レイネ視点
救助船が岩礁へ近づくにつれ、座礁した旅客船の被害がはっきりと見えるようになった。
船体は右側へ大きく傾き、岩へ乗り上げた船底付近で波が不規則に砕けている。甲板には救助を待つ乗客が集められていたが、全員が上へ出られているわけではないらしい。船員たちが何度も船内へ入り、動けない者を運び出そうとしていた。
しかし、傾いた船内では床を歩くことすら難しい。
波を受けるたびに船体が軋み、甲板にいる乗客たちから悲鳴が上がった。
レイネは救助船の責任者へ確認する。
「甲板へ出ている方々から、先に救助船へ移すのでございますね」
「ああ。水中班は船底を確認する。浸水を止められそうなら補修班を入れるが、無理なら船内の人間を全員引きずり出す」
「船内に残っている人数は把握できておりますか」
「船員の話では二十人前後だ。客室に閉じ込められている者と、怪我で動けない者がいる。正確な場所は分からん」
「では、私が内部を確認いたします。救助済みの部屋には目印を残しますので、後から入る方々にも同じ方法を徹底してください」
責任者は短く頷き、周囲の冒険者と船員へ指示を飛ばした。
救助船が旅客船の左舷へ接近する。二隻を結ぶための縄が投げられ、波で船体が離れないよう、複数の船員が縄を柱へ巻きつけた。
レイネは甲板から傾いた旅客船へ移った。
着地した床が、足元で大きく揺れる。
すぐ近くでは、子供を抱いた母親が船員に支えられながら救助船へ移ろうとしていた。泣き声や怒鳴り声が入り交じり、誰がどこへ向かうべきなのか分からず立ち尽くしている者もいる。
「押さないでください。お子様と負傷者を先にお通しします。立って待てる方は、船員の指示に従って手摺へおつかまりください」
近くにいた船員たちも同じ指示を繰り返し、乗客を手摺の内側へ誘導する。
レイネは船内へ続く階段の前にいる船員へ声をかけた。
「船内へ続く階段は、こちらでございますか」
「ああ。だが、下はもっと傾いている。壁も崩れ始めているぞ」
「内部の構造をご存じでしたら、ご同行をお願いいたします。客室と通路の位置を教えてください」
「分かった」
船員を一人伴い、レイネは船内へ下りた。
階段は既に階段としての役割を失い、ほとんど急な坂になっている。床へ落ちた荷物が下側の壁へ積み重なり、通路の一部を塞いでいた。
レイネは土魔術で荷物の下を僅かに盛り上げ、移動中に崩れないよう固定する。
「右側の客室から確認いたします」
船員の案内を受け、レイネは一部屋ずつ扉を開けていった。
誰も残っていない客室。
荷物だけが散乱した部屋。
扉の向こうから助けを求める声が聞こえる部屋。
救助を終えた扉の外側には短い布を結び、後から来る者にも確認済みだと分かるようにする。
三つ目の客室では、倒れた棚が扉を塞いでいた。
「中にいらっしゃいますか」
「いる! 娘が足を挟まれているんだ!」
男の声が返ってくる。
レイネは扉へ手を添え、内部の気配を確かめた。
無理に扉を押せば、倒れた棚がさらに中へ動く可能性がある。
「扉から離れてください。脇の壁を開きます」
土魔術で扉の脇にある壁の一部を崩し、人が通れるだけの隙間を作る。レイネはそこから身体を滑り込ませた。
室内では、父親らしい男が少女の身体を抱えていた。
少女の片脚は、倒れた寝台と棚の間に挟まれている。
「先にお父様を外へ――」
「娘を置いていけるか!」
「置いてはまいりません。お二人とも助けます」
レイネは挟まれている箇所を確認した。
骨は折れていないようだが、長く圧迫されている。急に寝台を動かせば、脚へ余計な負担をかける可能性があった。
「私が寝台を動かします。隙間ができましたら、娘様をゆっくり引き出してください」
「分かった」
レイネが寝台を持ち上げ、父親が少女の身体を抱えて引き寄せる。
完全に脚が抜けたことを確認してから寝台を下ろし、少女の患部へ治癒魔術を施した。
「痛みはございますか」
少女は泣きながら首を横へ振った。
一人ではまだ歩けそうにない。
レイネは少女を背負い、父親とともに開けた隙間から廊下へ戻った。
「外に船員がおります。お父様は娘様とともに甲板へお戻りください」
「君は?」
「次の方を捜します」
男は何度も礼を言いながら、少女を受け取った船員とともに通路を戻っていった。
レイネは次の客室へ向かう。
船内には、まだ多くの者が残されていた。
転倒して腰を痛めた老人。
崩れた荷物の奥で泣いている兄弟。
恐怖で動けなくなり、客室の隅へ座り込んでいる女性。
一人で歩ける者には、壁へ渡した縄を使って甲板まで移動してもらう。
歩けない者は担架を持った救助隊へ引き渡し、幼い子供は抱えて運んだ。
船体が揺れるたびに、腕の中の子供がレイネへ強くしがみつく。
「大丈夫でございます。もう少しで外へ出られます」
「お姉ちゃん、船、沈むの……?」
「あなたが安全な場所へ移るまで、ここにおります」
「本当?」
「はい。必ず甲板までお連れいたします」
子供は何度か鼻をすすった後、レイネの首へ顔を埋めた。
甲板へ戻ると、子供を待っていた母親が泣きながら駆け寄ってきた。
レイネは子供を引き渡し、再び船内へ戻る。
船内の半分ほどを確認した時、激しい破砕音が響いた。
足元が大きく傾き、通路の奥から海水が流れ込んでくる。
「船底の亀裂が広がったぞ!」
同行していた船員が叫んだ。
甲板からも、撤退を指示する鐘が鳴る。
船体が完全に割れる前に、船内の人間を全員出さなければならない。
レイネは通路へ片手をついた。
通路の内側へ複数の支柱を作り、割れかけた箇所が一度に崩れないよう支える。流れ込んでくる海水も水魔術で押し返し、通路を通れる状態に保った。
「どれくらい持つ?」
船員が支柱を見ながら尋ねた。
「分かりません。残りの客室を急いで確認いたします」
「俺も行く」
「ありがとうございます。しかし危険だと判断した場合には、すぐに甲板へ戻ってください」
「それはあんたも同じだ」
「承知しております」
二人は残る客室を急いで確認した。
最奥の区画には、船員が三人と乗客が五人残されていた。
倒れた梁が通路を塞ぎ、向こう側へ進めなくなっている。
梁の上には崩れた天井材も重なっていた。
そのまま動かせば、残っている天井まで崩れる可能性がある。
「向こうにいる方々へお伝えください。梁を動かしますので、壁際へ寄って頭を守るようにと」
同行した船員が大声で指示を送る。
向こう側から返事が聞こえた。
レイネは梁を支える柱を左右へ作り、天井の荷重が一か所へ集中しないようにする。
支えが安定したことを確認してから梁の中央を切断し、通れるだけの隙間を開けた。
閉じ込められていた者たちが、互いの身体を支えながら通路へ出てくる。
最後尾にいた船員は、片腕から血を流していた。
「残っている方は、これですべてでございますか」
「ああ。客室も倉庫も確認した。これで全員だ」
「では、戻ります」
負傷した船員へ肩を貸し、レイネたちは甲板を目指した。
船体の軋みは、先ほどよりも大きくなっている。
通路へ作った支柱にも、亀裂が入り始めていた。
階段へたどり着く直前、背後から支柱が砕ける音が響く。
海水が一気に流れ込んだ。
レイネは負傷者と同行していた船員を先に階段へ上げ、その後を追って甲板へ出た。
背後で通路が水へ呑まれる。
甲板では、最後の乗客が救助船へ移されようとしていた。
「船内は空です!」
レイネの報告を聞き、責任者が撤収を命じる。
救助に入っていた者たちが、次々と旅客船を離れた。
レイネが救助船へ移った直後、座礁船の中央部分が大きく沈み込み、船体が二つに割れた。
波が甲板を洗い流す。
乗客たちから悲鳴が上がったが、既に船内にも甲板にも人は残っていない。
「点呼を取れ! 船員と乗客を分けろ!」
責任者の指示に従い、救助された者たちの確認が始まった。
名簿に記された乗客。
乗組員。
救助隊。
一人ずつ名前を確認し、別の船へ移されていないかも照合する。
レイネは負傷者へ治癒魔術を施しながら、その報告を聞いていた。
やがて最後の人数が確認される。
「乗客、全員いる! 船員も全員確認した!」
死者はいない。
その言葉が救助船へ伝わると、乗客たちの間から嗚咽と安堵の声が広がった。
レイネも息を吐き、胸元のお守りへ意識を向けた。
ルーデウスたちは、先ほどよりも近づいている。
もうウェンポートの周辺まで来ているのだろう。
早く戻りたい。
門へ向かい、三人が来るのを待ちたい。
しかし、負傷者の引き渡しと、救助した人数の報告はまだ終わっていない。
誰をどの治療施設へ運んだのか。
別の救助船へ移された家族がいないか。
救助後の混乱で、新たな行方不明者を出してはならない。
レイネは一つずつ必要な確認を終えながら、救助船がウェンポートへ戻るのを待った。
ルーデウス視点
ウェンポートの門をくぐっても、胸の高鳴りは収まらなかった。
レイネが、この町にいる。
まだ姿を見たわけではない。門番から聞いた白髪の侍女が別人である可能性も、考えようと思えば考えられる。
期待して、違っていた時のことを考えると怖かった。
これまで何度も、レイネと再会する場面を想像してきた。そのたびに、本当に会えるのかという不安を押し込め、迎えに来ると告げた彼女の言葉だけを信じて進んできた。
ここまで条件が重なっているのに、最後の最後で別人だったら。
そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
けれど、ミリス大陸から渡ってきた、小柄な白髪の侍女。
座礁した船の救助へ加わり、船内へ残された人々を助けたという。
そこまで条件が重なって、レイネではないと考える方が難しかった。
エリスの視線は、真っすぐ港の方角へ向いている。
今すぐにでも走り出したいのだろう。俺も同じだったが、二頭の騎乗用魔物を連れたまま、救助直後で混雑している港へ入るわけにはいかない。
胸の中では、今すぐ港へ向かえと叫んでいる。
それでも、焦って手順を飛ばした結果、誰かへ迷惑をかけたり、ここまで俺たちを運んでくれた二頭へ怪我をさせたりするわけにはいかなかった。
ルイジェルドはこれまでと同じく徒歩で俺たちに同行していたため、預ける必要があるのは、俺とエリスが乗ってきた二頭だけだ。
「先にギルドへ行きましょう」
俺が言うと、エリスが勢いよく振り返った。
「港じゃなくて?」
「レイネなら、僕たちが到着した時のために伝言を残しているはずです。それに、ギルドの厩舎なら、この子たちも預けられます」
落ち着いて説明しているつもりだったが、自分の声が普段より僅かに速くなっていることには気づいていた。
俺だって、港へ直行したかった。
今すぐ白い髪を探し、本人であることを確かめたい。
だが、焦って見つけられずにすれ違うより、レイネが残した可能性の高い情報を先に確認した方が確実だ。
エリスは港と二頭の魔物を交互に見た。
今すぐ港へ行きたい。
けれど、ここまで一緒に旅をしてきた魔物を放置することもできない。
その二つの間で数秒だけ迷った後、エリスは頷いた。
「分かったわ。急ぎましょう」
門番へ教えてもらった道を進む。
坂の多い町だった。
港から離れる方向へ進んでいるわけではないが、人通りが多く、思うように速度を上げられない。
普段なら、町の構造や店の位置を確認しながら歩くところだ。
だが今は、周囲の景色がほとんど頭へ入ってこなかった。
人の向こうに白い髪が見えるたび、無意識に視線が向く。
違う。
あれも違う。
期待しては、すぐに落胆する。
まだギルドにすら着いていないのに、心だけが港へ向かって先走っていた。
エリスは何度も前へ出ようとした。
それでも、一人だけ走っていくことはしなかった。数歩ごとに振り返り、俺とルイジェルドがついてきていることを確かめている。
レイネとの再会を、自分一人だけのものにはしないつもりなのだろう。
そのことが、少し嬉しかった。
俺も、三人でレイネへ会いたかった。
この一年近い旅を一緒に越えてきた三人で、無事にここまで来たことを伝えたかった。
町中には、救助が終わったばかりだと分かる痕跡が至る所に残っていた。
濡れた毛布を積んだ荷車。
空になった担架を抱え、港へ戻っていく冒険者。
海水に濡れたまま宿へ案内される乗客。
通りの脇では、温かい飲み物を渡された老人が、両手で器を包み込んでいた。
泣いている子供を抱き上げ、行方の分からない家族について尋ねて回っている男もいる。
門番から全員が助かったと聞いていた。
けれど、無事に船から出られたからといって、全員がすぐに安心できるわけではない。
家族と離れた人。
怪我をした人。
自分が助かったことすら、まだ受け入れられない人もいるのだろう。
レイネは、この中で救助に参加していた。
俺たちへ会えるかもしれない日に、それでも目の前の人たちを助けに行った。
まだ本人だと確定したわけでもないのに、それだけでレイネらしいと思えた。
「レイネ、まだ港にいるかしら」
エリスが人間語で尋ねた。
「救助隊と一緒に戻ったばかりなら、負傷者の引き渡しや報告が残っていると思います。すぐに宿へ帰っている可能性は低いでしょう」
「なら、早くしないと」
「はい。ただし、騎乗用の魔物を預けてからです」
「分かってるわよ」
エリスは不満そうに答えたが、二頭を急かすことはしなかった。
冒険者ギルドへ到着すると、俺たちは先に裏手の厩舎へ回った。
そこも普段より混み合っている。
救助へ参加した冒険者のものらしい騎乗用魔物や、港へ資材を運ぶための荷役用魔物が並び、職員たちが水や餌を与えていた。
「二頭、預けたいのですが」
俺が声をかけると、厩舎の職員が隣り合った二つの囲いを指した。
「そこへ一頭ずつ入れてくれ。水は用意する。餌は普通の物でいいか?」
「はい。お願いします」
二頭を囲いへ入れ、手綱を繋ぐ。
鞍がずれていないか。
荷物を下ろす必要がないか。
脚に怪我をしていないか。
早く行きたい気持ちを抑え、一つずつ確かめる。
ここまで無事に運んでくれた二頭を、再会を急ぐあまり雑に扱うことだけはしたくなかった。
簡単に確認している間にも、エリスは何度もギルドの入口へ目を向けていた。
それでも、自分が乗ってきた魔物へ最後まで声をかける。
「少し待っていてね。すぐ戻ってくるわ」
魔物が低く鳴き、エリスの手へ鼻先を押しつけた。
厩舎の職員から預かり札を受け取る。
「行きましょう!」
今度こそ待ち切れなくなったエリスに引かれるようにして、俺たちはギルドの中へ入った。
建物の内部も慌ただしかった。
受付の一部が救助関係の報告に使われ、職員たちが参加者の名前、負傷者の人数、搬送先、使用した資材を書き留めている。
濡れた服のまま報告を続けている冒険者もいた。
俺たちは空いている受付へ向かい、三人分の冒険者札を置いた。
「デッドエンドです」
受付の魔族が、一番上に置かれた札へ目を落とす。
パーティ名を確認した途端、その顔つきが変わった。
「デッドエンドか。お前たちが来たら渡さなきゃならない物がある」
胸が大きく跳ねた。
まだ送り主の名前すら聞いていない。
それでも、ほかの誰かが俺たちへ伝言を残しているとは考えにくかった。
エリスが受付台へ身を乗り出した。
「レイネから!?」
「送り主の名前は、本人確認が終わってからだ。まず札を見せろ」
「あ……分かったわ」
エリスはすぐに身体を戻した。
俺も急かしたい気持ちを抑える。
本人確認が必要なのは当然だ。
重要な伝言を、名前を知っているだけの別人へ渡すわけにはいかない。
だが、正しい手順だと理解していても、受付職員が札を確認する時間がひどく長く感じられた。
受付職員は三枚の札を手に取り、記載された名前と、目の前にいる俺たちを順番に見比べた。
「ルーデウス・グレイラット。エリス・ボレアス・グレイラット。それから、ルード」
周囲には、職員や冒険者が大勢いる。
ルイジェルドは何も言わず、受付職員の確認を待った。
「三人そろっているな?」
「はい。間違いありません」
「なら渡せる。少し待っていろ」
受付職員は奥の棚へ向かった。
待っている時間は、実際には短かったはずだ。
それなのに、ひどく長く感じられた。
受付職員の手がどの束へ伸びるのか。
本当に俺たち宛ての物があるのか。
その紙に何が書かれているのか。
目を離せなかった。
紐で分類された伝言の束を確認し、二枚の紙を持って戻ってくる。
「預けたのは、レイネという白髪の人族だ。Sランク冒険者として登録されている」
「Sランク?」
俺とエリスの声が重なった。
レイネが強いことは知っている。
俺たちの知らない知識を持ち、魔術や剣についても、時折驚くほど的確な助言をしていた。
けれど、俺たちと離れていた間に冒険者として活動し、Sランクにまで上がっているとは思わなかった。
驚きの後から、次々に心配が湧いてくる。
どのような依頼を受けたのか。
どれほど危険な場所を通ったのか。
俺たちを捜すために、無理を重ねたのではないか。
「昨日、この町へ着いた。最初の伝言を預けた後、宿を決めてからもう一度ここへ戻ってきて、宿の名前と場所を追加していった。もう一枚は、今朝、救助へ向かう直前に預けられた物だ」
受付職員は古い方の紙を差し出した。
一番上には、俺の名前が記されていた。
『ルーデウス・グレイラット様へ』
その文字を見ただけで、誰が書いたものなのか分かった。
整った文字。
俺へ向けられた呼び方。
間違いなくレイネだ。
指先へ力が入りすぎないよう注意しながら、俺は紙の端を両手で持ち、続きを読んだ。
『レイネはウェンポートへ到着しております』
『お迎えに参りました』
息が止まりそうになった。
レイネが生きている。
この町まで来ている。
俺たちを迎えるために、ウェンポートで待っていてくれた。
目の前の文字が、僅かに滲んで見えた。
泣くつもりはなかった。
まだ本人へ会ったわけではない。
それでも、胸の奥へ張りついていた不安が、一気に緩んでいく。
いつか会えると信じていた。
レイネは迎えに来ると約束した。
俺たちが魔大陸にいると知れば、必ず動いてくれると思っていた。
けれど、それは今まで、俺の中にしかない確信だった。
何の証拠もない。
レイネの生死すら分からないまま、それでも信じるしかなかった。
今、目の前にある紙には、レイネ自身の手で「お迎えに参りました」と書かれている。
もう、想像でも願いでもない。
レイネは本当に、この町にいる。
「ルーデウス、何て書いてあるの?」
エリスが俺の隣へ身体を寄せ、手紙を覗き込んだ。
「ウェンポートで、僕たちを待っていると書いてあります」
自分の声が、僅かに震えているのが分かった。
「本当に?」
「はい。宿も取ってくれています」
文章の下には、後から加えられた宿泊先の情報があった。
宿の名前。
港を見下ろす坂の途中にあること。
隣り合った二部屋を確保していること。
騎乗用の魔物を連れていた場合にも、預けられるよう手配してあること。
レイネが町を離れる必要に迫られた場合には、改めて行き先をギルドへ残すこと。
そして、俺とエリス、ルードの三人が無事に来ることを待っているという言葉。
ただ待つだけではない。
俺たちが到着した後に困らないよう、考えられることを一つずつ準備してくれている。
一文読むごとに、レイネが俺たちを待っていた時間が伝わってくるようだった。
「四人で滞在できるようにしてある、って書いてあります」
読み上げたところで、俺は一瞬だけ手を止めた。
レイネ自身を含めれば、四人になる。
つまり、俺とエリスだけでなく、もう一人の同行者がいることまで知っていたということだ。
どうして分かったのかと思ったが、すぐに各地へ残してきた伝言を思い出した。
俺たちは、ルーデウス、エリス、ルードの三人で移動していると、立ち寄った町ごとに記録を残してきた。
そのうちのどれかが、ウェンポートまで届いたのだろう。
これまで支払ってきた伝言の費用は、無駄ではなかった。
三人で何度も書き、三人で金を出し合って残した記録が、レイネまで届いていた。
「僕たちが三人で旅をしているという伝言も、届いていたみたいですね」
「だから四人分なのね」
エリスも納得したように頷いた。
ルイジェルドは黙ったまま、俺の手元にある伝言を見ている。
「騎乗用の魔物の場所まであるわ」
エリスが追記を指で示した。
「使っているか分からないのに、準備してくれたのね」
「僕たちが到着した後、困らないようにしてくれたんでしょう」
エリスの目に涙が浮かんだ。
「レイネらしいわ」
「はい」
俺も同じ気持ちだった。
この細かな準備の一つひとつが、レイネが俺たちとの再会をどれほど待っていたのかを示しているように思えた。
俺は追記された宿の名前を受付職員へ見せた。
「この宿は、ここから遠いですか?」
「ああ、そこか。ギルドからなら歩いて十五分ほどだ。港を見下ろす坂の途中にある」
「どのような宿なのでしょうか」
「ウェンポートでは、かなり上等な方だ。商人や船主、金を持っている冒険者が使う。食事も寝台も評判がいいし、大型の騎乗用魔物を預けられる厩舎もある」
「かなり上等な宿……」
俺はもう一度、伝言へ目を落とした。
嬉しい。
今夜、魔物や雨を警戒せず、温かい場所で休める。
何より、レイネと一緒に過ごせる場所を用意してくれたことが嬉しかった。
だが、それと同時に、レイネが無理をしているのではないかという心配も浮かんだ。
Sランクになったとはいえ、宿代が安いとは思えない。
俺たちを迎えるために、必要以上の依頼を受けたのではないか。
自分のために使う金まで削っているのではないか。
受付職員が二枚目の紙を差し出す。
「こちらは今朝の物だ」
俺は新しい伝言を開いた。
『ルーデウス・グレイラット様へ』
『今朝、ウェンポート北東で発生した座礁事故の救助へ向かいます』
『救助が終わり次第、必ずウェンポートへ戻ります』
『先に到着された場合には、エリス様、ルード様とともに町でお待ちください』
短い文章だった。
けれど、門番が話していた白髪の侍女が誰なのかは、これで確定した。
別人かもしれないという、最後に残っていた小さな不安が消えた。
「レイネだわ」
エリスが呟いた。
「はい。間違いありません」
言葉にした瞬間、胸の奥から強い安堵が込み上げた。
本当に生きている。
本当に来てくれた。
「救助船は、もう戻ってきたのよね?」
エリスが受付職員へ向き直る。
「レイネは、今どこにいるの?」
受付職員は救助関係の記録へ目を落とした。
「三隻とも港へ戻っている。最後の船が着いたのは、まだ一時間も前じゃない」
救助が終わったことは門で聞いたが、救助船が帰港した時刻までは知らなかった。
「乗客と船員は全員助かった。今は負傷者の引き渡しと、別々の救助船へ移された家族の照合をしている」
受付職員が記録の一部を指でなぞる。
「白髪の侍女なら、戻ってきた後も港で手伝っている。ついさっき、記録用の紙を追加で取りに来た者がいた」
まだ港にいる。
同じ町にいるだけではない。
歩けば会える距離にいる。
エリスが入口へ向かおうとする。
俺もすぐに後を追いたかったが、その前に二通の伝言を丁寧に畳んだ。
旅の荷物の中でも、水や汚れが入りにくい場所へしまう。
なくすわけにはいかなかった。
ただの連絡ではない。
レイネが生きていて、俺たちを迎えに来た証だった。
「行きましょう」
「早く!」
「人にぶつからないようにしてください」
「分かってるわ!」
ルイジェルドが俺たちの後ろへつく。
ギルドを出ると、俺たちは港へ続く坂を下った。
道は救助された乗客や、救護に参加した者たちで混み合っている。
濡れた衣服の上から毛布をかけられ、宿へ案内される者。
神官に肩を支えられ、治療所へ向かう老人。
別の船に乗せられた家族を見つけ、道端で抱き合う親子。
荷車には、まだ自分で歩けない負傷者が乗せられていた。
俺たちは急いだ。
けれど、救助された人々を押しのけることはしなかった。
この人たちも、ようやく助かったばかりだ。
俺たちが早く再会したいという理由で、さらに怖い思いをさせるわけにはいかない。
エリスも人の間を縫うように進みながら、何度も俺とルイジェルドを振り返った。
「ルーデウス、遅れてない?」
「大丈夫です」
人の集団を避け、少し狭い道へ入ったところで、エリスがさらに後方を確認する。
「ルードもいる?」
「ああ」
返事を聞いたエリスは、再び前を向いた。
一人で先へ行くこともできる。
それでも、レイネとの再会を自分だけのものにはしなかった。
三人で会うと決めているのだ。
港へ近づくにつれ、海水の匂いが濃くなる。
広場には救助船から降ろされた資材が並べられ、船員や冒険者が片づけを続けていた。
濡れた縄。
空になった担架。
使い終えた毛布。
治療道具の入った木箱。
名簿を持った船員が、何度も乗客の名前を読み上げている。
別の場所では、治療術師が負傷者の容体と搬送先を書き留めていた。
救助された者たちは、家族や同行者を捜して広場を行き来している。
白い髪を探す。
人が多い。
背の高い魔族や積み重ねられた荷箱に遮られ、一度見回しただけでは見つからない。
胸が焦りで締めつけられる。
本当にここにいるのか。
すでに別の場所へ移動したのではないか。
また、わずかな差ですれ違ってしまうのではないか。
「どこ……?」
エリスが辺りを見回した。
俺も救助船の周囲へ目を凝らす。
いる。
必ず、この近くにいる。
手紙には、救助が終われば戻ると書いてあった。
受付職員も、まだ港で作業をしていると言っていた。
自分へ言い聞かせる。
「ルーデウス!」
エリスが声を上げた。
伸ばされた指の先。
一隻の救助船の脇で、濡れた外套を羽織った小柄な少女が、船員と一緒に二枚の記録を照合していた。
白い髪はまだ乾いておらず、頬や首元へ張りついている。
侍女服の裾にも、海水を浴びた跡が残っていた。
長い間、会っていなかった。
記憶の中より、僅かに背が伸びたように見える。
けれど、見間違えるはずがなかった。
白い髪。
赤い瞳。
小さな身体。
立ち姿。
俺が何度も思い出していたレイネが、本当にそこにいた。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に込み上げる。
「レイネ!」
名前を呼んだ。
声が上擦った。
港の喧騒の中で、声がどこまで届いたのかは分からない。
それでも、レイネの動きが止まった。
記録へ向けられていた顔が、ゆっくりと上がる。
赤い瞳が俺を捉えた。
次にエリスを見る。
その後ろに立つルイジェルドへ視線を移す。
手にしていた紙が、僅かに揺れた。
隣にいた船員が、何かを尋ねている。
レイネは答えなかった。
俺たちを見たまま、その場に立ち尽くしている。
俺も動けなかった。
会ったら何を言うか。
旅の途中で、何度も考えていた。
迎えに来てくれたことへ礼を言う。
心配をかけたことを謝る。
魔大陸で何があったのかを話す。
エリスもルイジェルドも無事だと伝える。
言いたいことはいくらでもあった。
毎晩のように、再会した時の言葉を考えたこともある。
けれど、実際にレイネを目の前にすると、それらは一つも言葉にならなかった。
生きている。
本当に、目の前にいる。
それだけで胸がいっぱいになった。
口から出たのは、ずっと言いたかった一言だけだった。
「ただいま、レイネ」
レイネの表情が崩れた。
赤い瞳から涙が溢れ出す。
「お帰りなさいませ……」
声が震えていた。
その言葉を聞いた瞬間、ようやく本当に帰ってきたのだと思えた。
まだ故郷ではない。
中央大陸にも着いていない。
それでも、レイネが「お帰り」と言ってくれた場所が、俺の帰る場所の一つなのだと感じた。
レイネは船員へ記録を預けた。
それから一歩ずつ、俺たちへ向かってくる。
最初は確かめるような歩みだった。
だが、距離が縮まるにつれて、歩幅が少しずつ大きくなった。
「ルーデウス様……エリス様……」
エリスが耐えられなくなったように駆け出した。
「レイネ!」
正面から抱きつく。
勢いを受けたレイネの身体が僅かに揺れたが、その腕はすぐにエリスの背中へ回った。
「遅いわよ!」
「申し訳、ございません……」
「迎えに来るって言ったでしょう!」
「はい。お約束いたしました」
「ずっと待ってたんだから!」
「はい……本当に、長くお待たせいたしました」
エリスはレイネの肩へ顔を埋めた。
泣き声を隠すつもりなのかもしれない。
けれど、声も身体の震えも隠せてはいなかった。
レイネも泣いている。
エリスの背へ回した腕には、離すまいとするように力が込められていた。
俺は二人のそばへ近づく。
自分も抱きつきたい。
けれど、エリスが先に抱きしめているところへ入ってよいのか、一瞬だけ迷った。
レイネが顔を上げた。
涙に濡れた目で俺を見た後、片方の手を伸ばしてくる。
その手を取ろうとすると、腕を引かれた。
気づけば、俺も二人と一緒に抱きしめられていた。
レイネの身体は冷たかった。
濡れた侍女服も、海風に晒された髪も冷えている。
それでも、俺とエリスを抱く腕には、確かな温もりがあった。
この腕に抱かれた感触も。
白い髪の匂いも。
何も変わっていない。
「ご無事で……」
耳元で、レイネの声が震える。
「本当に、ご無事で……」
「はい」
喉の奥が詰まり、続く言葉がすぐには出てこない。
泣かないつもりだった。
だが、声を出せば涙が溢れそうだった。
「エリスも、僕も無事です」
「怪我はございませんか。現在痛む場所は。治りきっていない傷はございませんか。古いものでも、隠しているものでも構いません」
「再会して、最初に聞くことがそれですか」
涙の混じった笑いが漏れた。
あまりにもレイネらしかった。
長い間離れていても、最初に確認するのは俺たちの怪我だ。
「笑い事ではございません」
レイネは腕を緩め、俺の顔を確かめる。
頬。
額。
首元。
肩。
目で見るだけでは安心できないのか、指先でそっと触れていく。
触れられるたび、本当に再会できたのだという実感が強くなる。
「顔色は悪くありません。お痩せにはなりましたが……宿で改めて確認いたします」
「今すぐ治療が必要な怪我はありません」
「今すぐ必要がないだけでは、安心できません」
「分かりました。宿へ行ったら、隠さず全部見せます」
「必ずでございますよ」
「約束します」
その返事を聞いても、レイネはすぐには俺から目を離さなかった。
本当に俺が目の前にいるのか、何度も確かめているようだった。
俺も同じだった。
少し目を離せば、また消えてしまうのではないか。
そんな非現実的な不安が、まだ僅かに残っている。
隣では、エリスもレイネの身体に傷がないか確認している。
濡れた髪をかき分け、額や首元を見る。
腕へ触れ、外套の下まで覗こうとして、レイネに止められていた。
「レイネこそ、怪我してないの?」
「ございません」
「本当に?」
「はい。海水を浴びただけでございます」
「どこも痛くない?」
「ございません」
「隠してない?」
「隠しておりません」
エリスは疑うようにレイネを見つめた。
俺も、レイネの返事を完全には信用し切れなかった。
レイネは、自分の傷や疲れを後回しにする。
俺たちを安心させるためなら、多少の痛みを隠すこともありそうだった。
目立つ傷がないと分かると、エリスはようやく安心したらしく、もう一度その身体へ抱きつく。
「ならいいわ」
「ご心配をおかけいたしました」
「私たちの方が心配をかけたのよ」
「それでも、心配するものは心配するのでございます」
レイネはエリスの背中を撫でながら答えた。
しばらく、三人とも離れられなかった。
周囲では救助後の作業が続いている。
船員たちの声。
荷車の車輪が石畳を進む音。
負傷者の名前を読み上げる声。
再会した家族の泣き声。
それらが聞こえているのに、俺たちのいる場所だけが、周囲から切り離されたように感じられた。
長い間に積み重なった不安と寂しさが、抱きしめ合うだけで少しずつ解けていく。
やがて、レイネが俺たちの後ろへ目を向けた。
ルイジェルドは数歩離れた場所に立ち、黙って待っている。
俺たちが再会する時間を、何も言わずに待っていてくれた。
レイネはエリスを抱く腕をゆっくりと解いた。
周囲には船員や乗客がいる。
レイネはルイジェルドの本名を口にせず、彼の前へ進んで深く頭を下げた。
「お二人を、ここまでお連れくださり、本当にありがとうございました」
ルイジェルドは静かに首を横へ振った。
「俺が連れてきたわけではない」
レイネが顔を上げる。
「二人は自分で考え、自分で進んだ。俺が助けたこともあるが、俺も二人に助けられた」
ルイジェルドは俺とエリスへ目を向けた。
「今は、俺が守るだけの子供ではない。俺の仲間だ」
胸の奥が熱くなった。
ルイジェルドから、その言葉を聞くのは初めてではない。
それでも、レイネの前で言ってくれたことが嬉しかった。
俺たちが、ただ守られてここまで来たのではないと、レイネへ伝えてくれている。
レイネは、俺とエリスを交互に見た。
伝言を通じて、俺たちが冒険者として旅を続け、Aランクまで上がったことは知っていたはずだ。
それでも、旅をともにしたルイジェルド本人の言葉は、記録だけでは分からない関係を伝えていた。
レイネの表情が、静かに緩んだ。
「そうでございましたか」
「ああ」
「お二人をお守りくださったことへの感謝は変わりません。ですが、それだけではなかったのでございますね」
「そうだ」
レイネは改めてルイジェルドへ礼をした。
今度は、先ほどより少し浅い。
恩人に対する深い礼ではなく、これからともに歩く相手へ向けた挨拶のようだった。
「ウェンポートから先は、私も皆様と一緒に参ります。ルーデウス様とエリス様に仕える侍女としてだけではなく、四人目の旅仲間として、お力にならせてくださいませ」
レイネが、再び俺たちと一緒に旅をする。
その言葉を聞き、胸の奥へ安心が広がった。
もう一度会えただけではない。
明日からも、そばにいてくれる。
ルイジェルドが頷く。
「ああ。これからは四人だ」
その返事を聞き、レイネは涙の跡が残る顔で、嬉しそうに微笑んだ。
俺たちは、ようやく再会できた。
魔大陸へ転移してから、長い時間が過ぎた。
俺たちは魔大陸を南へ進み、レイネはミリス大陸から海を渡ってきた。
互いに残した伝言を追い、ようやく同じ港へたどり着いた。
「レイネ」
「はい」
「宿を取ってくれたんですよね」
「はい。四名で滞在できるよう、隣り合った二部屋を確保しております。騎乗用の魔物をお連れの場合にも預けられるよう、厩舎も押さえております」
「騎乗用の魔物は二頭連れています。今はギルドの厩舎へ預けてきました」
「そうでございましたか」
レイネは安心したように息を吐いた。
「準備しておいて、よろしゅうございました。後ほど宿へ移しましょう。餌と水も手配しております」
「受付の方から聞きました。ウェンポートでも、かなり上等な宿だそうですね」
俺が言うと、レイネの視線が僅かに横へそれた。
その反応だけで、相当な金額を使ったのではないかと心配になる。
「無理をしていませんか?」
「無理はしておりません。これまで護衛や救助、依頼でいただいた報酬から、皆様と合流した後に必要となる分を残しておりましたので」
言葉はいったんそこで止まった。
レイネは少しだけ気まずそうな顔をした後、正直に続ける。
「ただ、普段よりは少々……」
「少々?」
「かなり、奮発してしまいました」
エリスが涙の跡を残したまま笑った。
「いいじゃない。レイネがそこにしたかったんでしょう?」
「皆様には、今夜くらい何も心配せずにお休みいただきたかったのでございます。温かいお食事と、身体と髪を洗うためのお湯も用意していただけるようお願いしております」
「お湯もあるの?」
エリスの顔が明るくなる。
「はい。湯浴み用の小部屋へ、温めた湯を運んでいただけます」
「なら、絶対そこに泊まるわ!」
エリスは迷わず答えた。
俺も異論はない。
金の心配はある。
だが、レイネが俺たちを迎えるために用意してくれた宿だ。
断れば、レイネの気持ちまで拒むように思えた。
「ありがとうございます、レイネ。今夜は、用意してくれた宿に泊まらせてください」
「はい」
レイネは、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ただけで、受け入れてよかったと思えた。
「存分にお任せくださいませ」
けれど、すぐに救助船のそばへ目を向けた。
船員へ預けた名簿。
まだ運ばれていない資材。
家族の照合を待つ乗客。
港の仕事は、終わっていない。
「ただ、その前に救助後の確認を終えなければなりません」
「まだ残っているんですか?」
「乗客と船員の人数は確認できております。ですが、治療所へ運ばれた方々の搬送先と、別々の救助船へ移されたご家族が合流できたかを記録しなければなりません」
救助そのものは終わっていても、現場の仕事が片づいていないのは当然だった。
早く宿へ行きたい。
レイネと話したい。
聞きたいことは山ほどある。
それでも、ここでレイネだけを連れていけば、残された家族の確認が遅れるかもしれない。
「手伝います」
「ですが、皆様は長旅を終えたばかりでございます」
「ここまで来たんです。少しくらい働いても変わりません。それに、早く終われば、その分だけ早く四人で宿へ行けます」
半分は本心で、半分は自分のためだった。
作業を早く終わらせ、落ち着いて再会を喜びたい。
エリスも頷いた。
「私もやるわ。何をすればいい?」
ルイジェルドは救助船から運び出されている資材へ目を向けた。
「運ぶ物があるなら、俺がやる」
レイネは俺たち三人を順番に見た。
それから、近くにいた現場責任者へ声をかける。
「こちらの三名にも、残っている作業をお手伝いいただきます」
責任者は俺たちの冒険者札を確認した。
「デッドエンドか。Aランクが三人なら助かる。ただ、もう危険な仕事は残っていないぞ」
「構いません。何をすればいいですか」
俺が尋ねると、責任者は港の各所を指した。
「負傷者の名前と搬送先が、治療所ごとに分かれている。字が読めるなら記録の照合を頼みたい。毛布と水が足りていない場所もある。船には、まだ使い終えた縄や木材が残っている」
俺は人間語と魔神語の両方で記された名簿を受け取った。
「僕は搬送記録を確認します」
エリスが毛布の山へ目を向ける。
「私は、あれを配ればいいのね?」
「はい。水も一緒にお願いします。話が通じない人がいたら、無理に進めず僕を呼んでください」
「分かったわ」
エリスは毛布を抱え、救助された乗客たちの方へ向かった。
一人ずつ状態を尋ね、毛布の足りていない者へ渡していく。
魔神語しか分からない乗客には魔神語で声をかけ、人間語しか分からない者には人間語で答えた。
途中で知らない言葉が出ると、近くにいた船員へ聞き、分かる範囲で相手の話をつないでいた。
レイネと別れていた間に、エリスがどれほど成長したのか。
口で説明するより、今の姿を見てもらう方が早いのかもしれない。
「ルードさんは、船に残っている資材をお願いします。負傷者や子供の通り道を塞がない場所へ運んでください」
「分かった」
ルイジェルドは現場責任者とともに救助船へ向かった。
残っていた縄や木材、救助に使った道具を一つずつ船から降ろし、指定された場所へ運んでいく。
俺は治療術師のそばへ座り、名簿を開いた。
乗客名。
負傷の程度。
搬送先。
家族の有無。
救助船ごとに記録の仕方が違うため、同じ人物が別の表記で二度書かれている箇所もあった。
間違えて確認済みにすれば、まだ家族と合流していない人間を見落とす可能性がある。
一つずつ慎重に確かめる。
「こちらの方は、第二救助船へ移された後、西側の治療所へ搬送されております」
隣へ座ったレイネが、別の記録を指す。
顔を上げれば、すぐ隣にレイネがいる。
それだけで、何度も胸が温かくなった。
「家族は?」
「お子様が第一救助船に乗っておりました。既に合流したと報告を受けています」
「では、確認済みにします」
俺が名簿へ印をつける。
次の欄には、同じ家名を持つ二人の名前があった。
一方には東側の治療所。
もう一方には搬送先不明と書かれている。
「この二人は、同じ家族でしょうか」
「確認いたします」
レイネは近くの船員を呼び、名前と救助された船を尋ねた。
船員は少し考えた後、もう一人の記録が別の呼び名で書かれていることへ気づいた。
「その男なら、港の北側で手当てを受けている。正式な名前じゃなくて、船員たちが呼んでいる通称で書かれてるはずだ」
別の名簿を確認すると、確かに似た年齢と負傷内容の男が記載されていた。
二つの記録を一つにまとめ、家族の場所を伝えるため、近くの冒険者へ連絡を頼む。
しばらくすると、東側の治療所から女性が港へ戻ってきた。
北側で休んでいた男を見つけた瞬間、女性は泣きながらその名を呼んだ。
男も立ち上がろうとしたが、脚を負傷しているため動けない。
女性はその場へ駆け寄り、男の肩へ抱きついた。
俺たちは少し離れた場所から、その様子を見た。
少し前の俺たちと重なって見えた。
互いに生きているか分からない時間。
もう会えないかもしれないという恐怖。
それを越えて、ようやく抱きしめられた。
「見つかってよかったですね」
「はい」
レイネは短く答え、次の記録へ目を移した。
互いに離れていた時間を埋めるような話は、まだほとんどできていない。
魔大陸で起きたこと。
レイネがミリス大陸で経験したこと。
家族について分かったこと。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、それは宿へ戻ってからでいい。
今は同じ机に座り、同じ記録を見ている。
顔を上げれば、すぐ隣にレイネがいる。
それだけで十分だった。
一枚目の名簿を終えたところで、レイネが小さく息を吐いた。
「ルーデウス様」
「はい」
「改めまして、お帰りなさいませ」
俺は手を止めた。
レイネは記録へ目を落としたまま、もう一度言った。
「ずっと、お待ちしておりました」
胸の奥が熱くなる。
港では、感情が溢れすぎて言葉にならなかった。
今度は、きちんと答えることができた。
「ただいま、レイネ」
レイネは涙を零さず、静かに微笑んだ。
「はい」
◇
救助後の作業が一段落したのは、日が傾き始めた頃だった。
最後まで搬送先の分からなかった負傷者も治療所で確認され、別々の救助船へ移された家族も全員が合流できた。
俺とレイネが照合していた名簿にも、すべて確認済みの印がついている。
エリスは最後に残った毛布を船員へ渡し、空になった水差しを抱えて戻ってきた。ルイジェルドも救助船に残されていた縄や木材を降ろし終え、道具の置き場を現場責任者へ確認している。
「これで終わりかしら?」
エリスが尋ねると、現場責任者が名簿と資材の数を確認した。
「ああ。残りは船員と港の職員で片づけられる。手伝ってくれて助かった」
「困っている人がいたんだから、当然よ」
エリスはそう言って胸を張った。
以前のエリスなら、誰かを助けたことそのものより、自分がどれだけ活躍したかを先に話していたかもしれない。
今は、負傷者へ毛布を配り、家族を捜している者の話を聞き、必要なら俺や船員を呼ぶという役割を最後まで果たした。
その姿を見ていたレイネも、嬉しそうに目を細めている。
レイネへエリスが成長したと説明する前に、自分の行動で示すことができた。
俺まで少し誇らしくなった。
現場責任者へ使用した記録用紙を返し、俺たちは港を離れた。
まずは冒険者ギルドへ戻り、裏手の厩舎へ預けていた二頭の騎乗用魔物を引き取る。
預かり札を受け取った職員が、二頭を囲いから出してくれた。
「問題はなかった。水も飲んでいるし、餌も残さず食べている」
「ありがとうございます。今夜は宿の厩舎で休ませます」
俺とエリスは鞍や荷物を確認し、二頭の手綱を受け取った。
エリスが、自分の乗ってきた魔物の首を撫でる。
「待たせたわね。今度はもっといい所で休めるそうよ」
魔物は意味を理解したのかどうか、エリスの肩へ鼻先を押しつけた。
ギルドを出ると、レイネが先頭に立った。
その背中を見ながら歩くだけで、不思議な感覚があった。
昨日までは、前にいるのはルイジェルドかエリスだった。
今は、レイネが道を案内している。
以前の生活が少しだけ戻ってきたように感じる。
港を見下ろす坂を、四人と二頭で上っていく。
空は夕暮れの色へ変わり始めていた。港では、救助を終えた船員たちが帆や縄を片づけている。町の通りを歩く救助者の数も減り、代わりに宿や食堂から夕食の匂いが漂ってきた。
「宿は、ここから遠いの?」
エリスが尋ねる。
「もう少しでございます。次の角を曲がった先にございます」
「ギルドの人が、かなりいい宿だって言ってたわ」
「はい。皆様には、今夜くらいゆっくりお休みいただきたかったのでございます」
「レイネも一緒に休むのよ」
エリスが念を押すように言った。
「はい。皆様のお世話を終えましたら――」
「そうやって、自分だけ後回しにするのは駄目よ」
エリスはレイネの言葉を途中で遮った。
「今日はレイネも私たちと同じように食べて、同じように休むの。明日の準備まで今夜のうちに全部やろうとしたら駄目だからね」
レイネは、少し意外そうにエリスを見た。
以前なら、世話をされる側だったエリスが、今はレイネの休息を心配している。
レイネの変化だけでなく、エリスの変化も大きい。
俺たちが離れていた時間が、急に実感として胸へ迫った。
「僕も賛成です」
俺も二人の会話へ加わった。
「救助から戻ったばかりなんですから、今夜はレイネも休んでください。明日でいいことは、明日にしましょう」
レイネは俺とエリスを交互に見た。
二人を説得する言葉を探しているようだったが、やがて諦めたように小さく笑う。
「承知いたしました。今夜は皆様と同じように、私も休ませていただきます」
「最初からそう言えばいいのよ」
エリスが満足そうに頷いた。
通りの角を曲がる。
その先に現れた建物を見て、俺は思わず足を止めた。
石造りの二階建て。
入口には磨かれた木の扉があり、通りに面した窓には汚れのない硝子がはめ込まれている。
建物の前には小さな庭まで設けられていた。門から玄関へ続く道には平らな石が敷き詰められ、両側には手入れされた低木が並んでいる。
ウェンポートへ入ってから目にした宿の中でも、明らかに上等な部類だ。
ギルドの受付職員が言っていたことは、大げさではなかったらしい。
想像していたよりも、ずっと立派だった。
宿代が頭へ浮かび、喜びと同時に不安になる。
エリスが口を開けたまま建物を見上げる。
「本当に、ここなの?」
「はい」
「すごいわ!」
さっきまで疲れた様子を見せていたエリスが、玄関へ駆け寄った。
今度は俺たちを置いていくほど先へは行かず、扉の前で立ち止まって振り返る。
「早く入りましょう!」
ルイジェルドも建物を見上げた。
「立派な宿だな」
「そうですね」
俺は隣に立つレイネへ、小声で尋ねた。
「本当に大丈夫なんですか?」
「既にお支払いしておりますので、今から別の宿へ行かれてしまう方が困ります」
「それは困りますね」
すでに払っているのなら、ここで遠慮しても金は戻らない。
それに、レイネが用意した場所を素直に受け入れることも、今は必要なのかもしれない。
「ですので、どうぞ遠慮なくお入りくださいませ」
レイネに促され、俺たちは玄関をくぐった。
内部は、外から見た以上に整えられていた。
磨かれた木の床。
壁に設置された魔力灯。
受付台の奥には、鍵や宿帳が整然と並べられている。
食堂からは、肉と香草を煮込んだ匂いが漂ってきた。
その匂いを嗅いだエリスの腹が、分かりやすく音を立てた。
エリスは一瞬だけ固まり、何事もなかったような顔でレイネを見る。
「夕食は、もう用意されているのかしら」
「到着時刻が分かりませんでしたので、すぐに温められる料理をお願いしております」
「そう。なら問題ないわね」
何が問題ないのかは分からない。
だが、空腹なのは俺も同じだった。
港で作業をしている間は気にならなかったが、料理の匂いを嗅いだ途端、腹の奥が空っぽであることを思い出した。
受付台にいた宿の主人はレイネを見ると、その後ろに立つ俺たちへ視線を移した。
「その三人が、待っていた客か?」
「はい。無事に到着なさいました」
「そうか。よかったな」
主人は俺の顔、エリスの赤髪、ルイジェルドの槍を順番に確認した。
レイネから、俺たちの特徴を聞いていたのだろう。
レイネがこの宿で、俺たちの到着を待っていた。
宿の主人まで知っている。
そう考えると、胸が少し温かくなった。
「二部屋は空けてある。裏の厩舎も用意してあるぞ」
「ありがとうございます。騎乗用の魔物は二頭でございます」
「聞いていた範囲内だな。餌も水も足りる。先に預けてくるか?」
「お願いします」
宿の従業員に案内され、俺たちは建物の裏へ回った。
厩舎は冒険者ギルドのものより広かった。
一頭ごとに頑丈な仕切りが設けられ、床には乾いた藁が敷かれている。水槽には新しい水が満たされ、餌も既に用意されていた。
レイネは、俺たちが騎乗用魔物を使っているかどうかも分からない段階で、ここまで頼んでいたらしい。
エリスは自分が乗ってきた魔物の首を撫でた。
「今日はここでゆっくり休んでね」
俺も鞍を外し、背中や脚に異常がないか確認した。
長い距離を進んできた二頭も、今夜は雨や魔物を警戒せずに眠れる。
俺たちだけではなく、旅を支えてくれた二頭のことまで考えてくれた。
レイネの準備の細かさへ、改めて感謝する。
荷物を降ろし、必要な物だけを俺たちで持つ。
二頭が落ち着いたことを確認してから、俺たちは宿の中へ戻った。
主人に案内され、二階へ上がる。
廊下の奥に、隣り合った二つの部屋があった。
主人が最初の扉を開ける。
室内には、二台の寝台が並んでいた。
床には厚い布が敷かれ、窓からは港と海が見える。寝具は白く清潔で、四人分の荷物を二部屋へ分けて置けば、十分な余裕があった。
隣の部屋も、ほとんど同じ造りになっている。
長い間、硬い地面や安宿の寝台で眠ってきた。
清潔な寝具を見るだけで、身体から力が抜けそうになる。
エリスは柔らかそうな寝台へ手を押しつけた。
「柔らかい……!」
そのまま倒れ込みそうになったが、港を歩き回った服のままだと思い出したらしく、寸前で踏みとどまった。
「危なかったわ」
「寝台を汚さなくてよかったですね」
「違うわ。今横になったら、そのまま寝そうだったのよ」
そちらの心配だったらしい。
レイネが二部屋を見渡す。
「お部屋は、どのように分けましょうか」
「私はレイネと――」
エリスはそこまで言って、俺の顔を見た。
俺は何も言っていない。
けれど、心の中ではレイネと二人で話す時間を望んでいた。
家族のこと。
レイネが転移後に何をしていたのか。
どうやって、俺たちのいるウェンポートまで来たのか。
Sランクへ到達するまで、どのような旅を続けてきたのか。
聞きたいことは、いくらでもある。
同時に、エリスも同じだけレイネと話したいはずだ。
俺だけが独占してよいのかと、言い出せずにいた。
エリスは俺とレイネを交互に見た。
少しだけ唇を尖らせた後、仕方がないとでも言うように息を吐く。
「……今日は、ルーデウスに譲るわ」
「え?」
思わず聞き返す。
「ルーデウスも、レイネと二人で話したいことがいっぱいあるでしょう? 私は夕食の時に少し話せればいいわ」
「エリス様……」
「その代わり、明日は私がレイネと一緒よ。今日話せなかった分まで、ゆっくり話すんだから」
「承知いたしました」
レイネは驚いたように瞬きをした後、穏やかに頷いた。
エリスが俺へ譲ってくれた。
以前なら、自分が一番にレイネと過ごすと言っていたかもしれない。
俺の気持ちまで考えてくれたことが嬉しかった。
「ありがとうございます、エリス」
俺が言うと、エリスは少し照れたように顔を逸らした。
エリスは隣に立つルイジェルドを見上げる。
「私はルードと同じ部屋でいいわ。今までも一緒に野営してきたし、今さらでしょう?」
周囲に主人や従業員はいない。
ルイジェルドは短く頷いた。
「ああ。俺は構わない」
こうして、俺とレイネが一部屋。
エリスとルイジェルドが隣の部屋を使うことになった。
二人きりでレイネと同じ部屋。
そう意識した瞬間、なぜか少し緊張した。
以前にも同じ家で暮らしていた。
レイネが近くにいることなど、珍しくもなかった。
それなのに今は、昔と同じようには感じられない。
「何かございましたら、すぐにお声をかけてくださいませ」
レイネの言葉に、エリスが頷く。
「ええ。でも、今夜はルーデウスとちゃんと話してあげて。私は明日、レイネを独占するわ」
「かしこまりました」
部屋割りが決まったところで、宿の主人がこの後の予定を説明した。
夕食までは、まだ一時間以上ある。
その前に、身体を洗うための湯を用意できるという。
「湯が使えるの?」
エリスが勢いよく尋ねた。
主人は宿の奥を指した。
「浴場があるわけじゃない。湯浴み用の小部屋へ大きな木桶を置いて、厨房で温めた湯を運ぶんだ。お前たちが来たら使えるように、そこの侍女が先に金を払っている」
「木桶いっぱいのお湯を?」
「身体と髪を洗うには十分な量だ。先に二人が使って、その後で湯を捨て、残りの二人分を入れ直す」
港でも、レイネから身体と髪を洗うための湯を用意しているとは聞いていた。
だが、こうして具体的な準備を聞くと、改めて手間と費用のかかるものだと分かる。
魔大陸を旅する間、身体を拭くための水を確保するだけで苦労したこともある。
宿で湯を頼めたとしても、小さな桶へ少量を入れてもらえる程度だった。
身体と髪を洗うために、温かい湯を何度も運び込んでもらうなど、旅の途中では考えられない贅沢だった。
エリスは、レイネを見て嬉しそうに笑った。
「本当に、全部用意してくれてたのね」
「はい」
「ありがとう、レイネ」
「お喜びいただけたのであれば、何よりでございます」
最初に、エリスとレイネが湯浴み用の小部屋を使うことになった。
俺とルイジェルドは、その間に二つの部屋へ荷物を運び込んだ。
鞍袋の中身を確認し、濡れている物は窓際へ広げる。
洗濯を頼める衣服は分けて、宿の従業員へ渡した。
「随分と用意のいい宿だな」
ルイジェルドが部屋を見渡しながら言った。
「レイネが、僕たちの到着する前に全部頼んでくれたそうです」
「そうか」
ルイジェルドは、俺の寝台の横へ置かれた荷物を見た。
「いい者だな」
「はい」
考えるより先に答えていた。
自分でも驚くほど、迷いのない返事だった。
その返事を聞いたルイジェルドが、僅かに目を細める。
何かを指摘されるかと思ったが、ルイジェルドはそれ以上何も言わなかった。
しばらくすると、廊下の奥から従業員たちが空になった桶を運び出す音が聞こえた。
続けて、新しい湯を入れた桶が何度も運び込まれていく。
「次はお前たちだ」
主人に呼ばれ、俺とルイジェルドは宿の奥へ向かった。
湯浴み用の小部屋は、二人が並んで身体を洗える程度の広さだった。
中央には大人一人が座れる大きな木桶が置かれ、湯気が立っている。
壁際には腰掛けと小さな手桶、清潔な布が用意されていた。
浴場のように身体を湯へ沈めて休む場所ではない。
それでも、木桶の湯を手桶ですくい、頭や肩へかけた瞬間、思わず息が漏れた。
「温かい……」
温かさが、皮膚から身体の奥へ染み込んでいく。
今まで自覚していなかった疲れが、湯へ触れたことで一気に表へ出てきたようだった。
全身へまとわりついていた汗や埃を洗い流す。
石鹸を使って髪を洗い、もう一度湯をかける。
汚れた湯が床を流れていくのを見るだけで、身体が軽くなっていくようだった。
ルイジェルドも向かい側で、黙々と身体を洗っている。
「こういう宿は、魔大陸にもあったんでしょうか」
「金を払えば、湯を運ばせられる宿はある。だが、ここまで用意させたことはない」
「僕たちもありませんね」
レイネは四人分の湯だけでなく、使用する順番に合わせて湯を入れ替える費用まで先に支払っていた。
身体を洗えるだけでも嬉しい。
だが、それ以上に、レイネが俺たちの到着後を考え、一つずつ準備してくれていたことが胸へ染みた。
俺たちが来るかどうかも分からない状態で、これだけの準備を整え、待ってくれていた。
湯浴みを終えると、持ってきた中で最も清潔な服へ着替えた。
汚れた衣服は宿へ洗濯を頼み、俺たちは部屋へ戻った。
ほどなく、髪を乾かしたエリスとレイネが隣の部屋からやってきた。
エリスの赤髪は、久しぶりに丁寧に梳かされて艶を取り戻している。
「レイネに洗ってもらったの!」
嬉しそうに報告する。
「よかったですね」
「ルーデウスも、髪をきちんと洗った?」
「洗いましたよ」
「本当?」
エリスが俺の髪へ顔を近づける。
「ちゃんと石鹸の匂いがするわ」
「確認する必要があったんですか」
「当然よ」
レイネは俺の前へ進んだ。
「先ほどのお約束どおり、お身体の状態を確認させていただきます」
「分かりました。隠さず全部見せます」
約束した以上、痛みがないからと省くわけにはいかない。
旅の途中で負った怪我について、一つずつ説明する。
大きな傷は、既に治癒魔術で塞がっている。
長く歩いた後に足が痛んだこと。
魔力を大量に使った後、強い疲労を感じたこと。
眠りが浅くなり、翌日まで疲れを残した時期があったこと。
説明しながら、思っていたより多くの不調があったのだと気づく。
その時は旅を続けることを優先し、大した問題ではないと考えていた。
レイネは途中で遮らず、手足の動きや古い傷の状態を確認していく。
「こちらは、いつ負われた傷でございますか」
「魔大陸を移動している途中です。もう痛みはありません」
「指先に痺れは?」
「ありません」
「足首は、こちらの方向へ動かしても痛みませんか」
「大丈夫です」
一つずつ答え、実際に動かして見せる。
レイネの表情は真剣だった。
俺が大丈夫だと言うだけでは信用せず、自分で確かめている。
レイネは最後まで確認した後、ようやく息を吐いた。
「現在、治療の必要な傷はございません」
その言葉を聞き、俺も肩の力を抜いた。
自分では治ったと思っていても、レイネに確認してもらうまで、どこかに不安が残っていたらしい。
「ですが、長旅の疲労は残っております。数日は無理な依頼を受けず、食事と睡眠を優先してくださいませ」
「分かりました」
「本当にお分かりでございますか?」
「今回は、ちゃんと休みます」
レイネはまだ疑うように俺を見ていたが、最後には頷いた。
エリスについては、湯浴みの際に同じように身体の状態を確認したらしい。
「私も平気だったわ!」
エリスが胸を張る。
「大きな問題はございません。ただし、右肩には少し疲れが残っております」
「痛くないわよ?」
「今は痛みがなくても、同じ動きを繰り返せば負担になります。明日の剣の訓練はお休みくださいませ」
エリスの表情が曇った。
「一日だけ?」
「まずは一日でございます」
「なら、分かったわ」
以前なら、もっと強く反発していたかもしれない。
けれど、今のエリスは不満そうな顔をしながらも、レイネの言葉を受け入れた。
レイネも、その変化へ気づいているようだった。
◇
やがて、食堂から夕食の準備ができたと呼ばれた。
一階へ下りると、窓際の広い卓が四人分用意されていた。
四人分。
その数を見るだけで、少し胸が温かくなった。
昨日までは三人だった。
今日からは、レイネを加えた四人だ。
最初に運ばれてきたのは、魚介と野菜を煮込んだ温かいスープだった。
湯気と一緒に、香草と魚の匂いが広がる。
一口飲む。
濃すぎない塩味と、柔らかく煮込まれた野菜の甘みが舌へ広がった。
「おいしい……」
思わず声が漏れた。
味がよいだけではない。
温かい料理を、清潔な服で、全員そろって食べている。
その状況そのものが、ひどく嬉しかった。
エリスは既に二口目を口へ運んでいる。
「すごくおいしいわ!」
次に出てきたのは、表面を香ばしく焼いた白身魚だった。
酸味のある果汁と香草がかけられ、淡泊な魚の身によく合っている。
柔らかな白いパン。
肉と豆を煮込んだ料理。
焼いた根菜。
最後には、甘く煮た果物まで用意されていた。
エリスは白身魚を一口食べると、すぐにレイネへ顔を向けた。
「レイネ、少しだけ聞いて。私、魔神語をかなり話せるようになったのよ」
「そうなのでございますか?」
「一人で買い物もできるし、宿の手続きもできるわ。この前は、途中でルーデウスに助けてもらったけど、通訳もしたのよ」
「それは、素晴らしいことでございます」
レイネが本当に嬉しそうに答える。
エリスも、その反応が欲しかったのだろう。
得意そうに胸を張った。
「剣も強くなったわ。ルードには、まだ勝ててないけど」
「一度も勝っていない」
ルイジェルドが短く付け加える。
「分かってるわよ!」
エリスが頬を膨らませ、俺とレイネが笑った。
長い間離れていたのに、こうして以前と同じように笑える。
そのことが嬉しかった。
「今日は少しだけにしておくわ。続きは明日、ゆっくり話すんだから」
「はい。楽しみにしております」
エリスはそう宣言したものの、そこから完全に黙って食事だけを続けられる性格ではなかった。
目の前の料理を味わいながら、思い出した出来事を一つ二つと口にする。
そのたびに、俺が前後の事情を補い、ルイジェルドが事実と違う部分だけを短く訂正した。
俺が、人間語と魔神語を使い分けながら、町やギルドでの手続きを担当してきたこと。
ルイジェルドが、道案内や周囲の警戒だけでなく、俺とエリスへ魔大陸で生きるための知識を教えてくれたこと。
町へ立ち寄るたびに、俺たち三人が無事であることを伝言として残してきたこと。
長い旅のすべてではない。
だが、俺たちがどのようにウェンポートまで進んできたのか、その大まかな輪郭はレイネへ伝わったはずだ。
レイネは何度も食事の手を止め、俺たちの話へ耳を傾けていた。
危険な出来事が出てくれば、すぐに怪我の有無を確認する。
エリスが自分の成長を話すたび、嬉しそうに頷く。
ルイジェルドが肉の煮込みを二度お代わりしたことに気づくと、何も言わず宿の従業員へ追加を頼んでいた。
その姿を見ていると、本当に以前の生活が戻ってきたように感じられた。
食事が終わる頃には、エリスの瞼が何度も下がり始めていた。
本人は起きているつもりなのだろうが、卓へ肘をつかないよう必死に姿勢を保っている。
「エリス、眠いんでしょう」
「眠くないわ」
答えた直後に、大きな欠伸をする。
レイネが口元を緩めた。
「続きは、明日ゆっくりお聞かせくださいませ」
「そうするわ。明日は朝から、私の話を聞いてもらうんだから」
「はい。お約束いたします」
その答えを聞き、エリスは満足したように頷いた。
二階へ戻ると、エリスは隣の部屋へ入る前にレイネを振り返った。
「朝になっても、ちゃんといるわよね?」
その質問へ込められた不安が分かった。
ようやく再会した。
眠って起きた時、またいなくなっていたら。
理屈ではあり得ないと分かっていても、怖いのだ。
俺も、同じ不安を少し感じていた。
「はい。どこへも参りません」
「絶対よ」
「お約束いたします」
「それならいいわ。今夜はルーデウスと話して、明日は私の番よ」
「承知しております」
エリスはようやく納得し、ルイジェルドと一緒に部屋へ入った。
「おやすみ、ルーデウス。おやすみ、レイネ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ、エリス様」
扉が閉じる。
廊下へ残った俺とレイネは、隣の部屋へ入った。
二人きりになった途端、急に静かになったように感じた。
◇
二台の寝台のうち、俺は廊下側を使うことにした。
荷物を床へ置き、寝台へ腰を下ろす。
身体がゆっくりと沈んだ。
野営で使っていた毛布とも、これまで泊まった安宿の硬い寝台とも違う。長旅で凝り固まっていた身体を、厚い敷物が柔らかく受け止めてくれる。
「すごい寝台ですね」
「お気に召していただけましたか」
「はい。眠ったら、朝まで起きられないかもしれません」
「今夜は、それでよろしいのでございます」
レイネは俺の荷物が邪魔にならないよう壁際へ寄せ、枕元へ水の入った杯を置いた。
以前と変わらない、侍女としての所作だった。
俺が何も言わなくても、必要な物が手の届く場所へ置かれていく。
それを目の前で見るのは、長い間なかった。
懐かしい。
同時に、少しだけ落ち着かない。
以前なら、レイネがこうして世話をしてくれることを当然のように受け入れていた。
今は、その一つひとつが特別に感じられる。
湯浴みを終えたレイネは、普段の侍女服から休むための簡素な服へ着替えている。華美な装飾はなく、動きやすさを優先したものだったが、いつもの整った侍女姿とは雰囲気が違って見えた。
洗った白い髪は、まだ少しだけ湿っている。
灯りを受けた髪が淡く輝き、肩から背中へ柔らかく流れていた。
俺は気づかないうちに、レイネの姿を見つめていたらしい。
レイネが不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」
何と答えるべきか分からない。
綺麗だと思った。
以前から、レイネの容姿が整っていることは分かっていた。けれど、今はそれを意識しただけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
長い間会わなかったからだろうか。
レイネが少し成長して見えるからか。
それとも、俺自身の見方が変わったのか。
そのまま口に出すのは恥ずかしく、俺は少しだけ言葉を選んだ。
「洗った髪は、いつもと少し違って見えるなと思って」
「乾かしきれておりませんので、少し広がっているのかもしれません」
レイネは自分の髪へ触れた。
「見苦しかったでしょうか」
「違います」
思ったよりも強い声が出た。
レイネが瞬きをする。
否定しなければならないと思った。
レイネが見苦しいなど、少しも思っていない。
「綺麗だと思ったんです」
口にした直後、顔が熱くなった。
結局、そのまま言ってしまった。
何をしているのだろう。
俺は慌てて視線を逸らす。
「その……白い髪が、灯りに当たって綺麗に見えたという意味です」
説明を加えるほど、言い訳のようになっていく。
レイネは少し驚いたように黙った後、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔を見た途端、胸の奥がさらに落ち着かなくなった。
港で再会した時にも、心臓は激しく鳴っていた。
あれは、長い間離れていた相手と、ようやく再会できたからだ。
レイネが生きていたことへの安堵。
再びそばにいてくれることへの安心。
ずっと会いたかった大切な人を取り戻せたような喜び。
あの時の鼓動は、それだけでも説明できる。
だが、今の感覚は少し違っていた。
胸が熱い。
目を合わせるのが恥ずかしい。
けれど、見ていたい。
自分でも理解できない感情だった。
レイネが自分の寝台へ向かおうとしたため、俺は思わず呼び止めた。
「レイネ」
「はい」
「もう少し、話してもいいですか?」
まだ眠りたくなかった。
目を閉じてしまえば、朝まで何も話せない。
それに、眠って起きた時にもレイネがいると分かっていても、今はまだ、そばにいることを確かめていたかった。
レイネはすぐに頷いた。
俺の寝台のそばへ椅子を寄せ、正面へ座る。
「もちろんでございます」
赤い瞳が、真っすぐこちらを見ていた。
昼間は、周囲に大勢の人がいた。
夕食中は、エリスとルイジェルドがいた。
二人きりになった今、ようやく落ち着いて聞けることがある。
けれど、最初に口から出たのは、用意していた質問ではなかった。
「本当に、迎えに来てくれたんですね」
レイネの表情が僅かに柔らかくなる。
「はい」
「伝言を読んだ時も、港で会った時も分かっていたんです。でも、まだ少し信じられなくて」
本人が目の前にいる。
声も聞いた。
抱きしめられた。
それでも、あまりにも長く待っていたせいで、夢の続きのように感じてしまう。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
「謝らないでください」
俺はすぐに言葉を重ねた。
レイネに謝ってほしくはなかった。
「僕たちも、ここまで来るのに長い時間がかかりました。レイネが悪いわけじゃありません」
「それでも、もっと早くおそばへ参りたかったのでございます」
「来てくれただけで十分です」
本心だった。
遅いとは思わない。
会えた。
生きて来てくれた。
それだけで十分だった。
レイネはすぐには答えなかった。
膝の上で重ねられた手へ、僅かに力が入る。
「転移が起きた後、私はすぐにルーデウス様のもとへ向かうことができませんでした」
「はい」
「ですが、ルーデウス様へお渡ししたお守りを通じて、ご無事であることと、おおよそどちらの方角にいらっしゃるかは分かっておりました」
「お守りで?」
思わず、服の下へ手を入れた。
長い旅の間、肌身離さず持っていたお守りを取り出す。
俺からはレイネの居場所を知ることができず、ただ大切に持ち続けていた物だ。
「はい」
レイネは、俺の手の中にあるお守りを見つめながら頷いた。
「正確な位置までは分かりません。距離につきましても、大まかにしか把握できませんでした。ですが、ルーデウス様が生きておられることと、私から見てどの方向にいらっしゃるかは感じ取ることができました」
「僕が生きていることを、ずっと?」
「はい。反応が弱くなることはございましたが、失われたことは一度もございません」
レイネの返事を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた硬いものが緩んだ。
俺たちが魔大陸を旅していた間も、レイネは俺が生きていると分かっていた。
完全に行方を見失い、生死さえ分からない状態で捜し続けていたわけではない。
どこかで生きている。
進み続ければ、いつか必ず会える。
少なくとも、その確かな手掛かりを持って、俺を迎えに来てくれていた。
それが、何より嬉しかった。
ただ、その安堵の奥に、ごく小さな引っかかりも残った。
レイネには俺の無事が分かっていた。
だが、俺には何も分からなかった。
レイネが生きているのか。
どこにいるのか。
俺を捜してくれているのか。
そのどれも知らないまま、迎えに来るという言葉だけを信じて旅を続けていた。
最初から教えてくれていれば、もう少し安心できたのにとは思う。
少しだけ、ずるいとも感じた。
レイネは俺の無事を確かめられたのに、俺は何も知れなかった。
けれど、今こうしてレイネが無事に目の前にいることの方が、胸の中ではずっと大きかった。
「それなら、最初から僕が魔大陸にいると分かっていたんですか?」
「転移直後の段階では、そこまでは分かりませんでした。あまりにも遠く、お守りが示す方角も安定しておりませんでしたので」
レイネは、当時を思い出すように僅かに目を伏せた。
「私自身も、まず現在地を確認し、安全に移動できる場所まで出なければなりませんでした。その後、地図とお守りの示す方角を照らし合わせ、ルーデウス様がミリス大陸より東、海を隔てた先にいらっしゃる可能性が高いと判断いたしました」
「だから、ウェンポートを目指したんですね」
「はい。お守りの示す方角は、時間が経つにつれて少しずつ南へ移っておりました。ルーデウス様が魔大陸を南下し、こちらへ向かっておられるのではないかと考えたのでございます」
俺たちが魔大陸を南へ進んでいる間、レイネは海の向こうから、お守りが示す方角を追い続けていた。
互いに姿は見えない。
声も届かない。
それでも、この小さなお守りを通じて、俺の存在だけはレイネへ届いていたのだ。
目の前のお守りが、急に特別な物へ見えた。
「どうして、その機能を教えてくれなかったんですか?」
俺は責めるのではなく、純粋な疑問として尋ねた。
レイネは少し申し訳なさそうに目を伏せる。
「お守りをお渡しした時点では、このように遠く離れる事態を想定しておりませんでした。近くで行方が分からなくなった際に、私がルーデウス様をお捜しするための機能でございましたので」
「僕からレイネを捜すことはできなかったんですね」
「はい。それに、一方的に居場所を感じ取ることができるとお伝えすれば、行動を見張られているように感じさせてしまうのではないかと考えておりました」
「僕は、そうは思いません」
レイネに見守られているなら、嫌だとは思わない。
むしろ、知っていれば安心できた。
「今は、そのようにおっしゃっていただけることが分かります。ですが、お渡しした当時の私は、ルーデウス様がどのように受け取られるかを決めつけ、お話ししないことを選んでしまいました」
レイネは静かに頭を下げた。
「申し訳ございません」
「少しだけ、教えてほしかったとは思います」
俺は正直に答えた。
何も思っていないふりをすれば、レイネが今話してくれた意味をなくしてしまう。
「でも、そのおかげで僕を見失わずに来てくれたんでしょう?」
「はい。このお守りがなければ、これほど早くウェンポートでお待ちすることはできなかったと存じます」
「なら、よかったです。ただ、次からは教えてください」
「承知いたしました」
レイネはそう答えたものの、すぐには顔を上げなかった。
何かを迷っているようだった。
「レイネ?」
呼びかけると、レイネはゆっくりと顔を上げた。
「ルーデウス様のおっしゃるとおり、ルーデウス様に関わることを、私の判断だけで隠し続けるべきではございません」
「ほかにも、何かあるんですか?」
胸の中に、小さな緊張が生まれた。
今まで知っていたお守りだけでも、すでに普通の魔道具ではない。
「はい。お守りには、もう一つだけ、お伝えしていなかった機能がございます」
レイネの声が、先ほどまでより僅かに重くなった。
俺は手の中のお守りを見る。
小さな飾りにしか見えない。
だが、俺の生存と方角をレイネへ伝えるだけでも、十分に特別な魔道具だ。
そこへ、さらに何かが隠されているらしい。
「どんな機能ですか?」
「蘇生でございます」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
言葉そのものは分かる。
だが、お守りと結びつかなかった。
「……蘇生?」
聞き返した声が、自分でも分かるほど間の抜けたものになった。
レイネは冗談を言っているようには見えない。
「はい」
「蘇生というのは……まさか、死んだ人間を生き返らせるという意味ですか?」
「その認識で間違いございません」
俺は言葉を失った。
治癒魔術なら知っている。
傷を塞ぎ、折れた骨を治し、失われた体力を回復させる。
高度な治癒魔術なら、かなり重い傷からでも命を救えるのだろう。
だが、それは生きている人間へ使う魔術だ。
既に失われた命を取り戻す魔術など、俺は一度も聞いたことがない。
「そんな魔法、本当にあるんですか?」
「広く知られたものではございません」
「広く知られていないということは、存在はするんですか?」
「既存の術式を、そのまま使用しているわけではございません」
レイネは静かに答えた。
「ルーデウス様のお身体と魂を繋ぎ止めるため、複数の術式を組み合わせ、私がお守りへ組み込んだものでございます」
「レイネが、作った……?」
「はい」
それは、さらに信じ難い答えだった。
誰にも知られていない蘇生魔術を見つけたのではない。
レイネ自身が、俺を生き返らせるための術式を作ったという。
俺は改めて、目の前にいる少女を見た。
白い髪。
赤い瞳。
普段は俺たちの食事を整え、衣服を直し、寝具を準備してくれる侍女。
魔術や剣について尋ねても、護身のために多少扱えるだけだという態度を崩さなかった。
そのレイネが、誰も聞いたことのない蘇生の術式を作り、それを小さなお守りへ組み込んだ。
Sランク冒険者になったと聞いた時にも驚いた。
船内へ取り残された人々を救い、負傷者を治療したと聞いた時にも、やはりレイネはすごいと思った。
けれど、今の話は次元が違う。
死者を生き返らせる。
そんな術式を、自分で作る。
驚きだけではない。
僅かな恐ろしさもあった。
俺は、レイネのことをどれほど知っているのだろう。
毎日一緒に暮らしていた。
長い間そばにいてくれた。
それなのに、俺はレイネの力のほんの一部すら知らなかったのかもしれない。
レイネが本当はどれほどの魔術を扱えるのか。
どれほどの知識と力を隠しているのか。
俺には、まるで見当がつかなかった。
「レイネは……いったい、どれくらいの魔術を使えるんですか?」
思わず口から出た。
レイネは、すぐには答えなかった。
「それにつきましては、いずれ必要な時にお話しいたします」
「今は話せないんですか?」
「申し訳ございません。ただ、今お伝えすべきなのは、私の実力ではなく、ルーデウス様がお持ちのお守りの機能でございます」
また、濁された。
胸の奥へ引っかかりが残る。
再会したばかりなのに、まだ知らないことがある。
それを少し寂しいと思った。
気にはなる。
蘇生の術式を作れる人間が、本当に護身程度の力しか持っていないはずがない。
だが、レイネが今すぐすべてを話すつもりがないことも分かった。
それなら、無理に聞き出す必要はない。
少なくとも、俺を害するために力を隠していたのではない。
むしろ、俺を守るために、想像もできないような術式を用意していた。
その事実だけで、今は十分だった。
「お守りは、具体的に何をするんですか?」
俺が尋ねると、レイネは説明へ戻った。
「ルーデウス様の命が完全に失われた場合、お守りに組み込まれた術式が一度だけ発動いたします。肉体と魂を繋ぎ止め、再び命を取り戻すためのものでございます」
俺は手の中のお守りを見つめた。
今まで、ただの小さな飾りだと思っていた。
その中に、俺の命を一度だけ取り戻すための術式が組み込まれている。
急に、手の中のお守りが恐ろしいほど重要な物に思えた。
「本当に、死んでも?」
「はい。ただし、確実に万全の状態へ戻れると保証できるものではございません」
レイネは慎重に言葉を選ぶ。
「肉体の損傷が大きければ、蘇生した後にも治療が必要となります。身体の大部分が失われていた場合や、魂へ直接影響を与える攻撃を受けた場合には、正常に発動しない可能性もございます」
「何をされても絶対に生き返る、というわけではないんですね」
「はい。可能な限り発動するよう作っておりますが、万能ではございません」
それでも、十分に常識外れだった。
万全ではなくても、一度失われた命を取り戻せる可能性がある。
そんな物が存在すると知られれば、国どころか世界中が動くのではないか。
狙われる。
奪われる。
作り方を聞き出すため、レイネ自身が危険にさらされるかもしれない。
誰にも知られてはいけない物だ。
「一度だけというのは?」
「発動すれば、お守りに組み込んだ術式と蓄積した力は、すべて失われます。二度目はございません」
「もう一度、同じ物を作ることは?」
「不可能ではございません。ですが、作製には長い時間と、多くの準備が必要となります」
つまり、簡単に量産できる物ではない。
それでも、レイネは俺のために作った。
いつから準備していたのかは分からない。
俺がこの機能を知ることもないまま、何年も使われない可能性だってあった。
それでも、俺が万一命を落とした時のために、お守りへ組み込んでくれた。
そこまでして、俺を守ろうとしていた。
胸の奥が強く締めつけられた。
「どうして、これも教えなかったんですか?」
「蘇生できると知れば、万一の際に、お守りを頼って無理をなさる可能性があると考えたためでございます」
「そんなことは――」
ない、と即答しかけて止まる。
絶対にないと言い切れるだろうか。
エリスやルイジェルドを守るためなら、一度死んでも戻れると思って、無茶をする可能性はある。
相手を倒すために、自分の命と引き換えになる方法を選ぶこともあるかもしれない。
魔大陸で危険な場面へ遭遇した時。
もし蘇生できると知っていたら、判断が変わっていた場面はなかっただろうか。
少なくとも、レイネがそう心配した理由は理解できた。
「それに、蘇生は最後の手段でございます」
レイネは続けた。
「発動しないことが最善でございます。決して、お守りがあるから大丈夫だとはお考えにならないでくださいませ」
「分かっています」
今度は迷わず答えた。
レイネの心配を、これ以上増やしたくなかった。
「死なないようにします。お守りがあるからって、わざと危険なことはしません」
「お約束いただけますか?」
「約束します」
レイネは俺の顔をしばらく見つめた。
俺が本当に理解しているか、確かめているのだろう。
やがて、ようやく小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
改めて、お守りを見下ろす。
俺が生きていることを、レイネへ伝える。
大まかな方角を示す。
そして、もし俺が命を落とした時には、一度だけ蘇生させる。
これまで俺は、何度もこのお守りへ触れてきた。
魔物と戦う時。
危険な場所へ向かう時。
夜、レイネの無事を考えた時。
何の答えも返ってこないことを少し寂しく思いながら、それでもレイネからもらった物だからと大切にしていた。
だが実際には、俺が触れていない時でさえ、このお守りは俺を守り続けていた。
俺がどこにいるかをレイネへ伝え、万一の時には俺の命を取り戻す。
レイネが、どれだけ俺の無事を願ってこれを作ったのか。
そう考えると、驚きの奥から、強い感謝が込み上げてきた。
「ありがとうございます」
俺はお守りを握りながら、もう一度言った。
「こんな物まで、僕のために作ってくれて」
「ルーデウス様にお使いいただく必要がないことが、一番でございます」
「はい。それでも、嬉しいです」
レイネの赤い瞳が、僅かに見開かれた。
「守ってもらっていたことも、迎えに来てくれたことも、全部です」
レイネは、俺が想像していたより遥かに強く、遥かに多くのことを知っている。
その力を隠している理由は分からない。
けれど、その隠された力の一端が、ずっと俺を守るために使われていた。
知らなかったことへの寂しさより、守られていたことへの喜びの方が大きかった。
「本来であれば、もっと早くお伝えするべきでございました」
「でも、今は話してくれました」
俺は手の中のお守りを見る。
「それに、これが実際に使われなくて、本当によかったです」
魔大陸では、危険な場面が何度もあった。
あのうちのどこかで俺が死んでいれば、知らない間にこのお守りが使われていた可能性もある。
想像すると、背筋が冷たくなった。
一度死んで、蘇生していた。
そんなことにならず、レイネと再会できた。
自分の足でここまで来て、直接「ただいま」と言うことができた。
その方が、ずっといい。
「今後、お守りについてルーデウス様に関わる機能を追加する場合には、必ず事前にお伝えいたします」
「お願いします」
「はい。お約束いたします」
レイネの返事を聞き、俺はお守りを大切に服の下へ戻した。
先ほどまでより、僅かに重く感じられた。
実際の重さが変わったわけではない。
その中に込められていたレイネの力と、俺を守ろうとする思いを知ったからだろう。
「エリスやルードさんが一緒にいることも、知っていたんですか?」
「はい。お二人がルーデウス様と行動をともにしておられることは、ウェンポートへ到着する前から、おおよそ察しておりました」
「お守りで、そこまで分かるんですか?」
「すべての方を判別できるわけではございません」
レイネは、言葉を選ぶようにゆっくりと説明した。
「お守りが直接伝えるのは、ルーデウス様のご無事と、大まかな方角でございます。ただ、私が以前からよく存じ上げている方が、長い間ルーデウス様のお近くにいらっしゃる場合、その方の気配が重なって感じられることがございます」
「知り合いなら、誰が近くにいるか分かるということですか?」
「はっきりとした姿やお名前が伝わるわけではございません。あくまでも、覚えのある気配を感じ取れる程度でございます」
レイネは一度、俺の胸元へ戻されたお守りへ目を向けた。
「エリス様の気配は、比較的早い段階から分かりました。転移以前から、長くおそばで過ごしておりましたので」
「なるほど」
エリスとは、フィットア領にいた頃から一緒だった。
レイネもエリスの世話をし、何度も剣の稽古や勉強に付き合っている。
お守りを通して知っている気配を感じ取れるのであれば、エリスを判別できても不思議ではない。
「では、もう一人の気配は、ルードさんだったんですか?」
「はい。エリス様とは異なる、もうお一人の気配にも覚えがございました」
俺は眉を寄せた。
「ん?」
エリスなら分かる。
けれど、ルイジェルドは違う。
少なくとも俺の知る限り、フィットア領にいた頃のレイネとルイジェルドに接点はない。
ルイジェルドはスペルド族であり、長い間、魔大陸を旅していた。
レイネが以前から彼の気配を知っているというのは、どういうことだろう。
胸の中へ新しい疑問が生まれた。
俺たちは今日一日、レイネの前では彼を「ルード」と呼んでいた。
港には大勢の人がいたし、宿の中にも主人や従業員がいる。本人の許可もなく、スペルド族であることや本名を明かすわけにはいかないと考えていたからだ。
レイネには、ルードという名前の槍使いが俺たちへ同行しているとしか伝えていない。
それなのに、レイネは彼の気配へ覚えがあるという。
単に以前会ったことがあるだけなのか。
それとも、彼が何者なのかまで知っているのだろうか。
「レイネは、ルードさんと知り合いだったんですか?」
レイネはすぐには答えなかった。
赤い瞳が、ほんの僅かに俺から逸れる。
「知り合い、と申し上げてよいものかは分かりません」
「以前、会ったことがあるんですか?」
「その点につきましては……私自身にも、確かであると言い切れない部分がございます」
随分と曖昧な答えだった。
レイネは何でも知っているように見えるが、時折、こうして明確な説明を避けることがある。
先ほど感じた引っかかりが、少しだけ戻ってくる。
それでも、ここで一つ確認しておくべきことがあった。
「知り合いなら、ルードさんの本当の名前も知っているんですか?」
レイネの動きが止まった。
俺は本名そのものを口にはしなかった。
それでも、ルードが本名ではないことを明かしたのだから、本人の許可なく踏み込みすぎたかもしれない。
僅かな罪悪感が生まれる。
けれど、レイネが以前から彼を知っているというのであれば、どこまで把握しているのかは気になった。
「そのことにつきましては……」
レイネは言葉を選ぶように、僅かに間を置いた。
「今夜、私だけから申し上げるよりも、明日、ご本人を交えてお話しする方がよろしいかと存じます」
肯定も否定もしなかった。
だが、その答え方は、何も知らない者のものには聞こえない。
「やっぱり、何か知っているんですね」
「申し訳ございません。今は、それ以上を申し上げることができません」
レイネはそこで一度言葉を切った。
俺がさらに質問を重ねる前に、胸元のお守りへ視線を向ける。
「長期間の旅を経ておりますので、念のため、欠けや亀裂が生じていないか確認させていただいてもよろしいでしょうか」
明らかに話題を変えた。
少しだけ不満だった。
今夜、隠していた機能を話してくれたばかりなのに、まだ答えてくれないことがある。
だが、ルイジェルド本人へ関わる話だ。
レイネが勝手に説明しないことは、むしろ正しいのかもしれない。
俺は服の下へ戻したばかりのお守りを、もう一度取り出した。
レイネへ手渡すと、彼女は表面や縁を丁寧に確認し始める。
俺は、そんなレイネの横顔を見つめた。
気にはなる。
どうして、レイネがルイジェルドの気配を知っていたのか。
本名やスペルド族であることまで、どの程度把握しているのか。
レイネには、俺の知らない過去がある。
ただ、彼女が今すぐ説明しようとしないのは、俺へ隠し事を続けたいからというだけではなさそうだった。
ルイジェルド本人の関わる話だから、本人のいない場所で勝手に話すことを避けているようにも見える。
それなら、今夜ここで追及するべきではない。
そもそも、俺たちもレイネへルイジェルドの本名を打ち明けてはいなかった。
レイネなら信頼できる。
だが、ルイジェルドの正体は、俺一人の判断で明かしてよいものではない。
明日、ルイジェルド本人を交えて話せばいい。
レイネが既に知っているのなら、その時に事情を聞けばいいし、知らない部分があるのなら、本人の了承を得て俺たちから説明すればいい。
今は、それで十分だろう。
「傷はありませんか?」
「はい。正常に機能しております。大切にお持ちくださったのですね」
「もちろんです」
旅の途中、何度も失くしていないか確認した。
危険な戦いの後には、壊れていないか触れた。
俺にとっては、機能を知らなくても大切な物だった。
レイネがお守りを返してくれる。
俺は再び服の下へしまった。
「ルードさんのことは、明日、本人も一緒にいる時に話しましょう」
「はい。その方がよろしいかと存じます」
少し引っかかりは残った。
けれど、レイネが今は話せないと判断しているのなら、無理に聞き出す必要はない。
お守りについては、俺が尋ねたことで蘇生の機能まで話してくれた。
なら、ルイジェルドのことも、明日きちんと話すことができるだろう。
「では、四人分の部屋を取ったのは、お守りで二人が一緒にいると分かっていたからですか?」
「それも理由の一つでございます」
レイネは、先ほどまでより自然な調子で頷いた。
「ウェンポートへ到着した後、冒険者ギルドに残されていた記録も確認いたしました。ルーデウス様、エリス様、ルード様の三名が、デッドエンドというパーティとしてこちらへ向かっておられることが分かりましたので、四名分を用意したのでございます」
お守りで、俺が生きていることと方角を追う。
知っている気配がそばにあれば、誰が行動をともにしているかを察する。
さらにウェンポートへ到着した後、ギルドの記録で三人の名前を確認した。
だからレイネは、俺たちが来る前から四人分の部屋を取り、騎乗用の魔物まで想定して準備していたのだ。
俺たちが残してきた伝言と、レイネが追い続けたお守り。
両方があったから、今日ここで会えた。
「それで合流できたんですね」
「はい。お守りだけでは、この宿や港まで正確にお迎えに行くことはできませんでした。ですが、ルーデウス様がウェンポートへ近づいておられることは分かっておりましたので、この町で待つことができました」
「僕がここへ来る途中も、分かっていたんですか?」
「昨日の夜には、これまでよりもはっきりと近づいておられることが分かりました。本日か、遅くとも数日のうちには到着なさると考えておりました」
昨日の夜。
俺も丘の上で、レイネがウェンポートにいるかもしれないと考えていた。
海を隔てていた時間が終わり、互いにすぐ近くまで来ていた。
「それなのに、救助へ行ったんですね」
責めるつもりはなかった。
ただ、確かめたかった。
レイネは真っすぐ俺を見る。
「はい」
「僕たちが今日来るかもしれないと分かっていても?」
「助けを求めている方々を置いて、港でお待ちすることはできませんでした」
迷いのない返事だった。
予想どおりだった。
少しだけ寂しいと思ったのも事実だ。
会えるかもしれない日に、俺たちより救助を優先した。
けれど、それで怒ることはできなかった。
むしろ、そうする人だからこそ、俺はレイネを大切に思っているのだろう。
「ですが、救助が終わり次第、必ずウェンポートへ戻るつもりでございました。ルーデウス様が先に到着された場合にも、私の行き先が分かるよう、ギルドへ伝言を残しました」
「レイネらしいですね」
「申し訳ございません」
「褒めたんです」
俺は笑った。
「僕が先に着いたとしても、救助へ行ったレイネを責めたりしません。実際、レイネが行ったから助かった人もいるんでしょう?」
「私一人の力ではございません。船員や冒険者、治療術師の皆様が協力した結果でございます」
「それでも、レイネ自身が助けた人もいますよね」
レイネは少し考えた後、静かに頷いた。
「はい。私が船内からお連れした方や、治療を行った方もいらっしゃいます」
自分一人の功績として語ることはしない。
だが、自分が果たした役割まで隠そうともしない。
今日の救助に参加した者たちが、それぞれ何をしたのか。
レイネは、それを事実どおりに受け止めているだけなのだろう。
「Sランクになったのも、僕たちを捜すためですか?」
「それも理由の一つでございます」
「一つ?」
「高いランクがあれば、危険な地域へ入る許可や、遠方へ向かう護衛依頼を受けやすくなります。ギルドを通じて情報を集める際にも、信用していただきやすくなりました」
レイネは一度言葉を切った。
「ですが、移動する中で、助けを必要としている方々とも出会いました。その方々を置いて、先へ進むことはできませんでした」
今日の救助だけではないのだろう。
俺たちと離れていた間、レイネは各地で同じように人を助けてきたのだと思う。
依頼を受け、報酬を得て次の町へ進む。
その途中で困っている者がいれば、捜索の足を止めて手を差し伸べる。
そうした仕事の積み重ねが、Sランクという結果につながったのだろう。
俺たちへ会うためだけに進んでほしかった、とは思わない。
それでも、自分を捜している途中で何度も危険へ飛び込んだのだと考えると、心配にもなる。
「それにしても、かなり良い宿を取りましたね」
「……少々、奮発いたしました」
「少々ではないと思います」
俺が言うと、レイネは目を逸らした。
「皆様が到着された日に、硬い寝台でお休みいただくのは嫌だったのでございます」
「湯も、食事も?」
「はい」
「騎乗用の魔物を預ける場所まで?」
「使用されている可能性がございましたので」
「二頭とも、ここまで用意してもらえるとは思っていなかったでしょうね」
「お役に立てたのであれば、何よりでございます」
一つひとつ、俺たちが到着した後のことを考えて準備していたのだろう。
胸の奥が、また温かくなる。
「ありがとうございます」
「侍女として当然のことでございます」
「当然ではありません」
俺は首を横へ振った。
当然だという言葉で済ませてほしくなかった。
「レイネが用意してくれたから、僕たちは今日、何も心配せずに休めています」
「それがお役に立てたのであれば、私も嬉しゅうございます」
レイネが微笑んだ。
その笑顔から、なぜか目を逸らせなかった。
昔から、レイネは綺麗な顔をしていると思っていた。
白い髪と赤い瞳。
整った顔立ち。
侍女として働く時の、落ち着いた表情。
けれど以前は、頼れる相手として見ている部分の方が大きかった。
自分より年下に見えるのに、何でも知っていて、危険な時には必ず助けてくれる。
家族とも、姉とも、師匠とも違う。
それでも、そばにいることが当然だと思っていた人。
今は、その人が目の前にいる。
長い間会わなかったことで、俺の見方が変わったのかもしれない。
あるいは、再会して初めて気づいただけなのかもしれない。
「ルーデウス様?」
再び名前を呼ばれる。
「すみません。少し考え事をしていました」
「お疲れでございますか?」
「疲れてはいます。でも、それだけではなくて……」
言葉が続かなかった。
今感じているものを、そのまま口へ出すことはできない。
自分でも、まだ正体が分かっていなかった。
ただ、レイネがほかの誰かのために同じような宿を用意し、同じように優しく笑い、その人を大切にする場面を想像すると、胸の奥が僅かに痛んだ。
レイネには、これからも自分のそばにいてほしい。
侍女として命令に従うからではない。
俺自身を見て、ここにいたいと思ってほしい。
自分を特別に大切にしてほしい。
そこまで考えたところで、俺は自分自身に戸惑った。
随分と勝手な願いだ。
レイネにはレイネの人生がある。
俺が助けられてきたからというだけで、永遠に俺のそばにいる義務などない。
それなのに、別の誰かの隣へ行くことを考えると嫌だった。
以前の俺なら、レイネがそばにいることを当然のように受け入れていた。
今は違う。
レイネがいつか俺のもとを離れ、別の誰かの隣を選ぶ可能性を考えただけで、落ち着かなくなる。
胸の中にあるものが何なのか、まだ言葉にはできなかった。
ただ、以前にはなかった感情であることだけは分かった。
「ルーデウス様」
レイネが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
顔が近い。
赤い瞳が、すぐ目の前にある。
胸の鼓動が、先ほどより速くなった。
「だ、大丈夫です」
思わず身体を少し後ろへ引く。
レイネが不思議そうに瞬きをした。
「ですが、お顔が赤くなっております」
「湯浴みをしたからでしょう」
「湯浴みを終えてから、かなり時間が経っておりますが」
「部屋が暖かいんです」
「窓を少し開けましょうか?」
「大丈夫です!」
声が大きくなった。
隣の部屋へ聞こえたのではないかと不安になり、俺は口を押さえる。
レイネはしばらく俺を見つめた後、無理に追及することはしなかった。
「かしこまりました。ですが、気分が悪くなりましたら、すぐにお申しつけくださいませ」
「はい」
俺は息を整えた。
この感情について、今夜中に答えを出す必要はない。
久しぶりに再会したことで、心が大きく揺れているだけかもしれない。
それでも、なかったことにはできなかった。
「レイネ」
「はい」
「僕、少し不安だったんです」
「何がでございますか?」
「魔大陸を旅して、できることは増えました。エリスも成長しましたし、僕も最初の頃よりはいろいろなことを考えられるようになったと思います」
レイネは何も挟まず、俺の続く言葉を待った。
「でも、僕一人でここまで来たわけではありません。エリスにも、ルードさんにも、何度も助けてもらいました」
「はい」
「レイネに会った時、もっと一人で何でもできるようになっていなければ、成長したと思ってもらえないんじゃないかと考えていました」
口にしてみると、少し違う気もした。
一人で何でもできなかったことを恥じているわけではない。
三人で進んできたことを後悔してもいない。
ただ、迎えに来てくれたレイネへ、胸を張って帰ってきたと言える自分になれているのか、不安だったのだ。
以前と何も変わらず、世話をされるだけの子供に見えるのではないか。
レイネに認めてもらいたかった。
「僕は、ちゃんと成長できているでしょうか」
レイネはすぐには答えなかった。
俺が何を聞きたいのかを確かめるように、静かにこちらを見つめている。
すぐに大丈夫だと言われるより、その沈黙の方がありがたかった。
適当に慰めるのではなく、本当に考えてくれている。
やがて、その表情が穏やかに緩んだ。
「一人で何でもできるようになることだけが、成長ではございません」
「そうなんでしょうか」
「はい」
レイネの声には、迷いがなかった。
「エリス様のお話からは、言葉を覚え、旅の中でご自身にできる役割を増やされたことが伝わりました。ルード様は、お二人を守るだけの子供ではなく、仲間だとおっしゃいました」
レイネは、港で俺たち三人が作業していた場所を思い返すように、僅かに視線を下げた。
「そしてルーデウス様は、港で皆様が何をなさるべきかを考え、ご自身も記録の確認を引き受けておられました。分からないことがあれば周囲へ尋ね、皆様と力を合わせて、最後までお仕事を終えられました」
「それは、僕一人の力ではありません」
「だからこそでございます」
レイネは、はっきりと答えた。
「お一人でなければ何もできないのではなく、誰かとともに進むことができるようになられたのでございます。助けていただいたことを認め、ご自身も相手のお力になろうとなさる。それは、とても大切な成長だと私は思います」
俺は、夕食の席で話した旅を思い返した。
エリスに助けられたこと。
ルイジェルドに支えられたこと。
俺が二人の役に立てたこと。
誰か一人がすべてを背負ったのではなく、三人だったからここまで来られた。
一人で何でもできることだけが、強さではない。
旅の中で何度も感じてきたことを、レイネが言葉にしてくれた。
胸の中へ残っていた不安が、少しずつ薄れていく。
「レイネは、がっかりしていませんか?」
「いいえ」
レイネは静かに首を横へ振った。
「ルーデウス様がご無事でお戻りになったことを、心から嬉しく思っております。そして、お話を聞き、お姿を拝見するほど、立派に成長されたことが分かります」
「立派、でしょうか」
「はい」
迷いのない答えだった。
レイネは俺の手へ、自分の手を重ねた。
温かい手だった。
昼間、海水に濡れて冷え切っていた手とは違う。
その温もりが、指先から胸の奥まで伝わってくるように感じた。
触れられた手へ意識が集中する。
離されたくない。
もっと長く、このままでいたい。
「お帰りなさいませ、ルーデウス様」
港でも聞いた言葉。
けれど、今度は俺一人へ向けられていた。
「ずっと、お待ちしておりました」
胸の奥が熱くなる。
重ねられた手を、離してほしくないと思った。
「ただいま、レイネ」
俺も、今度はきちんと答えた。
しばらく、どちらも手を離さなかった。
レイネが想像以上の実力を隠していたことには驚いている。
どうしてルイジェルドの気配を知っていたのかも、まだ分からない。
けれど、今夜すべてを聞き出す必要はない。
蘇生のことを話してくれたように、必要な時には答えてくれるはずだ。
今は、レイネの手がここにある。
それだけでよかった。
やがてレイネが、窓の外の暗さへ目を向ける。
「そろそろ、お休みになった方がよろしいかと存じます」
「そうですね」
名残惜しさを感じながら、手を離す。
手のひらへ温もりが残っていた。
レイネは窓の戸締まりを確認し、自分の寝台へ向かった。
「レイネも、ちゃんと寝てくださいね」
「承知しております」
「僕が寝た後に、仕事を始めたりしないでください」
レイネは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……明日の準備を少しだけ、と考えておりました」
やはり、休むつもりではなかったらしい。
「駄目です」
「ですが――」
「さっき、エリスとも約束したでしょう。明日でいいことは、明日にしてください」
レイネは、扉の向こうにいるエリスを思い出したのか、僅かに目を伏せた。
「それに、レイネも救助で疲れているでしょう。今夜は僕たちと同じように休んでください」
俺たちの世話をしてくれることは嬉しい。
だが、そのためにレイネだけが休めないのは嫌だった。
その言葉を聞き、レイネは少し驚いたように俺を見た。
以前の俺なら、世話をされることを当然に受け入れていたのかもしれない。
今は、レイネにも休んでほしいと思う。
やがて、レイネは諦めたように小さく笑う。
「承知いたしました。今夜は何も始めず、このまま休ませていただきます」
「約束ですよ」
「はい。お約束いたします」
部屋の明かりが消される。
暗くなった室内で、海から吹く風の音が聞こえた。
隣の部屋には、エリスとルイジェルドがいる。
同じ部屋のもう一つの寝台には、レイネがいる。
昨日の夜まで、どこにいるのか分からなかった人が、今は手を伸ばせば届くほど近い場所にいる。
本当にいるのか確かめたくなり、暗闇の中でレイネの寝台へ耳を澄ませる。
僅かに寝具が動く音がした。
それだけで安心できた。
「おやすみなさい、レイネ」
「おやすみなさいませ、ルーデウス様」
目を閉じる。
安心したはずなのに、先ほど重ねられた手の感触を思い出すと、胸の鼓動が少しだけ速くなった。
この感情が何なのかは、まだ分からない。
ただ、レイネと再会できた喜びの中に、以前にはなかったものが混ざっている。
これからもそばにいてほしい。
自分を特別に思っていてほしい。
そして、いつか自分も、レイネにとって頼られる存在になりたい。
ただ世話をされるだけではなく。
レイネが不安になった時、今度は俺がそばにいたい。
そんな願いを抱きながら、俺は柔らかな寝台へ身体を沈めた。
魔大陸へ転移してから初めて、明日の朝も全員がそばにいると信じながら、眠りについた。