ルーデウス視点
Eランクへ昇格してから、十二日が経過した。
俺たちは毎朝、冒険者ギルドが開く時間に合わせて宿を出た。
掲示板の前へ行き、報酬の高さだけではなく、目的地、期限、危険度、必要な道具、依頼を終えた後に残る問題まで確認する。その上で、その日に受ける仕事を三人で話し合った。
薬草採取であれば、採取場所の近くに別の依頼がないかを探す。
街道周辺の魔物調査であれば、道中で商隊の護衛を引き受けられないか受付へ確認する。
討伐依頼では、対象の素材をギルドが買い取るか、周辺の生態へどの程度影響するかまで聞いておく。
一日に受けられる依頼は限られている。
だからこそ、一つの移動で複数の目的を果たせるようにした。
ただし、依頼を同時に抱えすぎることはしない。
途中で予想外の問題が起きた場合、どちらも中途半端になるからだ。
最初に受けたDランク依頼は、街道を塞ぐストーントゥレントの群れの排除だった。
二件目は、魔物に襲われた荷車の回収。
三件目は、岩山に巣を作った飛行型魔獣の調査。
四件目は、町外れの農地を荒らすアシッドウルフの討伐。
依頼の中には、剣を抜く必要すらないものもあった。
遭難した旅人を捜し。
壊れた荷車を直し。
道を塞いでいた岩を動かす。
毒に侵された商人へ治癒魔術を使う。
エリスは最初こそ、冒険者らしくないと不満を口にしていた。
しかし、助けた者から直接感謝される仕事を重ねるうちに、少しずつ考えが変わっていった。
特に、五件目の護衛依頼での出来事が大きかった。
馬車に乗っていたのは、魔族の母親と幼い兄妹だった。
街道の途中で魔物に襲われた際、エリスは母親から離れてしまった子供の前へ入り、三匹の魔獣を一人で止めた。
俺が地面を固め、ルイジェルドが別方向から来た群れを抑えている間、エリスは一歩も退かなかった。
魔獣を倒した後。
泣いていた子供が、エリスの脚へ抱きついた。
エリスはどうすればよいか分からず、しばらく剣を持ったまま固まっていた。やがて以前メイセルへしたように、空いている手で子供の背中を軽く叩いた。
町へ戻った後も、兄妹は何度もエリスへ手を振っていた。
その日の夜。
宿の部屋へ戻り、俺たち三人だけになってから、エリスは報酬として受け取った貨幣を机の上へ並べながら言った。
「剣を振るうだけじゃなくても、冒険者なのね」
「そうですね」
「戦わなくても、人を助けられる仕事もある」
「はい」
「でも、あの子たちを守る時には剣が必要だったわ」
「そのために、今まで鍛えてきたのでしょう」
エリスは自分の剣を見た。
「私、もっと強くなるわ」
以前と同じ言葉だった。
けれど、その言葉へ込められた意味は少し変わっていた。
誰かに勝つため。
自分の強さを証明するため。
それだけではない。
自分の後ろにいる者を、確実に守るため。
エリスは、剣を振るう目的を自分なりに見つけ始めていた。
ルイジェルドは、机の向こうからエリスを見ていた。
「守る相手を見失わなければ、お前はさらに強くなる」
「当然よ」
「敵を追いすぎる癖は、まだ残っている」
「……それも直すわよ」
即座に言い返さず、自分の欠点を認める。
エリスは少しずつではあるが、確実に変わっていた。
◇
十件目のDランク依頼を終えた日の夕方。
俺たちは冒険者ギルドの奥へ呼ばれた。
机の向こうには、以前と同じギルド長が座っている。
その手元には、十枚の依頼完了記録と、依頼人から提出された評価が並べられていた。
「十件連続で、Dランク依頼を完了」
ギルド長が一枚ずつ確認する。
「期限超過なし。依頼放棄なし。討伐対象以外への被害なし。護衛依頼では死傷者なし」
最後の一枚を置き、俺たちを見る。
「依頼人からの苦情も一つもない。むしろ、依頼書にない仕事まで行ったという報告が複数ある」
「必要だったので行っただけです」
崩れた街道を直した。
傷ついた馬を治した。
荷物を町まで運んだ。
依頼を終わらせるために必要なことだった。
「それを当然にできる冒険者は多くない」
ギルド長は、俺たちのEランク札を回収した。
代わりに、Dの文字が刻まれた札を三枚置く。
「デッドエンドをDランクへ昇格させる」
「やったわ!」
エリスが札を手に取った。
魔神語での説明も、今ではおおよそ理解できている。
日常で使う言葉に限れば、俺がすべて翻訳する必要はなくなっていた。
発音や文法はまだ不完全だが、依頼人へ自分から質問し、簡単な返事を聞き取れる。
「次はCランクね」
エリスがギルド長へ言った。
「そう簡単には上がれんぞ」
「すぐ上がるわ」
「自信があるのは結構だ。だが、Dから上は、単に魔物を倒せるだけでは足りない」
「分かってるわよ。周りを見て、依頼を最後まで終わらせるんでしょう?」
ギルド長の眉が僅かに上がった。
エリスが規則や仕事の意味を理解して答えるとは思っていなかったらしい。
「そのとおりだ」
エリスは満足そうに胸を張った。
「ルードは何も言わないのか」
ギルド長がルイジェルドへ尋ねた。
「二人は、よくやっている」
「お前自身は?」
「俺は二人を守っているだけだ」
「報告書では、依頼人の子供を救った回数が最も多いようだが」
ルイジェルドは黙った。
子供の危険を見つければ、依頼の対象でなくても助けに向かう。
それを特別な行動だとは考えていないのだろう。
「いずれにせよ、これで一つ上のCランク依頼も受けられる」
ギルド長が言った。
「だが、危険度は大きく上がる。依頼書のランクだけで判断するな。場所や対象によっては、記載以上の危険がある」
「承知しています」
俺は新しい札を受け取った。
十二日。
急いだつもりはない。
それでも、毎日の依頼を失敗せずに積み上げたことで、Dランクまで上がることができた。
他人の依頼を奪うこともなく、実力と信用を一つずつ示すことで、必要な立場へ近づいている。
◇
Dランクへの昇格後、俺たちは旅の装備を整えることにした。
これまでの服は、ロアを出た時に着ていたものだ。
何度も洗い、修繕してきたが、長期間の旅へ耐えられる作りではない。靴も魔大陸の岩場を歩き続けたことで、底が薄くなり始めていた。
防具屋へ入る。
店主は、甲殻に覆われた太い腕を持つ魔族だった。
俺たちの冒険者札を見ると、最初から子供扱いすることなく、Dランク向けの装備を並べてくれた。
エリスが最初に選んだのは、全身を金属で覆う鎧だった。
「重すぎます」
「着られるわよ」
「着られることと、動けることは違います」
エリスは実際に胸当てを身につけ、店の中を歩いた。
直線的に進むだけなら問題ない。
しかし、方向転換では身体が僅かに流れ、腕を振る速度も明らかに落ちている。
「これでは剣神流の速さを生かせません」
「でも、硬いわ」
「攻撃へ当たることを前提にするより、避けた上で、急所だけを守る装備にしましょう」
ルイジェルドも頷いた。
「重い鎧は、お前には合わない」
二人から言われ、エリスは渋々鎧を脱いだ。
選び直したのは、魔物の革を重ねた軽い胸当て。
肩と肘。
膝。
手首。
脇腹。
動脈と関節を守りながら、動きを妨げない範囲だけへ防具をつける。
頭には、金属板を縫い込んだ額当てを選んだ。
何度か試着した後、エリスは店内で軽く足を動かした。
踏み込み。
急停止。
方向転換。
剣は抜かない。
それでも、今までとほとんど変わらない速度で動けることを確かめた。
「これならいいわ」
「一つ大きい寸法にしましょう」
「どうして?」
「成長すれば、すぐに合わなくなります。紐で調整できる範囲なら、少し余裕があった方が長く使えます」
エリスは胸当ての隙間を確認した。
「動きにくくならない?」
「紐を締めれば問題ありません」
「なら、そっちにするわ」
見た目だけで選ばず、実際の動きと今後の成長まで考えている。
店主も、俺たちのやり取りを聞きながら、紐の位置を調整してくれた。
俺は厚手の旅用ローブ。
丈夫な手袋。
足首まで固定できる革靴。
魔石や薬品を分けて入れられる腰帯を購入した。
防具を重くしすぎれば、魔術を使う際の動きを妨げる。かといって布だけでは、魔物の爪や飛来物を防げない。
ローブの内側には、軽くて丈夫な魔物の皮が縫い込まれている。
アクアハーティアを背負えるよう、固定用の革紐も追加してもらった。
ルイジェルドは、自分の装備をほとんど欲しがらなかった。
染料。
額へ巻く新しい布。
槍を手入れする油。
それだけで十分だと言う。
「ルードさんは、靴を替えなくてもよろしいのですか?」
「今のもので問題ない」
「外套は?」
「持っている」
本当に必要ないらしい。
無理に買わせる理由はなかった。
装備を一通り揃えると、これまでに稼いだ金の多くが消えた。
防具屋を出た後、人通りの少ない場所へ移り、残った額を三人で確認する。
宿泊費。
食費。
消耗品。
船賃。
魔大陸の南端へ着くまでに必要な期間。
正確な船賃は分からないが、今の所持金だけで十分とは考えにくい。
「あと、いくら稼げば出発できるの?」
エリスが尋ねた。
「最低限の旅費だけなら、Cランク依頼を数件こなせば届くかもしれません」
「なら、すぐに受けましょう」
「報酬だけで選ばないようにします」
掲示板へ向かう。
Dランクになったことで、Cランク依頼を受けられる。
討伐。
護衛。
危険地域の捜索。
今までより報酬は高い。
同時に、失敗した場合の被害も大きくなる。
その中に、一枚だけ目を引く依頼書があった。
石化の森に現れた、正体不明の魔物の捜索。
目撃情報の確認だけでも報酬が出る。
危険な魔物であると判明し、討伐できた場合には追加報酬。
依頼の分類はCランク。
ただし、石化の森にはBランク相当の魔物が生息しているため、単独行動を避けるよう注意書きがある。
「これがいいわ」
エリスが依頼書を指差した。
「報酬も高いし、強い魔物もいるんでしょう?」
「依頼内容が曖昧です」
正体不明の魔物。
何をもって発見とするのか。
痕跡だけでもよいのか。
証明には何が必要なのか。
倒すべき対象と、森に元からいる魔物をどう区別するのか。
前の依頼で、証拠を残す重要性を学んでいる。
今回は、受ける前に確認するべきだった。
受付へ依頼書を持っていく。
「捜索完了の条件を教えてください」
「依頼人が見た場所を確認し、足跡、鱗、体毛などの痕跡を持ち帰ること。可能なら、姿や特徴を記録することね」
「対象が見つからなかった場合は?」
「指定範囲を調査した証明があれば、最低報酬は出るわ」
「討伐は必須ではないのですね」
「危険だと判断したら、無理に戦わず報告すること。石化の森は、Cランクの冒険者が気軽に入る場所ではないわ」
「ほかのパーティが、同じ地域の依頼を受けている可能性は?」
受付の女性は記録を確認した。
「石化の森へ向かう依頼は、ほかにも二件ある。ただし、依頼内容は別よ」
同じ森。
同じ時期。
異なる依頼人。
偶然かもしれない。
しかし、すべてが同じ魔物に関係している可能性もある。
「その方々と、現地で情報を共有しても問題ありませんか?」
「依頼人の秘密に関わる内容でなければ、冒険者同士で決めて構わないわ。ただし、成果物の取り合いで争いを起こせば処分する」
必要なことは確認できた。
俺たちは依頼を受注した。
出発は翌朝。
石化の森までは、一日ほどかかる。
◇
石化の森は、その名のとおり、すべてが固まってしまったような場所だった。
葉のない白い木々が、空へ向かって細い枝を伸ばしている。
樹皮は石のように硬く、風が吹いても枝葉の音がしない。
地面には細かな白い破片が積もり、足を乗せるたび乾いた音を立てた。
森の入口には、先に二組の冒険者が集まっていた。
一組は六人。
装備が整い、全員の動きにも無駄がない。
Bランクパーティ、スーパーブレイズ。
もう一組は三人。
俺たちと年齢の近い、若い魔族で構成されたDランクパーティ、トクラブ村愚連隊。
リーダーらしい二本角の少年が、俺たちを見る。
「お前たちも依頼か?」
「はい。デッドエンドです」
名乗ると、スーパーブレイズの大柄な男が鼻を鳴らした。
ギルドで何度か見かけた人物だった。
「子供二人に大人一人で石化の森か。町の周りで犬でも狩ってりゃいいものを」
エリスの目が鋭くなる。
それでも、言い返さなかった。
人間語で俺へ尋ねる。
「話を聞く価値はある?」
「依頼内容の確認だけはしましょう」
俺は三組の依頼内容を聞いた。
スーパーブレイズは、白牙大蛇の討伐。
トクラブ村愚連隊は、正体不明の卵の採取。
俺たちは、謎の魔物の捜索。
すべて、同じ地域で報告されている。
「同じ魔物に関係している可能性があります」
俺は言った。
「発見した情報だけでも、共有しませんか?」
「お前らの面倒まで見る気はねえ」
スーパーブレイズのリーダーが吐き捨てた。
「守ってもらうつもりはありません」
「だったら、勝手に探せ。獲物は早い者勝ちだ」
協力する気はないらしい。
無理に一緒に行動すれば、かえって問題になる。
トクラブ村愚連隊の三人は、不安そうに森を見ていた。
装備はDランクとして不自然ではない。
しかし、視線の動き。
足場の確認。
森へ入る前の準備。
ルイジェルドは、彼らの様子を見て眉を寄せた。
「この森へ入った経験がない」
第三者が近くにいるため、声量は抑えられていた。
「僕も、そう見えます」
水。
解毒薬。
退路の印。
奇襲への備え。
確認している様子がない。
「止める?」
エリスが人間語で尋ねる。
「依頼を受けたのは本人たちです。僕たちが命令することはできません」
ただし、放置することもできない。
「危険を説明します。その上で入るというなら、少し離れて様子を見ましょう」
俺は三人へ近づいた。
石化の森にいる魔物。
毒を持つアーモンドアナコンダ。
重装の死者、エクスキューショナー。
遭遇した場合に、どちらへ逃げるか。
ルイジェルドから聞いた範囲で説明した。
角の少年は、少し不満そうな顔をした。
「俺たちだってDランクだ。子供に心配されるほど弱くない」
「僕たちもDランクです」
冒険者札を見せる。
「だから、同じ立場として話しています。森では複数の魔物から挟まれる可能性があります。逃げる方向だけでも、入る前に決めておいた方がいい」
少年は仲間二人を見た。
最終的には、入口から東へ逃げると決めたらしい。
「何かあったら、大声で合図してください」
「助けてもらうつもりはない」
「それでも構いません。聞こえたら、こちらの判断で動きます」
俺たちは別々に森へ入った。
スーパーブレイズは南。
トクラブ村愚連隊は西。
俺たちは、彼らから距離を保ちながら北西へ向かう。
三組の姿が互いに見えなくなるまで進んでから、エリスが尋ねた。
「謎の魔物を探さなくていいの?」
「彼らを見張り続けるわけではありません。指定範囲の調査をしながら、ルイジェルドさんが危険を感じた時だけ確認します」
「危なくなったら?」
「すぐに助けます。怪我をしてからでは遅い」
「依頼を邪魔したと言われるかもしれないわよ」
エリスの問いに頷く。
「その時は謝ります。報酬を失ったと言われれば、話し合います」
命を失えば、話し合うことすらできない。
「助けたことへ感謝してもらう必要もありません。生きて帰ってもらうことを優先します」
ルイジェルドは、静かに頷いた。
「それでいい」
◇
森へ入って一時間ほど経った頃。
ルイジェルドが突然、足を止めた。
「三人が走っている」
「何かに追われていますか?」
「ああ。エクスキューショナーだ」
「逃げる方向は?」
「東ではない。森の奥へ向かっている」
事前に決めた退路を見失っている。
あるいは、敵の位置によって東へ逃げられなかったのだろう。
「前方には?」
ルイジェルドの額を隠す布が僅かに動いた。
「アーモンドアナコンダが四匹」
エクスキューショナーに追われ、その先には毒蛇の群れ。
すでに危険な状況だった。
「行きます」
迷う必要はなかった。
俺は杖を握り、走り出す。
エリスが隣へ並ぶ。
ルイジェルドは一歩で俺たちの前へ出た。
森の中を、白い木々の間を縫うように進む。
やがて、金属のぶつかる音が聞こえた。
角の少年たちは、エクスキューショナーから逃げている。
前方の木の陰から、アーモンド模様を持つ巨大な蛇が姿を現した。
一匹。
二匹。
四匹。
三人は蛇へ気づき、足を止めた。
背後からは、巨大な剣を持った鎧の魔物が迫っている。
「伏せて!」
エリスが魔神語で叫んだ。
以前なら、俺の言葉を待っていた。
今は自分で状況を見て、現地の言葉で必要な指示を出している。
三人が反射的に身を低くした。
俺は杖を振る。
蛇の群れと三人の間に、斜めの土壁を作る。
ただ遮るだけではない。
蛇を左右へ押し分け、中央に細い退路を残す形だった。
「こちらへ走ってください!」
三人が動く。
一匹の蛇が土壁を乗り越え、少年へ牙を向けた。
エリスが横から入る。
蛇の頭へ正面から斬りつけない。
毒牙の間合いへ入る寸前で方向を変え、下顎の横から剣を通した。
頭部が地面へ落ちる。
返り血を浴びる前に一歩下がり、次の蛇へ身体を向ける。
「止まらないで! 走って!」
エリスは三人へ叫びながら、自分は退路の横へ残った。
獲物を追わない。
自分の勝利を確認しない。
守るべき者が逃げ切るまで、次の敵を見る。
ルイジェルドはエクスキューショショナーの前へ出た。
巨大な剣が振り下ろされる。
三叉の槍が、刃の側面へ触れる。
正面から受け止めず、軌道を逸らす。
地面へ刺さった大剣の上を滑るように踏み込み、槍の石突きで兜を打った。
重い音。
エクスキューショナーの身体が揺れる。
それでも倒れない。
「硬いな」
ルイジェルドは、どこか感心したように言った。
「三人が離れるまで、そこで止めてください!」
「ああ」
俺は残った蛇へ向き直った。
二匹が土壁を回り込み、一匹が壁を登っている。
広い範囲を一度に吹き飛ばせば、逃げている三人やエリスまで巻き込む。
狙うのは足元。
蛇に足はない。
ならば、身体を支えている地面を崩す。
地表を細かく震わせる。
蛇の長い身体が左右へ揺れた。
鱗が地面を捉えられなくなる。
その隙に、エリスが一匹目の首を斬る。
二匹目は、俺が作った石の杭で胴体を持ち上げた。
腹が地面から離れ、移動できなくなる。
「右をお願いします!」
「分かったわ!」
エリスが杭を足場として駆け上がる。
蛇が身体を捻り、噛みつこうとする。
エリスは頭の動きを最後まで見た。
一歩踏み込み。
牙を剣の腹で逸らす。
そのまま剣を返し、首の付け根へ刃を入れた。
残る一匹は、土壁の上から俺へ飛びかかってきた。
杖を向ける。
岩砲弾では、距離が近すぎる。
目の前へ薄い水の膜を作り、その瞬間に凍らせた。
蛇の牙が氷へ刺さる。
毒液が内部へ広がった。
動きが止まったところへ、圧縮した風を横から当てる。
頭部が大きく逸れた。
エリスの剣が届く。
最後の蛇が倒れた。
「三人は?」
俺が尋ねる。
ルイジェルドが答える。
「安全な距離まで離れた」
「では、エクスキューショナーを倒します」
三人で囲む必要はなかった。
ルイジェルドだけでも倒せる。
しかし、俺とエリスも戦場へ戻った。
エリスは敵の剣が届かない位置を保ち、足運びを観察する。
俺は鎧の隙間と、内部の魔力の流れを見る。
「右脚の動きが遅いです!」
俺が告げる。
エリスが右側へ回る。
エクスキューショナーはエリスを追おうとし、重心を右脚へ乗せた。
その瞬間。
俺は右脚の下だけを泥へ変えた。
鎧の重さで足が沈む。
姿勢が崩れる。
ルイジェルドの槍が、兜と胸当ての隙間へ入った。
内部にある魔力の核を正確に貫く。
エクスキューショナーの身体が静止した。
鎧と剣が、灰のように崩れていく。
森に静けさが戻った。
◇
角の少年たちは、少し離れた木の陰にいた。
全員、生きている。
一人が腕へ浅い傷を負っているが、毒蛇に噛まれたものではない。逃げる途中、枝で切っただけのようだった。
俺は治癒魔術を使った。
「助けてもらうつもりはなかった」
リーダーの少年が、悔しそうに言う。
「はい」
「俺たちだけでも逃げられた」
「その可能性もあったと思います」
否定はしない。
「ですが、前に蛇がいることを知らないまま進んでいました」
少年は黙った。
「依頼を邪魔したことについては謝ります。卵の場所が分かっているなら、捜索は続けられます」
「どうして、もっと危なくなるまで待たなかった」
仲間の一人が尋ねた。
「俺たちが本当に逃げられなくなってから助ければ、恩を売れただろ」
俺は言葉に詰まりかけた。
その考え方が、冒険者の間では珍しくないのかもしれない。
危険なところを助けるほど、感謝される。
報酬を要求しやすい。
しかし、そのために助ける時期を遅らせれば、判断を一つ間違えただけで人が死ぬ。
「助けるのに、ぎりぎりまで待つ理由がありません」
俺は答えた。
「感謝してもらうためではなく、生きて帰ってもらうために来ました」
「報酬はいらないのか?」
「僕たちは自分の依頼を受けています。あなたたちから報酬をもらうつもりはありません」
「本当に?」
「はい」
エリスが腕を組んだ。
「死んだら、卵も持って帰れないでしょう」
魔神語の文法は少し崩れていたが、意味は伝わった。
「次は、逃げる道を間違えないことね」
上から教えるような口調だった。
それでも、彼らを弱いと笑ってはいない。
三人が生きていることへ、安心しているのが分かった。
ルイジェルドは、少し離れた場所から俺たちを見ていた。
「ルードさん?」
第三者がいるため、俺は偽名で呼びかけた。
ルイジェルドはゆっくり近づいてきた。
「よい判断だった」
「まだ終わっていません」
「何がだ」
「この森には、別の魔物がいる可能性があります。スーパーブレイズの方々も、どこにいるか分かりません」
ルイジェルドが森の南へ顔を向ける。
額を覆う布の下で、感覚器官が周囲を探っている。
数秒後。
その表情が険しくなった。
「南で戦闘が起きている」
「人数は?」
「六人。大きな蛇と戦っている」
白牙大蛇。
あるいは、依頼書に記された謎の魔物。
「危険な状態ですか?」
ルイジェルドは答える前に、森の奥へ視線を移した。
「一人、倒れた」
俺とエリスは顔を見合わせた。
迷う時間はなかった。
「トクラブ村愚連隊の皆さんは、森の外へ戻ってください」
「俺たちも行く!」
角の少年が言う。
「怪我人を連れていけば、さらに危険になります」
「でも――」
「森の入口まで戻り、救援が必要だとギルドへ知らせてください。あなたたちの依頼についても、生きて帰らなければ報告できません」
少年は悔しそうに歯を食いしばった。
それでも、今度は自分たちの力量を無視しなかった。
「……分かった」
「帰り道は覚えていますか?」
「ああ。今度は間違えない」
三人は、事前に決めた東の退路へ向かった。
その背中を確認してから、俺たちは南へ走り出す。
石化の森での仕事は、まだ終わっていなかった。
◇
レイネ視点
五日目の朝。
レイネが冒険者ギルドへ入ると、登録を担当した女性職員が、すでに三枚の依頼書を用意して待っていた。
扉を開けた瞬間、酒場にいた何人かの冒険者が、こちらへ視線を向ける。
「来たぞ」
「あれが例の白髪か?」
「侍女服のまま盗賊を二十六人捕まえたっていう……」
「崩落現場で三十九人を生きたまま助けたBランクだろ」
押し殺した声。
しかし、レイネの耳には十分に届いていた。
登録初日の時点では、レイネは単に、外見と服装が目立つ新人だった。
白髪。
赤い瞳。
十二歳前後にしか見えない容姿。
冒険者には不向きに見える、整えられた侍女服。
だが、商隊を襲った盗賊二十六人を一人で制圧し、翌日には崩落現場で救助隊の中心となった。
救助された商人や護衛。
現場へ同行した冒険者。
報告書を読んだギルド職員。
噂は、それらの者たちを介して広がっている。
名前を知らない者たちは、レイネを見たままの姿で呼び始めた。
白い髪を持つ侍女。
いつしか、それが縮まり。
――白髪の侍女。
まだミリシオンの一部で使われ始めたばかりの呼び名だったが、Bランクへ昇格した頃から、少しずつ定着し始めていた。
レイネ自身は、その異名について訂正も肯定もしなかった。
職業が侍女であることも。
髪が白いことも事実である。
その呼び名によって、フィットア領出身者の捜索や救護所の存在まで広まるのであれば、否定する理由もなかった。
「今日は、こちらで選ばせてもらったわ」
女性職員が、机の上に三枚の依頼書を並べた。
すべて救助を含む依頼だった。
一つ目。
山間部で消息を絶った薬草採取者の捜索。
二つ目。
増水した川の中州へ取り残された一家の救助。
三つ目。
街道で負傷している旅人を町まで搬送する仕事。
どれもBランク冒険者にとっては、特別に難しい依頼ではない。
しかし、単に魔物を倒せば終わる仕事でもなかった。
「三件とも、同日に向かうのでしょうか」
「いいえ。まずは川の救助。終わった時刻とあなたの状態を見て、次を決めるわ」
「承知いたしました」
レイネが依頼書へ目を通していると、女性職員が机へ肘をついた。
「文句はないの?」
「何についてでしょうか」
「Bランクになったのに、もっと大きな討伐依頼を受けたいとか」
「ございません」
レイネは即答した。
「私が必要としているのは、高額な魔物の討伐実績ではございません。救助と捜索を任せていただける信用でございます」
「そう言うと思った」
職員は小さく笑った。
「ギルド長も同じことを言ってたわ。あなたに討伐依頼だけを与えても、腕の確認にはなるけれど、判断力の確認にはならないって」
「ご配慮に感謝いたします」
「それから、今回も監督役がつくわ」
職員が酒場の方へ顔を向ける。
壁際の席から立ち上がったのは、三十代ほどの男性冒険者だった。
腰に片手剣を下げ、背には弓を負っている。
「Aランク冒険者のベイルよ。今回は現場責任者も兼任するわ」
「ベイルだ」
男は短く名乗り、レイネを見下ろした。
外見だけを見れば、十二歳ほどの少女である。
だが、ベイルの視線には露骨な侮りはなかった。
事前に、レイネの記録を読んでいるのだろう。
「白髪の侍女、だったか」
「そのように呼ばれ始めていることは存じております」
「気に入ってるのか?」
「特には」
レイネは普段どおりの表情で答えた。
「ですが、間違った内容ではございませんので、訂正する必要もないかと存じます」
「そうか」
ベイルは僅かに口元を緩めた後、すぐに表情を引き締めた。
「お前が強いのは聞いている。だが、今日は俺の指示で動け」
「承知いたしました」
「勝手に飛んでいくな。川の流れを変えるな。救助対象が見えても、周囲を確認するまで近づくな」
「はい」
「それから、俺の判断がおかしいと思った時は、黙って従うな。理由を説明して止めろ」
レイネは一度だけ瞬きをした。
「よろしいのでしょうか」
「責任者が間違えない保証はない。お前が気づいている危険を、命令違反になるからと黙られる方が困る」
以前、ギルド長から言われた内容と似ている。
自分一人ですべてを決めるな。
だが、責任者へ従うことと、何も考えず命令を聞くことは同じではない。
「承知いたしました。必要な場合には、理由を添えて進言いたします」
「それでいい。行くぞ」
◇
川の中州へ取り残されていたのは、五人家族だった。
父親。
母親。
十歳ほどの少年。
幼い姉妹。
前夜から続いた雨によって川の水位が上がり、家族が渡ろうとしていた木橋が途中で流されたらしい。
五人は中州にある大木へ登り、一晩を耐えていた。
現場へ到着した時。
水位はさらに上がっていた。
濁流には折れた木や石が流れ、時折、水面下から魔物の背が見える。
ベイルは川岸へ立ち、周囲の地形を確認した。
「舟は使えないな」
同行した二人のCランク冒険者が頷く。
一人は水魔術を扱える。
もう一人は救助用の縄や滑車を運んでいた。
「上流から縄を渡すか」
Cランク冒険者の一人が提案した。
「だが、泳いでいくのは無理だ」
「矢に細い縄をつけて飛ばし、向こうで太い縄へ交換させる方法なら――」
ベイルが家族を見る。
大木へしがみついているだけで精一杯である。
幼い子供に縄を結ばせるのは難しい。
レイネは川幅と流速を見た。
魔術で川を凍らせる。
地面を隆起させ、橋を作る。
風で家族ごと運ぶ。
方法はいくつもある。
しかし、どれも水中にいる魔物と、川底の状態を確認せずに行えば危険だった。
「上流に、流れが二つへ分かれている箇所がございます」
レイネが言った。
ベイルが振り返る。
「見えるのか」
「はい。こちら側の水量を一時的に減らすのであれば、川全体を堰き止める必要はございません。上流の分岐で、一部を反対側へ流します」
「地形を変えすぎないか」
「数分後には元へ戻します。流量を完全に止めず、半分ほどに抑えるだけでございます」
ベイルは上流と中州を交互に見た。
「水位が下がった時、あの木が倒れる可能性は」
「根元は岩盤へ食い込んでおります。急激に水位を変えなければ、問題は低いかと存じます」
「水中の魔物は?」
「川岸へ追い出される可能性がございます。お二人に迎撃をお願いいたします」
レイネは同行する冒険者たちへ視線を向けた。
一人が剣を抜く。
「任せろ」
水魔術師も杖を構えた。
「流れの制御を手伝う」
レイネは、すぐには魔術を使わなかった。
最後にベイルを見る。
「実行してもよろしいでしょうか」
「やれ。ただし、一度に流量を落とすな」
「承知いたしました」
レイネは上流へ向けて手を伸ばした。
土と岩を動かす。
川を塞ぐ壁ではない。
分岐点の形を僅かに変え、水の一部を別の流れへ導く。
目の前の川から、少しずつ水量が減っていった。
水位が下がる。
流れが弱まる。
それまで水中に隠れていた岩が姿を現す。
同時に、水棲魔物が一体、浅くなった川から飛び出した。
待ち構えていた冒険者が剣で受け止める。
別の一体へ、水魔術師が水弾を撃ち込む。
レイネは川の流れを維持しながら、中州へ風を伸ばした。
五人の身体を直接運ぶことはしない。
大木の枝から順番に、落下を防ぐための細い風の膜で包む。
「今からお一人ずつ、こちらへお連れいたします」
川音へ負けないよう、声を通した。
「最初に、お子様からお願いいたします。枝を離さず、そのままでいてください」
幼い少女が泣きながら母親へしがみついている。
母親が娘を抱き、レイネへ頷いた。
風で身体を浮かせる。
一人目。
二人目。
少年。
母親。
最後に父親。
全員を川岸へ降ろす。
直接持ち上げた時間は、それぞれ数秒だけだった。
五人の足が地面へついたことを確認した後、レイネは上流の地形を元へ戻す。
流量がゆっくりと戻る。
「全員、怪我はないか」
ベイルが家族を確認した。
父親は足を捻っていたが、命に関わるものではない。
レイネは治療を行い、家族へ温めた水と携行食を渡した。
救助された家族が落ち着いたことを確認した後、ベイルは流れを取り戻した川へ目を向けた。
「最初から、風で五人を運び出すだけでも救えたんだろう」
「はい。運ぶことだけであれば可能でございました」
「なら、どうして先に川の流れを弱めた」
「風で人を運んでいる間にも、水中の魔物や流木、突然の突風へ対応する必要がございます。強い流れを残したままでは、僅かな事故がそのまま致命傷になりかねません」
レイネは、再び濁流へ隠れていく岩を見た。
「先に水量を減らしておけば、万が一どなたかが風の支えから外れても、すぐに救い上げられます。また、魔物が現れた場合も、私が五人の救助へ集中している間、皆様に安全な足場から迎撃していただけます」
「自分一人でできるから、全部自分でやるとは考えなかったわけか」
「救助の目的は、私の能力を示すことではございません。想定外の事態が起きても、全員を生きて帰すことでございます」
ベイルはしばらく川を眺めた後、小さく息を吐いた。
「最も早い方法ではなく、失敗しても死者が出にくい方法を選んだのか」
「はい。救助においては、そちらを優先すべきかと存じます」
「分かった」
ベイルはそれ以上尋ねなかった。
ただし、ギルドへ戻った際に提出した報告書には、レイネが単独で完遂できる状況でも同行者へ役割を割り振り、予期せぬ事故に備えて救助手順を組み立てていたことが、細かく記されていた。
◇
五日目から十日目。
レイネは、ギルドが選定した救助と捜索依頼を中心に受けた。
山中で足を折った薬草採取者。
毒を持つ魔物の縄張りへ迷い込んだ旅人。
落石によって坑道内へ閉じ込められた鉱夫。
夜間の吹雪で道を失った商隊。
橋の崩落によって孤立した集落。
いずれの依頼でも、単独で勝手に先行することはしなかった。
緊急性が高い時にはレイネが最初に現場へ入り、状況を確認する。
その後、後続の救助隊へ情報を伝える。
どの道が安全か。
何人が取り残されているか。
魔物はいるか。
負傷者の状態。
必要な物資。
レイネ自身が一人で完了できる依頼であっても、現場にほかの冒険者がいるなら役割を分けた。
魔物を倒す者。
負傷者を運ぶ者。
治療する者。
街道を確保する者。
救助対象を落ち着かせる者。
自分がすべてを行えば速い場合もある。
だが、レイネが去った後。
同じ状況へ対応する者たちは、レイネほどの力を持っていない。
その者たちが再現できない方法だけを残しても、次の救助にはつながらない。
誰でも行える手順。
必要な人員。
不足する装備。
改善すべき連絡方法。
レイネは依頼を終えるたび、報告書へ書き残した。
それによって、ギルド側の対応も変わり始めた。
救援依頼を受けた時。
最初から治療術師を呼ぶ。
縄や担架を準備する。
地形に詳しい冒険者を加える。
魔物討伐だけではなく、避難者の受け入れ先を確認する。
レイネ一人の能力を前提とせず、救助隊全体が動けるようになっていった。
そして。
依頼が終わるたびに、白髪の侍女という名も広がっていった。
吹雪の中から救い出された商人が、次の町で話す。
坑道から生還した鉱夫が、酒場で語る。
崩れた橋の向こうから助けられた住民が、近隣の村へ伝える。
小柄な少女。
白い髪。
汚れることを厭わず救助へ入りながら、仕事が終われば乱れた服を整え、侍女として頭を下げる。
ある者は彼女を、Bランクとは思えない魔術師だと言った。
ある者は、剣士としてもAランクを超えていると語った。
ある者は、絶対に負傷者を置き去りにしない救助者だと話した。
噂の細部は、人から人へ伝わるほど変わっていった。
しかし。
白髪の侍女という呼び名だけは変わらなかった。
ギルドへ持ち込まれる依頼の中にも。
「白髪の侍女へ頼みたい」
そのような指定が増え始めた。
ギルドは、特定の冒険者を依頼人の希望だけで割り当てることはしなかった。
それでも。
レイネの名と異名は、ミリシオン周辺の町や街道で、確実に知られ始めていた。
◇
フィットア領出身者の情報も、少しずつ集まっていた。
以前に作成した、十四人分の名簿。
その写しが、ミリシオン周辺の冒険者ギルドと教会へ送られた。
最初に届いた連絡は、登録六日目だった。
ミリシオンから北東へ二日の町。
教会へ保護された少年が、フィットア領内の村名を口にしている。
レイネは、その日の依頼を終えた後、少年のいる町へ向かった。
到着した教会。
少年は十歳ほどだった。
転移後に森へ落ち、数日間さまよった後、旅人に保護されたという。
名を聞く。
出身地を聞く。
家族の名前。
村の特徴。
名簿を確認する。
ミリシオンで保護されていた十四人の中に、同じ村の農夫がいた。
直接の家族ではない。
だが、少年の両親を知っている人物だった。
レイネは少年を無理にミリシオンへ連れていかなかった。
体調。
本人の希望。
教会の受け入れ状況。
移動時の護衛。
すべてを確認する。
少年は、同じ村の人間に会いたいと答えた。
翌日。
ミリシオンへ向かう商隊へ、護衛とともに預ける。
到着後。
少年と農夫は救護所で再会した。
農夫は、少年の姿を見た瞬間。
椅子を倒しながら立ち上がった。
「お前……鍛冶屋のところの!」
少年も相手を覚えていた。
両親ではない。
それでも。
故郷を知る人物が、自分と同じ場所にいる。
少年は声を上げて泣いた。
農夫は、自分も涙を流しながら少年を抱き締めた。
その光景を見て。
レイネは、名簿を作ったことが間違いではなかったと確信した。
全員をすぐに家族へ戻すことはできない。
だが、一つの情報が別の情報とつながれば、孤立していた者同士を結ぶことはできる。
◇
一方で。
救護用に借りていた宿は、すぐに限界へ近づいた。
登録八日目。
宿泊しているフィットア領出身者は三十一人。
日中だけ名簿確認へ訪れる者もいる。
子供。
高齢者。
負傷者。
一階の食堂は、受付と食事の場所を兼ねていた。
紙。
食料。
薬。
寄付された衣類。
すべてが同じ建物へ集まり始める。
登録を担当した女性職員が、宿の中を見回して顔をしかめた。
「このままだと、二日か三日で廊下まで人が寝ることになるわね」
「別の場所を確保する必要がございます」
「ギルド長が教会と宿屋組合へ話を通してる。候補は二つ」
一つ目は、町の北側にある古い倉庫。
広いが、窓と水場が少ない。
二つ目は、町外れにある使われていない宿舎。
以前は巡礼者や季節労働者を泊めていたが、持ち主が亡くなってから使われていない。
建物は古い。
だが、部屋数が多く、井戸と厨房もある。
レイネは、ギルド長、教会の司祭、宿屋組合の代表とともに、宿舎を確認した。
外壁。
屋根。
井戸。
排水。
厨房。
火災時の出口。
周辺の治安。
必要な修繕箇所を一つずつ調べる。
「使えると思うか」
ギルド長が尋ねた。
「修繕すれば、十分に使用可能でございます」
「お前の魔術で、一日で直せるか」
「直すこと自体は可能でございます」
レイネは答えた。
「しかし、私が去った後に壊れた場合、修繕できる方がいなくなります。大工の方々に構造を確認していただき、通常の方法を中心に修理すべきかと存じます」
宿屋組合の代表が眉を上げる。
「魔術で全部直すと言うと思ったがな」
「急を要する危険箇所のみ、私が補強いたします。今後の維持は、現地の技術で行える形が望ましいと考えております」
ギルド長が頷いた。
「なら、そうしろ」
資金の問題もあった。
建物の賃料。
修繕費。
寝具。
食料。
薬。
人件費。
レイネが依頼で得た報酬だけでは、すべてを長期間賄えない。
そこで、管理をギルドと教会の共同とする。
レイネ個人へ寄付を集めない。
寄付金は専用の帳簿へ記録する。
支出には、ギルド職員と救護所側の責任者、双方の署名を必要とする。
食料や寝具を物品で寄付された場合も、数量を記録する。
レイネは、資金が不透明になることを避けた。
本人が善意で管理しているとしても。
一度でも横領や不正を疑われれば、救護所全体の信用が失われる。
建物の修繕には四日かかった。
レイネは危険な屋根と壁だけを魔術で補強し、残る作業は大工や救護所の人々とともに行った。
窓を直す。
寝台を運ぶ。
厨房を清掃する。
井戸の水質を調べる。
受付用の机を一階へ置く。
二階を宿泊所へする。
裏の倉庫へ保存食、衣類、薬、毛布を分けて保管する。
フィットア領出身者の中からも、役割を担える者を募った。
文字を扱える者は名簿。
元衛兵は警備。
商人や会計係は物資と寄付金の管理。
治療の心得がある者は負傷者の看護。
子供の扱いに慣れた者は、保護者のいない幼児を担当する。
レイネが依頼へ出ている間にも、新しい者を受け入れられるようにする。
この宿舎は、いつしかギルド職員や教会関係者から、単に「救護所」と呼ばれるようになった。
救護所へ新たな保護者が到着した時。
白髪の侍女が作った場所だと説明されることも増えた。
レイネ本人は不在であっても。
異名は、救護所の存在とともに広がっていった。
◇
登録十二日目。
レイネは再び、ギルド長の部屋へ呼び出された。
二階へ上がること自体には、もう慣れていた。
しかし、今回は部屋にいた人数が多かった。
ギルド長。
登録窓口の女性職員。
レイネの監督役を務めたAランク冒険者ベイル。
別のAランクパーティの代表。
神殿騎士団から派遣された書記官。
そして、本部から来た審査官。
机の上には、レイネがBランクへ昇格した後に完了した依頼の記録が並べられていた。
一部の報告書では、すでに氏名の後ろへ呼び名が併記されている。
レイネ。
通称、白髪の侍女。
本来、異名は自分から名乗るものではない。
多くの人間が同じ呼び名を使い始めた時、自然と記録へ残されるようになる。
登録から十日ほど。
その短期間で、呼び名が本部の審査書類へまで記されること自体が、異常な広まり方を示していた。
「座れ」
ギルド長に促され、レイネは椅子へ腰掛けた。
「今日は昇格審査だ」
「Aランクへの、でしょうか」
「そうだ」
ギルド長は書類を一枚持ち上げた。
「Bランクへ昇格してから九日。単独、あるいは救助隊の一員として完了した依頼は十件。いずれも失敗なし」
救助人数。
負傷者。
魔物による被害。
同行者からの評価。
命令違反の有無。
一つずつ記録されている。
「お前の戦闘能力がAランクを上回っていることは、すでに疑っていない」
ギルド長が言った。
「だが、Aランクは自分の命だけを守れればいい立場ではない。現場の責任者を任されることがある。低ランクの冒険者を率いることもある。依頼主と直接交渉し、状況によっては依頼内容を変更する判断も求められる」
「承知しております」
「そこで、これまでの依頼でお前と行動した者から、意見を集めた」
ベイルが口を開いた。
「川の救助では、俺が現場責任者だった。レイネは許可を取らずに魔術を使うことも、指示を無視することもなかった」
別のAランク冒険者も続ける。
「鉱山救助では、俺たちが指示を受ける側だった。こいつは自分にしかできない場所を引き受けたが、俺たちを雑用扱いしなかった。できることを確認して役割を分けた」
神殿騎士の書記官は、複数の報告書を開いた。
「現場責任者の判断へ異議を出した事例が二件あります。しかし、いずれも理由を説明し、指揮権を奪うことなく代案を提示しています」
一件は、崩れかけた橋を住民に渡らせようとした救助。
もう一件は、魔物の群れを正面から突破しようとした護衛依頼。
レイネは危険を指摘し、別の経路を提案した。
最終判断は責任者へ委ねた。
結果として、どちらも死者を出さずに完了している。
「それから」
ギルド長が救護所の帳簿を持ち上げた。
「依頼外の活動ではあるが、フィットア領出身者の救護所についても確認した」
レイネは黙って続きを待った。
「資金はギルドと教会の共同管理。寄付と支出は分離。保護された者の名簿は、本人の同意を得た範囲で支部間へ共有。お前が依頼へ出ている間も、業務は続いている」
「はい」
「お前個人の私兵や組織にするつもりはないのだな」
「ございません」
「救護所の人間から、過度な労働を強いられたという証言もない」
「役割をお願いしてはおりますが、体調と本人の希望を確認しております」
本部の審査官が、初めて口を開いた。
「Aランクへ上げることに、不安がないわけではない」
「当然かと存じます」
「登録から十二日だ。あまりにも短い」
「はい」
「だが、低いランクへ留めることにも問題がある」
審査官は記録を指で叩いた。
「現在、お前はBランク依頼へ参加しながら、実際にはAランクパーティより危険な箇所を任されている。緊急時には、お前の進言によって現場全体が動いている。それにもかかわらず、札の上では正式な責任を持てない」
能力だけを見て昇格させるのは危険。
しかし。
実際の役割とランクが大きく離れれば、責任の所在が曖昧になる。
レイネの指示によって人員を動かしたにもかかわらず、失敗した時だけ「Bランクの勝手な行動」と扱われる可能性もある。
「質問する」
審査官が言った。
「Aランクとなり、複数の冒険者を率いることになった。部下が命令へ反対した場合、どうする」
「理由を確認いたします」
「急いでいる時でもか」
「時間がない場合には、把握している危険だけを簡潔に報告していただきます。その上で、最終判断は責任者である私が行います」
「反対した者が正しかった場合は」
「判断を変更いたします」
「自分の面目は考えないのか」
「救助対象と同行者の命より、優先すべき面目はございません」
審査官は次の質問へ移る。
「依頼主の要求と、安全が両立しない場合は」
「危険を説明し、依頼内容の変更を提案いたします。拒否された場合には、ギルドへ報告し、継続の可否を確認いたします」
「依頼主が今すぐ決めろと言ったら」
「その場で許容できない危険であると判断した場合、依頼を中断いたします。報酬よりも、依頼人と冒険者の生存を優先いたします」
「最後に、一つ確認する」
審査官は手元の記録へ目を落とした。
「お前が、魔大陸にいる主人を迎えに行くため、身分と信用を急いで得ようとしていることは、これまでの聴取記録にも残っている」
「はい」
「それならば、救護所の設立や運営にまで手を広げず、必要な資金だけを稼いで出発した方が早かったはずだ」
レイネは、すぐには答えなかった。
転移事件によってミリス大陸へ飛ばされてから、何度も自分自身へ問いかけてきたことだった。
今すぐ出発するべきではないのか。
迎えに行くという約束を、ほかの仕事を理由に先延ばしにしているだけではないのか。
その迷いが消えたことは、一度もない。
「主人には、信頼できる方々が同行しております」
レイネは静かに答えた。
「詳しい状況まで知ることはできませんが、現在も無事であり、直ちに私が駆けつけなければ命を失う状態ではないことは把握しております」
「だから、後回しにできると考えたのか」
「いいえ」
レイネは、はっきりと否定した。
「主人を後回しにしたつもりはございません」
「では、この救護所は何のためだ」
「主人をお迎えした後、無事に帰るためでございます」
審査官が僅かに眉を動かした。
レイネは続ける。
「主人だけを連れ帰るのであれば、私一人で向かい、そのまま安全な土地までお連れする方法もございます」
それだけであれば、救護所も名簿も必要ない。
国境を越えるための信用を得た時点で、すぐに魔大陸へ向かえばよかった。
「ですが、主人にも捜さなければならないご家族がいらっしゃいます。ともに故郷を目指す方々もいらっしゃいます。そして、フィットア領から各地へ飛ばされた方を見つけた時、主人がその方を見捨てて先へ進まれるとは思えません」
主人を迎えに行けば、それですべてが終わるわけではない。
むしろ、そこから帰還の旅が始まる。
その途中で。
故郷を失った者。
家族を捜す者。
行き先のない子供。
助けを求めるフィットア領出身者と出会う可能性がある。
そのたびに、レイネ一人がすべてを抱え込み、自分だけの力で運び、自分だけの判断で保護しなければならない状況では、主人の進む道を狭めることになる。
「私一人にしか使えない方法だけでは、主人を自由にお帰しすることはできません」
「だから、先に受け入れる場所を作ったのか」
「はい」
名前を記録する場所。
家族を捜すための仕組み。
安全に移送するための護衛経路。
一時的に保護する宿舎。
食料と薬。
そして、レイネがいなくても活動を続ける人々。
それらがあれば、主人を迎えた後。
道中で助けを必要とする者と出会っても、その場へ留まり続ける必要はない。
保護する。
記録する。
次の安全な場所へつなぐ。
その上で、主人とともに帰還を続けられる。
「私が救護所を設けたのは、主人より他者を優先したためではございません」
レイネは膝の上で、静かに手を握った。
「主人を必ずお迎えし、その後も途中で立ち止まることなく、皆様とともに帰るためでございます」
「それでも、お前がここへ残っている間、主人は魔大陸にいる」
「はい」
その事実は、誰に言われるまでもなく理解している。
主人がどのような場所で眠り。
何を食べ。
どのような危険へ遭遇しているのか。
細かなことは何も分からない。
分からないからこそ、今すぐ向かいたい。
その気持ちは、日ごとに強くなっている。
「ですが、私が不安に耐えられないという理由だけで、現在動いている救護を投げ出すこともできません」
レイネは審査官を見た。
「私が行うべきことを終え、ほかの方々へ任せられる状態にした上で、必ず主人をお迎えに参ります」
会議室が静かになった。
審査官はしばらくレイネを見た後、書類を閉じた。
「異例ではある」
登録三日目の審査と同じ言葉だった。
「だが、異例であること自体を理由に、事実を否定することはできない」
審査官はAランクの札を机へ置いた。
「白髪の侍女レイネを、Aランク冒険者として認定する」
レイネは立ち上がり、札を受け取った。
「ありがとうございます」
「ただし、Sランクは別だ」
ギルド長が言った。
「どれほど強くても、依頼を数件こなしただけで届くものではない」
「承知しております」
「Aランクとして、まず責任を果たせ」
「はい」
この時点で。
レイネは、登録から十二日目。
正式なAランク冒険者となった。
そして。
これまで噂として広がっていた白髪の侍女という呼び名も、Aランク認定記録へ正式に併記された。
◇
それから五日間。
Aランクとなったレイネは、以前より広い範囲の依頼へ参加した。
山岳地帯で孤立した集落への物資輸送。
魔物の群れによって街道から動けなくなった旅人の救出。
洪水で崩れた堤防周辺からの住民避難。
行方不明となった商隊の捜索。
盗賊団に占拠された宿場からの人質救出。
討伐が必要な場面もあった。
だが、レイネが最初に確認するのは、敵の数ではない。
守るべき人間。
逃げ道。
同行者の能力。
負傷者。
周辺の住民。
広範囲魔術を使った場合の被害。
倒した魔物の数よりも。
死者を出さずに依頼を終えた回数が増えていった。
同時に。
フィットア領出身者の情報も増え続けた。
遠方の村。
小さな教会。
商隊。
冒険者によって保護された者。
一人。
三人。
家族単位。
それぞれの情報が、救護所へ届く。
すぐにミリシオンへ移動できない場合には、現地で一時保護する。
護衛を確保する。
馬車を手配する。
途中の宿場へ受け入れを頼む。
レイネがすべてを自分で運ぶことはしない。
その者がいる場所から、最寄りの安全な拠点へ。
そこから次の町へ。
少しずつ救護所へつながる経路へ乗せる。
登録十七日目の夜。
レイネは救護所の帳簿を確認していた。
完了した依頼は四十二件。
直接救助した者は二百八十六人。
そのうち、フィットア領出身者は七十一人。
救護所に登録されたフィットア領出身者は、レイネが直接救助した者以外も含め、百人を超えていた。
完全ではない。
それでも。
十七日前には、何もなかった。
名簿も。
保護先も。
照会方法も。
今は、レイネがいなくても、最低限の活動を続けられる。
救護所へ届く手紙の宛名にも。
『白髪の侍女レイネ殿』
そう記されることが増えていた。
レイネが自ら名乗ったわけではない。
助けられた者たちが呼び。
冒険者たちが使い。
商人や教会が記録へ残した。
異名は、レイネ個人の知らない場所へまで進み始めている。
その日の夜。
必要な時にだけ、お守りの状態を確認する。
ルーデウスとエリスは生きている。
ルイジェルドもともにいる。
細かな行動は見えない。
何を食べ。
誰と話し。
どのような依頼を受けているかは分からない。
ただ、大まかな位置は以前より南へ移っている。
二人もまた、自分たちの力で進んでいる。
「私も、必ず参ります」
レイネは小さく呟いた。
焦りが消えたわけではない。
むしろ、日数が増えるほど強くなっている。
それでも。
目の前の仕事を途中で投げ出さない。
救護所の引き継ぎが可能になるまで。
レイネにしかできない準備を終えるまで。
あと少しだった。
◇
登録十八日目。
夜明け前。
ミリシオンの冒険者ギルドに、泥と血にまみれた騎手が飛び込んできた。
受付へ倒れ込むように身体を預け、何度も息を吸う。
「南部の……岩盆地だ……」
職員が水を渡す。
「何があった」
「魔物が……山から下りてきた。宿場と三つの集落が、囲まれてる」
騎手は震える手で地図を指した。
ミリス神聖国南部。
岩山に囲まれた盆地。
小さな宿場町と、その周囲にある集落。
住民や旅人は、盆地中央の岩山へ逃げ込んでいる。
人数は百人を超える。
周囲には、種類の異なる魔物が数百匹。
食料と水は残り少ない。
すでに負傷者もいる。
「救援は」
ギルド長が二階から下りながら尋ねた。
「近くの冒険者と神殿騎士が向かった。だが……数が足りない」
「大型個体は確認したか」
「山の向こうに、でかい影がいた。魔物の群れは、あれから逃げてる」
ギルド内の空気が変わった。
魔物の集団が、一つの獲物を狙って集まったのではない。
さらに強い魔物へ追い立てられている。
その場合。
先頭の魔物を倒しても、後続が押し寄せる。
群れへ攻撃すれば、逃げ場を失った魔物が人々のいる岩山へ殺到する可能性もある。
「Aランク指定の緊急救助として扱う」
ギルド長が即座に決めた。
「Aランク三組。Bランク以下は、搬送と後方支援。治療術師を可能な限り集めろ。神殿騎士団へも連絡!」
職員たちが動く。
レイネはギルド長の前へ進んだ。
「私も参加いたします」
「当然だ」
ギルド長は答えた。
「白髪の侍女を外して、誰を送る」
近くにいた冒険者たちが、僅かに表情を変える。
ギルド長まで、その異名を使った。
レイネは特に反応せず、続きを待った。
「だが、今回はお前一人で先行させない」
「承知しております」
「現場責任者は神殿騎士団の隊長だ。お前もその指揮下に入れ」
「はい」
ギルド長はレイネの肩越しに、集まり始めた冒険者たちを見た。
「昨日までとは規模が違う。救助対象は百人を超える。魔物は数百。大型個体の等級も不明だ」
「はい」
「お前が強いことは分かっている。だが、一人ですべてを背負おうとするな」
レイネはギルド長を見上げた。
「そのつもりはございません」
「ならいい。全員を生かして帰せ」
「承知いたしました」
◇
盆地を見下ろす崖へ到着した時。
集められた者たちは、依頼書に記された以上の状況を目にした。
中央の岩山。
その上で、人々が布を振っている。
住民。
旅人。
商人。
護衛。
宿場町で一時的に保護されていたフィットア領出身者もいる。
合計百六十三人。
岩山の周囲。
四本脚の獣。
硬い外殻を持つ大型昆虫。
地中へ潜る蛇。
上空を旋回する翼竜。
数百匹の魔物が、岩山へ向けて押し寄せていた。
統率された群れではない。
互いに噛みつき。
踏みつけ。
逃げ道を奪い合いながら。
それでも、同じ方向へ進んでいる。
その後方。
二つの岩山の間から、巨大な魔物が姿を現した。
全長二十メートルを超える巨体。
六本の脚。
地面を削る長い尾。
岩を重ねたような黒い甲殻。
頭部には三本の角。
口元から、白い蒸気が漏れている。
数百匹の魔物は、岩山にいる人間を狙って集まったわけではない。
後方の巨大な個体から逃げた結果。
盆地中央へ追い込まれていた。
「正面の一角を崩す」
神殿騎士の隊長が言った。
「南側から避難路を作る。騎士が道を維持し、冒険者は左右を固めろ」
「待ってくれ」
Aランク冒険者の一人が反対した。
「こっちから群れへ攻撃を始めれば、後ろの魔物に押された連中が岩山へ殺到する。避難路を作る前に、人が踏み潰されるぞ」
「では、何もしないのか」
「そうは言っていない。だが、正面から削るだけでは駄目だ」
空にも翼竜がいる。
地上へ道を一本作ったとしても。
避難中の人々が上空から襲われれば、列は崩れる。
議論している間にも、魔物の先頭は岩山の斜面へ到達し始めていた。
住民たちは。
剣。
槍。
農具。
投石。
使えるものをすべて使い、魔物を押し返している。
長くは持たない。
レイネは盆地全体を見渡した。
岩山の東側。
雨季にだけ水が流れる、深く幅広い川の跡がある。
現在は乾いており、盆地の外へ続く長い窪地となっていた。
魔物の先頭を、あの川跡へ入れることができれば。
後続も同じ方向へ流れる。
岩山から群れを引き離せる。
問題は。
後方の巨大な魔物だった。
群れの進路だけを変えても。
あの個体が再び追い立てれば、魔物たちは別の方向から岩山へ戻る可能性がある。
「魔物の群れを、東の川跡へ誘導いたします」
レイネが言った。
神殿騎士の隊長と、集まった冒険者たちが振り返る。
「方法は」
隊長が尋ねた。
「岩山へ向かう進路を土壁で塞ぎ、東側だけを開けます。群れの先頭が川跡へ入れば、後続も同じ方向へ進みます」
「土壁で数百匹を止められるのか」
「止める必要はございません。壁を越えようとする個体だけを排除し、東側の方が進みやすい状態を作ります」
「後ろの大型個体はどうする」
レイネは巨大な魔物を見た。
あれを倒すだけならば、方法はいくつもある。
しかし。
岩山の近くで討伐すれば、死に際に暴れた巨体が避難者や救助隊を巻き込む可能性がある。
倒れた身体が避難路を塞ぐ危険もある。
広範囲魔術を使えば、周辺の魔物を刺激し、群れの進路を乱す。
今すぐ倒すことはできる。
だが。
今、この場所で倒すことが最善ではない。
「私が盆地の外へ誘導いたします」
「一人でか」
「ほかの皆様には、百六十三人の避難をお願いいたします」
レイネは地面へ簡単な図を描いた。
神殿騎士は岩山南側から避難者を下ろす。
第一のAランクパーティは、東側の川跡へ入る魔物の流れを整える。
第二のAランクパーティは、翼竜を迎撃する。
第三のAランクパーティと商隊護衛は、南側の避難路を防衛。
Bランク以下の冒険者は、負傷者の搬送と住民の誘導。
治療術師は、盆地南部の安全地帯で待機する。
「お前は、土壁を維持しながら大型個体を誘導するつもりか」
隊長が確認する。
「群れの流れが東へ固定されるまで、壁付近に留まります。その後、大型個体の注意を引き、盆地の外へ移動いたします」
「倒すのではなく?」
「この場では倒しません」
レイネは盆地の外へ続く谷を指した。
「谷の先に、周囲へ被害を出さずに討伐できる岩地がございます。避難者と救助隊から十分に引き離した後、私が仕留めます」
Aランク冒険者の一人が眉を寄せた。
「討伐できる地形があると、ここから分かるのか」
「盆地へ入る前に周囲を確認いたしました」
行軍中。
レイネは空から常に監視していたわけではない。
地形の高低。
岩盤。
谷。
乾いた川。
人家や街道が存在しない場所。
必要な情報だけを確認していた。
盆地の外。
岩壁に囲まれた乾いた窪地。
周囲に人間はいない。
大型個体が倒れても、避難路や街道を塞ぐことはない。
討伐時に強い魔術を使っても、被害は岩壁の内側へ留められる。
「成功する保証は」
神殿騎士の隊長が尋ねる。
「大型個体が私を追わない可能性はございます。土壁が予想より早く破壊される可能性もございます」
レイネは、断言だけで計画を通そうとはしなかった。
「その場合には、群れの誘導を中断し、全員で南側へ突破口を作ります」
「お前が大型個体に追いつかれた場合は」
「その時点で迎撃いたします。ただし、可能な限り岩山と避難路から離れた位置で戦います」
「討伐後、群れが戻ってくる可能性は」
「大型個体が消えれば、東へ流れた魔物が再び盆地へ戻る理由は薄くなります。川跡の出口を冒険者の方々に維持していただければ、残った個体も外へ抜けるか、個別に排除できます」
神殿騎士の隊長は、もう一度盆地を見た。
魔物は止まらない。
時間はない。
「分かった」
隊長が決断した。
「白髪の侍女の案で行く」
周囲の冒険者たちを見る。
「全員、配置につけ! 岩山から人々を下ろす! 救助対象は百六十三人、一人も置いていくな!」
冒険者と騎士が一斉に動き出した。
隊長は最後に、レイネへ言った。
「危険なら退け。救助する側まで死ねば、全体が崩れる」
「承知いたしました」
レイネは崖の縁へ立った。
白い侍女服が風に揺れる。
次の瞬間。
その姿が崖から消えた。
◇
地面へ着地する直前。
風魔術で落下速度を殺す。
レイネの足が、岩山と魔物の群れの間へ触れた。
先頭を進んでいた魔物が、突然現れた人間へ反応する。
牙を持つ獣が三匹。
同時に飛びかかってきた。
レイネは剣を抜いた。
一匹目。
振り下ろされた前脚を半歩で避ける。
脇を通り抜ける。
剣が首を断つ。
二匹目。
開かれた口へ正面から踏み込む。
下顎を蹴り上げる。
喉から頭部へ剣を通す。
三匹目。
背後から迫る気配。
振り返らず、剣を逆手へ持ち替える。
脇の下から後方へ突き出す。
切っ先が胸を貫いた。
三匹の魔物が、ほとんど同時に地面へ倒れる。
その向こうから。
さらに十。
二十。
数え切れない魔物が押し寄せる。
レイネは左手を地面へ触れた。
岩山と群れの間へ、長い土壁が立ち上がる。
高さは三メートル。
岩山の半周を覆い、東側だけを開ける。
先頭の魔物が壁へ衝突した。
壁を登ろうとする獣。
体当たりで壊そうとする甲殻虫。
上空から越えようとする翼竜。
レイネは、壁を越えようとする個体だけを排除した。
壁へ爪をかけた獣の額へ岩弾。
甲殻虫の脚の関節へ剣。
空から接近する翼竜の片翼へ風の刃。
群れのすべてを倒す必要はない。
目の前の壁より。
開かれた東側の方が進みやすい。
そう思わせればよい。
壁を越えようとした魔物が倒れる。
後ろから押されていた個体が、東へ流れる。
一匹。
十匹。
数十匹。
やがて。
群れの先頭が、乾いた川跡へ入った。
後続も押し出されるように続く。
レイネは壁に沿って移動し続けた。
魔物の攻撃を避ける。
必要な個体だけを倒す。
土壁が崩された箇所は、最小限の魔力で補修する。
一体も。
岩山へ向かわせない。
「今です!」
レイネの声が盆地へ響いた。
岩山南側で待機していた神殿騎士が動く。
避難者を列へ分ける。
幼い子供。
老人。
自力で歩ける者。
負傷者。
担架を必要とする者。
順番に斜面から下ろしていく。
上空から翼竜が接近する。
待機していたAランクパーティが矢と魔術で迎撃する。
南側の避難路へ、小型の魔物が回り込もうとする。
別の冒険者たちが前へ出る。
最初の避難者が岩山を下りる。
十人。
二十人。
三十人。
その時。
群れの後方にいた巨大な魔物が咆哮した。
大気が震える。
地面が揺れる。
自分の前から獲物が東へ流れていく。
その原因となったレイネへ。
巨大な頭部が向けられた。
六本の脚が地面を蹴る。
一歩ごとに盆地が揺れた。
進路上にいた小型魔物が踏み潰される。
「大型個体が動いた!」
神殿騎士の声が飛ぶ。
「避難を続けてください!」
レイネは土壁から離れた。
群れはすでに東へ流れている。
Aランクパーティが川跡の入口へ入り、流れを維持している。
ここからは。
巨大な魔物を岩山から遠ざける。
レイネは、迫る巨体へ向かって走った。
前脚が振り下ろされる。
レイネは直前で横へ動いた。
爪が地面を砕く。
飛び散る岩の間を抜け、魔物の懐へ入る。
右前脚の関節。
剣を当てる。
一撃目。
甲殻へ細い傷。
二撃目。
まったく同じ場所。
三撃目。
亀裂が広がる。
四撃目。
前脚が関節から切断された。
巨大な身体が傾く。
だが、残る五本の脚で姿勢を保った。
長い尾が横薙ぎに振るわれる。
レイネは跳んだ。
尾の上へ着地する。
そのまま巨体の背を駆け上がる。
魔物が身体を激しく揺らした。
甲殻が上下する。
レイネは動きを読み。
背。
首。
頭部へ進む。
三本の角。
その一本へ、剣を振り下ろした。
角が根元から切断される。
魔物が咆哮した。
頭部が大きく振られる。
レイネの身体が空中へ投げ出された。
巨大な口が、空中のレイネへ向く。
白い蒸気が集まる。
次の瞬間。
白熱した炎が吐き出された。
レイネは空中で身体を反転させる。
正面へ水を生み出す。
一枚ではない。
何層にも重ね、圧縮した水の防壁。
炎と水が衝突する。
轟音。
大量の蒸気が盆地へ広がる。
巨大な魔物とレイネの姿が、白い霧へ覆われた。
レイネは、まだ魔物を倒さない。
今は岩山から離す。
人々が避難を終えるまで、こちらへ注意を引きつける。
蒸気の中。
魔物の左側へ移動する。
反対側から風を叩きつける。
魔物の顔が、レイネのいる側へ向く。
一度姿を見せる。
剣で甲殻を斬る。
すぐに離れる。
魔物が追う。
岩山へ顔を戻そうとすれば。
眼球の近くへ岩弾を撃ち込む。
再びレイネへ注意を向けさせる。
接近。
攻撃。
離脱。
追跡。
繰り返す。
少しずつ。
盆地の出口へ向かう。
背後では、避難が続いている。
百六十三人。
半分。
残り七十人。
残り四十人。
ここで仕留めることはできる。
だが、死に際に炎を吐き。
尾を振り回し。
巨体を岩山側へ倒す可能性がある。
だから。
今は殺さない。
人のいない場所まで追わせる。
盆地の外へ続く谷。
その先。
両側を高い岩壁に囲まれた、広い乾燥地。
草木はほとんどなく。
民家も。
街道も。
水源も存在しない。
大型個体が暴れても、巻き込まれる者はいない。
倒れた死体が、避難者の道を塞ぐこともない。
レイネは、その場所へ巨大な魔物を誘導した。
避難は進む。
残り二十人。
担架。
子供。
最後尾を守る神殿騎士。
残り十人。
五人。
最後の担架が、岩山の斜面を下りた。
神殿騎士の隊長が、遠くから合図を送る。
百六十三人全員。
避難路へ入った。
レイネは、その合図を確認した。
同時に。
巨大な魔物が、盆地の外にある乾いた岩地へ完全に入る。
岩山。
避難路。
救助隊。
いずれからも十分に離れた。
周囲に生命反応はない。
ここならば。
倒しても被害は出ない。
そして。
生かしておけば、拘束を破り、別の集落や街道へ向かう可能性がある。
後日改めて討伐隊を送り。
別の人間を危険へ晒す必要もない。
安全な場所まで引き離した以上。
ここで確実に殺すことが、最も被害を少なくする。
レイネは逃げることをやめた。
巨大な魔物の正面へ立つ。
魔物が吠える。
残る五本の脚で地面を蹴る。
巨体が突進した。
レイネは動かない。
距離が縮む。
二十メートル。
十メートル。
五メートル。
爪が届く直前。
レイネの姿が消えた。
魔物の爪が、空になった地面を砕く。
レイネは巨体の横へ移動していた。
左前脚の関節へ剣を振るう。
一撃。
すでに片脚を失っていた魔物は、もう一方の前脚まで断たれ、胸から地面へ崩れ落ちた。
地面が震える。
岩が跳ねる。
長い尾が、周囲を薙ぎ払う。
だが。
ここには守るべき者はいない。
レイネは尾の軌道を見切り、上へ跳んだ。
風を足場に、巨体の頭上まで上昇する。
魔物が顔を上げる。
口元へ白熱した炎が集まり始めた。
レイネは右手の剣を構え。
左手を、魔物の頭部へ向ける。
地面から、幾本もの石柱が突き上がった。
顎。
首。
胸部。
暴れる巨体を、完全に拘束するものではない。
頭部の向きを固定し、炎が人のいる盆地方向へ吐かれないようにするための支え。
巨大な口から炎が放たれる。
炎は上空へ向かい、乾いた空気を焼いた。
レイネは、その横を落下する。
頭部の甲殻。
三本の角のうち、一本を切断した根元。
戦闘の中で生じた亀裂。
そこへ。
剣の切っ先を差し込んだ。
硬い甲殻を外側から斬り裂く必要はない。
隙間から内部へ届けばよい。
レイネは剣を深く突き刺した。
同時に。
圧縮した風を、剣を通して内部へ流し込む。
外へ広がる爆発ではない。
甲殻の内側。
頭部の内部だけを破壊する、極端に範囲を絞った一撃。
鈍い破裂音が響いた。
巨大な魔物の身体が、一度大きく跳ねる。
残った脚が地面を掻く。
尾が岩壁を打つ。
それでも。
先ほどまでのような統制された動きは戻らない。
頭部の内部を破壊された魔物は、喉の奥から掠れた音を漏らし。
そのまま地面へ沈んだ。
レイネは巨体から離れ、着地する。
土煙が広がる。
岩が転がる。
しばらく待つ。
呼吸。
心音。
魔力の流れ。
反応はない。
大型個体は、完全に死亡していた。
討伐完了。
死体は、盆地の外。
避難者や救助隊から十分に離れた岩地にある。
倒れた際の被害は周囲の岩だけ。
追加の討伐隊を危険へ晒す必要もない。
レイネは剣についた血を払い。
盆地を振り返った。
乾いた川跡へ入った魔物の群れは、そのまま外へ流れている。
大型個体が消えたことで。
群れを無理に追い立てる存在もいなくなった。
岩山周辺に残った個体は、冒険者たちが排除している。
百六十三人。
全員が南側の避難路へ入っている。
死者はいない。
レイネは大型個体の死骸へ、位置を示すための石柱を立てた。
後から解体と素材回収を行えるよう。
周囲の地形。
魔物の種類。
損傷箇所。
すべてを簡単に記録する。
その後。
救助隊のもとへ戻った。
◇
白い侍女服には。
魔物の血。
泥。
蒸気で濡れた跡。
剣にも血が残っている。
だが。
レイネ自身に目立った傷はない。
救助隊へ戻ると。
Aランク冒険者の一人が駆け寄ってきた。
「あのでかい奴はどうした」
「討伐いたしました」
冒険者の足が止まる。
「倒したのか?」
「はい。盆地の外にある岩地まで誘導し、周囲へ被害が出ないことを確認した上で仕留めました」
「一人で?」
「はい」
レイネは、大型個体を倒した方角を示した。
「死骸の位置には石柱を立てております。解体と素材回収のための人員をお願いいたします」
「避難が終わるまで殺さず、外まで連れていってから、一人で倒したのか」
「この場で討伐すれば、避難者や救助隊へ被害が及ぶ可能性がございましたので」
「それなら、生かしたまま拘束しておく方法もあったんじゃないか?」
「一時的な拘束は可能でございます」
レイネは答えた。
「ですが、生かしておけば脱出する可能性が残ります。後日討伐隊を編成すれば、新たに複数の方を危険へ晒すことになります」
大型個体を安全な場所へ引き離した時点で。
倒さない理由はなくなっていた。
「討伐による被害が出ない場所であれば、その場で確実に仕留めた方が、今後発生する危険も減らせます」
冒険者は、レイネが示した方角を見る。
「……最初から、そこまでやるつもりだったのか」
「はい」
「住民を逃がして、群れを流して、大型を外へ連れていき、そのまま討伐する」
「それが、最も被害を少なくできると判断いたしました」
冒険者はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「白髪の侍女、か」
その呼び名が、以前とは異なる響きを持っていた。
単に。
白髪で侍女服を着ている少女。
それだけではない。
百人を超える避難者を守りながら。
数百の魔物の流れを変え。
最後には、その原因となった大型個体まで一人で討伐した冒険者。
その実績とともに。
異名は、さらに遠くへ広がることになる。
「怪我人をこちらへ」
レイネは治療を始めた。
骨折。
裂傷。
脱水。
栄養不足。
魔物の毒。
逃走中に転倒した者。
岩山で三日間耐え、体力を失った者。
優先順位を決める。
治療術師へ状態を伝える。
自分も必要な者へ治癒魔術を使う。
フィットア領出身者であることを理由に。
治療の順番を早めることはしない。
命の危険が大きい者から処置する。
ただし。
治療が終わった後。
宿場町で一時保護されていたフィットア領出身者については、別の名簿へ追加する。
二十一人。
氏名。
出身地。
家族。
現在の状態。
ミリシオンの救護所へ向かう意思。
現地住民。
旅人。
商人。
フィットア領出身者。
全員を同じ救助対象として扱う。
しかし。
救助後に必要となる支援は同じではない。
現地住民は、宿場町と集落の安全が確認されれば戻る。
旅人と商人は、それぞれの目的地へ向かう。
フィットア領出身者は、この大陸に帰る家を持たない。
だから。
記録と支援を分ける。
日が暮れるまでに。
百六十三人全員の応急処置が終わった。
救助隊は、そのまま近隣の安全な町へ移動した。
歩けない者は担架。
体力を失った者は馬車。
冒険者と騎士が列の前後を守る。
町へ到着する。
食事。
水。
寝床。
治療。
人数を確認する。
百六十三人。
一人も欠けていない。
盆地周辺を襲った大型個体も討伐済み。
残る小型魔物の群れも、盆地の外へ流れている。
これ以上、住民や救助隊を脅かす直接的な原因は残っていない。
そこでようやく。
緊急救助依頼は完了となった。
レイネが冒険者登録をしてから。
十八日目の夜だった。
◇
翌朝。
レイネは、ミリシオンの冒険者ギルド本部へ呼び出された。
いつもの支部長室ではない。
本部の会議室。
長い机。
複数の席。
壁には、ミリス大陸全域の地図が掛けられている。
会議室に集まっていたのは。
ミリシオン支部のギルド長。
本部の責任者。
救助へ参加したAランク冒険者たち。
神殿騎士団の隊長。
商人組合の代表。
救助された宿場町の代表。
治療術師。
そして、過去にレイネと行動した者たちだった。
机の上には。
レイネが冒険者登録してからの依頼記録。
依頼人の評価。
同行者の報告書。
救護所の帳簿。
各地の冒険者や教会から届いた照会結果。
昨日の盆地救助について記した報告書が積まれている。
最も上に置かれた報告書には。
大きく名前が記されていた。
白髪の侍女レイネ。
この時点ではもう。
単なる酒場の呼び名ではない。
本部へ提出される正式な記録の中で、本人を識別する異名として扱われ始めていた。
レイネは指定された席へ座った。
その前へ。
ミリシオン支部のギルド長が座る。
「登録から十九日」
本部責任者が口を開いた。
「完了した依頼は四十三件」
レイネは黙って聞いた。
「直接救助した者は四百四十九人」
盆地で救出した百六十三人が加わったことで。
前日までの二百八十六人から、四百四十九人となった。
「そのうち、フィットア領転移事件によってこの大陸へ飛ばされたと確認できた者は九十二人」
四百四十九人全員が転移者ではない。
洪水に取り残された住民。
盗賊に襲われた商人。
鉱山事故の労働者。
街道で遭難した旅人。
盆地に取り残された現地住民。
それらを含む数字である。
フィットア領出身者は、その中の九十二人。
最初から、別々に記録されていた。
「昨日の救助について、神殿騎士団から報告を」
本部責任者に促され。
神殿騎士の隊長が立ち上がった。
「救助対象は百六十三人。周囲を取り囲む魔物は数百。さらに、群れを追い立てていた大型個体が一体」
隊長は盆地の図を机へ広げた。
「レイネは、魔物の群れを東側の川跡へ誘導する案を提示しました。救助隊の配置も提案しています」
「本人が指揮権を要求したのか」
本部責任者が尋ねる。
「いいえ。最終判断は、現場責任者である私へ委ねました」
「作戦開始後は」
「岩山と群れの間で土壁を維持し、岩山へ向かう魔物を排除。その後、大型個体を盆地の外まで誘導しています」
Aランク冒険者の一人が続ける。
「その間、俺たちは避難者の誘導と翼竜の迎撃を行った。レイネが一人で全部やったわけじゃない。だが、あいつが大型個体を引き離さなければ、避難は間に合わなかった」
別のAランク冒険者が口を開く。
「大型個体は、盆地の外で討伐されている」
「討伐隊が追いついたのか」
本部責任者が尋ねる。
「違う。レイネが一人で倒した」
会議室の何人かが、改めてレイネを見る。
すでに報告書を読んでいる者もいる。
しかし、直接口頭で確認すると。
その異常さが、さらに鮮明になる。
「避難者が岩山を下りるまで、大型個体を倒さず注意を引きつけた。その後、人のいない岩地まで誘導し、周囲へ被害が出ないことを確認してから討伐している」
神殿騎士の隊長が説明を続ける。
「大型個体の死体は確認済み。討伐位置は盆地と街道から離れている。死者なし。救助隊側にも、重傷者はいない」
商人組合の代表が、討伐記録を手に取る。
「素材はどうなっている」
「死骸は現地に残され、位置と状態が記録されています」
ギルド長が答えた。
「本日、解体と搬送のための人員を送る。討伐者はレイネとして処理する」
大型魔物の素材は高価である。
レイネには、討伐報酬と素材の大部分を受け取る権利がある。
だが。
会議で重視されたのは、素材の価値ではなかった。
「大型個体を倒すだけなら、最初から可能だったのだな」
本部責任者がレイネへ尋ねた。
「はい」
「なぜ、すぐに倒さなかった」
「岩山の近くで討伐すれば、死に際の攻撃や倒れた巨体によって、避難者と救助隊へ被害が及ぶ可能性がございました」
「では、なぜ拘束だけに留めなかった」
「生存させれば、脱出や再襲撃の危険が残ります。後日、別の討伐隊を危険へ晒す必要も生じます」
レイネは静かに答える。
「被害が出ない場所まで引き離した後であれば、その場で確実に討伐することが最も安全だと判断いたしました」
本部責任者が頷く。
倒す力があるから、すぐに倒す。
そのような単純な判断ではない。
どこで倒すか。
いつ倒すか。
生かした場合に、何が起きるか。
討伐後の被害まで含めて判断している。
「昨日の一件だけではない」
ミリシオン支部のギルド長が言った。
「こちらが重要だ」
机の上へ、複数の報告書を並べる。
初日の二十三件。
依頼人全員からの評価。
実地審査。
商隊救援。
盗賊二十六人の生存拘束。
崩落現場での三十九人救助。
Bランク昇格後に受けた救助依頼。
Aランク昇格時の審査。
救護所の運営。
資金管理。
照会制度。
「戦闘力だけを理由に、ここまで昇格させたわけではない」
ギルド長は会議室全体を見た。
「依頼人の命令を無視した記録なし。現場責任者の指揮へ従い、危険がある場合には理由を説明して進言。自分一人で功績を独占せず、同行者へ役割を割り振っている」
本部責任者は、救護所の帳簿へ手を伸ばした。
「こちらについても確認した」
救護所へ登録されたフィットア領出身者。
百二十七人。
そのうち。
レイネが直接救助した者は九十二人。
残る者は、各地のギルド、教会、商人、旅人からの情報によって保護された人々だった。
「レイネが依頼へ出ている間にも、救護所は動いている」
ギルド職員。
教会関係者。
フィットア領出身者。
それぞれが役割を持つ。
レイネだけが帳簿を管理しているわけではない。
レイネだけが名簿を閲覧できるわけでもない。
レイネが去った後にも残ることを前提に作られている。
「そして、白髪の侍女という名は、すでにミリシオン周辺の複数支部へ広がっている」
本部責任者は、各支部から届いた報告へ目を向けた。
「救助依頼の指名。保護された者からの証言。商隊からの報告。教会へ届いた照会文書。本人が名乗らずとも、同一人物を指す異名として定着しつつある」
「Sランクの札を与えれば、その名はミリス大陸全域へ広がる」
別の本部職員が言った。
「この者が世界各地の支部へ照会を求めることも明らかだ。影響は、ミリシオン支部だけに留まらない」
「そのとおりだ」
別の本部職員が答える。
「登録十九日。通常の基準から外れすぎている。いかに実績があっても、短期間でSランクにする前例を作れば、今後問題になる」
「依頼数だけで昇格させるわけではない」
神殿騎士の隊長が言う。
「昨日、百六十三人を救い、大型個体を倒したことだけでもない」
「しかし、時間が短い」
「時間だけを理由に、能力と実績を無視するのか」
会議室で意見が分かれる。
レイネは口を挟まなかった。
昇格を求めて呼び出されたわけではない。
自分からSランクへ上げてほしいと言うつもりもない。
最終的な判断は、ギルドが行う。
しばらく議論が続いた後。
本部責任者がレイネへ視線を向けた。
「本人へ確認する」
会議室が静かになる。
「レイネ。お前はSランクを望むか」
「必要としております」
否定はしなかった。
「なぜだ」
「各地の冒険者ギルドへ、フィットア領出身者と身元不明者について照会を出していただくためでございます」
「自分の名で、大陸中の支部を動かすつもりか」
「私個人の指示へ従わせるつもりはございません」
レイネは用意していた書類を机へ置いた。
「照会内容と記録方法を統一し、各支部の判断で保護と連絡を行える形を希望しております」
本部責任者が書類を取る。
記録項目。
氏名。
年齢。
出身地。
家族構成。
外見的特徴。
転移前にいた場所。
転移後に発見された場所。
現在の保護先。
移送の可否。
子供を保護した場合の手順。
身元を名乗る者が現れた場合の照合。
「私がすべての支部へ向かい、一人ずつ確認することは不可能でございます」
レイネは続けた。
「各地の職員、教会、衛兵、冒険者の方々に、通常業務の範囲でご協力いただく必要がございます」
「Sランクの名があれば、支部は無視できない」
「はい」
「白髪の侍女という異名も利用するのか」
「私から広めるつもりはございません」
レイネは答えた。
「ですが、その呼び名によって、救護所や照会制度の存在が知られるのであれば、否定する理由もございません」
「自分の名を、目的のために使うことは受け入れるわけか」
「はい。ただし、私個人への崇拝や服従を求めるつもりはございません」
「その権限を、自分の主人を捜すためにも使うのか」
「主人については、すでに大まかな居場所を把握しておりますので、同じ照会は不要でございます」
「では、救護所のためだけか」
「国境を越え、魔大陸へ向かうための信用としても必要でございます」
レイネは隠さなかった。
Sランクの身分。
国境や港での手続き。
危険地域へ入る許可。
高額依頼を受け、救援資金を得る権利。
すべて利用するつもりだった。
「Sランクとなれば、お前の名前を利用しようとする者も現れる」
「承知しております」
「救護所への寄付を装い、金を集める者。お前の推薦を偽る者。白髪の侍女の名を使って護衛費を吊り上げる者も出るだろう」
「そのため、救護所と移送経路で使用する文書には、ギルドと教会、双方の署名を必要とする仕組みを整えます」
「すでに考えていたのか」
「必要になると予測しておりました」
本部責任者が深く椅子へ背を預ける。
「お前自身が失敗した場合はどうする」
「報告いたします」
「Sランクともなれば、簡単には失敗を認められなくなるぞ」
「ランクが高いことも、異名が広まることも、誤りを犯さない証明にはなりません」
「信用を失うとしてもか」
「隠して被害を広げれば、より多くの方が信用と命を失います」
以前、ギルド長から言われた言葉。
失敗した時に隠すな。
自分一人で取り戻そうとして、被害を広げるな。
レイネは、今も忘れていなかった。
「最後に」
本部責任者が尋ねる。
「Sランクになった後、お前はいつまでミリシオンへ残る」
「数日で、救護所の引き継ぎを完了させます」
「その後は」
レイネは答えた。
「主人を、お迎えに参ります」
「救護所を置いていくのか」
「はい」
「無責任だとは思わないか」
「私がいなければ動かない救護所であれば、残す意味がございません」
レイネは、真っ直ぐ本部責任者を見る。
「私が行うべきことは、自分一人ですべての方を救い続けることではございません。私がいなくなった後にも、保護された方が次の安全な場所へ進める仕組みを残すことでございます」
「世界中のフィットア領民を捜し終えていなくても?」
「はい」
「まだ救助を待つ者がいるぞ」
「存じております」
その言葉を口にするのは苦しかった。
レイネ自身が向かえば、救える者もいる。
自分が残れば、助かる命もある。
しかし。
世界中へ散らばった人々を、レイネ一人で捜し終えるまで待てば。
数年。
あるいは、それ以上かかる。
主人を迎えに行くという約束を、際限なく先延ばしにすることになる。
「ほかの方にもできる仕事は、ほかの方へお願いいたします」
レイネは静かに続けた。
「私にしかできないことへ向かうために」
会議室へ、長い沈黙が落ちた。
やがて。
本部責任者が、机の中央へ二枚の札を置いた。
一枚はAランク。
現在、レイネが持っているもの。
もう一枚。
Sの文字が刻まれた札。
「冒険者のランクは、単純な強さを示すものではない」
本部責任者が言った。
「任せられる仕事の範囲。実績。判断力。信用。そして、本人がその責任を理解しているか」
レイネは、動かなかった。
「登録十九日という期間は、あまりにも短い」
「はい」
「通常の昇格記録として扱うことはできない」
本部責任者は、周囲の出席者を見る。
「そこで、ミリス神聖国冒険者ギルド本部、ミリシオン支部、神殿騎士団、救助へ参加した高位冒険者、教会、および複数の依頼人による特別推薦として処理する」
異常な速度を、通常の昇格基準へ当てはめない。
特例であること。
誰が推薦したのか。
何を確認したのか。
すべて記録へ残す。
「白髪の侍女レイネ」
会議室にいる全員の視線が集まる。
「お前を、Sランク冒険者として認定する」
レイネは立ち上がった。
差し出された札を、両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「驚かないのだな」
「必要としていた信用を得られたことには、深く感謝しております」
「喜んではいないのか」
レイネはSランクの札を見た。
金属片そのものに価値を感じているわけではない。
強さを認められたことが嬉しいわけでもない。
しかし。
この札があれば。
遠方の支部へ照会を出せる。
救護所の存在を、より広い地域へ知らせられる。
高額依頼を受け、移送費を得られる。
国境や港で、正体不明の少女として追い返される可能性も減る。
主人へ近づける。
そして。
白髪の侍女という名とともに照会制度が広がれば。
レイネ本人が訪れていない場所でも。
助けを求めるフィットア領出身者が、救護所へつながる可能性が生まれる。
「はい」
レイネは答えた。
「嬉しく思っております」
本部責任者は僅かに笑った。
「なら、少しは顔に出せ」
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
会議室の緊張が、僅かに緩む。
それでも。
認定だけで終わりではなかった。
「Sランク認定に伴い、条件を定める」
本部責任者が書類を取り出す。
「第一。フィットア領出身者に関する照会は、ギルド本部の正式な災害対応として扱う。お前個人の命令ではなく、本部名義で各支部へ送る」
「承知いたしました」
「第二。救護所の運営責任者を、ギルドから一名派遣する。教会側の責任者と共同で管理する」
「ありがとうございます」
「第三。お前がミリシオンを離れた後も、資金と名簿の監査を継続する」
「異存はございません」
「第四。お前の名、ならびに白髪の侍女という異名を利用した無許可の募金、護衛契約、推薦状は、すべて無効とする。その旨を各支部へ通達する」
「お願いいたします」
「第五」
本部責任者は、レイネを見た。
「大切な主人を迎えに行くことは止めない。だが、Sランクの札があれば無茶をしてよいという意味ではない」
「承知しております」
「何か起きた場合には、現地のギルドを使え。一人ですべてを処理しようとするな」
「はい」
審査が終わる。
会議室の者たちが、一人ずつ席を立ち始める。
神殿騎士の隊長がレイネのそばへ来た。
「昨日の大型個体は、午後に解体隊が向かう」
「お願いいたします」
「討伐報酬と素材の大半は、お前の取り分になる」
「規定に従い、受け取ります」
「断らないんだな」
「救護所の維持と、保護された方々の移送には資金が必要でございます」
レイネは、必要な報酬まで拒否するつもりはなかった。
「ただし、解体と搬送へ参加された方々への分配を先にお願いいたします」
「分かった。残りは救護所へ入れるのか」
「全額ではございません。今後の移動費と装備費を確保した後、必要な額を正式な寄付として帳簿へ記録いたします」
「本当に隙がないな、白髪の侍女」
隊長は小さく笑い、会議室を出ていった。
最後に残ったのは。
ミリシオン支部のギルド長。
登録を担当した女性職員。
レイネ。
三人だけだった。
ギルド長は、レイネのSランク札を見る。
「十九日か」
「はい」
「初日に二十三件の依頼書を持って戻ってきた時は、詐欺師かと思った」
「不正はしておりません」
「分かっている。だから、ここまで来た」
女性職員が机の書類を整理しながら言う。
「今では、白髪の侍女って呼べば、周辺支部でも通じるらしいわよ」
「そのようでございますね」
「気にならないの?」
「侍女であることも、白髪であることも事実でございます」
「本当にそれだけなのね……」
女性職員は、初日の登録用紙を取り出した。
「今でも、見た目は十二歳くらいなのにね」
「申告年齢は二十四歳でございます」
「覚えてるわよ。あの時、本当に手が止まったもの」
登録用紙には、当時の内容が残っている。
身分未確認の二十四歳。
職業は侍女。
護身用程度の剣。
多少の魔術。
「虚偽は記載しておりません」
「今なら、護身用程度という言葉だけは訂正させたいわ」
「護身には十分でございます」
「大型魔物を一人で殺せる護身用なんて、普通は存在しないのよ」
「今回の討伐には十分でございました」
「十分すぎるって言ってるの」
ギルド長は二人の会話を聞きながら、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
救護所の責任者候補。
長年、災害救援と物資管理を担当していたギルド職員だった。
「明日から、こいつを救護所へ入れる」
レイネは書類を受け取る。
経歴。
担当してきた依頼。
会計管理。
避難所運営。
必要な条件を満たしている。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、引き継ぎが終わってからにしろ」
ギルド長は椅子へ深く座った。
「何日で出るつもりだ」
「三日から五日を予定しております」
「早いな」
「必要な書類と手順は、すでにまとめております」
「そう言うと思った」
ギルド長は、呆れたように息を吐いた。
「レイネ」
「はい」
「お前は強い」
「はい」
否定はしなかった。
ここまで実力を見せた後で、護身程度だと言い張る方が不自然である。
「だが、強いから何でもできると思うな」
「承知しております」
「世界中の人間を、一人で助けることはできない」
「はい」
「主人を迎えに行く途中でも、助けを求める人間はいる。全員のそばへ残ることはできない」
レイネは、僅かに視線を落とした。
「存じております」
「なら、選べ」
ギルド長の声は厳しかった。
「助ける人間を選べという意味じゃない。自分でやることと、他人へ任せることを選べ」
レイネは顔を上げた。
「お前が一人で全部やれば、確かに速い。だが、お前が立ち去った瞬間に終わる」
救護所。
名簿。
護衛経路。
レイネがこれまで作ってきたものと、同じ考えだった。
「白髪の侍女という名が広まれば、今後は、お前がいない場所からも助けを求める人間が来る」
ギルド長は続ける。
「だからこそ、お前一人へ全部集めるな。名前を仕組みへつなげろ」
「はい」
「お前が今までやってきたことを、途中で忘れるな」
レイネは深く頭を下げた。
「必ず、心に留めておきます」
◇
会議室を出る。
Sランクの札を身につける。
一階の酒場へ降りた時。
冒険者たちの視線が集まった。
すでに、認定の話が伝わっているらしい。
驚き。
好奇心。
警戒。
敬意。
様々な感情が向けられる。
誰かが声を上げた。
「Sランクだって?」
別の冒険者が笑う。
「登録して、まだ三週間も経ってないだろ」
「白髪の侍女なら、上がると思ってた」
「昨日、南部の盆地を救ったんだろ?」
「あの大型を一人で倒したって?」
「避難者を逃がしてから、盆地の外で仕留めたらしい」
噂は、すでに広がっている。
だが。
今回に限っては、事実から大きく外れてはいなかった。
レイネは酒場の中央へ立った。
「昨日の救助は、私一人で行ったものではございません」
声を通す。
冒険者たちが静かになる。
「神殿騎士の方々が避難路を作り、複数の冒険者パーティが魔物と翼竜を迎撃し、治療術師の方々が負傷者を受け入れてくださいました」
大型個体を誘導し、討伐したことは事実。
だが。
レイネ一人が百六十三人を救ったわけではない。
「私が行ったのは、群れの進路を変え、大型個体を避難区域から引き離して討伐することでございます」
「それを一人でやったんだろ」
冒険者の一人が言った。
「はい」
否定はしない。
「ですが、私一人では、岩山に残された全員を安全に下ろすことはできませんでした」
救助は。
一人の強者が敵を倒すだけでは成立しない。
人を誘導する者。
運ぶ者。
治療する者。
食事と寝床を用意する者。
全員が必要だった。
「今後とも、救助の際にはお力をお借りすることがあるかと存じます」
レイネは酒場にいる冒険者たちへ頭を下げた。
「その際には、よろしくお願いいたします」
しばらく沈黙が続いた後。
最初に声を出したのは、ベイルだった。
「Sランクの白髪の侍女様に頭を下げられたら、断りにくいな」
笑いが起きる。
別の冒険者も杯を上げた。
「報酬はちゃんと出せよ」
「ギルドの規定に従います」
「そこは奢ると言えよ!」
再び笑いが広がった。
完全に受け入れられたわけではない。
登録十九日でSランク。
警戒する者もいる。
納得できない者もいるだろう。
それでも。
依頼をともにした者。
救助現場を見た者。
報告書を読んだ者。
少しずつ、レイネが何をしてきたのかを知る者が増えている。
札だけで得た信用ではない。
十九日間の行動。
一件ずつの依頼。
一人ずつの救助。
それらによって積み上がった信用。
そして。
白髪の侍女という異名もまた。
その積み重ねによって生まれたものだった。
◇
その日の夜。
レイネは救護所へ戻った。
一階の受付では、名簿の照合が行われている。
別の町から届いた手紙。
新たに保護された者の名前。
家族を捜す者。
物資の受け取り。
二階では。
子供たちがすでに眠っている。
裏の倉庫では。
翌日の食事に使う保存食が確認されている。
レイネがいなくても。
救護所は動いていた。
完全ではない。
判断を求められることも多い。
資金も不足している。
それでも。
第一日目とは違う。
レイネが一人で紙を広げ、十四人の名簿を作っていた時とは違う。
ギルド。
教会。
商人。
冒険者。
フィットア領出身者。
多くの者が関わっている。
受付の机には。
新たに届いた一通の手紙が置かれていた。
宛名は。
白髪の侍女レイネ殿。
差出人は、ミリシオンから遠く離れた小さな町の教会だった。
フィットア領出身を名乗る女性が一人、保護されている。
救護所への連絡方法を、商人から聞いたという。
レイネは手紙を読み終え、返信用の紙を取った。
異名が広まったことで。
救護所へつながる情報も増えている。
ならば。
その名前を、自分だけのものとして抱え込まない。
ギルド。
教会。
各地の支部。
救護所。
白髪の侍女へ助けを求めて届いた情報を。
レイネ本人が不在でも処理できる仕組みへ変える。
レイネは責任者用の机へ座り。
Sランク認定によって可能になった、各地への照会文書を作り始めた。
フィットア領出身者。
身元不明者。
中央大陸の服装。
言葉が通じない者。
転移災害を語る者。
保護した場合。
名前と出身地を確認する。
無理にミリシオンへ送らない。
まず安全な場所へ保護する。
移送には護衛をつける。
子供は、身元確認なしに引き渡さない。
照会文書には。
ギルド本部の正式な印。
教会の確認印。
そして。
『通称・白髪の侍女レイネが設立に関わった救護所』
その説明も加えられることになった。
名前だけが一人歩きするのではない。
救護所の場所。
連絡先。
保護手順。
正式な書類の見分け方。
異名を知った者が、正しい支援へたどり着けるようにする。
完成した書類を、翌朝本部へ提出する。
その後。
新しい責任者へ救護所を引き継ぐ。
数日。
それが終われば。
魔大陸へ向かう。
レイネは作業の手を止めた。
胸元へ手を当てる。
必要な時にだけ。
遠くのお守りの状態を確かめる。
異常はない。
ルーデウスとエリスは生きている。
ルイジェルドもそばにいる。
何をしているのかは見えない。
どのような顔で旅をしているのかも分からない。
それでも。
二人は今も、自分たちの力で進んでいる。
「ルーデウス様」
転移事件の日。
必ず迎えに行くと約束した。
十九日。
レイネにとっては、決して短くない。
一日ごとに。
今すぐ向かいたいという感情を抑えてきた。
だが。
何もせずに待たせたわけではない。
帰るための場所。
家族を捜すための名簿。
助けを求める者を次の町へ送る仕組み。
国境を越えるための信用。
そして。
レイネがいない場所でも、人々を救護所へつなげる名前。
白髪の侍女。
自分から望んだ異名ではない。
だが。
必要とする者を救うために使えるのであれば。
レイネは、その名を受け入れる。
「間もなく、お迎えに参ります」
レイネは作業へ戻った。
引き継ぎを終える。
照会を出す。
救護所が、自分なしでも動くことを確認する。
そして。
魔大陸へ向かう。
ルーデウスとの約束を果たすために。