遠くで、もう一度何かが弾けた。
先ほどより小さい。それでも、静かな森の中では十分すぎるほど異質な音だった。
スズが立ったまま耳を澄ませている。
「さっきより遠い……ううん、場所が少し動いてる」
「戦いながら移動してるってことか?」
レンの問いに、スズはすぐには答えなかった。
「多分。でも、ここからじゃ人数までは分からない」
カゲマルは地図を開いた。
現在地は中央の塔から見て南東寄り。先ほど草隠れの三人を見た場所から、かなり移動している。
あの三人が向かった先と、今の音がした方角。
おおよそ重なる。
偶然かもしれない。
けれど、そう考えるには知っていることが多すぎた。
大蛇丸。
第七班。
サスケ。
呪印。
頭の中で名前が繋がっていく。
「カゲマル」
レンの声で顔を上げた。
「さっき言ってた奴らと関係あると思ってる?」
隠しても仕方がない。
「……多分」
「多分?」
「確証はない。でも、あの草隠れの一人は危ないと思う」
スズがこちらを見る。
「どのくらい?」
答えに迷った。
自分たち三人で戦える相手ではない。
それは間違いない。
だが、どう説明する。
「もし俺の予想が合ってるなら、絶対に戦っちゃ駄目な相手」
レンの表情が変わった。
「そこまで?」
「うん」
「じゃあ行かない方がいい」
スズが即答した。
カゲマルは彼女を見る。
「相手が誰かも、戦ってるのが誰かも分からない。私たちの目的は天の書を取って三人で塔に行くこと。今の情報だけなら近づく理由がない」
正しい。
何一つ間違っていない。
だからこそ、カゲマルはすぐに頷けなかった。
スズはそれを見逃さない。
「でも、カゲマルは行きたいんだね」
「……行きたい、というより」
言葉を探す。
「確認したい」
「何を?」
レンが聞く。
カゲマルは地図へ視線を落とした。
第七班が襲われているかもしれない。
そんなことを言えば、当然理由を聞かれる。
未来を知っているとは言えない。
なら、今ある情報だけで話すしかない。
「さっきの草隠れ、俺たちには気づいてなかった」
「多分ね」
「なのに、かなり速いペースで森の奥へ向かってた。巻物を探してる感じもしなかった」
スズが少し考える。
「誰かを探してた?」
「その可能性があると思う」
「それが今の戦闘?」
「分からない」
カゲマルはそこで言葉を切った。
「分からないから、見たい」
スズの眉が僅かに寄る。
レンは黙っていた。
しばらくして、レンが口を開く。
「じゃあ見に行こう」
「レン」
「戦いに行くんじゃない。見るだけだろ?」
「相手に見つかったら?」
スズが聞く。
「逃げる」
「逃げられなかったら?」
「……頑張って逃げる」
「何も考えてないじゃん」
「考えた結果だよ!」
思わずカゲマルが笑いそうになる。
こんな状況なのに、二人はいつも通りだった。
スズは小さく息を吐いた。
「私は反対」
レンが口を閉じる。
「でも」
スズは続けた。
「カゲマルが何か隠してるのは分かる」
心臓が一度強く鳴った。
スズは責めるような口調ではなかった。
「話せないことがあるなら、それはいい。でも判断に必要なことまで黙られるのは困る」
波の国へ行く前の自分なら、全部一人で決めていたかもしれない。
知っているのは自分だから。
危険を分かっているのも自分だから。
だから自分が考えればいい、と。
カゲマルは地図を畳んだ。
「……ごめん」
二人を見る。
「戦ってるのが第七班の可能性があると思ってる」
レンの目が見開かれた。
「ナルトたち?」
「可能性だけ。確証はない」
「なんで?」
「それは……今は説明できない」
レンは何か言いかけたが、スズが先に口を開いた。
「第七班だったら助けに行く?」
カゲマルは答えられなかった。
助けたい。
当然だ。
ナルトもサスケもサクラも友人だ。
けれど、大蛇丸が相手なら自分たちが加わったところで戦力にはならない。むしろ標的を増やすだけかもしれない。
それに、レンとスズを巻き込む権利はない。
「相手を見て決める」
ようやく出した答えだった。
「俺たちじゃ無理なら逃げる。第七班が危なくても、三人だけで突っ込まない」
レンがじっとカゲマルを見る。
「本当に?」
「……本当に」
「間があった」
「そこは見逃して」
スズが小さく息を吐いた。
「じゃあ条件を決めよう」
「条件?」
「確認するだけ。巻物探しは中断。近づきすぎない。相手に見つかったら逃げる。誰かが危険だと思ったら三人とも下がる」
レンが頷く。
「分かった」
カゲマルも頷いた。
「うん」
「あと」
スズがカゲマルを見る。
「勝手に一人で飛び出さない」
一番言われたくないところを突かれた。
「……分かった」
「今度は間が長い」
レンが笑う。
「うるさい」
三人は戦闘音のした方角へ動き始めた。
⸻
少し前。
第七班は、すでに異常の中にいた。
巨大な蛇。
突然現れた草隠れの忍。
そして、肌を刺すような殺気。
サクラは動けなかった。
身体が命令を聞かない。
目の前にいる相手と戦えば死ぬ。
理屈ではなく、身体がそう理解していた。
ナルトも、サスケも同じだった。
草隠れの忍が笑う。
その姿をした何かが。
サスケは震える手をクナイへ伸ばし、自分の脚へ突き立てた。
痛みで恐怖を押し流す。
呼吸を戻す。
「サクラ」
声はまだ硬い。
「動けるか」
「……う、うん」
完全には戻っていない。
それでもサクラは頷いた。
草隠れの忍が舌を這わせる。
「いい目ね」
サスケの表情が強張る。
敵の目的が巻物だけではない。
直感で分かった。
地の書を差し出せば終わる。
そんな相手ではない。
その時、横からナルトが飛び込んだ。
「何ビビってんだ、サスケ!」
「ナルト!?」
ナルトの拳を、草隠れの忍は容易くかわす。
それでもナルトは止まらない。
影分身が森へ広がった。
「俺たちのサスケはなぁ!」
分身が一斉に飛びかかる。
「こんな腰抜けじゃねぇってばよ!」
サスケの目が見開かれた。
次の瞬間、巨大な蛇の尾がナルトを弾き飛ばす。
木々が砕ける。
サクラの悲鳴。
「ナルト!」
それでもナルトは立ち上がる。
草隠れの忍の目が僅かに細くなった。
九尾。
腹部の封印。
そして、そこへ手を伸ばす。
「五行封印」
ナルトの身体から力が抜けた。
そのまま地面へ落ちていく。
「ナルト!」
サクラが駆ける。
サスケは敵から目を逸らさない。
怖い。
それでも、もう身体は動いた。
手裏剣。
ワイヤー。
火遁。
森の中を利用して距離を取り、攻撃を繋げる。
草隠れの忍が初めて少し楽しそうに笑った。
⸻
第十一班は速度を落としていた。
近づくにつれ、森の様子がおかしくなる。
折れた枝。
削れた幹。
地面に残る大きな跡。
レンがしゃがみ込む。
「これ……人間の戦いか?」
木の幹が大きく抉れている。
カゲマルは答えなかった。
スズが前方へ耳を向ける。
「止まって」
三人が止まる。
遠くから何かが聞こえる。
爆発。
続いて、木が倒れる音。
「近い」
スズの声が低くなる。
カゲマルの口の中が乾いた。
この先だ。
おそらく。
「上から行こう」
地上より見つかりにくいとは限らないが、周囲を確認しやすい。
三人は木へ上がった。
枝から枝へ。
音を立てないよう速度を落とす。
やがてスズが拳を上げた。
停止。
「……いる」
小声だった。
「何人?」
「三人……いや、四人?」
少し間を置く。
「分からない。動きが速い」
カゲマルは太い幹の陰から先を見る。
まだ姿は見えない。
だが、チャクラの気配まではっきり感じられる距離だった。
ぞくりとした。
波の国で再不斬と向き合った時とも違う。
もっと嫌なもの。
敵意だけではない。
何を考えているのか分からない生き物が近くにいるような感覚。
「カゲマル」
レンの声。
カゲマルは無意識に前へ出ていたらしい。
足を止める。
「ごめん」
三人で近くの枝へ移る。
そこから、ようやく見えた。
サクラ。
気を失ったナルトを守るようにしている。
少し離れた場所にはサスケ。
そして――草隠れ。
カゲマルの呼吸が止まりかけた。
さっき見た忍だ。
長い黒髪。
笠はもうない。
顔つきも、雰囲気も違って見える。
だが間違いない。
「第七班……」
レンが小さく呟く。
スズの顔も強張った。
「相手、さっきの人だよね」
「うん」
「助ける?」
レンが聞いた。
カゲマルは即答できなかった。
目の前ではサスケが戦っている。
動きは速い。
アカデミーを卒業したばかりの下忍とは思えないほど。
それでも届かない。
相手には余裕がある。
遊ばれている。
その差が、ここから見ても分かった。
「……無理だ」
カゲマルは言った。
口にすると苦しかった。
「俺たちが入っても勝てない」
レンが拳を握る。
「でもナルト倒れてるぞ」
「分かってる」
「サスケも――」
「分かってる!」
思ったより強い声が出た。
レンが黙る。
カゲマルはすぐに声を落とした。
「ごめん」
スズは戦場を見たままだった。
「あの人、サスケを殺そうとしてない」
カゲマルが見る。
「どうして?」
「分からない。でも、本当に殺すつもりなら、とっくに終わってると思う」
その通りだった。
大蛇丸の目的はサスケ。
殺すことではない。
分かっていた。
分かっているのに、胸の奥が冷える。
このあと何が起こるのかも。
サスケが火遁を放つ。
炎が森を照らす。
草隠れの忍の顔が崩れ、その下から別の顔が覗く。
レンが息を呑んだ。
「なんだ、あれ……」
スズも言葉を失っている。
大蛇丸。
カゲマルは名前を飲み込んだ。
まだ口に出せない。
そして大蛇丸の首が伸びた。
異様な速度。
サスケへ。
「っ!」
カゲマルの身体が動いた。
一歩。
その腕をレンが掴む。
「カゲマル!」
我に返る。
間に合わない。
そもそも届かない。
大蛇丸の牙がサスケの首筋へ食い込んだ。
サスケの叫びが森に響いた。
「サスケ!」
サクラが駆け寄る。
カゲマルは拳を握り締めた。
知っていた。
こうなることを。
知っていたのに。
何もできなかった。
大蛇丸は苦しむサスケを見下ろし、何かを告げている。
その声までは聞こえない。
やがて森の奥へ消えていった。
スズがすぐに耳を澄ませる。
「待って」
誰も動かない。
十秒。
二十秒。
「……離れていく」
「本当に?」
レンが聞く。
「多分」
「多分じゃ――」
「レン」
カゲマルが止めた。
今はスズを急かしても仕方ない。
さらに待つ。
スズが目を開ける。
「もうかなり遠い。少なくとも、こっちには来てない」
その言葉で、三人は同時に動いた。
⸻
「サクラ!」
木々の間から声がして、サクラがクナイを構えた。
「誰!?」
「俺!」
カゲマルが姿を見せる。
続いてレンとスズ。
サクラの表情が一瞬緩んだ。
「カゲマル……!」
すぐにサスケのもとへ駆ける。
サスケは意識を失っていた。
首筋。
そこに黒い痕がある。
三つの勾玉のような印。
知っている。
呪印。
実物を見た瞬間、腹の底が重くなった。
「サスケは!?」
レンがしゃがむ。
「分からない! あいつに噛まれて、それから急に……!」
サクラの声が震えている。
「ナルトも!」
スズがすでにナルトのそばへ行っていた。
呼吸を確認する。
「息はしてる」
「サスケも」
カゲマルは脈を取った。
ある。
速い。
熱も高い。
「生きてる」
サクラがその場へ座り込みそうになる。
だが、すぐに踏ん張った。
「あいつ……何なの?」
答えられない。
少なくとも、今は。
「分からない」
嘘をついた。
胸が痛んだ。
レンが周囲を見る。
「ここにいたら危ない。移動しよう」
「駄目」
サクラがすぐに返す。
「二人とも動かしていい状態か分からない」
スズも頷いた。
「ナルトも意識が戻らない。無理に運ぶ方が危ないかも」
カゲマルは周囲を見る。
戦闘の痕跡。
ここは目立つ。
しかし、意識のない二人を抱えて移動するのも危険だ。
「少し離れた場所に隠れられるところを探そう。遠くには行かない」
レンが頷く。
「俺が見る」
「一人で行かないで」
「分かってる」
スズとレンが周囲を確認しに行く。
カゲマルはサスケのそばに残った。
サクラがナルトの額の汗を拭いている。
その横顔は疲れていた。
「……ごめん」
気づけば言葉が出ていた。
サクラが振り返る。
「何が?」
カゲマルは答えられない。
知っていた。
大蛇丸が来ることも。
サスケが狙われることも。
それでも何もできなかった。
「もっと早く来られたらって」
結局、そう言った。
サクラは少しだけ目を伏せる。
「それ、カゲマルが謝ることじゃないでしょ」
「でも」
「私たちの試験なんだから」
思っていなかった言葉だった。
サクラはナルトを見る。
「怖かったけど……サスケ君もナルトも戦った。私も何もできなかったけど、二人を守らなきゃって思った」
何もできなかった。
そんなことはない。
サクラは今も二人のそばにいる。
逃げずに。
「サクラは残ったじゃん」
「え?」
「それもちゃんと戦ってると思う」
サクラは少し驚いた顔をしたあと、弱く笑った。
「……ありがと」
カゲマルはサスケへ視線を戻す。
自分にも同じことが言えるだろうか。
分からない。
ただ、あの場で飛び出していれば何かが変わった、とは思えなかった。
むしろレンとスズまで傷ついていた可能性の方が高い。
正しい判断だった。
頭では分かる。
それでも、納得できるかは別だった。
「カゲマル」
戻ってきたレンの声に顔を上げる。
「少し先にでかい木がある。根元に隠れられそうな空洞があるって」
後ろからスズも来る。
「周囲に人の音はない。今なら動けると思う」
「分かった」
カゲマルは立ち上がった。
「サスケは俺とレンで運ぼう。スズはナルトを――」
言いかけて止まる。
また自分だけで決めている。
「……どうする?」
レンが一瞬きょとんとした。
スズが先に答えた。
「私が先に行く。道と周囲を確認する」
「じゃあ俺がサスケ」
レンが言う。
「カゲマルはナルト頼む。こいつの方が重そうだし」
「なんで俺?」
「影で鍛えてそうだから」
「影で筋力はつかないよ」
「細かいな」
サクラが小さく笑った。
ほんの少しだけ、空気が軽くなる。
「じゃあ私が荷物持つ」
「お願い」
四人で動き始めた。
⸻
巨大な木の根元にできた空洞は、三人を寝かせてもまだ余裕があった。
ナルトとサスケを奥へ寝かせ、サクラが二人のそばにつく。
レンは入口近くで外を見張り、スズは少し離れた場所まで音を拾っている。
カゲマルは入口に座った。
外はすっかり暗くなっていた。
「なあ」
レンが小声で言う。
「俺たち、このままここにいるの?」
答えに詰まる。
第十一班には地の書しかない。
第二試験を突破するには天の書を探さなければならない。
ここで第七班を守り続ければ、自分たちの試験は進まない。
だが意識のないナルトとサスケを置いていくのも――。
「ずっとは無理」
答えたのはスズだった。
「私たちには私たちの試験がある」
レンが見る。
「でもこいつら、この状態だぞ」
「分かってる」
スズの声は静かだった。
「だから今すぐ置いていこうとは言ってない。でも、いつまでも一緒にはいられない」
正しい。
まただ。
スズは正しい。
カゲマルは膝を立て、その上に腕を置いた。
「朝まで」
二人がこちらを見る。
「今夜は残ろう。二人の状態を見る。朝になってナルトかサスケが動けるようになれば、第七班は第七班で続けられる」
「戻らなかったら?」
レンが聞く。
「その時また三人で決める」
レンは少し考え、頷いた。
スズも反対しなかった。
「分かった」
話は決まった。
その時。
スズの顔が変わった。
「待って」
全員が黙る。
スズは空洞の外へ顔を向ける。
「誰か来る」
レンが立つ。
「何人?」
「三人」
カゲマルの身体に力が入る。
大蛇丸ではない。
三人。
このタイミング。
嫌な記憶が蘇る。
音隠れ。
ドス。
ザク。
キン。
サクラがクナイを握った。
「敵?」
「分からない。でも真っ直ぐこっちに来てる」
スズが答える。
そして僅かに眉を寄せた。
「……この音」
「どうした?」
「前にも聞いた」
カゲマルが彼女を見る。
スズの表情は硬い。
「第一試験の前。薬師カブトが襲われた時」
空気が変わった。
スズは森の闇を見つめている。
「殴ってないのに、眼鏡が割れた時の――」
遠くで、金属が微かに震えるような音がした。
スズの目が細くなる。
「やっぱり」
レンがクナイを抜く。
「知ってる奴らか?」
「顔はまだ見えない。でも、多分」
カゲマルも立ち上がった。
来る。
この流れも知っている。
原作なら、ここからサクラが一人で二人を守り、リーが現れ、やがて第十班も戦いに加わる。
けれど今は違う。
ここには第十一班がいる。
自分たちがいることで、すでに状況は変わっている。
なら、もう記憶通りになるとは考えない方がいい。
「スズ」
「うん」
「位置をお願い」
「分かった」
「レン」
「前だろ?」
「そう」
レンが笑う。
「任せろ」
カゲマルは影を見た。
普通の影。
今はそれでいい。
制御できない力を当てにするつもりはない。
使うのは、自分が使えるものだけ。
空洞の奥では、ナルトとサスケがまだ眠っている。
サクラが二人を守るように前へ出た。
カゲマルは彼女の隣へ立つ。
「サクラ」
「何?」
「ここは一緒に守ろう」
サクラは一瞬だけ驚き、すぐに頷いた。
「うん」
森の暗がり。
木々の向こうから三つの気配が近づいてくる。
その中に混じる、微かな音。
スズだけが、それを誰より早く捉えていた。
第一試験では分からなかった。
何が起きたのか。
どうやって人を傷つけたのか。
今度は目の前で見ることになる。
音は、ただ聞くためだけのものではない。
その事実を水無瀬スズが知るまで、あと僅かだった。