ルーデウス視点
デドルディア族の村を出てから、半日ほどが経過した。
馬車は大森林の中を南へ進んでいる。
村の周辺では獣族の手によって道が整えられていたが、離れるにつれて地面を覆う植物の量が増えてきた。左右から伸びた枝が荷台の屋根を擦り、湿った葉が幾度となく肩や頬へ触れる。
空はほとんど見えない。
頭上を埋め尽くす枝葉の隙間から、細い光が差し込んでいるだけだ。
振り返っても、デドルディア族の村は既に見えなかった。
トーナやテルセナ、銀色の聖獣と別れたのは、まだ今朝のことだ。それでも深い森を進んでいると、あの村で過ごした数日が随分と遠い出来事のように感じられる。
子供たちは家族のもとへ帰った。
ギュエスには、ギレーヌへ伝えたい言葉ができた。
俺たちも、また家族を捜す旅へ戻った。
寂しさは残っているが、立ち止まってはいられない。
「もうすぐ着くぜ」
御者台でルイジェルドの隣へ座っていたギースが、前方を指した。
木々の間から、一本の白っぽい道が見え始めている。
大森林の地面とは明らかに色が違う。
周囲には濡れた落ち葉や苔が広がっているのに、その道の上だけは土が乾き、草も生えていなかった。
馬車が森の道を抜け、その上へ乗る。
車輪が沈まない。
揺れも、それまでより明らかに小さくなった。
枝や根を踏むたびに荷台が跳ねていた先ほどまでとは違い、身体へ伝わる振動が一気に穏やかになる。
「ここが聖剣街道か」
ルイジェルドが周囲を見回す。
「そういうこと。ここまで来りゃ、ミリシオンまでは道を外さなきゃいい」
ギースは得意そうに胸を張った。
「魔物も寄りつかねえ。雨が降っても道は沈まねえ。馬車二台がすれ違える幅もある。聖ミリス様々ってやつだな」
エリスが荷台の後ろから身を乗り出した。
「本当に魔物が出ないの?」
「ああ。街道の上へは、まず出ねえ」
「一匹も?」
「長年使われてる道だから、絶対とは言わねえがな。少なくとも、俺はここで魔物に襲われたことはない」
エリスの顔に、僅かな不満が浮かんだ。
肩が治り、剣の訓練へ戻った直後である。
少しくらい戦う機会が欲しかったのだろう。
「つまらないわね」
「安全なのはいいことですよ」
「分かってるわよ」
エリスは答えながらも、街道の左右へ目を凝らしていた。
魔物が道路へ出ないなら、自分から森へ入ればいいなどと考えていなければよいのだが。
エリスの横顔を見ていると、十分にありそうな考えだった。
「エリス様」
レイネが名前を呼ぶ。
「何よ」
「街道から離れることはお控えくださいませ」
「まだ何もしてないわ」
「はい。ですので、お願いだけ申し上げました」
「……分かってるわよ」
先回りされたエリスは、不満そうに腕を組んだ。
やはり、森へ入るつもりだったらしい。
問い詰められたわけでもないのに、図星を刺された時の顔をしている。
ギースが喉の奥で笑う。
「姉ちゃん、エリスの扱いに慣れてるねえ」
「長くお仕えしておりますので」
「俺なら、あんな目で睨まれたら何も言えねえぜ」
「ギース。聞こえてるわよ」
「おっと」
ギースは頭を引っ込め、ルイジェルドの陰へ隠れた。
ルイジェルドは無言でギースを押し返す。
「俺を盾にするな」
「旦那なら、エリスの一発ぐらい平気だろ?」
「そういう問題ではない」
馬車の中に、小さな笑いが広がった。
エリスも本気で怒っているわけではなく、鼻を鳴らしただけだった。
ギースが加わったことで、俺たちの旅には以前より会話が増えている。
調子のいい言葉。
軽い冗談。
憎めない態度。
それだけを見ていれば、警戒する必要などないように思えてしまう。
レイネだけは笑みを浮かべながらも、ギースの動きを注意深く見ている。
村を出てからも、警戒は変わっていない。
ギースが御者台へ座れば、レイネは荷台の前方へ移る。
食料を確認すれば、後から同じ数を確かめる。
道について説明を受けても、その場で地図と照合する。
露骨に疑っているわけではない。
ギースの提案が正しければ、そのまま受け入れる。
だが、確認を省くことだけはなかった。
ギースも、それに気づいているはずだ。
それでも文句は言わない。
時折「信用がねえな」と冗談を口にするだけで、見られることを拒まなかった。
本当に何も企んでいないから、好きなだけ確認させているのか。
見られても困らない範囲だけを見せているのか。
今の俺には判断できない。
今のところ、旅は問題なく進んでいた。
◇
最初の野営地は、街道の脇へ作られた小さな休憩所だった。
石造りの屋根と、馬をつなぐための柱。
旅人が火を使った跡も残っている。
街道を利用する者たちが、繰り返し使ってきた場所なのだろう。
「今日はここだな」
ギースは馬車から下りると、周囲の土を靴先で確かめた。
次に風向きと木々の状態を見て、屋根の一角を指す。
「馬は向こう側へつなぐ。夜中に雨が来ても、風は森側から吹く。荷物は屋根の中央へ寄せときゃ濡れねえよ」
レイネも空を見上げた。
「雲は北東から流れておりますね」
「ああ。夜半には降るかもしれねえ」
「街道へ水が流れ込む可能性はございますか?」
「ここは平気だ。森より少し高く作ってある」
レイネは周囲を一度歩き、地面の傾斜を確認した。
「問題ございません」
「お墨付きをもらえて光栄だねえ」
ギースが大げさに頭を下げる。
レイネは反応せず、馬車から調理道具を下ろし始めた。
「本日のお食事は、どちらが用意なさいますか?」
「俺がやる。姉ちゃんは休んでな」
「お手伝いいたします」
「俺の腕を見張るためか?」
「役割を分担するためでございます」
「そういうことにしておこうかね」
二人は並んで夕食の準備を始めた。
ギースが肉と野菜を切り、レイネが水や火を用意する。
作業の手順を相談する声だけを聞けば、長く旅をしてきた仲間のようだった。
だが、互いの手元を確認する視線は鋭い。
ギースが香草を入れると、レイネは匂いを確かめる。
レイネが水を加えると、ギースが鍋の中を覗く。
毒を疑っているのか。
味つけを気にしているだけなのか。
俺には判断できなかった。
二人とも笑っているのに、どこか息苦しい。
ギースが人神の使徒であると知らなければ、単に料理へこだわる者同士だと考えただろう。
今は、何気ない動作の一つひとつに別の意味があるように見えてしまう。
「レイネ」
俺が呼ぶ。
レイネはこちらへ顔を向ける。
「はい。いかがなさいましたか?」
「何か手伝うことはありますか?」
「では、食器をご用意いただけますか」
「分かりました」
馬車へ戻り、全員分の器を取り出す。
五人分。
少し前までは四人分だった。
俺。
エリス。
ルイジェルド。
レイネ。
そこへ、ギースの分が加わっている。
ギースはパーティの正式な一員ではないと言っている。
だが、同じ馬車で移動し、同じ食事を取り、同じ場所で眠る以上、今は旅の仲間として扱うべきだろう。
もちろん、警戒は続ける。
レイネとの約束もある。
それでも、人神の使徒だからという理由だけで、何もしていない相手を最初から悪人として扱うことはできなかった。
警戒と敵意は、同じではない。
その線を見失えば、俺自身が人神に怯え、目の前にいる相手を見なくなってしまう。
「先輩」
ギースが鍋をかき混ぜながら呼びかけてきた。
「何ですか?」
「ミリシオンへ着いたら、最初にどこへ行くつもりだ?」
「まずは宿を取ります。それから冒険者ギルドで情報を集めるつもりです」
「家族のことか?」
「はい」
ギースの手が、ほんの僅かに止まった。
すぐにまた鍋をかき混ぜ始める。
見落としてもおかしくないほど小さな変化だった。
だが、警戒していたからこそ気づいた。
「家族は、アスラ王国にいるのか?」
「僕たちが転移した時には、ブエナ村にいました」
「父親の名前は?」
何気ない質問のように聞こえた。
だが、レイネの手が止まった。
鍋の横へ並べていた香草を持ったまま、ギースを見ている。
ギースは笑顔を崩さなかった。
俺は少し考えた。
父親の名前まで隠す必要があるだろうか。
人神や秘術とは関係のない情報だ。
それに、冒険者ギルドで家族を捜す以上、いずれ名前を出すことになる。
「パウロ・グレイラットです」
ギースの目が、僅かに細くなる。
「へえ。パウロ、ねえ」
その言い方には、初めて耳にした名前への反応とは違うものがあった。
「知っているんですか?」
「冒険者を長くやってりゃ、名前ぐらい聞くことはあるさ」
嘘ではないのかもしれない。
パウロは元Sランク冒険者だ。
黒狼の牙という有名なパーティにも所属していた。
だが、単に名前を聞いただけの反応には見えなかった。
「どのような話を聞いたんですか?」
「女癖が悪くて、剣の腕はそこそこ。仲間をまとめるのは上手いが、時々自分で全部ぶち壊す男だってな」
かなり具体的だった。
父さんを知っている俺から見ても、妙に納得できる評価である。
剣の腕がそこそこという部分には父さんが反論しそうだが、それ以外は否定しにくい。
「本当に、名前を聞いただけですか?」
「その辺は、ミリシオンへ着いてから話してやるよ」
ギースは口元を歪めた。
「俺にも、昔の付き合いってもんがあるからな」
昔の付き合い。
つまり、父さんと直接会ったことがあるのだろうか。
ギースは以前、ルイジェルドにも助けられたと言っていた。
父さんとも関係がある。
偶然にしては、俺たちの周囲の人物と繋がりすぎている。
人神が、俺へ近づかせるために最適な相手を選んだのではないか。
そんな疑いが浮かぶ。
俺がさらに尋ねようとした時、レイネが間へ入った。
「お食事が冷めてしまいます」
ギースがレイネを見る。
「そうだな」
話はそこで終わった。
レイネは器へ料理を分けながら、俺へ小さく首を横へ振った。
今は深く尋ねるな、という意味だろう。
周囲に全員がいるとはいえ、ギース本人の前だ。
焦って問い詰めても、相手が話したくないことまで聞き出せるとは限らない。
むしろ、こちらが何を知りたがっているのかを教えることになる。
俺は頷き、受け取った器をエリスとルイジェルドへ運んだ。
父さんとギースの関係は気になる。
だが、今は待つ。
以前の俺なら、答えが出るまで質問を重ねていたかもしれない。
今は、尋ねる時を選ぶ必要があると理解していた。
◇
夜半。
屋根を叩く音で目が覚めた。
雨だ。
弱い雨ではない。
大粒の水が、絶え間なく屋根へ落ちている。
音だけでも、外へ出れば一瞬で全身が濡れるほどの雨だと分かる。
身体を起こし、外を見る。
街道の左右に広がる森は、暗闇の中で激しく揺れていた。
葉から水が流れ、地面には細い川がいくつもできている。
それなのに、街道の上には水が溜まっていない。
落ちてきた雨が、地面へ触れた直後に左右へ流れていく。
目に見えない何かが、道の形を守っているようだった。
これが聖剣街道を守る力なのだろう。
長い年月を経ても失われず、雨と森から道を守り続けている。
「起きたか」
ルイジェルドの声がした。
屋根の端で、外を見張っている。
「交代には、まだ早い」
「雨音で目が覚めました」
俺はルイジェルドの隣へ座った。
森の奥は何も見えない。
雨の音が強すぎて、普段なら聞こえる生き物の声も消えている。
すぐそばにルイジェルドがいるのに、二人だけが暗い水の中へ取り残されたような感覚だった。
「雨季が始まったのでしょうか」
「まだ分からん」
ルイジェルドは森を見つめたまま答えた。
「一度の雨で判断はできない。だが、近いのは確かだ」
あと数日遅ければ、村から出られなくなっていたかもしれない。
ザントポートで子供たちを助け、村で一日を過ごした。
それでも、まだ先へ進めるだけの時間が残っている。
「間に合いましたね」
「ああ」
「子供たちも帰せました」
「ああ」
ルイジェルドの返事は短い。
だが、その横顔には満足が見えた。
村まで子供を送り届けたことを、後悔してはいない。
俺も同じだ。
雨季を避けるためだけなら、ザントポートからすぐに南へ向かうこともできた。
だが、それではトーナたちが家族へ帰るところを見届けられなかった。
ギュエスがギレーヌの今を知ることもなかった。
少し遠回りをした。
それでも、必要な遠回りだったと思う。
「ルーデウス」
「はい」
「ギースを、どう思う」
突然の問いだった。
雨音の中で、ルイジェルドは俺を見ずに尋ねてきた。
少し考える。
警戒している。
役に立つとも思っている。
父さんとの関係も気になる。
一言では答えられなかった。
「分かりません」
俺は正直に答えた。
「人神の使徒だと聞いています。でも、今のところ僕たちへ危害を加えていません。旅の役にも立っています」
「レイネは殺すことも考えたそうだな」
「聞いていたんですか?」
「気配で分かる」
ルイジェルドは宴の場で、レイネが武器へ手を伸ばしたことに気づいていたらしい。
俺が見落としかけた動きさえ、ルイジェルドには分かっていた。
「今は、止めています」
「お前が止めたのか」
「僕がいたことも、理由だと言っていました」
ルイジェルドは黙った。
雨の向こうへ目を向ける。
「レイネは、お前を守ることを優先している」
「はい」
「だが、守るためなら、何をするか分からん」
否定できない。
レイネは穏やかだ。
子供たちへ優しく、俺やエリスの世話をし、他人の命も可能な限り助けようとする。
一方で、人神とその使徒に対しては、全く異なる顔を見せる。
俺を守るためなら、ギースを何の説明もなく殺すことさえ考えた。
いつも冷静に見えるレイネが、人神に関わることだけは判断を急ぐ。
それほど深い理由があるのだろう。
「それでも、僕はレイネを信じています」
信じるという気持ちは変わらない。
レイネが俺を傷つけようとしているとは思わない。
だが、信じることと、すべての判断を任せることは違う。
「分かっている」
ルイジェルドは俺を見た。
「だからこそ、お前が見ていろ」
「僕が?」
「レイネが一人で決めなくてもいいようにだ」
俺は、その言葉の意味を考えた。
レイネは強い。
知識も経験も、俺たちよりはるかに多い。
それでも、何もかもを一人で決めてよいわけではない。
誰かを殺すか。
誰かを信じるか。
その判断を、彼女だけへ背負わせてはいけない。
レイネが俺を守ろうとするなら、俺もレイネが一人で危険な判断をしないように見ていなければならない。
止めるだけではない。
なぜそうしようとしたのかを聞く。
レイネが恐れているものを、俺も一緒に考える。
それが、俺にできることなのだろう。
「分かりました」
俺は頷いた。
「ギースのことも、自分で見ます。レイネが何かしようとした時も、理由を聞きます」
「ああ」
雨は夜明け近くまで続いた。
街道の上には、最後まで水が溜まらなかった。
◇
その後の道のりは、驚くほど順調だった。
聖剣街道では魔物と一度も遭遇しなかった。
獣の気配は街道の外にある。
ルイジェルドは何度か森の奥へ視線を向けたが、こちらへ近づいてくるものはいなかった。
魔物を寄せつけないというギースの説明は、本当だったらしい。
エリスは戦う機会がないことへ不満を漏らしたものの、街道から外れることはなかった。
その代わり、朝と夕方に訓練を行う。
木剣を振り、ルイジェルドやレイネと足運びを確認し、時折俺にも模擬戦を要求した。
俺は毎回付き合ったわけではない。
エリスの体力に合わせていたら、ミリシオンへ到着する前に俺だけが倒れてしまう。
断るたびに不満そうな顔をされたが、レイネかルイジェルドが代わりに相手をすれば、すぐに機嫌を直していた。
ギースは料理と道案内を担当した。
野営地へ到着すると、最初に水場と風向きを確かめる。
使える香草を見つけ、保存食を食べやすい料理へ変える。
危険な場所を避ける判断も早く、少なくとも旅人としての知識は本物だった。
レイネは全てを任せきりにはしなかったが、ギースの判断に問題がないと分かると、少しずつ仕事を渡すようになった。
最初は何度も確認していた食料の数も、数日後にはギースが記録したものを一度見るだけになった。
完全に信用したわけではない。
だが、正しい仕事まで疑い続け、すべてを自分でやり直すこともなかった。
「今夜の見張りは、私が最初に行います」
三日目の夜、レイネが言った。
「料理と野営の準備をギース様へお任せできましたので、体力に余裕がございます」
ギースへ仕事を渡したことで、レイネが実際に休める時間は増えている。
そのことには、俺も安心していた。
「俺にも見張りをやらせろよ」
ギースが口を挟む。
「ギース様は戦闘ができないと、ご自身でおっしゃっていたのでは?」
「異変を知らせるぐらいはできる」
「一人での見張りは認められません」
「なら、姉ちゃんと一緒でいい」
レイネの笑顔が僅かに薄くなった。
「私と、でございますか?」
「何もしねえよ。そんなに怖い顔をするな」
「笑っておりますが」
「その笑顔が怖いんだよ」
ギースは両手を上げた。
冗談めかしているが、レイネと二人きりになる危険は本人も理解しているのだろう。
結局、ギースはレイネと二人ではなく、ルイジェルドとの交代時間に補助として起きることになった。
ギースも、それ以上は食い下がらなかった。
レイネと二人きりになることを、本気で望んでいたわけではないのだろう。
それから数日。
街道は青竜山脈の間へ入った。
左右には巨大な岩壁がそびえている。
空を見上げても、細い青色しか見えない。
馬車二台がすれ違える程度の道が、山を真っ二つに割るように続いていた。
見上げるほど、岩壁がこちらへ倒れ込んでくるような圧迫感を覚える。
魔大陸では広い荒野を進むことが多かっただけに、逃げ場のない細い谷を進むのは落ち着かなかった。
「落石はないの?」
エリスが頭上を見上げながら尋ねる。
「ほとんどねえよ」
ギースが答えた。
「街道を守ってる力は、魔物を追い払うだけじゃねえ。岩が崩れるのも抑えてるって話だ」
「崩れたら、ルーデウスが何とかするわ」
「私ではないんですか?」
思わず聞き返した。
「ルーデウスなら、岩を砕いたり道を作ったりできるでしょう?」
「確かに、できますが」
「なら大丈夫よ」
エリスの信頼はありがたい。
だが、山そのものが崩れた場合まで俺一人へ任せないでほしい。
どれほど魔術が使えても、頭上から山が落ちてきた後で安全に砕ける自信はない。
「大規模な崩落が起きた場合は、全員で退避いたします」
レイネが冷静に補足した。
「道を直すのは、安全を確保した後でございます」
「分かってるわよ」
エリスは最初からそのつもりだったと言いたげに答えた。
本当に分かっていたかは怪しい。
青竜山脈の谷を抜けるまで、三日ほどかかった。
最後の岩壁を越えた時、視界が一気に開けた。
森は後方へ遠ざかり、目の前には広い草原が伸びている。
人族の生活圏だ。
地面には馬車の轍がいくつも残り、遠くには畑や小さな集落が見えた。
魔大陸で見てきた町とも、大森林の集落とも違う。
見慣れた人族の生活の跡が広がっている。
それだけで、故郷へ近づいたような感覚が胸へ湧いた。
まだアスラ王国ではない。
家族の居場所も分からない。
それでも、確実に進んでいる。
エリスが大きく息を吸う。
「空が広いわ!」
「魔大陸も広かったでしょう」
「森と山の後だから、もっと広く見えるのよ」
確かに、そのとおりだった。
頭上を覆っていた葉も、左右へ迫っていた岩壁もない。
青い空が地平線まで続いている。
振り返る。
青竜山脈の北側には、暗い雨雲が掛かっている。
大森林は、既に雨の中へ沈み始めていた。
俺たちは、雨雲より先へ出ることができたのだ。
あと少し遅れていれば、長期間足止めされていたかもしれない。
子供たちを助けた。
村まで送り届けた。
それでも雨季より先へ出られた。
選んできたことは、無駄ではなかった。
前方の草原へ顔を戻す。
この先にミリシオンがある。
そこへ行けば、家族の情報が見つかるかもしれない。
期待すれば、何も見つからなかった時につらくなる。
それでも、期待せずにはいられなかった。
◇
パウロ視点
目を覚ました時、オレは草原にいた。
どこにでもありそうな、何の変哲もない草原だった。
朝露に濡れた草が頬へ触れ、遠くには低い山並みが連なっている。最初は見知らぬ場所だと思ったが、身体を起こして周囲を見回しているうちに、その山の形へ覚えがあることに気づいた。
アスラ王国南部。
かつて水神流を学ぶために滞在していた町の近くだ。
リーリャの故郷からも、それほど離れていない。
なぜ、ブエナ村の家にいたはずのオレが、こんな場所にいる。
寝ぼけているのかと思った。
だが、頬へ触れる草の冷たさも、土の匂いも、妙にはっきりしている。
夢ではない。
そう考えたところで、胸元から小さな声が聞こえた。
「……おとうさん?」
視線を下げる。
ノルンが、オレの服を握っていた。
白い光に包まれる直前、オレは家の中でノルンを抱き上げていた。その姿勢のまま転がったらしく、ノルンはオレの胸へしがみついている。
「大丈夫だ」
反射的に答え、ノルンの頭を撫でた。
「父さんがいる」
自分へ言い聞かせるような言葉でもあった。
ノルンの身体には温もりがある。
怪我も見当たらない。
泣いてはいるが、受け答えもできている。
そのことへ安堵した直後、周囲に誰もいないことが改めて目へ入った。
ゼニスも。
リーリャも。
アイシャも。
家も、村も、先ほどまで周囲に存在していたものが、何一つない。
転移。
冒険者時代、迷宮で転移の罠に掛かった時のことを思い出した。
同じ場所にいた者が、必ず同じ転移先へ送られるとは限らない。魔法陣を踏んだ位置や、発動した瞬間に接触していた者によっては、仲間が別々の場所へ飛ばされることもある。
ノルンがオレと一緒にいるのは、抱いていたからかもしれない。
では、ゼニスたちは。
別の場所へ転移したのか。
それとも、オレとノルンだけが飛ばされ、残る三人はブエナ村にいるのか。
考えても答えは出なかった。
胸の奥から、最悪の想像が次々に湧いてくる。
だが、ノルンの前で取り乱すわけにはいかない。
この子が不安そうにオレを見ている。
「おうち、かえる?」
ノルンが尋ねた。
「ああ」
オレは迷わず答えた。
「すぐに帰る」
本当にすぐ帰れるかは分からない。
それでも、今はそう答えるしかなかった。
今いる場所には覚えがある。
近くの町まで行けば、帰る手段も用意できる。
幸い、腰には剣があった。冒険者時代からの癖で、家にいる時にも剣だけは身につけている。鞘へ取りつけた小さなホルダーには、非常時のためのアスラ金貨と、長く更新していない冒険者札も入っていた。
何も持たずに飛ばされたわけではない。
場所も分かる。
ノルンも無事だ。
なら、帰れる。
そう信じるための材料を、一つずつ頭の中へ並べた。
ノルンを抱き直し、記憶にある方角へ歩き始めた。
◇
町へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
門兵へ冒険者札を見せ、町へ入る。
最初に向かったのは、冒険者ギルドだった。
アスラ金貨を両替する。
受け取ったのは、銀貨九枚と大銅貨八枚。
昔より手数料が上がっていたが、文句を言っている場合ではない。
壁に並ぶ依頼書を確認する。
フィットア領へ向かう依頼はなかった。
乗合馬車について尋ねると、次の便が出るのは二日後だという。
待てなかった。
二日あれば、何が起きるか分からない。
ゼニスたちが村に残っているなら、早く無事を確かめたい。
別の場所へ転移しているなら、何が起きたのかを知り、一刻も早く捜し始めなければならない。
ほかに早く移動する方法はないかと受付嬢へ尋ねたところ、緊急の配達依頼が一件残っていた。
目的地はフィットア領とは別方向。
本来ならE級の冒険者が受けるような依頼だ。
それでも、緊急配達依頼を受ければ、ギルドが管理している馬を借りられる。
「これを受ける」
依頼書を受付台へ置く。
受付嬢は、文字の消えかけた冒険者札へ魔力を通した。
浮かび上がったSの文字を見て、驚いたようにオレを見返す。
「S級の方が、こちらの依頼を?」
「急いで移動する必要がある」
「ですが、この依頼は――」
「受けられないのか?」
「いえ。緊急依頼ですので、等級に関係なく受けられます」
手続きを済ませる。
S級冒険者には、緊急依頼を受けた場合、ギルド所有の馬を無償で借りられる特典がある。
もちろん、依頼を達成した時点で返却しなければならない。
だが、オレが向かうのは配達先とは反対方向だ。
依頼人には悪いと思う。
資格を剥奪される可能性もある。
それでも、家族の方が大事だった。
正しい行為ではないことは分かっている。
だが、今は正しく評価されることより、家族のもとへ帰ることしか考えられなかった。
銀貨一枚で水袋、保存食、毛布、ノルン用の外套をそろえる。
支度を終える頃には、厩舎から一頭の馬が連れてこられていた。
緊急配達へ使われるだけあって、よく鍛えられた名馬だった。
先にノルンを鞍へ乗せる。
その後ろへ自分も乗り、片腕で小さな身体を支えた。
「少し揺れるぞ」
「うん」
「怖かったら言え」
ノルンが頷く。
町を出た。
配達先へ続く道を進んだのは、門から見えなくなるまでだった。
最初の分岐へ着くと馬の向きを変え、フィットア領へ続く道へ入った。
依頼を捨てた。
だが、罪悪感を振り返る余裕すらなかった。
今は、一刻も早く帰らなければならない。
その考えだけが、頭の中を支配していた。
◇
オレは急いだ。
昼も夜も、馬が動ける限り進んだ。
休憩は、馬へ水と餌を与える時だけ。
ノルンはオレの前へ座り、何も言わずに揺られ続けていた。
「大丈夫か?」
何度か尋ねた。
そのたびに、ノルンは「大丈夫」と答えた。
だから、オレは進んだ。
大丈夫だと言っている。
泣いてもいない。
なら、まだ進める。
そう考えた。
いや、そう考えたかった。
だが、途中でノルンが体調を崩した。
熱を出し、食事を受けつけなくなった。
乗馬の経験もない三歳の子供を、昼夜を問わず馬へ乗せ続けたのだ。今になって考えれば、こうなるのは当然だった。
「どうして言わなかった」
思わず尋ねると、ノルンは熱に浮かされた目でオレを見た。
「おとうさん、いそいでたから……」
何も言えなくなった。
オレは何度も、大丈夫かと尋ねた。
だが、本当にノルンの状態を知ろうとしていたのか。
大丈夫だと言ってほしかっただけではないのか。
ノルンが「つらい」と答えれば、足を止めなければならない。
それを分かっていたから、言葉だけを尋ね、顔色や身体の状態をまともに見ようとしていなかったのではないか。
以前、ルーデウスをロアへ送り出す件で、レイネと決闘した時のことを思い出した。
オレは、ルーデウスのためだと思っていた。
父親である自分の判断が正しいと信じ、本人が断れない形で話を進めようとした。
レイネは、そんなオレを力で押さえつけた。
言葉を聞かれない側。
拒否する余地を与えられない側。
正しさを理由に、相手の意思を踏み潰される側。
その感覚を、身体へ刻み込まれた。
少しは学んだつもりだった。
だが、焦れば簡単に元へ戻る。
ノルンは、父親が急いでいると分かっていた。
だから、苦しくても大丈夫だと答えた。
それを、進んでもよいという同意として扱ってしまった。
三歳の子供へ、父親を止める責任を押しつけていた。
「悪かった」
ノルンを抱き上げる。
熱い。
小さな身体が、オレの腕の中で力なく預けられている。
自分が急がせた結果だと思うと、胸が抉られるようだった。
「もう無理はさせない」
フィットア領へ急ぐことは諦めなかった。
だが、ノルンの看病を優先した。
町へ寄り、治療を受けさせる。
馬車を使い、夜には休ませる。
食事を取れるようになるまで、移動を止める。
結果として、フィットア領へたどり着くまでに二か月近く掛かった。
最初から馬車を使っていた方が早かったかもしれない。
焦った結果、ノルンを苦しめ、かえって到着を遅らせた。
配達依頼は、とっくに失敗になっている。
冒険者札を使えなくなっていても不思議ではなかった。
それでも、そんなことを気にする余裕はなかった。
ブエナ村へ着くより先に、何が起きたのかを知ってしまったからだ。
フィットア領が消滅していた。
◇
最寄りの町で馬を返し、情報を集めた。
転移災害は、フィットア領のほぼ全域で発生していた。
人間だけではない。
建物も、道も、畑も、街を構成していたものまで、まとめて消えている。
各地で発見された領民の証言から、死亡ではなく、広範囲へ転移させられた可能性が高いと判断されていた。
死亡ではない。
その言葉へ縋りつきたかった。
だが、転移した先が安全だという保証はない。
魔物の群れ。
海の上。
砂漠。
迷宮。
人が生きられない場所へ飛ばされた可能性もある。
フィリップも。
サウロスも。
行方不明。
城塞都市ロアも消えている。
ルーデウスは、エリスの家庭教師としてロアへ行っていた。
レイネも、ルーデウスの侍女として一緒にロアへ移っている。
転移が起きた瞬間に、ルーデウスとエリスとレイネが同じ場所へいたかどうかまでは分からない。
だが、三人とも転移範囲の中にいた可能性は高かった。
保護された者の名簿を見せてもらう。
ゼニス。
いない。
リーリャ。
いない。
アイシャ。
いない。
ルーデウス。
いない。
レイネ。
いない。
名前を探すたび、見つからないことへ安堵と絶望が同時に湧いた。
死亡者の名簿ではない。
保護された者の名簿だ。
ここにいないということは、生きてどこかにいる可能性が残っている。
同時に、今も危険な場所へいる可能性もある。
ギレーヌも、エリスも、シルフィも見つかっていなかった。
ブエナ村があった場所まで向かった。
何もなかった。
壊れた家さえ残っていない。
建物も畑も木々も、最初からそこに何もなかったかのように消えている。
ゼニスと暮らした家。
ルーデウスが生まれた家。
リーリャとアイシャがいた場所。
ノルンが歩き始めた場所。
思い出だけがあるのに、それを支えていた物は一つも残っていなかった。
「おとうさん、おうち、どこ?」
ノルンに尋ねられた。
答えられなかった。
膝から力が抜ける。
転移の罠で全滅。
冒険者だった頃、何度も聞いた言葉が頭の中を巡った。
パーティが分断され、現在地も分からないまま、一人ずつ死んでいく。
一人だけが生還し、仲間の死体すら見つけられない。
まさか、自分の家族が同じ目に遭うとは思わなかった。
もし、オレがもっと早く着いていれば。
いや、早く着いても災害そのものを止められたわけではない。
分かっていても、ノルンへ無理をさせた二か月が、無意味な時間だったように思えてしまう。
「おとうさん?」
ノルンの声で我に返った。
この子だけは、ここにいる。
少なくとも一人は守れた。
ノルンまで不安へ巻き込んではいけない。
ならば、残る者も探す。
世界のどこへ飛ばされていようと、全員見つける。
生きていると証明されていなくても、死んだと決めつける理由もない。
オレが諦めれば、誰が捜す。
◇
情報を集めている最中、アルフォンスという老人が接触してきた。
フィリップへ仕えていた執事の一人だった。
アルフォンスは、自分の財産と残された人脈を使い、帰還したフィットア領民を受け入れるための難民キャンプを作り始めていた。
「オレに何をさせたい」
「帰還した方々の保護と、周辺の捜索をお手伝いいただきたいのです」
「なぜオレだ」
「フィリップ様から、パウロ様について伺っておりました」
アルフォンスは、少し言いにくそうに間を置いた。
「いざという時には力を発揮するが、先を見通すことは得意ではなく、自らの失敗でいざという時を作り出す危うさがある人物だと」
「余計なお世話だ」
反射的に答えた。
腹は立った。
死んだかもしれない義兄に、そんな評価をされていたことも気に入らない。
だが、否定はできなかった。
現にオレは、焦ってノルンへ無理をさせたばかりだ。
自分で問題を大きくしてから、全力で何とかする。
フィリップの評価は、正しかった。
アルフォンスがオレを選んだもう一つの理由は、ルーデウスの父親だからだった。
フィリップは、手紙の中でルーデウスの近況を何度か伝えていたらしい。
その父親ならば、フィットア領の人間を探すために動くだろうと判断したという。
オレは協力を受け入れた。
一人で世界中を走り回っても、探せる人数には限界がある。
情報と人を集める仕組みを作る方が先だ。
気持ちだけなら、今すぐ一人で走り出したかった。
だが、ノルンへ無理をさせた失敗が、まだ胸へ残っていた。
焦って飛び出せば、また同じことをする。
アルフォンスは周辺の貴族や商人へ働きかけ、資金と物資を集めた。
オレは、帰還した者の護衛、周辺の捜索、集まった若者の訓練を担当した。
一か月ほどで、難民キャンプは最低限の形になった。
そこで、フィットア領捜索団を組織した。
各地に転移した領民を捜し、保護するためのクランだ。
その中へ、ブエナ村民捜索隊を置く。
もちろん、オレの目的は家族だった。
だが、家族だけを対象にはできない。
ゼニスやリーリャが奴隷にされている可能性を考えるなら、奴隷として見つかったフィットア領民を全員調べる必要がある。
アイシャが身元の分からない子供として保護されている可能性を考えるなら、幼い子供を一人ずつ確認しなければならない。
ルーデウスやレイネが誰かを助けながら移動している可能性もある。
領民全員の情報を集めれば、家族へつながる手掛かりも増える。
家族だけを捜すことと、領民全員を捜すことは別ではない。
誰かを切り捨てれば、その誰かが自分の家族だった可能性を否定できない。
アルフォンスはフィットア領へ残り、難民キャンプと帰還者の受け入れを担当することになった。
オレは、冒険者ギルド本部があるミリシオンへ向かう。
アスラとミリス。
二つの地域に情報の受け皿を作れば、どちらかへ家族の消息が入る可能性が高くなる。
ノルンを連れ、参加を希望した団員とともにフィットア領を発った。
その中には、ヴェラとシェラもいた。
前衛として剣を扱うヴェラ。
治癒魔術を使い、読み書きや記録整理もできるシェラ。
二人とも、危険な捜索になることを説明したうえで、自分の意思で同行を選んだ。
以前のオレなら、必要な者へ命じて連れていったかもしれない。
今は一人ずつ意思を確認した。
レイネとの決闘で学んだことを、今度こそ忘れないようにした。
「途中で続けられないと思ったら、抜けてもいい」
そう告げると、ヴェラが僅かに眉を上げた。
「引き止めないんですか?」
「引き止めるかもしれん。だが、最後に決めるのはお前たちだ」
自分でも、以前なら口にしなかった言葉だと思った。
完全に変われたとは思わない。
今でも、自分の判断が正しいと思えば、相手へ従わせたくなる。
だからこそ、先に口へ出した。
最後に決めるのは本人だと。
◇
ミリシオンへ到着すると、冒険者ギルドへフィットア領捜索団の活動を登録した。
各地から届く伝言の受取先。
保護した領民を預けられる場所。
捜索依頼と救助要請をまとめる窓口。
必要なものを説明している途中、担当職員が書類から顔を上げた。
「フィットア領の方を受け入れる場所なら、既にあります」
「誰が作った」
「白い髪と赤い目をした、S級冒険者です」
胸の奥が強く跳ねた。
白い髪。
赤い目。
S級冒険者。
「名前は」
声が、自分でも分かるほど強張った。
「レイネ」
間違いなかった。
レイネは生きていた。
ミリシオンまでたどり着き、既にフィットア領民のために動いていた。
名簿に名前がなかった。
どこにいるのか分からなかった。
そのレイネが、生きてここまで来ていた。
一人見つかった。
それだけで、暗闇の中へ小さな灯がついたように感じた。
住所を聞き、ヴェラ、シェラ、ノルンとともに向かった。
冒険者区の一角に、二階建ての建物があった。
入口にはフィットア領の紋章。
その下には、ここがフィットア領転移被災者のための救護所であることが記されている。
中へ入ると、受付では名簿が整理されていた。
厨房では食事が作られ、倉庫では寄付された衣服と毛布が数えられている。
治療を受けている老人。
神官へ付き添われた子供。
家族の消息を尋ねる者。
その一方で、照会によって家族や同郷の者と再会し、泣きながら抱き合っている者もいた。
レイネ一人の仮住まいではない。
救護所として、既に動いている。
レイネが自分だけで人を助けている場所でもなかった。
受付。
厨房。
治療。
物資。
それぞれの役割を持つ者が動き、レイネ本人がいなくても人を受け入れている。
運営責任者だという女性へ名乗った。
長年、災害救援と物資管理に携わってきた人物らしい。教会、冒険者ギルド、宿屋組合との連絡も、彼女を中心に回っていた。
「レイネはどこにいる」
「北へ向かったわ」
期待が、一瞬で落ちた。
生きていると分かった。
だが、ここにはいない。
「いつ戻る」
「分からない」
女性は、机に置かれた名簿を閉じた。
「ここを十九日間で形にして、運営を私たちへ引き継いだ後、ザントポートへ向かったの」
十九日。
その短い期間で、建物を借り、協力者を集め、教会とギルドをつなぎ、受け入れと照会の手順を作った。
レイネならできると思った。
だが、実際に形になったものを目の前で見ると、想像以上だった。
誰かを一人助けただけではない。
自分がいなくなった後にも、次の誰かを助けられる場所を作っている。
「なぜ北へ」
「迎えに行かなければならない方がいる、と言っていたわ」
「名前は聞いたか」
「本人の口からは聞いていない。でも、ご主人と呼んでいた」
ルーデウスだ。
ほとんど間違いないと思った。
レイネが主人と呼ぶ相手は、ルーデウスしかいない。
ルーデウスの居場所を知っているのか。
少なくとも、北へ行けば会えると考えている。
胸の奥へ、希望が広がった。
それでも、女性が実際に聞いていない名前まで、事実として扱うことはできない。
「オレへの伝言は」
「ないわ」
一瞬、胸が痛んだ。
なぜ、オレへ何も残さなかった。
レイネはブエナ村で何年も暮らしていた。
オレたちが無事かもしれないと考え、何か一言くらい残していてもよかったのではないか。
そんな考えが浮かぶ。
だが、すぐに押し込めた。
レイネは、オレが生きていることも、ミリシオンへ来ることも知らなかった。
居場所の分からない相手へ伝言を残さなかったからといって、責める理由にはならない。
何より、レイネはルーデウスを迎えに行った。
自分が仕える相手を最優先した。
それは、オレも知っていたはずのレイネの在り方だ。
それよりも、確認すべきことがある。
「この救護所は、どういう仕組みで動いている」
女性責任者は、帳簿と手順書を見せてくれた。
保護された者を、いきなり問い詰めない。
まず体調を確認し、水と食事、寝床を与える。
子供や強く怯えている者には、無理に出身地を答えさせない。
落ち着いた後で、名前、年齢、出身地、家族、発見場所を聞き取る。
その情報を帳簿へ残し、周辺のギルドや教会へ照会する。
帰還を望む者には移送を手配する。
現在の土地へ残りたい者には、連絡先を登録し、家族が見つかった時に知らせる。
寄付された物資は、その場で種類と数を記録する。
金は救護所の共同会計で管理し、一人の判断だけでは動かさない。
レイネがいなくても、救護所は動く。
そのために、十九日を使ったのだ。
自分がいなければ止まる仕組みを、レイネは作らなかった。
一人で何でもできるからこそ、あえて他人へ任せられる形を残した。
「パウロさんの捜索団とは、目的が重なる部分があるわ」
女性責任者が言った。
「だが、同じではない」
オレは帳簿へ目を落とした。
「こっちは外へ出て、まだ見つかっていない者を捜す。危険な場所から助け出す。あんたたちは、ここへ来た者を受け入れ、家族と情報をつなぐ」
「ええ」
「なら、どちらかへまとめる必要はない。情報だけ共有しよう」
女性は少し驚いたようにオレを見た。
「ここを、捜索団の下へ置くと言うと思っていたわ」
以前のオレなら、そうしたかもしれない。
自分が責任者だ。
目的は同じだ。
だから、自分の指揮下へ入るのが当然だと考えただろう。
「レイネが、オレのために作った場所じゃないからな」
この救護所は、フィットア領民のために作られた。
既に自分たちで動いている。
オレが責任者を名乗って上から指示すれば、かえって壊れる。
自分の組織を大きくすることが目的ではない。
一人でも多く見つけ、助けることが目的だ。
「ただし、現場で危険が起きた時は、こっちへ回してくれ」
「分かったわ」
こうして、二つの組織は協力することになった。
救護所は、受け入れ、照会、治療、宿泊、移送手配。
捜索団は、捜索、救助、護衛、奴隷となった者の解放、危険地域への派遣。
ヴェラは現場へ出る救助隊と護送隊をまとめた。
シェラは救護所の職員とともに、二つの帳簿を照合した。
ノルンも、名前を書いた札を村や町ごとに分ける作業を手伝うようになった。
幼い手で、家族を捜すための札を一枚ずつ並べている。
その姿を見るたび、必ず全員を見つけなければならないという思いが強くなった。
◇
レイネの足取りは、本人からではなく、南へ送られてくる人々と、各支部から届く記録によって少しずつ分かっていった。
最初にまとまった報告が届いたのは、聖剣街道沿いの鉱山町からだった。
レイネがミリシオンを出て、十日目に立ち寄った町。
そこで確認されたフィットア領出身者は、二十三人。
ミリシオンへ向かうことを望んだ者が十四人。
町へ残ることを選んだ者が九人。
十四人を乗せた馬車が、救護所へ到着した。
護衛は六人のC級冒険者だった。
ただし、彼らが全行程を護衛してきたわけではない。
鉱山町から次の中継地までを最初の六人が担当し、そこから先は別の護衛へ引き継ぐ。
一つの護衛隊へ全行程を背負わせない。
誰かが倒れても、経路全体が止まらないようにする。
レイネは、北へ進みながら、南へ人を運ぶ道を作っていた。
一度助けて終わりではない。
自分が先へ進んだ後でも、次に見つかった者が同じ道を使えるようにしている。
「レイネさんは、一緒ではないんですか?」
救護所で、ヴェラが最初の護衛へ尋ねた。
「本人はザントポートへ向かった」
冒険者が答えた。
「俺たちも、途中まで同行してくれれば安心だと言ったんだ。だが、あの人がいなければ運べない仕組みにしたら、次の人間を送り出せないと言われた」
その考え方は、いかにもレイネらしかった。
自分が護衛すれば、今回の十四人は安全に運べる。
だが、次に見つかった者は、またレイネが戻るまで待たなければならない。
だから、自分がいなくても動く仕組みを選んだ。
さらに詳しく聞くと、鉱山町では大型魔物のせいで採掘が止まっていたという。
十四人分の移送費だけなら、レイネ個人の金で払うこともできた。
だが、それでは次に保護された者を送れない。
レイネは鉱夫、冒険者、地質に詳しい魔術師、治療術師と役割を分け、坑道の中で戦わずに魔物を外へ誘導した。
魔物を討伐し、鉱山を再開させる。
討伐報酬と素材の売却金だけでなく、採掘組合が今後の収益の一部を救援用の共同会計へ拠出する仕組みまで作った。
一度だけ十四人を送るのではない。
次に誰かが保護された時にも使える金を残す。
「一人で全部やったわけじゃないんだな」
オレが言うと、護衛の男が頷いた。
「あの人自身は、とんでもなく強い。だが、坑道の道案内は鉱夫へ頼み、岩盤の確認は魔術師へ任せ、俺たちには人払いをさせた。自分一人で突っ込んだ方が早そうなのに、そうしなかった」
レイネは以前よりも、ほかの者へ任せることを意識しているらしい。
ブエナ村にいた頃のレイネなら、危険を全部自分で引き受けたかもしれない。
誰よりも早く終わらせ、何事もなかったように戻ってきただろう。
だが、今は人へ任せている。
十九日間、救護所へ残った意味が少し分かった気がした。
レイネ自身がいなくても動く仕組みを作るために、人を信じ、任せることを選んだのだ。
◇
次の大きな情報が届くまでには、長い時間が掛かった。
レイネが旅を始めて三か月目。
大森林は雨季へ入った。
街道は泥に沈み、川は増水し、橋の一部も流された。
そのため、北からの移送は一度止まった。
救護所へ届いた中継報告によれば、大森林北部の宿場には三十七人のフィットア領出身者が保護されていた。
そのうち、ミリシオンへ向かうことを望んだ者が二十九人。
残る八人は、現地へ残ることを選んでいる。
「迎えに行くべきでは?」
シェラが地図を見ながら尋ねた。
「この人数なら、こちらから護衛を出した方が早いかもしれません」
オレも、最初はそう考えた。
二十九人が待っている。
食料も不足している。
今すぐ人を集め、自分が先頭へ立って迎えに行きたい。
だが、雨季の大森林へ土地勘のない捜索団を入れれば、二十九人を助けるどころか、救助する側まで動けなくなる。
報告には、宿場の食料が不足しつつあることも書かれていた。
同時に、レイネが現地の責任者や獣族の斥候と協力し、経路の復旧へ当たっていることも記されている。
現地には、オレより地形を知る者がいる。
レイネもいる。
「現地の判断を待つ」
オレは答えた。
自分で言いながら、腹の中が焼けるようだった。
待つことは、何もしないことではない。
分かっていても、家族を捜し始めてから、待つ時間ほど苦しいものはなかった。
「こちらからは食料と資金を送る。ただし、馬車を無理に進ませるなと伝えろ」
以前なら、自分で何とかしようと飛び出していたかもしれない。
だが、現地の地形を知っている者がいる。
レイネもいる。
遠くから状況を知らないオレが、到着日だけを決めるべきではない。
雨季が終わる頃。
最初の十人が救護所へ到着した。
その到着を確認してから、次の十人が送られてくる。
最後に、九人を乗せた馬車が到着した。
十人。
十人。
九人。
二十九人全員が、無事にミリシオンへたどり着いた。
一団が到着するたび、名簿の名前へ印をつけた。
最後の九人の名がすべて確認された時、ようやく胸の力が抜けた。
彼らから、雨季の間に何が起きていたのかを聞いた。
上流の集落が洪水へ呑まれたこと。
住民が屋根や高台へ取り残されたこと。
流されてきた大型の水棲魔物が、救助用の舟へ迫ったこと。
レイネは現地の獣族冒険者の指揮へ入り、自分が指揮官になるのではなく、水路の調整と大型魔物への対処を担当した。
住民は全員救助された。
だが、橋、家、井戸、街道は大きな被害を受けた。
レイネは、それらを一人で直さなかった。
家屋は大工。
井戸は住民と水魔術師。
橋は街道を管理する者。
食料は宿場の責任者。
自分は危険な地盤の補強、物資輸送、周辺の魔物への警戒を引き受けた。
大型魔物の素材と討伐報酬も、食料と建材へ変えられた。
仮設橋を馬車が安全に渡れることを確認して、初めて二十九人の移送を始めたという。
「レイネらしいな」
ヴェラが言った。
「何がだ」
「助けた後の方が長いところです」
確かにそうだった。
魔物を倒すだけなら、一日で終わったかもしれない。
だが、人が帰れる状態へ戻すには、雨季が終わるまで掛かった。
命を救うだけなら、その場で終わる。
その後に暮らせる場所を戻し、道をつなぎ、次の危険へ備える方がずっと長い。
レイネは、そこまで終わらせなければ助けたことにならないと考えているのだろう。
その間、レイネはルーデウスを追う足を止めていた。
胸の奥が複雑に痛んだ。
早くルーデウスを迎えに行きたいはずだ。
何年も仕えてきた主人。
転移して、どこにいるかも分からない子供。
一刻も早く捜したいはずなのに、二十九人を雨季の街道へ放り出すことはしなかった。
もしルーデウスがそのことを知れば、どう思うだろう。
自分を優先してほしかったと言うのか。
おそらく、あいつならレイネを責めない。
だが、レイネ自身は、自分が遅れたことを責めるかもしれない。
◇
オレたち自身の捜索も続いていた。
ミリス大陸へ転移した領民を、一人ずつ探した。
困窮している者へは金を渡す。
帰還を望む者には旅費と護衛を用意する。
転移先へ残ることを望む者には、連絡先と本人の意思を記録する。
奴隷として売られていた者もいた。
金で解放できるなら、金を払った。
相手が不当に値段をつり上げれば、ゼニスの実家へ協力を求めた。
それでも駄目なら、法に触れる手段を使ったこともある。
正しい手段だけで全員を救えるほど、世の中は都合よくできていなかった。
全員を救う。
助けないという前例を作らない。
ゼニスやリーリャ、アイシャが同じ状況へ置かれている可能性を考えれば、相手によって扱いを変えることはできなかった。
金が掛かりすぎるから助けない。
相手が貴族だから諦める。
そんな判断をした直後に、同じ理由で家族を見捨てられたら、オレは耐えられない。
当然、問題も起きた。
奴隷を奪われたと主張する貴族が、私兵を差し向けてきたこともある。
救助が間に合わなかった者もいる。
団員が死んだことも、大怪我をしたこともあった。
助けると決めたからといって、全員を無傷で救えたわけではない。
「団長が、もっと慎重に動いていれば」
死んだ団員の友人に、そう責められたこともある。
以前なら、言い返していたかもしれない。
危険を承知で参加したのだ。
助けられた人数の方が多い。
そんな理屈を並べて、自分の判断を正当化していただろう。
だが、今回は黙って聞いた。
相手の言葉がすべて正しいとは限らない。
オレにどうすることもできなかった部分もある。
それでも、仲間を失った者が怒るのは当然だった。
オレが正しかったかどうかを説明する前に、相手には怒る権利がある。
話を聞いた後で、救助隊の人数、退路、待機要員、連絡期限を見直した。
それで死んだ者が戻るわけではない。
謝ったからといって、家族の悲しみが消えるわけでもない。
だが、次に同じ失敗をしないためには必要だった。
オレは、急に立派な人間になったわけではない。
報告が遅れれば怒鳴った。
自分で行った方が早いと思えば、飛び出しそうになった。
酒の量も増えた。
それでも命令する前に、一度だけ立ち止まるようにはなった。
一度だけでも、相手の顔を見る。
本当に動けるのかを尋ねる。
自分が聞きたい答えを言わせていないか考える。
「今から出られるか」
遠方から救助要請が届いた夜。
前の任務から戻ったばかりのヴェラへ尋ねた。
ヴェラの腕には包帯が巻かれている。
シェラも治癒魔術を使いすぎ、顔色が悪かった。
ヴェラは反射的に頷こうとした。
「オレが聞きたい答えを言うな」
その前に止める。
「本当に戦えるのか。無理なら無理だと言え」
ヴェラは包帯を見た。
しばらく考えた後、首を横へ振る。
「正直に言えば、今夜は休みたいです」
「シェラは」
「治癒へ使える魔力が、ほとんど残っていません」
地図を見る。
救助要請のあった村までは、馬で半日。
今すぐ出れば早く着ける。
だが、疲労した二人を連れていけば、現地でさらに負傷者を増やす可能性がある。
「斥候だけ先行させる。本隊は夜明けに出す」
ヴェラが僅かに笑った。
「何だ」
「以前の団長なら、一人でも飛び出していたと思いまして」
「今でも、その方が早いと思ってる」
本音だった。
自分だけで行けば、夜明けを待つ必要はない。
「では、どうしてやめたんですか?」
白い髪の少女に、地面へ押さえつけられた夜を思い出す。
力で従わせられ、自分の言葉を聞かれなかった感覚。
あの時は腹が立った。
屈辱だった。
だが、自分が同じことを家族や部下へしていたのだと、後になって分かった。
「家族に、少しは相手の話を聞けと教えられた」
「レイネさんですか?」
「まあな」
それ以上は言わなかった。
教えられたと言えば聞こえはいいが、実際には完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
それでも、あの夜がなければ、オレは今も同じ命令を繰り返していたかもしれない。
◇
レイネの旅が九か月目へ入った頃。
移送経路の一つで、十二人を乗せた馬車が予定日に到着しなかった。
以前なら、数日の遅れは珍しくないとして、しばらく待っていたかもしれない。
だが、レイネが定めた経路には、到着予定時刻を過ぎた時点で確認を始めるという決まりがあった。
中継地のギルドが周辺支部へ照会を出す。
出発時刻。
予定経路。
護衛の名前。
近隣で起きている犯罪。
ただ遅れているのだろうと待つことはしない。
異常があったと仮定し、確認を始める。
調査の結果、救護名簿と移送日程を探っていた者がいることが判明した。
救護所の職員を名乗り、正式な確認を受けていない文書を使った者もいた。
制度そのものが狙われた。
人を助けるために作った道が、逆に獲物を集める場所として利用されようとしている。
報告を読んだ瞬間、腹の底から怒りが湧いた。
「次の移送を、すべて止めるべきです」
シェラが言った。
「北側では既に止めている」
女性責任者が、届いた報告書を机へ置いた。
「レイネさんと現地支部が、行方不明になった馬車を調べているわ」
オレは、北へ人を出したかった。
今すぐ部隊を集め、自分が向かいたかった。
だが、最後の目撃場所へ着くだけでも長い時間が掛かる。
現地には、レイネ、斥候、冒険者、衛兵がいる。
こちらが今すべきことは、ミリシオン側の名簿と移送予定を守り、同じ手口が使われていないか確認することだった。
自分のいる場所でできることをする。
遠くにいるレイネへ、勝手な指示を出さない。
何度自分へ言い聞かせても、待つ時間は苦しかった。
数日後。
壊された馬車が発見されたという報告が届いた。
乗客はいない。
護衛二人は負傷した状態で木へ縛られ、もう一人の護衛が襲撃者へ合図を送っていたことが判明した。
内部へ入り込まれていた。
信用した者の中に、敵がいた。
怒りと同時に、自分たちの組織でも同じことが起きる可能性が頭へ浮かんだ。
現地支部は、転移被災者を囮には使わなかった。
乗客を装った衛兵と冒険者を馬車へ乗せる。
レイネが護衛として同行し、別働隊が逃走経路へ回り込む。
襲撃者を捕らえ、文書、偽造印章、金の流れを調べ、人身売買組織の拠点を特定した。
救出された中には、最初に行方不明となった十二人がいた。
さらに、別の場所から攫われたフィットア領出身者が十四人。
そのほかにも、近隣の子供、旅人、行商人が監禁されていた。
全員、生きて救出された。
報告を読み終えた時、部屋の中から一斉に息が漏れた。
誰も死んでいなかった。
十二人も。
さらに見つかった者たちも。
その事実だけで、胸を締めつけていたものが少し緩んだ。
だが、レイネは組織を潰しただけで先へ進まなかった。
護衛の選定。
名簿の管理。
日程を伝える相手。
偽造文書への対策。
制度そのものを作り直した。
全行程を一つの護衛隊へ知らせない。
移送者の詳しい名簿を、必要のない者へ渡さない。
文書には、日ごとに変わる確認符号を加える。
予定時刻を過ぎた場合は、ただ待たずに確認を始める。
白髪の侍女の名前だけが書かれた文書は、正式なものとして認めない。
自分の名前まで悪用される可能性を考え、その名前を信用の根拠から外した。
変更が各支部へ伝わり、移送が再開されるまで、ほぼ一か月掛かった。
ルーデウスを追うなら、一日でも早く進みたかったはずだ。
それでも、同じ危険を残したまま先へは行かなかった。
「ここも変えるわ」
女性責任者が言った。
「受付に来た人がレイネさんの名前を出しても、それだけで内部の情報は渡さない。確認符号と発行支部を照合する」
「捜索団の移動予定も、救護所へ全部渡すのはやめよう」
オレも答えた。
「必要な区間の担当者だけに知らせる」
ヴェラが頷く。
シェラは、新しい形式の帳簿を作り始めた。
レイネが遠く離れた場所で見つけた問題を、ミリシオン側でも共有する。
一度起きた失敗を、一か所だけの問題として終わらせない。
それによって、救護網は以前より強くなった。
◇
旅を始めて十一か月目。
レイネはザントポートへ到着した。
報告によれば、町と周辺の集落には四十三人のフィットア領出身者がいた。
ミリシオンへ向かうことを望んだ者が三十五人。
ザントポートへ残ることを選んだ者が八人。
だが、ザントポート支部には、全員を移送するだけの金がなかった。
港の外では大型の海棲魔物が漁船や小型商船を襲い、航路が止まりかけていた。
レイネは、港の管理者、船乗り、冒険者と組み、海棲魔物の討伐へ参加した。
海のことを知らない自分が指揮を執るのではなく、潮と魔物の習性を知る船乗りの指示へ従ったらしい。
討伐報酬。
魔物の素材の売却益。
商人組合からの拠出。
それらによって、三十五人分の移送費が確保された。
最初の十二人が到着した。
続いて、次の十二人。
最後に十一人。
十二人。
十二人。
十一人。
三つの集団は間隔を空け、中継地への到着を確認してから次が出発していた。
最後の十一人が救護所へ着いた時、オレたちは全員の名前を帳簿へ記録した。
三十五人全員が無事だった。
一人ずつ名前を読み上げ、本人の返事を聞く。
最後の名前まで確認し終えた時、レイネが一年近く掛けて作った道が、本当にザントポートからミリシオンまで繋がったのだと実感した。
「レイネは一緒ではないのか」
最後の一団へ尋ねる。
「俺たちがザントポートを出た時には、まだ町にいました」
男が答えた。
「最後の集団が次の中継地へ着いたと確認できるまで、船へ乗らないと言っていました」
レイネがザントポートへ着いてから、最後の十一人を送り出すまで十八日。
その後、次の中継地へ引き継がれたという報告を待ち、ようやくウェンポート行きの定期船へ乗る手続きを始めた。
そこから先の確かな足取りは、ミリシオンには届いていなかった。
海を渡れたのか。
まだ船を待っているのか。
途中で何か起きたのか。
分からない。
だが、レイネがザントポートまで生きて到着し、ルーデウスを迎えるためにウェンポートを目指していることだけは確かだった。
一年近く掛かっても、諦めていない。
なら、ルーデウスも生きている。
そう信じたかった。
◇
転移事件から一年を過ぎる頃には、難民の発見報告は減っていた。
代わりに、死亡報告が増えた。
実際に死体が見つかった者。
持ち物だけが発見された者。
似た人物が魔物に襲われるのを見たという、不確かな証言。
あと一歩間に合わなかった者。
報告を受けて泣き崩れる家族もいた。
なぜもっと早く捜してくれなかったのかと、オレへ食ってかかる者もいた。
答えられなかった。
もっと早ければ助かったのかもしれない。
だが、世界中へ散った人間を、全員同時に助けることなどできない。
その理屈を口にしても、家族を失った者には何の慰めにもならない。
そして、オレの家族に関する直接の情報は、ほとんどなかった。
ゼニス。
リーリャ。
アイシャ。
三人の消息は、今も分からない。
ルーデウスについても、本人からの伝言はミリシオンへ届いていなかった。
ただ、レイネの行動だけが、ルーデウスが魔大陸にいる可能性を示していた。
レイネは、根拠もなく一年近く北へ進み続けるような人間ではない。
何か、オレには分からない方法でルーデウスの居場所へ当たりをつけている。
そう考えなければ、あの行動は説明できなかった。
ロキシーや、かつての仲間たちへも伝言を回した。
エリナリーゼ。
タルハンド。
ギース。
一度だけ返事を寄越した者もいたが、その後は連絡が途切れた。
薄情だとは思わなかった。
昔のオレは、ひどい別れ方をした。
恨まれていてもおかしくない。
それでも、どこかで家族を捜してくれているのではないかと期待していた。
一度だけでも返事があれば、その後連絡がなくても、何かをしてくれているのではないかと思ってしまう。
期待しなければ傷つかない。
それでも、期待せずにはいられなかった。
一年と少しが過ぎると、酒を飲む量が増えた。
酔いが覚めると、家族が死んだ光景ばかり考えてしまう。
ゼニスが。
リーリャが。
アイシャが。
ルーデウスが。
レイネが。
オレの助けを待ちながら死んだのではないか。
自分が別の場所へ救助に行っている間に、家族からの報告が届き、それに気づくのが遅れるのではないか。
既に死んでいるのに、無駄な捜索を続けているのではないか。
そんな考えを止めるために、酒を飲んだ。
酔っている間だけは、頭の中の声が少し小さくなった。
それでも、朝から晩まで何もせず酔いつぶれるところまではいかなかった。
ノルンが見ている。
ヴェラとシェラが動いている。
救護所の女性責任者も、毎日新しい名簿を確認している。
何より、レイネが残した仕組みが、本人のいない今も人を助け続けている。
あいつが戻った時、オレが何もできないほど潰れていたら、何も言わずに失望されるだろう。
怒鳴られるより、その方が堪えた。
酒瓶へ手を伸ばす。
途中で止める。
止められない日もある。
そんな日には、ヴェラかシェラが仕事を持ってくる。
ノルンが昼食を運んでくることもある。
完全には立ち直れない。
朝起きた瞬間から絶望している日もあった。
誰とも話したくない日もある。
だが、完全に崩れることも許されなかった。
待っている者がいる。
見つかるのを待っている者がいる。
何より、ノルンがまだ父親を必要としている。
◇
転移事件から、一年四か月ほどが過ぎた。
次の雨季が始まる前。
北から来る商人の数が増え、聖剣街道を通る馬車も、以前のように動き始めていた。
ミリシオンの捜索団本部では、ヴェラが護送隊の予定を確認している。
シェラは救護所から届いた名簿を照合していた。
ノルンは、村ごとに分けられた名前の札を並べている。
オレは机の前へ座り、前日に届いた死亡報告を読んでいた。
また一人。
確実に死亡したと確認された者の名前が、名簿から別の帳簿へ移される。
何度経験しても慣れなかった。
「団長」
シェラが声をかける。
「ザントポートから来た三十五名について、全員の受け入れが完了しました」
「ああ」
「残留を選んだ八名の連絡先も、ザントポート支部から届いています」
「家族が見つかった時に、本人へ知らせるよう登録しておけ」
「分かりました」
これで、ザントポートの四十三人については全員の意思と居場所が記録された。
帰還した三十五人。
残った八人。
レイネが作った道は、確かにミリシオンまでつながっていた。
それでも、本人は戻ってこない。
ウェンポートへ向かったという報告から先は、何も届いていなかった。
「おとうさん」
ノルンが顔を上げる。
「レイネ、まだ帰ってこないの?」
「まだだ」
「おにいちゃんも?」
「ああ」
ノルンの表情が曇る。
以前なら、大丈夫だ、すぐ帰ってくると答えていたかもしれない。
父親として、安心させる言葉を与えるべきだと思っていた。
だが、確証のない約束はしなかった。
大丈夫だと言ってほしい相手へ、自分が望む答えを返すだけでは、また同じことになる。
「でも、レイネはザントポートまで行った。そこから先へ進もうとしていた。ルーデウスを迎えに行った可能性は高い」
「見つけられる?」
「レイネなら、見つけられると思う」
絶対とは言わない。
それでも、信じていることは伝える。
オレ自身も、それを信じている。
レイネなら見つける。
どれだけ時間が掛かっても、途中で誰かを助けるために足を止めても、最後にはルーデウスのもとへ辿り着く。
ノルンは少し考えた後、頷いた。
その時だった。
階下から激しい足音が聞こえた。
一人ではない。
誰かが階段を駆け上がり、その後ろを別の者が追っている。
何か問題が起きたのか。
救助要請か。
胸の中へ、いつもの緊張が走った。
扉が勢いよく開いた。
冒険者ギルドの職員と、救護所の若い職員が立っていた。
二人とも息を切らしている。
「パウロさん!」
ギルド職員が、扉へ手をついたまま声を上げた。
「北門から、照会が入りました!」
オレは椅子から立ち上がった。
「誰だ」
期待してはいけない。
何度もそう思いながら、報告を聞くたび家族の名前を期待してきた。
そして、そのたびに違う名前を聞いてきた。
「まず、冒険者札で本人確認が取れたのは、ルーデウス・グレイラットとエリス・ボレアス・グレイラットです」
一瞬、意味を理解できなかった。
ルーデウス。
エリス。
何度も探した名前。
何度も名簿へ照会を出し、そのたびに該当なしと返された名前。
耳が、都合のいい言葉を作ったのではないかと思った。
「間違いないのか」
声が掠れた。
自分でも驚くほど、まともな声が出なかった。
「本人の冒険者札を確認しています。二人とも、デッドエンドというA級パーティへ登録されています」
A級。
そんな情報はどうでもよかった。
生きている。
本人確認が取れている。
その二つだけで十分だった。
胸の奥へ押し込めてきたものが、一気に溢れそうになる。
まだ顔を見ていない。
間違いの可能性が完全になくなったわけではない。
それでも、冒険者札まで確認している。
ルーデウスは生きている。
職員は続ける。
「同行者に、ルードと名乗る青髪の槍使い。それから、ギース・ヌーカディア」
「ギース?」
思わぬ名前だった。
一度だけ連絡を寄越した後、行方の分からなくなっていた男。
なぜ、ルーデウスと一緒にいる。
何をしていた。
どういう経緯で合流した。
疑問が一気に浮かんだ。
だが、その疑問も後だ。
「レイネは」
尋ねる。
声へ焦りが滲んだ。
ルーデウスが生きている。
なら、レイネは。
一年近く追い続けたあいつは、辿り着けたのか。
救護所の職員が、何度も頷いた。
「一緒です。白髪と赤い目。S級冒険者札も確認されています。北門を通った後、救護所が今も使われているか、門の職員へ尋ねたそうです」
頭の中が真っ白になった。
ルーデウス。
エリス。
レイネ。
三人とも生きている。
同じ場所へいる。
レイネは、本当にルーデウスを見つけた。
一年近く北へ進み、何度も足を止めながら、それでも追いついた。
そして、連れて帰ってきた。
十九日で救護所を作った。
鉱山で人を助けた。
雨季の大森林で何か月も足を止めた。
人身売買組織へ襲われた者を救い、制度を作り直した。
ザントポートで最後の一人が次の中継地へ着くまで待った。
そのすべてを終えながら、それでもルーデウスへ辿り着いた。
「今、どこにいる」
「冒険者ギルドへ向かっているそうです。馬車を預け、入市手続きと伝言の確認を行うと」
ギルド。
ここから走れば、それほど掛からない。
今すぐ行けば、会える。
生きているルーデウスへ。
すぐに部屋を出ようとして、足を止めた。
ノルンを見る。
この子も、一年以上兄を待っていた。
オレだけが先に走り、後から連れてくるべきではない。
「行くか」
「行く!」
ノルンが椅子から飛び降りる。
抱き上げようとして、先に尋ねた。
「抱いて走ってもいいか。それとも、手をつないで行くか」
ノルンは少し驚いた顔をした。
以前のオレなら、急いでいるからと何も聞かず抱き上げていただろう。
今は、たとえ答えが分かっているように思えても、本人へ尋ねる。
それから、ノルンは両腕をこちらへ伸ばした。
「だっこ」
「ああ」
抱き上げる。
転移した直後、同じように腕の中へいた身体。
あの時より少し重くなっている。
一年以上が過ぎたのだ。
ルーデウスにも、同じだけの時間が流れている。
ヴェラとシェラへ顔を向けた。
「二人とも――」
一緒に来いと言いかけて、止める。
この建物には仕事が残っている。
救護所にも、今この瞬間に助けを求めている者がいる。
全員が手を止める必要はない。
自分が会いたいからといって、他人の仕事まで勝手に止めてはいけない。
「オレとノルンはギルドへ行く。ヴェラ、手が空いたら救護所の責任者へ正式に知らせてくれ。シェラはここを頼めるか」
「はい」
シェラが頷く。
「こちらは任せてください」
ヴェラも笑った。
「後で、皆さんを連れてきてください」
「ああ」
部屋を出る。
階段を下りながら、何を言うべきか考えた。
無事でよかった。
よく帰ってきた。
どこへ転移した。
どうやって、ここまで戻ってきた。
怪我はないのか。
どれほど危険な旅をしてきたのか。
いくつもの言葉が、頭の中へ浮かんでは消えていく。
抱きしめたい。
怒鳴りたい。
無事だと自分の目で確かめたい。
それだけでいいと思う一方で、聞きたいことが多すぎた。
だが、今のオレには何も分かっていない。
ルーデウスたちがどこへ転移し、何を経験し、どのような道を通ってミリシオンまで来たのか。ルードと名乗る槍使いやギースと、いつ、どこで出会ったのか。それどころか、三人が最初から一緒だったのか、途中で合流したのかさえ知らない。
分からないことを、勝手な想像で埋めてはいけない。
オレがこの一年、家族を捜して苦しんできたように、ルーデウスたちにも、オレの知らない一年がある。
自分だけが苦しんだような顔をして、何をしていたと責めてはいけない。
まずは三人の顔を見て、無事を確かめる。
その後で、何があったのかを最初から聞く。
自分の言いたいことをぶつけるのは、それからだ。
そう決めても、実際に顔を見た時まで冷静でいられる保証はなかった。
ゼニス。
リーリャ。
アイシャ。
三人は、まだ見つかっていない。
捜索は終わっていない。
ルーデウスが帰ってきたからといって、すべてが元へ戻るわけではない。
それでも今だけは、帰ってきた家族を迎えに行ってもいいはずだ。
腕の中のノルンが、オレの服を強く握っている。
その小さな身体を落とさないよう抱き直す。
ルーデウスは、どんな顔をしているだろう。
オレを見て、喜ぶだろうか。
怒るだろうか。
何でもいい。
生きた声で、何かを言ってくれればいい。
ノルンを抱き、オレは冒険者ギルドへ向かって走り出した。