ルーデウス視点
中央大陸へ戻ってきた。
イーストポートの桟橋へ足を下ろし、二年間の旅で慣れきっていた船の揺れが足元から消えた時、ようやくその事実が実感を伴って胸へ落ちてきた。
固い地面がある。
波に合わせて上下することもなく、自分が立っている場所が数秒後にも同じ位置にある。
当たり前であるはずの感覚が、妙に懐かしかった。
冒険者札の年齢欄は、いつの間にか十二歳へ変わっている。
誕生日を迎えたのがどの町だったのかも覚えていない。野営地で日付を越えたのか、宿の寝台で眠っていたのか、それとも魔物を相手に走り回っていたのか。その程度のことさえ、旅の記憶へ埋もれていた。
魔大陸へ転移してから二年。
長かった。
ただ帰るために歩き続けた二年だったはずなのに、一日として同じ日はなかった。
目を覚ました荒野。
ルイジェルドとの出会い。
リカリスでの失敗。
冒険者として受けた依頼。
町や村で出会った人々。
ウェンポートでのレイネとの再会。
大森林。
ミリシオン。
父さんとノルン。
思い出そうとすれば、二年という時間へ収まりきらないほど多くの光景が浮かんでくる。
けれど、振り返れば、あまりにも多くの出来事があったため、二年という数字だけでは足りないようにも感じる。
エリスもいる。
ルイジェルドもいる。
そして、途中で再会できたレイネも、俺たちと一緒に中央大陸へ渡っている。
誰か一人でも欠けていれば、同じ形ではここへ立てなかっただろう。
胸には確かな安堵があった。
俺たちは戻ってきた。
少なくとも、故郷と同じ大陸へは帰ってこられた。
しかし、その奥には、簡単には消えない不安も沈んでいる。
中央大陸へ戻ったということは、旧フィットア領へ近づいたということだ。
アルフォンスから話を聞けば、領民の帰還状況が分かる。
フィリップ様やヒルダ様。
ギレーヌ。
シルフィ。
そして、まだ見つかっていない母様、リーリャ、アイシャ。
これまでよりも詳しい情報を得られるかもしれない。
ずっと知りたいと思っていた。
名簿を開くたびに、名前を探してきた。
父さんの捜索団でも、ミリシオンからここまでの町でも、僅かな可能性を見落とさないよう記録を調べ続けた。
それなのに、実際に答えへ近づいてみると、胸の奥が重くなる。
消息不明である限りは、世界のどこかで生きていると信じられる。死亡を示す確かな報告を聞いてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。
答えを知りたい。
同時に、知るのが怖い。
その二つが胸の中でぶつかり、桟橋へ降りた足を重くしていた。
「ルーデウス様」
レイネの声で意識を港へ戻す。
彼女は船員から返却された荷物を、札と照らし合わせながら確認していた。
白い髪が潮風に揺れている。
いつもと変わらない姿を見ただけで、少しだけ呼吸が楽になった。
「お預けしていた荷物は、全て戻っております。外側に多少の汚れはございますが、中身に破損はございません」
「ありがとうございます」
「ルード様のお荷物は、既にご本人へお渡ししております」
少し離れた場所では、ルイジェルドが荷物を背負い、港の出入口や周囲を行き交う者たちへ目を配っている。
税関内部には本名と種族が記録されたが、一般の船員や乗客にとっては、今も青髪の護衛ルードだ。
ウェストポートでの一件を思い出すと、無事に中央大陸へ渡れたことへの安堵が改めて湧いた。
エリスは桟橋へ降りてから、何度も足元を踏みしめていた。
「もう揺れてないわね」
「陸ですからね」
「それぐらい分かってるわよ」
言い返してきたが、その顔には隠しきれない安堵が浮かんでいた。
テレーズ叔母様から渡された薬のおかげで、前回ほどひどい船酔いにはならなかった。それでも、長時間揺られ続けた疲れは残っているらしい。
足元が揺れていないことを確かめるたび、肩から少しずつ力が抜けている。
俺たちは港で必要な手続きを済ませ、イーストポートの中心部へ向かった。
◇
宿へ入った後、四人で地図を囲んだ。
港へ到着したばかりではあるが、旧フィットア領までの道を決めなければならない。
俺の中では一刻も早く出発したい気持ちがあった。
しかし、焦って危険な道を選び、途中で動けなくなれば、かえって到着が遅れる。
ミリシオンで何度も学んだことだ。
「ここから旧フィットア領へ向かう道は、大きく分けて三つあります」
俺は机へ広げた地図を指でなぞった。
主要な街道と町、森や山脈の大まかな位置が記された旅人向けの地図である。
「一つ目は、王竜山脈の東側を回る街道です。距離は長いですが、道が整備されていて、途中に町や宿場もあります」
「どのくらい掛かるの?」
エリスが尋ねた。
「旧フィットア領まで十か月ほどです。途中で行方不明者の情報を調べる時間も考えれば、もう少し延びると思います」
口にしてみると、十か月という時間は途方もなく長く感じられた。
既に二年掛けて、ここまで戻ってきた。
そこから、さらに一年近い。
母様たちが助けを待っているかもしれない状況で、その時間を費やさなければならない。
エリスの眉が寄る。
「遠すぎるわ」
「王竜山脈の西側を通れば、距離は多少短くできます。ただ、西側には広大な密林があり、馬車が通れる道はほとんどありません」
「馬なら乗れる」
ルイジェルドが言った。
「ルイジェルドさんは問題ないと思います。ですが、僕とエリスは、荷物を持ったまま長期間乗り続けられるほど慣れていません」
馬へ乗れないわけではない。
だが、短時間の移動と、毎日何時間も山や森を進むことは別だ。
馬を疲れさせず、地形に応じて進み、荷物まで管理する技術が俺たちには足りない。
「私は乗馬が可能でございます」
レイネが続ける。
「ただし、四名分の荷物を運ぶためには荷馬も必要です。現地の地形へ通じた案内人を雇えなければ、東側の街道より早く到着できる保証もございません」
地図の上では短く見えても、道を失えば意味がない。
食料と水の補給場所も分からず、魔物が多い密林を徒歩で抜けることになる。
早く帰りたいという気持ちだけなら、西側へ進みたかった。
だが、早そうに見える道と、実際に早く着ける道は違う。
「なら、西側はやめましょう」
エリスはすぐに結論を出した。
帰郷を急ぎながらも、速そうに見えるという理由だけで危険な道を選ばなくなっている。
魔大陸を旅した二年間は、エリスの判断にも確実に残っていた。
以前なら、危険でも近い方を選び、自分たちなら進めると言い張っていたかもしれない。
今は、自分たちの力と経験だけでは足りない部分を認めている。
「三つ目は、船でベガリット大陸へ渡り、向こうを通ってアスラ王国へ入る道です」
「ベガリット?」
エリスの目に興味の色が浮かぶ。
未知の大陸。
巨大な魔物。
それだけを聞けば、エリスが興味を持たないはずがない。
「どんな場所なの?」
「大部分が砂漠です。昼間は灼熱、夜は極寒。巨大な魔物や迷宮が多く、水を補給できる場所も限られています」
「私たちなら進めるんじゃない?」
予想どおりの反応だった。
「ベガリット大陸へ着くまで、かなり長い間船へ乗る必要があります」
エリスの目から、急速に期待が消えていった。
「……ベガリットはやめるわ」
「そうしましょう」
「少し嬉しそうね」
「エリスが自分から諦めてくれたので、説得する手間が省けて安心しただけです」
「やっぱり嬉しそうじゃない」
不満そうではあったが、船へ乗るよりはよいらしく、それ以上は反対しなかった。
俺も、長期間の船旅は避けたかった。
魔眼まで使って自分から酔いを悪化させたことを思い出すと、エリスだけを笑えない。
ルイジェルドへ顔を向ける。
「ルイジェルドさんは、東側の街道でよろしいですか?」
「ああ。西側の道を知らない以上、安全な街道を使うべきだ」
全員の意見が一致した。
王竜山脈の東側を回り、途中の町で行方不明者の情報を確認しながら旧フィットア領へ向かう。
遠回りではある。
それでも、今の俺たちが確実に進める道だ。
その方針を決めた後、旅に必要な物を書き出していった。
馬車。
馬。
食料。
水。
野営道具。
予備の車輪と車軸。
修理に使う工具。
魔大陸で旅を始めた頃は、必要な物さえ分からず、その場その場で用意していた。
今は、何が壊れやすいか。
何を現地で補給できるか。
どの道具を分けて持つべきか。
四人で相談しながら、具体的に決められる。
「馬車をご購入になる前に、街道の状態と今後の天候を確認いたします」
レイネが一覧へ目を通した。
「雨の多い地域を通る場合、幌だけでなく、荷台へも防水処理を施した方がよろしいかと存じます」
「お願いします」
「それから、出発は明後日になさってくださいませ」
「明日ではなく?」
エリスがすぐに尋ねた。
中央大陸へ着いた以上、一日でも早く進みたいのだろう。
俺も同じ気持ちだった。
レイネはエリスへ視線を向けた。
「エリス様のお身体には、まだ船旅の疲労が残っております」
「もう平気よ」
エリスはすぐに反論した。
「では、今から町を一周走ることはできますか?」
「できるわよ」
エリスは立ち上がろうとした。
ところが、身体を起こしたところで足元が僅かに揺れ、机へ片手をつく。
本人は何事もなかったように姿勢を戻したが、全員が見ていた。
俺も立ち上がった時、身体がまだ船の揺れを覚えているような感覚があった。
中央大陸へ戻れた喜びで、疲労を忘れているだけなのだ。
「……今日は休むわ」
「はい。その方がよろしいかと存じます」
レイネは勝ち誇ることもなく、静かに頭を下げた。
エリスが自分で身体の状態を認め、休むと決めたことを、そのまま受け入れている。
俺の身体にも疲れは残っている。
中央大陸へ戻った喜びだけで、船旅の負担まで消えるわけではない。
急ぐためにも、必要な休息を取る。
その夜は、早めに休むことになった。
◇
白い空間へ立っていた。
床も壁も空もない。
どこまでも白く、距離や方向というものさえ曖昧な場所。
目を開けた瞬間に、どこなのか理解した。
同時に、胸の奥へ冷たい警戒が広がる。
身体を見下ろせば、そこにあるのはルーデウス・グレイラットの姿ではなかった。
太った身体。
手入れされていない髪。
誰とも目を合わせず、部屋へ閉じこもっていた男。
前世の俺だ。
今の身体へ戻ってから二年。
剣を振り、魔術を使い、旅を続けてきた。
それでも、この姿を見せられれば、胸の奥に残る過去の感情が一気に蘇る。
この場所へ来ると、胸の奥へ沈めていた感情まで一緒に引きずり出される。
卑屈さ。
羞恥。
怒り。
自分の失敗を、誰かの責任にしたくなる気持ち。
自分には何もできないと諦め、誰かが答えを与えてくれることを期待する感覚。
人神が俺へ見せるこの姿は、単なる外見ではない。
俺が最も嫌い、同時に最も逃げられない過去そのものだった。
その感覚に呑まれないよう、俺は一度だけ深く息を吸った。
ここへ来た時に考えたことを、目覚めた後まで正しいと思えるとは限らない。
この空間では、感情が普段より強くなる。
人神の言葉が、必要以上に正しく聞こえることもある。
だから、ここで何かを決めてはならない。
助言を聞いた後、必ずレイネへ話す。
ザントポートへ渡る前に交わした約束を思い出す。
どれほど急ぐべき情報を聞いても。
家族のことを示されても。
一人で判断しない。
「久しぶりだね」
声の方へ顔を向けた。
人の形をした、白く曖昧な何かが立っていた。
人神だ。
ただし、以前までとは様子が違う。
輪郭が何重にもぶれていた。
腕が二本に見えた直後に四本へ増え、次の瞬間には身体の半分が白い靄へ溶ける。声にも、遠くの風のような雑音が混じっていた。
人神を見ているというより、いくつもの姿が同じ場所へ重なり、どれにも焦点を合わせられないようだった。
「今回は、随分と見えにくそうですね」
「それは僕の台詞だよ」
人神は笑っているようだったが、声には僅かな苛立ちが混じっている。
以前のような、何もかもを見通して余裕を持っている声ではない。
「君の周りにある空白が、前より大きくなっている。こうして君へ接触することはできても、君の近くに誰がいて、何をしているのかが何重にも重なって見えるんだ」
レイネの秘術。
完全に人神の視界から外れているのは、術の中心であるレイネだけだ。
しかし、近くにいる者の未来にも、ある程度の乱れが生じる。
ザントポートへ渡る前に、レイネ本人から聞いている。
俺が人神とつながっているため、接触そのものを完全に遮断することはできない。それでも、俺の周囲や、そこから先の未来は見えにくくなる。
人神は、その原因が何なのかをまだ把握していない。
俺から教えるつもりもない。
見えにくいと言わせることができている。
それは、レイネの秘術が確かに働いている証拠だ。
僅かな安心を感じながらも、表情には出さないようにした。
「僕へ話しかけられるなら、必要な用件は伝えられますよね。家族を捜しているので、居場所を知っているなら、まず分かっていることを教えてください」
「いきなり本題かい?」
「ここで長く話すほど、目覚めた後に頭痛が残ります。それなら、必要な情報から聞いた方が、身体への負担を減らせます」
以前なら、人神の軽い調子に合わせ、相手が何を話したがっているのかを待っていたかもしれない。
今は、会話の主導権を渡したくなかった。
理由を説明すると、人神は僅かに首を傾けた。
「君は本当に変わったね。誰かに、僕との話し方を教わったのかい?」
レイネの姿が頭へ浮かぶ。
だが、答えない。
「二年間旅を続ければ、誰でも多少は慎重になります。それより、家族について知っていることがあるなら教えてください」
誰かという問いには答えない。
人神の言葉へ反発するためではない。
レイネの情報を与えないためだ。
人神が、俺の変化と見えない空白を同じ原因へ結びつければ、その存在を探し始める。
既に疑っているとしても、名前や姿、能力まで教える必要はない。
「何人かの居場所なら分かるよ」
胸が強く鳴った。
何人か。
誰だ。
どこにいる。
今すぐ問い詰めたい衝動を抑え、必要な情報を整理して聞く。
「では、その人たちの名前と、現在いる場所を教えてください。未来が見えにくいのであれば、確実に見えていることと、可能性にすぎないことも分けてもらえると助かります」
「随分と細かい注文だね」
「確かな情報と予想を混ぜてしまえば、助けに行った家族まで危険へ巻き込むかもしれません。だから、区別して聞いておきたいんです」
人神の輪郭が一度大きく歪んだ。
表情は見えない。
だが、以前とは違う俺の反応を観察していることだけは分かった。
「なるほど。君がそこまで言うなら、見えている範囲で教えてあげよう」
人神が片手を上げる。
右目の奥へ、熱い物が流れ込んできた。
視界が切り替わる。
だが、映像はすぐには形にならなかった。
石造りの建物。
狭い路地。
人影。
景色が何度も重なり、崩れ、別の場所へ入れ替わる。
道が右へ曲がったかと思えば、次には左へ延びていた。
二人いた兵士が三人へ増え、その直後には一人になる。
人神が言ったとおり、未来が定まっていない。
それでも、何かを見落とすまいと目を凝らした。
ようやく、数秒だけ景色が定まった。
幼い少女が、兵士に腕を掴まれている。
もう一人の兵士は、少女から取り上げた紙を破り捨てていた。
少女は何かを必死に訴えている。
声は聞こえない。
それでも、兵士へ向けた顔には焦りと悔しさが浮かんでいた。
黒に近い茶色の髪。
幼い顔。
目元が、どこかリーリャに似ていた。
会ったことはない。
生まれた時には、俺は既にロアへいた。
手紙で存在を知っただけの妹。
それでも、誰なのかを告げられる前から、胸の奥が強く締めつけられる。
この子を知っている。
直接会った記憶はなくても、家族だと身体のどこかが理解しているようだった。
何者かが路地へ飛び込んできた。
だが、その人物だけが濃い霧へ覆われている。
俺なのか。
エリスなのか。
ルイジェルドなのか。
レイネなのか。
一人なのか、複数なのかさえ分からない。
映像は砕けるように消えた。
白い空間へ戻る。
胸の鼓動だけが、激しく響いていた。
「今の少女は、誰ですか?」
「アイシャ・グレイラット」
呼吸が止まりかけた。
アイシャ。
俺の妹。
リーリャが産んだ、ノルンと同じ年の少女。
一度も顔を合わせたことはない。
それでも、間違いなく俺の家族だ。
映像の中で兵士へ掴まれていた腕が、目の奥へ焼きついて離れない。
今すぐ助けに行きたい。
どこだ。
いつだ。
そう叫びたい気持ちを抑え、人神の次の言葉へ集中する。
「アイシャは、シーローン王国の王都にいる。リーリャも同じ王宮の中だよ」
「二人は、自分の意思で王宮にいるのですか?」
「抑留されている、と考えていい」
抑留。
保護ではない。
自由に外へ出られない状態だ。
「抑留しているのは王族ですか?」
「王宮の人間だよ」
「その答えでは、誰を警戒するべきか分かりません。人物まで見えていないのですか?」
「そこは教えない」
見えていないのではなく、話さないらしい。
胸の中へ怒りが湧いた。
家族の命が関わっている。
誰を警戒すべきか知っているなら、話してほしい。
「理由は?」
「何もかも先に知ったら、君がどう動くのかを見る楽しみがなくなるじゃないか」
楽しみ。
その一言で、怒りと同時に強い嫌悪が湧いた。
人神は、俺たちを助けたいから情報を与えているわけではない。
少なくとも、それだけではない。
困り、迷い、失敗する様子も含めて楽しんでいる。
俺や家族の人生を、盤上の駒が動く光景のように眺めている。
そのことは、今の答えだけでも十分に分かった。
怒鳴っても、教える気のない情報を引き出せるとは思えない。
感情をぶつけ、こちらが何を恐れているかを知らせるだけだ。
「分かりました。では、教えられない部分を無理に聞くより、見せてもらった光景について確認します。あれは、いつ起きる出来事ですか?」
「正確な時期は分からない」
「既に起きたことか、これから起きることかも分かりませんか?」
「アイシャが外部へ連絡しようとしているのは現在に近い。でも、兵士に止められる場面と、君たちが関わる未来は重なっていて、時期も場所も絞れないんだ」
人神の声に、明確な苛立ちが滲んだ。
未来が見えないことを、本気で不快に感じているらしい。
「君がシーローンへ近づくほど、未来の像が崩れていく。君が誰と一緒にいるのかも、その誰かが何をするのかも見えないからね」
それは、俺たちにとっては有利な情報だ。
人神は、アイシャの現在地までは見えている。
だが、俺たちが関わり始めた後の結果は定まらない。
「では、あの路地を探せば、必ずアイシャへ会えるわけではないんですね」
「場所そのものが、いくつも重なっているからね」
「僕たちが動いたことで、アイシャが兵士に捕まらない未来へ変わる可能性もありますか?」
「あるよ。逆に、君が到着する前に連れ戻される可能性もある」
確定した未来ではない。
ならば、見せられた場面を再現しようとするべきではない。
あの路地を探し、アイシャが捕まれる瞬間を待つなど、本末転倒だ。
アイシャが外へ連絡しようとしている。
王宮側が、それを止めようとしている。
使える情報は、その程度だ。
「未来が定まっていない状態でも、僕へ勧めたい行動はありますか?」
「まず、シーローン王国へ向かうことだ。リーリャとアイシャがいるのは確かだからね」
「シーローンへ向かうことは分かりました。その後は?」
「アイシャと会えた場合、事情を確認するまでは本名を名乗らない方がいい。王宮側がグレイラットの名を警戒している可能性がある」
「僕の名前が知られれば、アイシャやリーリャの扱いが悪化するかもしれないからですか?」
「そうなる未来もある」
理由としては理解できる。
俺がパウロ・グレイラットの息子だと分かれば、リーリャたちを交渉材料として使おうとする人物がいるかもしれない。
「名前を聞かれたら、『デッドエンドの飼い主』とでも名乗ればいいんじゃないかな」
奇妙な名乗り方だ。
過去の俺なら、言われたまま使っていたかもしれない。
だが、なぜその言葉なのかを確認する必要がある。
「その名乗り方でなければならない理由はありますか?」
「アイシャが警戒せず、君から事情を聞く未来が多かった」
「多かっただけで、確実ではないんですね」
「今の君の周囲では、確実なんて言葉は使えないよ」
人神は不満そうに答えた。
俺たちの未来を見通せないことが、相当に気に入らないらしい。
「状況を見て、本名を伏せる必要があると判断した場合は使います。ただ、アイシャが別の名前を名乗った者を警戒しているようなら、別の方法で身元を示します」
「僕の助言へ従う気があるのかい?」
「助言を無視しているわけではありません。理由が分かる部分は取り入れます。ただ、未来そのものが不確かなのであれば、現場の状況を優先しなければ、アイシャを助けられなくなるかもしれません」
人神はしばらく黙っていた。
以前なら、助言に従うか、従わないかの二つから選んでいた。
今は違う。
シーローンへ向かう。
本名を伏せる可能性を考える。
それぞれの理由を確認し、使える部分だけを選ぶ。
人神が示す手段を、そのまま受け入れる必要はない。
「それで、アイシャから事情を聞いた後は?」
「王宮にいる君の知り合いへ、助けを求める手紙を出すんだ。そうすれば、王宮の中が動く」
シーローン王宮にいる知り合い。
ロキシー先生だ。
最後に聞いた時点では、シーローン王国の宮廷魔術師をしていた。
「ロキシー先生は、今も王宮にいるのですか?」
人神は答えなかった。
沈黙自体が、確かな情報を持っていない証拠に思えた。
「手紙を出すには、受取人が現在も王宮にいるかを確認する必要があります。ロキシー先生の居場所は見えていますか?」
「そこも霞んでいる」
「ロキシー先生自身が見えないのですか?」
「彼女の現在地だけなら、普段は見える。でも、君がシーローンへ行き、彼女へ接触しようとする未来になると、君の周囲にある空白へ巻き込まれるんだ」
「では、手紙がロキシー先生へ届くかも分からないんですね」
「王宮が動く未来は見えるよ」
「誰が手紙を受け取って、どのように動くかは?」
「そこまでは見えない」
王宮が動く。
それだけでは、何の安心にもならない。
それが二人を解放するための動きなのか、俺たちを捕らえるための動きなのかは分からない。
ロキシー先生へ届くと思って手紙を出し、リーリャたちを抑留している相手へ俺の存在だけを知らせる結果になる可能性もある。
「ロキシー先生が王宮にいると確認できた場合は、手紙を出すことを考えます。確認できない場合は、王宮側へこちらの存在を知らせる危険があるので、ほかの方法も検討します」
「慎重すぎると、助けるのが遅れるよ」
その言葉は胸へ刺さった。
今もアイシャが兵士に捕まれているかもしれない。
リーリャが王宮で苦しんでいるかもしれない。
一日遅れることで、取り返しのつかないことが起きる可能性もある。
だからこそ、人神の言葉に急かされてはいけない。
「確認せずに手紙を出して、僕たちまで捕まれば、二人を助ける者がいなくなります。急ぐ必要はありますが、急ぐことだけを理由に危険な手段を選ぶことはできません」
人神の輪郭が、また大きく崩れた。
「君、本当に誰かにいろいろ教わったんじゃないのかい?」
「旅をしている間に、何度も失敗しました。だから、分からないことを分かったつもりで決めないようにしているだけです」
レイネの名前は出さない。
人神の使徒について聞いたことも話さない。
俺の判断より人神の指示を優先すれば、使徒へ近づく。
その危険を知っていることまで、人神へ知らせる必要はなかった。
「僕がシーローンへ行かなかった場合、リーリャとアイシャはどうなりますか?」
「いくつもの未来が重なっている」
人神は片手を広げた。
「脱出に失敗する。王宮へ連れ戻される。別の誰かに助けられる。長く抑留される。君が行かなくても助かる可能性はあるよ」
「僕が行く場合は?」
「二人が早く王宮を出られる可能性が高くなる。ただし、君の近くにある空白が何をするかによって、結果は変わる」
シーローンへ行く。
それだけは、もう迷う必要がなかった。
人神の情報が罠である可能性を考えても、リーリャとアイシャがいると聞きながら通り過ぎることはできない。
情報が嘘なら、現地で確認すればよい。
事実なら、助けなければならない。
「分かりました。シーローンへ向かい、二人が本当にいるかを自分たちで確認します」
「僕の言うとおりに動いてくれるのかい?」
「シーローンへ向かうのは、二人がいる可能性を無視できないからです。その後の行動は、目覚めてから仲間へ相談して決めます」
「自分では決めないのかい?」
「僕一人では見落とすことがあります。仲間が持っている情報や考えを聞いた方が、家族を助けられる可能性が高くなるので、相談します」
以前なら、自分で家族を助けることへこだわったかもしれない。
だが、一人で決めることが強さではない。
自分には見えない危険を、仲間は見つけてくれる。
人神は、探るように俺を見ていた。
「その仲間って、何人いるのかな?」
「僕の周囲が見えないなら、そのまま見えない方が、こちらにとっては安全です。ですから、人数も名前も話しません」
「冷たいなあ」
「原因を見つければ取り除こうとする相手へ、自分から情報を渡す理由はありません」
人神の笑みが、一瞬だけ消えたように見えた。
輪郭がぶれているため、確かではない。
それでも、俺の言葉が相手の余裕を僅かに崩したように感じた。
「では、最後に一つだけ。今回の情報で家族へ会えたら、僕のことを少しは信じてくれるかい?」
「リーリャとアイシャの居場所が事実だった場合は、その情報が正しかったことは認めます。ただ、一つの情報が正しかったからといって、今後の判断まで預けることはできません」
「どうして?」
「正しい情報を教えることと、その後に示す手段まで正しいことは同じではないからです。助けるべき人を教えながら、別の目的へ誘導することもできます」
人神の輪郭が止まった。
レイネから聞いた言葉を、そのまま使ったわけではない。
だが、同じ考えへ辿り着いたことは悟られたかもしれない。
人神が情報を与える。
その情報が正しい。
だから、次の助言も正しい。
そのように少しずつ判断を預ければ、いずれ自分で考えなくなる。
「君のそばにいる何かは、随分と僕を嫌っているらしいね」
胸の奥へ緊張が走った。
何か。
人神は、まだレイネを特定していない。
ここで反応を見せてはならない。
「何の話ですか?」
「いや、独り言さ」
白い空間が崩れ始める。
足元から白が割れ、暗闇が広がっていく。
「では頑張りなよ。君がどの未来を選ぶのかは、今の僕にもよく見えないからね」
「見えないなら、僕たちの行動へ余計な干渉をしないでください」
「それは約束できないなあ」
答えを聞き終える前に、意識が暗闇へ沈んでいった。
◇
目を開けた瞬間、激しい頭痛に襲われた。
こめかみの内側へ何本もの針を差し込まれ、頭蓋の内側から掻き回されているようだった。
息を吸うだけで、頭へ痛みが響く。
身体を起こす。
視界が大きく揺れ、胃の中の物が喉までせり上がってくる。
寝台から降りようとしたが、足に力が入らない。
床が遠ざかったように見えた直後、身体が前へ傾いた。
そのまま床へ倒れそうになったところで、身体を横から支えられた。
「ルーデウス様。こちらへ」
レイネの声だった。
既に寝台の横へ膝をつき、片手で俺の身体を支え、もう片方の手で桶を引き寄せている。
目覚めることを予測していたような動きだった。
次の瞬間、胃の中の物を全て吐き出した。
喉が焼ける。
身体の奥から何度も力が入り、何も残っていないのに吐き気だけが続く。
「お話しにならなくて結構でございます。ゆっくりと呼吸してくださいませ」
レイネは背中を支えながら、額と首筋へ触れた。
冷たい指先が、熱を持った皮膚へ心地よかった。
部屋の反対側では、物音に気づいたルイジェルドが起き上がっている。
「何があった?」
「ルーデウス様のご容体を確認いたします。申し訳ございませんが、お水と濡らした布をお願いいたします」
「ああ」
ルイジェルドは詳しい説明を求めず、すぐに部屋を出た。
何が起きたのか気になるはずだ。
それでも、今必要なことを優先してくれる。
隣室からも扉が開く音がする。
「ルーデウス!?」
エリスが駆け込んできた。
顔色を変えてこちらへ近づこうとしたが、レイネが穏やかに制した。
「エリス様。ルーデウス様は、今すぐ命に関わる状態ではございません。ですが、吐き気が治まるまで、少々お時間をくださいませ」
「何があったの?」
「強い悪夢をご覧になり、魔力と感覚が乱れておられます」
嘘ではない。
人神の名前を出さず、俺の状態を正確に説明している。
エリスは納得していないようだったが、今は質問を続けるべきではないと判断したらしい。
「私もここにいるわ」
「はい。では、そちらの椅子へお掛けくださいませ」
レイネは追い出さなかった。
エリスがここにいたいという気持ちも受け入れ、その上で治療を邪魔しない場所を示した。
エリスは寝台の近くにある椅子へ座り、心配そうに俺を見つめている。
その表情を見ていると、早く大丈夫だと言いたくなった。
だが、口を開けば再び吐き気が込み上げそうだった。
戻ってきたルイジェルドから水と布を受け取ると、レイネは俺の口元を拭い、少量ずつ水を飲ませた。
一度に飲めば、また吐く可能性がある。
口を湿らせる程度の水を、何度かに分けて飲む。
吐き気が弱まり、呼吸が落ち着くまで待つ。
その間、レイネは一度も原因を尋ねなかった。
既に分かっているからだろう。
俺の状態が落ち着いたところで、レイネはエリスとルイジェルドへ顔を向けた。
「今夜は私がルーデウス様へ付き添います。お二人には、明朝、ルーデウス様からご説明いただくことがございます」
「今聞いたら駄目なの?」
「今お話しすれば、ルーデウス様が身体を休められません。明朝まで待っていただいた方が、正確にお伝えできます」
理由を説明されると、エリスは俺の顔を確認した。
すぐに聞きたい気持ちと、休ませるべきだという判断の間で迷っている。
「明日、全部話すのよ」
「はい」
声は掠れた。
それでも、今度は隠さないという意思が伝わるよう、はっきり答えた。
「また一人で何かしようとしてないでしょうね?」
「しません」
「なら、今日は寝なさい」
エリスは立ち上がった。
扉へ向かう前に、俺の手へ一度だけ触れる。
指先が触れ、すぐに離れた。
それだけで、本当に心配されていることが伝わった。
「朝になっても治ってなかったら、出発は中止よ」
「分かりました」
ルイジェルドも俺の顔を見た。
「何かあれば呼べ」
「はい。ありがとうございます、ルイジェルドさん」
二人が部屋を出る。
扉が閉まると、レイネは俺の隣へ椅子を寄せた。
「人神でございますね」
問いというより、確認だった。
「はい」
名前を口にすると、夢の中で見たアイシャの姿が再び浮かんだ。
兵士に掴まれた腕。
破られた紙。
急がなければという焦りが、頭痛と一緒に戻ってくる。
「接触が始まった時点で、私の秘術へ外側から干渉しようとする感覚がございました。すぐにこちらへ参りましたが、夢そのものを中断させることはできませんでした」
「ルイジェルドさんは?」
「私が扉を叩いた時には、既に起きておられました。ルーデウス様のご様子を確認したいと申し上げ、中へ入れていただきました」
人神との接触が終わる前から、レイネは気づいていた。
俺が目覚めた時に、既に桶まで用意されていた理由も分かった。
俺が白い空間にいる間、レイネは現実で俺のそばへ来て、目覚めるのを待っていたのだ。
「何かをお約束なさいましたか?」
レイネが最初に尋ねた。
前回と同じだ。
助言の内容よりも先に、俺が人神へ判断を委ねていないかを確かめている。
「何も約束していません」
「力や知識を受け取ることを、お認めには?」
「何も受け取っていません」
「人神の言葉を、今後は信じるとおっしゃいましたか?」
「言っていません。今回の情報が正しかった場合は、その情報が正しかったことだけは認めると答えました。ただ、それを理由に、今後の判断まで預けるつもりはないとも伝えています」
レイネの肩から、僅かに力が抜けた。
いつもと変わらない表情に見えても、俺が約束を破り、人神へ何かを委ねた可能性を本気で恐れていたのだろう。
「ありがとうございます」
「約束しましたから」
「はい」
レイネの声が、少しだけ柔らかくなる。
「助言を聞いた後は、必ずレイネへ話す。どれほど正しく思えても、それだけで行動を決めない。覚えています」
「それを守ってくださったことに、安堵しております」
信用されていることが嬉しかった。
同時に、レイネがこれほど人神を恐れながらも、俺の判断を信じて待ってくれていることへ、強い責任も感じた。
俺は人神との会話を、最初から順番に説明した。
俺の周囲にある空白が前より大きくなり、人神からは同行者の人数さえ定まって見えないこと。
俺が誰と何を話し、次にどの道を選ぶのかも、複数の未来が重なっていること。
アイシャとリーリャが、シーローン王国にいると告げられたこと。
リーリャは王宮の中で抑留されていること。
アイシャは外部へ連絡しようとしており、兵士に止められる未来が見えたこと。
ただし、場所も時刻も確定していないこと。
本名を伏せ、「デッドエンドの飼い主」と名乗る案を出されたこと。
王宮と縁のある知人へ手紙を出すよう勧められたこと。
ロキシー先生が現在も王宮にいるか、手紙が本人へ届くかは、人神にも見えていないこと。
そして、人神がレイネの存在を探ろうとしていたこと。
アイシャの姿を説明する時、声が僅かに震えた。
一度も会ったことはない。
それでも、兵士へ捕まれた姿を思い出すだけで、胸が苦しくなった。
レイネは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
何かを判断する前に、俺が聞いた内容をすべて受け取ろうとしている。
「私の名前や、秘術については?」
「何も話していません。仲間の人数も名前も答えませんでした」
「ありがとうございます」
レイネは深く息を吐いた。
「人神は、私の存在そのものを特定できてはいないようでございます」
「でも、誰かに教えられたことは疑っています」
「ルーデウス様のお考えが変化した理由と、見えない空白の原因を同じものだと推測しているのでしょう」
「今後、僕へ接触し続ければ、レイネのことを見つけられますか?」
聞くのが怖い質問だった。
人神がレイネの存在を知れば、排除しようとするかもしれない。
俺への接触を繰り返し、姿や名前を少しずつ探り当てる可能性もある。
「可能性はございます」
レイネは安易に否定しなかった。
安心させるためだけに、大丈夫だとは言わない。
「ですが、私の名前や容姿、能力についてルーデウス様から伝わらない限り、すぐに特定することは難しいはずでございます」
「秘術の影響が強くなった理由は分かりますか?」
「私たちが長く行動をともにし、互いの判断が将来へ強く関係するようになったためだと考えられます」
「僕だけでなく、エリスやルイジェルドさんも見えにくくなっている?」
「その可能性が高いと存じます」
レイネは慎重に続けた。
「完全に人神の視界から消えているのは、術の中心である私だけでございます。ですが、私が行動へ介入すれば、本来起きるはずだった出来事が変化いたします。その変化に応じて、皆様の選択や未来も枝分かれするため、人神からは複数の像が重なって見えるのでしょう」
レイネが直接俺たちを隠しているのではない。
彼女がいることで、俺たちが選ぶ未来そのものが増えている。
俺たちがレイネの意見を聞き、レイネも俺たちの判断へ影響を受ける。
誰か一人の行動だけでは未来が決まらない。
「人神は、アイシャとリーリャの居場所までは見えていました」
「お二人の現在には、まだ私たちが深く関わっておりません。そのため、シーローン王国にいらっしゃることまでは捉えられるのでしょう」
「僕たちがシーローンへ近づけば?」
「その後の未来は、さらに不鮮明になる可能性がございます」
アイシャが兵士に捕まる場面は、確定していない。
俺たちの行動次第では、その前に接触できるかもしれない。
逆に、探し方を間違えれば、会えない可能性もある。
未来が見えないことは不安だ。
だが、人神にとっても結果が分からないということは、俺たち自身の選択で変えられる余地があるということでもある。
「シーローンへ向かうべきだと思いますか?」
「はい」
レイネは即答した。
「人神の罠である可能性があってもですか?」
「リーリャ様とアイシャ様がいらっしゃるという情報を、確認せずに捨てることはできません」
俺と同じ結論だった。
人神が教えたから行くのではない。
家族がいる可能性があるから、確認する。
「人神が、二人の居場所から嘘をついている可能性は?」
「否定はできません。しかし、人神は、全てを偽るよりも、事実へ自分に都合のよい手段を重ねる方を好みます」
ザントポートへ渡る前にも聞いた話だ。
獣族の子供が囚われていることは事実だった。
だが、一人で倉庫へ入る必要はなかった。
人神は、正しい目的地を示しながら、途中の手段で俺を望む方向へ動かそうとする。
「シーローンへ向かうことと、人神が示した手段へ従うことは別ですね」
「はい。お二人がいらっしゃるかを確認するために向かい、救出方法は現地の情報を基に決めるべきでございます」
「夢で見た路地を探し回る必要もない?」
「ございません。人神にも場所と時刻が分からないのであれば、見せられた光景を再現しようとする方が危険でございます」
「アイシャが外部へ連絡しようとしていることを手掛かりにする」
「はい。冒険者ギルド、教会、商人組合、郵便を扱う場所など、王都の外へ連絡できる場所を確認いたしましょう」
夢の路地へこだわる必要はない。
アイシャが何をしようとしているかを考えれば、探すべき場所は絞れる。
「本名を伏せることは?」
「合理的な理由がございます。王宮側がグレイラット家の名を警戒している場合、ルーデウス様のご身分を明かすことで、リーリャ様とアイシャ様の立場が悪化する可能性がございます」
「デッドエンドの飼い主と名乗ることは?」
「アイシャ様の反応を見てからお決めください。人神がそう名乗らせたい理由が、アイシャ様を安心させるためだけとは限りません」
奇妙な名乗りを使うことで、別の誰かへ何かを伝える合図になる可能性もある。
理由が完全には分からない以上、言われたとおりに使うべきではない。
「手紙は、ロキシー先生がいると確認してからですね」
「はい。受取人が不明なまま王宮へ手紙を送れば、ルーデウス様がシーローンへ来たことだけを、抑留している方へ知らせる結果になりかねません」
危険だから何もしないのではない。
危険を一つずつ切り分け、使える部分だけを選ぶ。
人神の情報をすべて捨てれば、アイシャたちへ届かない。
すべて信じれば、人神が望む道へ誘導される。
その間にある道を、俺たちで選ばなければならない。
「エリスとルイジェルドさんには、前と同じように夢として話せばいいですか?」
「はい」
レイネは頷いた。
「人神について、いつまでも伏せ続けるべきだとは考えておりません。ですが、今はお二人へ全てを説明する時ではございません」
「人神の名前を出さなくても、シーローンへ向かう判断に必要な情報は共有できます」
「そのとおりでございます。夢の中で、リーリャ様とアイシャ様がシーローン王国にいると知ったこと。情報が確実ではなく、示された未来も曖昧であること。その二点を正直にお話しくださいませ」
「前にザントポートで話した夢と、同じようなものだと伝えます」
「はい。私からも、情報の出所を信用しすぎず、四人で確認するべきだと申し上げます」
「分かりました」
レイネは俺を寝台へ横たえ、掛け布を整えた。
身体を横へ倒すと、頭痛が再び強くなったように感じた。
「今夜は、これ以上お考えにならないでくださいませ」
「眠れる気はしません」
目を閉じれば、アイシャの姿が浮かぶ。
シーローンへ向かう道。
王宮。
兵士。
考えたいことはいくらでもあった。
「眠れなくとも、目を閉じて身体を休めてください」
「レイネも休んでください」
「再び吐き気や頭痛が強くなる可能性がございますので、今しばらくこちらにおります」
「もう大丈夫です」
「先ほど、床へ倒れかけた方のお言葉としては、説得力に欠けます」
言い返せなかった。
本当に、立つことさえできなかった。
レイネは寝台の横へ椅子を置き、そこへ腰を下ろした。
「少なくとも、呼吸と魔力の流れが完全に安定するまでは、おそばにおります」
「分かりました」
無理に追い返す方が、レイネを心配させるだけだ。
目を閉じる。
頭痛はまだ残っている。
人神は、俺たちの未来を見ようとしている。
レイネの存在を探そうとしている。
それでも、今の人神には、俺の周囲に誰がいるのかさえ正確には分からない。
その事実と、すぐそばにいるレイネの気配が、胸の中に残る不安を僅かに和らげてくれた。
人神の白い空間ではなく、衣擦れや呼吸が聞こえる現実へ戻っている。
俺は一人ではない。
そのことを確かめながら、少しずつ意識を休めた。
◇
翌朝。
頭痛と吐き気が治まったことを確認し、四人で宿の部屋へ集まった。
エリスは俺の顔を見たまま、まだ落ち着かない様子だった。
昨夜の俺が床へ倒れかけ、吐いていた姿を見ている。
言葉だけで大丈夫だと言っても、すぐには信じられないのだろう。
「本当に、もう平気なの?」
「はい。頭痛も吐き気もありません」
「立ってみて」
「立てますよ」
椅子から立ち上がる。
「歩いて」
部屋の端まで歩き、戻ってくる。
「跳んで」
「そこまでしなくても大丈夫です」
「本当に治ったか分からないじゃない」
心配してくれているのは分かる。
だが、このままでは腕立て伏せまで要求されそうだった。
「脈、瞳、魔力の流れはいずれも安定しております」
レイネが間へ入った。
「本日は激しい運動を控えていただきますが、通常の移動であれば問題ございません」
「レイネが言うなら信じるわ」
俺の説明だけでは足りないらしい。
少し複雑だったが、昨夜の状態を見れば仕方がないだろう。
ルイジェルドも俺の顔色を確かめてから椅子へ座った。
「昨夜、何を見た」
単刀直入な質問だった。
俺が何かを隠そうとしていないか確かめるというより、必要な話を最初から聞こうとしている。
「前にザントポートへ渡る前にも見た、妙にはっきりした夢です」
エリスの表情が変わる。
「あの時と同じ」と分かったらしい。
「獣族の子供が捕まってた時の夢?」
「はい。同じように、知らない場所と人の姿を見ました」
俺は三人を見回した。
一人ずつ目を合わせる。
この情報を聞き、どう動くかを四人で決める。
「夢の中で、アイシャがシーローン王国の王都にいると知りました。リーリャも王宮の中にいるようです」
「アイシャって、ルーデウスの妹よね?」
「はい。リーリャの娘です」
「会ったことはあるの?」
「ありません」
「それなのに、どうしてアイシャだと分かったの?」
当然の疑問だった。
「夢の中で名前を知りました。顔も、リーリャに似ていました」
「ただの夢ではないのか」
ルイジェルドが尋ねる。
「その可能性はあります。夢で知った内容が全て正しいとは思っていません」
最初に不確かさを認める。
正しい情報だと決めつけ、三人を従わせるつもりはない。
「ただ、前に見た夢では、実際に獣族の子供が囚われていました。今回も、完全に無視することはできません。それに、シーローン王国は、これから使う街道から大きく外れていません」
「夢の中で、アイシャは何をしてたの?」
「兵士に腕を掴まれ、持っていた紙を破られていました。王都の外へ手紙を出そうとしていたのかもしれません」
「襲われてたの?」
エリスの声が僅かに強くなる。
子供が兵士に捕まれていると聞けば、今すぐ助けに行きたくなるのだろう。
「そこまでは分かりません。場所も時刻も定まっていませんでした。僕たちが到着した時には、まだ起きていないかもしれませんし、既に終わっている可能性もあります」
「じゃあ、急いで行かないと」
エリスが身を乗り出した。
俺も同じ気持ちだ。
今すぐ馬を用意し、休まず走りたい。
それでも、急ぐことと無茶をすることは違う。
「はい。ただ、馬や僕たちが途中で動けなくなれば、かえって到着が遅れます。休むべき時には休みながら、できる限り早く向かいます」
「分かったわ」
反論はなかった。
早く助けたいという気持ちだけで、旅全体を壊すような無茶はしない。
エリスも、それを理解している。
「僕は、シーローン王国へ立ち寄りたいと思っています」
「行きましょう」
エリスの返事には迷いがなかった。
「ルーデウスの妹がいるかもしれないんでしょう?」
「情報が間違っている可能性もあります」
「間違っていたら、ロキシーに会ってから元の道へ戻ればいいわ」
単純だが、筋は通っている。
情報が間違いであれば、確認して終わる。
旧フィットア領へ向かう道から大きく外れない以上、確かめる価値はある。
「ルイジェルドさんは、どう思いますか?」
「俺も行くべきだと思う」
ルイジェルドは地図を見る。
「家族がいる可能性を知った以上、お前は確認せずに進めない。それに、罠であったとしても、四人で警戒して入れば対応できる」
俺の性格を理解した上での言葉だった。
確認せずに旧フィットア領へ進んでも、頭からシーローンのことが離れない。
何か起きるたび、あの時向かっていればと考えるだろう。
「ありがとうございます」
レイネが地図上の道を指でなぞった。
「昨日決めた東回りの街道を進み、王竜王国の首都を経由いたします。その後、サナキア王国とキッカ王国を通れば、シーローン王国へ入れます」
「旧フィットア領へ向かう道には戻れますか?」
「シーローンから西へ進めば、当初予定していた街道へ合流できます。立ち寄ることで日数は増えますが、旅程そのものが破綻するほどではございません」
夢が間違っていたとしても、取り返しのつかない遠回りにはならない。
「ただし、ルーデウス様」
レイネが俺を見る。
赤い瞳が、真っすぐこちらへ向けられている。
「王都へ到着した後も、お一人で行動しないとお約束くださいませ」
「分かりました」
「本当に?」
エリスが疑うように尋ねる。
昨夜倒れた直後であり、家族が捕まっている可能性を聞いた俺が、冷静でいられるのか心配なのだろう。
「はい。アイシャを見つけた場合も、一人で解決しようとはしません。すぐに助けなければ危険な状況なら動きますが、その後は必ず三人へ知らせます」
目の前で殺されそうになっていれば、相談するために見捨てることはできない。
だが、助け出した後まで一人で抱え込むことはしない。
「ならいいわ」
「それと、夢の中で見たとおりの出来事を探そうとは思っていません」
「どういうこと?」
「場所も時刻も分からないので、同じ路地を探し回っても会えるとは限りません。アイシャが外へ手紙を出そうとしているなら、冒険者ギルドや教会、郵便を扱う場所を調べた方が見つかる可能性があります」
レイネが続ける。
「情報の出所が信用できないからこそ、示された光景だけへ頼らず、私たち自身の目で状況を確かめる必要がございます」
ルイジェルドが短く頷く。
「それでいい」
目的地が決まった。
誰か一人の判断だけではない。
夢で得た情報を共有し、その不確かさも含めて四人で検討した結果だ。
人神に言われたから行くのではない。
家族がいる可能性を、自分たちで確認するために行く。
「では、シーローン王国へ向かいます」
三人が頷いた。
◇
イーストポートでは、旅に使う馬車と馬を購入した。
俺が車輪、荷台、車軸、幌の状態を確認する。
木材に目立った亀裂はないか。
車軸が歪んでいないか。
長距離を進む前に交換すべき部品はないか。
エリスは二頭の馬の脚と蹄、呼吸を見る。
実際に歩かせ、左右の歩幅や首の動きまで確認していた。
レイネは契約書と備品を確かめ、ルイジェルドは街道と周辺の危険について情報を集めた。
全てをレイネへ任せるのではない。
俺たちが自分で判断した後、見落としがないかを彼女に確認してもらう。
魔大陸を旅していた三人のやり方と、レイネが加わってからのやり方が、少しずつ一つになっていた。
レイネが一人で完璧に準備する方が、早い場面もある。
だが、それでは俺たちはいつまでも自分で判断できない。
今は各自が得意な部分を確認し、最後に全員で共有する。
準備を終えた翌朝、イーストポートを出発した。
最初の目的地は、王竜王国の首都ワイバーン。
中央大陸南部の街道は、魔大陸より遥かに進みやすかった。
道幅は広く、宿場も多い。
大型の魔物と遭遇する回数も少ない。
以前なら、安全で穏やかな旅だと喜んでいただろう。
それでも、俺の頭からアイシャの姿が消えることはなかった。
兵士に掴まれた腕。
破られた紙。
必死に何かを訴えていた顔。
あの光景が、既に起きたことなのか。
これから起きることなのか。
人神にも分からなかった。
今すぐ馬を走らせたい。
一日でも、半日でも早く着きたい。
夜になっても進み、馬が倒れるまで走らせれば、数日は縮められるのではないか。
そんな考えが、何度も浮かぶ。
だが、馬へ無理をさせれば途中で動けなくなる。
新しい馬をすぐに用意できる町があるとも限らない。
毎朝、馬の状態、街道、天候を確認し、その日に進める距離を決めた。
俺が休憩を短くしようとすれば、エリスが馬の様子を理由に止める。
「まだ走れる」と言いかけても、馬の息や汗を示されれば反論できない。
夜遅くまで地図を見ていれば、ルイジェルドが明日の警戒へ影響すると言って休ませる。
自分でも気づかないうちに疲労が溜まれば、レイネが御者を交代した。
「大丈夫です」と答えても、手綱を握る指の動きや瞬きの回数まで見られているらしく、誤魔化せなかった。
俺一人なら、焦りに負けて進み続けていたかもしれない。
以前の父さんが、ノルンへ無理をさせた時のように。
家族を助けたいという正しい目的を理由に、馬や仲間の状態を見なくなっていた可能性がある。
四人で旅をしているから、急ぎながらも無茶をせずに進める。
止められることへ苛立つより、止めてくれる者がいることへ安心するようになっていた。
◇
王竜王国を進む途中、市場で見覚えのある形の穀物を見つけた。
細長く、少し黄色みを帯びた粒。
最初は、自分の記憶が作り出した錯覚かと思った。
「……米?」
思わず足を止める。
店主へ尋ねると、北東にあるサナキア王国で多く作られている穀物だという。
名前は違っていた。
それでも、粒の形も、指先へ触れた感触も、前世で知っていた物へよく似ている。
俺は迷わず購入した。
その日の夕食は、宿の厨房を借りて自分で米を炊いた。
「レイネ、これは僕にやらせてください」
「もちろんでございます」
レイネは手を出さず、少し離れた場所から見守った。
いつもなら、調理はレイネが担当する。
それでも、俺が自分で作りたいと伝えると、理由を尋ねず任せてくれた。
水の量。
火加減。
蒸らす時間。
正確な方法は覚えていない。
前世で、自分が炊飯器を使った回数さえ多くはなかった。
家族が用意した物を食べるだけで、自分から台所へ立つことはほとんどなかった。
店主から教わった調理法と、前世の曖昧な記憶を頼りに進める。
火が強すぎないか。
水が多すぎないか。
何度も蓋を開けて確かめたくなるが、蒸気を逃がさない方がよかったはずだと思い、我慢した。
蓋を開けた瞬間、温かな湯気とともに懐かしい匂いが広がった。
胸の奥が締めつけられる。
よい思い出ばかりではない。
家族と顔を合わせず、部屋の前へ置かれた食事を一人で食べたこともある。
家族が俺のために用意した食事を受け取りながら、礼も言わず、扉すら開けなかった。
米の匂いは、そんな過去まで一緒に連れてきた。
それでも、この匂いは懐かしかった。
戻りたいとは思わない。
前世の人生をやり直せるとしても、今の家族や仲間を捨てて戻るつもりはない。
それでも、かつて存在した自分の人生の一部として、胸へ残っている。
「ルーデウス」
エリスが鍋を覗き込む。
「そんなに特別なの?」
「僕にとっては」
自分でも、思っていた以上に感情が声へ出た。
「食べたことがあるの?」
一瞬、言葉に詰まった。
前世の話をするわけにはいかない。
「よく似た物を、昔に」
エリスは不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
俺が話したくないことまで、無理に聞こうとはしない。
四人分を器へ分ける。
白というより、少し黄色みが残っている。
炊き方も完璧ではない。
それでも、十分に米だった。
レイネは一口食べ、ゆっくりと咀嚼した。
評価を待つ間、妙に緊張した。
自分が懐かしいと思う物を、レイネにも気に入ってほしい。
「癖が少なく、ほかのお料理とも合わせやすい味でございますね」
「おいしくありませんか?」
思わず聞き返した。
「いいえ。私は好きでございます」
その言葉だけで、少し嬉しくなった。
料理への感想だ。
深い意味はない。
それでも、レイネが好きだと言ったことで、前世から持ってきた小さな記憶まで受け入れてもらえたような気がした。
エリスは塩を振った米を食べ、首を傾げている。
「柔らかいわね」
「どうですか?」
「悪くないけど、肉も欲しいわ」
「用意してあります」
肉と野菜の煮込みを出すと、エリスの表情が明るくなった。
米だけでは物足りなかったらしい。
煮込みの汁を掛け、勢いよく食べ始める。
ルイジェルドも黙々と食べている。
「ルイジェルドさんは、どうですか?」
「悪くない」
短いが、十分な褒め言葉だろう。
「おかわりはありますよ」
「もらおう」
気に入ってくれたらしい。
食事をしている間だけは、アイシャの姿が頭から薄れた。
忘れたわけではない。
助けることを諦めたわけでもない。
焦りだけで旅を続ければ、身体も心も持たない。
温かい物を食べ、少し笑い、次の日へ備える時間も必要だった。
その時間を過ごすことが、助けに行くのを遅らせる裏切りではない。
長く進み続けるために、必要な休息だ。
◇
王竜王国を抜け、サナキア王国へ入った。
街道の周囲には、見渡す限りの水田が広がっている。
水を張った田へ空が映り、細い畦道を農民たちが歩いていた。
風が吹けば、水面と稲が一緒に揺れる。
前世で実際に田園地帯へ足を運んだ記憶は少ない。
それでも、映像や写真で見た風景と重なり、妙な懐かしさを覚えた。
宿で出される料理にも、米が多く使われている。
魚や野菜と一緒に炊き込んだ物。
香辛料を混ぜた粥。
肉の汁を吸わせた料理。
同じ米でも、前世の日本料理とは違う。
それでも、食事のたび、俺の気分は少しだけ明るくなった。
「ルーデウスって、米を食べてる時だけ静かね」
エリスに言われた。
「食事へ集中しています」
「普段は食べながら、いろいろ言うじゃない」
「これだけは別なんです」
懐かしさを言葉にすれば、前世のことまで話さなければならなくなりそうだった。
だから、食べることへ集中した。
レイネは、俺が空になった器を差し出す前に尋ねた。
「まだお召し上がりになりますか?」
「もう一杯だけ」
「先ほども同じことをおっしゃいました」
「今度こそ最後です」
「承知いたしました」
結局、三杯食べた。
満腹で少し苦しくなったが、後悔はなかった。
レイネには、食べすぎで動きが鈍くならないよう、出発まで少し時間を空けられた。
サナキア王国を抜け、キッカ王国へ入る。
どちらも王竜王国の影響を強く受けた小国で、街道と関所は比較的よく整備されていた。
町へ到着するたび、必要な情報を確認した。
リーリャとアイシャ。
ロキシー先生。
シーローン王宮。
夢の情報だけを頼りにせず、現実の記録と噂を一つずつ集める。
リーリャとアイシャについて、確かな情報は得られなかった。
王宮の使用人について、外国の商人や冒険者が詳しく知っているはずもない。
ロキシー・ミグルディアという宮廷魔術師がいたことを覚えている商人はいた。
小柄な魔族の魔術師。
高い水魔術の技量。
その特徴は、ロキシー先生と一致している。
しかし、今も王宮へ勤めているのかまでは知らなかった。
人神にも見えていなかった部分だ。
手紙を出す前に、現地で確認する必要がある。
夜になると、夢で見た光景を何度も思い出した。
兵士の位置。
アイシャの顔。
破られた紙。
夢の中では何度も形を変えた路地。
ただし、路地の形だけを頼りにすることはしなかった。
人神にさえ、場所は正確に見えていない。
ならば、あの場面を再現しようとすること自体が間違いになる。
アイシャは外部へ連絡しようとしている。
王宮側は、それを止めようとしている可能性がある。
その二点を手掛かりにする。
冒険者ギルド。
教会。
商人組合。
郵便を扱う場所。
王都の外へ手紙を送れる場所を確認すれば、アイシャか、彼女を監視する者の動きが見つかるかもしれない。
考え始めると、眠れなくなる夜もあった。
今ごろ、アイシャは何をしているのか。
リーリャは娘が外へ助けを求めようとしていることを知っているのか。
二人は、俺が向かっていることを知らない。
助けが来ないと思いながら、王宮で耐えているのかもしれない。
レイネは、俺が眠れていないことに気づいていた。
それでも、毎晩同じ質問を繰り返すことはなかった。
眠れと言われるほど、かえって焦る。
大丈夫かと何度も聞かれれば、大丈夫だと答え続けることにも疲れる。
朝になれば、体調を確認する。
食事を取れているか。
頭痛が再発していないか。
御者を続けられる状態か。
そして、人神が再び現れなかったか。
必要なことだけを尋ねてくれた。
答えた後は、それ以上踏み込まず、必要なら御者や作業を交代する。
その距離が、今はありがたかった。
心配されていないわけではない。
黙って見守られていることが分かるからこそ、自分から本当に苦しい時には話せると思えた。
◇
いくつもの町を通り、国境を越えた。
やがて、シーローン王国の領内へ入った。
小国ではあるが、長い歴史を持つ国だ。
街道の周囲には農地が広がり、家畜が放し飼いにされている。
王竜王国の影響を強く受けながらも、独自の軍と文化を保っているようだった。
国境を越えた瞬間から、周囲を見る目が変わった。
ここにいる。
リーリャとアイシャが、この国のどこかにいる可能性が高い。
首都ラタキアへ近づくにつれ、兵士の姿が増えていく。
街道の検問。
巡回する騎兵。
王都へ物資を運ぶ兵士。
どの兵士を見ても、夢の中でアイシャの腕を掴んでいた男と重なって見えた。
もちろん、全員が敵であるはずはない。
分かっていても、身体が自然に警戒してしまう。
王都の城壁が見えた時、胸の鼓動が自然と速くなった。
あの中に、リーリャがいるかもしれない。
町のどこかに、アイシャがいるかもしれない。
一度も会ったことのない妹。
それでも、夢で見たあの顔を思い出すだけで、今すぐ駆け出したくなる。
城門を越え、王宮へ向かい、アイシャとリーリャの名前を叫びたい。
「ルーデウス」
エリスに呼ばれた。
「顔が怖いわよ」
「そうですか?」
「今から一人で王城へ攻め込むみたいな顔をしてる」
「攻め込みません」
自分では、そこまで表情へ出しているつもりはなかった。
「本当に?」
「約束したでしょう。一人で動けば、僕が捕まった時に二人を助けられなくなります。だから、必ず三人と相談します」
一人で動かないという約束だけではなく、その理由まで自分の口で確認する。
俺が捕まれば、家族を助ける者が減る。
力ずくで王城へ入れば、リーリャたちの立場がさらに悪くなる可能性もある。
理由まで答えると、エリスは俺の顔をしばらく見つめた後、頷いた。
「ならいいわ」
俺は三人へ目を向ける。
レイネ。
エリス。
ルイジェルド。
俺を止めるためだけではなく、一緒に家族を助けるためにここまで来てくれた仲間だ。
「まず宿を取ります。その後、ロキシー先生が今も王宮にいるかを確認します」
「アイシャはどうするの?」
「夢で見た路地を探し回るのではなく、外へ連絡できる場所を調べます。兵士が誰を捜し、どこを監視しているのかも確認します」
レイネが続ける。
「アイシャ様が王宮から外部へ手紙を出そうとしておられるのであれば、冒険者ギルドや郵便を扱う場所が監視されている可能性がございます」
「四人で一緒に歩いたら目立たない?」
エリスが尋ねた。
確かに、俺たちは目立つ。
赤髪のエリス。
白髪赤眼のレイネ。
青髪で長身のルイジェルド。
四人で同じ場所を調べれば、監視する側にもすぐ気づかれる可能性がある。
「最初は一緒に町の構造を確認いたします」
レイネが答える。
「必要であれば二組へ分かれますが、互いにすぐ合流できる範囲へ留めましょう」
「誰と誰に分かれるの?」
「町の状況を確認してから決めます。最初から組み合わせを固定すると、予想外のことが起きた際に動きにくくなりますので」
「分かったわ」
今ここで組み合わせまで決めれば、その予定へ合わせて動こうとしてしまう。
現地の状況を見てから、必要な役割を決める。
「離れた場合も、俺なら三人の位置を追える」
ルイジェルドが王都を見ながら言った。
額の第三の眼があれば、人混みの中でも俺たちの位置を見失わない。
「お願いします、ルイジェルドさん」
馬車が城門へ近づいていく。
兵士たちは、王都へ入る者の冒険者札や荷物を確認していた。
一般的な検査に見える。
一方、外へ出ようとする商人や旅人には、さらに厳しい検査を行っている。
荷車の箱を開ける。
幌の中を覗く。
積み荷の下まで棒で確かめる。
子供の顔まで一人ずつ確認していた。
泣いている幼い子供さえ、親の陰へ隠れることを許されず、兵士へ顔を見せさせられている。
「入る者より、出る者をよく見ている」
ルイジェルドが小さな声で言った。
「誰かが逃げることを警戒しているのね」
エリスも気づいた。
俺の胸の鼓動が、さらに速くなる。
アイシャ。
王宮から外部へ連絡しようとしている少女。
兵士に止められる未来。
目の前の検査が、アイシャを逃がさないためのものに見えてしまう。
「アイシャ様を捜しているとは限りません」
レイネが静かに言う。
俺が一つの結論へ飛びつきそうになったことを見抜いたのだろう。
「別の逃亡者や密輸品を警戒している可能性もございます。ですが、王都から出ようとする方々へ検査が集中していることは、覚えておくべきでございます」
夢で見た光景と、目の前の状況がつながり始めている。
だからこそ、結論を急いではならない。
アイシャを捜していると最初から決めつければ、本当の理由を見落とすかもしれない。
別の逃亡者がいる可能性。
王都から重要な物が持ち出された可能性。
最近になって検査が厳しくなった理由を、まず調べる必要がある。
「ルーデウス様」
レイネが、俺にだけ聞こえる声で呼んだ。
「はい」
「夢でご覧になったものと異なる出来事が起きても、失敗だとはお考えにならないでくださいませ」
人神が見せた未来と違う。
アイシャが別の場所にいる。
兵士に追われていない。
本名を伏せなくても問題がない。
そのような状況になった時、夢どおりに動けなかったから失敗したと考えてはいけない。
「分かっています」
「夢のとおりに動くことが目的ではございません」
「リーリャとアイシャを見つけて、無事に助けることが目的です」
「はい」
言葉にすることで、胸の中にあった焦りが僅かに整った。
人神が示した光景を再現するために来たのではない。
家族を助けるために来た。
結果が同じである必要はない。
むしろ、アイシャが兵士に捕まる未来など、起きない方がよい。
城門が開く。
その向こうには、人と馬車が行き交う王都ラタキアの街並みが広がっていた。
石造りの建物。
商店の看板。
行き交う市民。
遠くに見える王宮の尖塔。
この町のどこかに、俺の家族がいる。
人神の言葉には、まだ見えていない意図がある。
けれど、人神にも、俺たちがこれから何を選ぶのかは正確に見えていない。
レイネの秘術によって、俺だけでなく、エリスやルイジェルドを含めた周囲の未来まで霞んでいる。
人神が示した一本道を、そのまま歩く必要はない。
四人で情報を集める。
四人で考える。
そして、四人でリーリャとアイシャを助ける。
馬車が城門を通り抜けた。
不安は消えていない。
それでも、焦りに押されて一人で飛び出すつもりもなかった。
俺たちは、シーローン王国の首都へ入った。