低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
ロックは、縄を握る手へ力を込めた。
床を流れていたはずのものが、壁際へ寄ってくる。
灯りの反射が歪み、その下にある輪郭が浮かび上がった。
液体ではない。
濡れた床へ、薄く張りついていたのだ。
幅のある身体。
先細りになった後端。
前へ伸びる、短い突起。
巨大な蛞蝓に似ていた。
ただし、身体は向こう側の石が透けるほど薄く、濡れた床とほとんど見分けがつかなかった。
それが身を縮める。
次の瞬間、前端が壁へ持ち上がった。
◇
ロックは灯りを高くした。
壁へ張りついたものが、身体の幅を狭めながら登ってくる。
速くはない。
だが、足場を探す様子も、滑る様子もなかった。
石の継ぎ目を越え、張り出しへ触れ、そのまま上がってくる。
自分が立つ段まで、そう遠くない。
ロックは腰の剣へ目を落とした。
斬れるかどうか、分からない。
斬った時、何が飛び散るかも分からない。
この細い段で、身体を寄せてくる相手へ剣を振るう。
考えただけで、背中が冷えた。
ロックは抜かなかった。
代わりに、腰の袋から石を一つ取り出す。
狙うのは、持ち上がった身体の先だった。
◇
投げた石が、濡れた身体へ当たった。
鈍い音。
前端が引っ込み、短い突起も縮む。
登る動きが止まった。
ロックは縄を引き寄せ、足を上へ掛けた。
一度、靴底が滑る。
腕へ重みが掛かった。
歯を食いしばり、身体を壁へ寄せる。
もう一度。
今度は足が掛かった。
縁へ肘を載せ、腹を擦りながら通路へ戻る。
起き上がる前に、下を見た。
止まっていたものが、再び登り始めていた。
「……効かなかったわけじゃないな」
ロックは息を整えた。
当たれば、引っ込む。
それだけは見た。
だが、追うのを諦めたわけではなかった。
◇
縄を引き上げる。
床へ擦らないよう、輪にして脇へ置いた。
下に残したままでは、あの生き物に触れられるかもしれない。
腐るかどうか以前に、縄を掴まれても困る。
ロックは杖投石器を構えた。
通路の幅なら振れる。
縁から離れ、相手が姿を見せる場所へ狙いを定めた。
しばらくして、透明な前端が現れた。
石へ触れ、平たく広がる。
続いて、短い突起が縁を越えた。
ロックは弾を放った。
さっきよりも重い音がした。
身体が大きく凹む。
突起が引っ込み、縁から姿が消えた。
下で、何かが床へ落ちる音が響いた。
ロックは構えを解かなかった。
◇
追ってこない。
しばらく待っても、縁には何も現れなかった。
倒したのか。
落ちただけなのか。
灯りを持って覗き込みたいところだったが、そこへ頭を出す気にはなれない。
ロックは長い棒を取った。
先へ小さな鏡を留め、縁の向こうへ差し出す。
灯りの向きを変える。
鏡に映る範囲は狭く、思ったところを映すのも難しかった。
何度か角度を変え、ようやく壁の下が見えた。
濡れた床。
その上に、丸まったものがある。
ゆっくりと、形を戻していた。
ロックは棒を引いた。
死んではいない。
少なくとも、すぐに倒せる相手ではなかった。
◇
壁には、登ってきた跡が残っていた。
細く光る、濡れた帯だ。
ロックはその端へ、何も塗っていない布を触れさせた。
しばらく待ち、引き戻す。
布は濡れていた。
すぐに穴が開く様子はない。
しかし、それで素手を触れてよいとは思わなかった。
別の容器へ入れ、採った場所を書いた札を結びつける。
床の液体とは、分けておく。
あの生き物の表面についていた物なのか。
床から運ばれた液体なのか。
今のロックには、区別できなかった。
◇
下で音がした。
ロックは棒を置き、杖投石器へ持ち替えた。
しかし、縁には何も出てこない。
音は、横から聞こえていた。
石を、濡れた布で擦るような音。
それが壁の向こうで続く。
ロックは眉を寄せた。
まっすぐ登ってこない。
壁沿いの段へ上がったのかもしれない。
そこから横へ移動し、自分のいる通路へ近づいているのか。
ロックは先ほど見た足場を思い出した。
細い段。
ところどころ欠けた縁。
自分には慎重に歩く必要がある道でも、石へ張りついて進むものには、同じ障害にならない。
ロックは荷物をまとめ始めた。
ここへ留まり、戻ってくるのを待つ理由はなかった。
◇
壁の奥で、重い音が鳴った。
ロックの手が止まる。
床の溝が沈んだ。
来る。
灯りと荷物を壁際へ寄せ、中央から離れた。
液体が流れてくる。
前に見た時と同じように、斜面を下り、縁から落ちていく。
その水音の中へ、別の音が混ざった。
重い物が、壁へぶつかる。
ロックは杖投石器を持ち上げた。
縁の下から、透明な身体が現れた。
さっきの個体だろうか。
身体を平たく広げ、流れの外側へ張りついている。
前端が揺れた。
こちらへ向く。
ロックは撃った。
弾は相手の横を抜け、石へ当たった。
跳ねた欠片が、流れへ落ちる。
相手は止まらなかった。
◇
次の弾を、すぐには入れられなかった。
足元へ、細い流れが寄ってきたのだ。
ロックは片足を引いた。
乾いていた段の端が濡れている。
上流で何かに遮られたのか、流れが僅かに向きを変えていた。
前には、登ってくる生き物。
足元には、正体の分からない液体。
ロックは杖投石器を下げた。
撃つために立ち止まれば、足元を見るのが遅れる。
相手だけを見て戦える場所ではなかった。
ロックは退いた。
一歩。
もう一歩。
壁へ身体を擦りつけないよう、狭い段を戻る。
透明な前端が縁を越え、通路へ載った。
その後ろで、液体が落ち続けていた。
◇
ロックは長い棒を構えた。
突くためではない。
先端へ相手の前を横切らせ、こちらへ近づく動きを遮る。
短い突起が縮んだ。
その隙に、また一歩退く。
棒へ、ぬるりとした重みが掛かった。
ロックは引いた。
離れない。
身体の前端が、棒へ被さっている。
力比べをするつもりはなかった。
ロックは手を放した。
棒が倒れ、中央の流れへ入る。
生き物も、その方へ身を寄せた。
ロックは向き直った。
走り出したいのを堪え、乾いた足場を選んで戻る。
背後で、棒が石へ当たる音がした。
◇
急な斜面を越えたところで、振り返る。
追ってくる姿はない。
灯りを低くして待った。
何も現れなかった。
ロックは息を吐き、入口へ戻った。
失ったのは、試験片を留めていた長い棒だ。
杖投石器も、縄も、無限のバッグもある。
靴と手袋を確かめる。
液体へ踏み込んだ覚えはない。
それでも、目で確かめるまでは落ち着かなかった。
◇
巨大な歯の外側へ腰を下ろし、ロックは手帳を開いた。
透明に近い、蛞蝓状の生物。
濡れた床では見分けにくい。
壁を登る。
石を当てると、身体の先を引っ込める。
強く当てても、動かなくなったとは確認できない。
そこまで書き、少し考えた。
倒せるかどうかだけを調べても、足りない。
戦っている間に、床が動く。
液体が流れる。
足場が変わる。
手帳へ、下の部屋の形を描き足す。
ロックが立っていた段と、登ってきたものの位置。
流れが寄ってきた場所。
棒を手放した場所。
次に同じところへ立てば、また同じように挟まれる。
ロックは図の壁沿いへ指を滑らせた。
この先を調べるなら、まず、あの生き物が近づけない場所を見つけるか、近づく前に追い払わなければならない。
だが、壁さえ道にする相手に、そんな場所があるだろうか。
ロックは、持ち帰った容器を見た。
壁へ残された、濡れた跡。
倒し方は、まだ分からない。
何を避けているのかも。
それでも、昨日は音しか聞こえなかったものを、今日は見た。
ロックは容器を包み直した。
次は、こいつについて調べる番だった。