「君は後回しでいい」と言われ続けた婚約者ですが、待たされた三年で王都中の「一番」になっていました ~破棄された翌朝から、玄関に招待状が積み上がっていく~   作:aquali

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2. 三年、お預かりしておりました(前編)

 朝の玄関で、籠のいちばん上の一通を取った。王立歌劇場の支配人、フォルクマール氏。新演目の初日に、どうか一番に、とある。

 

 三年、お誘いへのお返事はいつも「侯爵家のご予定を伺ってから」だった。伺ったご予定が返ってきたことは、ない。だから今朝のお返事を、私は鏡の前で一度だけ練習した。

 

「――お受けいたしますわ」

 

「かしこまりました」

 

 執事のエーバーハルトは眉ひとつ動かさない。ただ、心なしか、招待状の籠の置き場所が、窓辺の日なたへ半歩動いた気がするのである。口に出してみると、お受けいたしますわ、は、思いのほか良い響きである。

 

 王立歌劇場。開幕前のざわめきが、私は昔から好きである。衣擦れと、囁きと、楽器の調律の音。三年前の私は、この音を、隣の空席と一緒に聞いていた。

 

 ビロードの桟敷(さじき)席は、舞台の熱がちょうどよく届く高さにある。演目は評判どおりに面白く、隣の席には支配人の心遣いの膝掛けまで畳んで置いてある。何も、欠けていない。

 

 幕の上がっているあいだは、私は三年ぶりに、物語を座って浴びる。舞台の上では、人が、待った分だけちゃんと報われていく。……脚本家というものは、優しい嘘がうまいのである。

 

 ……欠けていないことに、そわそわしている自分がいる。三年、幕間は立つ時間だった。立って、歩いて、誰かの隣へ行く時間。幕が下りる気配だけで、膝の上の手が勝手に手袋を締め直すのである。困った癖だ。

 

 その幕間に、廊下がざわついた。老いた桟敷係が立ちくらみで下がったらしい。案内を待つお客様が廊下に溜まり、支配人が額を光らせて走り回っている。

 

 気がつくと、私はその隣に立っていた。

 

「東側のお客様は、東の給仕の方が手すきですわ。お飲み物は、先に回してしまいましょう。……お倒れになった係の方には、白湯と、椅子と、それから休みを」

 

「お嬢様は、変わられませんな。本日は、お客様でいらしてください、と申し上げたはずですが」

 

「あら。お客が幕間に道案内をしてはいけない決まりでも?」

 

「……ございませんな。うちの玄関には」

 

 支配人が、走りながら笑う。廊下の奥では、ご老人が白湯の椀を持たされて、若い係に叱られるように労られていた。癖というものは、婚約と違って、一晩では解消できないのである。

 

 ――三年前の、あの初日。

 

 空いた隣席と一緒に幕間へ出た十九の私は、泣く代わりに、ロビーでいちばん忙しい男の隣に立った。手が震えていたのは、内緒である。泣かないと決めた夜は、手が代わりに忙しいのだ。手を貸して、汗を拭く暇のなかったその人に、困りごとを一つだけ伺った。

 

「雨の夜は、客足が三割がた薄くなりますな」

 

 次の観劇にも、婚約者は来ない。だから私は、代わりに答えを持って行ったのである。

 

「御者は空を読みますのよ。御者だまりに、傘と白湯の置き場をお作りなさいませ。雨の晩も、馬車が切れませんわ」

 

 それが、私の型の生まれた夜である。待ち時間は、そうやって三年、少しずつ別の何かに変わり続けた。

 

 終演の玄関は、人の川になる。半刻前まで泣いていた人も、笑っていた人も、同じ流れで夜へ出て行く。私はこの眺めが、桟敷の続きくらいに好きである。

 

 その流れの外れに、見慣れた背の高い影が立っている。レーヴェンシュタイン公爵。確か、どの演目も半刻(はんとき)で帰る方である。

 

「お帰りは幕間のはずでは?」

 

「今日は……居合わせました」

 

「居合わせた、ですの」

 

「居合わせたのです」

 

 妙な押し問答である。公爵は咳払いをひとつして、通りの向こうの並木を指した。

 

「……少し、歩きませんか。何もしない散歩です。お疲れなら、また」

 

「何もしない散歩、ですの?」

 

 受けてみて、わかった。私は「何もしない」が、できない。

 

 花壇の傾いた札を見れば直し、迷子を見れば屋台の親の元へ送り届け、雨上がりの濡れた椅子を見れば軒下で裏返す。そのうえ――道端の花売りの最後の一束にまで手が伸びかけたところで、公爵が静かに言った。

 

「それは、困りごとですか?」

 

「……売れ残りは、困りごとに見えますわ」

 

「では、わたしが困りましょう」

 

 公爵は花を一束買って、なぜか自分で抱えて歩いた。変な方である。

 

「上出来です。……何もしない、以外は」

 

「難しゅうございますのよ、これ」

 

「存じています。わたしも、覚えるのに十年かかりました」

 

 夕暮れの並木道に、パン屋の(かまど)の残り香が流れてくる。公爵の歩幅は、よく見ると私より半歩遅い。合わせてくださっているのだと気づいて、気づかないふりをした。

 

 手ぶらで歩くということを、腕は意外に覚えていないものである。振り方に困っている私の隣で、公爵は花束を抱えて、実に自然に歩いている。……あちらのほうが、よほど散歩の玄人である。

 

 玄関で別れて、階段を上って、ふと思う。あの方は今日、手ぶらでいらして、売れ残りの花束をひとつ抱えてお帰りになった。次の約束も、先の日取りも、お求めにならない。いただいたのは、断ってもよい散歩がひとつ。……この王都で、それがどれほど珍しいことなのかを、私は玄関の籠を見るたびに知るのである。

 

 別れ際は、いつもの口上である。では、また、どこかの玄関で――。

 

 翌朝の籠のいちばん上には、仕立て屋オティーリエの一通。「新作に、一番に袖を通していただきたく」。

 

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