そんな妹を見かねた兄カシアンは、魔導書『悪徳目録』を使い、彼女を魅力的な大悪役へ育てることを決意する。
しかし、兄を誰よりも愛するエレオノーラは、彼の教えに従いながらも、決して言いなりにはならなかった。
妹は悪役令嬢ではない。ただ性格が悪く、頭が悪く、運まで悪いだけだ。
「お兄様! どうして助けてくださらないのですか!」
ヴァルモント公爵家の長男、カシアンは、書斎へ飛び込んできた妹を見て本を閉じた。
エレオノーラ・フォン・ヴァルモント、十七歳。王国有数の名門公爵家に生まれ、国王の嫡男であるアルベルト王太子と婚約し、神が念入りに彫刻したような美貌を持つ少女である。その容姿を除けば、褒めるべきところはあまりない。
「まず扉を閉めろ」
「今は扉など、どうでもよろしいでしょう!」
「僕には重要だ。廊下まで響く声で、自分の失敗を宣伝する趣味はない」
エレオノーラは唇を尖らせながら扉を閉めた。頬は涙で濡れ、銀色の髪は乱れている。高価な学園制服にも泥が付着していた。
「それで、今度は何をした」
「何をした、ではありませんわ。わたくしは被害者です!」
「その言葉から話を始める人間の九割は加害者だ」
「セシリア・ラングが悪いのです!」
やはり加害者だった。
セシリア・ラング。王立学園へ特待生として入学した平民の少女であり、最近アルベルト王太子が熱心に世話を焼いている人物だ。そしてエレオノーラが一方的に敵視している相手でもある。
「今回は何をした」
「教科書を池へ落としただけですわ」
「本人ごとか?」
「教科書だけです!」
「そこは安心した」
カシアンは机上の紅茶を口へ運んだ。
「理由は?」
「セシリアが、殿下から本を借りていたからです」
「それで?」
「殿下の本を平民が触るなど、許されませんわ」
「王太子本人が貸したのだろう」
「殿下はお優しすぎるのです。婚約者であるわたくしが、間違いを正して差し上げなければなりません」
「池に投げたのは王太子の所有物では?」
「……」
「続けろ」
「ちょうど、殿下と教師が通りかかりました」
「見事だ」
「褒めないでくださいませ!」
「褒めていない」
エレオノーラは机を両手で叩いた。
「殿下は、建国祭までに態度を改めなければ婚約を見直すとおっしゃいました! 建国祭までは三十日しかありませんのよ!」
「十分ではないか」
「何を悠長なことを! あの女を退学させる方法を考えてくださいませ!」
「断る」
即答すると、妹の顔が凍った。
「なぜですの?」
「お前には才能がない」
「何の才能です?」
「悪役の才能だ」
エレオノーラは目を見開いた。次いで、侮辱されたことを理解したらしく、顔を真っ赤にする。
「わたくしは学園中から悪役令嬢と呼ばれておりますわ!」
「違う。お前は悪役令嬢ではない」
カシアンは机の引き出しを開け、一冊の黒い本を取り出した。表紙には、金属質の文字で『悪徳目録』と刻まれている。
「お前は性格の悪い馬鹿だ」
「お兄様!」
金切り声と同時に、黒い本が開いた。誰の手も触れていないページが高速でめくれ、青白い文字が宙に浮かぶ。
【対象を確認しました】
【エレオノーラ・フォン・ヴァルモント】
【悪役適性を表示します】
エレオノーラの目の前に、彼女自身の姿を映した半透明の板が現れた。その横には数値が並ぶ。
【威厳 :22】
【知略 :11】
【求心力 :4】
【非情さ :31】
【悪名 :48】
【美学 :3】
【固有技能】
《身分を笠に着る》
《責任転嫁》
《敗北時の泣き落とし》
【総合評価】
《小悪党》
エレオノーラはしばらく無言だった。
「この本、壊れておりますわ」
「正常だ」
「わたくしの威厳が二十二しかありません!」
「高すぎるくらいだ」
「求心力が四です!」
「使用人から嫌われているからな」
「美学が三というのは何です!」
「教科書を池に投げる行為に、美学があると思うのか?」
エレオノーラは口を開閉させた。やがて現実から逃れるように兄を指差す。
「お兄様こそ、なぜそのような不気味な本をお持ちなのです!」
「先祖が魔王から奪ったらしい」
「もっと早く教えてくださいませ!」
「お前が悪役に憧れていたとは知らなかった」
「憧れてなどおりません!」
「ならば問題ない。悪事をやめろ」
「それも嫌ですわ!」
カシアンは深く息を吐いた。悪名だけを欲しがり、責任は負いたくない。欲望に忠実である点だけは認めてもよいが、その欲望すら薄っぺらい。
妹の将来を予測するため、カシアンは本へ指を置いた。
「《破滅予測》」
【現在の行動を継続した場合】
【婚約破棄率:97%】
【修道院送り:61%】
【国外追放 :23%】
【処刑 :8%】
【歴史に名前が残る確率:0.2%】
【予想される後世の評価】
《王太子に捨てられた愚かな公爵令嬢》
「嫌ですわ!」
エレオノーラの叫びが書斎を揺らした。
「修道院など絶対に嫌です!」
「そこではない」
「処刑も嫌です!」
「そこでもない」
「では何ですの!」
「歴史に残らない」
カシアンは本気で眉をひそめた。
「名門ヴァルモント公爵家の娘が、一人の平民へ陰湿な嫌がらせを続け、王太子に婚約を破棄され、泣きながら退場する。後世の歴史家はお前に一行も使わないだろう」
「死ぬよりましではありませんか」
「本気で言っているのか?」
「なぜお兄様が傷ついた顔をなさるのです!」
カシアンは幼少期から、歴史上の反逆者、簒奪者、奸臣、暴君、魔王を研究してきた。彼は近年流行している悪役の美化を嫌っていた。
実は誤解されていただけ。家族を守るために仕方なく。本当は誰よりも優しい。そのような人物は悪役ではない。事情のある善人だ。
悪役とは、自らの欲望を理解し、犠牲が出ることを承知した上で、それでも世界へ自分の意思を押しつける者でなければならない。だからこそ、カシアンは妹の現状が許せなかった。
エレオノーラは善人ではない。にもかかわらず、悪役としても最低だった。
「どうせ悪人として生きるなら、せめて魅力的な悪役になれ」
「魅力的な悪役?」
「目的があり、自分の行為を正義だと言い訳せず、味方へ利益を与え、敵からも一目置かれ、敗北さえ物語へ変えられる存在だ」
「最後は敗北するのですか?」
「そこに食いつくな」
カシアンは立ち上がり、妹の前へ黒い本を差し出した。
「建国祭まで三十日ある」
「しか、ありません」
「小悪党一人を悪役候補へ引き上げるには十分だ」
黒い本から光があふれる。
【特殊クエストが発生しました】
【《悪役令嬢を育てよう!》】
【期限:建国祭まで残り三十日】
【育成目標:小悪党から脱却せよ】
エレオノーラは浮かび上がった文字を見つめた。涙は止まっている。
「成功すれば、殿下と結婚できますの?」
「知らない」
「セシリアを追い出せますの?」
「それも知らない」
「では、何が得られるのです?」
「自分で決めろ」
エレオノーラは不満そうだった。しかし、黒い本を閉じようとはしなかった。
◇
第一回悪役令嬢育成講座は、翌朝から始まった。
「お兄様」
「何だ」
「この授業、地味すぎませんこと?」
エレオノーラは公爵邸の厨房に立ち、大量の帳簿を抱えていた。
「もっと毒薬の調合や、呪いの儀式を教えてくださるのかと思いましたわ」
「毒を使った後、どうやって証拠を隠す?」
「使用人に命じます」
「その使用人が告発したら?」
「処刑します」
「処刑前に証言されたら?」
「……家族も処刑します」
「お前に人事と司法の決定権はない」
エレオノーラは舌打ちした。近くにいた料理長が肩を震わせる。
「まず学べ。権力とは、自分が偉いと思い込むことではない。他人を動かせることだ」
「使用人はわたくしの命令で動きますわ」
「嫌々な」
「動けば同じです」
「では聞こう。料理長」
呼ばれた料理長が直立した。
「エレオノーラが王太子へ毒を盛れと命じたら、どうする?」
「旦那様へ報告いたします」
「なぜですの!」
「お前より父上の方が強いからだ」
カシアンは帳簿を一冊抜き取った。
「お前は料理長の主ではない。公爵家の娘という看板を借りているだけだ」
「では、どうすれば主になれますの?」
「相手へ利益を与えろ」
「脅すのではなく?」
「脅迫は、脅し続けられる者しか使えない。今のお前が料理長を脅しても、父上へ逃げ込まれて終わる」
エレオノーラは料理長を睨んだ。
「あなた、息子が二人いましたわね」
料理長の顔色が変わる。カシアンが額を押さえた。
「なぜ最初に人質を取ろうとする」
「利益を与えろとおっしゃったからです。息子たちの安全を保証しますわ」
「自分で危険を作るな」
その日の課題は、厨房の食材費を削減しながら、料理の質と使用人の待遇を維持することだった。エレオノーラは三時間で飽きた。帳簿を投げ出し、侍女へ怒鳴ろうとした。
「無意味な悪意は禁止だ」
カシアンが止める。
「わたくしの気が晴れます」
「お前が得るのは一時的な快楽。失うのは侍女の忠誠心。収支は赤字だ」
「悪役なのに、善人のようなことを教えるのですね」
「悪人ほど信用を管理しろ。善人は好意で助けてもらえるが、悪人には利益しか残らない」
エレオノーラは渋々帳簿へ戻った。三日後、彼女は厨房へ納入される小麦の価格が市場相場より二割高いことに気づいた。料理長ではなく、出入りの商人が公爵家の名を利用して水増ししていたのである。
エレオノーラは商人を呼び出した。
「処刑しますわ」
「駄目だ」
「では拷問を」
「駄目だ」
「お兄様は本当に悪役がお好きなのですか?」
「お前は本当にそれしか思いつかないのか?」
結局、エレオノーラは商人の不正を黙認する代わりに、今後三年間の価格を三割引きにし、厨房の使用人へ冬季手当を支払わせた。商人は告発を免れ、使用人はエレオノーラへ感謝した。
【知略:11→18】
【求心力:4→12】
【技能《利害交渉》を獲得しました】
「上がりましたわ!」
光る画面を前に、エレオノーラが子供のように喜ぶ。その笑顔だけを見れば、性格の悪い娘には見えない。
「お兄様、褒めてくださいませ」
「悪くない」
「もっとです」
「初日に料理長の息子を人質に取ろうとした者としては、驚異的な進歩だ」
「褒め方が不愉快ですわ」
そう言いながらも、エレオノーラは満足そうに兄の腕へ抱きついた。
「暑い。離れろ」
「嫌です」
「僕はまだ資料を読む」
「でしたら、そのままお読みくださいませ」
妹の腕は離れなかった。
◇
十日目。カシアンは書斎で、北方の女公爵イザベラに関する伝記を読んでいた。
「イザベラは見事だった」
独り言のつもりだったが、長椅子で紅茶を飲んでいたエレオノーラが顔を上げる。
「誰ですの?」
「百年前、三千の兵で王都を封鎖した反逆者だ。自分の処刑さえ反乱の合図へ変えた」
「女性ですの?」
「女公爵と言っただろう」
「お美しかったのですか?」
「論点はそこではない」
「お美しかったのですか?」
妙な圧力があった。
「肖像画では、まあ」
「そうですか」
翌日、その本が書庫から消えた。エレオノーラを問い詰めると、彼女は悪びれもせず答えた。
「盗んでおりません。敵情視察ですわ」
「敵とは誰だ」
「お兄様に褒められた女です」
「百年前に死んでいる」
「だからといって油断はできません」
彼女はすでに本を読み終えていた。イザベラが王都を封鎖した経路、兵站の構築方法、失敗した外交交渉まで暗記している。
「この女は大したことがありませんわ」
「ほう」
「三千の兵を集めるまでに六年かけています。その間、商人との契約を口約束で済ませ、二度も裏切られている。わたくしなら最初から担保を取ります」
カシアンは黙った。妹は、嫉妬のために百年前の軍事記録を読み込み、欠点まで分析したらしい。
【知略:18→26】
【執着度:74→82】
【独占欲:91→94】
「最後の二つは何ですの?」
「気にするな」
「お兄様には見えているのでしょう?」
「気にするなと言った」
「わたくしに関する秘密を、わたくしから隠すのですか?」
「非常に面倒な数値だ」
エレオノーラは机を回り込み、兄の肩越しに画面を覗こうとする。カシアンは本を閉じた。
「次の授業だ」
「誤魔化しましたわね」
「敵を選べ」
妹の表情が変わった。
「セシリア・ラングです」
「不正解」
「なぜです!」
「彼女はお前から何を奪った?」
「殿下の心ですわ」
「王太子の心はお前の所有物か?」
「婚約者ですもの」
「では王太子は、お前の心を所有しているのか?」
エレオノーラは答えなかった。
「セシリアはお前の地位を決められない。婚約を破棄できるのは王太子だ。お前を政略結婚へ使うのは父上だ。お前が殴れる相手だけを敵と呼ぶな」
「わたくしはセシリアに負けたのです」
「違う。王太子に選ばれなかっただけだ」
「同じでしょう!」
「違う」
カシアンは机の上へ一枚の報告書を置いた。アルベルト王太子が、学園内でエレオノーラの悪行に関する証言を集めているという内容だった。
それだけではない。王太子の側近は、公爵家と対立する貴族へ接触している。建国祭で婚約を破棄し、公爵家の権威を削る計画だ。
「殿下が、そのような……」
「政治的には正しい判断だ。王家にとって、ヴァルモント家は強すぎる」
「では、お父様は?」
「お前を隣国の老侯爵へ嫁がせる話を進めている」
エレオノーラの顔から色が消えた。相手は六十を超え、妻を三人亡くしている人物だ。
「婚約を破棄された娘を、政治的に再利用するつもりだろう」
「そんな話、わたくしは聞いておりません」
「お前の同意が必要ないからだ」
長い沈黙が落ちた。エレオノーラは、机の上の報告書を見下ろしている。
「お兄様は、知っていたのですか」
「昨日確認した」
「どうして、すぐに教えてくださらなかったのです」
「教えれば、お前は父上の部屋へ怒鳴り込んだだろう」
「当然ですわ!」
「そして何も得られず、部屋へ閉じ込められる」
エレオノーラは反論しなかった。やがて顔を上げる。その瞳から、泣きつく子供の色が消えていた。
「わたくしの敵は、誰ですの?」
「それを僕に聞くな」
「では、質問を変えます」
彼女は胸へ手を置いた。
「わたくしが敵とするべき者は、誰ですの?」
「自分で決めろ」
エレオノーラは目を閉じた。王太子。父。セシリア。学園の生徒。自分を笑った者たち。何人もの顔が、彼女の中を通り過ぎたのだろう。
再び目を開けたとき、声は静かだった。
「わたくしの人生を、わたくしに決めさせない者すべてですわ」
【隠し能力《目的》が解放されました】
【現在の目的】
【自分の人生の所有権を奪い返す】
カシアンは初めて、妹を美しいと思った。顔ではない。意思の形が、ようやく見えた。
◇
だが、人間は目的を得た程度では変わらない。
十五日目の昼。エレオノーラは学園の回廊で、アルベルト王太子とセシリアが話しているところを目撃した。王太子は笑い、セシリアは彼の持つ帳簿を覗き込んでいる。
エレオノーラは一瞬で頭に血が上った。彼女はセシリアへ歩み寄り、右手を振り上げた。
乾いた音はしなかった。セシリアが、その手首を掴んでいた。
「また同じことをするのですか」
「離しなさい!」
「嫌です」
「平民の分際で!」
「あなたは殿下に怒れないから、私を叩くのでしょう」
周囲にいた生徒たちが足を止めた。王太子もエレオノーラを見ている。失望と軽蔑を隠そうともしていなかった。
エレオノーラの唇が震える。何も言い返せない。彼女はセシリアの手を振り払い、その場から逃げた。
【威厳:22→16】
【美学:7→2】
【称号《変われない小物》を獲得しました】
夕方、エレオノーラは兄の書斎へ来なかった。カシアンが彼女の部屋へ行くと、カーテンを閉め切った室内で、妹は寝台に顔を伏せていた。
「出ていってくださいませ」
「授業の時間だ」
「今日は休みます」
「悪役は敵に恥をかかされた日に休暇を取るのか?」
枕が飛んできた。カシアンは片手で受け止める。
「わたくしは変われません」
「そうか」
「笑えばよろしいでしょう」
「笑えるほど面白くない」
エレオノーラが顔を上げた。泣き腫らした目で兄を睨む。
「慰めてくださらないのですか」
「必要か?」
「妹が傷ついておりますのよ!」
「お前が傷つけようとした相手は、慰められたのか?」
「……」
「またお前は、自分を傷つけた者ではなく、反撃してこないと思った者を選んだ」
「分かっております!」
「分かっていないから、やった」
エレオノーラの顔が歪んだ。
「お兄様は、わたくしの味方ではないのですか」
「味方だ」
「ならば――」
「味方だから、お前の醜さを見なかったことにはしない」
カシアンは枕を寝台へ戻した。
「お前は悪だから弱いのではない」
妹の瞳をまっすぐ見る。
「弱いから、卑怯な悪へ逃げるんだ」
エレオノーラは息を止めた。
「お前は王太子を失うのが怖いのではない。選ばれなかった自分を認めるのが怖い。だからセシリアを叩いて、自分の方が上だと思い込もうとした」
「では、どうすればよいのです」
「恐怖を認めろ。その上で、何をするか選べ」
「セシリアを憎んではいけないのですか」
「好きにしろ。感情は命令できない」
カシアンは扉へ向かった。
「ただし、憎しみに命令されるな」
「お兄様」
呼び止められ、振り返る。
「わたくしが変われなくても、見捨てませんか」
声は小さかった。カシアンは少し考えた。
「見捨てない」
妹の表情が緩む。
「だが、落胆はする」
「そこは優しい嘘をつくところですわ!」
「嘘をついてほしいのか?」
「嫌です!」
「面倒だな」
エレオノーラは涙を拭った。そして翌日、自らセシリアを呼び出した。
◇
場所は学園の旧資料室だった。セシリアは警戒し、扉の近くに立っている。
カシアンは隣室から魔導鏡を通して様子を見ていた。エレオノーラには、兄が見ていることを伝えていない。
「何の用でしょうか」
セシリアが尋ねる。
「昨日の件ですわ」
「謝罪ですか?」
「いいえ」
「では帰ります」
「あなたを利用したいのです」
セシリアの足が止まった。エレオノーラは机上へ書類を並べる。
「わたくしはあなたの教科書を池へ捨てました。何度も嫌がらせをし、昨日は叩こうとしました」
「よく覚えています」
「わたくしが愚かで卑劣だったことに、異論はありません」
「それで?」
「謝った程度で許されると思うほど、厚かましくはありませんわ」
セシリアは黙った。
「ですから、謝罪ではなく取引をいたしましょう」
「私が受けると?」
「話を聞く程度には、あなたは利口です」
エレオノーラは王太子の会計記録を差し出した。軍備予算の一部が、王太子個人の社交費へ流れている疑いがある。だが帳簿は複雑に偽装され、カシアンでも証拠を掴みきれなかった。
「あなたは会計科目で首席だと聞きました」
「私に、殿下の不正を調べろと?」
「ええ」
「殿下を裏切れと言うのですか」
「殿下はあなたを妃にすると約束しましたの?」
「そのような話はしていません」
「では、卒業後の職は?」
「……」
「あなたの家族は現在も南区で暮らし、弟二人は工房で働いている。王太子が公爵家を失脚させた後、平民のあなたをどこまで守るかしら」
セシリアの目が鋭くなる。
「家族を脅すつもりですか」
「逆ですわ」
エレオノーラは別の契約書を置いた。
「あなたが協力する間、ヴァルモント家が家族の安全と生活を保証します。成功した場合、王国官吏登用試験を平民にも開放するよう、わたくしの名で議会へ提出します」
「なぜ、そこまで?」
「あなたには能力がある。平民であるという理由だけで使えないのは、国家にとって損失です」
「急に善人になったのですか?」
「まさか」
エレオノーラは微笑んだ。
「有能な平民が王家ではなく、わたくしに恩を感じる制度を作りますの」
セシリアは契約書を読み込んだ。報酬。守秘義務。双方の違反時における損害。エレオノーラ側が一方的に破棄できない条項まである。
「あなたを許したわけではありません」
「結構です。忠誠より契約の方が信用できますもの」
「一つ、質問があります」
「何です?」
「あなたのお兄様は、この取引についてご存じですか」
エレオノーラの笑顔がわずかに固まった。
「なぜ、お兄様が出てくるのです」
「最近のあなたは、カシアン様の指導を受けているのでしょう」
「どこでそれを」
「以前のあなたが、これほどまともな契約書を作れるとは思えません」
「殺してよろしいですか?」
「今のは、誰に聞いたのです?」
エレオノーラは壁の向こうを正確に睨んだ。カシアンは思わず息を止めた。見つかるはずはない。
「お兄様が評価しているだけありますわ。腹の立つ女です」
「褒め言葉として受け取ります」
「あなたを雇う理由が増えました」
「能力を評価したから?」
「半分は」
「残り半分は?」
エレオノーラは静かに答えた。
「お兄様の視界へ、わたくしの許可なく入れたくないからですわ」
「正直ですね」
「嘘をつく必要がありませんもの」
セシリアはしばらく彼女を見つめ、契約書へ署名した。
【知略:26→39】
【求心力:12→27】
【技能《契約による支配》を獲得しました】
【親愛度:98】
【服従度:36】
【独占欲:96】
カシアンは、最後の数値だけ見なかったことにした。
◇
建国祭の夜。王宮の大広間には、王国中の有力貴族が集められていた。天井には無数の魔導灯が輝き、王家の紋章が刻まれた旗が垂れている。
カシアンは広間の端で、柱へ背を預けていた。エレオノーラは王太子の婚約者として、中央に立っている。
三十日前までの彼女なら、人々の視線を浴びて得意げに顎を上げていただろう。今は違う。笑みは薄く、周囲を観察している。
公爵派。王家派。中立派。軍人。商人。彼女は一人一人の表情を読んでいた。
アルベルト王太子が、広間の中央へ歩み出る。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
音楽が止まった。王太子の傍らにはセシリアがいる。計画どおりだ。少なくとも、王太子にとっては。
「エレオノーラ・フォン・ヴァルモント」
「はい、殿下」
「私は長い間、君の行いを見過ごしてきた」
王太子は、エレオノーラの悪行を列挙した。セシリアの教科書を池へ捨てたこと。使用人への暴言。下級貴族に対する横暴。家名を利用した圧力。
どれも事実だ。広間に軽蔑の空気が広がる。父であるヴァルモント公爵も、苦々しい顔で娘を見ている。
「これ以上、君を将来の王太子妃と認めることはできない」
王太子は声を張った。
「エレオノーラ・フォン・ヴァルモント。私は君との婚約を破棄する!」
静寂。誰もがエレオノーラを見た。
泣くか。怒鳴るか。セシリアを罵倒するか。カシアンも妹を見ていた。
エレオノーラは、静かに笑った。
「承知いたしましたわ」
王太子の眉が動く。
「何?」
「婚約破棄をお受けいたします」
「自分の罪を認めるのか」
「もちろんですわ」
エレオノーラは広間を見回した。
「わたくしはセシリア嬢の教科書を池へ捨てました。使用人を理不尽に叱責し、身分を利用して多くの者を傷つけました」
ざわめきが起きる。
「わたくしが愚かで、卑劣で、醜悪であったことについて、異論はございません」
セシリアがわずかに目を伏せた。エレオノーラは否定しなかった。誰かの陰謀にも、悲しい過去にも逃げなかった。
「ですから殿下」
彼女は王太子へ向き直った。
「次は、あなたの悪行についてお話しいたしましょう」
王太子の顔から笑みが消えた。エレオノーラが指を鳴らす。
広間の壁を覆っていた鏡が、一斉に青白く輝いた。映し出されたのは王太子府の会計帳簿だった。
「これは何だ」
「殿下が管理する軍備予算の記録ですわ」
「機密文書だぞ!」
「ええ。ですが、国庫の金は殿下の私物ではございません」
帳簿の数字が赤く染まる。軍馬購入費。城壁補修費。兵士の冬季手当。それらの一部が、王太子の宴会、贈答品、私的な旅行へ流用されている。
セシリアが一歩前へ出た。
「王太子府の帳簿を、商業組合と軍務省の記録と照合しました。合計八万二千リオルの不一致があります」
「セシリア、君まで!」
「私は数字を確認しただけです」
王太子は近衛兵へ目を向けた。
「この二人を捕らえろ!」
兵士たちは動かなかった。
「命令が聞こえないのか!」
近衛兵の隊長が前へ出る。
「殿下。我々の冬季手当も、同じ帳簿から消えております」
「王家に逆らうつもりか!」
「未払いの給金について説明を求めているだけです」
広間の空気が変わった。王太子の正義の舞台が、別の劇へ塗り替えられていく。
「エレオノーラ!」
怒声を上げたのは父だった。
「今すぐ魔導鏡を止めろ! 公爵家を滅ぼす気か!」
「お父様」
「お前は黙って殿下へ謝罪しろ! 婚約が破棄された後のことは、私が手配してある!」
「隣国のバルト侯爵との婚姻ですか?」
公爵の顔色が変わる。今度は別の契約書が映し出された。エレオノーラを、六十二歳の侯爵へ嫁がせる密約。その代価として、公爵家は隣国の鉱山権益を得る。
「わたくしの人生を売る契約に、わたくしの署名がありませんわ」
「娘の婚姻は家長が決める!」
「そうですか」
エレオノーラは優雅に笑った。
「でしたら、家長を代えましょう」
公爵が言葉を失う。
「本日までに、公爵領の主要商会七社、騎士団副長以下三百名、会計官、農地管理官、使用人頭との契約を完了いたしました」
「何を言っている」
「お父様が領地の税収を担保に借り入れた負債は、すべてわたくしの管理する商会が買い取りました」
新たな証書が映し出される。
「領地経営の実権は、すでにわたくしの側にございます」
「そんな馬鹿な!」
「お父様は、わたくしに公爵家のために生きろとおっしゃいました」
「当然だ!」
「ですから」
エレオノーラは黒い扇を開いた。
「わたくしが、公爵家になりますわ」
【威厳:68】
【知略:61】
【求心力:53】
数値が一気に上昇する。カシアンは目を細めた。
ここまでは、彼も知っていた。公爵家の負債。商人との契約。近衛兵の給与記録。すべて、妹と共に用意した計画だ。
だが、次に映った書類を見て、カシアンは姿勢を正した。王家と隣国商人の密約。国境地帯の鉱山を秘密裏に売却する契約書。
それはカシアンが数年前、歴史研究の過程で発見した資料だった。公表するつもりはなかった。書斎の最奥に封印していたはずだ。
「エレオノーラ」
思わず名前を呼ぶ。妹がこちらを見た。幸福そうに笑っている。
「カシアン卿!」
王太子が叫んだ。
「この資料は君が集めていたものだな!」
広間中の視線がカシアンへ集まる。
「なぜ、それを」
「君も反乱に加担していたのか!」
「いや」
カシアンは妹を見る。
「少なくとも、ここまでやるとは知らなかった」
「では無関係だと言うつもりか!」
「そのつもりだったが」
魔導鏡へ、カシアンの署名が映し出された。資料が本物であると保証する鑑定書。署名した覚えはある。ただし、妹に渡した覚えはない。
「お兄様」
エレオノーラが優しく呼ぶ。
「僕を巻き込んだな」
「当然ですわ」
「なぜだ?」
「わたくし一人だけを悪役にして、お兄様だけ客席へ逃げるなど、許しませんもの」
「僕はお前を指導した」
「ええ」
「教師まで処刑台へ上がる必要はない」
「お兄様は卑怯ですわ」
エレオノーラの声が、大広間に響いた。
「わたくしへ悪を教え、危険な決断をさせ、失敗すれば美しい破滅だと喜ぶ。けれど、ご自分はいつも安全な場所から眺めている」
「僕は観察者だ」
「いいえ」
彼女は断言した。
「臆病な観客です」
カシアンの胸に、わずかな怒りが生じた。同時に、それを上回る歓喜が湧き上がる。
妹は兄を愛している。幼い頃から、異常なほどに。だからカシアンは、どこかで思い込んでいた。最後には自分の命令を聞くと。
だが、本物の悪役が育成者の脚本に従うはずがない。
「お兄様は、わたくしを見捨てませんわね?」
「それは脅迫か?」
「確認です」
「見捨てないと答えたことはある」
「ええ。覚えております」
「だから逃げ道を潰したのか」
「愛する者とは、運命を共にするものでしょう?」
エレオノーラは穏やかに笑っている。近衛兵よりも、王太子よりも、父よりも、その笑顔の方が恐ろしかった。
アルベルト王太子が拳を震わせる。
「君は王国を混乱させるつもりか!」
「ええ」
「何人が不幸になると思っている!」
「存じております」
「ならば、なぜだ!」
エレオノーラは一切迷わなかった。
「わたくしの人生を守るためですわ」
「国よりも自分を優先するのか!」
「殿下も、ご自分の権力を守るために国庫を使ったではありませんか」
「私は王国のために!」
「わたくしは、自分のために」
彼女は自分を正義だとは言わなかった。国民を救うためでもない。平等のためでもない。復讐さえ、中心ではない。
自分の人生を奪い返すために、王家と公爵家と王国の秩序を人質に取った。そこには目的がある。覚悟がある。利益を与えた味方がいる。敵さえ、彼女を無視できない。
そして何より、自分の悪を他人のせいにしない。
【非情さ:58】
【悪名:79】
【美学:72】
【悪役階級が上昇しました】
【《小悪党》→《有力な敵対者》】
【称号《黒薔薇公女》を獲得しました】
【称号《王太子を降ろした女》を獲得しました】
【称号《愛する者を共犯者にした女》を獲得しました】
カシアンは笑った。最初は、小さな吐息だった。やがて肩を揺らすほどの笑いになった。
王太子が睨む。
「何がおかしい!」
「失礼」
カシアンは目元を拭った。
「妹が、僕の想像よりはるかに優秀だったもので」
「お兄様」
「何だ」
「その女公爵より、わたくしの方が優れておりますでしょう?」
百年前の女反逆者。イザベラのことだ。この状況で確認することが、それなのか。
「今のところは、お前の勝ちだ」
エレオノーラの顔が輝いた。
「今のところ?」
「イザベラは処刑後も王家を苦しめた。歴史的評価には時間が必要だ」
「では、百年後もお兄様に評価していただかなくてはなりませんわ」
「僕は死んでいる」
「方法を探します」
カシアンの背筋に寒気が走った。冗談ではないらしい。
◇
その夜、アルベルト王太子は王位継承権の一時停止を受け入れた。国王は病床にあり、王家はエレオノーラが握る資料の全公開を避ける必要があった。
ヴァルモント公爵は領地経営権を娘へ譲渡し、名目上の当主として屋敷に軟禁された。婚約は正式に解消。エレオノーラは自由になった。
それから一か月。彼女は公爵領の税を一部減免し、農地の水路を整備し、平民を対象とした官吏登用試験を設けた。領民の評判は意外なほど良い。
「善い領主になるつもりですか?」
新設された執務室で、セシリアが尋ねた。彼女は契約どおり、公爵領の会計官補佐になっている。
「いいえ」
エレオノーラは書類へ署名しながら答えた。
「では、なぜ減税を?」
「飢えた民は反乱を起こします。満腹な民は税を払いますわ」
「水路の整備は?」
「収穫が増えれば、長期的な税収も増えます」
「官吏試験は?」
「無能な貴族より、有能な平民の方が安く使えます」
「人聞きの悪い言い方しかできないのですか」
「善意を主張しなければ、善政として認められませんの?」
「いいえ」
セシリアは書類を受け取った。
「結果として領民が助かるなら、動機は後回しにします」
「だから、あなたを雇ったのですわ」
部屋の隅では、カシアンが黒い本を読んでいる。エレオノーラが執務机から立ち上がり、兄の隣へ座った。
「お兄様」
「仕事は終わったのか」
「今日の分は」
「なら、明日の分をやれ」
「冷たいですわ」
「お前が公爵家になると言ったのだろう」
「お兄様の妹であることをやめた覚えはありません」
エレオノーラは兄の腕へ絡みついた。以前と同じ仕草。だが以前とは違う。
かつては兄に守ってほしくて縋っていた。今は、兄が逃げないことを確かめるために触れている。
黒い本が勝手に開いた。
【特殊クエスト《悪役令嬢を育てよう!》達成】
【育成対象】
【エレオノーラ・フォン・ヴァルモント】
【到達階級】
【《大悪役候補》】
【最終ステータス】
【威厳 :68】
【知略 :61】
【求心力 :53】
【非情さ :58】
【悪名 :79】
【美学 :72】
【警告】
【育成対象が育成者への従属を拒絶しました】
【親愛度:100】
【服従度:0】
【独占欲:100】
【執着度:測定不能】
カシアンは画面を見つめた。
「お前は、僕の言うことを聞く気がないのか?」
「もちろん聞きますわ」
「では、この腕を離せ」
「嫌です」
「聞いていない」
「参考にはしております」
「参考」
「お兄様のことは、世界で一番愛しております」
「その言葉が今ほど恐ろしく聞こえたことはない」
「嬉しいですわ」
エレオノーラは兄の肩へ頭を預けた。
「お兄様は、魅力的な悪役には目的が必要だとおっしゃいました」
「言ったな」
「わたくしの目的は決まりました」
「自分の人生を所有することか?」
「それは手段です」
「では何だ」
彼女は、心の底から幸福そうに微笑んだ。
「お兄様と二人で、この国を悪役のものにすることですわ」
黒い本が激しく輝いた。
【長期クエストが発生しました】
【《兄を逃がすな》】
【達成条件】
【カシアン・フォン・ヴァルモントを、生涯にわたり共犯者として維持する】
【失敗条件】
【対象が死亡する】
【対象が自分以外を最優先する】
【対象が悪役を辞める】
カシアンは画面を読み終え、長く沈黙した。エレオノーラは彼の腕を抱いたまま、答えを待っている。
「なるほど」
やがてカシアンは口元を歪めた。
「僕を攻略対象にしたのか」
「いいえ、お兄様」
エレオノーラは首を横へ振る。
「最終報酬ですわ」
その瞬間、カシアンは理解した。
妹は悪役令嬢ではなかった。ただ性格が悪く、頭が悪く、運まで悪いだけの小娘だった。だから彼は育てた。
目的を与えた。知略を教えた。味方の作り方を教えた。悪意の使い方を教えた。そして完成した悪役は、最初に育成者の逃げ道を塞いだ。
「素晴らしい」
カシアンは心から言った。
「何がですの?」
「悪役は、作者の筋書きさえ裏切らなくてはな」
エレオノーラは目を細める。
「まだご自分を作者だと思っていらっしゃるのですね」
「違うのか?」
「ええ」
彼女は兄の耳元へ、甘く囁いた。
「お兄様も、もう登場人物ですわ」
黒い本の最後のページに、新たな文字が浮かんだ。
【第二部】
【《悪役の兄を育てよう!》】
カシアンは笑い、エレオノーラも笑った。
その日から王国は、二人の悪役を中心に回り始めた。