ルーデウス視点
リーリャとアイシャを救出してから、三日が過ぎた。
その間、俺たちは王都の宿からほとんど動かなかった。
パックスはザノバによって拘束され、王宮では正式な調査が始まっている。家族を人質に取られていた兵士たちも証言し、旧倉庫街からは、監禁されていた人々とパックスの私兵たちが見つかったらしい。
もう、パックスが自由に兵士を動かせる状況ではない。
頭ではそう理解していた。
それでも、安心して王都を離れられる段階ではなかった。
リーリャの身体には、長期間の拘束による疲労が残っている。レイネの治癒魔術で打撲や傷を塞ぐことはできても、失われた体力や、長く緊張を強いられた心まで一度に元へ戻せるわけではない。
寝台へ横たわっているリーリャは、俺の記憶にある姿よりも明らかに細くなっていた。
頬が痩せ、手首も細い。
昔のリーリャは細身ではあったが、常に背筋を伸ばし、静かな足取りで家の中を歩いていた。俺や父さんが気づかないうちに必要な仕事を終え、呼ばれれば何事もなかったような顔で現れる。
弱って寝台へ横たわる姿など、ほとんど見た記憶がない。
今は、身体を起こしているだけでも疲れるらしい。
眠っている間も、廊下から足音が聞こえるたびに肩が僅かに強張った。鎧の金属が触れ合う音がすれば、閉じられていた瞼が微かに動く。
王宮の兵士が、もう一度連れ戻しに来るのではないか。
眠っている間にも、身体が警戒を続けているのだろう。
助け出せた。
もう、パックスの部屋へ戻されることはない。
そう自分へ言い聞かせても、リーリャが物音へ怯えるたびに、俺の胸にも同じ不安が戻ってきた。
王宮側が正式に二人の自由を認めるまでは、まだ終わっていない。
俺たちが力ずくで連れ出しただけだと主張されれば、別の兵士が来る可能性も完全には否定できない。王族の起こした問題を隠すため、被害者であるリーリャたちへ何らかの責任を押しつけようとする者が現れることも考えられる。
だから、廊下で鎧が鳴るたび、俺も扉へ目を向けてしまう。
枕元には杖を置いていた。
部屋の外にはルイジェルドが気を配り、エリスも剣を手の届く位置から離そうとしない。
俺は王宮から届いた連絡と、宿の周辺に配置されている兵士の動きを確認した。そのうえで、今すぐ危険が迫っているわけではないと判断している。
それでも警戒を解くつもりはなかった。
ただし、恐怖に駆られて今すぐ王都から逃げ出すつもりもない。
慎重になることと、怯えて何も確かめずに動くことは違う。
王宮側の正式な決定が届くまで、リーリャとアイシャを守りながら待つ。それが、今の俺たちに必要な行動だった。
リーリャの食事も、いきなり以前と同じ量へ戻すことはできなかった。
消化しやすい物を少量ずつ食べてもらい、水分を欠かさず、眠れる時には十分に眠らせる。空腹が長く続いた身体へ一度に大量の食事を入れれば、かえって大きな負担になることがあるらしい。
レイネはリーリャの脈や体温、呼吸、食事の量を確認し、夜中に何度目を覚ましたかまで記録していた。
リーリャ本人が大丈夫だと言っても、それだけを理由に判断しない。
それは、俺たちが再会してから決めたことでもあった。
レイネは、誰かのためなら自分の苦しさを隠して大丈夫だと言う。だから、言葉だけではなく、食事や睡眠、呼吸や動きまで見て判断する。
同じことは、リーリャにも必要なのだろう。
「お母さんは、いつ元気になりますか?」
寝台の横に置かれた椅子へ座っていたアイシャが、レイネへ尋ねた。
声には、幼い子供らしい不安と、それを表へ出すことを恐れるような硬さが混じっていた。
「今すぐ命に関わる状態ではございません。ですが、長い間お疲れを溜めておられましたので、しばらくは無理をなさらない方がよろしいでしょう」
「私にできることはありますか?」
「お食事を残さず召し上がり、アイシャ様ご自身も十分にお休みくださいませ」
「お母さんのためにできることです」
アイシャの声に、僅かな焦りが滲んだ。
自分が元気でいることもリーリャのためになると、頭では理解できるのだろう。それでも、それだけでは足りないと思っているらしい。
水を運びたい。
薬を用意したい。
自分の手で母親を助けていると、実感できる何かが欲しい。
王宮では、何もできない自分を何度も責めていたのかもしれない。
母親が殴られても止められない。
外へ手紙を出そうとしても兵士に見つかる。
自分が逆らえば、母親への扱いがさらに悪化するかもしれない。
ようやく王宮から逃げ出せても、その間、リーリャは一人で残されていた。
だから今度こそ、自分が何かをしなければならないと思っているのだろう。
何もせずに休んでいれば、また母親だけへ苦しみを押しつけているように感じるのかもしれない。
その気持ちは分かる。
俺も家族が危険だと知れば、ただ待っていろと言われても納得できない。
だが、何かをすることと、自分を休ませないことは同じではない。
長く動き続けるためには、休むことも必要な行動の一つだ。
レイネはアイシャの前へ膝をついた。
目線の高さを合わせ、正面から静かに語りかける。
「アイシャ様がお元気でいらっしゃることが、リーリャ様にとって何よりの安心となります」
「でも、私が何もしなければ、お母さんばかり大変です」
「何もしないようにとは申し上げておりません。まずは、アイシャ様ご自身が無理をなさらないこと。そのうえで、お水をお渡ししたり、お話し相手になったりして差し上げてくださいませ」
アイシャはすぐには頷かなかった。
言われたことへ従うのではなく、その意味を自分の中で確かめているようだった。
「心配していることを見せてもいいのですか?」
「もちろんでございます」
「でも、私が泣いたら、お母さんも心配します」
リーリャを安心させるためには、自分が強く振る舞わなければならない。
アイシャは、そう考えていたのだろう。
王宮で、まだ六歳の少女が母親を支えようとした。その結果、恐怖も寂しさも自分の中へ押し込め続けた。
「泣くことと、何もできないことは同じではございませんよ」
レイネの声は穏やかだった。
「怖かった時には怖かったと、寂しかった時には寂しかったとお話しください。その後で、これから何ができるのかを一緒にお考えになればよろしいのです」
弱さを見せれば、相手を苦しめる。
泣けば役に立たない。
そのように決めつける必要はないのだと、レイネは伝えていた。
俺は、その言葉を黙って聞いていた。
レイネ自身も、以前より自分の感情を口にするようになった。
完全ではない。
今でも大丈夫だと言って隠そうとすることはある。
それでも、苦しいことを苦しいと話してよいのだと、少しずつ受け入れ始めている。
だからこそ、今の言葉には重みがあった。
アイシャは、寝台で休むリーリャへ顔を向けた。
リーリャも、娘の言葉を急かさず待っている。
アイシャは椅子から少し身を乗り出し、恐る恐る母親の手を握った。
「お母さん」
「はい」
「私、怖かったです」
リーリャの目が僅かに見開かれた。
アイシャが、これまで自分からは言わなかった言葉なのだろう。
「王宮から逃げた後も、兵士に見つかった時も、知らない人についていくしかなかった時も、ずっと怖かったです」
俺たちと出会った時も怖かった。
その言葉は口にされなかったが、意味は十分に伝わった。
胸の奥が少し痛んだ。
あの時のアイシャは、怯えていることをほとんど表へ出さなかった。
兵士たちに挟まれても、何を言えば状況がよくなるのかを考えていた。俺たちが安全なのかを見極め、自分で助けを求め、宿へ着いてからも慎重に質問を続けた。
俺が兄だと名乗っても、証拠を求めた。
母親と再会するまでは完全には信用できないと答えた。
賢い子だと思った。
六歳とは思えないほど冷静だと感心した。
けれど、それは余裕があったからではない。
怖くても、泣いて立ち止まれば捕まるから、考え続けるしかなかったのだ。
王宮で長く拘束され、自分を守るためには恐怖を隠さなければならないと覚えた。
俺はアイシャの判断力を信じ、無理に信用を求めなかった。あの場で選んだ対応が間違っていたとは思わない。
それでも、冷静に話せていることと、恐怖を感じていないことを混同してはいけなかった。
強く振る舞える者にも、怖いものはある。
今後は、アイシャの言葉だけではなく、その奥にある気持ちも知っていきたい。
兄として過ごした時間が短いのなら、これから少しずつ知ればいい。
「でも、お兄さまたちに会えて、お母さんも助けてもらえました」
「はい」
リーリャは、アイシャの手を握り返した。
痩せた指で、娘の小さな手を包む。
「よく頑張りましたね」
「はい……」
今度は我慢せず、アイシャの目から涙が流れた。
最初の一粒が頬を伝うと、止めていた物が崩れたように、次々と涙が溢れ出す。
リーリャも泣いていた。
自分が娘へ無理をさせたと思っているのかもしれない。
それでも今は謝るのではなく、娘の手を何度も撫でながら、頑張ったと伝えていた。
レイネは二人の間へ割って入らず、必要になった時に使えるよう、静かに布を置いた。
涙を拭けとは言わない。
泣き止ませようともしない。
ただ、二人が自分たちの言葉を交わせるよう、そばに控えている。
俺は少し離れた椅子へ座り、その光景を見ていた。
今は俺が言葉を重ねる場面ではない。
アイシャが、母親の前でようやく恐怖を口にできている。リーリャも、自分を責める言葉ではなく、娘を認める言葉を返している。
二人の間でしか交わせない感情がある。
俺は、必要になった時に支えられる距離で見守ることにした。
助け出しただけで、すべてが元どおりになるわけではない。
傷を塞いでも、王宮で過ごした時間が消えるわけではない。夜中の足音へ怯えることも、知らない兵士を警戒することも、自分だけが休むことへ罪悪感を抱くことも、すぐにはなくならない。
それでも、こうして少しずつ、安心できる場所へ戻っている。
そう思うと、胸の奥へ温かいものが広がった。
「ルーデウス様」
レイネに呼ばれ、顔を上げる。
「王宮から使者がお越しになりました」
「王宮から?」
胸の奥が、一瞬で冷えた。
先ほどまで広がっていた温かさが急速に引いていく。
どのような決定が下されたのか。
リーリャとアイシャの自由は認められたのか。
俺たちの救出方法を問題視する者がいるのか。
無意識に、枕元へ置いてある杖へ視線が向いた。
扉から手を伸ばせば届く位置にある。
「はい。今回の件について、正式な決定をお伝えしたいとのことでございます」
レイネの声は落ち着いている。
外が騒がしいわけでもなければ、大勢の兵士が宿を囲んでいる気配もない。
使者は、話し合いのために来た。
まずは、何が決まったのかを最後まで聞くべきだ。
怖さを理由に結論を決めつけてはいけない。
「分かりました。話を聞きます」
◇
王宮から来た使者は、国王の側近を名乗る壮年の男性だった。
整えられた服装と、感情の読みにくい表情。
護衛の兵士を二人連れていたが、武器へ手を掛ける様子はない。
宿の一階にある食堂を借り、俺とレイネが話を聞くことになった。
エリスとルイジェルドは、リーリャとアイシャのそばへ残っている。
俺とレイネは使者から正式な決定を聞き、エリスとルイジェルドは万が一に備えて家族を守る。
俺がすべての場所へ同時にいる必要はない。
二人なら、何かが起きてもすぐに対応できる。
互いに役割を任せられることが、今は心強かった。
使者は俺の向かい側へ座ると、形式的な挨拶の後、分厚い書類を机へ置いた。
複数の印と署名が記されている。
「まず、リーリャ・グレイラット殿と、アイシャ・グレイラット殿の身柄についてお伝えいたします」
「はい」
声が硬くなっていることが、自分でも分かった。
膝の上で握った拳へ力が入る。
「両名を拘束する正当な根拠は存在しなかったと判断されました。従って、シーローン王国は両名の自由を認めます」
その言葉を聞いた瞬間、肩から力が抜けた。
身体の中へ張りつめていた糸が、一つ切れたようだった。
机の下で握っていた拳が、ゆっくりと開く。掌には、薄く爪の跡が残っていた。
よかった。
もう一度、捕らえられることはない。
王宮が正式に、二人の自由を認めた。
俺たちが勝手に連れ出したのではない。
逃亡者として追われることもない。
多数の証言がある以上、当然の結論だと思っていた。それでも、王族が起こした問題である以上、別の形で処理される可能性を考えずにはいられなかった。
正式な文書として自由が認められたことで、ようやく一つの不安を下ろすことができた。
「ただし、一部の重臣から、リーリャ殿が他国の情報を得る目的で王宮へ入り込んだ可能性を指摘する声が出ております」
安堵した直後だったからこそ、怒りが強く湧いた。
緩んだ拳が、再び握られる。
「転移によって、偶然王宮へ現れたのですよね?」
思わず声が強くなった。
リーリャは好きで王宮へ入ったわけではない。
転移事件に巻き込まれ、見知らぬ王宮の敷地へ投げ出された。二年以上も拘束され、暴力まで受けていた。
娘と引き離される恐怖を利用され、ロキシー先生を呼び戻すための道具にされた。
それを今度は、間者かもしれないと疑うのか。
使者は動じなかった。
俺の怒りも、予想していたのだろう。
「承知しております。国王陛下も、その疑いに根拠はないとお考えです」
「それなら――」
「ですが、王宮内で長期間生活していた人物を、何の確認もせず国外へ出せば、後から問題視する者が現れます」
理屈だけは分かる。
国としての体面。
王宮内部の情報。
他国との関係。
王宮で二年以上過ごした者が、その間に何を見聞きしたのか。
それらを無視できない立場があることも分かる。
ここで国王が何も確認せず国外へ出せば、それを理由に批判する者もいるのだろう。
だが、理解できることと、納得できることは違う。
被害者であるリーリャへ、さらに疑いの目を向ける。
その事実を簡単に受け入れることはできなかった。
それでも、使者へ怒りをぶつけ続けても、二人の立場は改善しない。
必要なのは、王国側がどのような手続きで二人を解放し、今後の安全をどう保証するのかを確認することだ。
怒りを消すのではない。
怒りを抱いたまま、今聞くべきことを選ぶ。
「どのような確認をするつもりですか?」
「パウロ・グレイラット殿のもとまで、国の護衛を付けてお送りします」
予想していなかった答えだった。
「父さんの所へ?」
思わず身体が前へ出る。
「はい。夫婦であることを本人に確認していただきます。また、今回の事件について記録した書類を、ミリス神聖国側の関係者へ提出いたします」
監視という名目ではなく、護送という形にするらしい。
パウロ・グレイラットの妻であることを、本人に確認してもらう。同時に、シーローン王国が事件を隠しているのではないと、ミリス側へ記録を提出する。
建前が含まれているとしても、リーリャとアイシャを父さんの所へ安全に送り届けてもらえる。
胸の中に、今度こそ素直な喜びが浮かんだ。
父さんに会える。
リーリャもアイシャも、ノルンの所へ帰れる。
父さんが捜し続けていた二人が、生きていると伝えられる。
ミリシオンで父さんと別れた時、まだ見つけられていなかった二人を、ようやく返せる。
俺が直接連れていけないことには、少し申し訳なさがあった。
見つけたのなら、自分の手で父さんのもとへ連れて帰りたい。父さんが二人を見た時に、どのような顔をするのかも見たかった。
だが、俺たちは旧フィットア領へ向かわなければならない。
リーリャの体調も万全ではなく、これから俺たちが進む旅程より、護衛付きでミリシオンへ向かう方が身体への負担も少ない。
自分が一緒にいたいという感情だけで、全員を同じ道へ連れていくべきではない。
二人が安全に父さんのもとへ戻れる方法を選ぶ。
その結論に迷いはなかった。
ただし、護衛を誰が務めるかは重要だった。
「護衛は信用できますか?」
王宮の不祥事を知っている二人を、同じ王国の兵士へ預ける。
道中の安全だけではない。
二人の意思を尊重し、体調が悪ければ予定を変えてくれる人物かどうかも確認しなければならない。
使者が答えるより先に、扉の外から声がした。
「その点は、私が保証します」
食堂へ入ってきたのは、ジンジャーだった。
王宮で見た時と同じ騎士装束を身につけている。足取りに迷いはなく、使者の横へ立つと、俺へ向かって一礼した。
「私が、リーリャ殿とアイシャ殿の護衛を務めます」
「ジンジャーさんが?」
「はい。ザノバ殿下より、師匠のご家族を必ずパウロ殿のもとへ送り届けるよう命じられました」
師匠。
ザノバが俺をそう呼ぶことを、ジンジャーも完全に受け入れているらしい。
ジンジャーなら信用できる。
家族を人質に取られながらも、リーリャたちを気に掛け、俺たちへ協力してくれた人物だ。
妹を取り戻した時の顔も覚えている。
家族を失う恐怖を知っている彼女なら、リーリャとアイシャが抱えている不安も理解してくれるだろう。
「それに、今回助けていただいた兵士の中から、数名が護衛を希望しております」
家族を人質に取られていた兵士たちだ。
パックスの命令でアイシャを追っていた者も、その中にいるかもしれない。
路地で兵士たちと向き合った時、俺たちはその場で敵と決めつけなかった。
行動に迷いがあることを確認し、アイシャの証言から人質の存在を知った後は、先に旧倉庫街を救出する計画へ切り替えた。
兵士たちが、なぜパックスへ従っているのかを確かめた。
その結果、今は二人を守る側として協力してくれる。
あの時、俺一人で判断したわけではない。
エリス、ルイジェルド、レイネ。
四人がそれぞれ見えた事実を持ち寄り、救出の順番を決めた。
俺自身も情報を整理し、最も多くの人を安全に助けられる方法を選んだ。
その判断が、今の護送へつながっている。
自分が何もできなかったとは思わない。
かといって、自分だけの功績だとも思わない。
四人で選んだからこそ、今がある。
「お願いします」
俺は頭を下げた。
「二人を、父さんの所まで無事に送り届けてください」
「命に代えても」
「命までは懸けないでください」
反射的に答えると、ジンジャーが僅かに目を見開いた。
騎士としては、護衛対象を守るため命を捨てるという答えが正しいのかもしれない。
だが、俺はその答えを望んでいない。
「危険なことがあれば、状況に応じて退いてください。リーリャとアイシャだけではなく、護衛する皆さんも生きて到着することを優先してほしいんです」
護衛対象を逃がすため、自分が危険を引き受けなければならない状況もあるだろう。
それでも、最初から自分の命を使い捨てるつもりで旅へ出てほしくはない。
救出に協力してくれた者たちを、今度は俺たちの家族のために犠牲へするつもりはなかった。
ジンジャーはしばらく俺を見つめた。
俺の言葉が、騎士の覚悟を軽く扱っているのではないかと確かめるような目だった。
やがて、表情を僅かに和らげ、深く頭を下げる。
「承知いたしました」
使者が次の書類へ手を置いた。
紙が擦れる僅かな音だけで、部屋の空気が変わったように感じた。
「続いて、パックス殿下についてです」
俺の胸にも、重い感情が戻る。
リーリャの痩せた姿。
アイシャの震える指。
二人が閉じ込められていた時間。
旧倉庫街の地下で、家族を待っていた人々。
考えれば、怒りはいくらでも湧いてくる。
「兵士とその家族への脅迫、不当な拘束、私的な奴隷商人の利用、リーリャ殿とアイシャ殿への長期間の監禁。これらについて、多数の証言が得られました」
「処分は?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「王位継承権を剥奪し、国外へ出すことが決定しております」
国外へ出す。
死刑ではない。
牢へ閉じ込め続けるわけでもない。
軽い。
最初に浮かんだのは、その感情だった。
二年以上も人を監禁し、家族を人質に取った。
リーリャを殴り、アイシャが父さんへ送ろうとした手紙まで奪った。
自分の欲望のために、何十人もの人生を縛った。
それで国を追い出されるだけなのか。
王族でなければ、同じ処分で済んだのか。
胸の中へ、納得できない感情が渦巻いた。
だが、俺はすぐに処罰の変更を要求しなかった。
パックスを許したわけではない。
王宮でリーリャの首へ短剣を向けた時には、その場から消し飛ばしたいほどの怒りを感じた。今も、その感情は消えていない。
それでも、どのような罰が被害を受けた者にとって正しいのかを、俺の怒りだけで決めるべきではない。
死刑を求めても、リーリャやアイシャが望んでいない結果になる可能性がある。
長期間牢へ入れたとしても、二人が受けた苦しみが消えるわけではない。
重い罰を望む俺の感情と、被害を受けた本人が望むことは、分けて考える必要がある。
俺が今確認すべきなのは、パックスが二度と同じ権力を使えないことと、リーリャたちの安全が守られることだった。
王位継承権は剥奪される。
シーローン王国からも追放される。
兵士や奴隷商人を動かす立場は失う。
少なくとも、この国で同じことを繰り返すことはできない。
「どこへ送るのですか?」
「それについては、お答えできません」
使者の声は変わらなかった。
既に決められた処分であり、俺へ交渉する権限はないのだろう。
今は、王国側の決定として記録し、リーリャとアイシャ本人にも説明する。そのうえで、二人が何を感じるのかを聞くべきだった。
「ザノバ王子は?」
人形を返しに来た時には、まだ処分が決まっていなかった。
ザノバはパックスを拘束し、兵士たちへ命令した。俺たちを助けたことで、王宮内の立場が悪くなっていないか気になった。
使者が小さく息を吐く。
「ザノバ殿下には、国外留学を命じることになりました」
「どうしてですか?」
思わず身を乗り出した。
ザノバは俺たちへ協力した。
パックスを止め、兵士たちの家族を救うために王子として動いた。
誰かを殺さないという約束も守った。
「今回の件において、殿下が果たされた役割は小さくありません。パックス殿下の行いを止め、多くの兵士とその家族を救ったことも事実です」
「なら、処罰する必要はないのでは?」
「国王陛下の許可を得ず兵を動かし、王族の一人を力ずくで拘束したことも事実です」
ザノバがいなければ、リーリャを助けることは難しかった。
第三王子という立場があったからこそ、兵士たちは道を開けた。
だが、王国側から見れば、第三王子が独断で兵を動かし、弟を押さえつけたことになる。
結果が正しかったからといって、王族が好きな時に軍を動かしてよいことにはならない。
別の王子が正義を口実に同じことをすれば、王宮内で争いが起きる。
事情は理解できた。
それでも、俺の依頼を受けて動いたことで国外へ出されるのだと思うと、責任を感じずにはいられなかった。
俺はザノバへ、助けてほしいと頼んだ。
あの時、ほかに方法はなかった。
助けを求めたことを後悔してはいない。
それでも、その選択によってザノバの人生が変わるのなら、本人がどう受け止めているかを確認したかった。
「それに、ザノバ殿下ご本人が、留学処分を望まれております」
「本人が?」
嫌な予感がした。
ザノバが処分を前向きに受け入れる理由。
思い当たるものは一つしかない。
食堂の扉が、勢いよく開いた。
「師匠!」
噂をすれば、ザノバ本人が入ってきた。
護衛は連れていない。
足取りは軽く、顔には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
使者が驚かなかったところを見ると、最初から来ることを知っていたのだろう。
「余は、国外へ留学することになりました!」
処分を受けた人間とは思えないほど嬉しそうだった。
本人が望んでいると確認できたことで、胸にあった責任感が少しだけ軽くなる。
「どこへ行くのですか?」
「まだ決まっておりません!」
「決まっていないのに、どうして嬉しそうなのです?」
「国外へ出れば、師匠と再会できる可能性が高まります!」
国の命令を、俺へ会いに行くための第一歩としか考えていないらしい。
国外留学といっても、中央大陸のどこへ行くかすら決まっていない。俺が今後どこで暮らすのかも決まっていない。
それでも、同じ国外へ出れば会える可能性が高まると考えている。
呆れた。
同時に、少し嬉しくもあった。
人形を一体見せただけの俺を、ここまで真っすぐ慕っている。
俺の技術を見て、本気で学びたいと思ってくれた。
ただ、その好意が大きすぎて、どう受け止めればよいのか分からない。
「留学は勉強するためのものです。僕を捜すことだけを目的にしてはいけませんよ」
「もちろんでございます!」
返事が速すぎる。
内容を考える前に答えたようにしか聞こえなかった。
「人形の作り方を学べる場所へ行きたいと、父上には申し上げました!」
「そのような学校があるのですか?」
「知りません!」
ザノバは胸を張って答えた。
なぜ、それほど堂々と言えるのか。
使者が疲れたように目を閉じる。
俺も額へ手を当てたくなった。
ザノバの国外留学には、教育だけではなく、国王が息子を王宮から離したいという事情も含まれているのだろう。
ザノバの怪力は、普通の兵士では止められない。
本人に悪意がなくても、興味を持った物を力任せに扱えば、人を傷つける。気に入らない者の首を取ることさえ、問題解決の一つとして考えていた。
王宮へ置き続けることを不安に思う者がいるのも理解できた。
人形を通して話を聞かせることはできた。
俺が殺すなと言えば従った。
だが、ザノバが人の痛みを本当に理解しているかと聞かれれば、まだ分からない。
「ザノバ王子」
「はい、師匠!」
「留学先では、人形だけではなく、ほかの人と一緒に生活する方法も学んでください」
「ほかの人と?」
人形とは関係のないことを言われたと思ったのか、ザノバが首を傾げる。
「人形を作る職人も、材料を用意する人も、一人では仕事をしていません。よい人形を作りたいなら、人と協力することも必要になります」
木材を用意する者。
石を切り出す者。
塗料を作る者。
道具を整える者。
技術を教える者。
作品を買い、評価する者。
どれほど才能があっても、一人だけですべてを完結させることは難しい。
人を大切にしろとだけ言っても、今のザノバには伝わりにくい。
人形につながる理由なら、少しは考えてくれるかもしれない。
ザノバは真剣な表情になった。
先ほどまでの喜びを一度抑え、俺の言葉を頭の中で組み立て直している。
「なるほど……人形のために、人間関係を学ぶ必要があるのですな」
「最初は、それでも構いません」
理由が人形のためであっても、人を知ろうとするところから始めればいい。
誰かと話す。
相手が何を嫌がるのかを知る。
自分の力で傷つけないよう加減する。
少しずつでも覚えれば、いつか人形とは関係なく、相手を大切にできるようになるかもしれない。
俺が偉そうに言えることではない。
今の俺にも、人の気持ちを完全に理解できるわけではない。
それでも、分からないからこそ話を聞き、相手が何を望んでいるのかを確かめることはできる。
俺も旅の中で、ようやく覚え始めたことだった。
ザノバにも、その習慣を身につけてほしい。
「必ず学びます。そして、師匠へ認められる弟子となってみせましょう!」
ザノバは力強く宣言した。
その言葉が、どこまで実行されるのかは分からない。
留学先で人形を見つけた途端、ほかの約束を忘れる可能性もある。
それでも、最初に会った時よりは、僅かでも人の話を聞こうとしている。
俺の条件を、面倒だからと無視しなかった。
それだけで、今は十分なのかもしれない。
◇
使者とザノバが帰った後、俺は二階へ戻った。
リーリャは寝台へ腰を掛け、アイシャはその隣で荷物を整理していた。まだ出発日も決まっていないのに、自分と母親の荷物を分けているらしい。
「お兄さま。お話は終わりましたか?」
「はい」
いつの間にか、呼び方が完全に「お兄さま」へ変わっている。
初めて会った時には、兄である証拠を求められた。リーリャと再会するまでは、完全には信じられないとも言われた。
今は、疑う様子もなく自然に呼ばれている。
聞くたびに少しむず痒い。
嫌ではない。
むしろ、思っていた以上に嬉しかった。
一度も会ったことのなかった妹から、兄だと認めてもらえた証しのように感じる。呼ばれるたび、胸の奥が僅かに温かくなった。
それなのに、もうすぐ別れることになる。
兄妹として過ごした時間は、ほんの数日だ。
もっと長く一緒にいられると思っていたわけではない。俺たちは旧フィットア領へ向かわなければならず、父さんはミリシオンにいる。
進む方向が違うことは分かっていた。
それでも、「お兄さま」と呼ばれることへ慣れる前に離れるのは、少し寂しかった。
「リーリャとアイシャは、父さんの所へ送ってもらえることになりました」
「パウロ様のもとへ……」
リーリャが胸の前で両手を重ねる。
安堵と喜び。
そして、長く離れていた夫へ会う不安。
いくつもの感情が、その表情へ混ざっているように見えた。
父さんと再会したい。
同時に、自分やアイシャが受けたことを、どのように話せばよいのか迷っているのかもしれない。
弱った姿を見せれば、父さんが自分を責めることも分かっているのだろう。
アイシャの顔は、分かりやすく明るくなった。
「お父さんと、ノルンに会えるのですね?」
「はい」
そう答えると、俺まで嬉しくなった。
父さんが二人を見た時、どのような顔をするのだろう。
泣くのか。
笑うのか。
言葉を失うのか。
リーリャへ謝り、アイシャを抱きしめるのか。
ノルンとアイシャは、最初に何を話すのだろう。
すぐに姉妹として受け入れられるのか。喧嘩をするのか。それとも、初めから仲よくなるのか。
その場にいられないことが、少し残念だった。
「護衛にはジンジャーさんがついてくれます。それから、家族を救出した兵士たちも何人か同行してくれるそうです」
「そこまでしていただけるのですか?」
「ザノバ王子の命令だそうです」
リーリャは少し驚いた後、静かに頭を下げた。
「皆様へ、どれほどお礼を申し上げても足りません」
「お礼は、無事に父さんの所へ着いてからでいいです」
「はい」
「ただ、すぐに出発する必要はありません。体調が戻るまでは――」
「出発いたします」
リーリャは迷わず答えた。
予想していたとはいえ、即答されると不安になる。
「大丈夫ですか?」
「馬車で移動し、無理のない旅程を組んでくださると伺いました。それに、一日でも早くパウロ様へ、アイシャが無事であることをお伝えしたく存じます」
自分の身体より、アイシャのことを先に考えている。
自分が夫へ会いたいとは言わない。
アイシャの無事を伝えたいと答える。
リーリャらしい。
だからこそ、本人の言葉だけで出発を決めることはできない。
リーリャは周囲のためなら、自分の苦しさを隠して大丈夫だと言う人だ。
王宮でも、アイシャを守るために無理を続けたのだろう。
歩くのがつらくても立ち、食事が足りなくても娘へ分け、自分が殴られることでアイシャへの暴力を避ける。
その結果が、今の痩せた身体だ。
俺はリーリャの意思を尊重したい。
同時に、身体の状態を無視して送り出すつもりもない。
本人の希望と、実際の体調。
その両方を確かめたうえで決める必要がある。
「レイネ。リーリャの現在の状態で、馬車による移動は可能ですか?」
俺は、体調を最も詳しく診ているレイネへ確認した。
「馬車での移動であれば、可能でございます」
レイネは答えた。
「ただし、最初の一週間は長時間の移動を避け、毎日必ずリーリャ様のお身体を確認していただく必要がございます。護衛の方へ、注意点を書いた物をお渡しいたします」
食事の量。
休憩の間隔。
発熱や吐き気が出た時の対処。
長く寝台へ横になっていたため、急に歩かせすぎないこと。
必要な条件を、ジンジャーへ渡せるよう書き出すらしい。
リーリャ本人は出発を望んでいる。
レイネの診察でも、条件を守れば馬車での移動は可能だ。
護衛にはジンジャーがつき、旅程も急がせない。
それらを確認したうえで、俺は出発を止める必要はないと判断した。
「分かりました。ただし、途中で体調が悪化した場合は、予定より到着が遅れても必ず休んでください」
「承知いたしました」
リーリャがレイネを見る。
「何から何まで、ありがとうございます」
「私は、必要なことをしているだけでございます」
「昔から変わりませんね」
リーリャが僅かに笑った。
救出されてから見せた中では、最も自然な笑顔に見えた。
「必要なことだとおっしゃって、誰よりも丁寧になさるところは」
レイネの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
赤い瞳に、懐かしい物を見るような温かさが宿る。
ブエナ村にいた頃、二人は同じ家で働いていた。
俺の知らないところで、仕事のやり方を話したり、家族について相談したりしたこともあったのだろう。
朝の支度。
食事。
洗濯。
家の備品。
俺や父さんの行動。
ゼニス母様の体調。
同じ場所で暮らしながら、俺には見えなかった時間を共有している。
俺にとってのレイネ。
リーリャにとってのレイネ。
同じ人物でも、俺が知らない関係がある。
少しだけ、置いていかれたような気持ちが生まれた。
自分の知らないレイネを、リーリャは知っている。
だが、それ以上に、二人が再会できたことが嬉しかった。
レイネにとっても、過去を知る大切な人が戻ってきた。
俺たちだけではなく、レイネ自身を知り、懐かしんでくれる相手がいる。
それは、喜ぶべきことだった。
「リーリャ様も、お変わりございません」
「いいえ。随分と弱くなってしまいました」
リーリャは、自分の細くなった手首へ目を落とした。
昔なら軽々と扱えた物を、今は持てない。
その事実を恥じるように、指を握る。
「アイシャを守らなければならないのに、一人では何もできず……」
「お母さん」
アイシャが、すぐにリーリャの手を握った。
母親が自分を責めることを止めたいのだろう。
俺は、リーリャがしたことを思い返した。
何度も手紙を出そうとした。
アイシャへ外のことを教えた。
兵士の中にも、逆らいたくても逆らえない者がいると見抜いた。
自分が王宮へ残り、アイシャを逃がした。
できることを、すべてしている。
俺がその事実を伝えることもできる。
だが、同じ家で働き、リーリャがどのような人間かを知るレイネの言葉の方が、今は深く届くかもしれない。
俺はレイネへ視線を向け、言葉を任せた。
レイネは、リーリャの言葉を否定するように首を横へ振った。
「リーリャ様が、アイシャ様を守り続けたからこそ、お二人とも今日まで生きておられます」
「ですが、王宮から逃がした後は、この子一人に――」
「逃げるための知識と、助けを求める相手を見分ける力をお教えになったのは、リーリャ様でございましょう」
リーリャが顔を上げる。
「アイシャ様は、ご自身で考え、兵士から逃れ、外部へ助けを求めようとなさいました。偶然だけで、あの場まで辿り着いたのではございません」
王宮を抜け出す方法を考える。
見つからないよう服装を整える。
外へ手紙を送れる場所を選ぶ。
兵士を見れば、すぐに別の道へ向かう。
知らない俺たちへも、すぐには身を任せない。
アイシャの賢さは、生まれつきのものだけではない。
リーリャが、いつ自分と引き離されても生きていけるよう、教え続けていたのだ。
捕らわれながらも、娘へ知識と判断力を渡し続けた。
俺にはできない方法で、リーリャはアイシャを守っていた。
「リーリャ様は、お母様としてできることをなさっております」
レイネの言葉を聞き、リーリャは目を伏せた。
痩せた手が、アイシャの指を握る。
涙が一粒だけ、頬を流れた。
自分を責め続けていたリーリャが、ほんの少しだけ、自分のしたことを認められたのかもしれない。
「ありがとうございます」
短い言葉だった。
それ以上の説明は必要なかった。
◇
翌日。
俺たちはリーリャとアイシャの馬車へ同行し、王都を出発した。
すぐに別れるわけではない。
西へ進む途中に、道が二つへ分かれる町がある。
一方は旧フィットア領へ向かう街道。
もう一方は南西へ折れ、ミリス大陸へ向かう港へ続いている。
その町までは、同じ道を進むことになった。
あと数日、一緒にいられる。
そう思うと嬉しかった。
アイシャと話せる。
リーリャの体調を確認できる。
同じ場所で食事をし、夜には無事を確かめられる。
同時に、別れまでの日数を数えてしまう自分もいた。
あと五日。
あと四日。
日が進むたび、一緒にいられる時間が減っていく。
リーリャは馬車の中で休み、アイシャも最初は母親のそばにいた。
しかし一日も経つと、じっとしていられなくなったらしい。
母親が眠っている間、自分だけ何もせず座っていることに耐えられないのだろう。
休憩のたびに馬車から降り、レイネの後ろをついて歩くようになった。
「レイネさん。これは何をしているのですか?」
「馬の蹄に石が挟まっていないか、確認しております」
「私にもできますか?」
「確認する際に後ろへ立つと、蹴られる危険がございます。まずは、馬の横から近づく方法を覚えましょう」
「はい」
アイシャは真剣に頷く。
レイネが馬の視界へ入る位置から近づくと、同じ距離を保ちながら後へ続いた。
食料の残量を数える。
水袋の口が緩んでいないか確認する。
寝具を干し、馬車の中へ湿気が残らないようにする。
荷台へ入れる道具は、使う順番に合わせて置く。
緊急時に使う物は、奥へ押し込まない。
アイシャは一度教えられたことを、ほとんど忘れなかった。
次の休憩では、指示される前に水袋へ手を伸ばし、口の緩みを確かめていた。
何より、レイネを見る目が明らかに違っていた。
ただ仕事のやり方を覚えたいのではない。
手を動かす順番。
周囲へ視線を向ける回数。
誰かへ声を掛ける前に、相手の状態を確認する仕草。
一つ一つの所作を見逃さず、自分も同じように動けるようになろうとしている。
俺は、その様子を嬉しく思った。
レイネへ憧れる気持ちは分かる。
俺も、幼い頃から何度も助けられた。
必要な時にそばにいて、困る前に動き、それでいて自分の力を誇示しようとはしない。失敗した時には責めるのではなく、次にどうすればよいかを一緒に考えてくれる。
ただ、アイシャまでレイネのように自分を後回しへする人間になってほしいとは思わなかった。
誰かのために働く。
相手が困る前に動く。
それは立派なことだ。
だが、自分が苦しい時まで大丈夫だと言い、すべてを一人で抱えるところまで真似してほしくはない。
「すごいわね」
エリスが感心したように言った。
食料の数を一度確認しただけで覚えたアイシャを見ている。
「ルーデウスより、よく働くんじゃない?」
「僕も働いていますよ」
「アイシャは、言われる前に動いてるわ」
「僕だって必要な時には動いています」
「言われてからでしょう?」
反論しようとしたが、レイネが僅かに微笑んでいるのが見えた。
否定してくれない。
味方はいないらしい。
少し悔しかった。
俺だって御者をする。
食料を調達する。
旅費を計算する。
魔物が出れば戦う。
旅程や依頼の管理も担当している。
身の回りの荷物も自分で整理し、出発前には全員で確認する。その最後にレイネが見落としを確認し、俺もレイネが抱え込みすぎている仕事がないかを見る。
互いに確認する形が、今の旅では定着していた。
同時に、こんなくだらない話をして笑えることが嬉しかった。
数日前まで、リーリャとアイシャが生きているのかすら確信できなかった。
王都へ入った時には、何を知らされるのか分からなかった。
今は、妹から働きが悪いと思われるかもしれないと悩んでいる。
その違いが、ありがたかった。
アイシャは俺たちの会話を聞きながら、真剣に考えていた。
冗談だとは思っていないらしい。
「お兄さまは、レイネさんにお世話をしてもらっているのですか?」
「旅では、互いに役割を分けています」
「朝は起こしてもらっていますか?」
「自分で起きています」
「お洋服は?」
「自分で着られます」
六歳の妹へ、着替えができると主張する十二歳の兄。
口にしてから、少し情けなくなった。
「荷物の整理は?」
「自分でしています。ただ、出発前には全員で確認します」
事実をそのまま答えた。
アイシャは深く頷いた。
何か重大な事実を確認したような顔だった。
「やはり、お兄さまには侍女が必要なのですね」
「どうして、そうなるのですか?」
「私も、お兄さまの侍女になろうと思います」
唐突な宣言だった。
胸が一瞬だけ跳ねる。
妹が自分のそばにいてくれる。
旅を終えた後も一緒に暮らし、俺をお兄さまと呼んでくれる。
そう考えて、嬉しいと思ってしまった。
だが、今のアイシャは六歳だ。
王宮から助けられた直後でもある。
助けられた恩を返すために、自分の将来を決めようとしているのなら、そのまま受け入れるわけにはいかない。
兄として喜ぶより先に、なぜそう思ったのかを確かめるべきだった。
リーリャが休んでいる馬車の中から、咳き込む音が聞こえた。
体調が悪化したのかと思ったが、咳の後には、明らかに慌てた声が続いた。
「アイシャ」
「何ですか、お母さん?」
「そのようなことを、勝手に決めてはなりません」
「でも、お兄さまは私たちを助けてくださいました」
「助けられたお礼として、自分の一生を差し出すような考え方をしてはなりません」
リーリャの声は厳しかった。
普段の丁寧な口調は変わらない。
だが、娘へ絶対に譲らない意思が込められていた。
アイシャが少しだけ肩を落とす。
自分の考えを母親へ否定されたことが悲しいのだろう。
その姿を見ると、少し可哀想に思った。
俺のそばにいたいと考えてくれた気持ちまで、間違いだと言いたくはない。
けれど、俺もリーリャと同じ意見だった。
助けた見返りとして、妹の人生を受け取るつもりはない。
「アイシャ。僕を助けるために、侍女になる必要はありません」
「お兄さまは、私が役に立たないと思っているのですか?」
「そうではありません」
すぐに否定した。
アイシャは賢い。
仕事を覚えるのも速い。
相手の言葉を聞き、理由を考え、自分で判断できる。
将来どのような仕事を選んでも、多くの人より上手くこなせるだろう。
だからこそ、俺のためだけに道を狭めてほしくなかった。
「では、どうして駄目なのですか?」
真っすぐな質問だった。
助けられた恩だけが理由ではないのかもしれない。
アイシャには、アイシャなりの考えがある。
俺が不安だからという理由だけで否定しても、納得してくれないだろう。
「アイシャには、これから多くのことを選べるからです」
俺は言葉を探しながら答えた。
「勉強をしてもいい。魔術や剣術を学んでもいい。商人や職人を目指してもいい。侍女になることも、その選択肢の一つです」
「はい」
「でも、僕に助けられたからという理由だけで選んでほしくありません」
救われた恩を返すため。
家族だから。
母親が侍女だから。
兄が侍女を必要としているように見えるから。
それだけで、将来を決めてほしくない。
人生の選択を誰かへの借りとして決めてしまえば、後から自分が何を望んでいたのか分からなくなることもある。
アイシャには、さまざまな道を知り、そのうえで自分の意思によって選んでほしい。
「父さんと再会して、ノルンとも一緒に暮らして、いろいろなことを知ってください。その後で、それでも侍女になりたいと思ったなら、その時に改めて話しましょう」
アイシャはすぐには答えなかった。
拒絶されたと思っているのか。
それとも、俺の言葉を整理しているのか。
俺の隣では、レイネが静かに話を聞いている。
アイシャへ侍女を勧めることも、諦めるよう言うこともしない。
アイシャ自身が考え、答えを出すのを待っていた。
やがて、アイシャはレイネへ顔を向けた。
「私は、レイネさんのようになりたいです」
思っていたより、真剣な声だった。
単に、俺の身の回りの世話をしたいという声ではない。
「レイネさんほど上手にはできないかもしれません。でも、お兄さまが困る前に気づいて、危険なことをしようとしたら止められる人になりたいです」
その言葉を聞き、胸の中へ別の感情が浮かんだ。
嬉しかった。
妹が自分を気に掛けてくれていることも。
レイネを尊敬していることも。
ただ恩を返すためではなく、自分がなりたい姿を見つけ始めていることも。
俺を助けることだけが目的ではない。
レイネのように周囲へ気づき、誰かを支えられる人間になりたい。
それなら、侍女という道も、アイシャ自身が選ぶ未来の一つなのかもしれない。
「僕は、それほど頻繁に危険なことをしようとしていませんよ」
照れ隠しのように言う。
自分でも、説得力が弱いと思った。
「エリスお姉さまも、ルイジェルドさんも、何度も止めていました」
見られていた。
俺が焦った時に、三人へ相談して判断を整えた場面も含め、アイシャはよく見ていたらしい。
エリスが満足そうに頷く。
「よく見てるわね、アイシャ」
「はい」
俺としては反論したかったが、強く言い返す気にもなれなかった。
アイシャが俺たちの会話へ自然に加わっている。
兄がどれほど心配されているかについて、妹と仲間が同じ場で話している。
それだけで、家族らしい時間に思えた。
アイシャは再び俺を見た。
「お兄さまは、私に侍女になってほしくないわけではないのですか?」
「アイシャ自身が、いろいろな道を知ったうえで選んだのなら、反対する理由はありません」
侍女という仕事を軽く見ているわけではない。
レイネやリーリャを見れば、知識も判断力も必要な仕事だと分かる。
誰かの世話をするだけではない。
家を管理し、危険へ備え、相手の体調や感情まで見る。
ただ、それを恩返しだけで選んでほしくなかった。
「では、予約しておきます」
「予約?」
「将来、お兄さまの侍女になる場所を、私のために空けておいてください」
そんな制度はない。
侍女の席を何年も前から予約するという話も聞いたことがない。
だが、アイシャは真剣だった。
次に会う未来を、当然のように語っている。
そのことが嬉しくて、すぐには否定できなかった。
「将来、考えが変わるかもしれませんよ」
「変わらなかった時には、雇ってくださいますか?」
「その時の僕に、給金を払えるだけのお金があれば」
俺が答えたところで、レイネが静かに口を開いた。
「アイシャ様。給金につきましては、雇用の前に必ずご確認なさってくださいませ」
「レイネ?」
突然、何を言い始めたのだろう。
レイネはいつもと変わらない表情で続けた。
「前回皆様と再会した際には、お話の邪魔になってはならないと思い、申し上げませんでしたが――私がブエナ村で侍女としてお仕えしていた間、パウロ様から正式な給金を一度も頂いておりませんので」
一瞬、全員の動きが止まった。
馬の鼻息と、車輪が地面へ沈む小さな音だけが聞こえる。
「え?」
思わず声が出た。
初めて聞いた。
「一度もですか?」
アイシャが確認する。
目が真剣だった。
将来の雇用条件に関わる、重要な話として聞いているらしい。
「はい。一銅貨も」
「レイネ、本当に?」
「はい、ルーデウス様」
レイネは淡々と答えた。
怒っているようにも、冗談を言っているようにも見えない。
「衣食住をご用意いただき、給金につきましては、パウロ様が将来ご出世なさった後にお支払いいただくというお話でございました」
そうだった。
レイネがブエナ村へ来た時、まだ幼い彼女へ十分な給金を用意する余裕がなかった父さんは、自分が出世して収入が増えた後にまとめて支払うと約束していた。
しかし、実際には一度も支払われていなかったらしい。
「父さん……」
思わず額を押さえた。
考えてみれば、父さんはブエナ村の騎士として安定した暮らしを送っていた。出世したかどうかはともかく、何年も経っているのだから、少しずつ支払うことぐらいはできたはずだ。
それなのに、一銅貨も払っていない。
俺の知らないところで、未払いの給金だけが積み上がっていたらしい。
レイネは、俺が赤ん坊の頃から家にいた。
何年分になるのだろう。
通常の侍女の給金を基準にするのか。
住み込みであることを差し引くのか。
利息はどうするのか。
計算するのが怖い。
それ以上に、レイネが何も言わず働き続けていたことへ、申し訳なさが湧いた。
給金を受け取っていないからといって、仕事を怠ったことは一度もない。
むしろ、誰よりも働いていた。
「すみません、レイネ。僕も確認していませんでした」
「ルーデウス様がお謝りになることではございません」
「でも、僕付きの侍女だったのでしょう?」
俺のために働いていたのなら、俺にも関係のない話ではない。
「雇用主はパウロ様でございました。給金につきましても、パウロ様がご出世なさった後にお支払いいただくお約束でございます」
レイネは、いつもと変わらない口調で答えた。
「もっとも、ご出世なさったというご連絡も、給金のお支払いも、現在まで一度もございませんが」
「父さん……」
もう一度、同じ言葉が漏れた。
父さんと再会した時、何を確認するべきかが一つ増えた。
リーリャも馬車の中から、気まずそうな顔を覗かせる。
同じ家で働いていた以上、何も知らなかったことへ責任を感じたのかもしれない。
「レイネ様。その件につきましては、私からもパウロ様へ――」
「ご心配には及びません、リーリャ様」
レイネは僅かに微笑んだ。
口元が、ほんの少しだけ上がっている。
「困っているわけではございません。ただ、アイシャ様が侍女を目指されるのであれば、雇用条件と支払時期は、事前に書面へ残しておくことをお勧めしただけでございます」
冗談だったらしい。
表情がほとんど変わらないため、途中まで本気で父さんへ未払い分を請求するつもりなのかと思った。
いや、請求しても何もおかしくはない。
むしろ、父さんにはきちんと支払わせるべきかもしれない。
ひとまず、レイネが怒っているわけではないと分かり、少しだけ安心した。
同時に、嬉しかった。
レイネが冗談を言った。
再会したばかりの頃は、俺たちが生きていることを確かめるだけで精いっぱいだった。
自分のことをほとんど話さず、少しでも離れれば、またいなくなるのではないかと俺たちが不安になるほどだった。
いつも以上に俺たちの周囲へ気を配り、自分が眠る時間まで削ろうとしていた。
今は、父さんの未払い給金を話題にして、俺たちを笑わせている。
少しずつ、レイネも安心できるようになっている。
その変化が嬉しかった。
エリスが腹を抱えて笑い始める。
「パウロ、レイネに一度もお金を払ってないの?」
「笑い事ではありませんよ!」
「だって、あのパウロならやりそうなんだもの!」
否定できなかった。
父さんなら、あとで払うと言ったまま忘れていそうだ。
悪意はなくても、レイネが何も言わないことへ甘えていた可能性が高い。
ルイジェルドも、僅かに口元を緩めている。
アイシャは真剣に頷いた。
「分かりました。契約書を作ります」
「まだ雇うと決めていません」
「予約ですから、先に条件だけ決めます」
「予約の段階で、契約書まで作るのですか?」
「未払いを防ぐために必要です」
父さんの信用が、妹の中で急速に下がっている気がする。
父さんへ会った時、最初の話題が未払いの給金にならないことを祈ろう。
俺は小さく息を吐いた。
呆れもある。
申し訳なさもある。
それでも、皆で笑えていることが何より嬉しかった。
数日前まで、リーリャとアイシャは王宮に捕らえられていた。
アイシャは泣くことさえ我慢し、リーリャは自分を責め続けていた。
今は、父さんの未払い給金を話題に笑っている。
この笑い声を聞くために助けたのだと思えば、胸の奥が温かくなった。
平穏な家族の会話とは、こういうものなのかもしれない。
大きな問題を解決する話ばかりではない。
誰かの失敗を笑い、将来の話をし、くだらないことで言い合う。
「では、将来の話は、その時になってからにしましょう」
俺が改めて言う。
「はい」
アイシャは素直に頷いた。
「ですが、レイネさんのようになれるよう、今から勉強は続けます」
「それはよいと思います」
「レイネさん。教えてください」
「私でよろしければ」
レイネが答える。
アイシャの顔が明るくなった。
俺の侍女になりたいと言われた時には、助けた恩へ縛られているのではないかと不安になった。
だが、今のアイシャは、ただ俺へ恩を返そうとしているだけではない。
レイネという一人の人間へ憧れ、自分も同じようになりたいと考えている。
そこには、アイシャ自身の意思がある。
それなら、無理に止める必要はないのだろう。
将来、本当に侍女を選ぶのか。
別の仕事を見つけるのか。
魔術を学ぶのか。
商売を始めるのか。
それは、これからアイシャ自身が決めればいい。
どの道を選んでも、俺は兄として応援したい。
俺の役に立つ道だけを喜ぶのではない。
アイシャが自分で選んだ未来を、大切にしたい。
その考えに、迷う必要はなかった。
◇
五日後。
俺たちは、道が分かれる小さな町へ到着した。
明日の朝には、別々の道を進む。
宿へ入った時から、その事実が頭から離れなかった。
旅の途中で別れることには、慣れているつもりだった。
町を離れる。
仲よくなった人と別れる。
また会えるか分からない相手へ、手を振る。
何度も経験してきた。
魔大陸の集落。
依頼で助けた人々。
ミリシオンの父さんとノルン。
けれど、家族との別れは違う。
会ったばかりだからこそ、もっと知りたかった。
アイシャが何を考え、どのようなことへ興味を持つのか。
兄として、どのように接すればよいのか。
ようやく兄妹として話せるようになったところで、離れなければならない。
その夜、リーリャから二人で話したいと言われた。
宿の食堂。
夕食を終えた客は部屋へ戻り、店内には俺たち以外ほとんど残っていない。
エリスとアイシャは、外で旅の話をしている。
魔大陸でどのような魔物と戦ったか、アイシャから何度も聞かれているらしい。
ルイジェルドは、馬と馬車の確認へ出ている。
レイネはジンジャーへ、リーリャの体調に関する注意事項を説明していた。
俺とリーリャは、向かい合って座った。
二人きりになると、何を話せばよいのか分からなくなる。
救出した直後には、無事を確かめるだけでよかった。父さんたちのことを伝える必要もあった。
今は、急いで話さなければならない用件がない。
同じ家で暮らしていた頃も、リーリャと長く会話した記憶は少ない。
リーリャは家の仕事をし、俺は魔術や勉強へ夢中だった。
食事を運んでもらう。
体調を尋ねられる。
剣術を教えてもらう。
互いに近くにはいたが、親子のように何でも話す関係ではなかった。
それでも、家族だと思っている。
その気持ちを、俺はこれまできちんと言葉にしたことがなかった。
「改めて、お礼を申し上げます」
リーリャが先に頭を下げた。
「ルーデウス様がシーローンへ来てくださらなければ、私もアイシャも、今も王宮に囚われていたことでしょう」
「僕一人の力ではありません」
事実をそのまま答える。
自分の働きを否定しているわけではない。
シーローンへ向かうと決め、アイシャから話を聞き、救出の方針を立てたことには、俺自身も関わっている。
だが、あの救出は一人では成立しなかった。
「存じております」
リーリャは顔を上げた。
「エリスお嬢様、ルイジェルド様、レイネ様。ザノバ殿下やジンジャー様、多くの方々のお力をお借りしたと伺いました」
「はい」
「ですが、皆様へ助けを求め、シーローンへ立ち寄るとお決めになったのは、ルーデウス様です」
夢で得た情報を無視しなかった。
それを一人で抱えず、三人へ共有した。
現地で情報を確かめ、夢のとおりではなく、目の前の状況に合わせて計画を組み直した。
その判断を、リーリャは認めてくれているのだろう。
「家族がいるかもしれないと分かって、通り過ぎることはできませんでした」
家族。
その言葉を口にすると、少しだけ照れくさかった。
救出した時にも、同じことを言った。
それでも、二人きりの場で改めて言うと、リーリャがどのように受け取るのかが気になった。
リーリャは、俺の実の母親ではない。
父さんの妻ではあるが、俺を産んだのはゼニス母様だ。
けれど、幼い頃から同じ家で暮らした。
病気の時には世話をしてくれた。
俺へ剣を教え、失敗した時には支えてくれた。
アイシャは妹だ。
それなら、リーリャも家族で間違っていない。
血が直接つながっていなくても、俺の中ではそうだった。
「それだけでも、十分でございます」
リーリャの目が柔らかく細められた。
家族と呼ばれたことを、静かに喜んでいるように見えた。
「幼い頃のルーデウス様は、何でもお一人でできる方でした」
「そんなことはありません」
「少なくとも、私にはそのように見えておりました」
魔術。
勉強。
家庭教師としての仕事。
幼い頃から、大人へ頼らず何でもできるように振る舞っていた。
周囲から見れば、不自然なほど物分かりのよい子供だっただろう。
実際には、中身が子供ではなかっただけだ。
前世の記憶があり、言葉も計算も知っていた。
それでも、失敗しなかったわけではない。
知識があることで、自分なら正しく判断できると思い込んでいたこともある。
「今は、皆様へ頼ることができるのですね」
リーリャの言葉に、少し驚いた。
昔より弱くなったと言われたのではない。
その表情は、俺の変化を喜んでいるように見えた。
「今は、誰に何を頼むべきかを考えるようにしています」
何でも人任せにするのではない。
自分に分からないことを認め、知っている人へ聞く。
誰かの方が適している役割なら任せる。
その代わり、自分が担当するべきことは引き受ける。
そして最後は、得られた情報を基に自分でも判断する。
シーローンでの救出も、その形で進めた。
「それでよろしいのではございませんか」
リーリャは穏やかに答えた。
「ルーデウス様も、皆様から頼られていらっしゃるのでしょう?」
エリス。
ルイジェルド。
レイネ。
俺が一方的に守られているわけではない。
エリスが迷えば話を聞く。
ルイジェルドが町の規則を理解できなければ、俺が交渉する。
レイネが一人で無理をしようとすれば、止めると約束している。
何かあれば助ける。
迷えば話し合う。
互いに頼り、頼られる関係になっている。
魔大陸へ転移した直後の俺は、自分がすべてを決めなければならないと思い込んでいた。
今は違う。
エリスは、俺にはない直感と決断力を持っている。
ルイジェルドは、俺が見落とす危険を見つける。
レイネは、膨大な知識と経験から別の選択肢を示してくれる。
俺も、三人にはない知識や交渉力、魔術を持っている。
誰か一人がすべてを背負うのではなく、それぞれが持っているものを使う。
今では、それを旅の中で当たり前のこととして実行できるようになっていた。
「はい。僕も三人から頼られています」
自分を過小評価せず、素直に答えた。
「それならば、よい関係であると思います」
リーリャは少し間を置いた。
これから口にすることを、どう伝えるか考えているようだった。
「レイネ様を、よろしくお願いいたします」
逆ではないのかと思った。
俺をレイネへ頼むなら分かる。
幼い頃から、俺は何度もレイネに助けられている。
どうして、レイネを俺へ頼むのだろう。
「レイネは、僕よりずっと強いですよ」
戦闘だけではない。
判断力も、知識も、生活能力も。
一人で何でもできるように見える。
「強い方であっても、何も感じないわけではございません」
リーリャは静かに答えた。
その声には、同じ家で働いていた者だからこその確信があった。
「レイネ様は、昔からご自身のことを後回しになさる方でした」
俺を助ける。
エリスを助ける。
知らない人々まで助ける。
そのためなら、自分が休むべき時にも動こうとする。
ウェンポートへ向かう途中。
救護所を作り、各地から領民を送り出した時。
俺たちと再会した後。
思い当たることはいくらでもあった。
疲れていても、必要だからと立つ。
怪我をしても、大丈夫だと笑う。
自分の感情より、俺たちが安心することを優先する。
「私から何かを申し上げても、以前のレイネ様は笑って、大丈夫だとお答えになるだけでした」
「今も、よく言います」
あの笑顔を見ると、大丈夫なのだと信じたくなる。
以前なら、その言葉に安心して終わっていたかもしれない。
だが、今の俺は、その言葉だけで判断を終わらせるつもりはない。
食事を取っているか。
眠れているか。
仕事を一人で抱えていないか。
言葉と行動が一致しているか。
必要であれば、エリスやルイジェルドと相談する。
レイネ本人にも、なぜ動こうとしているのかを尋ねる。
それは、彼女を疑うことではない。
仲間として、同じ旅を続けるために必要な確認だ。
「ならば、ルーデウス様が見ていて差し上げてください」
「はい」
俺は迷わず頷いた。
「レイネが無理をしている時には、きちんと話します。僕だけでは判断できない時には、エリスやルイジェルドさんとも相談します」
一人で監視するのではない。
レイネを管理するのでもない。
本人の意思を聞きながら、仲間全員で支える。
俺たちは、既にそのような関係になり始めている。
「お願いいたします」
リーリャは頭を下げた。
その姿を見ながら、少し不思議な気持ちになった。
幼い頃は、俺がリーリャに世話をされていた。
食事。
着替え。
病気。
剣術。
今はリーリャから、レイネのことを託されている。
すべてを一人で解決できるようになったわけではない。
その必要もない。
誰かを支えるために、仲間へ協力を求めることも含めて、責任を引き受けることはできる。
「任せてください」
俺は、はっきりと答えた。
◇
翌朝。
町の西門を出た先で、道が二つへ分かれている。
右へ進めば、旧フィットア領へ向かう街道。
左へ進めば、ミリス大陸へ渡る港へ向かう道。
二台の馬車が、分岐点の手前へ並んで止まっていた。
朝の空気は冷たい。
馬の吐く息が白く見える。
ジンジャーと護衛の兵士たちは、既に出発の準備を終えていた。
荷物。
水。
食料。
リーリャの薬。
レイネが書いた注意事項も、ジンジャーが自分の鞄へ入れた。
リーリャも、旅に耐えられる程度には回復している。
まだ痩せている。
足取りも、以前ほど安定していない。
それでも、王宮から救出した日のように、誰かに身体を支えられなければ歩けない状態ではなかった。
本当に別れるのだ。
目の前の馬車を見て、ようやく実感が湧いた。
昨日までは、まだ同じ宿にいた。
同じ道を進んでいた。
夜になれば同じ場所へ戻り、朝になれば顔を合わせられた。
今日からは、別々の場所へ向かう。
「ルーデウス様」
馬車へ乗る前に、リーリャが深く頭を下げた。
「このご恩は、決して忘れません」
「家族なのですから、恩に思わなくていいです」
助けるのは当然だった。
俺がゼニス母様を助けても、見返りを求めない。
父さんやノルンでも同じだ。
「それでも、感謝することをお許しください」
家族だから助けるのは当然。
そう思っている。
けれど、助けられた側が感謝したいと思う気持ちまで、否定する必要はないのかもしれない。
俺だって、魔大陸でルイジェルドに助けられたことへ、何度も感謝してきた。
「分かりました」
俺も頭を下げた。
「気をつけて行ってください。父さんへ、必ず二人を連れて帰ると言えなくて申し訳なかったと伝えてください」
ミリシオンで父さんと別れた時、俺は家族を捜しながら帰ると伝えた。
リーリャとアイシャを見つけた。
助け出した。
それなのに、自分で連れて帰ることはできない。
旧フィットア領へ向かわなければならない理由はある。
エリスの家族。
ギレーヌ。
シルフィ。
俺たちにも、まだ確認しなければならない人々がいる。
進む方向と二人の体調を考えれば、ジンジャーたちへ護送を任せるのが最善だという判断にも迷いはない。
それでも、父さんへ二人を見つけたと自分で報告したかった。
父さんが喜ぶ顔を見たかった。
その残念さまで、否定する必要はなかった。
「パウロ様は、ルーデウス様を責めないと思います」
「それでも、お願いします」
「承知いたしました」
リーリャは、レイネへ向き直った。
二人はしばらく、何も言わず互いの顔を見ていた。
別れの言葉だけでは足りないのだろう。
何年も離れ、ようやく再会した。
それなのに、また別の道へ進まなければならない。
「レイネ様」
「はい」
「また、お会いできますか?」
「必ず」
レイネは迷わず答えた。
可能性ではない。
努力するとも言わない。
必ず会うと約束した。
リーリャの目に涙が浮かぶ。
レイネも、僅かに目を細めた。
リーリャから一歩近づき、レイネの身体を静かに抱きしめる。
レイネは一瞬だけ驚いた。
両手が僅かに浮き、どう応えればよいのか迷う。
それから、リーリャの背中へ腕を回した。
強くは抱かない。
弱った身体へ負担を掛けないよう、確かめるように支える。
「お元気で」
「リーリャ様も」
長くはなかった。
数秒ほどで、二人は身体を離した。
けれど、二人が離れた後も、その間にあった感情だけは残っているように見えた。
離れている間も、忘れていなかった。
また会いたいと思っている。
俺は、その姿を見ながら少し安心した。
レイネにも、再会を喜び、別れを寂しいと思える相手がいる。
俺たちだけではない。
ブエナ村で過ごした時間を知り、レイネ自身を心配してくれる人がいる。
そのことが嬉しかった。
アイシャは、エリスの前へ立った。
「エリスお姉さま。お兄さまをお願いします」
「任せなさい!」
エリスは胸を張った。
迷いのない返事だった。
「ルーデウスが無茶をしそうになったら、私が止めるわ」
「レイネさんもいますが?」
「私も止めるの!」
役割を取られたくないらしい。
自分も俺を守るのだと、アイシャへ認めてもらいたいようだった。
そのやり取りに、少しだけ笑いそうになった。
エリスが俺を守ると言っている。
昔なら、俺がエリスを守らなければならないとばかり考えていた。
今では、俺もエリスを守り、エリスも俺を守る。
戦いだけではない。
俺が焦れば、エリスが止める。
エリスが感情だけで動きそうになれば、俺が理由を伝える。
互いに支え合う関係へ変わっている。
それが嬉しかった。
アイシャは次に、ルイジェルドへ向かった。
「ルイジェルドさんも、お兄さまをよろしくお願いします」
「ああ」
ルイジェルドは短く答えた。
軽い言葉ではない。
一度答えた以上、必ず守ろうとする人だ。
「お前も母親を守れ」
「はい」
アイシャは真剣に頷いた。
守るといっても、敵と戦うことだけではない。
無理をさせない。
食事を取らせる。
苦しい時には話を聞く。
アイシャにも、できることはある。
最後に、俺の前へ来た。
何を言えばよいのか分からなかった。
会ったばかりだ。
兄妹として過ごした時間は、十日にも満たない。
それでも、別れることが寂しい。
もっと話したかった。
アイシャが何を好きなのか。
どのような料理を好むのか。
どんな勉強をしているのか。
レイネ以外に、憧れている人はいるのか。
父さんへ会ったら、最初に何を言うのか。
ノルンと会ったら、どのような姉妹になるのか。
知りたいことはいくらでもあった。
今度は、家族との時間を失ったままにしたくない。
次に会った時には、今日聞けなかったことを一つずつ聞けばいい。
「お兄さま」
「はい」
「次に会う時まで、死なないでください」
胸の奥を、強くつかまれたような気がした。
軽い冗談ではない。
アイシャの目は真剣で、僅かな恐怖が残っている。
転移事件で家族と引き離された。
リーリャとともに監禁され、父親や姉が生きているのかも分からなかった。
ようやく父さんとノルンが生きていると知った。
初めて会った兄も、自分を助けてくれた。
だが、また離れる。
再会できた兄まで、次に会う前にいなくなるのではないか。
そう恐れているのだ。
「約束します」
本当は、未来に何が起きるかまでは分からない。
旅を続ければ、危険なことはいくらでもある。
それでも、生きて再会するために、自分一人で無茶をせず、仲間とともに進むと決めている。
それは、根拠のない強がりではない。
これまでの旅で身につけた判断と、隣にいる仲間たちへの信頼を含めた約束だった。
「必ず、また会いに行きます」
口にした瞬間、自分の中でも約束になった。
何があっても、生きて帰る。
父さんたちと再会する。
アイシャと、今度こそ家族として時間を過ごす。
「私が先に会いに行くかもしれません」
「それでも構いません」
「その時は、侍女として雇ってください」
「まだ覚えていたのですか?」
「予約しましたから」
アイシャは、少しだけ笑った。
初めて会った路地では、恐怖を隠しながら俺を見ていた。
宿でも、本当に兄なのかを疑っていた。
今は、別れを惜しみながら笑っている。
その顔を忘れたくないと思った。
「次に会った時は、もっと兄妹らしい話をしましょう」
俺が言うと、アイシャは僅かに眉を寄せた。
「今も兄妹です」
その言葉が、胸の奥へ真っすぐ入ってきた。
今も兄妹。
次に会えたら兄妹になるのではない。
長く一緒に暮らしたら認めてもらえるのでもない。
俺が何かを証明し続けなければ、兄でいられないわけではない。
助けたから兄なのでもない。
一緒に過ごした時間が短くても、俺たちはもう兄妹なのだ。
「そうですね」
声が僅かに掠れた。
喉の奥へ、熱い物が詰まる。
「では、次に会った時は、今より仲のよい兄妹になりましょう」
「はい」
アイシャは両腕を広げた。
抱きしめてよいという意味だろうか。
助け出した時には、こちらから触れることさえ警戒していた。
少し迷った後、膝をつく。
小さな身体が、俺の首へ腕を回した。
俺も、力を入れすぎないよう背中へ腕を回す。
細い身体。
柔らかな髪。
温かい。
生きている。
間違いなく、俺の妹だ。
胸の奥から、いくつもの感情が湧いた。
助けられた安堵。
別れる寂しさ。
兄として認められた喜び。
もっと早く会いたかったという悔しさ。
すべてが混ざり、言葉にならなかった。
「お兄さま」
「何ですか?」
「助けに来てくれて、ありがとうございました」
耳元で、小さな声がした。
抱きしめる腕へ、僅かに力が入る。
「間に合って、よかったです」
それ以上は言えなかった。
声を出せば、本当に泣いてしまいそうだった。
感情を無理に押し込める必要はない。
それでも、今はアイシャを不安にさせるほど泣き崩れる場面でもない。
目元の熱をそのまま受け入れながら、俺はアイシャの背中を一度だけ静かに撫でた。
失いたくないと思える相手がいる。
また会いたいと思える家族がいる。
それは、弱さではなかった。
アイシャが離れる。
俺は立ち上がり、一度深く息を吐いた。
エリスは何も言わなかった。
ルイジェルドも、静かに馬車の方を見ている。
レイネは、いつもどおり俺のそばへ立っていた。
慰める言葉はない。
大丈夫だとも言わない。
俺が自分で気持ちを整えられることを信じながら、必要になればすぐ支えられる距離にいる。
その在り方が、ありがたかった。
リーリャとアイシャが馬車へ乗る。
ジンジャーが御者台へ座り、護衛の兵士たちも動き始めた。
「必ず、お送りいたします」
ジンジャーが頭を下げる。
「お願いします」
馬車が左の道へ進み始める。
車輪がゆっくりと回り、二人を乗せた馬車が遠ざかる。
アイシャが窓から身を乗り出し、手を振った。
「お兄さま! エリスお姉さま! ルイジェルドさん! レイネさん!」
俺たちも手を振る。
見えなくなるまで、できる限り大きく。
馬車は少しずつ遠ざかる。
アイシャの姿が小さくなる。
手の動きが見えなくなる。
やがて、道の向こうへ消えた。
姿が見えなくなっても、しばらく誰も動かなかった。
胸の中へ、穴が開いたような感覚が残っている。
助けられた。
父さんの所へ向かっている。
信頼できる護衛がいる。
俺自身が情報を確かめ、二人にとって安全な道を選んだ。
喜ぶべき別れだ。
それでも、寂しいものは寂しい。
もっと一緒にいたかった。
もっと兄らしいことをしたかった。
何かを教えたり。
一緒に遊んだり。
どうでもよい話で笑ったりしたかった。
アイシャの好きな食べ物すら知らない。
けれど、これは永遠の別れではない。
次に会える場所が分かっている。
向かう先も知っている。
以前とは違う。
転移事件の後は、生きているかも、どこにいるかも分からなかった。
今は、誰とどの道を進んでいるかまで分かる。
「ルーデウス様」
レイネが隣から呼んだ。
「はい」
「もう少し、こちらにいらっしゃいますか?」
急かさない。
早く進まなければならないとも言わない。
俺自身が、いつ前を向くのかを選べるよう待っている。
「少しだけ」
俺は正直に答えた。
無理に平気なふりをする必要はない。
あと少しだけ、アイシャたちが進んだ道を見ていたかった。
レイネは何も言わず、隣に立っていた。
しばらくしてから、俺は左の道から目を離した。
寂しさは消えていない。
消す必要もない。
その感情を抱いたまま、次にするべきことを選べる。
「行きましょう」
「よろしいのでございますか?」
「はい。二人は父さんの所へ向かっています。僕たちには、旧フィットア領で確認しなければならないことがあります」
自分の言葉で、次の目的を確かめる。
「次は、旧フィットア領です」
エリスが、右へ続く道を見た。
その表情には、期待だけではなく不安もある。
赤い髪が、朝の風に揺れている。
あの先で待っているのは、エリスの故郷だ。
何が残っているのか。
誰が待っているのか。
フィリップ様。
ヒルダ様。
ギレーヌ。
まだ分からない。
シーローンへ向かうことを決めた時、エリスたちは俺の家族を捜すことへ力を貸してくれた。
今度は、エリスが故郷と向き合う番だ。
何を知らされるのか分からない恐怖を、エリス一人へ背負わせるつもりはない。
寂しさを忘れるのではない。
そのまま抱えながら、今度は俺がエリスの隣へ立つ。
「エリス」
「何よ」
「何を聞かされても、一緒に確認しましょう」
エリスは俺を見た。
一瞬だけ驚いた後、強く頷く。
「当然よ」
ルイジェルドが槍を背負い直した。
「行くぞ」
「はい、ルイジェルドさん」
俺たちは馬車へ乗り込んだ。
御者台にはエリスが座り、隣にルイジェルドが乗る。
俺とレイネは荷台へ入った。
馬車が動き始める。
二つに分かれた道の右側へ進む。
俺は一度だけ、後ろを振り返った。
左へ続く道には、もうリーリャたちの馬車は見えない。
それでも、二人がどこへ向かっているのかは分かっている。
また会える。
今度は、誰かに捕らえられた家族を助けるためではなく。
同じ食卓を囲み、兄妹として話すために。
アイシャに胸を張って兄だと言えるように。
父さんへ、二人を見つけたと報告できるように。
そして、エリスとレイネとルイジェルドも、無事にそれぞれの行き先へ辿り着けるように。
俺は、二人の消えた道へ心の中でもう一度だけ手を振り、前へ向き直った。