低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第91話 壁を登るもの

 ロックは、縄を握る手へ力を込めた。

 

 床を流れていたはずのものが、壁際へ寄ってくる。

 

 灯りの反射が歪み、その下にある輪郭が浮かび上がった。

 

 液体ではない。

 

 濡れた床へ、薄く張りついていたのだ。

 

 幅のある身体。

 先細りになった後端。

 前へ伸びる、短い突起。

 

 巨大な蛞蝓に似ていた。

 

 ただし、身体は向こう側の石が透けるほど薄く、濡れた床とほとんど見分けがつかなかった。

 

 それが身を縮める。

 

 次の瞬間、前端が壁へ持ち上がった。

 

     ◇

 

 ロックは灯りを高くした。

 

 壁へ張りついたものが、身体の幅を狭めながら登ってくる。

 

 速くはない。

 

 だが、足場を探す様子も、滑る様子もなかった。

 

 石の継ぎ目を越え、張り出しへ触れ、そのまま上がってくる。

 

 自分が立つ段まで、そう遠くない。

 

 ロックは腰の剣へ目を落とした。

 

 斬れるかどうか、分からない。

 

 斬った時、何が飛び散るかも分からない。

 

 この細い段で、身体を寄せてくる相手へ剣を振るう。

 

 考えただけで、背中が冷えた。

 

 ロックは抜かなかった。

 

 代わりに、腰の袋から石を一つ取り出す。

 

 狙うのは、持ち上がった身体の先だった。

 

     ◇

 

 投げた石が、濡れた身体へ当たった。

 

 鈍い音。

 

 前端が引っ込み、短い突起も縮む。

 

 登る動きが止まった。

 

 ロックは縄を引き寄せ、足を上へ掛けた。

 

 一度、靴底が滑る。

 

 腕へ重みが掛かった。

 

 歯を食いしばり、身体を壁へ寄せる。

 

 もう一度。

 

 今度は足が掛かった。

 

 縁へ肘を載せ、腹を擦りながら通路へ戻る。

 

 起き上がる前に、下を見た。

 

 止まっていたものが、再び登り始めていた。

 

「……効かなかったわけじゃないな」

 

 ロックは息を整えた。

 

 当たれば、引っ込む。

 

 それだけは見た。

 

 だが、追うのを諦めたわけではなかった。

 

     ◇

 

 縄を引き上げる。

 

 床へ擦らないよう、輪にして脇へ置いた。

 

 下に残したままでは、あの生き物に触れられるかもしれない。

 

 腐るかどうか以前に、縄を掴まれても困る。

 

 ロックは杖投石器を構えた。

 

 通路の幅なら振れる。

 

 縁から離れ、相手が姿を見せる場所へ狙いを定めた。

 

 しばらくして、透明な前端が現れた。

 

 石へ触れ、平たく広がる。

 

 続いて、短い突起が縁を越えた。

 

 ロックは弾を放った。

 

 さっきよりも重い音がした。

 

 身体が大きく凹む。

 

 突起が引っ込み、縁から姿が消えた。

 

 下で、何かが床へ落ちる音が響いた。

 

 ロックは構えを解かなかった。

 

     ◇

 

 追ってこない。

 

 しばらく待っても、縁には何も現れなかった。

 

 倒したのか。

 

 落ちただけなのか。

 

 灯りを持って覗き込みたいところだったが、そこへ頭を出す気にはなれない。

 

 ロックは長い棒を取った。

 

 先へ小さな鏡を留め、縁の向こうへ差し出す。

 

 灯りの向きを変える。

 

 鏡に映る範囲は狭く、思ったところを映すのも難しかった。

 

 何度か角度を変え、ようやく壁の下が見えた。

 

 濡れた床。

 

 その上に、丸まったものがある。

 

 ゆっくりと、形を戻していた。

 

 ロックは棒を引いた。

 

 死んではいない。

 

 少なくとも、すぐに倒せる相手ではなかった。

 

     ◇

 

 壁には、登ってきた跡が残っていた。

 

 細く光る、濡れた帯だ。

 

 ロックはその端へ、何も塗っていない布を触れさせた。

 

 しばらく待ち、引き戻す。

 

 布は濡れていた。

 

 すぐに穴が開く様子はない。

 

 しかし、それで素手を触れてよいとは思わなかった。

 

 別の容器へ入れ、採った場所を書いた札を結びつける。

 

 床の液体とは、分けておく。

 

 あの生き物の表面についていた物なのか。

 床から運ばれた液体なのか。

 

 今のロックには、区別できなかった。

 

     ◇

 

 下で音がした。

 

 ロックは棒を置き、杖投石器へ持ち替えた。

 

 しかし、縁には何も出てこない。

 

 音は、横から聞こえていた。

 

 石を、濡れた布で擦るような音。

 

 それが壁の向こうで続く。

 

 ロックは眉を寄せた。

 

 まっすぐ登ってこない。

 

 壁沿いの段へ上がったのかもしれない。

 

 そこから横へ移動し、自分のいる通路へ近づいているのか。

 

 ロックは先ほど見た足場を思い出した。

 

 細い段。

 ところどころ欠けた縁。

 

 自分には慎重に歩く必要がある道でも、石へ張りついて進むものには、同じ障害にならない。

 

 ロックは荷物をまとめ始めた。

 

 ここへ留まり、戻ってくるのを待つ理由はなかった。

 

     ◇

 

 壁の奥で、重い音が鳴った。

 

 ロックの手が止まる。

 

 床の溝が沈んだ。

 

 来る。

 

 灯りと荷物を壁際へ寄せ、中央から離れた。

 

 液体が流れてくる。

 

 前に見た時と同じように、斜面を下り、縁から落ちていく。

 

 その水音の中へ、別の音が混ざった。

 

 重い物が、壁へぶつかる。

 

 ロックは杖投石器を持ち上げた。

 

 縁の下から、透明な身体が現れた。

 

 さっきの個体だろうか。

 

 身体を平たく広げ、流れの外側へ張りついている。

 

 前端が揺れた。

 

 こちらへ向く。

 

 ロックは撃った。

 

 弾は相手の横を抜け、石へ当たった。

 

 跳ねた欠片が、流れへ落ちる。

 

 相手は止まらなかった。

 

     ◇

 

 次の弾を、すぐには入れられなかった。

 

 足元へ、細い流れが寄ってきたのだ。

 

 ロックは片足を引いた。

 

 乾いていた段の端が濡れている。

 

 上流で何かに遮られたのか、流れが僅かに向きを変えていた。

 

 前には、登ってくる生き物。

 

 足元には、正体の分からない液体。

 

 ロックは杖投石器を下げた。

 

 撃つために立ち止まれば、足元を見るのが遅れる。

 

 相手だけを見て戦える場所ではなかった。

 

 ロックは退いた。

 

 一歩。

 

 もう一歩。

 

 壁へ身体を擦りつけないよう、狭い段を戻る。

 

 透明な前端が縁を越え、通路へ載った。

 

 その後ろで、液体が落ち続けていた。

 

     ◇

 

 ロックは長い棒を構えた。

 

 突くためではない。

 

 先端へ相手の前を横切らせ、こちらへ近づく動きを遮る。

 

 短い突起が縮んだ。

 

 その隙に、また一歩退く。

 

 棒へ、ぬるりとした重みが掛かった。

 

 ロックは引いた。

 

 離れない。

 

 身体の前端が、棒へ被さっている。

 

 力比べをするつもりはなかった。

 

 ロックは手を放した。

 

 棒が倒れ、中央の流れへ入る。

 

 生き物も、その方へ身を寄せた。

 

 ロックは向き直った。

 

 走り出したいのを堪え、乾いた足場を選んで戻る。

 

 背後で、棒が石へ当たる音がした。

 

     ◇

 

 急な斜面を越えたところで、振り返る。

 

 追ってくる姿はない。

 

 灯りを低くして待った。

 

 何も現れなかった。

 

 ロックは息を吐き、入口へ戻った。

 

 失ったのは、試験片を留めていた長い棒だ。

 

 杖投石器も、縄も、無限のバッグもある。

 

 靴と手袋を確かめる。

 

 液体へ踏み込んだ覚えはない。

 

 それでも、目で確かめるまでは落ち着かなかった。

 

     ◇

 

 巨大な歯の外側へ腰を下ろし、ロックは手帳を開いた。

 

 透明に近い、蛞蝓状の生物。

 

 濡れた床では見分けにくい。

 壁を登る。

 石を当てると、身体の先を引っ込める。

 強く当てても、動かなくなったとは確認できない。

 

 そこまで書き、少し考えた。

 

 倒せるかどうかだけを調べても、足りない。

 

 戦っている間に、床が動く。

 液体が流れる。

 足場が変わる。

 

 手帳へ、下の部屋の形を描き足す。

 

 ロックが立っていた段と、登ってきたものの位置。

 

 流れが寄ってきた場所。

 

 棒を手放した場所。

 

 次に同じところへ立てば、また同じように挟まれる。

 

 ロックは図の壁沿いへ指を滑らせた。

 

 この先を調べるなら、まず、あの生き物が近づけない場所を見つけるか、近づく前に追い払わなければならない。

 

 だが、壁さえ道にする相手に、そんな場所があるだろうか。

 

 ロックは、持ち帰った容器を見た。

 

 壁へ残された、濡れた跡。

 

 倒し方は、まだ分からない。

 

 何を避けているのかも。

 

 それでも、昨日は音しか聞こえなかったものを、今日は見た。

 

 ロックは容器を包み直した。

 

 次は、こいつについて調べる番だった。

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