低ランクの冒険者でも最上級のダンジョンに挑むのは自由です。 作:駄文亭
店主は、二つの容器を離して置いた。
一つは、床から採った液体。
もう一つは、あの生き物が壁へ残した跡だ。
「こっちは、別の物が混じっているな」
指されたのは、壁の跡を収めた方だった。
「毒ですか?」
「そこまでは分からん。見ただけで決めつけるな」
ロックは頷いた。
透明だから水。
蛞蝓に似ているから、ただの粘液。
そう思って触るには、出会った場所が悪すぎた。
「革が傷んだのは、床の方ですか?」
「こちらの方が、はっきりしている」
店主は試験片を示した。
何も塗っていない革と、抗酸剤を使った革。
違いは出ていた。
だが、抗酸剤を使った方も、いつまでも同じ状態ではない。
「塗り直す必要がありますね」
「濡れたままにするな。傷んだところへ、また塗れば元に戻るとも思うなよ」
ロックは手帳へ書いた。
抗酸剤は、足場の代わりにはならない。
やはり、濡れた床へ降りずに済む道が必要だった。
◇
魔術師ギルドへ寄ると、作業室には使い終えた器具が並んでいた。
ロックは前掛けを借り、指示された物を運ぶ。
急いでいるからといって、途中で仕事を投げ出せば、次から入れてもらえなくなる。
薬品の扱いを覚えられる場所を、自分から失うつもりはなかった。
「何だ。今日は静かだな」
担当の男が言った。
「考え事です」
「手元を見てやれよ」
「はい」
ロックは瓶を置き直した。
使い終えた容器の底には、僅かに液体が残っている。
前なら、これを集められないかと考えていた。
今は札を見てから、決められた場所へ運ぶ。
どれが目的の物なのか、少しずつ分かるようにはなってきた。
だからこそ、似た色の液体を同じ瓶へ移す気にはなれなくなっていた。
くすねる算段は、まだ捨てていない。
ただ、持ち帰るなら、名前と使い道を確かめた物でなければ困る。
◇
昼の休みに、ロックは手帳を開いた。
壁を登る生き物。
石を当てれば引っ込むが、追い払えたとは言い切れない。
棒を押しつけた時には、その先へ身体を被せてきた。
攻撃したのか。
掴んだのか。
それとも、食べようとしたのか。
ロックはその箇所へ、丸をつけた。
下の部屋は、取り込んだ物を分解する場所のはずだった。
そこに棲む生き物なら、何を食べているのだろう。
流れてくる物を待っているのか。
動く物を捕まえるのか。
人間も食べるのか。
最後の疑問は、できれば自分以外で確かめたかった。
◇
その日のうちに、ロックは肉屋で屑肉を買った。
骨に残った肉や、切り分けた端の部分だ。
自分の食事へ回すには扱いづらいが、食べるかどうかを試すには十分だった。
宿で小さく分け、別々に包む。
長い棒も買い直した。
今度は、先端へ物を結びつけるだけでなく、外から外せるようにする。
紐を引けば、留めた物が落ちる。
何度か試し、うまく外れなかったところを削り直した。
相手が掴んだ棒を、また一本まるごと渡す気にはなれなかった。
◇
翌朝。
巨大な「口」を越えたロックは、斜面の上で待った。
床が動き、液体が流れる。
その間は、先へ進まない。
流れが途切れてから、壁際を辿って広い部屋の縁へ近づいた。
昨日置いてきた棒は見えなかった。
下へ落ちたのか。
どこかへ運ばれたのか。
灯りを動かし、濡れた床を見る。
何もいないように見える場所で、光が歪んだ。
ロックは止まった。
いた。
床へ平たく広がっている。
端が、ゆっくりと持ち上がった。
◇
ロックは屑肉を棒の先へ留めた。
縁から離れたまま、下へ差し出す。
透明な身体の前端が動いた。
すぐに飛びついてくるわけではない。
短い突起が伸び、肉の方へ向いた。
ロックは棒を少し横へ動かした。
相手も向きを変える。
もう少し。
身体を縮め、伸ばしながら、後を追ってくる。
ロックは肉を床へ近づけた。
前端が触れた。
薄い身体が、その上へ被さる。
紐を引いた。
肉が棒から外れ、透明な身体の下へ消えた。
ロックは棒を戻した。
相手は、ついてこなかった。
◇
食べている。
そう見えた。
肉の塊が身体の下に透け、その周囲がゆっくりと動いている。
ロックはすぐには降りなかった。
どれくらいで食べ終えるのか。
食べている間でも、近づけば向かってくるのか。
分からないことは多かった。
それでも、昨日は自分へ近づいてきたものが、今は肉の上へ留まっている。
ロックは二つ目の包みを取り出した。
今度は、少し離れた場所へ落とす。
音に反応したのか、突起が一度縮んだ。
だが、目の前の肉を離れない。
「……先に食わせればいいのか」
小声で呟いた。
倒す方法ではない。
自分の通る場所から、離れてもらう方法だった。
◇
縄を固定し、壁沿いの段へ足を下ろす。
下の生き物は、まだ肉へ被さっていた。
ロックは一歩、横へ動いた。
立ち止まり、相手を見る。
動かない。
もう一歩。
段の端には、欠けているところがあった。跨げる幅だが、踏み外せば濡れた床へ落ちる。
片手を壁へ添えたいところだった。
しかし、昨日あの生き物が登った辺りには、濡れた筋が残っている。
手を置く場所も選ばなければならなかった。
ロックは慎重に欠けた部分を越えた。
背後の縄から、少しずつ離れていく。
◇
部屋の中では、入口から聞いた時よりも、設備の音が大きかった。
壁の奥で、何かが動く。
低い振動が靴底から伝わってくる。
ロックは足を止めた。
流れが来る。
壁へ身体を寄せ、中央の床を見た。
上の通路から液体が落ちてくる。
窪みに溜まり、盛り上がった筋の間へ広がる。
肉へ被さっていた生き物も、その流れに触れた。
逃げる様子はなかった。
身体を低くし、床へ張りついている。
その横を、二つ目の肉が流されていった。
透明な前端が、そちらを向いた。
ロックは動かなかった。
やがて流れが弱まると、生き物は肉を追って部屋の奥へ進み始めた。
◇
段の先に、四角い窪みがあった。
壁の継ぎ目とは違う。
近づくと、扉だと分かった。
低く、幅も狭い。
大きな荷を運び込むための物には見えなかった。
扉の上へ、古代語の文字が刻まれている。
ロックは灯りを寄せた。
汚れに埋もれた部分を、乾いた布で少しずつ拭う。
読める字を拾う。
保守。
通路。
ロックは、口元が緩むのを感じた。
やはり、あった。
動く設備なら、手入れをする者が近づく道もあるはずだ。
消化するための床を、人が毎回歩いていたとは思いたくなかった。
◇
取っ手へ手を掛ける前に、周囲を調べた。
扉の下には、液体が入った跡がある。
だが、段の上まで濡れてはいない。
蝶番。
枠。
錠前。
どれも古いが、形は残っていた。
仕掛けがないかを確かめ、取っ手へ布を巻いて引く。
開かない。
押しても動かない。
ロックは腰の道具袋を開いた。
ようやく、自分のよく知っている仕事になった。
錠穴へ道具を入れる。
内部には、細かな汚れが詰まっていた。
無理に回さず、少しずつ掻き出す。
背後を見る。
透明な生き物は、奥で止まっていた。
こちらへ来る様子はない。
ロックは錠へ向き直った。
◇
小さな手応えが、指先へ伝わった。
回す。
途中で止まる。
押さえる角度を変え、もう一度。
錠が外れた。
ロックは道具を戻し、扉の脇へ身体を寄せた。
細く開く。
隙間から、乾いた空気が頬へ触れた。
灯りを先へ向ける。
狭い通路。
床は平らで、中央を液体が流れる溝もない。
少なくとも、目の届く範囲は乾いていた。
ロックは足元へ棒を伸ばし、床を確かめた。
一歩入る。
そのまま、扉の内側も調べた。
内側には取っ手があり、開けるための仕組みも残っている。
閉じ込められる心配を一つ減らしてから、ようやく息を吐いた。
◇
通路の壁には、小さな窓があった。
厚い透明な板の向こうに、先ほどの部屋が見える。
ロックは顔を近づけすぎないよう、横から覗いた。
透明な生き物が、流れてきた肉へ被さっている。
その奥でも、濡れた床が動いた。
もう一匹。
少し離れた場所にも、歪んだ灯りが見えた。
ロックは黙って数えた。
一匹だけではなかった。
下へ降りてから石を投げ続けていたら、どうなっただろう。
手帳を取り出す。
保守通路の入口と、開けた錠の形を書き留めた。
それから、窓の向こうをもう一度見る。
何を食べるかは、少し分かった。
人が通る道も見つかった。
ロックは扉を細く閉め、内側の取っ手を確かめた。
次に進むのは、こちらの道だった。