
「どこへ入れてきた?」
ロックは肩の鞄を指した。
「中で割れていたら、どうするつもりだった」
思わず鞄を見る。
厚布で包み、動かないようにした。それでも、絶対に割れないとは言えない。
「……次は、外へ分けます」
「分からん物を持ち歩くなら、ほかの荷物へ触れないようにしろ」
店主は台の上を片づけ、ロックに容器を置かせた。
それから、採取した時の様子を聞いた。
どこにあったか。
何へ触れさせたか。
どのくらい待ったか。
同じことを何度も確かめられたが、ロックは手帳を見ながら答えた。
書いておいてよかった。
記憶だけなら、もう順番が曖昧になっていた。
◇
先に調べたのは、持ち帰った革だった。
抗酸剤を使わなかった方は、端が縮み、表面も荒れている。
塗った方にも変化はあった。
ただ、同じではない。
「守ってはいるな」
店主が言った。
「使えますか?」
「何に使うつもりだ?」
「装備です。靴とか、手袋とか」
「なら、曲がるところも試せ」
ロックは革を見た。
棒へ留めたままでは、ほとんど動かしていない。
歩けば靴は曲がる。
指を握れば手袋も曲がる。
塗った部分がその動きに耐えるかは、別の話だった。
「それと、長く浸けた場合もな」
「ずっと浸かるつもりはありません」
「つもりどおりに済むなら、こんな物は要らん」
ロックは返す言葉を失った。
店主は二枚の革を並べた。
「こいつを塗ったから、濡れた床を好きに歩ける。そう考えるな。触れてしまった時に、少しでも間を稼ぐための物だと思え」
ロックは、その言葉を手帳へ書いた。
◇
昼までかけて、試験片を増やした。
靴に近い厚さの革。
薄い革。
布。
縄。
同じ物を幾つかずつ用意し、扱いを教わりながら試す。
店主へ預けておく物と、自分で持ち帰る物を分けた。
薬品を使っても、縄を液体へ浸けたままにする使い方は避けたかった。
手元で力を掛けて切れなかったからといって、縦穴で身体を預けられる証明にはならない。
ロックは図を見直した。
縄を下ろす場所が悪い。
通路の中央から下ろせば、後から流れてくる液体を、まともに受ける。
床を伝って縁へ来た液体が、そのまま縄を濡らす。
昨日は、降りる前に引き戻した。
もし下へ降りていたら。
見上げた先で、帰るための縄に液体が流れ続けていたかもしれない。
「……横へ回せれば」
図の端へ、線を引き直す。
だが、壁際に縄を固定できる場所があるかは、まだ分からなかった。
◇
翌日、ロックは再び巨大な「口」の前に立った。
持ち込む物を減らしたわけではない。
ただ、すぐ使う物は鞄の外へ分けた。
灯り。
棒。
縄。
試験片も、取り出しやすい場所にある。
無限のバッグの覆いを確かめ、入口へ印を残した。
今日は、流れを見る。
下へ降りるかどうかは、それを見てから決める。
◇
通路の中央は濡れていた。
前に来た時よりも、少し広い範囲に光が返っている。
ロックは壁際を進んだ。
棒で確かめる。
足を置く。
後ろの足を運ぶ。
急な斜面の手前で止まり、灯りを低くした。
壁の奥から、かすかな響きが伝わってくる。
まだ、床は動いていない。
ロックは手帳を開き、最後に設備が動いた時の様子を読み返した。
自分が縁へ近づいたからなのか。
縄を下ろしたからなのか。
それとも、人がいてもいなくても動くのか。
まず、それを確かめたかった。
壁際の乾いた場所へ腰を落とし、待つ。
目は床へ。
耳は壁の奥へ。
しばらくして、重い音がした。
ロックは手帳を閉じた。
◇
溝が沈む。
隣も動く。
前に見たものと、同じ順番だった。
その後から、液体が流れてくる。
ロックは棒の先を壁へ寄せ、流れの端を確かめた。
中央を落ちていく液体は、斜面の途中で少し広がる。
石の継ぎ目へ入り、溝へ溜まり、やがて下へ抜けていく。
壁際の段へは届かなかった。
少なくとも、今の流れは。
ロックは、濡れた場所の一番高いところを見た。
壁には、それより上まで色の違う帯が残っている。
古い汚れかもしれない。
以前、そこまで流れた跡かもしれない。
今、足元が乾いているだけで安心はできなかった。
◇
流れが止まってから、ロックは斜面の先へ進んだ。
前と同じように腹這いになる。
ただし、今回は中央へ寄らない。
壁際から、縁の形を確かめた。
通路の端は、真っ直ぐ切れているわけではなかった。
片側だけ、石が部屋の中へ少し張り出している。
そこへ棒を伸ばす。
表面を叩き、縁の裏へ回し、手元へ返ってくる感触を確かめる。
張り出しの下に、細い隙間があった。
ロックは灯りの向きを変えた。
段だ。
広い部屋の壁に沿って、細い石の段が続いている。
立って歩けるほど広いかは、まだ分からない。
しかし、真下へ降りずに済むかもしれなかった。
「そっちか……」
通路の中央から覗いた時には、縁に隠れて見えなかった。
ロックは身体を戻し、縄を手繰り寄せた。
◇
固定する場所は、通路を少し戻ったところにあった。
壁から突き出した石の部分だ。
近くへ灯りを当て、床の溝と繋がっていないか確かめる。
周囲には動いた跡も、擦れた跡も見えない。
縄を掛け、引く。
角へ当たる部分には、持ってきた厚布を挟んだ。
それからもう一度、身体を預ける。
縄は通路の端を通り、張り出しの横へ届く。
中央の流れからは、離れていた。
ロックは下へ試験片を送った。
壁沿いの段へ触れさせ、引き上げる。
濡れていない。
次に、棒で段の表面を探る。
端が欠けているところがある。
真下に見える範囲は、足を置けそうだった。
◇
ロックは荷物を確かめた。
手袋。
靴。
鞄の覆い。
縄の結び目。
頭の中で、覚えた呪文を辿る。
足場を失った時に唱えるためだ。
魔法があるからといって、落ちてよいわけではなかった。
身体を横へ向け、片足を縁の外へ出す。
靴底で、壁を探る。
石へ触れた。
少し下げる。
段を捉えた。
縄を握り直し、ゆっくりと体重を移した。
足場は動かない。
もう片方の足も下ろす。
そこで初めて、ロックは広い部屋の中へ顔を向けた。
◇
床だと思っていた場所は、平らではなかった。
浅い窪みと、盛り上がった筋が幾つも続いている。
液体は、その間を伝って流れていた。
部屋の奥までは見えない。
中央へ降りていれば、立つ場所を探すところから始めることになっただろう。
ロックが立っている段は、壁に沿って横へ伸びていた。
ところどころ欠けているが、その先にも続いている。
人が使うための道なのか。
設備へ手を届かせるための足場なのか。
まだ分からない。
ただ、部屋の底へ降りる必要はなさそうだった。
ロックは縄を離さず、横へ一歩動いた。
その時だった。
灯りの先で、濡れた筋が盛り上がった。
流れているのではない。
床の窪みを越えて、こちらへ向きを変えた。
ロックは止まった。
液体の表面に、灯りが映っている。
その光が、壁際へ近づいてくる。
今度は、音だけではなかった。
ロックは頭上の縁を確かめた。
戻れる高さだ。
縄も、手の中にある。
それから、もう一度、動いているものを見た。