白髪の侍女   作:MトK

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第三十四話 最後の船

ルーデウス視点

 

倉庫街を抜けるまで、子供たちはほとんど言葉を発しなかった。

 

助けられたことを理解していないわけではない。

 

けれど、暗い部屋へ閉じ込められ、殴られ、商品として扱われていた恐怖は、外へ出ただけで消えるものではないのだろう。

 

俺たちが誘拐犯とは違うと、頭では理解しているのかもしれない。

 

それでも、少し大きな物音がするたび、子供たちの肩が揺れる。通りの角から人影が現れれば、互いへ身を寄せ、逃げる場所を探すように視線を動かしていた。

 

治癒魔術で痣や傷を消すことはできる。

 

骨を繋ぎ、呼吸を安定させることもできる。

 

だが、受けた恐怖まで魔術で消すことはできない。

 

そのことへ、もどかしさを感じた。

 

猫耳の少女と犬耳の少女は、レイネの左右の手をそれぞれ握っていた。

 

ほかの子供たちはエリスのそばへ集まり、離れないよう互いの服をつかんで歩いている。呼吸が弱かった少年はルイジェルドが背負い、その隣を俺が歩きながら容体を確認していた。

 

少年の顔色は、倉庫で見た時よりも少しよくなっている。

 

呼吸も規則正しい。

 

それでも、一度は命を失いかけていた。

 

胸が上下するたびに、まだ生きていることを確認し、安堵している自分がいた。

 

銀色の聖獣は子供たちの周囲を何度も行き来している。

 

先頭へ出たかと思えば最後尾へ戻り、全員がついてきているかを確かめる。負傷している子供のそばでは足を緩め、鼻先で優しく背中へ触れていた。

 

巨大な身体をしているが、子供たちへ向ける仕草は驚くほど穏やかだった。

 

倉庫で鎖につながれ、衰弱させられていた。

 

それでも、自分の身体より子供たちの無事を優先しているように見える。

 

「宿まで歩けそうですか?」

 

俺が獣神語で尋ねると、猫耳の少女が小さく頷いた。

 

「歩けるニャ」

 

声はまだ震えている。

 

無理をしている可能性もある。

 

けれど、抱き上げようとすれば怖がらせるかもしれない。

 

本人が歩けると言うのであれば、今はその意思を尊重した方がいいだろう。

 

「お名前を聞いてもいいですか?」

 

「トーナ」

 

少女は自分の胸元を指した後、レイネの反対側にいる犬耳の少女へ目を向けた。

 

「こっちはテルセナだニャ」

 

「トーナさんと、テルセナさんですね」

 

二人の名前を繰り返す。

 

知らない土地で、名も知らない子供たちを助けたというだけではない。

 

一人ずつに名前がある。

 

家族がいる。

 

帰りを待っている者がいる。

 

倉庫の帳簿には、種族と金額だけが記されていた。

 

人間ではなく、売り物として扱うための記録だった。

 

だが、この子たちは商品ではない。

 

トーナとテルセナ。

 

一人ずつ名前を呼ぶことで、その当たり前の事実を自分の中でも確かめたかった。

 

「ほかの皆様のお名前も、安全な場所へ着きましたらお聞かせくださいませ」

 

レイネが穏やかに話しかける。

 

「今は、歩くことだけをお考えください。苦しくなりましたら、すぐにお申しつけくださいませ」

 

「お姉ちゃんたちは、どこに連れていくニャ?」

 

トーナが警戒するように尋ねた。

 

レイネの手を握る指へ、僅かに力が入っている。

 

助けられた後で、別の場所へ売られるのではないか。

 

そう疑っているのかもしれない。

 

胸が痛んだ。

 

子供が、自分を助けた相手にまでそんな警戒をしなければならない。

 

それだけのことをされたのだ。

 

「まずは、お食事と治療を受けられる場所へ参ります」

 

「また閉じ込めない?」

 

「閉じ込めません」

 

レイネは足を止めず、はっきりと答えた。

 

「あなた方を、ご家族のもとへお帰しいたします」

 

トーナはレイネの横顔を見上げた。

 

完全には信じきれない。

 

だが、その手を離そうともしなかった。

 

今のトーナにとっては、言葉だけを信じることは難しいのだろう。

 

それでも、レイネの手を握っていれば、少なくとも今すぐ傷つけられることはないと感じている。

 

その小さな信頼を、今度こそ裏切ってはいけない。

 

倉庫街から人通りのある道へ出る直前、銀色の聖獣が急に立ち止まった。

 

耳を立て、町とは反対の方角へ顔を向ける。

 

低い唸り声が喉の奥から漏れた。

 

ルイジェルドも同時に足を止める。

 

「来る」

 

声を聞いた瞬間、全身へ緊張が走った。

 

倉庫の仲間が、子供たちを取り返しに来たのかもしれない。

 

俺は反射的に杖へ手を掛けた。

 

「倉庫にいた者たちの仲間ですか?」

 

「分からん。二人だ。速い」

 

子供たちの間に緊張が走った。

 

トーナとテルセナが、レイネの手へさらに強くしがみつく。

 

ほかの子供たちも、エリスの背後へ身を寄せた。

 

ようやく暗い倉庫を出たのに、また捕まると思ったのかもしれない。

 

その恐怖を見て、胸の中へ怒りが湧く。

 

もう、この子たちへ誰も近づけさせない。

 

エリスがすぐに前へ出る。

 

剣は抜かない。

 

だが、いつでも子供たちと相手の間へ入れる位置を取った。

 

「レイネ、子供たちをお願い」

 

「はい」

 

レイネが子供たちを壁際へ寄せる。

 

俺も杖へ手を掛け、右目へ僅かに魔力を流した。

 

少し先の道。

 

建物の屋根から二つの影が下りてくる。

 

一人は大柄な男。

 

もう一人は白髪の老人。

 

未来の像が現在へ重なった直後、二人の獣族が俺たちの前へ着地した。

 

敵意があるのか。

 

武器を抜くのか。

 

右目で次の動きを確かめようとしたが、先頭の男は俺たちを見るより先に、子供たちへ顔を向けた。

 

先頭の男は褐色の肌をしていた。

 

獣のような耳。

 

虎を思わせる太い尾。

 

鍛え上げられた身体。

 

その顔立ちは、どこかギレーヌに似ている。

 

見覚えがあるわけではない。

 

だが、耳や目元、顔の輪郭に、ギレーヌと同じ特徴を感じた。

 

男の視線が、子供たちの中の一人へ止まる。

 

「トーナ!」

 

叫びには、怒りよりも焦りと安堵が入り混じっていた。

 

声を聞いた猫耳の少女が顔を上げる。

 

「お父さん!」

 

トーナの顔から、初めて恐怖以外の感情が溢れた。

 

レイネの手を離し、男へ駆けていった。

 

犬耳のテルセナも続く。

 

「ギュエスおじさん!」

 

男――ギュエスは、飛び込んできた二人を両腕で受け止めた。

 

トーナの頭から足元までを確かめ、テルセナの顔に残る痣へ触れる。無事に立っていると分かっても、すぐには腕を解かなかった。

 

「生きていた……」

 

押し殺した声が聞こえた。

 

その一言に、これまでどれほど捜し続けていたのかが滲んでいた。

 

もし俺が家族を見つけた時。

 

父さんや母様の姿を確認した時。

 

同じような声が出るのだろうか。

 

一瞬だけ家族の顔が浮かび、胸が締めつけられた。

 

今は、トーナたちが家族と再会できたことを喜ぶべきだ。

 

後ろにいた老人も子供たちへ近づく。

 

白い髪。

 

ギュエスと同じ獣の耳と尾。

 

年老いてはいるが、立っているだけで周囲の空気が引き締まるような人物だった。

 

「テルセナ。ほかの者たちも、全員ここにいるのか」

 

「いるニャ。みんな、この人たちが助けてくれたニャ」

 

トーナが俺たちを指す。

 

老人の視線が、俺、エリス、レイネ、ルイジェルドの順に動く。

 

警戒の混じった鋭い視線だった。

 

子供たちと一緒にいるというだけで、完全に信用するつもりはないのだろう。

 

それは当然だ。

 

自分たちの子供が攫われた直後なのだ。

 

最後に銀色の聖獣を見た。

 

「聖獣様……」

 

老人とギュエスが、ほとんど同時に膝をついた。

 

その反応を見て、やはりこの銀色の犬が獣族にとって特別な存在なのだと分かった。

 

銀色の聖獣は二人のもとへ歩み寄ったが、すぐに子供たちのそばへ戻ってくる。

 

次に俺の胸元の匂いを嗅ぎ、顔を舐めようと鼻先を近づけてきた。

 

「少し待ってください」

 

俺が顔を逸らすと、聖獣は不満そうに鼻を鳴らした。

 

倉庫で一度舐められた時は、顔中が唾液で濡れた。

 

嫌われているよりはいい。

 

それでも、毎回顔を洗うことになるのは困る。

 

ギュエスが俺と聖獣を交互に見た。

 

警戒は残っている。

 

だが、子供たちが俺たちの周囲へ集まり、聖獣まで敵意を見せていない以上、すぐに武器を向けるつもりはないらしい。

 

老人が立ち上がり、俺たちへ頭を下げた。

 

「孫娘たちを助けていただいたようだな。儂はギュスターヴ・デドルディア。この者は息子のギュエスだ」

 

デドルディア。

 

その名前を聞き、ギレーヌの故郷に近づいたのだと実感した。

 

「僕はルーデウス・グレイラットです。こちらはエリス、レイネ。それから、ルードさんです」

 

ここには子供たちもいる。

 

ルイジェルドの本名も種族も口にしなかった。

 

ギュスターヴとギュエスが信頼できるかは、まだ分からない。

 

何より、ルイジェルドの正体は本人の許可なく広めるべきものではない。

 

「詳しい事情を、お聞かせ願えるか」

 

「はい。ただ、その前に確認していただきたい物があります」

 

レイネが治療鞄から帳簿を取り出した。

 

ギュスターヴへ手渡す。

 

老人は最初の数枚へ目を通しただけで、表情を険しくした。

 

「これは……」

 

「倉庫に残されていた取引記録でございます。こちらの七名だけではなく、さらに多くのお子様が、別の場所へ集められている可能性がございます」

 

ギュエスがトーナから身体を離し、帳簿を覗き込む。

 

「どこだ」

 

声が低い。

 

先ほどまで娘の無事へ安堵していた男の顔が、再び戦士のものへ変わっていた。

 

「後ろの方に、出航予定と貨物の数が記されております」

 

レイネが頁をめくる。

 

そこには日付と、積み込まれる人数が記されていた。

 

雨季前の最終便。

 

東側の桟橋。

 

子供、五十二。

 

聖獣一頭。

 

数字を見た瞬間、息を呑んだ。

 

聖獣については、既に倉庫から救出した。

 

だが、五十二という数字は、目の前にいる七人を差し引いても多すぎる。

 

残りの四十人以上が、どこかに閉じ込められている。

 

今も、暗い場所で助けを待っているのかもしれない。

 

先ほど全員を助けられたと安心しかけた自分が、恥ずかしくなった。

 

まだ終わっていない。

 

「船が出るのは、いつですか?」

 

俺が尋ねる。

 

ギュスターヴが空を見上げた。

 

「帳簿の日付が正しいなら、今日の日没前だ」

 

日没までは、まだ時間がある。

 

だが、倉庫を制圧したことが相手へ伝われば、予定を早める可能性がある。

 

倉庫の見張りが戻らない。

 

誰かが様子を見に来れば、すぐに異常へ気づくだろう。

 

「今すぐ、港へ向かいましょう」

 

俺が言うと、ギュエスは既に歩き出そうとしていた。

 

「船を沈める」

 

「子供も乗っているのでしょう!」

 

エリスが止める。

 

ギュエスが振り返った。

 

怒りで耳と尾の毛が逆立っている。

 

娘を傷つけられた。

 

同じように攫われた子供たちが、さらに大勢いる。

 

怒りを抑えろという方が難しいのだろう。

 

だが、船を沈めれば、誘拐犯だけではなく子供たちまで死ぬ。

 

「ならば乗り込み、誘拐犯を全員殺す」

 

「生きたまま捕らえるべきでございます」

 

レイネが言った。

 

「この帳簿には取引先や協力者を示す記録もございますが、名前だけでは関係を証明できません。船の責任者や誘拐犯から、誰の指示で動いたのかを聞き出す必要がございます」

 

「子供を攫った者を生かせと言うのか」

 

「逃がすとは申しておりません」

 

レイネの声は静かだった。

 

「ですが、怒りに任せて全員を殺せば、別の場所で同じことを続けている者へたどり着けなくなります」

 

倉庫でルイジェルドへ説明した時と同じだ。

 

目の前の相手を殺せば、一時的には怒りを晴らせる。

 

だが、その後ろにいる者は逃げる。

 

さらに多くの子供が攫われる可能性が残る。

 

俺自身、子供たちの傷を見れば、誘拐犯を許せるとは思わない。

 

それでも、今必要なのは復讐ではなく、残っている子供を助け、事件の全体を明らかにすることだ。

 

ギュエスが歯を食いしばる。

 

トーナが父親の腕を握った。

 

「お父さん」

 

その一言で、ギュエスは娘へ目を向けた。

 

トーナの顔に残る痣。

 

細くなった腕。

 

身体を隠すために巻かれた布。

 

怒りが消えたわけではない。

 

それでも、ギュエスは剣から手を離した。

 

娘を抱きしめていた腕が、僅かに震えている。

 

「分かった。殺さずに捕らえる」

 

「時間がない」

 

ギュスターヴが帳簿を閉じる。

 

「儂とギュエスは港へ向かう。お主らは子供たちを安全な場所へ――」

 

「僕たちも行きます」

 

「だが、この子供たちはどうする」

 

エリスの服を、獣族の少女がつかんでいた。

 

エリスはその小さな手へ目を落とす。

 

戦いへ向かいたい。

 

だが、子供たちを再び知らない場所へ置いていくこともできない。

 

その二つの気持ちの間で、エリスが迷っていることが表情から伝わった。

 

「私は、この子たちと残るわ」

 

エリスが言った。

 

一瞬、驚いた。

 

エリスなら、真っ先に敵のいる船へ向かいたがると思っていた。

 

「よろしいのでございますか?」

 

レイネが確認する。

 

「よくはないわ。私も、そいつらを殴りたいもの」

 

エリスは率直に答えた。

 

「でも、私がいなくても、ルードとレイネとルーデウスがいるでしょう。この子たちには、ここに残る人が必要よ」

 

自分が戦いたい気持ちより、怯えている子供たちを優先した。

 

以前のエリスなら、できなかったかもしれない選択だ。

 

その成長を誇らしく感じた。

 

同時に、俺たちを信じ、戦いを任せてくれていることが嬉しかった。

 

トーナがエリスを見上げる。

 

「一緒にいるニャ?」

 

「ええ。もう誰も近づけないわ」

 

エリスは剣の柄へ手を置いた。

 

子供たちを安心させるためなのか、少し胸を張る。

 

「私が守るから、安心しなさい」

 

その姿には、言葉だけではない頼もしさがあった。

 

「エリス様へお任せいたします」

 

レイネはエリスの前へ立ち、声を落とした。

 

「無理に戦いへ加わらず、こちらのお子様方と聖獣様をお守りくださいませ。何か異常がございましたら、合図の魔術を空へ上げてください」

 

「分かってるわ」

 

「戻るまで、宿の中から出ないでくださいませ」

 

「レイネも、絶対に戻ってきて」

 

「はい。必ず戻ります」

 

エリスは頷いた。

 

その目には、レイネを送り出す不安が残っている。

 

昨日まで、目を離せばレイネがいなくなるのではないかと心配していた。

 

それでも今は、自分よりも危険な場所へ向かうレイネを送り出そうとしている。

 

子供たちを安全な場所へ移すため、ギュスターヴが信頼できる獣族の商人を紹介した。

 

倉庫街から近い場所で店を営んでいる者だという。

 

俺たちはそこまで子供たちを送り届けた。

 

店の主人はギュスターヴの顔を見ると、事情を詳しく聞く前に裏の部屋を開放した。

 

食事と水。

 

身体を隠す衣服。

 

負傷者を寝かせる場所。

 

必要な物をすぐに用意する。

 

その行動の速さに、少し安心した。

 

少なくとも、この店の者はギュスターヴから信頼されている。

 

主人や店員には、俺たちが紹介した名前しか伝えていない。

 

「エリス様と、ルード様がこちらをお守りくださいませ」

 

レイネが言った。

 

「ルードも残るの?」

 

エリスが尋ねる。

 

「ああ」

 

ルイジェルドは子供たちを見回した。

 

「先に港の船を確認する必要がある場合は、俺も行く。だが、ここに敵が近づいたなら、子供を守る」

 

本来なら、ルイジェルドの第三の眼は船を探すために必要だ。

 

だが、子供たちを残す場所にも護衛は必要になる。

 

どちらを優先するべきか、俺もすぐには判断できなかった。

 

俺たちが相談していると、ギュスターヴが首を横へ振った。

 

「この店は儂の一族が管理しておる。これから仲間も集める。子供たちの守りは任せよ」

 

「信用できるの?」

 

エリスが尋ねる。

 

相手が族長らしい人物であっても、子供たちを預ける以上、確認せずにはいられないのだろう。

 

「儂の命と、一族の名に懸ける」

 

ギュスターヴの答えには迷いがなかった。

 

トーナも父親の腕へしがみついたまま言う。

 

「村の人たちニャ。大丈夫ニャ」

 

エリスは少し考えた。

 

それでも、すぐに子供たちから離れようとはしない。

 

一度、守ると約束した。

 

その約束を途中で投げ出すように感じるのかもしれない。

 

「エリス様」

 

レイネが優しく呼ぶ。

 

「港の船にも、多くのお子様が捕らえられている可能性がございます」

 

「分かってるわ」

 

「こちらには、ギュスターヴ様の信頼できる方々がおられます。私たちも、可能な限り早く戻ります」

 

エリスはトーナたちを見た。

 

「本当に、ここから動かない?」

 

「動かないニャ」

 

「知らない人についていったら駄目よ」

 

「分かったニャ」

 

エリスは一人ずつの顔を確認し、最後に聖獣へ向き直った。

 

「この子たちを守って」

 

聖獣は低く鳴いた。

 

意味を理解したように、子供たちの前へ座る。

 

「なら、私も行くわ」

 

エリスが決断した。

 

子供たちを置き去りにしたのではない。

 

信頼できる者と聖獣へ託したのだ。

 

「右肩へ負担をかけないでくださいませ」

 

「分かってる」

 

「無理に敵を追わず、船内のお子様方を優先してください」

 

「それも分かってるわ」

 

エリスは剣を確かめ、俺たちのもとへ戻った。

 

救出した七人と聖獣を店へ残し、俺たちは港へ向かった。

 

 

港へ向かう途中、ギュスターヴが説明した。

 

「我らも、攫われた子供と聖獣様を捜しておった。しかし、奴らは匂いを消す薬を使っている」

 

「倉庫の中にも、強い香料のような匂いがございました」

 

レイネが答える。

 

「獣族の嗅覚を妨げるための物だったのでございますね」

 

「そのせいで、船へ運ばれた後は追えん」

 

ギュエスが悔しそうに言う。

 

娘を捜していたのに、匂いを追えなかった。

 

すぐ近くの倉庫にいた可能性さえある。

 

その悔しさは、俺には想像することしかできない。

 

「どの船に子供たちがいるか分からなければ、出港する船を一隻ずつ止めることになる。港の役人どもは許可しない」

 

「帳簿に、桟橋の場所が書かれております」

 

俺が言う。

 

「相手が予定を変えていなければ、船は見つかるはずです」

 

「変えていた場合は?」

 

「ルードさんなら、船内にいる人の位置を確認できる可能性があります」

 

ギュエスがルイジェルドを見る。

 

「どうやってだ」

 

ルイジェルドはすぐには答えなかった。

 

青く染めた髪。

 

額を覆う布。

 

正体を明かせば、ギュエスたちからも恐れられる可能性がある。

 

先ほどまで、俺たちへ娘を助けた恩人として接していた相手でも、スペルド族だと知れば態度が変わるかもしれない。

 

その恐怖を、ルイジェルドは何度も経験してきた。

 

だが、時間をかけて船を調べれば、子供たちを乗せた船が出てしまう。

 

ルイジェルドは足を止めた。

 

「人目のない場所へ行く」

 

決意した声だった。

 

港へ続く大通りから、細い路地へ入る。

 

俺たち以外に誰もいないことを確認し、ルイジェルドは額の布を僅かに持ち上げた。

 

赤い宝石が露わになる。

 

ギュエスの手が、反射的に剣へ伸びた。

 

「スペルド族……!」

 

警戒することは予想していた。

 

それでも、胸の奥が痛んだ。

 

つい先ほど、ルイジェルドはトーナたちを助けた。

 

傷ついた少年を背負い、倉庫の誘拐犯を一人も殺さず制圧した。

 

それでも、額の宝石を見ただけで、剣へ手が伸びる。

 

ギュスターヴも目を細める。

 

ルイジェルドは武器へ手を掛けなかった。

 

「俺はルイジェルド・スペルディアだ」

 

「なぜ、スペルド族がトーナたちと一緒にいる」

 

「助けたからだ」

 

「信じろと言うのか」

 

「信じなくても構わん。だが、俺の眼なら、船の中にいる子供の位置が分かる」

 

ルイジェルドの声には怒りも悲しみもなかった。

 

慣れているのだろう。

 

正体を明かし、警戒されることへ。

 

その事実が、かえってつらかった。

 

ギュエスの尾が大きく揺れる。

 

子供たちを助けるために必要な力。

 

だが、それを持っているのは、長く恐れられてきたスペルド族。

 

すぐには判断できないのだろう。

 

レイネが一歩前へ出た。

 

「ルイジェルド様は、ルーデウス様とエリス様を魔大陸からここまでお守りくださいました。先ほどの倉庫でも、子供たちを傷つけることなく、誘拐犯を制圧しております」

 

「お前は、こいつが何者か知っていたのか」

 

「はい。ウェンポートを発つ前に、ご本人からお名前と種族を伺っております」

 

それは、表向きの経緯としても事実だった。

 

レイネは、ルイジェルドの隣へ並ぶ。

 

何のためらいもなく、スペルド族だと明かしたルイジェルドの横へ立った。

 

「正体を承知したうえで、私はルイジェルド様と同行しております」

 

「保証するのか」

 

「はい」

 

レイネは迷わなかった。

 

「必要であれば、Sランク冒険者としての私の信用を差し出します。ただし、私が保証するのは、スペルド族という種族全体ではございません」

 

レイネはルイジェルド本人を見た。

 

「ここにおられる、ルイジェルド・スペルディア様ご本人の身元と行動を保証いたします」

 

種族全体について知ったようなことは言わない。

 

目の前にいるルイジェルドを見て、自分の判断で保証する。

 

ウェンポートの船賃交渉の時と同じだった。

 

レイネの言葉を聞き、俺も少し安心した。

 

これなら、ギュスターヴたちがウェンポートでの船賃交渉を知っている必要はない。

 

レイネが今、この場で初めて自分の信用を差し出しているのだ。

 

ギュスターヴがルイジェルドを見つめる。

 

「トーナとテルセナは、お主を恐れておらなんだ」

 

「ああ」

 

「聖獣様も、お主へ敵意を示しておらなんだ」

 

「ああ」

 

「ならば、今は子供たちの救出を優先する」

 

老人がギュエスを見る。

 

「剣から手を離せ」

 

「父上」

 

「お主の娘を助けた者へ、恩を返す前から刃を向けるつもりか」

 

ギュエスは歯を食いしばった。

 

やがて、ゆっくりと手を下ろす。

 

完全に恐怖が消えたわけではない。

 

それでも、種族にまつわる噂より、自分の娘が助けられた事実を優先した。

 

その選択に、胸の中へ僅かな希望が生まれた。

 

「……子供たちが助かった後、話を聞かせてもらう」

 

「構わん」

 

ルイジェルドは額を再び隠した。

 

路地を出る。

 

東側の桟橋が見えた時、状況は既に動き始めていた。

 

帳簿に記された位置へ停泊していた船が、帆を上げようとしている。

 

船員たちが慌ただしく縄を外し、予定より早く出港する準備を進めていた。

 

間に合わないかもしれない。

 

一瞬、血の気が引いた。

 

あの船が岸を離れれば、追うことは難しくなる。

 

船底には、動けない子供が何十人もいる可能性がある。

 

「倉庫のことが伝わったのでしょう」

 

俺が言う。

 

焦りで声が僅かに速くなる。

 

「ルードさん」

 

「あの船だ」

 

ルイジェルドの答えは早かった。

 

「船底に、小さな気配が多くある。五十前後だ」

 

間違いない。

 

帳簿の数字とほぼ一致する。

 

本当に、あの船へ子供たちが乗せられている。

 

俺たちが桟橋へ近づくと、港の衛兵が前へ出た。

 

「止まれ! この先は乗客と関係者以外立入禁止だ!」

 

ギュスターヴが名乗る。

 

「ギュスターヴ・デドルディアだ。あの船に、攫われた獣族の子供が乗せられている」

 

衛兵の顔が僅かに強張った。

 

驚いたのか。

 

何かを知っているのか。

 

その変化だけでは判断できない。

 

「証拠はあるのか」

 

レイネが帳簿を見せようとする。

 

だが、ギュスターヴが手で止めた。

 

「原本を不用意に渡すな」

 

老人は衛兵の顔を見ている。

 

俺も帳簿に記されていた名前を思い出した。

 

港の役人。

 

倉庫の管理者。

 

船員。

 

すべてではないが、賄賂の受け取りを示す記録があった。

 

目の前の衛兵が関係しているかは分からない。

 

それでも、証拠を一人へ預けるべきではない。

 

誰が味方なのか分からない状況で、原本を奪われれば、事件そのものを握りつぶされる可能性がある。

 

「冒険者ギルドの責任者を呼んでください」

 

レイネが言った。

 

「同時に、港の最高責任者にもお越しいただきます。それまで、あちらの船の出港を止めてくださいませ」

 

「そんな権限が、冒険者にあると思っているのか」

 

「私はお願いしております」

 

レイネは冒険者札を見せる。

 

「Sランク冒険者として、誘拐の現場から七名のお子様と、取引の記録を確保しております。出港を認めた後で、船内から攫われた子供たちが見つかった場合、どなたが責任をお取りになりますか?」

 

衛兵は答えない。

 

その後ろでは、船の縄が一本ずつ外されている。

 

待っている時間はなかった。

 

冒険者ギルドの責任者を呼びに行き、事情を説明している間に、船は出る。

 

船員の一人が、最後の係留索へ斧を振り上げる。

 

「切らせません」

 

俺は杖を向けた。

 

行動した瞬間、衛兵に攻撃と判断される可能性はあった。

 

それでも、迷っている余裕はない。

 

石造りの桟橋が盛り上がり、係留索を結んだ柱の周囲を覆う。

 

斧が縄へ届く前に、太い石の輪が形成された。

 

「貴様、何をした!」

 

衛兵が剣を抜く。

 

剣先がこちらへ向けられ、身体へ緊張が走る。

 

「船を止めただけです。誰も傷つけていません」

 

衛兵と戦いたいわけではない。

 

本当に事件を知らない衛兵なら、職務を果たそうとしているだけだ。

 

だからこそ、傷つけずに止める必要があった。

 

船上から怒鳴り声が上がる。

 

「構わん、縄を切れ! 竿で岸から離せ!」

 

別の船員が、長い竿を桟橋へ押し当てた。

 

船体が僅かに離れる。

 

胸の奥へ焦りが込み上げる。

 

俺は水面へ杖を向けた。

 

船と港の間で流れを作り、押し出されようとする船体をゆっくり岸へ戻す。

 

急激に動かせば、船底にいる子供たちが転倒する。

 

箱に閉じ込められていれば、壁へ身体を打ちつける可能性もある。

 

逃げる船を止めたい。

 

だが、止め方を誤れば、助けようとしている子供を傷つける。

 

衝撃を与えないよう、広い範囲の水を動かした。

 

船体がゆっくりと岸へ戻る。

 

「ルード様、ギュエス様」

 

レイネが呼ぶ。

 

「船内の制圧をお願いいたします。可能な限り、殺さずに」

 

「ああ」

 

「分かった」

 

二人が走り出す。

 

衛兵が止めようとしたが、ギュスターヴが間へ入った。

 

「子供を乗せた船を逃がすつもりか」

 

「証拠もなく、船へ乗り込むことは許されない!」

 

「証拠を確認するために乗り込むのだ」

 

老人の声には、衛兵を退かせるだけの迫力があった。

 

ルイジェルドとギュエスは桟橋を駆け、離れかけた船へ跳んだ。

 

人間には届かない距離だった。

 

二人は軽々と甲板へ着地する。

 

船員たちが武器を取った。

 

ルイジェルドの槍が動く。

 

刃ではなく柄で手首を打ち、武器を落とさせる。背後から近づいた者へ石突きを当て、腹を打って倒した。

 

ギュエスも肉厚の剣を鞘へ収めたまま振るい、船員を一人ずつ床へ沈めていく。

 

怒りを抱えながらも、殺さずに捕らえるという約束を守っている。

 

「僕たちも行きます」

 

「はい」

 

俺とレイネ、エリスは桟橋を走った。

 

船までの隙間は、まだ数歩分ある。

 

俺が足場を作ろうとした時、レイネが俺の腰へ腕を回した。

 

「失礼いたします」

 

「え?」

 

答える間もなく、身体が浮いた。

 

驚きで声が出なかった。

 

レイネは俺を抱えたまま桟橋を蹴り、船へ跳んだ。

 

風が一瞬だけ耳元を通り過ぎる。

 

足場を作る必要さえない距離として飛び越えた。

 

着地には、ほとんど衝撃がなかった。

 

俺を抱えていたとは思えない。

 

やはり、レイネの身体能力は俺が思っていたものとはまるで違う。

 

続けてエリスが自力で跳び、船縁へ手を掛ける。

 

レイネが片手を伸ばし、その身体を甲板へ引き上げた。

 

「今のは……」

 

「急ぎましょう」

 

説明は後らしい。

 

気にはなった。

 

だが、今は船底の子供たちが先だ。

 

レイネは俺を下ろし、船底へ続く階段を探した。

 

甲板では、ルイジェルドとギュエスが船員を制圧している。

 

俺たちの前へ、船長らしい男が現れた。

 

片手に剣。

 

反対の手には、短い杖が握られている。

 

「子供がいる場所を教えてください」

 

俺が言う。

 

「何の話だ」

 

「船底に大勢いることは分かっています」

 

「商品だ。正式に買い取った奴隷だ」

 

商品。

 

その言葉を聞いた瞬間、腹の底から怒りが込み上げた。

 

倉庫にいた者たちと同じだ。

 

子供を人間として見ていない。

 

「獣族の子供を攫い、奴隷として売ることは禁止されております」

 

レイネが答える。

 

「取引の記録も確保しております。武器を置き、船内にいる方々を解放してくださいませ」

 

「Sランクだからって、調子に乗るな!」

 

船長が杖を向けた。

 

魔力が集まる。

 

右目へ未来が映る。

 

炎の塊が、レイネの胸へ飛ぶ。

 

「レイネ!」

 

心臓が強く跳ねた。

 

反射的に石壁を出そうとする。

 

だが、俺が魔術を発動させるより先に、レイネの手が動いた。

 

指先から飛んだ小さな金属片が、船長の杖へ当たる。

 

魔術が形になる前に杖が弾かれ、炎が天井近くで散った。

 

レイネへ当たらなかった。

 

安堵した直後には、もうレイネが踏み込んでいる。

 

船長が驚いた隙に、レイネが剣を持つ手首をつかみ、身体を回す。

 

船長の腕が背中側へ折り畳まれ、そのまま床へ押し倒された。

 

「ぐっ……!」

 

「抵抗をおやめくださいませ」

 

声は丁寧だった。

 

だが、船長は顔を床へ押しつけられ、動くことができない。

 

一瞬の制圧だった。

 

俺が心配する必要はなかったのかもしれない。

 

それでも、未来にレイネが攻撃される姿が見えた瞬間、身体が先に動いた。

 

自分でも驚くほど怖かった。

 

「ルーデウス様。階段の先をお願いいたします」

 

「はい」

 

「私も行くわ」

 

エリスが続く。

 

「子供たちの保護を優先してくださいませ」

 

「分かってる」

 

船底へ下りる。

 

空気が変わった。

 

汗。

 

汚物。

 

薬品。

 

濃い香料。

 

複数の臭いが混ざり合い、息をするだけで胸が悪くなる。

 

獣族の嗅覚を封じるための薬。

 

子供たちが長い間閉じ込められていた臭い。

 

呼吸をするたび、この場所で何が行われていたのかを突きつけられるようだった。

 

暗い通路の両側に、木製の箱が並んでいた。

 

荷物を入れる箱ではない。

 

内側から引っかいた跡がある。

 

細い爪で、何度も外へ出ようとした跡。

 

それを見た瞬間、胸が締めつけられた。

 

「中にいます!」

 

箱へ駆け寄る。

 

分厚い板には、小さな空気穴しか開いていない。

 

土魔術で錠を外し、扉を開けた。

 

中にいたのは、獣族の子供たちだった。

 

何人も身体を寄せ合い、暗闇の中で震えている。

 

手足には拘束具。

 

口には布。

 

誰一人、まともな服を着せられていない。

 

想像していたよりも、ひどい。

 

人を運ぶための場所ですらない。

 

荷物を詰め込む箱へ、子供を何人も押し込んでいる。

 

「助けに来ました」

 

獣神語で話しかける。

 

だが、子供たちは後ろへ下がった。

 

人族である俺を見て、誘拐犯の仲間だと思ったのだろう。

 

その反応が胸へ刺さる。

 

今すぐ拘束を外したい。

 

だが、怖がっている子供へ無理に手を伸ばせば、さらに追い詰めてしまう。

 

「大丈夫でございます」

 

後ろからレイネが入ってきた。

 

船長は甲板でルイジェルドへ引き渡したらしい。

 

「私どもは、あなた方を外へお連れするために参りました」

 

レイネは膝をつき、無理に近づかない距離から手を差し出した。

 

「お名前をお話しになる必要はございません。まずは、その布をお外ししてもよろしいでしょうか」

 

最も近くにいた犬耳の少女が、僅かに頷く。

 

レイネはゆっくりと猿轡を外した。

 

「ほかの子も……」

 

少女が掠れた声で言う。

 

自分が助かった直後に、ほかの子を心配している。

 

「はい。全員、お助けいたします」

 

レイネは即答した。

 

俺たちは一つずつ箱を開けた。

 

船底に閉じ込められていた子供は、五十人近くいた。

 

一つの箱へ十人以上を押し込まれている場所もある。

 

意識を失っている者。

 

熱を出している者。

 

拘束具が皮膚へ食い込み、血を流している者。

 

食事を与えられていなかったのか、立つことさえできない者。

 

箱を開けるたび、胸の中の怒りが強くなる。

 

こんな状態の子供たちを、船長は商品と呼んだ。

 

正式に買ったと言った。

 

誰かから金を払って受け取れば、何をしてもよいと思っているのか。

 

今すぐ甲板へ戻り、船長を殴りつけたい衝動が湧いた。

 

だが、そんなことをしている時間はない。

 

今は、この子たちを助ける。

 

「エリス、歩ける子たちを階段の近くへお願いします」

 

「任せて」

 

エリスは鞘へ収めた剣を壁際へ置き、両手を空けた。

 

「立てる子は、私のところへ来て。急がなくていいわ」

 

子供たちは最初、怯えた目で見ていた。

 

エリスの声は、普段よりずっと穏やかだった。

 

だが、無理に優しく見せようとはしていない。

 

ただ同じ場所へ立ち、子供が自分から動けるまで待っている。

 

一人の少女がゆっくりと立ち上がった。

 

足元がふらつく。

 

エリスは倒れる寸前に腕を支えた。

 

「大丈夫。ゆっくりでいいわ」

 

少女を階段の近くへ連れていく。

 

それを見た別の子供たちも、少しずつ箱から出始めた。

 

エリスが最初の一人へ無理をさせなかったことで、ほかの子も信じることができたのだろう。

 

俺は拘束具を外し、軽い傷から治療する。

 

一人でも多く、できるだけ早く。

 

焦りで手元を誤らないよう、自分へ言い聞かせる。

 

レイネは重傷者を優先した。

 

胸の音を聞き、腹部へ手を当て、呼吸と脈を確かめる。

 

「こちらのお子様は、すぐに甲板へお運びくださいませ。新鮮な空気が必要でございます」

 

「僕が運びます」

 

助けたい。

 

すぐにこの空気の悪い場所から出してやりたい。

 

そう思って立ち上がりかけたが、レイネは首を横へ振った。

 

「ほかの方へお任せください。ルーデウス様は拘束具をお外しくださいませ。今、この場でそれを最も早く行えるのはルーデウス様でございます」

 

「分かりました」

 

助ける方法は、抱えて運ぶことだけではない。

 

俺がここを離れれば、ほかの子供が拘束されたままになる。

 

自分にしかできない仕事を続ける。

 

焦るほど、目の前の一人だけへ意識を奪われる。

 

だが、全員を助けるためには、それぞれが役割を果たさなければならない。

 

ルイジェルドとギュエスが、制圧を終えて下りてきた。

 

二人は船底の様子を見た瞬間、足を止めた。

 

ギュエスの身体が震えている。

 

「こいつら……」

 

低い声に、殺意が滲んでいた。

 

娘と同じような子供が、何十人も箱へ押し込められている。

 

怒りを抑えることなど、簡単ではない。

 

「生きている方々を運び出してくださいませ」

 

レイネの声が飛ぶ。

 

怒りを向ける先は、後でいい。

 

今は子供たちを助ける。

 

ギュエスは何も言わず、意識を失っている子を抱き上げた。

 

ルイジェルドも、一度に二人を抱える。

 

人目のある甲板へ出る際は、額を隠したまま動かなければならない。

 

それでも、その動きに迷いはなかった。

 

「全員、甲板へ運ぶ」

 

「ああ」

 

二人が何度も階段を往復する。

 

俺は錠を外す。

 

エリスは歩ける子を集める。

 

レイネは治療する。

 

船底には、子供の掠れた泣き声と、俺たちの足音が響いていた。

 

一番奥の箱を開けた時、小さな長耳族の少女が倒れていた。

 

身体が動いていない。

 

胸も上下していない。

 

「レイネ!」

 

自分でも驚くほど大きな声が出た。

 

もう間に合わないのではないか。

 

その恐怖が、一瞬で全身を冷たくした。

 

レイネはすぐに駆け寄った。

 

少女の首へ触れ、胸へ耳を当てる。

 

「心臓は、僅かに動いております」

 

まだ生きている。

 

その言葉だけで、僅かに希望が戻った。

 

レイネの両手から、淡い光が広がった。

 

通常の治癒魔術とは違う。

 

少女の身体を包む光が、胸元へ集まっていく。

 

レイネの表情が僅かに歪む。

 

今まで見た治癒よりも、ずっと難しいことをしているのだろう。

 

「僕も手伝います」

 

「では、呼吸をお願いいたします。肺へ空気を送り込みすぎないよう、ゆっくりと」

 

俺は風魔術を使った。

 

少女の口元から、少量ずつ空気を送る。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

力を入れすぎれば、弱った肺を傷つけるかもしれない。

 

少なすぎれば、呼吸を戻せない。

 

レイネの指示へ集中し、一定の量を送り続ける。

 

少女の胸が、自分の力で僅かに動いた。

 

次の瞬間、弱い咳が漏れる。

 

「息をしました!」

 

喜びで声が上擦った。

 

「はい。もう一度、ゆっくりと」

 

呼吸が続く。

 

まだ弱い。

 

それでも、生きている。

 

胸の奥へ詰まっていたものが、少しだけ解けた。

 

間に合った。

 

本当に、ぎりぎりだった。

 

レイネは少女を抱き上げた。

 

「この方は私がお運びいたします。ルーデウス様は、残る箱をご確認くださいませ」

 

「はい」

 

少女のことは気になる。

 

だが、まだ開けていない箱がある。

 

最後の錠を外す。

 

中にいた三人の子供も、衰弱していたが生きていた。

 

「これで全員です!」

 

俺が叫ぶ。

 

ルイジェルドが船底を見渡す。

 

額の眼で、隠れている気配を確かめているのだろう。

 

「子供は、もういない」

 

その言葉を聞き、ようやく息を吐いた。

 

今度こそ、船内にいた子供は全員見つけた。

 

五十人近い子供たちを、甲板へ運び出した。

 

 

桟橋には、人が集まり始めていた。

 

船から次々と運び出される子供を見れば、騒ぎにならないはずがない。

 

冒険者ギルドの職員。

 

港の責任者。

 

衛兵。

 

獣族の商人や旅人。

 

多くの者が集まり、何が起きているのかを尋ねている。

 

俺たちは帆布を甲板へ広げ、子供たちの身体を隠した。

 

飲み水を少しずつ与える。

 

喉が渇いているのだろう。

 

器へ手を伸ばし、一気に飲もうとする子もいた。

 

だが、長く衰弱した身体へ大量の水や食事を入れることは危険だ。

 

急に食事を与えれば身体へ負担がかかるため、レイネの指示で薄いスープを用意してもらう。

 

子供へ「少しずつ」と伝えながら、器を傾ける。

 

もっと飲ませてやりたい。

 

腹いっぱい食べさせてやりたい。

 

だが、今は我慢させることが命を守ることになる。

 

甲板の端には、捕らえた船員たちが並べられていた。

 

全員が手足を拘束されている。

 

船長もその中にいる。

 

子供たちを商品と呼んだ男たち。

 

顔を見ると怒りが湧く。

 

だが、俺たちが殴らなくても、この後に罪を明らかにし、裁かせる必要がある。

 

ギュスターヴは、冒険者ギルドの責任者と港の最高責任者を前に帳簿を開いた。

 

「この船から救出した子供は、四十七名。先ほどの倉庫にいた者を合わせれば、五十四名だ」

 

五十四名。

 

数字として聞くと、改めて異常な多さを実感する。

 

五十四人の子供が、一つの町から攫われ、売られようとしていた。

 

港の責任者の顔が青ざめる。

 

「これほどの人数が、どうして検査を通った」

 

「我々は知らない!」

 

衛兵の一人が叫ぶ。

 

「積み荷は正規の書類で――」

 

「正規の書類に、子供を貨物として記載するのか」

 

ギュスターヴが帳簿の頁を突きつける。

 

そこには、港の検査を通すために支払った金額と、受け取った役人の印が残っていた。

 

集まった衛兵たちの間に動揺が走る。

 

全員が事件へ関与しているわけではない。

 

知らずに船を通していた者もいるのだろう。

 

だが、内部に協力者がいたことは間違いない。

 

一人の役人が前へ出た。

 

「その帳簿自体が偽物かもしれん。まずはこちらで預かり、調査を――」

 

その言葉を聞き、警戒心が強くなった。

 

本当に調査するためなのか。

 

それとも、証拠を消すためなのか。

 

「お渡しできません」

 

レイネが答えた。

 

役人の視線が鋭くなる。

 

「部外者は黙っていろ」

 

「部外者ではございません」

 

レイネはSランクの冒険者札を示した。

 

「私は最初の倉庫で、七名のお子様とこちらの帳簿を確保した者でございます。帳簿を一か所へ預けた直後に紛失すれば、調査を続けることができなくなります」

 

「港の役人を疑うのか!」

 

「帳簿に、港の役人と思われる方のお名前と印が記されておりますので」

 

レイネの視線が、男の手元へ向く。

 

役人の指には、印章がはめられていた。

 

帳簿に押されている印と、よく似た形をしている。

 

俺は帳簿と男の手を見比べた。

 

確かに似ている。

 

周囲の視線が役人へ集中した。

 

男が手を隠そうとする。

 

その仕草を見た瞬間、疑いが強くなった。

 

「念のため、その印章と帳簿を照合させていただけますか」

 

「断る!」

 

男が後ろへ下がった。

 

その動きだけで、疑いは深まった。

 

やましいことがなければ、照合を拒む必要はない。

 

港の最高責任者が衛兵へ命じる。

 

「その者を拘束しろ」

 

「待て! 私は何も――」

 

衛兵が男の両腕を取る。

 

印章が外され、帳簿の印と並べられた。

 

完全に同じだった。

 

やはり、港の内部に協力者がいた。

 

怒りと同時に、レイネが帳簿を渡さなかったことへの安堵が湧く。

 

あのまま男へ原本を渡していれば、証拠を奪われていた可能性がある。

 

港の責任者が目を閉じる。

 

自分の部下が事件へ関わっていた。

 

その重さを受け止めているように見えた。

 

「関係者を全員拘束する。帳簿に名前のある者が港から出ないよう、門を閉じろ」

 

命令を受け、衛兵たちが動き始めた。

 

全員が腐敗していたわけではないらしい。

 

帳簿へ名前のない衛兵たちは、怒りを露わにしながら仲間だった者を拘束していく。

 

一部が腐っていたからといって、組織全体を敵と決めつけずに済んだことへ、少し安心した。

 

「船員たちの身柄も、港と冒険者ギルドの双方で管理してくださいませ」

 

レイネが言う。

 

「一方だけへ預ければ、証言する前に何かが起きる可能性がございます」

 

口封じ。

 

脱走の手引き。

 

記録の改竄。

 

可能性を考えれば、一つの組織へ任せるのは危険だ。

 

冒険者ギルドの責任者が頷いた。

 

「ギルドからも監視を出す。帳簿は今から三部、写しを作ろう。原本は、デドルディアの代表者が管理してくれ」

 

「承知した」

 

ギュスターヴが答える。

 

子供たちの救助は終わった。

 

誘拐犯も捕らえた。

 

港の協力者へつながる証拠も確保できた。

 

そこまで進んだことへ、安堵はあった。

 

だが、子供たちはまだ家族のもとへ帰れていない。

 

船から救出された四十七人と、倉庫で保護した七人。全員が同じ村の出身というわけではなく、デドルディア族以外の獣族や長耳族の子供も含まれていた。

 

長く閉じ込められていたため、すぐには歩けない者も多い。

 

身体の傷が治っても、帰るための体力が戻っていない。

 

家族の居場所を確認する必要もある。

 

助け出しただけで、終わりではない。

 

ギュスターヴは、甲板で治療を受けている子供たちを見回した。

 

「この人数を、今すぐ森へ連れていくことはできん」

 

「はい。まずは、身体を休めていただく必要がございます」

 

レイネが答える。

 

「衰弱の激しい方は、数日間は移動を避けるべきでございます。お食事につきましても、急に通常の量へ戻すことはできません」

 

子供たちには、薄いスープと少量の水が与えられている。

 

空腹を訴えている者もいたが、レイネは一度に多く食べさせることを許さなかった。長く飢えていた身体へ急に食事を入れれば、かえって命を危険にさらす可能性があるという。

 

苦しんでいる子供へ食事を我慢させるのはつらい。

 

だが、感情だけで与えれば、助けたはずの命を危険にさらしてしまう。

 

「保護する場所は用意できる」

 

ギュスターヴが言った。

 

「この町には、我らの一族が使っている宿と商館がある。五十人を超えるとなれば窮屈にはなるが、屋根の下で休ませることはできる」

 

「冒険者ギルドにも、空いている宿泊所を提供させます」

 

ギルドの責任者が続けた。

 

「治療術師と、子供たちを世話する者も手配しましょう」

 

港の最高責任者も、険しい表情で頷いた。

 

「費用は港が負担する。今回の件は、我々の内部に協力者がいたことが原因だ。少なくとも、子供たちが帰るまでの食事と治療は保証する」

 

責任を認め、必要な費用を負担する。

 

内部へ犯罪者がいた事実を隠すのではなく、対応しようとしている。

 

それなら、今は協力できる。

 

帳簿に名前のない役人や衛兵たちは、既に拘束された者たちの取り調べを始めている。

 

冒険者ギルドからも監視がつき、一方だけで証拠や容疑者を扱わない体制が作られていた。

 

レイネが提案した帳簿の写しも、その日のうちに三部作られることになった。

 

一部はギュスターヴ。

 

一部は冒険者ギルド。

 

残る一部は、港の最高責任者が保管する。

 

原本はギュスターヴが持ち、三者が同時に確認できる状態でなければ、名前のある者を釈放しないことも決まった。

 

少なくとも、簡単に証拠を消すことはできない。

 

「僕たちも、子供たちが落ち着くまでは手伝います」

 

俺が言うと、ギュスターヴはこちらを見た。

 

「ミリシオンへ向かう旅の途中だと聞いたが」

 

「急いではいます」

 

家族の行方は、まだ分からない。

 

一日でも早く先へ進みたい。

 

父さんたちも、どこかで俺を捜しているかもしれない。

 

リーリャやアイシャが危険な目に遭っている可能性もある。

 

立ち止まっている余裕はない。

 

そう思う気持ちは本物だった。

 

けれど、今すぐ出発したところで、目の前の子供たちを気にせず歩けるとは思えなかった。

 

助けた子供が、今夜容体を悪化させるかもしれない。

 

人族へ怯えたまま、知らない者に囲まれるかもしれない。

 

俺たちの姿がなくなったことで、また売られるのではないかと恐れるかもしれない。

 

「ですが、全員が安全な場所へ移るまでは、ここに残ります」

 

「私もよ」

 

エリスが言った。

 

「この子たち、まだ怯えてるもの。助けて終わりなんて駄目だわ」

 

トーナとテルセナは、エリスとレイネの近くから離れようとしない。

 

倉庫から救出されたほかの子供たちも、俺たちの姿が見えなくなると不安そうに周囲を見回していた。

 

信頼しているというより、ほかに頼れる相手がいないのかもしれない。

 

それでも、今俺たちを必要としている。

 

ルイジェルドも、子供たちへ目を向けたまま答える。

 

「俺も残る」

 

それでも、彼が子供を見捨てるはずがないことは、言葉を聞く前から分かっていた。

 

「私も、治療を続けます」

 

レイネが言う。

 

「重傷の方々が安定するまで、責任を持って診させていただきます」

 

全員が同じ結論だった。

 

予定より数日遅れる。

 

それでも、誰一人として子供たちを置いて進もうとは言わなかった。

 

そのことが嬉しかった。

 

俺は、こういう仲間と旅をしている。

 

ギュスターヴはしばらく俺たちを見つめた。

 

やがて、深く頭を下げる。

 

「重ねて礼を言う」

 

「お礼は、ご家族のもとへ戻られてからで十分でございます」

 

レイネが答えた。

 

 

それから三日間、俺たちはザントポートに滞在した。

 

港での取り調べは、冒険者ギルドと獣族の代表者が立ち会う形で進められた。

 

捕らえた船長や誘拐犯の証言から、町の役人だけでなく、複数の商人と船会社が事件へ関わっていたことが分かった。

 

誘拐犯たちは大森林へ入り、村から離れた子供を攫う。

 

港の協力者が検査記録を書き換える。

 

船員が子供たちを貨物として運び、人族の領域で奴隷商へ引き渡す。

 

一つの倉庫だけで完結している事件ではなかった。

 

長い間、多くの人間が関わり、繰り返されていた。

 

俺たちが助けられたのは、今回攫われた子供たちだけだ。

 

既に売られた子供が、どこにいるのかは分からない。

 

その事実を考えると、素直に事件を解決したとは思えなかった。

 

帳簿に名前のあった者は、町から出られないよう拘束され、証言と記録の照合が続けられた。

 

その間、俺たちは子供たちの世話をした。

 

俺とレイネは治療。

 

エリスは食事の配膳や、歩けるようになった子供たちの相手。

 

ルイジェルドは宿の外を警戒し、まだ捕まっていない誘拐犯が近づかないよう見張った。

 

初日は、人族である俺たちを見るだけで怯えていた子供も多かった。

 

治療のために手を伸ばしても、身体を固くする。

 

扉が開けば、逃げる場所を探す。

 

眠っていても、小さな物音で目を覚ます。

 

その反応を見るたび、胸が痛んだ。

 

二日目になると、治療を受ける時に自分から手を差し出すようになった。

 

痛い場所を指し、薬を飲み、水を求めるようになった。

 

少しずつ、俺たちが傷つける者ではないと分かってもらえたのだろう。

 

その小さな変化が嬉しかった。

 

三日目には、食事を終えた子供たちがエリスの周囲へ集まり、剣の話を聞きたがるようになった。

 

「私の剣は、まだ本調子じゃないのよ」

 

エリスは右肩を気にしながら言った。

 

「でも、完全に治ったら、悪い奴なんて全部倒せるわ」

 

「全員?」

 

獣族の少年が尋ねる。

 

「全員よ」

 

「一人で?」

 

「ルーデウスたちもいるけど、私一人でも倒せるわ」

 

いかにもエリスらしい答えだった。

 

子供たちを安心させようとしているのか。

 

単純に自分の強さを誇りたいのか。

 

おそらく両方だろう。

 

「エリス様」

 

レイネが呼ぶ。

 

「無理に強がる必要はございません」

 

「強がってないわよ」

 

「では、右肩が治るまでは、私の指示に従ってくださいませ」

 

「それは別の話でしょう」

 

二人のやり取りを聞き、子供たちが小さく笑った。

 

救出してから、初めて聞いた笑い声だった。

 

その音が耳へ届いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

泣き声でもない。

 

恐怖に震える声でもない。

 

普通の子供の笑い声だった。

 

それを聞いたエリスは反論を忘れ、子供たちへ顔を向けた。

 

「何がおかしいのよ」

 

問い詰める声にも、本気の怒りはない。

 

子供たちはさらに笑った。

 

エリスは少しだけ頬を膨らませたが、最後には自分も笑っていた。

 

その光景を見て、ようやく少しだけ救えたのだと思えた。

 

傷を治しただけではない。

 

この子たちが、笑ってもよい場所へ戻り始めている。

 

 

三日目の夕方には、重傷だった子供たちの容体も安定した。

 

全員を一度に同じ場所へ送るのではなく、出身地ごとに分け、獣族の護衛がそれぞれの村まで送り届けることになった。

 

長耳族の子供たちには、彼らの集落と交流のある商人と冒険者がつく。

 

デドルディア族の村へ戻るのは、トーナとテルセナを含む十数人だった。

 

聖獣も彼女たちと同行する。

 

「お主らは、どこへ向かう」

 

出発の準備をしている時、ギュスターヴが俺へ尋ねた。

 

「最終的にはミリシオンです」

 

「ならば、大森林を抜ける道を通ることになる」

 

「はい」

 

「我らの村までは、同じ方向だ」

 

ギュスターヴはトーナたちを見た。

 

「村へ寄っていかぬか。子供たちを救った恩人を、何もせず送り出すわけにはいかん」

 

デドルディア族の村。

 

ギレーヌの故郷でもある。

 

エリスにとって、ギレーヌは剣の師であり、長い間そばにいた大切な相手だ。

 

村へ行けば、ギレーヌについて何か聞ける可能性もある。

 

ミリシオンまでの安全な道を教えてもらえる可能性もある。

 

俺はエリスたちへ顔を向けた。

 

「どうしますか?」

 

「行くわ」

 

エリスはすぐに答えた。

 

「トーナたちがちゃんと帰るところまで、一緒に行きたいもの。それに、ギレーヌの村でしょう?」

 

「そのはずです」

 

「なら、絶対に行くわ」

 

迷いはないらしい。

 

ルイジェルドも頷く。

 

「子供を村まで送る」

 

レイネは周囲の空と森の様子を確認した。

 

「雨季が始まるまでには、まだ十分な時間がございます。村で長く滞在しなければ、進路への影響も少ないでしょう」

 

「では、決まりですね」

 

俺たちはデドルディア族の護送隊へ加わることになった。

 

 

翌朝。

 

空は晴れていた。

 

湿り気のある風は吹いているが、雨の気配はまだ遠い。

 

港の外には、複数の護送隊が集まっていた。

 

子供たちは出身地ごとに分かれ、それぞれの村へ向かう準備をしている。

 

別れを惜しむ声。

 

無事に帰ろうと励まし合う声。

 

泣きながら抱き合う者もいた。

 

同じ倉庫や船で閉じ込められ、互いに支え合っていたのだろう。

 

出身地が違えば、ここで別れた後、二度と会えない可能性もある。

 

それでも、全員が家族のもとへ帰るための別れだ。

 

悲しいだけのものではない。

 

レイネは一人ずつの身体を最後に確認し、薬と包帯を護衛へ渡した。

 

「熱が出た場合には、こちらを少量ずつお使いくださいませ。傷口が赤く腫れましたら、最も近い町で治療術師をお探しください」

 

「承知した」

 

「食事は、一度に多く与えないようお願いいたします」

 

「必ず守る」

 

護衛の者たちは、何度も頭を下げた。

 

俺も子供たちへ声をかける。

 

「途中で苦しくなったら、我慢せずに言ってください」

 

「うん」

 

「また会える?」

 

長耳族の少女が尋ねた。

 

「旅を続けていれば、どこかで会うかもしれません」

 

「絶対?」

 

すぐに答えられなかった。

 

絶対に会えるとは約束できない。

 

俺たちは旅を続ける。

 

少女がどこへ帰るのかも、今後どのような生活をするのかも分からない。

 

ここで安心させるためだけに、守れるか分からない約束をするべきではない。

 

「絶対とは言えません」

 

少女の顔が曇る。

 

正直に答えたことは間違っていない。

 

それでも、これで終わりにしたくはなかった。

 

俺は少し考え、言い直した。

 

「でも、会えるように僕も旅を続けます」

 

どこかで再会できる可能性を捨てない。

 

俺も生きて旅を続ける。

 

その程度の約束なら、できる。

 

少女は小さく頷いた。

 

各護送隊が、順番にザントポートを出発していく。

 

最後に残ったのは、デドルディア族の一行だった。

 

先頭にはギュスターヴとギュエス。

 

中央にトーナ、テルセナを含む子供たち。

 

その周囲を獣族の戦士たちが守る。

 

聖獣は子供たちのそばにいたが、俺を見ると走ってきた。

 

「どうしたんですか?」

 

大きな鼻先が胸元へ押しつけられる。

 

お守りの辺りを嗅いでいる。

 

次の瞬間、顔を舐められた。

 

「うわっ!」

 

避ける暇もなかった。

 

顔全体が温かい唾液で濡れる。

 

エリスが声を上げて笑う。

 

「またやられてるわ!」

 

「笑っていないで、布を取ってください」

 

レイネが既に布を差し出していた。

 

「こちらをお使いくださいませ」

 

「ありがとうございます」

 

顔を拭いている間も、聖獣は俺のそばから離れない。

 

好かれていることは嬉しい。

 

理由が分からないことには、少し不安もある。

 

「聖獣様は、お主を気に入ったようだな」

 

ギュスターヴが言った。

 

「助けたからでしょうか」

 

「それだけではあるまい」

 

老人はそう言ったが、理由までは説明しなかった。

 

胸元のお守りと関係があるのか。

 

俺自身の魔力を感じ取っているのか。

 

気にはなるが、今すぐ答えが出るものでもない。

 

出発の時刻になる。

 

俺たちは隊列へ加わった。

 

ギュスターヴとギュエスは正体を知っているが、ほかの獣族や子供たちへ明かす必要はない。

 

俺とルイジェルドが最後尾。

 

エリスとレイネは、トーナたちの近くを歩く。

 

レイネは子供たちの体調を確認し、エリスは疲れた者の荷物を持った。

 

「エリス様。右肩へ負担をかけないよう、左手でお持ちくださいませ」

 

「これくらいなら平気よ」

 

「左手でお願いいたします」

 

「……分かったわ」

 

エリスは素直に荷物を持ち替えた。

 

数日前までなら、さらに言い返していたかもしれない。

 

子供たちの前だからという理由もあるだろう。

 

それでも、レイネの指示を受け入れ、自分の身体を大切にしようとしている。

 

ザントポートの門を抜ける。

 

目の前には、深い緑に覆われた大森林が広がっていた。

 

魔大陸の荒れた土地とはまるで違う。

 

木々が密集し、湿った空気が流れてくる。

 

雨季は、まだ始まっていない。

 

森を進む道も、川を渡るための橋も使える。

 

思い返してみれば、ウェンポートで長く足止めされることもなく、ザントポートで起きた事件も数日のうちに解決できた。

 

海を渡る前には、もっと多くの時間がかかると思っていた。それを考えれば、俺たちの旅は予想していたよりもずっと早く進んでいる。

 

もちろん、単に運がよかっただけではない。

 

レイネがルイジェルドの渡航を助けた。

 

キシリカとは、人神から助言を受けるよりも先に出会った。

 

倉庫へ一人で入らず、四人で子供たちを助けた。

 

その一つ一つの選択が、余計な足止めを避け、俺たちをここまで運んでくれたのだ。

 

人神の助言には、確かに事実が含まれていた。

 

だが、一人で倉庫へ入れという指示には従わなかった。

 

その結果、誰一人死なせず、子供たちと聖獣を助け、事件の証拠まで確保できた。

 

自分だけで判断しなかったからこその結果だ。

 

仲間へ話した。

 

皆で確認した。

 

役割を分けて動いた。

 

以前の俺なら、一人で最善の答えを出そうとしていたかもしれない。

 

今は、誰かを頼ることも、自分の役割を果たすことも、どちらも必要だと分かる。

 

けれど、早く進めているからといって、油断していいわけではない。

 

家族の行方は、まだ分からない。

 

人神が次に何をするのかも分からない。

 

レイネが抱えている秘密も、多く残されている。

 

人神から自分を隠す秘術。

 

蘇生のお守り。

 

ルイジェルドを以前から知っていた理由。

 

どれも気になる。

 

それでも、今すぐすべてを聞き出そうとは思わなかった。

 

俺は前を歩く白い髪を見た。

 

レイネはトーナの手を引きながら、歩調を合わせている。

 

その隣では、エリスがテルセナと何かを話していた。

 

ルイジェルドが俺の横を歩く。

 

銀色の聖獣は、子供たちと俺たちの間を行き来していた。

 

疑問も不安も残っている。

 

それでも、今は一人ではない。

 

この三人と一緒なら、分からないことがあっても、自分たちで確かめながら進める。

 

「行きましょう」

 

俺が言う。

 

「ああ」

 

ルイジェルドが答えた。

 

俺たちは雨季が始まるよりも前に、デドルディア族の村へ向けて大森林へ足を踏み入れた。

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