ルーデウス視点
翌朝、俺たちは捜索団本部の二階に集まった。
昨日と同じ会議室だが、机の上はまるで違っている。ミリス大陸各地の地図、教会や冒険者ギルドから届いた保護者名簿、商隊から買い取った旅人の記録、奴隷市場で確認されたフィットア領民の一覧が、隙間なく並べられていた。
紙と紙の間には、何度も書き直されたらしい走り書きや、現地から届けられた短い報告書も挟まっている。
その一枚一枚が、行方の分からない誰かへつながる可能性を持っていた。
もしかすれば、この中のどこかに母様たちの名前があるかもしれない。
そう思っただけで、机の上へ今すぐ手を伸ばし、端から全部を確認したい衝動が込み上げた。
だが、焦って同じ名前を何度も確認したり、重要な情報を見落としたりしては意味がない。俺は逸る気持ちを抑え、まず父さんの説明を聞くことにした。
壁の地図には、色の異なる印が打たれている。
赤は、既に捜索隊が入った地域。
青は、教会やギルドを通じて照会を終えた町。
黄色は、情報だけがあり、まだ現地で確認できていない場所。
印のない範囲も少なくなかった。
思っていた以上に広い。
父さんたちが一年以上捜索を続けても、すべてを調べることはできていない。
世界中へ散らされた人々を見つけることが、どれほど途方もない作業なのかを、地図の空白が突きつけてくる。
父さんは地図の前に立ち、一本の棒でミリシオン周辺を示した。
「大森林は雨季に入った。北側の道は増水と土砂崩れで、まともな捜索隊を送れねえ。現地の獣族やギルドへ照会は続けるが、こっちから大人数を入れるのは雨が弱まってからだ」
俺たちは雨季が本格化する直前に大森林を抜けられた。
少しでも遅れていれば、デドルディア族の村で雨季が明けるまで、三か月近く足止めされていた可能性が高い。その時間を先に進めたからこそ、今この時期にミリシオンへたどり着いている。
子供たちを助け、村まで送り届けたことは後悔していない。
それでも、あと数日遅ければ三か月を失っていたのだと思うと、背筋が僅かに冷えた。
今ここに立てているのは、いくつもの判断と偶然が重なった結果だった。
浮いた三か月を、ただ町で待つつもりはなかった。
母様たちがどこかで助けを待っているかもしれない。
三か月という時間は、待つ側にとってあまりにも長い。
父さんの棒が、ミリシオンを中心とした街道と周辺の集落をなぞる。
「今優先するのは、ミリシオンの外縁部、南西の街道沿い、それから教会の記録に名前だけ残ってる連中だ。大森林に入れない間に、こっちを全部潰す」
「潰すって、捜し終えるという意味よね?」
エリスが確認すると、父さんが少しだけ顔をしかめた。
「そういう意味だ」
「なら、最初からそう言いなさい」
「お前、随分細かくなったな」
「言葉を間違えると、後から揉めるのよ」
魔大陸で俺が何度も言っていたことを、エリスが父さんへ向けている。
以前のエリスであれば、相手の言葉の細かな意味を確認するより、自分が理解したまま動いていたかもしれない。
だが、魔大陸では曖昧な言葉一つが、命に関わる誤解を生むこともあった。
エリスも、それを経験として身につけている。
父さんは反論しかけたが、すぐに諦めた。
「分かった。捜し終える。これでいいか?」
「ええ」
そのやり取りを見ていたヴェラが、小さく笑った。
彼女は救助隊と護送隊の調整を担当している。机の上には既に複数の隊へ分けた名簿があり、誰がどこへ向かうかまで整理されていた。
「団長。最初の七日間は、こちらの編成でよろしいですか」
ヴェラが差し出した紙へ、父さんと俺たちが目を落とす。
父さん、俺、エリス、ルードという偽名で動くルイジェルド、そしてヴェラを中心とする実働隊。
レイネは救護所の記録を確認しながら、治療や大規模な救助が必要な時だけ合流する。
シェラはミリシオンへ残り、救護所と捜索団本部を行き来しながら、戻ってきた者の治療と記録照合を担当する。
ギースは別班へ入っていた。
「僕と一緒じゃないんですね」
俺が尋ねると、父さんは紙を見たまま答えた。
「一つの隊へ斥候を集めても仕方ねえ。ギースは山道や裏道の確認が上手い。別の隊で使う」
「聞こえてるぞ、パウロ。人を道具みてえに言うな」
部屋の端で朝食を食べていたギースが口を挟む。
「実際、働いてもらうからな」
「せめて、頼りにしてると言え」
「頼りにしてるから働け」
「言い方ってものがあるだろ」
昨日までなら、父さんとギースが言い合うたびに警戒していたかもしれない。
今も警戒が消えたわけではない。
ギースが人神の使徒である事実は変わらない。
父さんの昔の仲間として親しげに振る舞っている姿を見ていると、何も疑わずに信じたくなる瞬間もあった。
だが、親しさと危険性は両立する。
父さんへ本当に恩や友情を感じながら、人神の指示を受けて動くこともあり得る。
それでも、レイネが見ている。
俺も、何か不自然な動きがないか気をつければいい。
何も起きていない段階で追い出せば、かえって人神の動きを見失う可能性もある。
疑っているからこそ、目の届く場所にいる方がよい場合もある。
「それじゃ、今日から始める」
父さんが地図へ向き直った。
「雨季が終わるまでの三か月で、入れる範囲は全部捜す」
◇
最初の捜索先は、ミリシオンから馬車で半日ほど離れた石切り場だった。
半年前、フィットア領の訛りを持つ親子が働いていたという報告が届いている。
ただし、その後、石切り場の一部が崩落した。
経営者は町を離れ、働いていた者たちの正確な名簿も残っていない。
半年前。
それほど古い情報であれば、既に別の町へ移った可能性もある。
最悪の場合、崩落に巻き込まれているかもしれない。
そう考えるたびに胸の奥が重くなったが、現地へ行かなければ何も分からない。
俺たちは夜明け前に町を出た。
父さんとヴェラが先頭。
俺とエリスが中央。
ルイジェルドが最後尾で周囲を確認する。
捜索団員が四人同行し、そのうち二人は救助用の縄と担架を背負っていた。
魔大陸を旅していた時とは違う隊列だ。
あの頃は、俺たち三人ですべてを決め、すべてに対応していた。
今は捜索や救助を専門とする人間がいて、それぞれが必要な道具を持ち、自分の役割を理解している。
集団で動く安心感がある一方で、自分の判断一つが仲間へ影響する責任も強く感じた。
「ルーデウス」
父さんが馬上から俺を呼ぶ。
「何ですか?」
「今日は、勝手に一人で先へ行くな」
「そのつもりはありません」
「ならいい」
それだけだった。
細かな命令を並べるわけではない。
俺たちの実力を疑っているわけでもない。
ただ、父親として一言だけ釘を刺したかったのだろう。
俺が魔大陸から戻ったばかりで、また危険な場所へ向かう。
頭では任せられると分かっていても、父さんの中にある不安まで消えるわけではない。
その心配を鬱陶しいとは思わなかった。
むしろ、気に掛けてもらえていることが少し嬉しかった。
エリスが俺の隣から父さんを見る。
「ルーデウスは一人で行かないわ。私かルイジェルドが一緒にいるもの」
「そういうところは、信用してる」
「私は?」
「お前も信用してる」
「今、一瞬考えたでしょう」
「気のせいだ」
エリスが不満そうに父さんを睨む。
それでも、本気で怒ってはいない。
以前なら喧嘩になっていたかもしれないやり取りが、今は旅の緊張を少し和らげてくれた。
その日の昼前、石切り場へ到着した。
崩れた岩壁。
半分ほど土砂に埋まった作業小屋。
道具は残されているが、人の姿はない。
誰もいない静けさが、かえって不安を強くした。
放棄されてから時間が経った場所には見える。
だが、完全に人の気配が消えているわけでもなかった。
ルイジェルドが地面へしゃがみ、崩落跡の周囲を調べた。
「最近、人が通った跡がある」
「何人ですか?」
「少なくとも三人。大人が一人、子供が二人だ」
報告にあった親子と一致する。
生きているかもしれない。
その言葉が胸へ浮かんだ瞬間、わずかな希望に心臓が強く跳ねた。
ただ、足跡は石切り場から離れるのではなく、崩れた岩壁の奥へ続いていた。
「崩落の裏に空洞がある」
ルイジェルドが額を隠したまま岩壁を見る。
第三の眼で、向こう側にいる人間の位置を確認しているのだろう。
「生きている。だが、一人は動いていない」
父さんの顔が変わった。
俺の胸の中にも、一気に緊張が走る。
生きている。
だが、一人は動けない。
今この瞬間にも、容体が悪化している可能性がある。
「入口は」
「土砂の下だ」
父さんはすぐに全員へ役割を割り振った。
土砂を取り除く者。
周囲の岩を固定する者。
救出後の場所を整える者。
焦って全員が同じ場所へ集まれば、作業はかえって遅くなる。
父さんの声に迷いはなかった。
一年以上救助を続けてきた経験が、指示の速さに表れている。
俺は崩落した岩壁の前へ立ち、魔眼へ魔力を流した。
少し先の未来が、現在の景色へ重なって見える。
岩をどかした場合、上から小石が落ちる。
さらに奥を崩せば、右側の壁が割れる。
未来の像の中で岩が崩れ、空洞の内部へ落ちていく。
その下に人がいるかもしれないと思うだけで、背中へ冷たい汗が流れた。
最初に魔眼を得た頃は、未来の映像が見えるだけで頭が混乱した。
今も、動きの多い場所では現在と未来の区別が曖昧になる。
ここで判断を誤れば、救うための魔術が相手を殺す。
その恐怖を押し込み、俺は見える時間を短くした。
一瞬先。
岩へ魔力を流した時、どこへ亀裂が入るのかだけを見る。
すべての未来を追うのではない。
今必要な変化だけを選ぶ。
「右側へ支えを入れてください。中央の大きな岩は動かさず、その下から土を抜きます」
「分かった」
父さんは理由を尋ねなかった。
俺が指示した位置へ団員を動かす。
完全に理解しているわけではないはずだ。
それでも、俺が理由なく危険な指示を出す人間ではないと信じ、すぐに行動へ移してくれた。
その信頼が嬉しい反面、絶対に失敗できないという責任も強く感じた。
土魔術で地面を固め、岩壁へ柱を作る。
大きな岩を砕けば早い。
だが、その衝撃で中の空洞まで崩れる可能性がある。
動けない一人が、どこに横たわっているのかまでは分からない。
時間をかけ、少しずつ道を開いた。
早く助けたい。
だが、焦って崩せばすべてを失う。
進みの遅い作業へ苛立ちそうになるたび、中にいる者も今まで何日も耐えてきたのだと自分へ言い聞かせた。
エリスは崩れかけた木材を肩で支え、団員が縄を通すまで動かなかった。
「エリス、交代しましょう」
「まだ平気よ」
「腕が震えています」
「これくらい――」
「エリス」
ルイジェルドが名前を呼ぶ。
それだけで、エリスは不満そうに息を吐いた。
「分かったわ」
団員と場所を交代する。
以前なら、限界まで我慢し続けたかもしれない。
自分が耐えれば早く終わると考え、腕が動かなくなるまで支え続けただろう。
今は、自分が倒れれば救助が遅れることを理解している。
交代を受け入れたエリスの姿へ、成長を感じると同時に安心した。
二時間ほどかけて、人一人が通れる隙間ができた。
一番小柄な団員が中へ入り、まず二人の子供を連れ出す。
暗い隙間から小さな身体が現れた時、無意識に息を止めていた。
生きている。
自分の足で歩くことはできないが、呼吸はしている。
最後に、足を負傷した女性が担架へ乗せられて出てきた。
三人とも痩せていた。
雨水と、わずかに残っていた食料で何日も耐えていたらしい。
子供たちは母親の姿が見えるまで泣くこともできず、救助した団員へしがみついていた。
女性は父さんたちの腕章を見て、掠れた声を出した。
「フィットア領捜索団……?」
「そうだ」
父さんが女性の前へ膝をつく。
上から見下ろさず、怯えさせない距離で目線を合わせた。
「名前を聞いてもいいか」
女性は、自分と子供たちの名前を答えた。
ブエナ村の人間ではなかった。
ゼニス母様たちの情報も持っていない。
期待がなかったわけではない。
どこかで、母様たちへつながる話を聞けるかもしれないと思っていた。
何も知らないと分かった瞬間、胸の奥に小さな落胆が生まれる。
その感情へ、すぐに罪悪感が続いた。
この親子を助けられたことは、母様の情報が得られなかったからといって価値を失うわけではない。
それでも、毎回期待し、違うと分かるたびに落胆してしまう。
自分の心は、理屈ほど簡単に整ってくれなかった。
女性たちは、フィットア領の北西部にあった小さな農村の出身だった。
救助を終えた俺たちは、女性へ応急処置を施し、その日のうちにミリシオンへ戻った。
門の前にはシェラと、救護所の職員たちが待っていた。
「負傷者をこちらへ」
シェラが担架を受け取り、状態を確認する。
子供たちは、母親と離れまいと担架の横へついていく。
レイネは救護所の入口に立ち、必要な寝台と食事が用意されていることを職員へ確認していた。
俺たちが救助現場を離れた後も、助けた人間の生活は続く。
安全な寝床。
治療。
食事。
これから暮らす場所。
家族がほかにもいるなら、その照会。
救助した瞬間だけで終わる問題ではない。
この場所があるから、俺たちは次の捜索へ向かえる。
父さんが言っていた意味を、実際に見て理解した。
俺たちが次の誰かを助けに行けるのは、連れ帰った人を受け止めてくれる者がいるからだ。
誰か一人が、すべてを背負う必要はない。
◇
最初の一か月は、捜索と記録の確認に追われた。
街道沿いの宿場。
閉鎖された鉱山。
教会の地下に設けられた避難所。
商人が労働者を集めていた倉庫。
雨で増水した川の向こうにある集落。
一つずつ現地へ入り、名前を確認した。
朝早く町を出て、夜になって戻る日もあった。
何も見つからないまま、濡れた服と泥だらけの靴だけを持ち帰る日もある。
身体の疲れより、手掛かりを得られなかった時の方が重かった。
フィットア領出身だと名乗らない者もいた。
身分証を失い、証明できない者。
転移先で盗賊に襲われ、自分の出身を隠す癖がついた者。
貴族領から来たと知られれば、身代金を取られると思っていた者。
フィットア領から来たと名乗れば助けてもらえる。
俺たちにとってはそうでも、これまで何度も利用され、裏切られてきた人間には簡単に信じられない。
保護しようとして手を伸ばしただけで、後ずさる者もいた。
その反応を見るたび、助ける側の言葉が、必ず相手へ届くとは限らないことを思い知らされた。
話を聞くだけで終わる日もあれば、負傷者を担いで帰る日もあった。
ある商会では、フィットア領民を正規の労働者として雇っていると言い張っていた。
契約書も存在した。
だが、シェラが照合した教会の記録と、商会が提出した名簿では年齢が違っている。
ヴェラと父さんが証拠を集め、俺たちは商会の倉庫を確認した。
地下にいたのは、契約内容を読めないまま働かされていた八人だった。
薄暗い地下。
窓もなく、外へ続く扉には鍵が掛かっている。
それを正規の労働と呼ぶには、あまりにも無理があった。
エリスは倉庫の管理人へ飛びかかりそうになったが、俺が腕をつかむより先に止まった。
「殴ったら、証言を取る前に終わるのよね」
「はい」
「分かってるわ」
拳を握りながらも、剣は抜かなかった。
怒りを抑えていることは、震える手を見れば分かる。
以前なら、俺やルイジェルドが止める前に殴っていたかもしれない。
今は、自分の怒りを晴らすことより、地下にいた人々を助け、商会の関係者を明らかにすることを優先している。
代わりに、管理人が逃げないよう扉の前へ立つ。
その姿だけで、男は逃走を諦めた。
剣を抜かなくても、十分すぎるほど怖い。
別の日には、転移後にミリシオンの菓子屋へ拾われた少年が見つかった。
少年は旧フィットア領へ帰ることを望まなかった。
店の主人夫婦を、本当の両親のように慕っていたからだ。
初めて話を聞いた時、俺は少し戸惑った。
故郷へ帰れると分かれば、喜ぶものだと思っていた。
だが、少年にとっては、この店が既に帰る場所になっている。
父さんは無理に連れ戻さなかった。
本人の意思と、新しい保護者の名前を記録する。
家族が見つかった場合に連絡を取れるようにし、そのまま店へ残ることを認めた。
「捜索団は、全員を旧フィットア領へ連れて帰るための組織じゃねえ」
帰り道、父さんが俺へ言った。
「生きてることを確認して、本人がこれからどうしたいのかを選べるようにする。そのための組織だ」
以前の父さんなら、故郷へ帰るべきだと決めつけていたかもしれない。
少なくとも、自分が正しいと思った方向へ強引に進めようとしただろう。
俺をロアへ送り出そうとした時も、最初は自分の考えを優先していた。
だが今は、少年本人の言葉を聞いた。
故郷へ連れ帰ることだけが救いではないと理解し、少年が選んだ生活を残した。
「父さんも、変わりましたね」
何気なく言うと、父さんが横目で俺を見る。
「前は、そんなにひどかったか?」
「自覚がないんですか?」
「少しはある」
「少しですか」
「全部認めると、父親としての威厳がなくなる」
「もうあまり残っていないと思います」
「お前、魔大陸へ行って口が悪くなったな」
父さんはそう言いながらも、怒らなかった。
むしろ、少し嬉しそうにも見えた。
以前なら、父さんの間違いを指摘する時にも、どこか遠慮があった。
今はこうして冗談を言える。
離れていた一年の間に、俺だけでなく父さんも変わった。
それでも、根本にある親子の関係まで失われたわけではない。
そのことが嬉しかった。
少し後ろを歩いていたヴェラが、笑いを堪えるように口元を押さえていた。
◇
町へ戻れば、ノルンが待っているようになった。
最初の数日は、父さんの後ろから俺を見るだけだった。
俺が話しかければ返事はする。
だが、自分から近づくことはない。
当然だと思った。
ノルンにとって、俺は話の中でしか知らない兄だ。
赤ん坊の頃に会っていたとしても、覚えているはずがない。
俺の方だけが妹だと知っているからといって、すぐに同じ距離へ立てるわけではなかった。
それでも、毎日同じ食卓へつき、捜索から戻るたびに顔を合わせていると、少しずつ距離が縮まった。
「きょうも、ひとをみつけた?」
夕食の席で、初めてノルンから尋ねられた。
自分から俺へ話しかけてくれた。
それだけで、胸の奥が僅かに温かくなった。
「今日は二人見つかりました」
「おかあさんは?」
「まだです」
期待させるために嘘をつくことはできない。
大丈夫だ。
もうすぐ見つかる。
そう言えば、一時的には安心させられるかもしれない。
だが、守れるか分からない約束をすることは、後でさらに深く傷つける可能性がある。
ノルンの顔が曇る。
その表情を見るのはつらかった。
「でも、明日も捜します」
「わたしもいく」
「遠い場所なので、ノルンには危険です」
「おとうさんも、おにいちゃんもいくのに」
一人だけ残されることが不安なのだろう。
父さんも俺も外へ出る。
また帰ってこないかもしれない。
転移事件を経験したノルンにとって、家族が視界からいなくなることは、俺が思う以上に怖いのかもしれない。
それでも、危険な現場へ連れていくわけにはいかなかった。
「僕たちが捜してきます。ノルンは、帰ってきた時に迎えてください」
ノルンは納得していない様子だった。
翌日。
捜索から本部へ戻ると、入口にノルンが立っていた。
シェラと手をつなぎ、俺たちが通りの向こうから現れるのを待っている。
小さな身体が雨上がりの冷たい風に揺れているのを見た瞬間、胸が締めつけられた。
本当に待っていたのだ。
俺たちが帰るところを、自分の目で確認するために。
俺を見つけると、父さんより先に近づいてきた。
「おかえり」
「ただいま」
それだけだった。
たった二つの言葉なのに、胸の奥へ温かなものが広がった。
帰る場所で、待ってくれる相手がいる。
魔大陸を旅していた時には、ずっと求めていたものだった。
だが、その日からノルンは、俺たちの帰りを待つようになった。
俺が休みの日には、捜索団の名簿を写す練習もした。
文字を覚え始めたばかりなので、上手く書けない。
線は曲がり、文字の大きさもそろっていない。
それでも、家族の名前だけは一生懸命に書こうとする。
ゼニス。
リーリャ。
アイシャ。
ルーデウス。
パウロ。
ノルン。
「自分の名前も書くんですか?」
「みんな、かぞくだから」
ノルンは当然のように答えた。
胸が詰まり、すぐには返事ができなかった。
行方不明の者だけを書くのではない。
見つかっている者も、今ここにいる者も、全員を書いている。
離れていても、見つからなくても、家族であることは変わらない。
ノルンにとって、その紙は捜索名簿ではなく、家族全員を一つの場所へ並べたものなのだろう。
その紙は、折り畳まれてノルンの小さな鞄へ入れられた。
◇
捜索のない朝は、ルイジェルドとの訓練に使った。
最初に決められた課題は、魔眼を使ったまま、ルイジェルドの木槍を三十回連続で避けることだった。
「始めるぞ」
ルイジェルドが踏み込む。
未来の光景が見える。
木槍が右肩へ来る。
俺は左へ避けた。
だが、実際の槍は途中で止まり、足払いへ変わった。
未来の光景も、その瞬間に変化する。
俺が足を上げようとした時には、槍の柄が胸元へ突きつけられていた。
「一回だ」
「今、未来が変わりました」
「お前が動いたからだ」
ルイジェルドは当然のように答える。
「魔眼が見せるのは、今の動きが続いた場合の未来だ。相手は、お前の反応を見て動きを変える」
「分かってはいるんですが」
「分かることと、使えることは違う」
その言葉どおりだった。
魔眼は強力だ。
見えなければ避けられなかった攻撃を、事前に確認できる。
だが、見えた未来を絶対だと思えば、簡単に誘導される。
ルイジェルドは俺が避ける方向まで読んで攻撃を変えてくる。
未来を長く見ようとすれば、映像が増え、現在の動きが遅れる。
複数の槍が重なって見え、その中のどれが今起きようとしているものなのか、判断へ迷う。
短すぎれば、身体が反応する前に攻撃が届く。
「見る時間を一定にするな」
ルイジェルドが教える。
「相手との距離、武器、地形で変えろ」
レイネも、訓練の合間に助言した。
「未来の映像そのものを追うのではなく、現在との相違だけを認識してくださいませ」
「相違ですか」
「はい。ルーデウス様が動いたことで未来が変化した場合、変わらなかった部分まで改めて見る必要はございません」
言葉で聞けば簡単だ。
実際にやれば、頭が割れそうになる。
未来と現在が重なり、その一部だけが変わる。
変化した部分へ意識を向けた瞬間、現在の身体が止まる。
俺は最初の一週間、十回を超えることすらできなかった。
ルイジェルドの槍が見える。
避ける。
未来が変わる。
もう一度見る。
次の未来へ意識を奪われた瞬間、現在の足元を払われる。
転倒する。
土の冷たさと、打ちつけた身体の痛みが現実へ意識を戻す。
起き上がる。
悔しい。
同じ失敗を繰り返している自分へ腹が立つ。
それでも、ここで投げ出せば魔眼を得た意味がない。
また始める。
それを繰り返した。
エリスは、俺の訓練が終わるのを待ってからルイジェルドへ挑んでいた。
「今度こそ一本取るわ」
「来い」
エリスは速くなっていた。
剣の振りだけではない。
一歩目を隠す。
視線と肩の向きをずらす。
一度退くように見せ、相手が追う瞬間に踏み込む。
魔大陸を旅し始めた頃のように、最初から全力で突っ込むだけではない。
俺の魔眼へ対抗する中で、動きを読ませない方法を身につけ始めている。
それでも、ルイジェルドには届かない。
木剣を弾かれ、足を払われ、地面へ転がされる。
「もう一度!」
起き上がり、また構える。
何度倒されても、悔しさを次の一歩へ変えている。
その姿を見ていると、俺も休んでいられなかった。
自分だけが疲れた顔をして座っていることが、妙に恥ずかしく感じられた。
◇
一か月目の終わり。
俺は魔眼を使ったまま、ルイジェルドの木槍を三十回避けた。
三十回目を避けた瞬間、胸の中へ達成感が広がった。
やった。
そう思い、安心して動きを止めた俺の額へ、三十一回目の突きが当たった。
「痛っ……」
「終わったと思ったでしょう」
エリスが呆れたように言う。
「課題は三十回でしたから」
「戦いは、相手が終わったと言うまで終わらないわ」
「お前が言うと説得力がある」
ルイジェルドが頷く。
「褒めてるの?」
「褒めている」
エリスは満足そうに胸を張った。
俺は額を押さえながら起き上がる。
三十回避けられた。
それ自体は、確かな進歩だ。
最初の頃は十回にも届かなかった。
だが、魔眼を完全に使えているとは言えない。
決められた攻撃を避けただけだ。
複数の敵。
周囲の人間。
地形。
魔術。
実戦では、見るべき未来が一つではない。
一つの攻撃へ集中している間に、別の敵が動く。
守るべき人間が進路へ入ることもある。
自分の魔術によって、地形そのものが変わることもある。
ルイジェルドも同じ考えだった。
次の日から、訓練内容が変わった。
俺はエリスと模擬戦を行うことになった。
◇
最初の模擬戦では、俺が距離を取る前に負けた。
開始の合図と同時に、エリスが踏み込む。
魔眼には、正面から斬りかかる未来が見えた。
俺は右へ避けながら、足元へ泥を作ろうとした。
だが、エリスは俺が動いた瞬間に進路を変えた。
未来が揺れる。
魔術を放つより早く、木剣が首へ触れる。
「私の勝ちね」
エリスの顔には、隠す気もないほどの満足感が浮かんでいた。
「近すぎませんか?」
「実戦で敵に、もう少し離れてくださいって頼むの?」
「頼みません」
「なら、もう一度よ」
二戦目は、開始前に土壁を作ってよい条件にした。
今度は俺が勝った。
壁で進路を限定し、魔眼で踏み込みの瞬間を見て、足元だけを泥へ変える。
エリスが体勢を崩したところへ、水弾を当てた。
「今のは卑怯よ」
「魔術師へ正面から走る方が悪いです」
「もう一回!」
条件を変えながら、何度も戦った。
距離が近ければエリス。
十分な準備があれば俺。
互いの得意な条件だけで戦っていても、意味がない。
エリスは接近できれば勝てる。
俺は距離と準備があれば勝てる。
それだけでは、分かっていたことを確認しているにすぎない。
開始距離を変える。
障害物を置く。
魔術の威力を制限する。
エリスには木剣だけでなく、投擲用の小さな木片も持たせる。
俺は大規模魔術を禁じられ、周囲を壊さずに戦う。
最初は、勝敗が条件だけで決まっていた。
近ければ負ける。
遠ければ勝つ。
結果が始まる前から分かるような戦いだった。
だが、二か月目に入る頃には違ってきた。
エリスは俺の魔術を見てから避けるのではなく、杖と指の向きから発動位置を読むようになった。
魔術が形になる前に動かれ、狙った場所には既に誰もいない。
俺は魔眼に映った剣先だけを見るのではなく、エリスの重心、足の位置、退路を同時に見るようになった。
未来を見る時間も、常に同じではない。
距離がある時は、少し長く。
接近された時は、一瞬先だけ。
攻撃を避けた直後には、いったん魔眼を弱め、現在の位置関係を捉え直す。
最初の頃は訓練が終わるたび、目の奥が痛み、吐き気で立っていることも難しかった。
今では、魔眼を使い続けても、頭痛や吐き気がほとんど起きなくなった。
現在と未来が重なっても、どちらが現実なのかを見失わない。
エリスの攻撃へ反応したことで未来が変われば、変わった部分だけを読み直す。
ある日の模擬戦で、エリスの木剣が三つに見えた。
正面へ振り下ろされる未来。
途中で止まり、左から胴を狙う未来。
俺が後退した場合に、そのまま踏み込んでくる未来。
以前なら、どれが本当か迷って動けなくなっていた。
一つを選べば、外れた時に負ける。
だが、どれか一つが正解だと決める必要はない。
俺はどれか一つを選ばなかった。
正面と左側の両方を土壁で塞ぎ、後ろへ下がらず、その場で身を沈める。
エリスの木剣が頭上を通り過ぎた。
同時に、足元へ風を当てる。
体勢を崩したエリスの胸元へ杖を突きつけた。
「僕の勝ちです」
エリスは目を見開いた。
悔しそうに歯を食いしばるかと思ったが、すぐに笑った。
「今の、全然動きが読めなかったわ」
「未来が三つ見えました」
「三つ?」
「エリスが僕の動きに合わせて変えられる攻撃が、三つです。どれが来てもいいようにしました」
「なら、次は四つにする」
「増やせるんですか?」
「今から考えるわ」
本気らしい。
敗北して落ち込むより、その場で次の手を考えている。
翌日の模擬戦では、実際に四つ目の選択肢が増えていた。
エリスは剣を振らず、俺が守りを固めた瞬間に地面の砂を蹴り上げた。
砂が目へ入る。
反射的に目を閉じた俺の肩へ木剣が触れる。
「私の勝ち!」
「それは剣技なんですか?」
「勝ったからいいのよ」
ルイジェルドは否定しなかった。
「実戦なら有効だ」
「ルイジェルドさんまで……」
エリスが剣だけにこだわらず、勝つための手段を増やしている。
正々堂々ではないと文句を言いたくなる一方で、俺自身も壁や泥を使っている以上、否定できなかった。
こうして、俺とエリスの勝敗は少しずつ拮抗していった。
完全な近距離なら、まだエリスが圧倒的に有利だ。
十分に距離があれば、俺が負けることは少ない。
その中間。
互いに相手の得意分野へ踏み込める距離では、どちらが勝つか分からなくなった。
勝敗が分からないからこそ、一度の判断が楽しく、同時に怖かった。
◇
訓練だけをしていたわけではない。
二か月目にも、捜索は続いていた。
南西街道の先では、雨で橋が流され、三つの集落が孤立していた。
そこにフィットア領出身者がいるという報告が届いたため、俺たちは救援物資とともに現地へ向かった。
川は濁流になっていた。
橋の残骸が、水面へ何度も叩きつけられている。
轟音とともに流れる水を見ているだけで、足元まで引き込まれそうな恐怖を感じた。
対岸には住民が集まり、こちらへ布を振っていた。
「俺が渡って縄を張る」
ルイジェルドが言う。
あの身体能力なら、川を渡ること自体は可能なのだろう。
それでも、濁流の中には何が流れているか分からない。
「お待ちください」
レイネが流れを確認する。
「上流から大きな流木が参ります」
俺も魔眼へ魔力を流した。
数秒後。
水面を覆うほどの流木が、川の曲がり角から現れる。
その未来が見えた。
巨大な流木が橋の残骸へ衝突し、粉々に砕く光景。
見えた瞬間、息が詰まった。
「今は渡らないでください。七つ数えた後に流木が来ます」
父さんが俺を見る。
以前なら理由を聞いたかもしれない。
本当に見えるのか。
どれほど大きいのか。
そう確認している間に、七つなどすぐに過ぎてしまう。
今はすぐ、川辺にいる団員を下がらせた。
七つ数えた直後、大きな流木が濁流の中から現れた。
橋の残骸へ衝突し、残っていた柱をまとめて引き倒していく。
地面まで震えるような音が響いた。
あの時ルイジェルドが渡っていれば、避けられたとしても縄を張る作業は中断されていただろう。
最悪の場合、流木と橋の残骸に挟まれていたかもしれない。
未来を見られたことに安堵しながらも、一歩遅ければという想像が背筋を冷たくした。
流木が通り過ぎた後、レイネが水流を一時的に弱め、俺が川底から土の柱を作った。
ルイジェルドが柱を足場に対岸へ渡り、縄を固定する。
エリスと団員たちが、物資を吊り下げて送った。
誰か一人の力だけではできない。
俺の魔術だけでも、レイネの魔術だけでも、ルイジェルドの身体能力だけでも不足している。
一つずつを組み合わせることで、初めて安全な道ができた。
集落には、フィットア領出身者が五人いた。
一人は帰還を望んだ。
二人は、ミリシオンで家族の情報だけを確認したいと答えた。
残る二人は、この集落で家庭を持っており、ここへ残ることを選んだ。
全員の意思と住所を記録する。
帰らないという選択をした二人も、故郷を捨てたわけではないのだろう。
新しい家族と、新しい生活を選んだだけだ。
捜索団の仕事は、それで終わりではなかった。
孤立していた住民の中には病人もいる。
食料も減っていた。
フィットア領民の確認だけを終え、あとは関係ないと帰ることもできる。
だが、それでは俺たちが通った後に、集落で死者が出るかもしれない。
俺たちは三日間集落へ残り、仮橋を作り、治療と物資の分配を手伝った。
家族の捜索が遅れるという焦りはあった。
だが、目の前に助けを必要としている人がいる。
そこで背を向ければ、母様たちが同じように誰かへ見捨てられても、何も言えない気がした。
帰る日の朝。
集落の子供たちが、エリスとルイジェルドの周囲へ集まっていた。
エリスは木の枝を剣代わりに持ち、足の運び方を教えている。
「振る時に目を閉じたら駄目よ。相手を見なさい」
「こわいよ」
「怖くても見るの。見ない方がもっと怖いわ」
少し厳しい。
だが、以前のようにできない子供を怒鳴ることはなかった。
怖いという気持ちを否定せず、それでも見る必要があると教えている。
エリス自身も、魔大陸で恐怖から目を逸らさず進んできたからこその言葉なのだろう。
ルイジェルドは、子供たちが転ばないよう後ろから支えている。
スペルド族だと知れば、彼らは泣いて逃げるかもしれない。
今はただ、無口で子供に優しい青髪の槍使いとして慕われていた。
正体を隠していることへ寂しさはある。
それでも、ルイジェルド本人の行動が、噂とは別の印象として子供たちの中へ残る。
いつか正体を知った時にも、優しく支えてくれた記憶まで消えるわけではない。
俺はその光景を見ながら、隣に立つレイネへ視線を向けた。
レイネは集落の女性へ、仮橋が壊れた場合の連絡方法を説明している。
相手が理解できたかを一つずつ確認し、必要な内容を紙へ書き残す。
自分がいなくなった後のことまで考え、誰にでも分かる形で残している。
白い髪が風に揺れる。
赤い瞳は真剣で、それでも相手を不安にさせないよう穏やかだった。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられた。
苦しいわけではない。
むしろ、見ていたいと思う。
だが、見ているだけでは満たされず、同時に落ち着かない。
その感情へ、いつまでも別の名前をつけ続けることはできなかった。
俺は、レイネに恋をしている。
尊敬している。
大切に思っている。
そばにいてほしい。
それだけではない。
レイネが別の誰かへ同じ笑顔を向ければ、少しだけ胸がざわつく。
相手を安心させるための笑みだと分かっている。
レイネが誰かを助け、その人から感謝されることを嬉しいとも思う。
それでも、その笑顔を自分だけへ向けてほしいと思う瞬間がある。
無事に戻ってきた姿を見れば安心し、離れて行動すると聞けば心配になる。
夜、隣の部屋にいると分かるだけで落ち着く。
足音や、物を置く小さな音を聞くだけで、今日もそこにいるのだと安心する。
これは家族への情とも、侍女への信頼とも違う。
はっきりと、恋だった。
自覚した瞬間、胸の奥が熱くなると同時に、逃げ出したくなるような恥ずかしさが込み上げた。
けれど、伝えることはできない。
レイネは俺へ仕えることを、自分の生き方のように決めている。
俺が好きだと言えば、彼女はどう答えるだろう。
仮に受け入れてくれたとしても、それがレイネ自身の気持ちなのか、主人である俺の望みに応えただけなのか、俺には判断できない。
俺の望みを断ることが、レイネにできるのかも分からない。
そんな状態で答えを求めるのは、卑怯だ。
自分の立場を利用して、望む返事を言わせることと変わらない。
家族も見つかっていない。
エリスの家族も行方不明だ。
俺たちは、まだ帰る途中にいる。
今、伝えるべきではない。
それでも、自分の気持ちから逃げるのはやめようと思った。
侍女だから大切なのだ。
家族のようなものだから心配なのだ。
そう言い換え続けることは、かえってレイネにも自分にも不誠実な気がした。
俺はレイネが好きだ。
伝えられなくても、その事実だけは認める。
「ルーデウス様?」
レイネがこちらへ気づく。
「いかがなさいましたか」
「何でもありません」
反射的に答えた。
今まで何度も使ってきた言葉なのに、今日は妙に後ろめたい。
「お疲れでしょうか」
「少しだけ」
レイネが俺の顔を覗き込む。
距離が近い。
赤い瞳の中へ、自分の顔が映っている。
今までなら何とも思わなかった距離なのに、気持ちを自覚した後では、呼吸の仕方さえ分からなくなりそうだった。
思わず一歩下がりそうになったが、不自然なので耐えた。
「町へ戻りましたら、今夜は早めにお休みくださいませ」
「はい」
それ以上は言えなかった。
好きだと気づいた直後に、普段どおりの顔で会話を続けることは難しい。
今は、それでよかった。
◇
二か月目の後半から、レイネとの二対一の模擬戦が始まった。
提案したのはエリスだ。
「私とルーデウスの二人で、レイネに挑みたいわ」
夕食後、突然そう言った。
レイネは少し困ったように首を傾げた。
「大森林での模擬戦だけでは、足りなかったのでございますか」
「足りないわ」
エリスは即答した。
「大森林では、私一人でレイネに挑んだでしょう。でも、今はあの時より強くなったし、ルーデウスも魔眼を使えるようになってきた。二人で組めば、レイネにどこまで通じるのか試したいのよ」
大森林で、エリスとレイネが一対一で模擬戦をしたことはある。
だが、俺とエリスが二人でレイネへ挑むのは初めてだ。
俺としても興味があった。
レイネが強いことは知っている。
以前の模擬戦でも、エリスを相手に実力差を見せていた。旅の途中でも、危険な魔物や人攫いをほとんど苦にせず制圧している。
しかし、今の俺とエリスが連携すれば、どこまで迫れるのかは分からない。
恋を自覚したからといって、手加減してほしいとは思わなかった。
むしろ、対戦相手として本気で向き合ってもらい、自分たちの成長を認めさせたいという気持ちが強くなっていた。
「二対一で、お願いできませんか」
俺も頼むと、レイネはしばらく考えた。
「条件を設けてもよろしいでしょうか」
「どんな条件?」
「訓練場の中央に円を描きます。私を円の外へ出すか、肩へ結んだ布を取ることができれば、お二人の勝ちといたします」
「レイネは?」
「お二人の武器を落とすか、戦闘継続が不可能と判断した時点で、私の勝ちでございます」
エリスが笑う。
「いいわ」
二対一での最初の模擬戦は、十秒も続かなかった。
開始の合図を聞き、俺が魔術を選ぼうとした瞬間には、レイネが視界から消えていた。
次の瞬間には杖を奪われている。
何が起きたのか理解するより先に、手の中が空になっていた。
エリスが背後から斬りかかる。
レイネは振り向かずに木剣を受け流し、そのまま手首を取って地面へ寝かせた。
「終了でございます」
「今のはなし!」
エリスが起き上がる。
「開始したばかりでございますが」
「速すぎて分からなかったもの!」
「大森林でも申し上げましたが、実戦の敵は待ってくださいません」
エリスが悔しそうに唇を曲げる。
俺は奪われた杖を受け取りながら、レイネの言葉へ頷いた。
俺も悔しい。
二人なら少しくらい戦えると思っていた。
だが、連携を考える前に終わった。
実力が二倍になるどころか、互いが何をするのか分からず、一人ずつ倒されただけだ。
「もう一度お願いします」
「望むところよ」
二戦目も負けた。
三戦目も。
一週間経っても、布へ触れることすらできない。
レイネは魔術を使わない。
木剣も一本だけ。
円の中からほとんど動かない。
それでも、俺たちの攻撃は届かなかった。
魔眼で未来を見る。
レイネが右へ避ける。
そこへ土壁を出す。
だが、未来が変わるより先に、レイネは土壁が出る位置を避けている。
俺が未来を見て対応することまで、最初から読まれているようだった。
エリスが俺の作った死角から踏み込む。
レイネはエリスを見ていないはずなのに、剣の腹で木剣を止める。
背中に目があるのではないかと本気で疑いたくなる。
「レイネは未来が見えるんですか?」
ある日の敗北後、俺は尋ねた。
「いいえ」
「では、どうして全部分かるんですか」
「ルーデウス様は、魔術を発動する前に視線がわずかに動きます。エリス様は、踏み込む前に左足へ力を入れます」
「それだけで?」
「それ以外にもございます」
詳しくは教えてくれなかった。
自分たちで見つけろということだろう。
何もかも教えてもらえば、その場では上達できるかもしれない。
だが、自分の癖を自分で認識し、相手が何を見ているのかを考えなければ、別の相手へは応用できない。
俺たちは戦い方を変えた。
俺がレイネを倒そうとするのではない。
エリスが布を取るための道を作る。
俺一人の魔術で勝とうとすれば、レイネは簡単に対応する。
エリスも、最初から布だけを狙わない。
俺が魔術を使える時間を作るため、レイネの視線と足を止める。
互いが自分の勝ちを求めるのではなく、二人で一つの勝利条件を満たす。
声で合図を出せば読まれる。
だから、事前に動きの組み合わせを決めた。
土壁を二つ出した場合は右。
水弾なら左。
風を地面へ撃った場合は、エリスが一度退く。
俺が杖を投げた場合は、全ての予定を捨てて同時に踏み込む。
一つずつ、二人だけに分かる動きを増やした。
訓練の前後には、何が見抜かれたのかを話し合った。
俺の魔術が遅かったのか。
エリスの踏み込みが早すぎたのか。
レイネを動かすことばかり考え、布を取る目的を忘れていなかったか。
レイネとの模擬戦は、十秒から三十秒へ延びた。
三十秒から、一分。
一分から、二分。
それだけ長く戦えば、息も上がる。
魔力も体力も消耗する。
勝つことはできない。
だが、二対一を始めた頃のように、何もできずに終わることはなくなった。
レイネの足を一歩動かす。
木剣を一度大きく振らせる。
最初はそれだけでも、大きな成果に感じられた。
三か月目の最初の日。
父さん、ノルン、ルイジェルド、ヴェラ、シェラが見守る中で、その時点での仕上げとなる模擬戦を行った。
ノルンまで見ている。
負けたくないという気持ちは、普段以上に強かった。
「始め!」
父さんの合図と同時に、エリスが正面から踏み込む。
俺は動かない。
焦って魔術を放てば、いつもどおり読まれる。
レイネはエリスの剣を受け流しながら、こちらへ視線を向けた。
俺が何をするか確認している。
魔眼に映る未来。
俺が土壁を出せば、レイネは左へ。
水弾なら右へ。
風なら、その場で屈む。
どの未来でも、円から出ない。
どの魔術を使っても、レイネは対応する。
ならば、魔術を選ぶこと自体が読まれている。
俺は何も撃たず、杖を地面へ落とした。
乾いた音が訓練場へ響く。
決めていた合図。
全ての予定を捨てる。
エリスが一度下がった。
レイネの視線が、落ちた杖へわずかに動く。
ほんの一瞬。
だが、今までほとんど隙を見せなかったレイネの注意が、俺たち以外へ向いた。
俺は無詠唱で地面を盛り上げ、自分の身体を前へ押し出した。
魔術師が杖を捨て、自分から接近する。
自分でも、普段なら選ばない行動だ。
レイネも、完全には予想していなかったらしい。
赤い瞳が僅かに見開かれた。
木剣が俺の肩へ向かう。
未来が見える。
避ければ、エリスへの道が塞がる。
レイネは俺を追う動きのまま、エリスとの間へ入る。
そうなれば、また布へ届かない。
俺は避けなかった。
怖くないわけではない。
木剣とはいえ、レイネの一撃をまともに受ければ倒される。
だが、ここで退けば今までと同じだ。
木剣が肩へ触れる直前、風をまとわせて衝撃を流す。
鈍い痛みが肩から腕へ走った。
骨まで響く。
痛みはある。
だが、倒れない。
「ルーデウス様」
レイネの声に、初めて僅かな驚きが混じった。
普段なら俺が傷つくことへ、すぐに反応するレイネ。
その一瞬の迷いも、今は勝つために利用する。
俺はレイネの木剣を両手でつかんだ。
掌が擦れ、痛みが走る。
同時にエリスが踏み込む。
狙いは肩の布。
レイネは木剣を手放した。
初めて武器を捨て、エリスの手首を素手で取ろうとする。
俺は地面から細い土柱を伸ばし、レイネの足元を押した。
ほんの一歩。
レイネの右足が円の端へ近づく。
エリスの指が、布へ触れた。
届いた。
胸の中で叫んだ次の瞬間。
柔らかな風が弾けた。
俺とエリスの身体が、同時に地面へ転がる。
強い風ではない。
それでも、完全に体勢を崩され、地面へ背中を打ちつけた。
息が一瞬詰まる。
起き上がろうとした時には、レイネが二本の木剣を持って立っていた。
一本は、俺がつかんでいたもの。
もう一本は、訓練場の端へ置かれていた予備だ。
いつ拾ったのか、まるで見えなかった。
俺の首元と、エリスの胸元へ、それぞれ木剣が突きつけられている。
「終了でございます」
静寂の後。
父さんが、長く息を吐いた。
「今、何が起きた」
「私にも全部は見えませんでした」
ヴェラも目を見開いている。
エリスは地面へ座ったまま、自分の指を見る。
「触ったわ」
「はい」
レイネが答えた。
「布へ触れられました」
「なら、あと少しだったのね」
「はい。私が魔術を使用しなければ、取られておりました」
初めて、レイネに魔術を使わせた。
武器も一本では足りず、二本使わせた。
勝てなかった。
悔しい。
あと指一本分だけ強くつかめていれば。
あと一歩、レイネの足を押せていれば。
そんな考えが次々に浮かぶ。
それでも、大森林でエリスが一人で挑んだ時や、二対一を始めたばかりの頃とは違う。
俺たち二人の連携は、確かにレイネへ届き始めていた。
手も足も出なかった相手へ、一つの条件を使わせた。
それは、負けの中にある確かな成長だった。
レイネは俺とエリスへ手を差し出した。
「お二人とも、大きく成長されました」
その言葉が、素直に嬉しかった。
主人を褒める侍女としての言葉ではなく、対戦相手として俺たちの成長を認めてくれているように聞こえた。
「まだ勝ってないわ」
エリスが立ち上がる。
「次は勝つ」
「楽しみにしております」
俺も立ち上がった。
肩が痛い。
興奮していた間は気にならなかったが、木剣を受けた場所が強く脈打っている。
シェラが呆れた顔で近づき、治癒魔術を使う。
「わざと受けましたね」
「避けたら、エリスの道が塞がったので」
「だからといって、毎回身体で受けないでください」
「次から気をつけます」
「絶対に気をつけない人の返事です」
否定できなかった。
同じ状況になれば、また受ける可能性は高い。
それでも、毎回身体で止めていては、いつか本当に動けなくなる。
シェラとの関係も、この三か月で随分近くなった。
負傷して帰れば叱られる。
治癒を受けながら、次は何を改善するかを相談する。
最初は父さんの団員としてしか知らなかった。
今では、叱られる声を聞くだけで少し安心する。
無事に戻り、治療できる場所にいることを実感できるからだ。
ヴェラとは地図と人員配置について話すことが増えた。
最初は団長の息子として扱われていたが、今では捜索隊の一員として意見を求められる。
どの魔術を使えるかではなく、現場でどう判断するかを見てもらえている。
そのことが嬉しかった。
救護所の職員たちも、俺たちが戻れば自然に食事や寝台の確認を頼んでくる。
エリスは子供たちの相手を任されるようになった。
ルイジェルドは表向き無口な護衛だが、怯える子供を落ち着かせる役目では、誰よりも頼られている。
レイネは救護所の創設者として尊敬されながらも、以前と同じ責任者の女性へ運営を返したまま、自分だけで全てを決めようとはしなかった。
俺たちは、この町で暮らし続けるわけではない。
それでも、三か月の間に、多くの人と関わり、多くの名前を覚えた。
町を離れる日が来ることを考えると、既に少し寂しく感じるほどだった。
◇
三か月目。
捜索範囲は急速に狭まっていった。
ミリシオン周辺の街道。
南西部の町や村。
教会の保護施設。
労働者を集める商会。
確認可能な奴隷市場。
雨季でも入れる範囲の山道。
地図の黄色い印が、一つずつ赤か青へ変わっていく。
調べ終えた場所が増えている。
普通なら、進んでいることを喜ぶべきなのだろう。
だが、黄色が減るほど、母様たちの手掛かりがこの地域にはないという可能性も高くなる。
その間も、ゼニス母様、リーリャ、アイシャの情報は見つからなかった。
フィリップ様とヒルダ様についても、確かな記録はない。
ギレーヌの名も、ミリス大陸側の記録にはなかった。
毎日、名簿を確認する。
似た名前を見つければ胸が跳ねる。
ゼニスに似た名前。
リーリャと同じ頭文字。
年齢の近い幼い少女。
もしかすればと紙へ顔を近づける。
年齢や出身地を見て、別人だと分かる。
期待が一気に落ち、胸の中へ空洞ができる。
その繰り返しだった。
期待しなければ傷つかない。
何度もそう思った。
だが、名前を見るたびに期待せずにはいられなかった。
レイネは、俺より早く名簿を確認していた。
けれど、見つからなかった時に慰めの言葉を口にすることはなかった。
きっと見つかる。
大丈夫だ。
そんな確証のない言葉は言わない。
ただ、次の記録を一緒に調べた。
紙をめくる音。
名前を確認する声。
それだけが続く。
俺も、それでよかった。
下手な慰めより、隣で同じものを探し続けてもらえることの方が支えになった。
ある日の夕方。
最後に残っていた南側の修道院から、照会への返事が届いた。
保護されていたフィットア領民は三人。
全員、既に別の土地へ移住している。
家族の名前に、俺たちが探している者はいない。
最後まで目を通し、もう一度名前を確認した。
結果は変わらない。
ヴェラが地図の最後の黄色い印を、青へ塗り替えた。
小さな筆が地図へ触れ、黄色が隠れていく。
「大森林を除けば、今入れる範囲は一通り終わりました」
会議室にいた全員が、地図を見る。
三か月前は隙間だらけだった。
今は、ミリシオンを中心とした広い範囲が赤と青で埋まっている。
俺たちは確かに多くの場所を捜した。
人も助けた。
情報も整理した。
それでも、行方不明者が全員見つかったわけではない。
母様たちも見つかっていない。
達成感と落胆が、胸の中で混ざり合った。
それでも、捜していない場所はほとんど残っていない。
「北は雨季が明けてから、現地支部と別班が引き継ぎます」
ヴェラが続ける。
「西側の港と中央大陸方面については、これから別の捜索網を作る必要があります」
父さんは地図を見たまま、しばらく黙っていた。
この三か月、毎日見てきた地図だ。
父さんにとっては、それよりさらに長い時間を費やした地図でもある。
やがて、俺とエリスへ顔を向ける。
「行ってこい」
「ここを、ですか」
自分から先へ進むべきだと思っていた。
それでも、実際に父さんから出発を促されると、胸の中が僅かに揺れた。
再会して、まだ三か月しか経っていない。
ノルンとも、ようやく兄妹らしく話せるようになったばかりだ。
「ああ。ここでできることは十分やった」
父さんは机の上の資料をまとめる。
「ゼニスたちの手掛かりが、この周辺にある可能性は低くなった。エリスの家族も同じだ。旧フィットア領へ行けば、アルフォンスが集めた中央大陸側の情報を確認できる」
大森林の雨季が明ければ、今度は北側の捜索が再開される。
しかし、そこは父さんたち捜索団が継続して調べる範囲だ。ミリシオンの拠点を率いる父さんまで、俺たちと一緒に旧フィットア領へ向かう余裕はない。
何より、ノルンを再び危険な長旅へ連れ出すはずもなかった。
家族を捜すために、再び家族と離れる。
矛盾しているようで、それしか方法がない。
「雨季が明けた後の大森林は、父さんたちが引き継ぐんですね」
「ああ」
父さんは迷わず頷いた。
「現地の獣族とギルドには、もう話を通してある。道が使えるようになり次第、オレたちが北へ入る。だから、お前らまでここに残る必要はねえ」
父さんは隣にいるノルンの頭へ手を置いた。
「オレは、こいつとミリシオンに残る。捜索団の拠点を空にはできねえし、ノルンをまた長旅へ連れ回すつもりもない」
ノルンは父さんの服を握った。
俺たちと一緒に行きたいとは言わなかった。
表情には寂しさがある。
それでも、この三か月で、父さんがここへ戻ってくるのを待つことにも、少しずつ慣れたのだろう。
自分が行けない場所へ、誰かを送り出すことも理解し始めている。
「ルーデウス」
父さんが俺を見る。
「三か月前なら、もう少し休めと言ってた」
「はい」
「今は言わねえ。お前は、自分で考えて動ける」
父さんの視線が、エリスとルイジェルド、レイネへ移る。
「一人でもねえ」
胸の奥が熱くなる。
父さんに認めてもらいたかったのかもしれない。
俺はもう子供ではないと。
自分で考え、仲間と相談し、危険へ向き合えると。
それを証明するために旅をしてきたわけではない。
それでも、父さんから実際に言葉として認められると、嬉しかった。
同時に、一人ではないと言ってもらえたことが何より心強かった。
俺は魔大陸で、一人で何でも決めようとして失敗した。
今はエリスがいる。
ルイジェルドがいる。
レイネがいる。
「旧フィットア領へ行け。アルフォンスに会って、向こうの記録を見ろ。それから先は、そこで決めればいい」
「分かりました」
俺は頷いた。
不安はある。
何が待っているのか分からない。
それでも、今度は自分で選び、仲間とともに進める。
「行ってきます」
◇
出発の準備には三日かかった。
馬車の点検。
食料と水。
中央大陸へ渡るための費用。
捜索団と救護所から預かる手紙。
旧フィットア領のアルフォンスへ渡す報告書。
俺たちが三か月で確認した地域の記録も、写しが作られた。
一枚でも紛失しないよう、原本とは別に複数の写しを用意する。
旅の途中で何かが起きても、すべての情報が失われないようにするためだ。
ヴェラは最後まで人員と荷物の確認を手伝ってくれた。
「ルーデウスさんがいなくなると、地図の整理が遅くなります」
「僕より上手い人はいるでしょう」
「魔術で同じ大きさの地図を何枚も作れる人は、そういません」
「そこですか」
少し期待した自分が恥ずかしくなった。
「もちろん、現場の判断も頼りにしています」
ヴェラは少し笑った。
「無事に戻ってください」
「はい」
短い言葉だった。
だが、捜索隊の一員として一緒に働いた相手から心配してもらえることが嬉しかった。
シェラからは、大量の薬を持たされた。
「使わずに済むのが一番です」
「分かっています」
「無理をしたら、レイネさんへ報告してもらいます」
「最初からレイネが一緒です」
「だから安心しています」
信用されているのは、俺ではなくレイネらしい。
少し不満はある。
だが、これまで何度も怪我をして戻り、治療を受けながら次は気をつけると答えてきた。
信用されなくても仕方がない。
救護所の責任者の女性は、レイネへ何度も礼を言った。
レイネは自分がいなくても、これまでどおり運営を続けてほしいと頼む。
「あなたが作った場所よ」
女性が言う。
「いいえ」
レイネは首を横へ振った。
「私が作ったのは、最初の形だけでございます。ここを三か月、そして私が離れていた一年間守られたのは、皆様です」
女性は泣きながら、レイネを抱きしめた。
最初にミリシオンへ戻った日、同じように抱きしめられた時のレイネは、驚いて身体を固くしていた。
今度のレイネは、驚かなかった。
自分から腕を回し、しばらく抱き返していた。
その姿を見て、胸が温かくなった。
レイネは誰かから感謝されることを、以前よりも素直に受け取れるようになっている。
自分だけの功績だとは言わない。
それでも、自分がこの場所へ関わったことまで否定せず、別れを惜しんでくれる相手を抱き返している。
ギースは捜索団へ残ることになった。
「俺はもう少し、パウロを手伝う」
出発前夜、そう言った。
「昔の仲間がこんな状態じゃ、放っておくのも寝覚めが悪いからな」
「誰がこんな状態だ」
父さんが横から言う。
「お前だよ」
「なら、酒を飲む暇がないぐらい働け」
「だから言い方ってものがあるだろ」
いつものやり取りだった。
その声だけを聞いていると、二人が昔から同じように言い合っていたのだと分かる。
レイネはギースへ警戒を残している。
俺も同じだ。
人神の使徒である以上、何をするのか分からない。
父さんのそばへ残ることには、不安があった。
だが、父さんのそばにいるなら、捜索団の人々が彼の動きを見ることができる。
ギース一人でどこかへ消え、人神の指示を受けているのか分からなくなるよりはよい。
父さんへも、すべてではないがギースを注意して見るよう伝えてある。
出発後も、定期的に情報を送ってもらうことになった。
◇
出発の朝。
ミリシオンの門前には、想像していたより多くの人が集まった。
父さん。
ノルン。
ヴェラとシェラ。
ギース。
救護所の職員たち。
この三か月で救助したフィットア領民。
石切り場から助け出した親子もいる。
菓子屋へ残ることを選んだ少年は、店の主人と一緒に焼き菓子を持ってきた。
孤立した集落からミリシオンへ移った女性は、まだ杖をついている。
三か月。
長いようで短い時間だった。
それでも、これほど多くの人が見送りに来てくれた。
自分たちが行ったことは、地図の印や名簿の数字だけではない。
一人ずつの生活と、記憶へ残っている。
そのことを目の前の人々が教えてくれた。
子供たちが、エリスとルイジェルドの周囲へ集まっていた。
「また剣を教えて」
「今度会う時まで、自分で練習しなさい」
エリスが子供の頭を撫でる。
「適当に振るんじゃないわよ。足から動くの」
「うん!」
エリスの言葉を真剣に聞き、子供は何度も頷いた。
ルイジェルドは子供たちへ一人ずつ別れを告げた。
外ではルードのままだ。
その正体を知らなくても、子供たちは彼を慕っている。
名前や種族ではなく、実際に自分たちへしてくれたことを覚えている。
それだけで、ルイジェルドが積み重ねてきたものには意味がある。
荷物を積み終える。
俺が馬車の横へ立つと、ノルンが近づいてきた。
三か月前のように、父さんの後ろへ隠れることはない。
自分の足で、真っすぐ俺のところへ来た。
「おにいちゃん」
自然に呼ばれた。
最初の頃より、ずっとはっきりした声だった。
胸の奥が大きく揺れた。
初めて会った時には、父さんの背後から俺を見ていた。
今は、何の迷いもなく兄と呼んでくれる。
「はい」
「かえってくる?」
「帰ってきます」
迷わず答えた。
「ほんとう?」
「必ずとは、簡単に言わない方がいいのでしょうけど」
ノルンの顔が不安そうになる。
言い方を間違えた。
正直であろうとするあまり、不安だけを与えてしまった。
俺はしゃがみ、目線を合わせた。
「帰るために行きます。母様たちを捜して、またノルンと会うために」
絶対に何も起きないとは約束できない。
それでも、帰ろうとする意思は約束できる。
危険なことへ無意味に飛び込まず、皆と相談し、必ずこの場所へ戻ろうとする。
ノルンはしばらく俺を見た後、首へ腕を回した。
小さな身体が抱きついてくる。
驚きで、一瞬だけ身体が固まった。
それから俺も、壊れ物を扱うように背中へ手を添えた。
温かい。
小さな腕が、思っていたより強く首へ回されている。
この三か月で、ようやく兄妹になれた気がした。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
ノルンが離れる。
名残惜しさはあった。
だが、離さないわけにはいかない。
父さんが、その後ろから前へ出た。
何か長い話をするのかと思ったが、父さんは俺の肩へ手を置いただけだった。
重く、温かい手だった。
「ルーデウス」
「はい」
「行ってこい」
その言葉だけで、十分だった。
心配している。
それでも、止めずに送り出してくれる。
「行ってきます、父さん」
父さんは次にエリスを見る。
「アルフォンスに会ったら、まず話を聞け。自分で確かめる前に、何も決めるな」
「分かってるわ」
エリスの声は強かった。
だが、ロアも屋敷も消えたと聞いた日の震えを、俺は覚えている。
フィリップ様やヒルダ様の情報を聞くことが、怖くないはずはない。
父さんも分かっているのだろう。
安易に大丈夫だとは言わず、それ以上は言わなかった。
ルイジェルドへは、深く頭を下げる。
「二人を頼む」
「ああ」
「レイネ」
「はい」
「こいつらが無茶したら止めてくれ」
「承知いたしました」
「父さん。僕たちだけに言わないでください」
父さん自身も、捜索へ出れば無茶をする。
この三か月で何度も見た。
「オレは残るからいいんだよ」
「自分も気をつけてください」
「分かった」
父さんは苦笑した。
「随分、父親みてえなことを言うようになったな」
「父さんが子供みたいだからです」
「最後まで生意気だな」
それでも、父さんは笑っていた。
俺も、僅かに笑った。
離れる前に、重苦しい言葉だけではなく、いつものように言い合えたことが嬉しかった。
俺たちは馬車へ乗る。
御者台にはルイジェルド。
隣にエリス。
俺とレイネは荷台へ入り、最後にもう一度外を見る。
町の人々が手を振っている。
ヴェラも。
シェラも。
救護所の人々も。
助けた人々も。
ノルンは父さんの横で、両手を大きく振っていた。
俺も手を振り返す。
見えなくなるまで。
馬車が動き始める。
ミリシオンの門を抜ける。
三か月暮らした町が、少しずつ遠ざかっていく。
家族と再会した町。
ノルンと兄妹になった町。
捜索団の一員として、多くの人を助けた町。
離れることに、思っていた以上の寂しさを感じた。
それでも、ここへ残ることが目的ではない。
俺は向かいに座るレイネを見る。
白い髪。
赤い瞳。
いつもと変わらない侍女服。
俺が恋をしている相手。
その事実を心の中で認めると、今でも少しだけ胸が速くなる。
今は、まだ言えない。
けれど、いつか。
家族が見つかり、旅が落ち着き、レイネが俺へ仕えることだけを自分の役目だと思わなくなった時。
レイネが俺の侍女としてではなく、一人の人間として答えを選べる時が来たなら。
その時には、きちんと伝えたい。
主人から侍女へ命じる言葉ではなく、俺自身の気持ちとして。
レイネが俺の視線に気づく。
「ルーデウス様?」
「何でもありません」
また同じ答えをした。
まだ言えない以上、それ以外の答えは難しい。
けれど、以前とは違う。
自分の気持ちを隠しているだけで、見失ってはいない。
恋だと分からないふりをして逃げているわけではない。
馬車は街道を進む。
エリスは三か月前より強くなった。
俺も、魔眼を自分の意思で使い、未来へ振り回されずに戦えるようになった。
ルイジェルドとの連携は、言葉がなくても通じる。
レイネとの模擬戦には負けたが、二人なら彼女へ魔術を使わせるところまで届いた。
それでも、俺たちの目的は変わらない。
ゼニス母様。
リーリャ。
アイシャ。
フィリップ様。
ヒルダ様。
ギレーヌ。
まだ見つかっていない家族がいる。
どこにいるのかも、生きているのかも分からない。
不安は消えない。
それでも、三か月前の俺たちとは違う。
捜し方を知った。
助けた後に必要なことも知った。
誰か一人へすべてを背負わせず、役割を分けることも覚えた。
父さんとノルンは、ミリシオンで捜索を続ける。
ギースも、そこで動く。
ヴェラやシェラ、救護所の人々も、俺たちとは別の場所で人を捜し続ける。
俺たちは三か月分の経験と、ミリシオンで出会った人々の思いを載せ、中央大陸へ続く道を進み始めた。