ルーデウス視点
ピピンを出発してからの旅は、驚くほど順調に進んだ。
もちろん、何事も起こらなかったわけではない。雪解けによって泥濘んだ街道へ馬車の車輪を取られたこともあれば、橋の一部が崩れ、馬車では渡れなくなっていた場所で俺が土魔術を使って仮の足場を作ったこともある。夜営中に魔物が近づいてきたことだって、一度や二度ではなかった。
それでも、長時間足止めされるような問題にはならなかった。俺が街道や橋を補修し、エリナリーゼが周辺の地理や旅程を判断する。レイネは警戒と野営地の管理を担当した。三人とも長旅そのものには慣れているし、この辺りに生息する魔物も俺たちの進行を止められるほど強くはない。
数頭の魔物が群れで襲ってきた時など、俺が杖を向けるより早く、レイネとエリナリーゼが前へ出ていた。
「左を抑えるわ」
「承知いたしました」
エリナリーゼの細剣が、先頭の魔物の鼻先を掠める。
仕留めるための一撃ではない。正面から突進できないよう進路を変え、レイネが踏み込みやすい位置へ誘導するための攻撃だ。
魔物が身体を捻った瞬間、レイネの剣が鱗の薄い首筋を切り裂いた。
「右から二頭!」
「お任せくださいませ」
エリナリーゼは左へ回り、レイネは右へ出る。
二人が出会ってから、それほど長い時間が経過したわけではない。それでも何度か共に戦っただけで、互いの間合いや判断の癖を理解し始めていた。
エリナリーゼは、レイネなら確実に敵を倒してくれると信じて隙を作る。レイネも、エリナリーゼなら次の敵を止めてくれると信じ、自分の背後を必要以上に警戒しない。
俺が後方から岩砲弾を撃つ必要すらなかった。
最後の魔物が倒れると、エリナリーゼは細剣についた血を払いながらレイネを見た。
「本当に強いのね、あなた」
「エリナリーゼ様の誘導が的確でございました」
「そういうところよ」
「何がでしょうか」
「褒められた時に、すぐ相手の功績へ話を移すところ」
レイネの返事が止まった。
少し前までなら、自分が評価される必要はなく、役目を果たしただけだと答えていたかもしれない。
「ありがとうございます」
今は、まず自分へ向けられた評価を受け取った。
それから、改めてエリナリーゼを見る。
「エリナリーゼ様とご一緒できたため、無駄なく終えることができました」
「ええ。それなら合格ですわね」
「何の試験でございますか?」
「わたくしと仲良くなるための試験ですわ」
冗談めかした言葉だった。
レイネはすぐには答えなかったものの、少し考えてから口を開いた。
「では、今後も合格できるよう努めます」
「友達になるのは、努力や試験ですることではないと思うけれど」
エリナリーゼが楽しそうに笑う。
「まあ、その答えもあなたらしいわね」
レイネの口元にも、小さな笑みが浮かんでいた。
出発した頃と比べ、二人の間に流れる空気は明らかに柔らかくなっている。
エリナリーゼが旅へ同行すると決まった時、レイネが俺以外の人間とどのような距離を取るのか少し気になっていた。けれど、余計な心配だったらしい。
二人は年齢も経験も、抱えている事情も違う。それでも剣を使い、長い旅を知り、誰かを守ることに慣れている。
俺が知らないところにも、互いに理解しやすい部分があるのだろう。
◇
旅を始めて間もない頃、俺たちは街道沿いにある小さな町へ立ち寄った。
三人分の部屋を取ろうとしたところ、宿の主人は俺とエリナリーゼを見た後、レイネへ視線を移した。
「そちらのお嬢さんは、二人の妹かい?」
レイネが答えるより先に、エリナリーゼが目を丸くする。
「妹?」
「違うのか?」
「この子はルーデウス君に仕えている侍女ですわ。それに、S級冒険者でもあるのよ」
宿の主人は露骨に驚いた。
「このお嬢さんが?」
「レイネと申します」
レイネは、いつもどおり静かに頭を下げる。
現在のレイネは、幼い子供には見えない。
ただし、俺はレイネの年齢について昔から知っていた。
俺が生まれた時、レイネの実年齢は十四歳だった。それなのに身体の成長が極端に遅く、外見だけなら七歳ほどにしか見えなかった。
幼い頃の俺にとって、それは最初から存在していた事実だった。
年上なのに小さい。
十四歳なのに七歳ほどに見える。
初めは当然疑問に思ったが、ずっと一緒に暮らしているうちに、それ自体は「レイネとはそういう人なのだ」と受け入れるようになっていた。
その後、俺が成長するにつれてレイネも少しずつ背が伸び、幼かった顔立ちも少女らしいものへ変わっていった。ただし、その変化は普通の人間と比べれば明らかに遅い。
現在の外見は十四歳か十五歳ほどで、十五歳になった俺とほぼ同年代に見える。以前より背丈も伸び、手足も長くなっている。幼い頃の丸みは顔から消え、白い肌と鮮やかな赤い瞳が整った顔立ちを際立たせていた。
身体つきは細いが、ただ華奢なわけではない。戦闘用に調整された侍女服の下には、剣士として鍛え上げられた均整の取れた身体がある。
白銀に近い長い髪まで含めれば、黙って立っているだけなら雪の中から現れた人形のようにも見えるだろう。
もっとも、一度でもレイネの剣を見た者が、人形などという感想を抱き続けることはないだろうが。
「年はいくつなんだい?」
宿の主人が宿帳へ筆を置きながら尋ねた。
「二十九歳でございます」
「……いくつだって?」
主人の筆が止まった。
俺にとっては計算すれば当然の数字なのだが、外見との落差が大きすぎる。エリナリーゼも僅かに目を見開き、レイネの頭から足元までを改めて確認していた。
「二十九歳でございます」
「本当に二十九歳ですの?」
「はい」
「見たところ、ルーデウス君と同じくらいにしか見えませんわよ」
「そのように判断されることが多いと存じます」
エリナリーゼが今度は俺を見る。
「ルーデウス君は、ご存じだったの?」
「はい。僕が生まれた時に、レイネは十四歳でしたから」
「まあ」
エリナリーゼはもう一度レイネを見る。
「では、本当に二十九歳なのね」
「はい」
「それにしても、どうしてそれほど若く見えますの?」
エリナリーゼが尋ねると、レイネは僅かな間を置いた。
「個人的な事情がございます」
「それだけですの?」
「申し訳ございませんが、詳細をお話しすることはできません」
そこは俺も知らない部分だった。
レイネの実年齢と、身体の成長が普通より遥かに遅いことは昔から知っている。
しかし、なぜそうなっているのか。
何が原因なのか。
その事情について、レイネはこれまで詳しく話していない。
本人は人族だと話している。
なら、外見と実年齢がこれほど食い違うことには、何か理由があるはずだ。
それでも、話したくないと言っていることを無理に聞き出すつもりはなかった。
「身体に悪いものではありませんの?」
エリナリーゼの声から、それまでの好奇心が薄れた。
興味本位ではなく、レイネ自身の身体を案じている。
レイネも、その違いを感じ取ったのだろう。
「直ちに生命へ危険が生じるものではございません」
「将来的には?」
「現時点では、問題ございません」
完全な答えではない。
けれど、レイネが話せる範囲では答えたのだろう。
エリナリーゼも、それ以上は追及しなかった。
「分かりましたわ。事情があるのね」
「はい」
「でしたら、もう聞きませんわ。ただし、何か身体へ異常が出た時は教えなさいな」
「エリナリーゼ様へ、でございますか?」
「わたくしでも、ルーデウス君でも構いませんわ」
エリナリーゼは当然のように言った。
「誰にも言わず、一人で処理しようとするのは禁止よ」
レイネが僅かに目を見開く。
理由を聞き出すのではなく、分からない部分は分からないまま受け入れ、その上で心配している。
「承知いたしました」
レイネは静かに頷いた。
「必要が生じた際は、ご相談いたします」
「そうしてちょうだい」
宿の主人は、まだ混乱した顔をしていた。
それでも宿帳の年齢欄には、しっかりと「二十九」と記入した。
◇
部屋へ入った後も、俺は何度かレイネの横顔を見てしまった。
レイネが俺より十四歳年上であること自体は、昔から知っている。
今さら発覚した事実ではない。
それでも、十四歳だったレイネが二十九歳になったのだと改めて数字として突きつけられると、少し不思議な気分になった。
「ルーデウス様」
「はい」
「先ほどから、何度も私をご覧になっております」
「二十九歳なんだなって、改めて実感してまして」
「以前からご存じだったはずですが」
「はい。レイネが僕の生まれた時には十四歳だったことも、その時の見た目が七歳くらいだったことも知っています」
俺はレイネの顔を見る。
「ただ、僕はもう十五歳なんですよ。なのにレイネは、今でも僕と同じくらいにしか見えないでしょう?」
「そのようでございますね」
「昔から知っている事実なんですけど、十五年という数字と一緒に考えると、やっぱり不思議です」
俺が生まれた時には十四歳。
今は二十九歳。
数字だけなら何もおかしくない。
けれど、俺の記憶にある最初のレイネは七歳ほどの少女で、今のレイネは十五歳ほどの少女だ。
俺と同じ時間を過ごしながら、身体だけが違う速度で進んでいる。
「不快でございますか?」
「まさか」
即答した。
「年齢を改めて意識されて、接し方を変えようとは思われませんか?」
「変えませんよ」
「即答なさるのですね」
「だって、僕は最初からレイネが年上だと知っています。十五年間それで一緒に暮らしてきたのに、二十九歳という数字を聞いたくらいで今さら何を変えるんですか」
実年齢が十四歳年上だからといって、突然敬語の種類を変えたり、距離を取ったりする方がおかしい。
俺にとってレイネは、ずっとレイネだった。
家族であり。
侍女であり。
姉のような人であり。
そして今では、それだけでは説明できないほど大切な存在でもある。
年齢は、その関係を構成する一つの事実ではあっても、全てではない。
「そういえば、レイネは僕に十四歳年上として扱ってほしいと思ったことはあるんですか?」
「ございません」
「なら、今までどおりでいいでしょう」
レイネの口元へ、小さな笑みが浮かんだ。
「はい。私も、そのように望んでおります」
「ただし」
「はい」
「成長が遅い理由について、いつか話せると思った時には教えてください」
命令ではない。
今すぐ答えろという要求でもない。
「昔から気にはなっています。だから、レイネ自身が話してもいいと思える時が来たら、僕は知りたいです」
レイネはしばらく俺を見つめた。
「承知いたしました」
約束したわけではない。
それでも、完全に拒絶されなかっただけで今は十分だった。
◇
俺たちの会話が終わるのを待っていたエリナリーゼが、レイネの背後へ回った。
「それにしても、きれいな髪ですわね」
「ありがとうございます」
「お手入れはご自分で?」
「はい。ルーデウス様の身支度を整えた後に行っております」
エリナリーゼが、レイネの白い髪を一房だけ持ち上げる。
光を受けると、雪よりも淡い銀色に輝いた。
「少し触れてもいいかしら?」
「既に触れておられます」
「あら、本当ね。嫌なら離しますわよ」
レイネは少しだけ考えた。
「嫌ではございません」
「それなら、今夜はわたくしに任せなさいな」
「何をでしょうか」
「髪を整えるのよ」
エリナリーゼが楽しそうに笑った。
「女同士の旅ですもの。そういう時間があってもいいでしょう?」
レイネは俺へ視線を向けかけたが、途中で止めた。
俺の許可を求める必要はないと、自分で気づいたのだろう。
「お願いいたします」
その夜、宿の部屋でエリナリーゼはレイネの長い髪を丁寧に梳いていた。
俺は同じ部屋の机で、エリスや父さんたちへ送る手紙の下書きを確認している。二人の会話へ割り込まないようにしていたが、それでも声は自然と耳へ入ってきた。
「ずっと、この長さですの?」
「時期によって多少は異なりますが、短くすることは少ないと存じます」
「戦う時に邪魔になりませんの?」
「魔物に掴まれるような戦い方はいたしません」
「強い人は言うことが違いますわね」
櫛が白い髪を滑っていく。
普段のレイネは自分で髪をまとめている。実用性を優先した、崩れにくい形だ。
エリナリーゼは左右の髪を少しだけ編み、後ろで結び合わせた。
派手ではないし、戦闘の邪魔にもならない。それでも、いつものレイネより随分と柔らかな印象になった。
「はい、できましたわ」
エリナリーゼが小さな鏡を渡す。
レイネは鏡の中に映る自分を見た。
「いかが?」
「丁寧に整えていただき、ありがとうございます」
「そうではなくて。あなた自身は気に入った?」
レイネの目が、もう一度鏡へ向く。
すぐには答えず、編まれた髪へ指先で触れた。
「気に入りました」
「でしたら、明日もこの形にしましょう」
「毎日お願いするわけにはまいりません」
「ご自分でできるように教えて差し上げますわよ」
「よろしいのでしょうか」
「わたくしが教えたいの」
エリナリーゼが笑う。
レイネも鏡を見たまま、小さく頷いた。
「では、教えてくださいませ」
二人の距離が、また少し縮まったように見えた。
◇
エリナリーゼが俺たちへ話していない事情を抱えていると知ったのは、それから数日後だった。
ある町へ到着した夜。
宿で食事を終えたエリナリーゼは、一人で外出すると告げた。
「遅くなるかもしれませんから、二人は先に休んでいて」
「護衛は必要ございませんか?」
レイネが尋ねる。
「大丈夫ですわ」
「ですが、初めて訪れた町でございます」
「危険な場所へ行くつもりはありませんわ」
エリナリーゼは笑っている。
けれど、普段より僅かに呼吸が浅かった。
レイネも、それに気づいたらしい。
「体調が優れないのでしょうか」
一瞬だけ、エリナリーゼの笑みが止まった。
「分かりますの?」
「歩行や戦闘には影響しておりませんが、魔力の流れが数日前より乱れております」
エリナリーゼは俺へ視線を向けた。
俺は、彼女が何らかの事情を抱えていることを知らない。
「ルーデウス君」
「はい」
「少しだけ、レイネと二人で話してもいいかしら」
「もちろんです」
俺は立ち上がった。
レイネが止めようとしたが、首を横へ振る。
「二人の話なら、僕が聞く必要はありません」
「ですが――」
「何か僕にも関係することがあれば、その時に教えてください」
レイネは少しだけ迷った後、頷いた。
「承知いたしました」
俺は隣の空き部屋を借り、二人を残した。
◇
翌朝。
宿の食堂で再会したエリナリーゼは、いつもどおり明るく振る舞っていた。
昨夜どこへ行き、何をしていたのか、俺は尋ねなかった。
ただ、レイネとの間には前日までとは少し違う、静かな信頼が生まれていた。
「昨夜は失礼いたしました」
レイネが言う。
「どうして、あなたが謝りますの?」
「体調へ気づきながら、人目のある場所で尋ねてしまいました」
「事情を知らなかったのですもの、仕方ありませんわ」
「今後は配慮いたします」
「わたくしを腫れ物みたいに扱うつもり?」
「いいえ」
レイネは首を横へ振った。
「事情を抱えながら、ご自身の生活を続けておられる方として接します」
エリナリーゼが黙る。
「嫌悪も、軽蔑もございません」
「本当に?」
「はい」
「わたくしが、あなたの想像以上のことをしていたとしても?」
「それがエリナリーゼ様ご自身の選択であるなら、私が非難する理由はございません」
「選択ではなかったら?」
「その場合は、なおさらでございます」
レイネの答えに迷いはなかった。
エリナリーゼは、しばらくレイネを見つめる。
「随分と落ち着いていると思っていたけれど、本当に見た目よりずっと年上だったのね」
「年齢と落ち着きが、必ずしも比例するとは限りません」
「それはそうですけれど」
エリナリーゼが吹き出す。
レイネも、ほんの少し笑った。
「分かりましたわ。もう見た目だけで子供扱いするのはやめます」
「心配してくださること自体は、継続していただけるのでしょうか」
「あら。そこは気に入っていたのね」
「はい」
レイネが素直に認めた。
エリナリーゼはしばらく笑った後、卓の上へ手を伸ばし、レイネの手へ自分の手を重ねた。
「ありがとう、レイネ」
初めて、敬称も余計な呼び方もつけずに名前を呼んだ。
「はい、エリナリーゼ様」
「あなたも『様』は外していいのよ」
「ですが」
「友人にまで、そんなに堅苦しくしなくていいでしょう?」
レイネの赤い瞳が僅かに揺れた。
友人と相手からそう呼ばれたことを、すぐには受け止めきれなかったらしい。
「私は、エリナリーゼ様の友人なのでしょうか」
「わたくしは、そう思っていますわ」
「いつからでしょうか」
「髪を結ってあげた夜ぐらいかしら」
「判断が早すぎるのでは?」
「友達になるのに、試験も期間もいらないのよ」
以前、エリナリーゼは仲良くなるための試験だと冗談を言った。
レイネも、それを思い出したらしい。
少しだけ考えてから口を開く。
「承知いたしました、エリナリーゼ」
呼び捨てにするまでに、かなりの勇気が必要だったのだろう。
声が僅かに硬い。
それでもエリナリーゼは満足そうに笑った。
「ええ。これからもよろしくね、レイネ」
「はい」
その日から、二人は明らかに親しくなった。
野営では隣へ座り、町へ入れば二人で日用品を見に行く。髪を整える方法や衣服の手入れについて話し、剣を使う者同士として装備の重さや身体の動かし方について意見を交換することもあった。
レイネはエリナリーゼの体調を気に掛けた。
けれど、必要以上に行動を監視することはない。
エリナリーゼも、レイネが一人で何かを抱え込もうとした時には見逃さなかった。
「また全部、自分で持とうとしているでしょう」
「三人分の荷物ではございません。共有の道具だけでございます」
「重さの問題ではありませんわ」
「では、何が問題なのでしょうか」
「わたくしたちにも持たせなさい」
「一人で持てます」
「持てるかどうかを聞いているのではありませんわ」
レイネの言葉が止まる。
「ゾルダートにも、似たようなことを言われたのでしょう?」
「なぜ、ご存じなのですか」
「あなたとルーデウス君を見ていれば分かりますわ」
エリナリーゼはレイネの荷物から調理道具を取り出した。
「これは、わたくしが持ちます」
続いて、俺には毛布の束を渡す。
「ルーデウス君は、これ」
「僕も入るのですね」
「当然でしょう?」
「ですが、レイネが納得していません」
二人でレイネを見る。
レイネは不満そうに荷物を見つめていたものの、やがて小さく息を吐いた。
「……お願いいたします」
少し前までなら、最後まで譲らなかっただろう。
今は不満を抱えながらでも、誰かへ任せることができる。
俺は二人のやり取りを眺めながら、エリナリーゼが同行してくれたことへ改めて感謝していた。
◇
俺たちは幾つもの町と街道を通り過ぎた。
道中で受けた護衛依頼も、旅費を補う程度の小さな仕事ばかりだった。
重要な知らせは届かない。
父さんたちからの返事も、母様の状態についての続報も、エリスからの手紙も、移動中の俺たちへはまだ追いつかなかった。
町へ到着するたび、冒険者ギルドと商人ギルドへ俺たちの名前と次の目的地を残す。手紙が来ればシャリーアへ転送してもらうよう、その手続きを欠かさず続けた。
やがて残雪が少しずつ消え、草原へ若い緑が広がり始めた頃、俺たちは魔法都市シャリーアへ到着した。
遠くからでも、町の中心に建つ巨大な建造物が見える。
城というより、複数の塔と校舎を組み合わせた一つの都市に近かった。高い外壁と広大な敷地があり、幾つもの尖塔が空へ突き出ている。塔の一部には大型の魔道具らしき物まで設置されていた。
「大きいですね」
俺が呟く。
「大学だけで、一つの町のようでございます」
レイネが答えた。
シャリーアは、ラノア王国を中心とする魔法三大国でも有数の都市だ。
街路は広く、学生や研究者と思われる人々が絶えず行き交っている。人族だけではない。獣族や魔族、長い耳を持つエルフ、身体の小さな炭鉱族など、様々な種族がいる。
「年齢も種族も、ばらばらでしょう?」
エリナリーゼがレイネへ言う。
「ええ」
「二十九歳で入学しても、誰も気にしませんわよ」
「年齢よりも、外見と服装によって注目を集めているように思われます」
すれ違う学生たちは、何度もレイネを振り返っている。
白い髪と赤い瞳。
整いすぎた顔立ち。
戦闘用に調整されているとはいえ、明らかに侍女を意識した服装。
目立たない方が難しい。
「それは仕方ありませんわ」
エリナリーゼが笑う。
「こんなにきれいな子が歩いていたら、誰だって見ますもの」
「エリナリーゼも、多くの方から見られております」
「あら。褒め返してくださるの?」
「事実を申し上げただけでございます」
「そういうことにしておきましょう」
二人の会話を聞きながら、俺たちは大学の正門へ向かった。
門の前に立つ衛兵へ推薦状を見せると、すぐに構内へ案内された。
石造りの校舎や魔術の実習場、大勢の学生が集まれる広場が並び、書庫らしき建物だけでも町の図書館より遥かに大きい。
母様のことを調べるために、俺はここへ来た。
それでも、魔術師として心が動かないわけではない。
ここには俺が知らない知識がある。
転移事件へつながる情報も、長距離移動の方法もあるかもしれない。
もしかすると、レイネやエリナリーゼが抱えている事情へ関係する研究さえ、どこかに存在する可能性がある。
「ルーデウス君」
エリナリーゼが俺の顔を覗き込んだ。
「少し楽しそうですわね」
「そう見えますか?」
「ええ」
母様を捜している。
父さんたちも危険な場所へ向かっている。
それなのに大学を見て楽しみだと思うことへ、僅かな罪悪感が生まれた。
「楽しみにしてもよろしいのではないでしょうか」
レイネが言った。
「何かを学びたいというお気持ちと、ゼニス様を心配することは両立いたします」
「そうですね」
「それに、私も楽しみでございます」
レイネは巨大な書庫へ視線を向けていた。
以前のレイネなら、ここを母様の救出に必要な情報を得る場所としか考えなかったかもしれない。
今は、自分が知識を得ることそのものも楽しみだと口にした。
「では、三人で楽しみましょう」
エリナリーゼが言う。
「学生生活というものをね」
◇
大学の受付で推薦状を提出すると、俺たちは副校長室へ通された。
部屋の奥に座っていたのは、細身の男性だった。
名はジーナス・ハルファス。
俺へ推薦状を送った人物だという。
ジーナス副校長は、俺を上から下まで確認した。
「ルーデウス・グレイラット君。十五歳で間違いありませんね?」
「はい」
「A級冒険者。異名は《泥沼》。無詠唱で攻撃魔術を扱い、水聖級まで修得している」
「水王級魔術も教わりましたが、正式な認定は受けていません」
「なるほど」
ジーナス副校長は、書類へ何かを書き加えた。
「推薦状にも記しましたが、君は特別生として迎える予定です。授業料は免除。研究施設の利用も、一定の範囲で認めます」
「ありがとうございます」
「ただし、その前に実力を確認させてもらいます」
「試験ですか?」
「形式的なものではありますが、ほかの学生へ説明するためにも必要です」
次に、ジーナス副校長はエリナリーゼへ視線を移した。
「あなたも入学を希望していると?」
「ええ。せっかく来たのですもの、わたくしも学ばせてもらいますわ」
「本学は、種族や年齢による入学制限をほとんど設けていません。所定の手続きを行い、必要な学力を示せば受け入れられます」
「助かりますわ」
最後に、ジーナス副校長の視線がレイネへ向く。
「こちらの少女は?」
「レイネと申します」
レイネは頭を下げた。
「ルーデウス様へ仕える侍女であり、冒険者としても活動しております」
「付き添いですか?」
「付き添いだけではございません。私も、転移現象と魔力循環について学ぶことを希望しております」
「入学を希望していると?」
「可能であれば」
ジーナス副校長は、レイネの姿を改めて確認した。
「年齢を聞いても?」
「二十九歳でございます」
ジーナス副校長の筆が止まった。
「失礼。もう一度お願いします」
「二十九歳でございます」
「十四歳や十五歳ではなく?」
「はい」
ここでは俺は驚かなかった。
宿でも確認したし、そもそもレイネが俺の誕生時に十四歳だったことは昔から知っている。
俺が十五歳なら、レイネは二十九歳。
単純な計算だ。
驚いているのは、初めてそれを聞く側である。
ジーナス副校長は、レイネの顔と書類を交互に見た。
「身分を確認できるものはありますか?」
「こちらを」
レイネが冒険者証を差し出す。
ジーナス副校長はそれを受け取り、記載された内容を確認して表情を変えた。
「S級……《白髪の侍女》」
「はい」
「あなたが?」
「その異名で呼ばれております」
ジーナス副校長は、レイネと冒険者証を何度も見比べた。
外見は十四、五歳ほどに見える。
実際の年齢は二十九歳。
そのうえS級冒険者。
疑問を抱くのも無理はない。
「なぜ、外見と年齢にこれほど差があるのですか?」
「個人的な事情がございます」
「大学側へ説明することはできませんか?」
「入学資格や、ほかの学生の安全へ関係する事情ではございません」
レイネはジーナス副校長を真っすぐ見た。
「申し訳ございませんが、詳細についてはお答えできません」
ジーナス副校長はすぐには納得しなかったものの、冒険者証は本人の身元を保証している。
レイネが虚偽の年齢を申し立てている証拠もない。
「分かりました。事情を無理に明かすことは求めません」
「ご配慮に感謝いたします」
「ただし、冒険者としての実績と、魔術を学ぶ学生としての適性は別です」
「承知しております」
「ルーデウス君と同様、能力を確認させてもらいます。ただし、推薦を受けているのは彼だけです。あなたの扱いについては、試験結果と面談を経てから決めます」
「異存ございません」
レイネは頭を下げた。
「なお、入学の可否が決まるまでの間、ルーデウス様の侍女として学内へ同行する許可をお願いいたします」
「授業や研究施設へ無制限に入ることは認められませんが、通常区画への同行であれば構いません」
「ありがとうございます」
ジーナス副校長は、再び俺へ顔を向けた。
「まずは、ルーデウス君の試験を行います」
「相手は、どのような方でしょうか」
「在学生の中でも優秀な、無詠唱魔術の使い手です」
無詠唱魔術を、俺以外にも使える者がいる。
その言葉を聞いた時、幼い頃に俺が無詠唱魔術を教えたシルフィを思い出した。
フィットア領転移事件の後、どこで何をしているのか分からないままだ。
母様だけではない。
シルフィも今なお消息の分からない、大切な友人だった。
◇
案内されたのは、屋外の実習場だった。
一定の間隔で石壁が並び、地面には魔術による損傷を抑えるための術式が刻まれている。
俺たちが到着してから少し待つと、一人の人物が実習場へ入ってきた。
白い髪。
目元を覆う濃い色の眼鏡。
細身の身体を、身体の線が目立ちにくい衣服で包んでいる。
年齢は俺と同じくらいに見えるものの、男性なのか女性なのか、外見だけでは判断しにくかった。
「こちらはフィッツ君です」
ジーナス副校長が紹介する。
「本学の特別生で、無詠唱魔術を使用します」
「フィッツです。よろしくお願いします」
声にも、どこか中性的な響きがあった。
それでも、以前どこかで聞いたことがあるような気がする。
どこで聞いたのかは思い出せない。
俺は隣に立つレイネへ、何気なく視線を向けた。
レイネは普段と変わらない姿勢で立っている。表情にも呼吸にも、目立った変化はない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「ルールを説明します」
ジーナス副校長が俺たちの間へ立つ。
「互いに致命傷を与える攻撃は禁止。相手が戦闘継続不能となるか、降参した時点で終了です」
俺とフィッツは、一定の距離を空けて向かい合った。
フィッツが杖を構える。
左足を僅かに引き、杖を身体の中心から少し外したその構えにも、妙な懐かしさがあった。
俺が幼い頃、シルフィへ基本として教えた姿勢と似ている。
とはいえ、無詠唱魔術師が同じような構えへ行き着く可能性はある。
姿勢だけで判断することはできない。
開始の合図が出た。
フィッツの前へ、無詠唱で水球が生まれる。
発動までが速い。
俺は相手の術式へ魔力を干渉させ、水球が形を整える前に崩した。
フィッツの肩が僅かに揺れる。
魔力を直接乱された経験が少ないのだろう。
それでも硬直したのは一瞬だけで、すぐ次の魔術へ切り替えた。
地面が盛り上がり、俺の足を固定しようとする。
俺は自分の足元を硬化させるのと同時に、フィッツの周囲へ浅い泥を広げた。
深い《泥沼》ではない。
足を取られた瞬間に転倒して大怪我をするような深さにもせず、最初の踏み込みだけを鈍らせる。
フィッツが後ろへ跳ぼうとした。
その進路へ、低い土壁を作る。
左右へ逃げられる余地は残した。
フィッツは右へ動いた。
予測していた進路だった。
小さな岩砲弾を放つ。
狙いは身体ではなく、杖の先端。
石弾が杖へ当たり、その向きを逸らす。発動しかけていた魔術は、俺から外れた方向へ飛んだ。
直後にフィッツの靴の周囲にある泥を硬化させ、両足を地面へ固定する。
俺は杖の先をフィッツへ向けた。
「ここまでです」
ジーナス副校長の声が響く。
俺はすぐに全ての魔術を解除した。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
フィッツはしばらく動かなかった。
濃色の眼鏡の奥から、こちらを見つめている。
「……強いですね」
「フィッツ先輩も、発動がとても速かったです」
「魔術を出す前に消されたのは、初めてです」
「魔力を乱しただけです。相手の術式へ触れられれば、発動を失敗させられます」
「そんなことができる人は、ほとんどいないと思います」
フィッツの声は落ち着いている。
けれど、杖を握る指には僅かに力が入っていた。
負けたことを悔しがっているのだろうか。
それとも、ほかに何か理由があるのか。
「試験は合格です」
ジーナス副校長が告げる。
「これより、入学手続きについて説明します。ルーデウス君、こちらへ」
「はい」
俺はフィッツへ改めて頭を下げた。
「これからよろしくお願いします、フィッツ先輩」
「こちらこそ……よろしくお願いします。ルーデウス君」
フィッツは、一瞬だけ答えを詰まらせた。
名前を呼ぶ声が、胸の奥へ引っ掛かる。
やはり、どこか懐かしい。
けれど、思い出せない。
俺がフィッツを見つめていると、レイネが静かに声を掛けた。
「ルーデウス様。ジーナス副校長がお待ちでございます」
「そうですね」
今すぐ答えが出ることではない。
俺はジーナス副校長の後を追い、実習場を離れた。
レイネ視点
レイネは、試験が始まる前から気づいていた。
間違える理由がなかった。
髪の色が変わっていても、濃色の眼鏡で目元を隠していても、声を低く作っていても関係ない。
立ち方。
歩幅。
呼吸。
杖を構える時の癖。
無詠唱魔術を形作る際の繊細な魔力の流れ。
その全てに、見覚えがあった。
幼い頃、ブエナ村で何度も見たものと同じだ。
シルフィエット。
ルーデウスが初めて得た友人であり、フィットア領転移事件によって離れ離れとなり、現在も安否を気に掛け続けている少女が、生きて無事にここにいた。
その事実へ気づいた瞬間、レイネの胸の奥には強い安堵が広がった。
それでも表情は変えず、名前を呼ばず、試験を止めず、ルーデウスへ合図を送ることもしなかった。
シルフィは、自分の意思で姿を隠している。
白くなった髪そのものは、転移事件の際に何かがあったためだろう。
だが、濃色の眼鏡、男性として受け取られる服装、作られた声、フィッツという名前。
それら全てには、明確な意図が存在する。
事情を知らないまま、公衆の面前で正体を明かすことはできない。
まして、ここは魔法大学だ。
周囲にはジーナス副校長だけではなく、試験を見学する教員や学生もいる。
シルフィが誰かを守るために身分を隠している可能性もある。軽率な一言が、本人だけではなく背後にいる者まで危険へ晒すかもしれない。
レイネは試験の間、フィッツの姿を静かに見つめ続けた。
ルーデウスも、何かは感じていた。
構えや声、無詠唱魔術など、幾つもの部分へ懐かしさを覚えながら、それをシルフィへ結びつけることはできていない。
それも当然だろう。
ルーデウスが記憶しているシルフィの髪は緑色だ。
少女だったシルフィが白髪の少年として目の前へ現れるとは、普通なら考えない。
レイネが一言告げれば、全ては終わる。
しかし、それはシルフィ自身がルーデウスへ名乗る機会を奪うことでもあった。
だからレイネは、試験が終わり、ルーデウスがジーナス副校長と共に実習場を離れるまで待った。
エリナリーゼも、レイネの様子から何かを感じ取ったらしい。
「わたくしは先に行っていますわ」
小声で告げる。
「ありがとうございます、エリナリーゼ」
「知り合いですの?」
「おそらくは」
「そう。でしたら、ゆっくり話してきなさいな」
エリナリーゼは事情を聞き出そうとはしなかった。
ルーデウスたちの後を追い、実習場を離れていく。
実習場には、レイネとフィッツだけが残った。
正確には離れた場所へ大学の職員が数人いるが、会話を聞き取れる距離ではない。
フィッツは先ほどからレイネを見ていた。
濃色の眼鏡によって目元は隠れているが、動揺していることは分かる。
レイネはすぐには近づかなかった。
逃げ道を塞ぐような真似はしない。
まず、本人へ選択を委ねる。
現在の名前で呼びかけた。
「フィッツ様」
「少しだけ、お話をしてもよろしいでしょうか」
フィッツの身体が僅かに強張る。
「……ここでは、話せないことですか?」
「はい」
フィッツは周囲を確認した。
「ついてきてください」
案内されたのは、実習場から少し離れた校舎の裏だった。
人通りは少ないが、完全な密室ではない。
何かあれば、すぐに人を呼べる場所だ。
レイネを警戒しているというより、護衛として染みついた習慣なのだろう。
フィッツが足を止める。
「ここなら大丈夫です」
「ありがとうございます」
レイネは頭を下げた。
すぐに名前を呼ぶことはせず、まず本人の意思を確認する。
「私は、あなたが以前お会いした方であると考えております」
フィッツの肩が震えた。
「ですが、私の考えが正しくても、現在のお立場を無視してお名前を呼ぶつもりはございません」
「……分かっていたんですね」
フィッツが小さく呟く。
それは作っていた低い声ではなかった。
昔より成長してはいる。
それでも、確かにシルフィの声だった。
「はい」
「いつから?」
「お姿を拝見した時点でございます」
「そんなにすぐ?」
「間違える理由がございません」
フィッツを名乗るシルフィは俯いた。
「ルディは、気づいていませんでした」
「ルーデウス様は、あなたの現在のお姿を想定しておられません」
「髪も、違いますから」
シルフィの指が、自分の白い髪へ触れる。
「それだけではございません」
レイネは否定するためではなく、事実を整理するために言った。
「声や服装、立場まで変えておられます。気づかなかったことを、ルーデウス様の落ち度とはお考えにならないでくださいませ」
「分かっています」
シルフィは答えた。
だが、声には僅かな寂しさが残っている。
頭では理解していても、気づいてほしかったのだろう。
「ご無事で、何よりでございました」
レイネが言うと、シルフィが顔を上げた。
「レイネも」
濃色の眼鏡の奥にある瞳は見えない。
それでも、声が僅かに震えていた。
「レイネも、生きていたんですね」
「はい」
「ルディと一緒だったんですね」
「魔大陸で再会し、現在まで行動をともにしております」
「ずっと?」
「はい」
シルフィの手が胸元で握られる。
そこには安堵と喜び、それだけではない複雑な感情が混じっていることを、レイネには理解できた。
シルフィがルーデウスへ特別な感情を抱いていたことは、幼い頃から明らかだった。
長く離れていた間に、その気持ちが消えたようにも見えない。
だからこそ、レイネは安易な言葉を重ねなかった。
「ルーデウス様は、あなたを捜しておられました」
「僕を?」
「はい。フィットア領転移事件の後も、安否を気に掛けておられました。北方で名を広めた理由には、ゼニス様だけでなく、行方不明となった方々へご自分の居場所を伝える目的もございます」
シルフィが息を呑む。
「僕のことを、忘れていなかった?」
「一度も」
そう答えると、シルフィは顔を伏せた。
眼鏡の下から一滴の涙が落ちる。
レイネは、すぐには触れなかった。
抱き締めることが正しいのか。
手を取ってよいのか。
以前の自分なら、相手が泣き止むまで離れた位置で待っていただろう。
今は、尋ねることができる。
「シルフィエット様」
初めて本人の名を呼ぶ。
誰にも聞かれないほど小さな声で、レイネは尋ねた。
「おそばへ近づいてもよろしいでしょうか」
シルフィは一瞬驚いた後で頷いた。
「はい」
レイネはゆっくりと距離を詰め、シルフィの前へ立つ。
「触れても?」
「……はい」
許可を得てから、両腕をシルフィの背中へ回す。
強く締めつけず、シルフィが離れようと思えばいつでも離れられる程度の抱擁だった。
シルフィは数秒間身体を固くしていたが、やがて自分からレイネの背中へ腕を回した。
「よかった……二人とも、生きていてよかった……」
「私も、同じ気持ちでございます。あなたが生きていてくださり、心から安堵しております」
しばらくして、二人は身体を離した。
シルフィは袖で涙を拭い、眼鏡の位置を直す。
「ルディには、まだ言わないでください」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
シルフィは迷った。
すぐには答えられない事情がある。
「僕は今、アリエル様の守護術師です」
「アスラ王国第二王女、アリエル・アネモイ・アスラ様でございますね」
シルフィが驚く。
「知っているんですか?」
「お名前と、現在のアスラ王国内におけるお立場については」
レイネは、アリエルの事情を全て知っているわけではない。
ただし、王位継承争いの中で国外へ出た第二王女が、護衛とともにラノア魔法大学へ身を寄せているという噂は耳にしていた。
「僕が女だということも、昔の名前も、ここでは隠しています」
「アリエル様をお守りするために?」
「はい」
シルフィは頷いた。
「敵がどこにいるか分かりません。僕のことを調べられて、ブエナ村やルディとの関係を利用される可能性もあります」
十分な理由だった。
「承知いたしました」
レイネは即座に答えた。
「あなたの許可なく、ルーデウス様を含む第三者へ、正体を明かすことはいたしません」
シルフィの肩から力が抜ける。
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけお伝えしておきたいことがございます」
「何ですか?」
「ルーデウス様から、あなたについて直接、真剣に尋ねられた場合、私は明確な虚偽を申し上げられません」
シルフィの表情が僅かに強張った。
「すぐに正体をお伝えするという意味ではございません。ご本人へ確認すべき事情であると答えます。ただ、ルーデウス様を意図的に欺くための協力はできません」
「分かっています」
シルフィは頷いた。
「レイネに、ルディへ嘘をついてほしいわけではありません。ただ、もう少しだけ時間が欲しいんです」
「お待ちいたします」
「いつか、自分で言います」
声には不安があった。
それでも、「言わない」とは答えなかった。
「ルーデウス様も、ご自身で気づく可能性がございます」
「今日、少し疑っていたように見えました」
「声と構えへ、懐かしさを感じておられました」
「やっぱり……」
シルフィの声へ、ほんの僅かな喜びが混じる。
完全には忘れられていない。
自分の一部を、ルーデウスは覚えていた。
それだけでも、嬉しいのだろう。
「レイネ」
「はい」
「ルディは、今までどうしていたんですか?」
「長いお話になります」
「聞きたいです」
「どこまでお伝えしてよいか、ルーデウス様へ確認する必要がございます」
「そうですよね」
シルフィは少し残念そうにした。
レイネは、そこで会話を終わらせなかった。
「ですが、私自身のことでしたら、お話しできます」
「レイネのこと?」
「はい」
レイネが話せるのは、魔大陸でルーデウスと再会したことや、北方で冒険者として活動したこと、カウンターアローや《ステップトリーダー》の者たちと知り合ったことだった。
以前のレイネなら、自分の話をする必要はないと判断したかもしれない。
今は違う。
シルフィとの関係を、ルーデウスを介したものだけにはしたくなかった。
「聞かせてくれますか?」
「はい」
レイネは小さく頷いた。
「その代わり、シルフィエット様のお話も伺ってよろしいでしょうか」
「僕の?」
「転移事件の後、どのように生きてこられたのか。お話しできる範囲で構いません」
「はい。話します」
シルフィの口元へ僅かな笑みが浮かぶ。
「それから」
レイネは、周囲に誰もいないことをもう一度確認した。
「二人だけの時は、以前のお名前でお呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「では、シルフィエット様」
「二人だけの時は、シルフィと呼んでください」
レイネは一瞬迷った。
敬称を外すことは今も簡単ではない。
それでもエリナリーゼから教わったように、友人との距離は形式だけで決まるものではない。
「承知いたしました、シルフィ」
呼ばれたシルフィは、泣いた後の顔で嬉しそうに笑った。
「はい、レイネ」
少しの間、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
先ほどまで正体を隠す理由や、これからルーデウスへどう向き合うかを話していたシルフィは、何かを迷うように一度視線を落とした。
それから、覚悟を決めたようにレイネを見上げる。
「レイネは、ルディのことを、どう思っているんですか?」
問いかけられた瞬間、レイネは何を尋ねられているのか理解した。
主として大切に思っているのか。
幼い頃から世話をしてきた家族としてなのか。
それとも、それだけでは説明できない感情なのか。
曖昧に答えれば、この問いから逃げることはできる。
しかし、シルフィが自分の正体について真剣に話してくれた直後に、自分だけが都合よく隠れることはしたくなかった。
「とても大切な方でございます」
シルフィはすぐには頷かなかった。
レイネの答えを確かめるように見つめた後、静かに問いを重ねる。
「家族として?」
レイネは一瞬だけ目を伏せた。
ルーデウスは家族であり、仕える主であり、守りたい相手でもある。
そのどれも嘘ではない。
けれど、それだけを答えにすれば、自分の中にある最も大きな感情から目を逸らすことになる。
「それだけでは説明できません」
シルフィの表情が僅かに揺れた。
驚いたというより、それまで曖昧だったものが確かな形を持った時の反応に見えた。
「……そうなんですね」
それ以上、シルフィは追及しなかった。
「好きなのですか」と言葉にして確認することもない。
それでも今の答えで十分に伝わったのだろう。
レイネ自身も、これ以上言葉を重ねれば、今度は自分の気持ちをシルフィへ押しつけることになりかねないと考えた。
「シルフィ」
「はい」
「私の感情を理由に、シルフィがご自身の選択を変える必要はございません」
シルフィが少しだけ眉を寄せる。
「でも、レイネは……」
「ルーデウス様へ正体をお伝えしたいのであれば、そうなさってくださいませ。私が何を思っているかと、シルフィが何を望まれるかは、別のことでございます」
そう口にすると、胸の奥には小さな痛みが残った。
シルフィがルーデウスへ想いを伝えれば、二人の関係が変わる可能性はある。
自分が望まない方向へ進むこともあるかもしれない。
それでも、その不安を理由にシルフィへ黙っていることを望むつもりはなかった。
「私は、シルフィが生きておられたことを心から嬉しく思っております。ですから、ご自身の気持ちまで私へ遠慮なさらないでくださいませ」
シルフィはしばらく何も言わなかった。
やがて眼鏡の奥を袖でそっと拭う。
「ありがとう、レイネ」
「はい」
「僕も、レイネがいてくれて、嬉しいです」
レイネは静かに頭を下げた。
今の会話によって、自分たちが同じ相手へ特別な感情を抱いている可能性を、互いにはっきり意識することになった。
それでも、敵になったわけではない。
少なくとも今は、どちらかが相手の気持ちを奪ったり、選択を妨げたりするのではなく、それぞれが自分の意思でルーデウスへ向き合うべきなのだとレイネは思った。
ルーデウスが入学試験を終えたその日。
レイネは、失ったと思っていた一人と再会し、本人が望む時まで秘密を守ると約束した。
ただ遠くから見守るのではない。
事情を聞き、自分の考えも伝え、互いに話し合った上で結んだ約束だった。
「そろそろ戻りましょう」
レイネが言う。
「ルーデウス様が、私を捜し始める可能性がございます」
「昔から、レイネがいないと心配するんですか?」
「現在は、以前ほどではございません」
「以前ほど?」
「私が一人で誰かと話していても、待ってくださるようになりました」
「ルディも変わったんですね」
「はい」
レイネは頷いた。
「とても強くなられました。魔術だけではなく」
シルフィは、実習場の先、ルーデウスが去った方向へ視線を向けた。
「僕も、ちゃんと話せるようにならないと駄目ですね」
「急ぐ必要はないと存じます」
「でも、ずっと隠したままにもしたくありません」
「はい」
シルフィは、今度こそ明確に頷いた。
二人は並んで校舎へ向かって歩き始める。
人目のある場所へ出る前に、シルフィは再びフィッツの表情と声へ戻った。
レイネも、それ以上は特別な態度を見せない。
秘密を知っているからこそ、本人が大切にしている立場を丁寧に守る。
その関係も含めて、魔法大学での生活はまだ始まったばかりだった。