現委員長・古関ウイからの緊急連絡を受け、かつて図書委員長として辣腕を振るい、今は政治の表舞台から姿を消して気ままな生活を送る太宰ヤコが、重い腰を上げる。捜査を進める中で浮かび上がったのは、一年生の頃にヤコと委員長の座を争い、敗れて表舞台から消えた少女だった。
一
古書館の裏手、資料保存庫へと続く狭い階段は、日中でもひんやりとしていて薄暗かった。古関ウイはその階段をいつもより急ぎ足で降りていた。手にした懐中電灯の光が、埃を被った書架の列を照らしては消えていく。
「……やっぱり、ない」
ウイは棚の一角を見つめたまま、小さく呟いた。そこにあるべき一冊、――図書委員会が創設された当初から代々の委員長のみが閲覧を許されてきた、通称『黒表紙』と呼ばれる暗号帳が、忽然と消えていた。表紙は真っ黒な革張りで、背には金の箔押しで数字ともつかない紋様が刻まれていたはずだ。中身は歴代の委員長たちが書き残した、学園内の様々な派閥の裏取引や弱みを記録した資料だという。少なくとも、ウイはそう聞かされていた。
実物を読んだことは一度もない。読めなかったのだ。あの本の暗号を解けるのは、今のところこの学園広しといえど、ただ一人しかいなかった。
ウイは資料保存庫を出て懐中電灯を消すと、スマートフォンを取り出した。連絡先を開いて、ある名前で指を止める。
『太宰ヤコ』
通話ボタンを押す前にウイは小さく息を吐いた。あの子と最後に直接顔を合わせたのは、もう半年以上前になる。委員長の座を譲られたあの日から、ヤコは目立った政治活動を一切していない。それでも風の噂では、トリニティのどこか、あるいはゲヘナのどこかで、相変わらず気ままに過ごしているらしいという話が耳に入ってきた。
三度目のコールで通話は繋がった。
「はいはい、ウイちゃんからお電話とは珍しい。うちのこと恋しくなった?」
開口一番、揶揄うような声が返ってくる。久々に聞いたが変わらない口調だった。ウイは少しだけ肩の力が抜けるのを感じながら、それでも用件を切り出す声は硬くなった。
「ヤコ。緊急です。黒表紙が、盗まれました」
電話の向こうで、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「……場所は?」
先ほどまでとは打って変わって、低く落ち着いた声だった。ウイはその変化に改めて事態の深刻さを実感する。
「資料保存庫です。鍵は壊されていませんでした。合鍵を持っているのは、歴代の委員長だけのはずなのに」
「保存庫の警報は?」
「作動してません。誰かが、事前に解除したとしか思えません」
再び沈黙。今度はさっきよりも長かった。ウイは息を潜めて、電話越しの気配を窺う。
「わかった。一時間だけ待って」
それだけ言うと、通話は切れた。ウイはスマートフォンを握りしめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
二
トリニティの郊外、廃業した喫茶店の跡地に、ヤコはよく出没するという噂があった。ウイが重い腰を上げて古書館を出て、ハンシンハでその場所を訪れると、果たしてそこには見覚えのある少女の後ろ姿があった。カウンター代わりの木箱に腰掛け、文庫本を片手に足を組んでいる。
「早かったね、ウイちゃん。古書館から出られたんだ」
ヤコは本から視線も上げずに言った。ウイは息を切らしながら歩み寄る。
「こんなところに呼びつけたのは、はぁ、ヤコの方でしょう」
「あはは、いい運動になったんじゃない?」
悪びれる様子もなく笑いながら、ヤコはようやく本を閉じて顔を上げた。前にビデオ通話で話した時と変わらない、少し人を食ったような笑みだった。だが目の奥だけは、電話の時と同じ、冷たいほどの静けさを湛えている。
「で、詳しく聞かせてよ。黒表紙が消えた経緯」
ウイは保存庫の状況、警報が事前に解除されていたこと、争った形跡や物色された形跡がなく、目当ての一冊だけが正確に持ち去られていたことを、順を追って説明した。ヤコは黙って耳を傾けていたが、話が終わると小さく肩を竦めた。
「手慣れてるね。内部の人間か、それに近い協力者がいるってところかな」
「心当たりは、あるんですか?」
ヤコは即答しなかった。代わりに、木箱から立ち上がり、窓の外、――夕暮れに染まり始めた街並みを眺めた。
「……昔、うちと同じくらい、あの本の存在を知ってた人間がいる」
ウイは息を飲んだ。
「一年生の頃、図書委員長の座を争ってうちに負けた子。名前は氷魚トキワ。あの子はうちが委員長になって黒表紙の存在を知る前から、うちの前任と仲が良くて話を聞いてたらしい。結局はうちに負けて、政治の表舞台から消えたけど――」
「まさか」
「まだ決めつけるのは早い。けど、可能性としては一番高いかな」
ヤコの声には、珍しく感情の色がなかった。ウイはその横顔を見て、初めて気づく。この子は今、怒っているのではなく、むしろ静かに警戒しているのだと。
「ヤコ。手伝ってください」
ウイは深く頭を下げた。
「黒表紙の中身が誰かの手に渡ったと、特にティーパーティーに知られたら、トリニティ中の派閥が疑心暗鬼になります。最悪、ヤコが委員長をしていた時みたいな、権力争いが……」
「わかってる」
ヤコはウイの言葉を遮った。窓の外を見つめたまま、静かに続ける。
「あの本の中身がバラまかれたら、一番迷惑するのはうちだよ。うちが辞めた後の均衡を、わざわざ壊してくれるってわけだから」
そう言って、ようやくヤコはウイの方を振り向いた。口元には、いつもの人を食った笑みが戻っている。
「いいよ、手伝ってあげる。ただし、一つ条件がある」
「なんですか」
「うちが表に出ないこと。うちはあくまで"元委員長"のまま。動くのは陰から、ね」
ウイは頷いた。それがヤコらしいやり方だと、よく知っていたから。
三
その夜、百合園レイアはトリニティの裏路地にある古い隠れ家のような飲食店で、ヤコと落ち合った。セイアは事情を聞くと、いつものように驚いた様子も見せず、ただ小さく息を吐いた。
「氷魚トキワ、か。懐かしい名前だね」
「知ってるの?」
「君ほどじゃないけれど。一年生の頃、何度か話したことがある。彼女がヤコに負けてからは、ずっと古書館の周辺地域をうろついていたみたいだね。目撃証言からはいたって平常な様子で、恨みを募らせているようには見えなかったと聞いているが……人は一年も経てば随分と変わるものだからね」
ヤコは頷いた。セイアの観察眼は、政治の世界を離れたヤコよりもずっと信頼できる。
「セイア、力を貸して」
「もちろん。幼馴染の頼みとあらば、私には断る道理がないよ。何よりヤコの数少ない友人としても、困っているところを放っておくのは私の矜持が許さないからね」
「数少ないは余計だっての」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には確かな信頼があった。互いの能力を知る数少ない相手であり、互いの本音を知る相手でもある。ヤコにとってセイアは、政治の世界でも、そこから離れた今の生活でも、変わらず隣に寄り添ってくれる存在だった。
「まずは氷魚トキワの現在地を洗い出したい。セイアの情報網、使えないかな?」
「任せてくれたまえ」
セイアは薄っすらと笑って、懐から一枚の紙切れを取り出した。独自の暗号で書き込まれた、古い連絡先のリストだった。
その頃、蒼森ミネはヤコの隠れ家の一つ、――トリニティの郊外にある古アパートの一室を訪ねていた。合鍵で扉を開けると、部屋は案の定、洗濯物が山積みで、シンクには洗われていない食器棚が積み上がっている。
「はぁ……また溜め込んで」
ミネは小さく息をついて、袖をまくり上げた。中等部一年生の頃からの付き合いだ。ヤコがどれだけだらしなく暮らしていても、結局は放っておけない。それがミネという少女の性分だった。
片付けを終えた頃、玄関の扉が開く音がした。
「あ、ミネ。悪いね、いつも」
「ヤコさん。また何か始められたようですね。顔で分かりますよ」
ヤコは苦笑いを浮かべた。付き合いの長さ故に、隠し事はミネには通用しない。
「黒表紙が盗まれた。氷魚トキワって子が絡んでるかもしれない」
「……いつぞや話していましたね。ヤコさんが失脚させた方の一人ですか?」
「そう。あの子がまだ執着していたなんて、予想外の執念だった」
ミネはヤコの顔をじっと見つめた。表面上は軽い調子を崩さないヤコだが、その奥に微かな緊張が滲んでいることに、長い付き合いのミネは気づいていた。
「救護が必要ですね、ヤコさん。適度な緊張はむしろ推奨されることではありますが、ヤコさんの場合、感情の激しい乱高下は"力"への影響を考慮すると非常に危険です。直ちに休息をとってください」
「わかってる。心配性だなあ、ミネは」
「ヤコさんのわかってるという言葉ほど信用のできない言葉はありません。手洗いうがいを済ませ、身体を洗い、仮眠してください。その間に夕食を作っておきますので」
軽くやり取りを交わしながら、ミネはヤコを洗面所に連行して服を脱がし、手洗いうがいをさせた後に風呂場に入れてキッチンに戻る。手洗いをして、ミネはヤコの夕食を作り始める。この何気ない日常こそが、ヤコにとっては貴重な息抜きの時間だった。
四
翌日、ヤコとセイアは氷魚トキワの手掛かりを追って、ゲヘナ学園にある工場地帯を訪れていた。かつては何かの倉庫として使われていたらしいそこは、今では蔦に覆われ、人の出入りした形跡もほとんどない。
「本当にここなの?」
「私の情報網が正しければそうだね。ここ数ヶ月、夜中にだけ明かりが灯ることがあるらしい」
「っていうか、セイア。あんた身体弱いのになんで来てるの。別に情報くれるだけで良かったのに」
「いやいや、せっかくの機会だ。この期に及んで座して待つなんて今の私にはとてもじゃないけれど受け入れられないね。色々あったが、お陰さまで私の眼を覆っていた煩わしい未来からも、心を陰らせる諦観からも解放されて、ようやくこの始発点まで来たんだ。自らの足で立ってこそ先は拓けるものだよ」
「そっか。まあ元気なら良いよ」
そんなやり取りをしながら、二人は物音を立てないように、廃工場の裏手へと周り込んだ。錆びついた非常階段を上ると、二階の窓から中の様子が僅かに窺えた。
「……誰かいる」
ヤコが小声で言った。セイアも窓の隙間から中を除き込む。薄暗い倉庫の中央に、机と椅子が置かれ、そこに一人の少女が座っていた。長い銀髪を一つに束ね、眼鏡を掛けたその横顔には、ヤコは確かに見覚えがあった。
「氷魚トキワ」
ヤコが呟いた瞬間、まるでその声が聞こえたかのように、少女はゆっくりと顔を上げた。窓の外に立つヤコの姿を、真っ直ぐに見据える。
「……気づかれた」
ヤコが息を呑む。だがトキワは驚いた様子もなく、むしろ薄く笑みを浮かべた。窓を開けることもせず、口の動きだけで何かを伝えてくる。
その口の形を読み取り、ヤコの表情が僅かに強張った。
『待ってたよ、太宰ヤコ』
ヤコは小さく舌打ちをした。相手はこちらの動きを最初から読んでいたということだ。
「なるほど。ヤコ、退こうか」
「……」
「向こうはこちらが来るのを想定していた。この場で仕掛けるのは分が悪い」
「ふぅ。わかった」
二人は静かに非常階段を下り、廃工場を後にした。だが去り際、ヤコは背後に微かな視線を感じていた。振り返っても、そこには誰もいない。ただ、風に揺れる蔦の音だけが響いていた。
「氷魚トキワ、随分と手が込んでいるね。私たちが来ることを見越して、あの場所を選んだようだ」
「罠、ということ?」
「半分はそうだろう。けれどもう半分は、純粋にヤコと話したいだけなのかもしれないね。真実は分からないが」
「話し、ね」
ヤコの声には、これまでにない複雑な色が滲んでいた。かつて自分が蹴落とした相手。政治の世界から姿を消させた張本人。その相手が今、何を考え、何を企てているのか。ヤコ自身にも、まだ全ては見えていなかった。