「君は後回しでいい」と言われ続けた婚約者ですが、待たされた三年で王都中の「一番」になっていました ~破棄された翌朝から、玄関に招待状が積み上がっていく~ 作:aquali
オティーリエの工房は、王都の目抜き通りから一本入った角にある。扉を開けると、布と糊と、ほんの少しの薔薇水の匂い。奥からは、待ち針を打つ小気味よい音。三年通って、体が覚えてしまった匂いと音である。
「いらっしゃい。さあ、新作を――」
マダムの声が、途中で止まった。隣の仮縫い台で、若いお客様が泣いている。婚礼の衣装合わせの最中らしい。亡くなったお母様の形見のレースに、祝いの席の酒がかかったのだという。
お母様が婚礼でお着けになったレースで、式は明後日で――と、娘さんの言葉が途切れ途切れになる。針子たちの手が止まっている。マダムの眉間に、深い皺が一本。
――いちばん忙しい人の隣は、今日は、ここである。
「騒がないで聞いてくださいましな。組合のブルーノ親方のところに、白革の染み抜きの名人がおりますの。革にできてレースにできない理屈はない、が口癖の方ですわ。それから――酒の染みは、乾く前なら塩と湯気。うちの婆やの受け売りですけれど、外れたことがございませんの」
「試す価値はあるわね。あなたたち、塩! 台所から湯気の鍋!」
針山が飛び、鍋が運ばれ、半刻後には名人が駆けつけた。手を動かすのは職人たち、決めるのはマダム、祈るのは花嫁。私はただ、隣に立って、人と人を繋いだだけである。
……祈るのは花嫁、と言ったが、じつは私も祈っていた。形見というものは、布の目方より、ずっと重いのである。
◇
日暮れ前、レースは婚礼に間に合う見通しになった。娘さんは濡れた目のままレースを撫でて、それから深々と頭を下げるのである。
「お顔をお上げになって。お礼でしたら、職人の皆さまと、婆やの塩に仰ってくださいましな」
「あなたの手柄じゃない顔をするのが、あなたらしいわ」
「手柄ではありませんもの。……わたくしは、待つのが得意なだけですわ」
――三年前の初夏。
この工房で、私は婚約者と衣装の色を選ぶはずだったのである。仮縫いの約束に、彼は来なかった。代わりに届いたのは、侯爵夫人の言い置きである。色は地味に。飾りは控えめに。侯爵家の予定に、障らぬように。
私は針山を持って、職人たちの隣に立った。布の名前と、待ち針の打ち方と、約束を破らない人たちの世界は、そこで覚えたものである。針山を持つ手は、存外、心を静める。指先に役目のあるあいだ、胸は余計なことを考えないで済む。……いま思えば、あれも鎧の一種だったのだろう。
鏡の前で職人が布を当てるたび、私は鏡の中の自分に慣れていった。半歩暗い色。一段細い飾り。……似合っているかどうかは、誰も聞かないのである。
地味に、はまだいい。障らぬように、のほうが、いま思えばずっと堪えた。人というものは、障ってよい相手にだけ、色を許されるものだからである。
以来この工房で、私の着る物の色は、いつも「先方のご指定」だった。
「それで、今日の新作。お色は、どうなさるの?」
マダムに問われて、気がついた。私は、自分の着る物の色を、自分で選んだことがない。二十二年、ただの一度も。
何色が好きかと胸の内に問うてみて、すぐに答えが出てこない。好みというものは、使わずにいると、仕舞った場所を忘れるらしい。自分の「欲しい」を棚のいちばん奥へ置く癖は、そういうところにまで及ぶのである。
見本の布が、夕日を受けて机に広げられている。私は、そのうちの一枚に指を置いた。置いたまま、しばらく動かない。選ぶというのは、思ったより、勇気の要る所作なのである。
「これを。……夕暮れの、一歩手前の色ですわ」
「いいじゃないの。あなたの色だわ」
「わたくしの色」。声に出さずに繰り返してみると、胸の棚の奥で、何かが一つ、手前に出てきた気がする。なぜその色なのかは、深く考えないことにする。……ただ、その時刻の空を、最近よく見上げるのである。
包みの紐には、マダムが薄紅の飾り紐を結んでくれた。初めて自分で選んだ記念よ、だそうである。記念、と言われると、包みが少し重くなるから不思議である。
◇
夕方の散歩で、公爵は新しい包みに気づいたらしい。何か言いかけて、咳払いをひとつ。それから、空を見た。
「……今日は、空の色が、よく映ります」
「お褒めの言葉と受け取ってよろしいの?」
「……そのつもりで、申しました」
褒め言葉が空の語彙でしか出てこない方らしい。並木の上の空が、ちょうど、あの布の色をしている。言おうかどうか迷って、やめておいた。言えば、なにかの符丁になってしまいそうな気がしたのである。
包みを抱え直すとき、紐の薄紅がちらりと覗いた。公爵の視線がそこで一拍止まったのを、私は見なかったことにする。聞こえなかったことにする稽古の、新しい使い道である。
玄関に戻ると、招待状の籠の脇に、見慣れない帳面が置いてある。表紙に、父の字。――「受付簿」。
「……お父様。これは、何の帳面ですの?」
玄関に、返事はない。
「エーバーハルト。あの帳面は?」
「旦那様が、今朝ほど。……わたくしは、反対でございます」
執事の意見表明を、私は初めて聞いた。事態は、思ったより深刻らしいのである。