ルーデウス視点
エリスとレイネが戻ってきた。
二人が馬車へ向かって歩いてくる姿を見つけた瞬間、俺は預けていた背を車輪から離した。隣に立っていたギレーヌも、ほとんど同時に顔を上げる。
エリスの目元には、まだ泣いた跡が残っていた。
ギレーヌと話す前に浮かべていた、何を選べばよいのか分からないという迷いは、少しだけ薄れているように見える。もちろん、すべてを整理できたはずはない。
フィリップとヒルダを失った悲しみ。
サウロスが処刑されたことへの怒り。
ルイジェルドとの別れ。
アルフォンスから示された、自分の人生を領民への支援と引き換えにする選択。
どれも、僅かな時間で受け入れられるようなものではなかった。
それでも、エリスは自分の足でこちらへ歩いてきた。
レイネは、その半歩後ろにいる。
先導するのでもなく、腕を取って引っ張るのでもない。エリスが自分で歩くことを妨げず、それでも足を止めた時にはすぐ隣へ並べる距離を保っていた。
「エリス」
俺が呼ぶと、エリスは真っすぐこちらを見た。
「ルーデウス。話があるわ」
「はい」
「二人だけで話したい」
胸が強く鳴った。
何を言われるのか分からない。
ピレモンの妾になる話を受け入れるのか。
剣の聖地へ行くと決めたのか。
それとも、俺たちとは別の場所へ残るのか。
どの可能性も、考えるだけで息が苦しくなった。
けれど、聞かなければならない。
エリスが自分で考え、自分で選び、その結果を俺へ伝えようとしている。ここで恐怖から逃げれば、今まで一緒に旅をしてきた意味がない。
「分かりました」
俺が答えると、エリスはレイネへ顔を向けた。
「レイネ。部屋を使っていい?」
「もちろんでございます」
「しばらく、誰も入れないで」
「承知いたしました」
レイネは一度だけ俺を見た。
赤い瞳が、俺の顔を静かに確かめる。
何を言われるのか怖がっていることにも、気づかれているのかもしれない。
「ルーデウス様」
「大丈夫です」
何も聞いていないのだから、大丈夫だと言い切れるはずはなかった。
それでも、エリスの前で怯えたまま立ち止まるわけにはいかない。
「エリスの話を、最後まで聞きます」
「はい」
レイネはそれ以上何も尋ねず、一礼した。
エリスが先に歩き始める。
俺も、その後を追った。
◇
昨夜、五人で過ごした部屋へ入る。
扉を閉める直前、外に残ったレイネが一礼した。
「お呼びいただくまで、こちらでお待ちしております」
「うん」
エリスが答える。
ギレーヌも廊下の反対側へ移動した。本当に二人きりで話せるよう、距離を取ってくれるらしい。
俺が扉を閉めると、部屋の中が急に静かになった。
寝台が二つ。
壁際には、昨夜使用した毛布が畳まれている。
机の上には、フィリップたちの名が記された記録が置かれたままだ。
エリスは、その記録を一度だけ見た。
すぐに視線を外し、扉へ背を預ける。
「私、ピレモンの妾にはならないわ」
全身の力が抜けそうになった。
胸の奥へ押し込めていた息が、一気に外へ出る。
「そうですか」
それだけしか言えなかった。
本当は、よかったと声を上げたかった。
絶対に行ってほしくなかった。
会ったこともない男のもとへ送られ、自由も帰る場所も奪われ、ボレアスの血を残すための女として扱われる。そんな道を、エリスに選んでほしくなかった。
けれど、俺が安心したからといって、問題が消えるわけではない。
エリスが断れば、アルフォンスは別の支援者を探さなければならない。現在の蓄えが尽きれば、配給を減らされる者も出るかもしれない。
自分だけが喜んでよいのか。
そう考えてしまい、素直に安堵を表へ出せなかった。
「何よ、その顔」
エリスが眉を寄せる。
「反対なの?」
「まさか」
俺は慌てて首を横へ振った。
「安心しました。ものすごく安心しています」
「なら、そう言いなさいよ」
「はい。妾になると聞いた時は、本当に嫌でした」
「昨日も言ってたわね」
「何度でも言います。嫌です」
今度は迷わず言えた。
エリスの表情が僅かに緩む。
「そう」
それだけ答えると、扉から背を離した。
部屋の中央まで進み、俺の正面へ立つ。
「でも、それだけじゃないわ」
「はい」
「私は、剣の聖地へ行く」
予想していたはずの言葉だった。
それなのに、実際に聞くと胸の中が冷たくなった。
「剣の聖地へ?」
「ギレーヌと一緒に行く。剣神に鍛えてもらうわ」
「いつ出発するのですか?」
「準備が終わったら」
「準備には、どれぐらい掛かりますか?」
「数日だと思う」
数日。
あまりにも短い。
ようやく故郷へ辿り着いたばかりなのに。
家族の死を知ったばかりなのに。
ルイジェルドを見送ったばかりなのに。
今度は、エリスまでいなくなる。
「どれほどの期間、剣の聖地にいるつもりですか?」
「分からないわ」
「一年ですか? 二年ですか?」
「強くなるまでよ」
「いつ戻るかも決めていないのですか?」
「今の私には決められないもの」
俺は言葉を失った。
何年掛かるか分からない。
剣神がどのような修行を課すのかも知らない。
エリスがどの程度まで強くなれば、自分で納得するのかも分からない。
五年。
十年。
そこまで掛かるとは思いたくない。
けれど、絶対にないとも言えなかった。
「僕も行きます」
考えるより先に、言葉が出ていた。
「駄目よ」
エリスは即座に拒絶した。
「なぜですか?」
「ルーデウスには、やることがあるでしょう」
「エリスにも、この場所でやることがあります」
「だから、できることをしてから行くわ」
「なら、僕もここでできることをして、その後一緒に――」
「お母さんを捜さないの?」
言葉が止まった。
母様。
まだ見つかっていない。
シルフィも、どこにいるのか分からない。
リーリャとアイシャは助けられた。だからこそ、まだ見つかっていない二人を、このままにしておくことはできない。
「捜します」
「なら、そっちへ行きなさい」
「エリスを一人にはできません」
「ギレーヌがいるわ」
「それでもです」
「私は、守ってもらうために行くんじゃない!」
エリスの声が部屋へ響いた。
俺は口を閉じる。
「ルーデウスが一緒に来たら、また今までと同じになるでしょう」
「同じとは、どういう意味ですか?」
「迷ったらルーデウスに聞く。困ったら助けてもらう。敵が強すぎたら、ルーデウスかレイネが何とかしてくれるまで耐える。そんなことを続けたら、私はいつまでたっても二人の後ろにいるだけよ」
「エリスは僕の後ろになどいません」
「いたわよ!」
エリスは拳を握った。
けれど、その拳を俺へ向けることはなかった。
「オルステッドの時、私は何もできなかった」
「あれは相手が強すぎました。僕も何も――」
「ルーデウスは殺されたでしょう!」
声が震えた。
怒りだけではない。
オルステッドに心臓を潰された俺を思い出しているのだと、その顔を見れば分かった。
「私の目の前で、心臓を潰されたのよ」
「……はい」
「倒れていた私の前で、ルーデウスが死んだ。レイネがいなかったら、もう戻ってこなかった」
エリスの目に涙が浮かぶ。
それでも、視線は逸らさなかった。
「私は起き上がることもできなかった。レイネが一人で戦って、身体を壊して、それでようやくルーデウスを取り戻した」
「エリスのせいではありません」
「私のせいじゃなくても、何もできなかったことは同じでしょう」
「ルイジェルドも、僕も、何もできませんでした。エリスだけの問題ではありません」
「だからって、次も何もできないままでいい理由にはならないわ」
反論できなかった。
エリスは、自分を罰するためだけに強くなろうとしているわけではない。
次に同じことが起きた時、自分も立っていたい。
誰か一人にすべてを背負わせたくない。
そのために、自分に足りなかったものを認め、手に入れようとしている。
「レイネにも相談したわ」
「レイネに?」
「剣の聖地へ行くべきか聞いたの」
「何と答えたのですか?」
「ルーデウスや、ここにある問題から逃げるためなら反対するって」
いかにもレイネらしい答えだった。
ただ肯定するのではなく、何のために行くのかを確認する。
「私は逃げるんじゃない」
エリスは続けた。
「戻ってくるために行くの」
「戻ってくる?」
「ええ」
「どこへですか?」
エリスの頬が僅かに赤くなる。
一度視線を逸らしかけたが、すぐに俺を見た。
「ルーデウスのところへよ」
胸の奥で、大きく何かが跳ねた。
「私、ルーデウスが好き」
聞き間違いではない。
誤解の余地もなかった。
エリスは、俺を正面から見ながら言った。
「ロアにいた時から好きだった。最初は、私が知らないことを何でも知っていて、魔術も使えて、剣も頑張っていて、すごいと思っただけかもしれない」
声は震えていた。
それでも、言葉は止まらない。
「魔大陸で一緒に旅をして、もっと好きになった。失敗もするし、変なことも考えるし、すぐに自分のせいだと思うし、私が止めないと無茶をするけど、それでも好き」
「エリス……」
「まだ最後まで言ってないわ」
止められた。
俺は口を閉じる。
「ルーデウスが死んだ時、私も全部終わったと思った。帰る場所があるかもしれないって、ずっと進んできたのに、ルーデウスがいないなら、もう帰らなくてもいいって思った」
胸が締めつけられる。
自分が死んだ瞬間を、俺は覚えていない。
痛みも。
呼吸が止まった感覚も。
記憶は、オルステッドに胸を突かれたところで途切れている。
けれど、エリスはその先を見ていた。
俺が動かなくなった姿を。
レイネが一人で立ち向かう姿を。
傷ついた身体で、何もできずに見続けていた。
「それぐらい、好きなの」
エリスは言った。
「だから、離れたくない。今すぐ剣の聖地になんて行かず、ルーデウスと一緒にいたい」
「では――」
「でも、それじゃ駄目なのよ」
俺が伸ばしかけた手を、エリスは見つめた。
「今ここでルーデウスについていったら、私は安心すると思う。ルーデウスが行く場所へ一緒に行って、お母さんを捜すのを手伝って、危険になったら一緒に戦う」
「それの何がいけないのですか?」
「またオルステッドみたいな相手が出たら、私は同じことになる」
エリスは、自分の拳を見る。
「ルーデウスも、レイネも、私よりずっと先にいる。私はこのまま隣にいるだけじゃ、追いつけない」
「強さだけがすべてではありません」
「分かってるわよ」
エリスは少しだけ声を弱めた。
「旅をして、それぐらいは分かった。話し合うことも、助けを求めることも、剣を抜かないことも大事だって分かったわ」
「なら――」
「それでも、剣が必要な時はあるでしょう?」
否定できない。
「その時に、私は役に立ちたい。ルーデウスを守りたい。レイネ一人に、またあんな戦い方をさせたくない」
エリスは俺へ一歩近づいた。
「だから、行くの」
俺の中では、二つの気持ちがぶつかっていた。
行かないでほしい。
俺のそばにいてほしい。
家族を失ったばかりのエリスを、今度こそ守りたい。
そう思う一方で、エリスが自分で考えた末に選んだ道を否定したくなかった。
かつての俺は、エリスをロアから連れ出すことも、家庭教師として教えることも、魔大陸で生き延びることも、自分が導かなければならないと考えていた。
でも、今のエリスは、俺が手を引かなければ立てない子供ではない。
「怖いです」
ようやく、言葉を絞り出した。
「エリスがいなくなることが怖い」
「私も怖いわ」
「途中で何かあったら」
「ギレーヌがいる」
「ギレーヌがいても、絶対に安全とは限りません」
「そんなことは分かってる」
「剣神が、エリスを受け入れてくれなかったら」
「受け入れさせるわ」
「修行中に大怪我をしたら」
「治して、また立つ」
「戻ってこなかったら」
エリスの表情が強張った。
自分でも、言ってはいけないことを口にしていると分かっていた。
それでも、止められなかった。
怖い。
一度別れれば、本当に戻ってくる保証などない。
転移事件で、それを思い知ったばかりだ。
昨日まで隣にいた人が、次の瞬間には世界のどこにいるのかさえ分からなくなる。
家族も。
村の人々も。
シルフィも。
全員そうだった。
「戻るわ」
エリスが言った。
「絶対ですか?」
「絶対よ」
「できない約束は――」
「今は、そんなことを言わないで!」
怒鳴られた。
「私は戻るって決めたの。できるかどうかを疑うんじゃなくて、戻ってこいって言いなさいよ!」
「……戻ってきてください」
「もっとちゃんと」
「必ず、僕のところへ戻ってきてください」
声が震えた。
「僕も、エリスを捜さなければならないような別れ方は嫌です。どこへ行くのか。何をしているのか。いつまで掛かるか分からなくても、生きていることだけは知らせてください」
「分かったわ」
「町へ着くたび、冒険者ギルドに伝言を残してください」
「分かった」
「怪我をした時も」
「それは嫌よ」
「なぜですか?」
「心配するでしょう」
「知らせなければ、もっと心配します!」
「でも、少し切っただけでも大騒ぎしそうだもの」
「怪我の程度を書けばよいでしょう」
「面倒ね」
「面倒でも書いてください!」
俺が声を上げると、エリスは少し驚いた顔をした。
それから、ほんの僅かに笑った。
「分かったわ。ちゃんと書く」
「絶対ですよ」
「ええ」
ようやく一つ、確かな約束を得た。
それでも、胸の痛みは消えない。
エリスは少しだけ迷った後、再び口を開いた。
「私は、今すぐ何もかも決めてほしいわけじゃない」
「何をですか?」
「これから先のことよ」
エリスは自分の胸へ手を当てた。
「私は、ルーデウスが好き。だから、そのことだけは知っていてほしい」
「はい」
「今すぐ私と結婚するとか、一生待つとか、そういう約束をしてほしいわけじゃない」
家族が待っていると思っていた。
旧フィットア領へ帰れば、元の生活へ戻れると思っていた。
けれど、何一つ残っていなかった。
未来が、簡単な約束どおりに続くものではないと、エリスも知ってしまったのだろう。
「ただ、私が戻ってきた時、私のことを忘れていてほしくない」
「忘れるはずがありません」
「本当に?」
「はい」
俺はエリスを正面から見る。
「魔大陸で目を覚ました時から、ずっとエリスが隣にいました。怒鳴られたこともあります。殴られたこともあります。僕が間違えた時には、何度も怒られました」
「悪かったわね」
「悪いとは言っていません」
エリスが怒る。
その姿に安心したことが何度もある。
何も言われなくなった時の方が、ずっと怖かった。
「エリスが笑えば、僕も安心しました。エリスが傷つけば、僕も苦しかった。帰ったら離れるかもしれないと分かっていたのに、そのことを考えないようにしていました」
自分の中に積み重なっていた感情を、一つずつ言葉へ変える。
レイネへ抱いている気持ちを否定するためではない。
どちらか一方が本物なら、もう一方が偽物になるわけでもない。
エリスと旅をし、守られ、支えられ、互いに生きてここまで戻ってきた時間は、誰かへの気持ちと比べて消えるようなものではなかった。
今、俺が言葉を伝えたい相手は、目の前にいるエリスだった。
「僕も、エリスが好きです」
エリスの目が見開かれる。
「本当?」
「はい」
「家族を失ったから、かわいそうだと思ってるんじゃなくて?」
「違います」
「私が行くって言ったから、引き止めるために言ってるんじゃなくて?」
「違います」
「本当に、私を?」
「好きです」
今度は、迷わずに言った。
エリスの瞳から涙が落ちた。
「私がいなくなっても?」
「好きだという気持ちまで、なくなるわけではありません」
「何年掛かっても?」
「忘れません」
「私がすごく変わっても?」
「エリスがエリスであることは、変わらないでしょう」
「分からないわよ。ものすごく強くなって、ギレーヌより大きくなるかもしれないわ」
「身長の話ですか?」
「そうよ」
「そこまで大きくなったら、少し驚くと思います」
エリスが、涙を流したまま笑った。
俺も少しだけ笑う。
重く沈んでいた空気が、僅かに緩んだ。
「でも」
エリスは再び真剣な顔へ戻る。
「私がいなくなったのは、ルーデウスが嫌になったからじゃないって覚えていて」
胸が痛んだ。
何も説明されなければ、俺は間違いなく自分を責めただろう。
自分が頼りなかったから。
オルステッドに負けたから。
エリスに見限られたのだと考えたはずだ。
けれど、エリスは言葉にしてくれた。
離れる理由を。
戻ろうとしている場所を。
「分かっています」
俺は答えた。
「エリスは、僕を捨てるのではありません」
「ええ」
「強くなるために行く」
「そうよ」
「そして、戻ってくる」
「当たり前でしょう」
エリスは泣きながら笑った。
俺も、ようやく手を伸ばす。
エリスの肩へ触れる。
拒まれなかった。
そのまま、そっと抱き寄せる。
エリスの方から、強く腕を回してきた。
痛いほどの力だった。
それでも、離してほしいとは思わなかった。
「好きよ」
胸元へ顔を押しつけたまま、エリスが言う。
「僕も好きです」
「今は、私に言ってる?」
「はい」
「なら、もう一度」
「僕はエリスが好きです」
ほかの誰かへの言葉ではない。
目の前にいるエリスへ向けて、もう一度伝えた。
エリスの肩が僅かに揺れた。
笑ったのか。
泣いたのか。
その両方だったのかもしれない。
しばらく、互いに抱き合ったまま動かなかった。
やがて、エリスが顔を上げる。
目が近い。
息が触れそうな距離だった。
「目を閉じて」
「なぜですか?」
「いいから」
言われたとおりに目を閉じる。
少しの間、何も起こらなかった。
俺が早く閉じすぎたのか。
そう考え始めたところで、唇へ柔らかな感触が触れた。
一瞬だけ。
けれど、何が起きたのか理解するには十分だった。
驚いて目を開ける。
エリスの顔は真っ赤だった。
「何か言いなさいよ」
「驚きました」
「それだけ?」
「嬉しかったです」
正直に答えると、エリスは少しだけ安心した顔をした。
「もう一度は?」
「よいのですか?」
「私から聞いてるのよ」
今度は、俺から顔を近づけた。
先ほどよりゆっくりと。
拒まれないことを確かめながら、唇を重ねる。
長いものではない。
互いの存在を確かめるような、静かな口づけだった。
唇が離れた後も、エリスは俺の服を握ったままだった。
「今夜」
エリスが呟く。
「はい」
「一緒にいて」
「います」
「朝まで」
その言葉に胸が鳴る。
けれど、エリスが求めていることは分かった。
今夜、一人で眠りたくない。
朝になれば、別れへ向けた準備が始まる。
家族を失った現実も。
ルイジェルドが去ったことも。
自分もここから離れることも、再び考えなければならない。
「分かりました」
俺は答えた。
「朝まで、そばにいます」
◇
扉を開けると、レイネが廊下の向かい側に立っていた。
ギレーヌは、少し離れた窓際にいる。
レイネは俺とエリスの顔を一度ずつ見た。
何が話されたのかは尋ねない。
ただ、俺たちが自分の足で部屋から出てきたことを確認し、静かに一礼した。
「お話は終わられましたか?」
「ええ」
エリスが答える。
「私は、ピレモンの妾にはならない」
「はい」
「剣の聖地へ行く。ギレーヌと一緒に」
「承知いたしました」
既に知っているはずだ。
それでもレイネは、エリスが自分の言葉で決断を告げるのを静かに聞いた。
俺も、エリスとレイネが二人で何を話したのかは尋ねなかった。
エリスが俺へ伝えるべきことは、今の部屋で伝えてくれた。
レイネと交わした会話は、二人のものだ。
俺が無理に知ろうとする必要はない。
「それから、今夜はルーデウスと一緒にいるわ」
エリスが続ける。
「朝まで、二人だけでいたいの」
「承知いたしました」
レイネは、普段と変わらない声で答えた。
「お部屋は、このままお使いくださいませ。夜間用のお水と、必要な物はこちらでご用意いたします」
「ありがとう」
「何かございましたら、廊下を巡回なさる夜間警備の方へお声を掛けてくださいませ」
「誰か置くの?」
「私どもが扉の前で聞き耳を立てるという意味ではございません」
「分かってるわよ」
エリスの頬が僅かに赤くなる。
ギレーヌが口を開いた。
「私は別の部屋で寝る」
「聞いてないわ」
「レイネと同室にする」
「好きにしなさいよ」
「では、ギレーヌ様には私と同じお部屋をお使いいただきます」
レイネが淡々と決める。
俺は何も言えなかった。
◇
夕方まで、エリスはアルフォンスへ正式な返答を行うための準備をした。
すぐに部屋へ戻ることもできた。
けれど、エリスは自分が妾の話を断るだけで終わらせようとはしなかった。
俺たちは、再びアルフォンスの執務室へ集まった。
「ピレモンの話は断るわ」
エリスは、机を挟んでアルフォンスへ告げた。
「承知いたしました」
アルフォンスは引き止めなかった。
表情に落胆はあった。
それでも、エリスへ決断を変えろとは言わない。
「それから、私は剣の聖地へ行く」
ギレーヌも隣で頷く。
「いつ頃、お戻りになるおつもりでしょうか」
「強くなったら」
アルフォンスの眉が寄る。
「明確な時期は、決めておられないのですか」
「決められないわ」
「お嬢様がおられなくなれば、ボレアス家の血筋を旗印として支援を求めることも難しくなります」
「私がここに残ったら、貴族たちは助けるの?」
「可能性は高まります」
「私を利用できると思うからでしょう?」
アルフォンスは否定しなかった。
「なら、残らないわ。私をどう扱えるかで、領民を助けるかどうかを決める人間に、私の人生まで預けるつもりはない」
「では、どのようになさるおつもりですか」
「手紙を書く」
エリスは、レイネが用意した紙を机へ置いた。
「私がフィットア領へ戻り、生き残った人たちを見たこと。お父様とお母様、お祖父様が死んだこと。ここでアルフォンスが救助を続けていることを書くわ」
「どなたへ送られるのでしょうか」
「助ける可能性のある人、全員よ」
「お嬢様のお名前を使えば、政治的な争いへ巻き込まれる可能性がございます」
「もう巻き込まれてるでしょう」
エリスは言い切った。
「私がここにいても、剣の聖地にいても、エリス・ボレアス・グレイラットであることは変わらないわ」
その名前を捨てるつもりはない。
けれど、名前によって自分の人生を売られるつもりもない。
「手紙には、私自身を取引の条件にはしないって書く」
「そこまで記されるのですか」
「書かなかったら、別の人間が同じ話を持ってくるでしょう?」
アルフォンスは目を閉じ、長く息を吐いた。
「仰るとおりでございます」
「それでも領民を助けたい者だけ、助ければいい」
「それで十分な支援が集まる保証はございません」
「分かってるわ」
エリスはレイネを見る。
「でも、ほかの方法を探すんでしょう?」
「はい」
レイネが答える。
「現在の備蓄と支出を精査し、半年とされている期限を少しでも延ばします。ルーデウス様にも、魔術で代替できる工事をご検討いただきます」
「僕ができる範囲で、井戸と倉庫、仮設住宅の整備を手伝います」
俺も続けた。
「母様たちを捜す旅へ出る前に、数日はここへ残ります」
「数日で、どこまで可能でしょうか」
アルフォンスが尋ねる。
「すべては無理です」
それを認める。
以前の俺なら、自分なら何とかできると言ったかもしれない。
けれど、一人の魔術師が数日働いた程度で、何千人もの生活を永遠に支えることはできない。
「ですが、雨を防げない建物の補修、井戸の掘削、食料を保管する倉庫なら幾つか作れます。それによって節約できた費用を、食料や薬へ回せます」
アルフォンスは俺を見た。
次に、レイネがまとめた書類へ視線を落とす。
「分かりました」
小さく頷く。
「できることを、いたしましょう」
エリスが息を吐いた。
妾の話を断った。
それでも、ここにいる人々を見捨てたわけではない。
自分にできることを残し、その後で剣の聖地へ行く。
その形で、ようやく決断を口にできたのだろう。
◇
夜。
夕食を終えた後、俺とエリスは同じ部屋へ入った。
「夜間用のお水は、机の上へご用意しております」
レイネが告げる。
「ありがとう」
エリスが答えた。
「明朝は、日が昇る頃にお声を掛けます。変更を希望なさる場合は、今のうちにお申しつけくださいませ」
「それでいいわ」
「承知いたしました」
レイネは俺たちへ一礼した。
「おやすみなさいませ、エリス様。ルーデウス様」
「おやすみ、レイネ」
「おやすみなさい、レイネ」
扉が閉じる。
足音が遠ざかっていった。
部屋へ残ったのは、俺とエリスだけだ。
急に静かになった。
外からは、拠点を行き交う人々の声と、荷車の車輪が地面を擦る音が聞こえてくる。
エリスは寝台の端へ腰掛けた。
俺も、少し離れた場所へ座る。
「どうして、そんなに遠いのよ」
「緊張しているので」
「私だって緊張してるわよ」
「そうは見えません」
「見せてないだけよ」
エリスの手が、寝台の布を強く握っている。
本当に緊張しているらしい。
俺は少しだけ近づいた。
まだ肩が触れない。
エリスが不満そうに俺を見る。
「もっと近く」
さらに動く。
肩が触れた。
エリスの体温が、衣服越しに伝わってくる。
「ルーデウス」
「はい」
「今日話したこと、忘れないで」
「忘れません」
「私が剣の聖地へ行く理由も」
「はい」
「戻ってくることも」
「はい」
「私がルーデウスを好きなことも」
「絶対に忘れません」
「私がいない間に、全部なかったことにしたら怒るからね」
「しません」
「本当に?」
「今日のことも。昨日まで一緒に旅をしてきたことも。忘れません」
エリスは、しばらく俺の顔を見つめた。
嘘をついていないか確かめているようだった。
やがて、身体をこちらへ倒す。
頭が俺の肩へ乗った。
「朝になったら、また考えなきゃいけないのね」
「何をですか?」
「出発の準備。アルフォンスへ渡す手紙。持っていく物。領民のために、出発前に何をするか」
「はい」
「ルイジェルドも、もういない」
声が震える。
「はい」
「だから、今夜だけは考えたくない」
「分かりました」
「何も決めなくていい?」
「はい」
「泣いても?」
「もちろんです」
エリスの手が、俺の服をつかんだ。
「抱いて」
俺は腕を回した。
壊れ物を扱うように、慎重に。
けれど、エリスはもっと強く俺へしがみついた。
「もっと」
今度は、しっかりと抱きしめる。
エリスの顔が胸へ埋まった。
しばらくすると、服が濡れ始める。
声を上げてはいない。
ただ、肩が震えていた。
俺は何も言わず、背中をゆっくり撫でた。
家族を失った悲しみに、正しい慰めの言葉などない。
明日から前を向けと言うことも。
俺が代わりに家族になると言うことも。
今は違うと思った。
ただ、泣き終わるまでそばにいる。
今の俺にできるのは、それだけだった。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
やがて、エリスの呼吸が落ち着いた。
「ルーデウス」
「はい」
「もう一度」
何のことかは分かった。
俺はエリスの顎へ手を添え、顔を上げてもらう。
赤くなった目。
涙で濡れた頬。
その顔へ近づき、静かに唇を重ねた。
エリスの手が、俺の背中へ回る。
先ほどよりも長く。
それでも、互いの存在を確かめるだけの口づけだった。
唇を離すと、エリスは少しだけ笑った。
「寝ましょう」
「はい」
二人で同じ寝台へ横になる。
エリスは俺の胸へ額を寄せた。
俺は、その背中へ腕を回す。
「心臓、動いてる」
エリスが呟く。
オルステッドに潰された俺の心臓。
あの日、止まった鼓動。
「動いています」
「朝まで?」
「はい」
「起きた時も?」
「そばにいます」
「絶対?」
「今夜は、絶対です」
未来のすべてを保証することはできない。
それでも、今夜だけなら迷わず約束できる。
エリスは俺の胸へ耳を当てた。
鼓動を聞いている。
俺も、エリスの呼吸を感じる。
生きている。
ここにいる。
明日には、別れへ向かって歩き始める。
だからこそ、今夜は互いの体温を確かめた。
「好きよ」
眠りへ落ちる直前、エリスが言った。
「僕も好きです」
今度は迷わず答えた。
その後は、何も話さなかった。
二人で抱き合ったまま、初めて互いの恋心を言葉にした夜を過ごした。
◇
翌朝。
扉が控えめに叩かれた。
「エリス様。ルーデウス様。朝でございます」
レイネの声だ。
俺は目を開ける。
腕の中にはエリスがいる。
俺の胸へ頬を押しつけたまま、まだ目を閉じていた。
「起きていますか?」
小声で尋ねる。
「起きてるわ」
「レイネが待っています」
「もう少し」
「昨日、日の出頃でよいと言ったでしょう」
「少しくらい待たせなさい」
扉の向こうから、レイネの声がした。
「十分ほどでしたら、お待ちいたします」
聞こえていたらしい。
エリスが顔を上げる。
「十五分」
「十分でございます」
「十二分」
短い沈黙。
「承知いたしました」
エリスが少しだけ勝ち誇った顔をする。
「勝ったわ」
「二分だけですよ」
「勝ちは勝ちよ」
昨日までと同じような言い方だった。
けれど、昨日までと同じ日々が続くわけではない。
俺たちは最後にもう一度抱き合い、約束の十二分を使い切ってから起き上がった。
◇
それから三日間、俺たちは出発の準備と復興支援を並行して進めた。
俺はアルフォンスから優先順位を聞き、破損した井戸を修復した。
地盤が崩れ、手作業では何週間も掛かる場所を土魔術で固める。
雨が降る前に必要な倉庫を三棟建て、仮設住宅の壁と屋根を補強した。
すべてを新しく作れば早い。
だが、俺が去った後も修繕できる形でなければ意味がない。
現地の大工と相談し、魔術だけで完成させず、木材や石材を組み合わせた。
一方、レイネはアルフォンスとともに帳簿を確認した。
運び込まれた食料の量。
各地区への配給。
捜索隊へ渡す装備。
薬品の在庫。
複数の記録を照合し、輸送途中で失われる物資と、管理の重複を洗い出していく。
「こちらの二つの荷運びは、同じ日に同じ街道を通っております」
レイネが記録を指す。
「別々の商会へ依頼するのではなく、護衛を共有できれば費用を削減できます」
「片方は薬品、片方は穀物だ」
アルフォンスが答える。
「薬品の保管条件が異なる」
「荷車は分けたままで問題ございません。出発時刻を合わせ、街道を進む間のみ同じ護衛隊へ依頼いたしましょう」
「帰路はどうする」
「薬品を運んだ荷車へ、修理が必要な道具と空の容器を積みます。現在は別途、回収の荷車を出しておりますので、その費用も減らせます」
アルフォンスは考え込み、職員を呼んだ。
レイネ一人で問題を解決しているわけではない。
現地の事情を知らない部分は、必ずアルフォンスや担当者へ確認していた。
それでも、膨大な記録を短時間で整理し、変えられる部分を見つける能力は、誰より優れていた。
俺が井戸の作業を終えて執務室へ戻った時も、机の上には大量の書類が積まれていた。
「少し休んでください」
俺は言った。
「こちらの一組を確認すれば、区切りがつきます」
「先ほども同じことを言っていました」
「先ほどとは異なる一組でございます」
「そういう問題ではありません」
俺が椅子を引くと、レイネは一度アルフォンスを見た。
「休憩してこい」
アルフォンスまで言う。
「目を通す速さが落ちている。間違いが増えれば意味がない」
「承知いたしました」
レイネはようやく書類から手を離した。
以前なら、まだできると言って続けていたかもしれない。
だが今は、自分の疲労も作業の正確さへ影響するものとして受け入れようとしている。
俺たちは外へ出た。
「身体は大丈夫ですか?」
「はい。少々目が疲れただけでございます」
「少々の段階で休んでください」
「今後は、より早い段階で申し上げます」
「約束ですよ」
「はい」
短いやり取りを交わし、俺たちは井戸のそばへ腰を下ろした。
少し離れた場所では、エリスが帰還した領民の荷運びを手伝っている。
大きな袋を肩へ担いでいた。
家族を失ったばかりなのだから休めと言われても、エリスは聞かなかった。
救助物資の積み込みを手伝い。
帰還した領民の話を聞き。
自分の名を記した手紙へ、何通も署名した。
「字が少し違います」
レイネが書簡を確認した時に言った。
「同じ名前なんだから、読めればいいでしょう」
「正式な書簡でございます。少なくとも、こちらの綴りは統一してくださいませ」
「面倒ね」
文句を言いながらも、エリスは書き直した。
途中で投げ出さない。
手紙の内容も、アルフォンスへ任せきりにはしなかった。
自分で読み。
分からない言い回しは尋ね。
納得できない表現は書き換えさせた。
「『不肖の娘ながら』はいらないわ」
「貴族の書簡では、謙遜として用いられる表現でございます」
「私は、お父様とお母様の娘であることを恥じてないもの」
レイネは少し考えた後、その一文へ線を引いた。
「では、『亡き父母の娘として』へ変更いたしましょう」
「それならいいわ」
アルフォンスは何か言いたそうだったが、最後には認めた。
ギレーヌは剣の聖地までの道を調べ、馬と食料を用意した。
アルフォンスと話し合い、途中まで同行できる商隊の情報も集める。
ただ二人で北へ向かうのではなく、安全な街道と補給地点を利用する。
エリスも、その判断へ反対しなかった。
「二人なら、魔物ぐらいどうにでもなるわ」
「魔物だけが危険ではございません」
レイネが答える。
「食料や水を必要な場所で補給できなければ、戦う以前の問題となります」
「分かってるわよ。だから商隊と行くんでしょう?」
魔大陸へ転移した直後のエリスなら、早く進める道を優先したかもしれない。
今は、急ぐことと、無計画に危険を選ぶことを分けて考えられる。
三日目の夜。
出発の準備は整った。
◇
翌朝。
拠点の門近くには、二頭の馬が用意されていた。
一頭はギレーヌ。
もう一頭はエリスが使う。
荷物は最小限にまとめられている。
衣服。
食料。
水。
野営道具。
剣の手入れに必要な道具。
レイネが用意した薬と裁縫道具。
各地の冒険者ギルドで伝言を残すための紙も、荷物へ入っていた。
「町へ到着するたび、現在地をお知らせくださいませ」
レイネが最後の確認をする。
「分かってるわ」
「怪我をなさった場合にも、可能な範囲で状態をお書きください」
「ルーデウスと同じことを言うのね」
「ルーデウス様と相談し、必要事項をまとめましたので」
「私のいないところで?」
「出発準備でございます」
エリスは不満そうだったが、紙を捨てはしなかった。
丁寧に畳み、荷物の内側へ入れる。
「絶対に書くわ」
「お願いいたします」
「レイネも、何かあったら書いて」
「私でございますか?」
「そうよ。ルーデウスのことも、自分のことも」
「承知いたしました」
「怪我をしても隠さないで」
「はい」
「一人で全部しようとしないで」
「はい」
「返事が軽いわ」
「一つ一つ、承知しております」
エリスはレイネの顔をしばらく見つめた。
「ならいいわ」
アルフォンスも見送りに来ていた。
「エリスお嬢様」
「何?」
「お戻りを、お待ちしております」
妾の話を提示したことは消えない。
エリスも、完全に許したわけではないのだろう。
それでも、アルフォンスが領民を守ろうとしていることは理解しているように見えた。
「領民を頼むわ」
「命に代えましても」
「命には代えないで」
アルフォンスが僅かに目を見開く。
エリスは続けた。
「あなたが死んだら、ここをまとめる人がいなくなるでしょう。生きて続けなさい」
「……承知いたしました」
アルフォンスは深く頭を下げた。
エリスは次にレイネへ向き直る。
「レイネ」
「はい」
「ルーデウスを頼むわ」
「承知いたしました」
「無茶をさせないで」
「努めます」
「レイネも無茶をしないで」
「はい」
「私が戻った時に、二人ともいなかったら許さないから」
「そのようなことにならぬよう、最善を尽くします」
「絶対よ」
「はい。お約束いたします」
エリスは、少しだけ迷った。
それからレイネへ近づき、強く抱きしめる。
レイネは驚いたように目を見開いたが、すぐにエリスの背へ腕を回した。
「強くなって戻るわ」
「お待ちしております」
「レイネも、元気でいて」
「はい」
「私がいないからって、全部一人でやらないで」
「ルーデウス様や、周囲の方々へ相談いたします」
「忘れないでよ」
「忘れません」
エリスは、もう一度だけレイネを強く抱きしめた。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
二人が身体を離す。
その間に、どのような気持ちが交わされたのかは俺には分からない。
けれど、分からないままでよいと思った。
二人の間にあるものは、二人のものだ。
無理に聞き出す必要はない。
エリスは最後に、俺の前へ立った。
「ルーデウス」
「はい」
「そんな顔をしないで」
どのような顔をしているのか、自分では分からない。
泣きそうなのだろう。
引き止めたい。
馬の手綱を奪い、行かせたくないと言いたい。
それでも、エリスが何のために行くのかを知っている。
「笑って見送るのは難しいです」
「別に笑わなくていいわ」
エリスは俺の手を取った。
「でも、捨てられたみたいな顔はしないで」
胸へ刺さる。
何も説明されなければ、俺はそう思っていただろう。
けれど、今は違う。
「分かっています」
俺はエリスの手を握り返した。
「エリスは僕を捨てるのではありません」
「ええ」
「僕のところへ戻るために、強くなりに行く」
「そうよ」
「待っています」
完全に同じ場所で待ち続けるわけではない。
俺も母様とシルフィを捜すために旅立つ。
それでも、再会できる場所を探し続ける。
「僕も、必ず生きてエリスと会います」
「当たり前でしょう」
「伝言を忘れないでください」
「分かってるわよ」
「怪我も隠さずに」
「しつこいわね」
「大切なことです」
「ルーデウスもよ」
「僕も?」
「怪我を隠さないで。危険なことを一人で決めないで。レイネに全部任せないで」
「はい」
「本当に?」
「約束します」
エリスが少し笑う。
その笑顔を見て、涙が出そうになった。
「目を閉じて」
「またですか?」
「嫌なの?」
「嫌ではありません」
言われたとおりに目を閉じる。
唇へ、短い口づけが触れた。
昨夜より迷いがない。
それでも、別れを惜しむように、僅かに長かった。
周囲にはアルフォンスも。
ギレーヌも。
レイネもいる。
恥ずかしさはあった。
けれど、目を開けて離れた時、エリスは誰の目も気にしていなかった。
「好きよ、ルーデウス」
「僕も、エリスが好きです」
今度は、周囲を気にせず言った。
エリスは満足そうに頷く。
「行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
さようならとは言わない。
二度と会わない相手へ向ける言葉ではない。
エリスは馬へ乗った。
ギレーヌも続く。
二頭の馬が、ゆっくりと歩き始める。
門を抜ける前に、エリスが一度振り返った。
「ルーデウス!」
「はい!」
「絶対に忘れないで!」
「忘れません!」
「レイネ!」
「はい!」
「約束も忘れないで!」
「必ず、お守りいたします!」
「アルフォンス!」
「こちらに!」
「みんなを頼んだわ!」
「お任せくださいませ!」
エリスは大きく手を振った。
俺も振り返す。
レイネも。
アルフォンスも。
周囲にいた領民たちも、次々に手を上げた。
馬が遠ざかっていく。
赤い髪が風に揺れる。
何度も振り返りながら。
それでも、馬を止めることはなかった。
やがて、エリスとギレーヌの姿は街道の先へ小さくなっていった。
昨日、ルイジェルドを見送った時と同じように。
胸には、大きな穴が開いた。
けれど、昨日とは違う。
どこへ行くのかを知っている。
なぜ行くのかも知っている。
エリスが俺をどう思っているのかも。
戻ってくるつもりであることも。
何も知らないまま、置き去りにされたわけではない。
「ルーデウス様」
隣からレイネの声がした。
「はい」
「お戻りになられますか?」
エリスの姿は、もう見えない。
それでも、しばらく街道を見つめた。
「もう少しだけ」
「承知いたしました」
レイネは急かさなかった。
俺の隣へ立ち、同じ道を見る。
何かを話すでもない。
慰めるための言葉を無理に探すこともない。
ただ、俺が自分から戻ろうと思えるまで、同じ場所に立っていた。
やがて俺は、握ったままだった手を開いた。
エリスの温度は、もう残っていない。
けれど、昨夜交わした言葉は残っている。
好きだという言葉。
戻ってくるという約束。
俺も生きて再会するという約束。
「必ず、また会えます」
俺が言う。
「はい」
レイネが答えた。
「エリス様は、戻ってこられます」
「僕も、戻れる場所を失わないようにします」
「はい」
俺たちは、ようやく門へ背を向けた。
エリスは剣の聖地へ。
俺は、まだ見つかっていない家族を捜す道へ。
一緒に歩いてきた道は、ここで二つに分かれた。
けれど、それは終わりではない。
いつか再び同じ道へ戻るための、別れだった。