「君は後回しでいい」と言われ続けた婚約者ですが、待たされた三年で王都中の「一番」になっていました ~破棄された翌朝から、玄関に招待状が積み上がっていく~ 作:aquali
婚礼の日の朝は、よく晴れた。
晴れた、ということについて、少しだけ考える。雨なら、少しだけ、いい気味だと思えたのに――思えなかった自分に、安心する。三年は、性格を悪くするには、足りなかったらしい。
私は行かない。ただし、これはお断りではないのである。
「お返事をしないうちに、日が過ぎましたのよ。期限切れですわ」
「左様でございます」
執事は真顔で頷いた。うちの執事は、こういうときに限って察しがいい。小机の一通は、今朝、静かに片づけられた。期限の切れた招待状は、待合から出て行くのである。……あちらの式が、つつがなく済みますように。それくらいは、思っておく。
小机は、片づいてみると、少し寂しい。寂しい、と思った自分に驚いて、朝の茶を一杯、余計に飲んだ。保留にも、情が移るらしい。
今日の一通は、王宮の菓子職人ランベルト氏。新作の味見を、どうか一番に、とある。
王宮の厨房の脇の、小さな控えの間。銀の匙と、湯気の立つ茶と、蜂蜜色の焼き菓子。窓から入る昼の光まで、少し甘い気がする部屋である。砂糖と焦がしバターの染みついたこの匂いを嗅ぐと肩の力が抜けるようになったのは、白鳥の一件からだ。
「
「……幸せの味がいたしますわ。三口目で、確信に変わる型の」
「三口目! そこなんですよ、お嬢様」
大きな体が、嬉しそうに揺れる。
「お代わりも、ありますよ」
「あら。味見に、お代わりの制度が?」
「お嬢様に限り、あります」
職人の目が輝く。味見の感想は具体的に、が三年で覚えた礼儀である。
――二年前。
私はこの王宮の、別の控えの間で半日待たされた。晩餐の同伴者として呼ばれて、そのまま忘れられたのである。座らずに廊下を眺めていた私の前を、砂糖細工の白鳥が通りかかり――運び手の若い見習いが、つまずいたのである。
白鳥は、私の両手の中に落ちた。羽の一枚も、欠けずに。
「あれ以来ですよ、お嬢様をお呼びするようになったのは。命の恩人ならぬ、白鳥の恩人だ」
「大げさですわ。……それより、蔵の湿気はいかがですの?」
「塩の壺、効いてます。婆やさまさまです」
半日の待ちぼうけの終わりには、婚約者の母君の侍女が来て、こう言ったものである。本日は、お帰りくださって結構とのことです、と。……あの日の帰り道の長さは、よく覚えている。覚えているから、両手に落ちてきた白鳥の重さも、忘れないのだ。
困りごとを一つ、答えを一つ。白鳥一羽ぶんの縁が、三年で、こうなったのである。
◇
同じ昼下がり、ローテンブルク侯爵家の婚礼は、身内だけでつつがなく執り行われたそうである。祝いの楽は先約を理由に丁重に辞され、引き出物の仕立ては通常の納期で上がり、王都の商人たちは、いつもどおりの品を、いつもどおりの値で納めた。誰も、新郎を虐げない。ただ、誰も、彼を一番にしない。式のあと、新郎がしきりに首をかしげていたことは、出入りの御者だけが覚えている。
◇
夕方、いつもの角に、いつもの背中があった。
「……今日は少し、遠回りをしませんか。お疲れなら、いつもの道で」
「遠回りで、結構ですわ」
川沿いの道は、夕日で銅色になっている。水音と、対岸の子どもの声。歩幅は、今日も半歩遅い。
途中、川面を屋形船がひとつ下って行った。船頭が公爵に会釈をして、公爵が正確に返す。
「お知り合いですの?」
「昨年、橋の上から荷を落とした縁で」
「……縁の作り方が、わたくしと同じですのね」
「……お式は、今日でしたね」
公爵が、ひとつだけ聞いた。
「ええ。晴れて、ようございましたわ」
「……それだけですか?」
「それだけですわ。ほんとうに、それだけに、なりましたの」
気がつけば、私は三年の話をしていた。すっぽかしの数は言わない。待たされた恨みでもない。……待ち時間の途中で出会った、人の話である。白鳥と、譜面台と、雨の御者だまり。
「――というわけで、わたくしの三年は、存外、悪いものではありませんでしたの」
「知っています」
「あら。どうしてですの?」
「その三年の途中に、わたしも、居ましたので」
玄関と、馬車寄せと、回廊の隅に。……そうだった。この方は、ずっと、あの三年の景色の中にいたのである。
言われてみれば、思い出の端々に、あの背の高い影がある。景色というものは、あとから名前が付くと、急に色が濃くなるものらしい。
話し終えて、胸が軽い。荷物を預けた覚えはないのに、確かに何かを降ろした、帰り道である。
夜更けに灯りの点いた書斎というものは、それだけで少し、不穏である。
屋敷に戻ると、父の書斎に灯りが点いていた。扉の隙間から、机の上に広げられた紙が見える。表題の字が、嫌に大きい。――「玄関の間」。