「君は後回しでいい」と言われ続けた婚約者ですが、待たされた三年で王都中の「一番」になっていました ~破棄された翌朝から、玄関に招待状が積み上がっていく~   作:aquali

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1. 待つなら、座っては待ちません

「君は後回しでいい」

 

 それが、私の婚約者の口癖である。

 

 婚約の日に一度。観劇の約束を三度目に破った晩に一度。そこから先は、数えていない。数えると、待ち時間が長くなるからである。

 

 最初のうちは、忙しい方の符丁(ふちょう)なのだと思っていた。三度目で意味がわかり、十度目からは、聞こえなかったことにする稽古を覚えるようになる。稽古というものは、悲しいことに、上達するのである。

 

 今夜も私は、伯爵家の夜会の壁際で婚約者を待っている。ヘリベルト・ローテンブルク侯爵令息、遅れること、そろそろ一刻(いっとき)。燭台の蝋燭は二度替わり、窓の外の空は、藍色を通り越してもう黒に近い。

 

 壁際に立つのには、こつがある。(かかと)に体重を置かない。視線は部屋の流れに乗せておく。そうすると、待たされている令嬢ではなく、涼んでいる令嬢に見える。……三年目の技術である。

 

 言っておくが、健気な話ではない。三年も待てば、待ち時間にも作法ができる。座って待たない。その場でいちばん忙しい人の隣に立つ。手を貸して、困りごとを一つだけ伺う。次にお会いするとき、答えを一つ持って参る。――以上である。

 

 広間の裏で、杯の割れる音がした。給仕頭が腰を痛めたらしい。酒の盆の流れが滞り、女主人の扇の先が小さく揺れる。私は壁際を離れて、その隣に立った。

 

「お下がりは厨房の脇へ。割れ物は下男の方に。……わたくしは、お客様の流れだけ見ておりますわ」

 

「助かるわ、レギーナさん。あなた、どうしていつもこう手早いの?」

 

「暇ですのよ。……ほら、うちの方、まだ見えませんでしょう?」

 

 手を貸して、あとは引く。私の三年は、だいたいこれでできている。

 

 騒ぎがおさまった頃、当の婚約者が現れた。隣に、男爵令嬢のリディア様を連れて。

 

「レギーナ嬢。今朝、完済の受領書が届いた。父の委任状もある。……縁組の約定のとおり、婚約は解消だ」

 

 楽の音が、途切れる。満座の視線の集まる気配を、私は首筋のあたりで感じる。

 

「これで君を待たせる理由も、君に待ってもらう理由もなくなった。僕はリディアと婚約する。三年、君を後回しにした詫びは言わない。政略に情を演じるほうが、よほど不誠実だろう」

 

 彼の隣で、リディア様が目を伏せた。この方は悪くない。それくらいは、この距離でもわかる。

 

 内緒話をひとつ。三年前、ローテンブルク侯爵家は北の商いでしくじって、金庫業を営むうちの家から、金貨四千二百枚をお借りになった。侯爵家から質草は取れない。取れない代わりに、貸し付けには〈縁組の約定〉が添えられたのである。――返せなければ、婚姻で「家の内の貸し借り」に変える。返し終えたら、どちらの当主からでも、恨みを残さず解消できる。

 

 つまり私は、借財の隣に置かれた判子のようなものだった。世間はもっと短く言う。担保、と。

 

 だから、お手続きは正しい。……正しいのだけれど、正しさと幼さは、両立するのである。三年の扱いと、この満座の選び方が、その証明だ。

 

 なるほど。三年分の待ち時間の、締めの一言がこれである。

 

 胸の奥で、何かが小さく音を立てた。痛みと呼ぶには古すぎて、とうに家具の軋みに似てしまった音である。三年、と口の中で転がすと、いくつかの絵が一度にめくれる。空いた隣席。雨の御者だまり。針山。回廊の窓の光。……妙なもので、どの絵にも、当の婚約者は写っていないのである。

 

 私はスカートをつまみ、いちばん丁寧な礼をした。

 

「お手続きは、ご正式ですわ。場所のお選びだけ、三年ぶんほど、幼うございましたけれど。……承知いたしました。三年ぶりに、予定が、なくなりましたのね」

 

 どよめきの中で、女主人が私の腕を取る。楽団長が譜面をめくり、いつかの幕間に話した私の好きな曲を振る。給仕の盆には、頼んでもいない私の好物の焼き菓子。場の温度が、静かにこちらの側へ寄ってくる。

 

 ヘリベルトは不思議そうな顔で立っていた。なぜ君が主役の顔をしているのだ、と言いたげな顔である。存じません、と胸の内で申し上げておく。伺いたいのは、こちらのほうである。

 

 ――――三年前。

 

 歌劇『薄明の庭』の初日。隣の席は、終幕まで空いていた。幕間の玄関で、十九の私は決めたのである。待つなら、座って待ちません、と。

 

     ◇

 

 婚約破棄の翌朝――。

 

 玄関の銀の盆に、招待状が一通載っている。朝食が終わる頃には盆の縁からあふれ、昼には盆が二枚に増え、夕方、執事のエーバーハルトは何も言わずに柳の籠を出した。

 

「『一番にお知らせしたくて』と。こちらは『一番に袖を通してほしくて』。こちらは『新しい厨房を、どうか一番に』」

 

「……皆さま、この三年、どちらにいらしたのかしらね?」

 

「お嬢様の、隣に」

 

 執事は無表情で言うのである。封蝋の色が、籠の中で花畑のようになっている。歌劇場の紺、仕立て屋の薄紅、菓子職人の飴色。三年ぶん、と数えかけて、やめた。数えないのが、私の作法である。

 

 玄関の脇では、父が籠の中を覗き込んでいる。

 

「これは……使いようによっては」

 

 聞こえなかったことにする稽古は、こういうときにも役に立つのである。

 

 夕刻、玄関にもう一人だけ、客が来た。

 

 レーヴェンシュタイン公爵、ジークヴァルト様。この三年、夜会の玄関や馬車寄せで立ち話ばかりしてきた、名前を付けたことのない顔見知り。立ち話を全部束ねても、一晩分に足りない方である。

 

 その方が、王都中でただ一人、手ぶらで立っていた。羽根飾りも、花束も、紙の一枚もなし。玄関に立つ人の両手が空いている――たったそれだけのことが、今日は、ひどく目新しい。

 

「招待状は、持って参りませんでした」

 

 夕日が玄関の敷石を金色にして、公爵の影を長く伸ばしている。

 

「あなたの空いた時間は、あなたのものです」

 

「……まあ。変わったお見舞いですこと。皆さま、わたくしの時間の次の使い道を、よくご存じでいらっしゃるのに」

 

「存じません。あなたが決めることです」

 

「では――」

 

「では、また。――どこかの玄関で」

 

 一礼して、振り返らずに帰っていく。相変わらず、時間に正確な背中である。

 

 その夜、寝台の上で気がついた。明日の私には、何の予定もない。三年ぶりに、ひとつも。

 

 籠の招待状を思い浮かべる。あれを全部お受けすれば、明日は埋まる。埋まって、また埋まって――ふと、その先を考える手が、止まる。

 

 胸の奥が、すう、と薄くなる。……空いた時間の過ごし方を、私はまだ知らないのである。

 

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