ルーデウス視点
不動産屋の扉を開くと、頭上で乾いた鐘の音が鳴った。
店内は思っていたよりも狭く、壁一面には木札や羊皮紙が隙間なく並べられている。土地の広さや建物の間取り、売却価格らしき数字が細かな文字で記されており、その奥に置かれた机では、腹の出た中年の男が帳簿を読んでいた。
男は鐘の音に顔を上げ、入ってきた俺たちを順番に見た。
俺とシルフィ、レイネだけではなく、ザノバとクリフまで一緒なのだから、住居を探しに来た客としてはいささか人数が多い。しかも、その中にはアリエル王女の護衛として大学内でも知られているフィッツ先輩までいる。
男はそれに気づいた途端、慌てて立ち上がり、勢い余って椅子を後ろへ倒しかけた。
「こ、これはこれは。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「住居を探しています」
俺はそう答えた後、少しだけ緊張しながら続けた。
「結婚後に暮らす家です」
自分の口からその言葉が出た瞬間、胸の奥が僅かに熱くなった。
まだ式を挙げたわけではなく、正式な手続きを全て終えたわけでもない。それでも俺とシルフィとレイネは、これから同じ家で生きることを自分たちの意思で選んだ。
言葉にすれば簡単だが、同じ家で暮らすということは、三人で食事をして、夜になれば眠り、朝を迎え、何でもない日常を毎日積み重ねていくということだ。
前世の俺には一度も手にすることのできなかった、家族以外の誰かと自分自身の意思で作る家庭。
それを思い描くだけで幸福な気持ちになる一方、同じくらいの恐怖も湧いてくる。
本当に俺にできるのだろうか。
二人を愛していると言いながら、いつの間にかどちらか一人を寂しいまま放置してしまわないだろうか。公平に扱おうと意識しすぎた結果、シルフィとレイネをそれぞれ違う人間として見ることを忘れ、同じ存在のように扱ってしまわないだろうか。
何より、俺自身の欲望によって二人の人生を歪めることにならないだろうか。
不安を考え始めれば、いくらでも出てくる。
けれど、怖いからと何も始めなければ、俺たちはこれから先も、それぞれ別の寮へ帰り続けることになる。
俺は二人と生きたい。
ならば、その気持ちを言葉にするだけではなく、実際に一緒に暮らす場所を作らなければならない。
「ご結婚でございますか」
男は驚いたように俺の左右を見た。
表向きには、フィッツ先輩が女性であることは伏せられているため、当然ながら男の視線は主にレイネへ向けられている。
シルフィもそれを理解しており、今は俺の結婚相手としてではなく、フィッツ先輩として住居探しへ助言する立場を装っていた。
いつか、シルフィが自分の名前と本来の姿でこの家へ帰れるようにしたい。
そう思う。
ただし、それは俺だけの願いで決めてよいことではない。
シルフィの正体はアリエル王女の立場や彼女自身の安全とも深く関わっている。いくら俺が望んでも、本人やアリエル王女の事情を無視して明かすことはできない。
「どのような物件をご希望でしょうか」
尋ねられ、俺は事前に三人で話し合っていた条件を順番に伝えた。
三人で暮らしても余裕のある広さがあり、来客を泊められる部屋も欲しい。魔術や薬草の研究へ使用できる空間と、薬草を育てられる庭か温室、人形制作へ使える作業場もあれば理想的だ。
さらに大学とアリエル王女の居所へ無理なく通える距離で、可能なら剣の訓練ができる程度に庭が広い方がよい。
最後の条件を口にしたところで、頭へエリスの顔が浮かんだ。
まだ、エリスから返事は来ていない。
俺がシルフィとレイネを愛し、二人へ結婚を申し込んだことを記した手紙も、出したばかりだ。
エリスがそれを受け入れてくれる保証などない。怒るかもしれないし、俺に失望する可能性もある。二度と俺の顔など見たくないと考えることだってあり得る。
それでも、家を選ぶ段階から「エリスが帰ってくる可能性」を消してしまうことだけはしたくなかった。
もちろん、だからといって勝手にエリス専用の部屋を作り、「ここがお前の帰る場所だ」と決めつけるつもりもない。
もしエリスが帰ってきて、俺と直接話し、そのうえでそれでも一緒にいたいと選んでくれた時、家が狭いというだけの理由で迎えられないような状況にはしたくなかった。
「随分と広い家が必要になりますな」
不動産屋の男は顎を撫でた。
「ご予算は?」
俺は、三人で出せる金額を伝えた。
昨夜、俺たちは家の資金についても話し合っている。
最初の俺は、自分の蓄えを中心に購入するつもりだった。冒険者として活動してきた金があるうえ、結婚を申し込んだ者として住居を用意することは自分の責任なのだと思っていたからだ。
ところが、シルフィとレイネは揃って反対した。
シルフィにはアリエル王女の護衛として受け取ってきた給金と蓄えがあり、レイネにも侍女としての給金だけでなく、冒険者として稼いだ金がある。
二人とも、自分が暮らす家なのだから、自分も資金を出したいと言った。
俺の金だけで家を買えば、形式上は共有するつもりでも、どこかで「俺が用意した家へ二人を迎え入れる」という感覚を持ってしまうかもしれない。
けれど、それでは違う。
これから探すのは、俺だけの家ではないし、シルフィだけ、あるいはレイネだけの家でもない。
三人で選び、三人で金を出し、三人で暮らす家なのだ。
購入費も修繕費も、生活に必要な設備も、一人だけに全てを背負わせるのではなく三人で相談する。足りない部分があれば、その時点で誰がどの程度負担するかを改めて決めればいい。
それは、俺が責任を持たなくてもよいという意味ではない。
俺自身が家庭への責任から逃げないのと同じように、シルフィとレイネからも、自分たちの家庭へ責任を持つ権利を奪わないということだ。
ところが、俺が金額を答えた途端、不動産屋の男は分かりやすく表情を曇らせた。
「その条件ですと、少々厳しいかと」
予想していた。
三人の蓄えを合わせたとしても、必要なのは屋敷の購入費だけではない。
家具や修繕、北方大地で生活するための暖房設備、俺たちが必要としている研究設備にも金が掛かるし、当然ながら日々の生活費も残しておかなければならない。
今後の収入が完全に絶えるわけではないが、全財産を家へ注ぎ込むことはできない。
ジュリの生活や教育にも費用は必要だし、結婚披露宴まで行うなら、そこにもかなりの金が掛かる。
愛情さえあれば何もいらない、などとは言えない。
人間は食べなければ生きられないし、寒い土地で暮らす以上、暖房も薪も欠かせない。
金だけで幸福を買うことはできなくても、金が足りないことで失われる余裕があることを、前世の俺は知っている。
あの頃の俺は家族に養われながら自室へ閉じこもり、働きもせず、家へ一銭も入れなかった。
家族が俺を生活させるために何を支払い、どれだけの負担を背負っていたのかを考えようともしなかった。
今度は、誰か一人へ全てを背負わせたくない。
三人で選んだ家庭へ、三人で責任を持つ。
そして俺もその一人として、逃げずに働き、考え、必要なものを支えていきたい。
「条件を少し減らす必要がありますか」
シルフィが尋ねた。
今は人前なのでフィッツとしての声を使っているが、その視線は俺だけではなく、レイネにも向けられている。
「研究室を一つにまとめれば――」
俺が答えようとしたところで、レイネが静かに口を開いた。
「私の研究室は、必須ではございません」
反射的にレイネを見た。
「薬草学の研究は、大学の設備をお借りできます。自宅へ専用の部屋を設ける必要は――」
「必要です」
思っていた以上に強い声が出た。
レイネの赤い瞳が僅かに見開かれる。
「レイネが研究したいと思っているなら、そのための場所を作りたいです」
「ですが、予算に限りがございます」
「だからといって、最初にレイネの希望から削るのは違います」
レイネは、今でも自分の望みを後回しへ置こうとすることがある。
俺の負担を減らすため、シルフィのため、あるいは家庭全体のためと言えば、自分が我慢する理由はいくらでも作れる。
けれど昨日、俺たちは約束した。
誰かと自分を比べて、最初から身を引かない。
我慢することを、優しさだと思わない。
結婚を決めた翌日に、もうその約束を破らせたくなかった。
「それに、この家にはレイネもお金を出すのでしょう」
俺は続ける。
「自分の資金を出して、自分が暮らす家を買うのに、自分のための場所だけを最初から諦めないでください」
「ルーデウス様……」
「条件を減らすなら、三人で話して決めましょう」
俺はシルフィにも目を向けた。
「僕の研究室も、シルフィの希望も、レイネの研究室も全部並べたうえで、本当に何を優先するべきかを三人で決めたいです」
「うん。僕も、その方がいいと思う」
シルフィが頷いた。
レイネは少し迷ってから、俺とシルフィの顔を順番に見る。
「承知いたしました」
そのやり取りを、不動産屋の男は不思議そうな顔で眺めていた。
俺たちの本当の関係を知らなければ、当然だろう。
「予算内で条件に近い物件は、本当にありませんか」
クリフが尋ねると、男はすぐには答えず、しばらく悩むような表情を見せた。
やがて机の引き出しを開き、何枚かの羊皮紙を取り出すと、その中から一枚だけを指先でつまみ上げる。
「一件だけございます」
声が、それまでより小さくなっていた。
「ただし、少々事情のある物件でして」
ザノバが興味を示して身を乗り出した。
「事情とは?」
「出るのでございます」
「何が?」
俺が尋ねると、男は一度だけ店の奥を見た。
まるで誰かに聞かれることを恐れているような仕草だった。
「幽霊が」
その瞬間、ザノバの目が輝いた。
「幽霊!」
「喜ぶところではありません」
俺が注意する。
しかし、男はザノバが怖がらなかったことで安心したのか、そのまま物件の説明を始めた。
場所は大学から徒歩で通える距離にあり、二階建ての大きな屋敷だという。庭は広く、地下室と倉庫があり、馬小屋として使用できる離れまで残っている。
以前の所有者は魔道具の研究者だったらしく、屋敷内には研究用の作業場もそのまま残されているらしい。
条件だけを聞けば、俺たちが探しているものへかなり近い。
それなのに提示された価格は、三人で用意した予算を大きく下回っていた。
「安すぎませんか」
シルフィが尋ねる。
「ですから、出るのでございます」
「幽霊が出るだけで、ここまで安くなるのか?」
クリフが疑わしそうに羊皮紙を覗き込む。
不動産屋はさらに声を落とした。
「前の所有者が亡くなった後、何度か別の者へ売却されました。しかし、住み始めた者は夜になると物音を聞き、廊下を歩く人影を見たと申します」
「それだけですか?」
俺が尋ねると、男の目が泳いだ。
「最後に住んだ一家は、屋敷内で亡くなりました」
店内が一気に静かになった。
「全員ですか?」
「はい」
「死因は?」
「詳しくは存じません。ただ、身体へ何かに殴られたような痕があり、家具や壁も壊されていたと聞いております」
幽霊や呪いだけでなく、魔物が潜んでいる可能性もある。
前の所有者が魔道具の研究者だったというのなら、死後も稼働を続けている危険な魔道具が原因ということも考えられた。
この世界では、どれも簡単には否定できない。
以前の住人が何人も亡くなった家へ、これから大切な人たちを住まわせる。
いくら安くても、価格だけを理由に選んでよい場所ではない。
しかし原因を突き止め、完全に危険を取り除くことができるのなら、これほど条件のよい物件はほかにないかもしれない。
「まず、昼間に見せてください」
俺は言った。
「その後、夜間に調査します」
「本当にご覧になるので?」
不動産屋は驚いていた。
「危険があることを隠されるより、先に分かっていた方がよいです」
この世界へ来てから、魔物の巣にも盗賊の拠点にも入り、迷宮にだって足を踏み入れてきた。
今さら幽霊屋敷という言葉だけを恐れるつもりはない。
ただ、以前とは目的が違う。
これは冒険ではなく、これから暮らす家を選ぶための調査なのだ。
俺自身が生き残れるかどうかだけではなく、シルフィとレイネが安心して眠れる家にできるのかを確かめなければならない。
三人で購入しようとしている家だからこそ、俺も当事者として安全を確認する責任がある。
◇
屋敷は、大学から少し離れた住宅街の外れにあった。
敷地は高い塀に囲まれており、正門の鉄格子には赤茶けた錆が浮いている。
不動産屋から借りた鍵で門を開くと、金属同士が擦れる耳障りな音が響いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、まず感じたのは敷地の広さだった。
庭は長い間まともに手入れされていなかったらしく、雑草が膝近くまで伸びている。
その荒れた庭の奥には、灰色の石で造られた大きな屋敷が立っていた。
壁の一部には蔦が絡まり、幾つかの窓は割れている。
見た目は相当に荒れているものの、建物自体が大きく傾いている様子はなく、屋根にも目立つほどの穴はない。
少なくとも正面から見ただけなら、きちんと手を入れれば十分に住むことができそうだった。
「すごい」
シルフィが小さく声を漏らした。
ここには不動産屋しかいないことを確認し、フィッツとしての声ではなく本来のシルフィの声へ戻している。
「庭も広いね」
その言葉を聞きながら庭を見ると、まだ伸び放題の雑草しかない場所へ、少しずつ未来の光景が重なって見えた。
シルフィが自分の好きな植物を育て、レイネが薬草を植え、俺が魔術の訓練をする。
もしエリスが戻ってきて、俺たちと一緒に暮らすことを選んでくれたなら、この広さがあれば剣を振る場所だって十分に作れる。
朝になれば、レイネが庭へ出て薬草の状態を確認し、護衛へ向かう前のシルフィと一緒に朝食を取る。
俺が研究室へ籠もりすぎれば、二人から仕事や食事を忘れていないかと注意されるのかもしれない。
そんな生活が、この場所で始まる可能性がある。
そう考えると胸が高鳴った。
同時に、望めば望むほど、それを失うことが怖くなる。
手に入れた幸福を人神によって壊されるかもしれない。
レイネはいつか、死ぬ可能性の高い戦いへ向かわなければならない。
エリスは俺の手紙を読んだ結果、俺のもとへ戻らないと決めるかもしれない。
シルフィだって、アリエル王女を守る戦いの中で命の危険へさらされる可能性がある。
家を作ったところで、そこで暮らす人が永遠に同じように存在し続ける保証などない。
それでも、失う可能性があるから最初から持たない方がよいとは、もう思わなかった。
つい昨日、俺自身がレイネへ言ったばかりだ。
幸福を知れば、当然それを失うことが怖くなる。
だからといって、その怖さを理由に幸福そのものまで拒むべきではない。
この家を欲しいと思うことは、同時に、それをいつか失うかもしれないという恐怖まで引き受けることなのだろう。
「ルーデウス様」
隣からレイネに呼ばれ、我に返った。
「どうなさいましたか」
「少し、考えていました」
「この屋敷についてでしょうか」
「これからのことです」
俺は荒れた庭へ視線を戻した。
「三人で、ここへ住むことを想像していました」
レイネも屋敷を見た。
「私も、同じことを考えておりました」
静かな声だった。
それでも、その一言がどうしようもなくうれしかった。
レイネもまた、自分が使命を果たした後まで生き、この家で暮らしている未来を思い描いているのだ。
「修繕費も、三人で相談しなければいけませんね」
シルフィが現実的な話へ戻す。
「うん。購入費だけで全部使うわけにはいかないから」
「必要な設備へ、優先順位を定める必要がございます」
レイネも続けた。
「最初から全てを完成させる必要はないと思います」
俺は答える。
「まず生活できる場所を整えて、その後で三人の研究室や庭を少しずつ作っていきましょう」
三人で金を出し、何に使うのかも三人で考える。
最初から理想の家を完成させるのではなく、実際に暮らしながら少しずつ手を加えていく。
そういう時間も含めて、家庭を作るということなのかもしれなかった。
◇
正面玄関の扉を開けると、長年閉ざされていた埃の臭いが鼻をついた。
玄関広間はかなり広く、正面には二階へ続く階段があり、途中から左右へ分かれている。
家具の多くは残されたままで、どれも白い布を掛けられ、長い間誰にも触れられていない。
床にも厚く埃が積もっていた。
ただ、その中には幾つか不自然な傷が残されている。
床を長く擦ったような細い跡や、硬いものを叩き込んだような深い傷があり、壁の一部には何か重いものを勢いよく叩きつけたような痕まで存在した。
「魔物の爪ではなさそうですね」
俺が言うと、レイネは直接触れない程度まで指先を近づけ、傷の形を観察した。
「硬い物体による打撃と存じます」
「武器か?」
クリフが尋ねる。
「可能性はございます。ただし、刃によるものではありません」
ザノバは傷そのものよりも、広間の奥にある大きな扉へ興味を示していた。
「師匠。こちらが作業場では?」
「まだ勝手に開けないでください」
「承知しております」
口ではそう答えたものの、身体はすでに扉へ向かっている。
俺は不動産屋から借りてきた鍵束を持ち、屋敷の部屋を一つずつ確認していった。
食堂と厨房、応接室、書庫、複数の寝室、浴室のほか、使用人が使っていたと思われる小部屋までかなりの数がある。
三人で暮らすだけなら、持て余すほどの広さだ。
将来家族が増えたり、遠くから来た客を泊めたりすることになっても、部屋が足りなくなる可能性は低いだろう。
二階の南側には、特に日当たりのよい大きな部屋があった。
窓からは庭全体を見渡せる。
「ここ、いいね」
シルフィが言った。
「何へ使いますか?」
「まだ分からないけど……朝、日が入るから、みんなで食事をする部屋でもいいと思う」
シルフィが窓へ近づきながらそう言った瞬間、まだ何も置かれていない部屋の中央へ、大きな食卓が見えたような気がした。
俺とシルフィとレイネが座っている。
そこへエリスが加わる未来もあるかもしれない。
ノルンやアイシャ、父さんたちが訪ねてくることもあれば、ザノバやクリフ、ジュリたちを招くことだってあるだろう。
前世の俺は、家族と同じ食卓につくことさえ避けていた。
食事は自室の前へ置かせ、家族の顔を見ようとせず、声を掛けられれば苛立った。
それなのに今は、自分から誰かと同じ食卓を囲む未来を欲しいと思っている。
生まれ変わったからといって、前世で犯したことが消えるとは思わない。
傷つけた家族へ、今さら何かを返すこともできない。
それでも今度こそ、誰かと暮らすということから逃げず、その時間を大切にしたいと思った。
「よい部屋ですね」
レイネも窓の近くへ来た。
「食事だけでなく、皆で過ごす場所にもできると存じます」
「では、居間と食堂を兼ねますか」
俺が言うと、シルフィが笑った。
「まだ購入すると決まってないよ」
「そうでした」
危険の確認が先だ。
期待しすぎれば、結局購入を諦めなければならなくなった時に苦しくなる。
だからといって、その苦しさを避けるために、何も想像しないようにするのも違うだろう。
少なくとも今の俺たちは、この家で暮らしたいと思い始めていた。
◇
地下室への扉は、屋敷のさらに奥にあった。
鍵そのものは掛かっていない。
ところが、何かが内側から引っ掛かっているようで、押しただけでは開かなかった。
俺とザノバで少しずつ力を加えると、中から錆びた金属が外れる音がして、ようやく扉が開いた。
その先には地下へ続く石の階段があり、冷たい空気が下からゆっくり流れてくる。
「昼間に入りますか?」
シルフィが尋ねた。
「入口だけ確認しましょう」
俺は魔力を練り、淡い光を生み出して階段の下へ送る。
光に照らされ、地下室の一部が浮かび上がった。
中には作業台や工具、細かな金属部品が置かれており、壁際には本棚まで並んでいる。
前の所有者が魔道具研究者だったという話は、どうやら本当らしい。
さらに光を奥へ進ませたところで、壁際に人の形をした影が見えた。
まったく動かない。
「人形!」
ザノバが大声を出した。
「静かに」
反射的に注意したものの、確かにそれは人形だった。
大きさは人間とほとんど変わらず、白い布のような衣服を身につけている。手足は細く、遠目に見える顔立ちは少女に近い。
ただし、肌に見える部分は人間のものではなく、陶器か磨かれた石のような不自然な白さを持っていた。
「自動人形かもしれない」
クリフが言った。
「動くのか?」
「だから自動人形なのでは?」
「まだ確定していない」
俺は光をさらに近づけた。
人形は動かず、両目も閉じられている。
足元には細かな金属片と、乾いて黒く変色した染みが残されていた。
血痕の可能性もある。
「夜になると動くのでしょうか」
レイネが尋ねた。
「可能性はあります。昼間は停止し、夜になれば起動するのかもしれませんし、あるいは特定の魔力へ反応する仕組みなのかもしれません」
前の住人たちを襲ったものがこれなら、原因は幽霊ではない。
だが、幽霊でなければ安全ということでもない。
「今日は、ここまでにしましょう」
俺は言った。
「夜に戻ります」
ザノバは名残惜しそうに地下の人形を見つめた。
「師匠。あれを壊さずに回収できませんでしょうか」
「襲ってくるかもしれませんよ」
「だからこそでございます。人の命を奪えるほどの自動人形が、どのような構造で動いているのか。これほど貴重な研究対象はございません!」
予想どおりの反応だった。
とはいえ、俺だって可能であれば壊したくはない。
自動人形の構造を調べることができれば、ザノバやジュリの人形制作にも役立つ可能性がある。
それでも、研究のために誰かを危険へさらすわけにはいかない。
「最優先は生存です」
「心得ております」
「本当に?」
「可能な限り壊さない、という意味でございますな」
「危険なら壊します」
ザノバは見るからに苦しそうな顔をしたものの、さすがに反論はしなかった。
◇
夕方になり、不動産屋へ夜間調査を行うことを伝えた。
ただしシルフィは、一度アリエル王女のもとへ戻らなければならない。
屋敷の門前で、そのことを確認すると、シルフィが僅かに唇を噛んだ。
「僕も行きたい」
「ですが、アリエル様の護衛が」
「分かってる」
俺とレイネが二人で危険な屋敷へ入るのだから、シルフィが不安になるのも当然だった。
自分だけが外されたように感じている可能性もある。
「今回は、シルフィを外したいわけではありません」
俺は言った。
「アリエル様の護衛を続けたいと、シルフィ自身が選んだのでしょう」
「うん」
「なら、その選択も大切にしてください」
「でも……」
「戻ってこられる時間になったら、こちらへ合流してください」
シルフィの表情が少し和らいだ。
「まだ終わってなくても?」
「もちろんです」
「終わってたら?」
「僕たちが無事だったことを、一番に伝えます」
「絶対?」
「はい」
シルフィはしばらく俺を見つめた後、レイネへ視線を移した。
「レイネ」
「はい」
「ルディを守ってって言うのは、違うよね」
レイネの赤い瞳が僅かに動いた。
「ルーデウス様は、ご自分で戦うことのできる方です」
「うん」
「ですが、本当に危険な時には、お守りいたします」
「レイネも無茶しないで」
「承知いたしました」
シルフィは俺たち二人へ頷いた。
「終わったら、ちゃんと教えて」
「全部話します」
俺が約束すると、シルフィはようやくアリエル王女のもとへ戻っていった。
その背中を見送りながら、胸が少しだけ痛んだ。
一緒にいたいと思うことと、それぞれが自分自身の役割を持つことを両立させるのは、きっと簡単ではない。
同じ家へ住んだからといって、常に三人一緒に行動するわけではないのだ。
二人だけで過ごす日もあるだろうし、誰か一人が遠くへ出掛けなければならない日もある。
そのたび、残った者が自分だけ置いていかれたと感じないよう、今何をしているのか、いつ頃戻るのかを、きちんと言葉へして伝える必要があるのだろう。
愛しているという大きな言葉だけでは、家庭は成り立たない。
日々の小さな説明と約束を守ること。
そうした地味な積み重ねこそが、一緒に暮らすということなのだと思った。
◇
日が完全に沈んだ後、俺たちは再び屋敷へ入った。
今回の調査へ参加するのは、俺とレイネ、ザノバ、クリフ、そしてザノバの護衛として同行するジンジャーだ。
ジュリは安全を優先し、大学へ残している。
屋敷へ入る前に、各自の役割を確認した。
俺が前へ出て敵の制圧を担当し、レイネは全体の警戒と必要な治療を行う。ザノバは自動人形を破壊せずに拘束できる状況に限って接近し、クリフは結界と術式の解析、ジンジャーはザノバを守りながら退路の確保を担当する。
「僕が前へ出ます」
俺が言うと、レイネが僅かに眉を動かした。
「私が先行する方が安全と存じます」
「分かっています」
レイネが先頭へ立てば、おそらく俺たちだけで進むより遥かに安全だ。
それでも、これから自分たちが暮らそうとしている家の安全確認を、最初から最後までレイネ一人へ任せたくなかった。
俺はレイネに守られることそのものを嫌っているわけではない。
必要なら頼るし、助けてもらう。
しかし、自分が責任を持つべき場面で、最初から「レイネなら大丈夫だから」と全てを預けるつもりもない。
「僕だけでは危険へ対応できない時には、助けてください」
「はい」
「ですが、最初から僕を後ろへ下げないでください」
レイネは俺の顔を見た。
「この家は、僕たちが暮らす家です」
自分の口からそう言っただけで、胸が熱くなる。
「三人でお金を出して、三人で選ぼうとしている家です。だから僕も、自分自身で安全を確かめたいです」
レイネはしばらく黙っていた。
やがて、俺の意思を受け入れるように静かに頷く。
「承知いたしました」
「ありがとうございます」
俺たちは玄関広間へ足を踏み入れた。
昼間とはまるで雰囲気が違う。
俺たちが作り出した光の届く範囲以外は完全な闇に沈み、どれほど目を凝らしても先を見通すことができない。
しばらく進んだところで、風もないのに二階のどこかから木の軋む音が聞こえた。
続いて、何か硬いものが床を叩くような「コツ、コツ」という音が響く。
全員が足を止めた。
「上か?」
クリフが小声で尋ねる。
しかし次の音は、正面の廊下の奥から聞こえた。
今度は規則正しい足音ではなく、何かを引きずるような音がときおり混ざっている。
俺は杖を構え、魔力を練った。
昼間には何もなかった廊下の奥、光が届かない暗闇の中から、ゆっくり白い影が現れる。
地下室で見た人形だ。
昼間は閉じられていた目が開いており、その瞳に当たる部分では赤い光が不気味に輝いている。
人形は俺たちを認識すると、首だけを不自然な角度へ傾けた。
次の瞬間、床を蹴った。
速い。
予想していたよりも遥かに速かった。
「散開!」
俺が叫ぶと、全員が一斉に動いた。
人形の拳が、つい一瞬前まで俺の頭があった場所を通過する。
空気を切る音が鳴り、そのまま壁へ叩き込まれた拳によって石材が砕け散った。
あれを人間がまともに受ければ、頭蓋骨ごと潰される。
俺は無詠唱で床へ魔力を流し、人形の足元を泥へ変えた。
しかし、人形は沈み込む寸前に跳び上がり、横の壁を蹴って空中で軌道を変える。
「動きが生物みたいだ!」
クリフが結界を展開した。
人形の蹴りが光の壁へぶつかり、一撃だけで結界へ大きな亀裂が走る。
「僕の結界を一撃で!」
「感心している場合ではありません!」
俺は杖の先へ石砲弾を形成した。
破壊を最小限に抑えるため威力を落とし、人形の関節だけを狙って撃つ。
しかし人形は身体を捻るだけで石弾を避け、そのまま弾は後ろの壁を砕いた。
「師匠! 破壊は最小限に!」
ザノバが叫ぶ。
「家の壁がすでに壊れました!」
「人形の方でございます!」
「分かっています!」
人形が再び俺へ迫る。
正面から杖を向け、無詠唱で大量の水流をぶつけると、さすがに体勢が僅かに崩れた。
その瞬間を逃さず、ザノバが横から飛びついた。
「捕らえましたぞ!」
両腕で、人形の細い胴体を抱え込む。
ザノバの怪力であれば、普通の人間が振りほどくことなど不可能だ。
ところが人形の腕は背後へ回り、ザノバの肩を掴んだ。
「ザノバ!」
ジンジャーが即座に剣を抜く。
人形は自分を拘束しているザノバごと投げ飛ばそうとした。
その直前、レイネが動いた。
人形の肘へ手を添え、ほんの少し押したように見えた。
それだけで人形の腕の軌道が大きく外れ、ザノバへ掛かっていた力が抜けた。
いったい何をしたのか、俺にも正確には分からない。
おそらく人形の関節が動く方向と力の流れを一瞬で読み、最も小さな力で軌道だけを逸らしたのだろう。
「ルーデウス様」
レイネに呼ばれる。
今だ。
俺は床へ手を向け、魔力を流した場所から何本もの石の帯を伸ばした。
まず両脚を固定し、次に両腕、その後で胴体を硬い石へ縫いつけるように拘束していく。
人形は激しく身体を動かし、すぐに石の一部へ亀裂が入った。
「クリフ!」
「分かっている!」
クリフが拘束用の結界を重ねる。
光の帯が人形の全身へ巻きついた。
それでも止まらない。
赤く光る瞳が俺を真っ直ぐ見ている。
そこに敵意が存在するのか、それとも何らかの命令へ機械的に従っているだけなのか、人間とは違う無表情な顔から読み取ることはできない。
「動力を止める必要があります!」
俺は叫んだ。
「胸部か頭部に核があるはずです!」
「壊してはなりませぬ!」
ザノバが即座に反対する。
「ではどうしますか!」
「余が確認いたします!」
「近づけば殴られます!」
「すでに拘束されております!」
「その拘束が今まさに壊れかけています!」
言い争っている間にも、石の帯が一つ砕けた。
このままでは誰かが怪我をする。
人形を壊すべきか、それとも貴重な研究対象として残すべきかなどと迷っている場合ではない。
人命の方が重要だ。
俺は最大威力に近い石砲弾を作り、人形の胸部へ照準を合わせた。
撃てば確実に破壊できる。
「ルーデウス様」
レイネの声がした。
「あと数秒、維持できます」
見ると、レイネはすでに人形の背後へ回っており、細い指を首の付け根へ当てていた。
「魔力の流れが、胸部から頭部へ向かっております。完全に破壊せず停止させられる可能性がございます」
「できますか?」
「試します」
俺は石砲弾を消さなかった。
レイネが失敗した瞬間に、すぐ撃てるようにしたまま待つ。
レイネは人形の首と背中へ僅かな魔力を流した。
人形の全身が激しく震え、また一つ拘束が砕ける。
赤い光が一際強くなった瞬間、レイネの指が首の付け根にある何かを押し込んだ。
小さな乾いた音が鳴る。
人形の首が僅かに傾き、それまで瞳を満たしていた赤い光がふっと消えた。
同時に身体から全ての力が抜け、ザノバが慌てて受け止める。
「止まりましたぞ!」
ようやく全員の呼吸が緩んだ。
それでも俺はすぐには杖を下ろせなかった。
本当に停止したのか。
もう一度動き出さないのか。
しばらく人形を見つめたものの、身体はぴくりとも動かず、先ほどまで流れていた魔力も感じられなくなっている。
「終わったのでしょうか」
ジンジャーが尋ねた。
「まだ分かりません」
俺は答えた。
「動力の仕組みを確認するまで、拘束は外さないでください」
「心得ました」
ザノバは、つい先ほど自分を投げ飛ばしかけた相手とは思えないほど、うれしそうに人形を見つめていた。
「素晴らしい! 関節の動作、反応速度、判断能力! 師匠、これは人形制作の歴史を変える発見でございます!」
「まずは、前の住人を殺したのが本当にこれなのか確かめます」
「はい!」
返事だけはよい。
俺は周囲の壁や床へ視線を向けた。
昼間に確認したものと同じ形の傷が、戦闘によって新しく増えている。
人形の攻撃痕と一致していた。
以前の住人を襲ったのは、おそらくこの自動人形だ。
幽霊でも呪いでもなく、所有者を失った後まで何らかの命令へ従い続けていた魔道具。
夜間に侵入してきた者を排除するよう設定されていた可能性が高い。
「地下室を調べましょう」
俺は言った。
「人形を動かした者が、ほかにいないとも限りません」
◇
地下室のさらに奥には、昼間の調査では見つけることのできなかった小部屋が存在した。
壁の一部が巧妙な隠し扉になっており、自動人形の胸部から発していた魔力の残滓をレイネが追跡することで見つけたものだ。
小部屋の中には大量の研究記録や設計図、交換用らしい予備の部品が積まれており、壊れた人形の腕や脚まで残されていた。
そして中央の机には、一冊の古びた日記が置かれている。
「読めますか?」
ザノバが尋ねると、クリフが頁を開いた。
「文字は古いが、読めないほどではない」
俺たちは、記録と日記の内容を少しずつ読み解いていった。
屋敷の前の所有者は、長い年月にわたって自動人形の研究を続けていたらしい。
最初の目的は、病によって亡くした娘の姿を人形として残すことだった。
ところが記録が進むにつれて、研究の目的は少しずつ変化している。
最初は娘を模した外見だけだった。
次に家事を行うための機能を持たせ、言葉へ反応する仕組みを組み込み、やがて屋敷を守る戦闘能力まで与えた。
最終段階では、所有者から許可を与えられていない者を、夜間に侵入者として排除する命令まで追加されている。
前の所有者が死亡すると、その命令を解除できる者はいなくなった。
その後に屋敷を購入して住み始めた人間たちは、人形から見れば全員が無断で入り込んだ侵入者だったということだ。
「娘を残したかったのか」
クリフが呟く。
「だが、最後に残ったのは、人を殺す人形だけか」
その声音には憐れみと嫌悪が混じっていた。
俺も、日記の最後の頁を見る。
後半になるほど文字は乱れ、意味の通らない文章が増えていた。
娘へ話しかけるような言葉と、「もうすぐ完成する」「今度こそ戻ってくる」という文章が何度も繰り返されている。
きっと失いたくなかったのだろう。
娘を愛していたから、せめて形だけでもこの世へ残したかった。
その気持ちを、俺は全く理解できないとは言えなかった。
もしレイネやシルフィを失うと考えれば、怖い。
エリスや父さんたちがいなくなることを想像しても、素直に受け入れられるとは思えない。
けれど、目の前にいる人を大切にすることと、失った相手を自分の望む形の人形へ閉じ込めることは違う。
前の所有者は娘の姿を残そうとするうちに、本当の娘自身が何を望んでいたのかを見失ってしまったのかもしれない。
人形へ自分の願望だけを注ぎ込み、最後には、自分以外の全てを敵として排除する存在を作ってしまった。
愛しているから、自分のそばにいてほしい。
その言葉自体は、俺にも分かる。
けれど使い方を間違えれば、それは相手の意思を奪う命令になってしまう。
俺だって、同じ間違いをする可能性がある。
シルフィとレイネを愛しているから、一緒に暮らしたい。
エリスにも帰ってきてほしい。
だからといって、彼女たちが俺の望んだ形へ収まらなければならないわけではない。
俺一人の家庭を作るのではなく、俺たち全員の家庭を作るのだ。
家の費用を三人で出すと決めたことも、部屋をどう使うのか三人で話すと決めたことも、単なる金や設備の分担ではない。
この家も、ここで始まる生活も、誰か一人の所有物ではないのだと確認するためのものなのだろう。
その違いだけは、絶対に忘れてはいけない。
「師匠」
ザノバが設計図を見たまま尋ねる。
「この人形は、修復できますでしょうか」
「壊していません」
俺は答えた。
「停止させただけです」
ザノバの顔が一気に輝いた。
「では!」
「再起動は、仕組みと命令系統を完全に理解してからです」
「承知いたしました!」
「絶対に、勝手に動かさないでください」
「無論でございます!」
本当に信用してよいのだろうか。
念のため、ジンジャーへ必ず監視するよう頼んでおくことにした。
◇
屋敷を出る頃には、空が僅かに明るくなり始めていた。
どうやら俺たちは、一晩中調査を続けていたらしい。
身体には疲労が溜まり、服も埃まみれになっている。戦闘で砕けた石の欠片まで袖や髪へ付着しており、クリフは外の新鮮な空気へ触れた途端、堪え切れないように大きな息を吐いた。
「ようやく出られた……」
「クリフ殿。随分とお疲れのご様子ですな」
一方のザノバは、疲労など感じていないかのように上機嫌だった。
視線はジンジャーと一緒に運び出している自動人形へ釘づけだ。
念のため石の拘束とクリフの結界は残したままにし、地下室で見つけた板と布で作った簡易担架へ人形を寝かせてある。
「誰のせいだと思っているんだ。拘束を解いて関節を見たいなどと、何度も言い出して」
「しかし、停止状態の今こそ確認に適した機会でございましょう」
「再起動する可能性が残っていると言われただろう!」
「それゆえ、師匠とレイネ殿がいらっしゃる間に――」
「二人を安全装置のように扱うな!」
クリフの怒鳴り声が、早朝の静かな庭へ響いた。
ザノバは叱られても全く気にしていない。
ジンジャーだけが申し訳なさそうに頭を下げながら、人形の担架を支えている。
「申し訳ございません。ザノバ様が勝手に拘束へ触れないよう、私が見張っておきます」
「ジンジャー。そこは私を見張るのではなく、この技術をともに守ると――」
「見張ります」
「うむ……」
ザノバが僅かに肩を落とした。
俺はそのやり取りを聞きながら、改めて屋敷を振り返った。
危険の原因は分かった。
自動人形は現在停止しており、命令系統を解析して安全な内容へ書き換えるまでは、再起動させるべきではない。
屋敷そのものに呪いが存在する形跡はなく、ほかの魔物や危険な魔道具が隠されている様子も、昨夜の調査では見つからなかった。
戦闘によって壁や床の一部を壊してしまったが、もともと必要だった修繕へ含められる程度には収まっていると思う。
少なくとも、きちんと手を入れれば住むことができる。
そう考えたところで、正門の外に人影があることへ気づいた。
白い髪に濃色の眼鏡を掛け、フィッツ先輩としての外套を着ている。
シルフィだった。
俺たちが門へ近づくと、シルフィもすぐに歩み寄ってきた。
「皆さん、ご無事ですか?」
最初に見たのは、俺だけではない。
レイネ、ザノバ、クリフ、ジンジャーと順番に確認し、最後に担架へ寝かされている自動人形まで素早く視線を巡らせた。
アリエル王女の護衛として長く行動してきただけあり、誰が負傷しているのか、誰の動きが普段より鈍いのかを一度に確認するような目だった。
「全員、無事です」
俺が答える。
「軽い打撲や疲労はございますが、治療を必要とするほどの負傷者はおりません」
レイネが補足すると、シルフィはようやく肩の力を抜いた。
「よかった……」
小さく漏れた声だけは、フィッツとして作ったものではなかった。
それでも、すぐ俺へ駆け寄るようなことはしない。
ザノバたちの前であることを意識し、まずは明らかに疲れているクリフへ向き直った。
「クリフ先輩も、本当に大丈夫ですか? かなり疲れているようですが」
「魔力を使いすぎただけだ。休めば戻る」
「ザノバ王子は?」
「余はこのとおり、問題ございません!」
ザノバが胸を張った。
「むしろ歴史的な発見を前に、今すぐ大学へ戻って研究を開始したいほどでございます!」
「それを止めるために、私も同行します」
ジンジャーが即座に言った。
シルフィは担架の上へ目を向けた。
「これが、屋敷に出ると言われていたものですか?」
「はい」
俺は頷く。
「幽霊ではなく、自動人形でした。前の所有者が亡くなった後も、夜間に侵入者を排除する命令が残っていたようです」
「前に住んだ人たちを襲ったのも?」
「おそらく、これです。壁や床へ残っていた痕跡が、昨夜の攻撃と一致していました」
シルフィの表情が僅かに曇った。
「もう動かないんだよね?」
「今は停止しています。ただし、安全な命令へ書き換えたわけではありません。仕組みを完全に理解するまでは、再起動させません」
俺はザノバへ視線を向け、念を押した。
「絶対に」
「心得ておりますとも」
「今の間は、ですか?」
横からクリフが疑う。
「永続的に心得ております」
ザノバは言い直した。
少しも信用できない。
ジンジャーへ任せきりにせず、俺も定期的に確認した方がよいだろう。
「フィッツ先輩は、いつからこちらへ?」
俺が尋ねる。
「護衛の交代が終わってからです。まだ調査中なら中へ入ろうと思ったのですが、門の外へ着いた頃には大きな物音が聞こえなくなっていたので、終わるまで待っていました」
「寒かったでしょう」
レイネが尋ねた。
「それほど長い時間ではありません。それに、火の魔術で暖を取っていましたから」
そう答えているが、シルフィの外套には薄い朝露が付着していた。
ほんの数分しか待っていなかったようには見えない。
俺たちが戻るまで、一人でここに残っていてくれたのだ。
「心配を掛けました」
俺が言うと、シルフィは首を横へ振った。
「約束どおり、ちゃんと戻ってきてくれましたから」
その言葉を聞くと、胸の奥へ静かな温かさが広がった。
自分たちの帰りを待ってくれる人がいる。
そして同時に、今回の調査では俺たちと一緒に危険な屋敷へ入り、力を貸してくれた人たちもいる。
俺とレイネだけで全てを解決したわけではない。
クリフの結界がなければ、自動人形を壊さず拘束することはできなかったかもしれない。
ザノバが危険を承知で人形を取り押さえたからこそ、俺たちが拘束する時間を作れた。
ジンジャーが退路を確保しながら周囲まで見ていてくれたため、目の前の敵へ集中することができた。
何より、レイネが人形内部の魔力の流れを見抜かなければ、今頃あの人形は俺の石砲弾で胸部ごと砕かれていただろう。
「皆さん、ありがとうございました」
俺は頭を下げた。
ザノバが目を丸くする。
「師匠。何をなさいますか」
「この家は、僕たちが暮らすために調査したものです。それに付き合わせたのですから、礼を言うのは当然です」
「余にとっても、この人形との出会いは望外の報酬でございます!」
ザノバは担架を指さした。
「むしろ、こちらから謝礼を差し上げたいほどでございますな!」
「勝手に持ち帰って自分の所有物にしないでください」
「む」
「この自動人形は、屋敷の付属物として扱われる可能性があります。所有権も含めて、不動産屋と確認してからです」
「師匠は時折、妙に現実的なことをおっしゃる」
「必要なことです」
いくら俺たちが発見し、研究したいと思っているからといって、自由に所有してよいとは限らない。
屋敷を購入した場合に付属設備としてこちらへ権利が移るのか、前の所有者の遺産として別の権利者が存在するのかについても確認が必要だ。
クリフは疲れた顔のまま、屋敷を振り返った。
「少なくとも呪いではない。人形を安全に停止させておけば、住むことそのものに問題はないだろう」
「建物の状態はいかがでしょうか」
シルフィが尋ねる。
「すぐ崩れるような損傷はない」
クリフは答えた。
「ただし、壁や窓、暖房設備は修理した方がいい。地下の工房についても、危険な部品が残っていないか、もう一度昼間に整理する必要がある」
「昨夜、師匠が壁を増やしてしまわれましたからな」
ザノバが言う。
「壊した、の間違いでしょう」
「戦闘のためには必要な犠牲でございました」
「人形を壊さないようにした結果、購入前の家を壊したのですが」
自分で口にすると、修繕費への不安が急に現実味を帯びた。
ただでさえ長く放置されていた屋敷なのだ。
三人で資金を出すとしても、購入後にどれほどの金を残せるのか、慎重に計算しなければならない。
そうなると、披露宴はやはりすぐには難しいだろう。
まず家を購入し、最低限安全に暮らせる状態まで修繕し、家具と暖房を揃える。
それだけでも相当な金が掛かる。
盛大な宴を開くより、最初は三人の生活を整える方へ資金を回した方がいい。
もちろん、その判断についてもシルフィとレイネへ相談する必要がある。
「それで、この家、どうするの?」
シルフィが朝の光を受ける屋敷を見上げた。
夜中ほど不気味には感じない。
とはいえ庭の雑草は伸び放題で、幾つもの窓が割れ、壁にも新旧の傷が残っている。
人が安心して暮らせる家へ変えるためには、多くの手を入れなければならない。
俺はすぐには答えず、まずザノバたちを見る。
「購入を決める前に確認しておきたいのですが、この自動人形の調査について、皆さんにも引き続き協力をお願いできますか?」
「無論でございます!」
ザノバだけは、最後まで言い終える前に返事をした。
クリフは呆れたように彼を見る。
「僕も、危険な術式や呪いが残っていないかの確認には協力する。ここまで関わって放置するのも気分が悪いからな」
「私はザノバ様の監視を兼ねて、お手伝いいたします」
ジンジャーも答えた。
「ありがとうございます」
三人から協力を得られるのなら、購入後の安全確認も進めやすい。
もっとも、家を買うかどうかを最終的に決めるのは彼らではない。
俺はレイネを見る。
レイネも俺の意図を察したように、屋敷へ視線を戻した。
昨夜、この家の中で戦った。
前の住民がなぜ亡くなったのかを知り、亡くなった娘の姿を残そうとして作られた人形も見た。
ここは、人が死んだ場所だ。
誰か一人の強い執着によって、長い間恐怖の場所として閉ざされてきた。
そんな家へ住むことを、不吉だと考える人もいるだろう。
けれど、ずっと放置しておけば、この屋敷には死と恐怖の記憶だけが残り続ける。
俺たちがここへ住めば、毎日食事を作り、笑い、ときには喧嘩もして、研究を行い、友人たちを招き、新しい記憶を一つずつ重ねていくことができる。
過去に起きたことを消すことはできない。
それでも、その後へ新しい時間を作ることはできる。
俺自身と同じだ。
前世で何をしたのか、何をしなかったのかは消えない。
今の世界で努力したからといって、かつて傷つけた相手から全てを許してもらえるわけでもない。
それでも、過去が消えないからといって、未来まで同じ形でなければならない理由はない。
「僕は、この家を買いたいと思っています」
俺はシルフィとレイネの二人へ向けて言った。
「ですが、三人でお金を出して購入する家です。僕一人が住みたいからという理由では決められません」
「うん」
シルフィは改めて屋敷を見た。
「直すところは多いと思う。お金も、最初に考えていたより必要になるかもしれない」
「はい」
「披露宴も、すぐにはできなくなるよね」
「僕も、そう考えています」
ザノバたちの前でシルフィとの結婚について詳しく口にすることはできないが、この場にいる者たちは少なくとも俺たちの事情をある程度知っている。
シルフィは言葉を選びながら続けた。
「僕は、披露宴を急ぐより、まず住める家にする方がいいと思います。お祝いをしてもらうのは、生活が落ち着いてからでも遅くないから」
「私も同意いたします」
レイネも答えた。
「購入後に残る資金を確認し、最初は寝室、厨房、浴室、暖房設備など、生活に不可欠な場所を優先するべきと存じます」
「研究室は?」
俺が尋ねると、レイネは一瞬だけ迷った。
以前の彼女なら、ここで「必要ございません」と即答し、自分の希望を真っ先に削ったはずだ。
しかし今のレイネは、小さく息を吸ってから答えた。
「研究室については、最低限の生活環境を整えた後、三人の資金に余裕が生まれてから設けたいと考えております」
「分かりました」
諦めたのではない。
ただ順番を後へしただけだ。
自分の望みを未来の計画の中へ、きちんと残している。
その違いがうれしかった。
「僕の希望も、後でちゃんと相談するからね」
シルフィが言う。
「もちろんです」
「ルディの研究室だけ先に完成させるのも、なしだから」
「肝に銘じます」
「師匠の研究室が最優先ではないのでございますか?」
ザノバが本気で不思議そうに尋ねた。
「三人の家ですから」
「なるほど」
本当に理解したのかどうかは、ザノバの表情からは判断できなかった。
俺はもう一度、シルフィとレイネへ尋ねた。
「それでも、この家がよいですか?」
シルフィは少し考えた後、しっかりと頷いた。
「僕は、ここがいい」
外見はフィッツ先輩のままだが、声は間違いなくシルフィ自身のものだった。
「直すところも一緒に決めたい。庭も部屋も、少しずつ三人の家にしていきたい」
レイネも荒れた庭と屋敷を見つめる。
赤い瞳が、まだ存在していない未来を探すように、割れた窓や伸びきった雑草の上をゆっくり移動した。
「私も、この場所でルーデウス様とシルフィとともに暮らしたいと考えます」
これで三人の答えが揃った。
すぐに二人の手を取ることはしなかった。
ここには俺たちだけではなく、一晩中調査へ付き合ってくれた仲間たちがすぐそばにいる。
代わりに、俺はザノバたちへもう一度頭を下げた。
「この家を購入しようと思います。今後も修繕や自動人形の調査で、力を借りるかもしれません」
「お任せください、師匠!」
「人形の研究が目的だろう」
クリフが横から指摘する。
「それも含めて、でございます!」
「僕も手伝える範囲では手伝う。ただし、次は事前に休息する時間を決めておけ」
「はい」
「それから、購入する前に不動産屋へ壁を壊したことを報告しろ」
「……はい」
別に忘れようとしていたわけではない。
ほんの少しだけ、後回しにしたかっただけだ。
ジンジャーは担架の上に横たわる自動人形が動かないことを確認しながら、静かに微笑んだ。
「よい家になるとよろしいですね」
「ありがとうございます」
俺も屋敷を見上げた。
まだ、この家は俺たちのものではない。
購入手続きも、三人の資金をどのような割合で出し合うのかという細かな話も、壊した壁の弁償についての説明も、実際の修繕も何一つ始まっていない。
それでも、俺たち三人だけではなく、この家へ関わってくれる人たちまで含めた未来を想像すると、荒れ果てていたはずの屋敷が少しだけ違って見えた。
いつか、この庭へザノバやクリフが遊びに来る。
ジンジャーがジュリを連れてくることもあるだろう。
シルフィがアリエル王女のもとでの仕事を終えて帰ってきて、レイネも研究を終えた後、家へ明かりを灯す。
そして俺も、外での用事を終えればこの場所へ帰る。
誰か一人が所有するだけの建物ではない。
三人で選び、多くの人の力を借りながら少しずつ作っていく、自分たちの帰る場所。
その最初の形が、朝の光の中でようやく見え始めていた。