低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。   作:駄文亭

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第92話 先に食わせろ

 店主は、二つの容器を離して置いた。

 

 一つは、床から採った液体。

 

 もう一つは、あの生き物が壁へ残した跡だ。

 

「こっちは、別の物が混じっているな」

 

 指されたのは、壁の跡を収めた方だった。

 

「毒ですか?」

 

「そこまでは分からん。見ただけで決めつけるな」

 

 ロックは頷いた。

 

 透明だから水。

 

 蛞蝓に似ているから、ただの粘液。

 

 そう思って触るには、出会った場所が悪すぎた。

 

「革が傷んだのは、床の方ですか?」

 

「こちらの方が、はっきりしている」

 

 店主は試験片を示した。

 

 何も塗っていない革と、抗酸剤を使った革。

 

 違いは出ていた。

 

 だが、抗酸剤を使った方も、いつまでも同じ状態ではない。

 

「塗り直す必要がありますね」

 

「濡れたままにするな。傷んだところへ、また塗れば元に戻るとも思うなよ」

 

 ロックは手帳へ書いた。

 

 抗酸剤は、足場の代わりにはならない。

 

 やはり、濡れた床へ降りずに済む道が必要だった。

 

     ◇

 

 魔術師ギルドへ寄ると、作業室には使い終えた器具が並んでいた。

 

 ロックは前掛けを借り、指示された物を運ぶ。

 

 急いでいるからといって、途中で仕事を投げ出せば、次から入れてもらえなくなる。

 

 薬品の扱いを覚えられる場所を、自分から失うつもりはなかった。

 

「何だ。今日は静かだな」

 

 担当の男が言った。

 

「考え事です」

 

「手元を見てやれよ」

 

「はい」

 

 ロックは瓶を置き直した。

 

 使い終えた容器の底には、僅かに液体が残っている。

 

 前なら、これを集められないかと考えていた。

 

 今は札を見てから、決められた場所へ運ぶ。

 

 どれが目的の物なのか、少しずつ分かるようにはなってきた。

 

 だからこそ、似た色の液体を同じ瓶へ移す気にはなれなくなっていた。

 

 くすねる算段は、まだ捨てていない。

 

 ただ、持ち帰るなら、名前と使い道を確かめた物でなければ困る。

 

     ◇

 

 昼の休みに、ロックは手帳を開いた。

 

 壁を登る生き物。

 

 石を当てれば引っ込むが、追い払えたとは言い切れない。

 

 棒を押しつけた時には、その先へ身体を被せてきた。

 

 攻撃したのか。

 

 掴んだのか。

 

 それとも、食べようとしたのか。

 

 ロックはその箇所へ、丸をつけた。

 

 下の部屋は、取り込んだ物を分解する場所のはずだった。

 

 そこに棲む生き物なら、何を食べているのだろう。

 

 流れてくる物を待っているのか。

 

 動く物を捕まえるのか。

 

 人間も食べるのか。

 

 最後の疑問は、できれば自分以外で確かめたかった。

 

     ◇

 

 その日のうちに、ロックは肉屋で屑肉を買った。

 

 骨に残った肉や、切り分けた端の部分だ。

 

 自分の食事へ回すには扱いづらいが、食べるかどうかを試すには十分だった。

 

 宿で小さく分け、別々に包む。

 

 長い棒も買い直した。

 

 今度は、先端へ物を結びつけるだけでなく、外から外せるようにする。

 

 紐を引けば、留めた物が落ちる。

 

 何度か試し、うまく外れなかったところを削り直した。

 

 相手が掴んだ棒を、また一本まるごと渡す気にはなれなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 巨大な「口」を越えたロックは、斜面の上で待った。

 

 床が動き、液体が流れる。

 

 その間は、先へ進まない。

 

 流れが途切れてから、壁際を辿って広い部屋の縁へ近づいた。

 

 昨日置いてきた棒は見えなかった。

 

 下へ落ちたのか。

 どこかへ運ばれたのか。

 

 灯りを動かし、濡れた床を見る。

 

 何もいないように見える場所で、光が歪んだ。

 

 ロックは止まった。

 

 いた。

 

 床へ平たく広がっている。

 

 端が、ゆっくりと持ち上がった。

 

     ◇

 

 ロックは屑肉を棒の先へ留めた。

 

 縁から離れたまま、下へ差し出す。

 

 透明な身体の前端が動いた。

 

 すぐに飛びついてくるわけではない。

 

 短い突起が伸び、肉の方へ向いた。

 

 ロックは棒を少し横へ動かした。

 

 相手も向きを変える。

 

 もう少し。

 

 身体を縮め、伸ばしながら、後を追ってくる。

 

 ロックは肉を床へ近づけた。

 

 前端が触れた。

 

 薄い身体が、その上へ被さる。

 

 紐を引いた。

 

 肉が棒から外れ、透明な身体の下へ消えた。

 

 ロックは棒を戻した。

 

 相手は、ついてこなかった。

 

     ◇

 

 食べている。

 

 そう見えた。

 

 肉の塊が身体の下に透け、その周囲がゆっくりと動いている。

 

 ロックはすぐには降りなかった。

 

 どれくらいで食べ終えるのか。

 

 食べている間でも、近づけば向かってくるのか。

 

 分からないことは多かった。

 

 それでも、昨日は自分へ近づいてきたものが、今は肉の上へ留まっている。

 

 ロックは二つ目の包みを取り出した。

 

 今度は、少し離れた場所へ落とす。

 

 音に反応したのか、突起が一度縮んだ。

 

 だが、目の前の肉を離れない。

 

「……先に食わせればいいのか」

 

 小声で呟いた。

 

 倒す方法ではない。

 

 自分の通る場所から、離れてもらう方法だった。

 

     ◇

 

 縄を固定し、壁沿いの段へ足を下ろす。

 

 下の生き物は、まだ肉へ被さっていた。

 

 ロックは一歩、横へ動いた。

 

 立ち止まり、相手を見る。

 

 動かない。

 

 もう一歩。

 

 段の端には、欠けているところがあった。跨げる幅だが、踏み外せば濡れた床へ落ちる。

 

 片手を壁へ添えたいところだった。

 

 しかし、昨日あの生き物が登った辺りには、濡れた筋が残っている。

 

 手を置く場所も選ばなければならなかった。

 

 ロックは慎重に欠けた部分を越えた。

 

 背後の縄から、少しずつ離れていく。

 

     ◇

 

 部屋の中では、入口から聞いた時よりも、設備の音が大きかった。

 

 壁の奥で、何かが動く。

 

 低い振動が靴底から伝わってくる。

 

 ロックは足を止めた。

 

 流れが来る。

 

 壁へ身体を寄せ、中央の床を見た。

 

 上の通路から液体が落ちてくる。

 

 窪みに溜まり、盛り上がった筋の間へ広がる。

 

 肉へ被さっていた生き物も、その流れに触れた。

 

 逃げる様子はなかった。

 

 身体を低くし、床へ張りついている。

 

 その横を、二つ目の肉が流されていった。

 

 透明な前端が、そちらを向いた。

 

 ロックは動かなかった。

 

 やがて流れが弱まると、生き物は肉を追って部屋の奥へ進み始めた。

 

     ◇

 

 段の先に、四角い窪みがあった。

 

 壁の継ぎ目とは違う。

 

 近づくと、扉だと分かった。

 

 低く、幅も狭い。

 

 大きな荷を運び込むための物には見えなかった。

 

 扉の上へ、古代語の文字が刻まれている。

 

 ロックは灯りを寄せた。

 

 汚れに埋もれた部分を、乾いた布で少しずつ拭う。

 

 読める字を拾う。

 

 保守。

 

 通路。

 

 ロックは、口元が緩むのを感じた。

 

 やはり、あった。

 

 動く設備なら、手入れをする者が近づく道もあるはずだ。

 

 消化するための床を、人が毎回歩いていたとは思いたくなかった。

 

     ◇

 

 取っ手へ手を掛ける前に、周囲を調べた。

 

 扉の下には、液体が入った跡がある。

 

 だが、段の上まで濡れてはいない。

 

 蝶番。

 枠。

 錠前。

 

 どれも古いが、形は残っていた。

 

 仕掛けがないかを確かめ、取っ手へ布を巻いて引く。

 

 開かない。

 

 押しても動かない。

 

 ロックは腰の道具袋を開いた。

 

 ようやく、自分のよく知っている仕事になった。

 

 錠穴へ道具を入れる。

 

 内部には、細かな汚れが詰まっていた。

 

 無理に回さず、少しずつ掻き出す。

 

 背後を見る。

 

 透明な生き物は、奥で止まっていた。

 

 こちらへ来る様子はない。

 

 ロックは錠へ向き直った。

 

     ◇

 

 小さな手応えが、指先へ伝わった。

 

 回す。

 

 途中で止まる。

 

 押さえる角度を変え、もう一度。

 

 錠が外れた。

 

 ロックは道具を戻し、扉の脇へ身体を寄せた。

 

 細く開く。

 

 隙間から、乾いた空気が頬へ触れた。

 

 灯りを先へ向ける。

 

 狭い通路。

 

 床は平らで、中央を液体が流れる溝もない。

 

 少なくとも、目の届く範囲は乾いていた。

 

 ロックは足元へ棒を伸ばし、床を確かめた。

 

 一歩入る。

 

 そのまま、扉の内側も調べた。

 

 内側には取っ手があり、開けるための仕組みも残っている。

 

 閉じ込められる心配を一つ減らしてから、ようやく息を吐いた。

 

     ◇

 

 通路の壁には、小さな窓があった。

 

 厚い透明な板の向こうに、先ほどの部屋が見える。

 

 ロックは顔を近づけすぎないよう、横から覗いた。

 

 透明な生き物が、流れてきた肉へ被さっている。

 

 その奥でも、濡れた床が動いた。

 

 もう一匹。

 

 少し離れた場所にも、歪んだ灯りが見えた。

 

 ロックは黙って数えた。

 

 一匹だけではなかった。

 

 下へ降りてから石を投げ続けていたら、どうなっただろう。

 

 手帳を取り出す。

 

 保守通路の入口と、開けた錠の形を書き留めた。

 

 それから、窓の向こうをもう一度見る。

 

 何を食べるかは、少し分かった。

 

 人が通る道も見つかった。

 

 ロックは扉を細く閉め、内側の取っ手を確かめた。

 

 次に進むのは、こちらの道だった。

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