ルーデウス視点
リニアとプルセナを倒した翌朝、俺が一階へ下りると、居間の食卓にはすでに何枚もの紙と貨幣が広げられていた。
そこにあるのは、新居を購入する前に三人で作った資金表だった。
屋敷を購入した時に支払った金額をはじめ、これまで修繕に使った費用、家具や寝具、調理器具、さらに冬へ備えて確保した薪の代金まで、細かな支出が項目ごとに整理されている。それだけではなく、これから直さなければならない屋根や、地下工房を安全に使用できる状態へ整えるために必要な費用の見積もりまで書き加えられていた。
レイネは食卓の椅子へ座り、昨日までの支出を新しい紙へ書き写している。
「おはようございます、ルーデウス様」
「おはようございます」
挨拶を返しながら、俺は向かい側の椅子へ腰を下ろした。
「朝から帳簿ですか?」
「はい。昨日、商人ギルドから暖房設備の部品代について連絡がございましたので、反映しております」
レイネが数字を書き足す。
横から確認してみると、予想していたよりかなり高かった。
この屋敷は曰く付きだったため、建物そのものを購入する値段は相場より大幅に安かった。しかし、大きな屋敷というものは、安く手に入れたからといって、安く維持できるわけではない。
壁が多ければ修理しなければならない場所も増えるし、冬になれば暖めなければならない部屋も増える。
三人の蓄えを初めてまとめた時には、かなり余裕のある金額に思えた。それでも購入費を支払い、とりあえず生活できる範囲を修繕し、必要な家具を買い、さらにこれから先の修繕へ備える資金まで別に取ってみれば、自由に使える金は思っていたほど残っていなかった。
だから披露宴も延期した。
大勢を招いて盛大に祝うことより、まずは三人が安心して暮らせる家を作ることを優先したのだ。
その判断を後悔してはいない。
この家へ戻れば、シルフィとレイネがいる。
朝になれば三人で同じ食卓を囲み、誰かが廊下を歩く音が聞こえる。外から帰って扉を開ければ、お帰りなさいと言ってくれる人がいる。
前世の俺にとって、家とは外へ出なくても済む場所だった。
今は違う。
外で嫌なことがあっても、疲れていても、それでも帰ってきたいと思う場所になっている。
そのことが、俺自身が想像していた以上に大切だった。
けれど、食卓へ並べられた数字を眺めているうちに、ふと別の顔が頭へ浮かんだ。
母様――ゼニス・グレイラット。
ベガリット大陸の迷宮都市ラパンと、その近郊に存在するという《転移の迷宮》。
母様は、その迷宮内部にいる可能性が高い。
そして、すでに父様たちはそこへ向かっている。
ロキシーもリーリャも、タルハンドもギースも一緒だ。
俺がこの家で屋敷の修繕費を計算し、暖房設備を整え、シルフィやレイネと朝食を取っている今この瞬間にも、父様たちは砂漠を越え、母様を捜し、危険な迷宮へ入るための準備を続けているのかもしれない。
胸の奥へ、鈍い痛みが生まれた。
もちろん、俺だって何もしていなかったわけではない。
大学の書庫でフィットア領転移事件に関する資料を調べているし、昨日だってジュリが駆け込んでくる直前まで、レイネとともに転移現象についての記録を読み続けていた。
ラパンへ向けた連絡もすでに送っている。
新しい情報が届けば、すぐ動くつもりでもいる。
それでも大学へ入ってから、俺の生活は大きく変わった。
シルフィと再会した。
レイネの気持ちを知った。
二人へ結婚を申し込み、三人で暮らす家まで買った。
目の前にある幸福が、俺の心の中で占める場所は急速に大きくなっている。
それ自体を悪いことだとは思わないし、思いたくもない。
シルフィとレイネを愛したことも、三人で家を買ったことも、それだけで母様を見捨てたことにはならない。
しかし、そう言い聞かせるばかりで、実際に母様のために取っている行動が減っているのなら、それはただ自分を守るための言い訳になってしまう。
母様を忘れていないと口にするだけでは足りない。
今の俺に、何ができるのか。
改めて考えなければならない。
「ルーデウス様?」
顔を上げると、レイネが俺を見ていた。
「どうなさいましたか」
「少し、考えていました」
「資金についてでしょうか」
「それもあります」
俺は帳簿へ目を落とした。
そこに並んでいる数字は、この家を守るために必要な金であり、今の生活を続けるために必要な金でもある。
同時に、遠くにいる家族へ送ることのできる金でもあった。
「父様たちへ、追加の資金を送りたいです」
レイネの手が止まった。
驚いた顔はしない。
ただ、俺が何を考え、どこまで具体的に決めているのかを確認するようにこちらを見た。
「用途をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「迷宮攻略用の装備や治療薬、食料、それから現地の案内人や追加の冒険者を雇うための費用です」
考えるより先に言葉が出た。
おそらく、今朝突然思いついたのではない。
ずっと胸のどこかでは考えていたのに、具体的な行動へ移すことを後回しにしていたのだろう。
「もしすでに母様を救出しているなら、治療や帰路へ使ってほしいです。そこにも必要がなくなっているなら、フィットア領転移事件の被災者捜索へ回してもらえばいい」
「承知いたしました」
レイネは帳簿を閉じなかった。
代わりに、現在残されている金額の横へ新しい線を引く。
「どちらから出されるおつもりでしょうか」
「僕の個人資金からです」
俺は答えた。
「屋敷へ使った後も、冒険者をしていた頃の蓄えは残っています」
「全額をお出しになりますか?」
「必要であれば」
返事をした直後、レイネの眉がほんの僅かに動いた。
怒っているわけではない。
どちらかといえば、呆れている時に近い表情だ。
「ルーデウス様」
「はい」
「ご自身の資金を全て送ることが、必ずしも最善とは限りません」
「ですが――」
「現地から救援要請が届いた場合、ルーデウス様ご自身が向かわれるのでしょう」
「もちろんです」
そこに迷いはなかった。
父様から助けてほしいと言われ、母様を救うために俺の力が必要だと分かれば向かう。
大学での生活も、この家も、一度置いていくことになるだろう。
それでも行く。
「その際の旅費、装備費、船賃、現地で情報を集めるための資金は、どちらからお出しになりますか」
言葉に詰まった。
父様たちへ金を送ることばかりを考えていた。
自分も後から向かう可能性を忘れていたわけではない。それなのに、そのために必要になる旅費や装備費を、具体的な金額として計算していなかった。
「……家の共有資金から借りることになります」
「それでは、ルーデウス様がご自身の資金を全て送り、その後に私どもの資金を使用して現地へ向かうこととなります」
「……そうなりますね」
「結果として、三人の資金を使うことに変わりはございません」
完全な正論だった。
俺は一人で責任を負うつもりになって、その結果として二人へ負担を掛ける形を作ろうとしていたらしい。
自分の金を全て差し出す。
一見すれば、それは母様を助けたいという覚悟の表れにも見える。
けれど、その後のことを考えずに全て差し出してしまえば、ただ自分だけが責任を果たした気分になるだけだ。
本当に必要なのは、自分の懐を空にすることではない。
母様を助けられる可能性が最も高くなる形を作ることだ。
「二人のお金を、勝手に母様のためへ使うわけには……」
「勝手にお使いになるのであれば問題でございます」
レイネは答えた。
「ですから、相談なさっているのではございませんか」
その時、階段から足音が聞こえた。
「何を相談してるの?」
シルフィだった。
これからアリエル王女の護衛へ向かうため、すでにフィッツ先輩としての服装へ着替えている。濃色の眼鏡を掛け、白い髪もきちんと整えており、外から見ればアリエル王女に仕える寡黙な護衛そのものだ。
それでも家の中では、まだ少し眠そうな顔をしながら俺たちの横へやってくる。
「父様たちへ、資金を送りたいと考えています」
俺が説明すると、シルフィは帳簿を覗き込んだ。
「ゼニスさんの捜索に?」
「はい」
「どれくらい?」
レイネが、現在自由に動かせる金額や、最低限残しておくべき家の維持費、冬へ向けて確保しておかなければならない金、今後必要になる修繕費の見込みまで順番に説明した。
シルフィは何も言わず聞いている。
俺以上に、数字を見ながら何を削って何を残すべきか考えている顔だった。
「披露宴のために残そうとしていた分は?」
「すでに延期しております」
俺が答える。
「当面使う予定はありませんが、そこまで全部送る必要はないと思っています」
「うん」
シルフィは頷いた。
「僕も、お金を出す」
予想はしていた。
それでも、俺はすぐに受け入れることができなかった。
「シルフィには、アリエル様のために必要な資金があるでしょう」
「それは別に残してるよ」
「ですが……」
「ルディ」
シルフィが俺を見る。
「これは、ルディだけの家族の話じゃないよ」
その言葉が、胸へまっすぐ入ってきた。
「ゼニスさんは、ルディのお母さんでしょう?」
「はい」
「だったら、僕にとっても無関係な人じゃない」
シルフィは少しだけ照れたように目を伏せた。
「まだ正式に挨拶できてないけど、いつか会った時に、ルディを助けられたのに何もしなかったって思いたくないから」
すぐには答えられなかった。
母様が、いつかこの家へ来る。
シルフィと会い、レイネとも会う。
四人で同じ食卓を囲む。
母様が二人を見て何と言うのかは分からない。二人と結婚すると聞けば驚くだろうし、もしかすると俺を叱るかもしれない。
それでも、母様がこの家にいる未来を想像しただけで胸が熱くなった。
同時に、本当にその日が来るのかという恐怖も湧き上がる。
救出が間に合わなければ。
母様が戻ってこなければ。
今想像した食卓は、俺の頭の中だけで終わる。
だからこそ、今できることをする。
「私も、お出しいたします」
レイネが言った。
「レイネまで……」
「私はこれまでも、転移事件の被災者救援へ使用するための資金を別に確保しております」
「それは、レイネ自身が作ってきた支援網のためのものでしょう」
「ゼニス様も、フィットア領転移事件の被災者でございます」
迷いのない返事だった。
レイネにとって母様は、俺の母親だから助けたいというだけではないのだろう。
フィットア領転移事件へ巻き込まれた一人の被災者としても、助けるべき相手なのだ。
「ただし」
レイネは帳簿へ指を置いた。
「三人とも、使用可能な金額を全て差し出すことには反対いたします」
シルフィも頷く。
「家に何かあった時のお金と、ルディたちが出発することになった時のお金は残そう」
「はい」
「それから、誰が多く出したとか、少なく出したとかで決めない」
シルフィは続けた。
「それぞれ、無理なく出せる分を出す。それでいいでしょう?」
家を買った時と同じだった。
あの時、三人が同額を出したわけではない。
最も多く出したのは俺で、その次がレイネ、シルフィが一番少なかった。
それでも、俺の家になったわけではない。
金額が違っても、三人が自分の意思で資金を出し、ここで暮らすことを選んだから、この家は三人の家になった。
今回も同じなのだろう。
誰がいくら払ったかを競うためではない。
母様を助けるために、三人がそれぞれ可能な形で関わる。
「分かりました」
俺は頷いた。
一人で背負うことだけが、責任を取ることではない。
相談し、助けを受け取り、全員が次に動ける状態を残しておく方が、母様へ支援を届けられる可能性も高くなる。
「三人で決めましょう」
◇
朝食を終えた後、俺たちは家を維持するために必要な資金や、緊急時に俺たち自身が移動するための旅費、そして各自が自由に使える個人資金を残したうえで、実際に送金できる額を計算した。
大金とは言えない。
迷宮攻略隊を何十人も新しく雇えるような額ではない。
それでも、高価な治療薬を購入し、現地の案内人を雇い、装備を修理し、数人の冒険者へ十分な報酬を払う程度にはなる。
金だけで母様を助けられるとは思っていない。
しかし、治療薬が一本増えたから助かる命もある。
装備をきちんと修繕できたから進める階層もある。
現地をよく知る案内人を一人雇えたことで、避けられる危険だってあるだろう。
少額だからといって、意味がないわけではない。
「今日、冒険者ギルドへ確認してみます」
俺は言った。
「貨幣をそのまま運ばせるのは危険です。ラパンで受け取れる証書へ変えられないか聞いてみます」
「私も同行いたします」
レイネが言う。
「レイネは研究の予定があるのでは?」
「午前の予定は変更可能でございます。それに、私がこれまで利用してきた商会にも確認できます」
各地で被災者救助をしていたレイネには、俺の知らない場所へも多くのつながりがある。
ただし、それは何でも解決できる万能な力ではない。
遠方との連絡には時間が掛かるし、途中で商会や商隊の経路が途絶える可能性もある。レイネがこれまで利用してきた相手だからといって、必ずラパンまで届けられるわけでもない。
だからこそ、一つの方法だけへ頼らない方がいい。
「僕はアリエル様に相談してみる」
シルフィが言った。
「王女様の連絡網を、勝手に使うわけには……」
「だから、相談するんだよ」
シルフィが笑う。
「駄目なら使わない。でも、南へ向かう使者や商隊がいるなら、手紙だけでも途中まで運んでもらえるかもしれないでしょう?」
シルフィは、アリエル王女の護衛という立場を俺のために勝手に利用しようとしているわけではない。
自分が何をできるのか確かめ、許可が得られれば協力を頼み、無理なら別の方法を探す。
彼女自身の意思で、自分にできることを選ぼうとしている。
「お願いします。ただし、無理は言わないでください」
「分かってる」
三人で、同じ問題へ向き合っている。
俺の母親のために、二人が自分たちの時間と金を使おうとしている。
それを受け取ることには、今でも少し罪悪感がある。
俺の家族のために二人へ負担を掛けているようにも感じる。
けれど、そのたびに俺が拒否してしまえば、二人が俺の家族へ関わりたいと思っている気持ちまで拒絶することになる。
俺だって、シルフィやレイネの家族が困っているなら助けたい。
二人も、俺の家族を自分とは無関係な人間として扱いたくないのだろう。
「ありがとう」
俺が言うと、シルフィは柔らかく笑い、レイネも僅かに目を細めた。
◇
冒険者ギルドへ行ってみると、現金そのものを迷宮都市ラパンまで直接届けることはできないと分かった。
理由は単純で、経路が長すぎるからだ。
ベガリット大陸と北方地域では、同じ冒険者ギルドの名前を掲げていても資金管理が別になっており、シャリーアの支部へ金を預ければラパンの支部で同額をそのまま受け取れる、というような便利な送金制度は存在しないらしい。
「大陸をまたぐとなると、ギルドだけで引き受けるのは難しいな」
職員は地図を広げ、北方地域から中央大陸南部へ続く街道を指でなぞった。
「途中で商人ギルドか、信頼できる商会を挟む必要がある。港から先は船便になるから、そちらも別口だ」
「到着までは、どれほど掛かりますか?」
「順調に進んでも数か月だ。雪で街道が止まれば延びるし、船が出なければ港で待つことになる」
数か月。
その間に父様たちは、すでに迷宮へ入っているかもしれない。
母様を救出している可能性だってある。
反対に、何らかの問題が起き、今まさに支援を必要としているかもしれない。
金が届く頃には、今考えている使い道そのものが不要になっている可能性もあった。
それでも、送らなければ必要になった時にも届かない。
俺たちは窓口で母様について詳しい事情までは話していない。
遠方にいる親族か知人へまとまった金と手紙を送りたい。
説明したのは、それだけだ。
受取人として父様たちの名前を何人か挙げれば、フィットア領転移事件に関係する話だと推測される可能性はある。
しかし、母様の居場所や《転移の迷宮》について、ギルドの窓口で話す理由はなかった。
不用意に口へすれば、どこまで噂が広がるか分からない。
「確実性を上げる方法はありますか?」
俺が尋ねると、職員は地図から顔を上げた。
「一つの経路に全額を預けないことだ」
「分けるのですか?」
「ああ。商会が潰れることもあるし、商隊が魔物や盗賊に襲われることもある。一つへまとめれば、それが途絶えた時に全部失う」
隣でレイネが頷いた。
「手数料は増加いたしますが、資金を複数の経路へ分けた方が安全でございますね」
「そういうことだ」
職員は別の街道を指し示した。
「急ぎなら、金だけでなく受取人へ渡す証書も複数作れ。誰が受け取れるのか、どこまで本人確認を求めるかも決めておいた方がいい」
「受取人は複数指定できますか?」
「できる。ただし、名前を増やせば確認に時間が掛かる。身分を証明しにくい冒険者が相手なら、所属している団体や持っている認識票まで書いておけ」
受取人として、父様、ロキシー、リーリャ、タルハンド、ギースの名前を挙げる。
可能な範囲で、所属や外見の特徴も記録する必要がある。
詳しく書きすぎれば、第三者へ父様たちの情報を与えることになる。
逆に曖昧すぎれば、本人確認ができずに資金を渡してもらえない。
ただ急いで送ればいいわけではない。
安全に、必要な相手へ、実際に使える形で届かなければ意味がない。
「預けた後、用途までは管理されますか?」
俺が尋ねた。
「受取人へ渡した後の使い道までは、こちらでは関知しない。特定の依頼へ使わせたいなら、金そのものではなく、依頼金としてラパン支部へ預ける方法もある」
それなら、一部を父様たち個人が自由に使える資金として送る。
そして残りを、ラパンの冒険者ギルドで捜索や護衛の依頼を出すための報酬として預ける。
そう分けることができる。
「少し相談してもよろしいでしょうか」
「構わない」
俺とレイネは窓口から少し離れ、周囲にこちらの会話を聞こうとしている者がいないことを確認してから声を落とした。
「父様たちが、すでに母様を発見している可能性もあります」
「はい」
「全部を捜索依頼へ固定すると、救出後の治療や帰路に使えません」
「では、一部を受取人が自由に使用できる資金とし、残りをラパン支部へ依頼金として預けるべきと存じます」
「依頼金の目的は、どこまで書きますか?」
「窓口で全てを説明する必要はございません。フィットア領転移事件の被災者に関する捜索および護衛依頼としておけば十分でしょう」
「母様の名前も?」
「受取人へ渡す手紙へ記載いたしましょう。ギルドへ提出する書類には、必要最低限のみでよろしいかと」
俺は頷いた。
ギルドの職員に悪意があるとは思わない。
それでも、知る必要のない相手へまで家族の事情や母様の居場所を話すべきではない。
母様が《転移の迷宮》にいる可能性が高いという情報が漏れれば、その迷宮に眠る財宝や未知の魔道具を狙い、別の冒険者や商人が集まってくる可能性もある。
家族を助けようとした結果、余計な危険を増やすようなことだけは避けたい。
俺たちは窓口へ戻り、資金を二種類へ分けることを伝えた。
一つは、指定した受取人が本人確認を済ませれば受け取れる自由資金。
もう一つは、ラパン支部でフィットア領転移事件の被災者捜索や護衛へ利用できる依頼金だ。
さらに、それらを同じ一つの経路へ預けず、複数の商会や商隊へ分散させる。
手間も手数料も増える。
それでも、途中で全てを失うよりはよかった。
「手紙も、同じ内容を三通用意いたしましょう」
手続きを終えて窓口から離れた後、レイネが言った。
「はい」
「ただし、全ての手紙へ同じ詳細を書くことは避けるべきと存じます。盗まれた際、資金の受取人と目的が同時に知られます」
「では、一通は父様たちの名前を明記する。残りは、ラパン支部の責任者を経由する形にしましょう」
「暗号化できる部分は、私が整えます」
「お願いします」
その後、俺たちは商人ギルドと、レイネがこれまで利用してきた二つの商会へも話を聞いた。
最終的に、資金は三つの経路へ分けることになった。
一つは冒険者ギルドを通じ、迷宮都市ラパン支部へ依頼金として預ける。
パウロ・グレイラット、ロキシー・ミグルディア、リーリャ・グレイラット、タルハンド、ギースの誰かが本人確認を行えば、残りの資金と手紙も受け取れるよう手続きをする。
もう一つは、商会の証書へ変換する。南方の港を経由して、ラパンと取引を持つ商人へ回してもらう形だ。
最後の一つは現金と手紙を小分けにして、まったく別経路の商隊へ預ける。
完全な方法ではない。
途中で失われる可能性は残っているし、届く頃には状況そのものが大きく変わっている可能性も高い。
それでも、何もしないよりはいい。
正しい方法が一つだけあるわけではないのなら、全てを一つへ賭けず、複数の道を用意しておく。
そのうち一つでも届けば、父様たちの助けになるかもしれない。
俺たちはギルドの片隅にある机を借り、手紙を書くことにした。
羽根ペンを持ち、
『父様へ』
と最初の一行を書く。
その先で、手が止まった。
何を書けばよいのだろう。
母様の情報を聞いた直後にも、父様へ手紙を送っている。
その時には俺とレイネが無事であることや、通常の方法でベガリット大陸へ向かえば到着まで非常に長い時間が掛かるため、ラノア魔法大学で転移事件について調べるつもりでいることを書いた。
救援が必要になれば、どんな方法でもよいから知らせてほしいとも伝えた。
あの時、俺は迷いながらも大学へ行くことを選んだ。
そして今、改めて父様へ手紙を書く。
俺は家を買った。
結婚も決めた。
そのことまで、今の父様へ書くべきだろうか。
母様を捜し続けている父様へ、自分が遠く離れた土地で家庭を作ったと伝える。
それが自慢や、能天気な近況報告のように見えないだろうか。
父様は砂漠を越え、今にも迷宮へ入ろうとしているかもしれない。
そんな時に俺が二人と結婚し、屋敷を買って暮らし始めたと知れば、いったい何を思うのだろう。
迷った。
それでも、隠すのも違うと思った。
今の俺がどこにいて、誰と暮らしているのか。
父様には伝えるべきだ。
幸福になったことを隠さなければ、母様を心配していると認めてもらえない。
俺と父様は、そんな関係ではないはずだ。
書ける範囲で、正直に書いた。
シルフィと再会したこと。
レイネとともに、三人で生活を始めたこと。
詳しい事情については、直接会った時に話したいこと。
そして、母様のことを忘れたわけではないことも書いた。
大学ではフィットア領転移事件をはじめとする転移現象を調査しており、それとは別に、母様がいる可能性が高い《転移の迷宮》について攻略記録や過去の探索例を集め始めている。
今回の資金も、三人で話し合ったうえで送ることを決めた。
必要なら迷宮攻略へ使ってほしい。
すでに母様を救出できているなら、母様の治療と帰路へ回してほしい。
それすら必要ないなら、ほかの被災者のためへ使ってもらって構わない。
最後に、助けが必要なら必ず知らせてほしいと書いた。
『必ず向かいます』
その一文を書いたところで、また手が止まった。
本当に、必ず向かうことなどできるのだろうか。
船が出ないかもしれない。
街道が塞がる可能性もある。
手紙そのものが、俺のもとまで届かないかもしれない。
俺の力ではどうにもできない事情など、この世界にはいくらでも存在する。
どれほど向かいたくても、助けを求める知らせ自体が届かなければ動くことさえできない。
それでも、知らせを受け取り、本当に俺の助けが必要だと分かったなら行く。
大学も、この家も、一度置いて向かう。
その覚悟だけは嘘ではない。
必ず助けられるとは書けないし、必ず間に合うとも約束できない。
けれど、助けを求められたのに怖いから動かないということだけはしない。
俺は、その一文を消さなかった。
「書けましたか?」
レイネが尋ねる。
「はい」
手紙を渡した。
レイネは内容へ目を通す。
ただし、父様へ書いた私的な部分については、必要以上に読まないよう視線を滑らせていた。
夫婦になると決めたからといって、相手へ届く前の手紙を全て読む権利まで生まれるわけではない。
必要な箇所だけ確認する。
その距離感が、ありがたかった。
「こちらで問題ないと存じます」
「暗号化は?」
「受取場所と資金の分割については、別紙へ記載いたします」
俺たちは三通の手紙を作った。
同じ目的へ向かうために用意した、異なる三つの道だ。
少しだけ、大学へ来た俺たちと父様たちにも似ていると思った。
父様たちは現地から直接、母様へ近づこうとしている。
俺たちは遠くから情報を集め、研究し、必要なものを送ることで母様へ近づこうとしている。
どちらか一方だけが正しいわけではない。
父様たちと同じ場所へ行かなかったからといって、俺が何もしていないことにはならない。
ただし、「研究している」という言葉だけで満足してもいけない。
得たものを、現地へ届く形へ変える。
今回の手紙は、そのための一歩だった。
◇
午後、大学へ戻った俺たちは、転移に関する調査を再開した。
これまでも空いた時間があれば書庫へ来ていたが、今日からは調べる対象をはっきり分けることにする。
机の上へ三枚の紙を並べ、それぞれへ見出しを書いた。
一枚目は、フィットア領転移事件および大規模転移現象。
二枚目は、迷宮都市ラパン近郊に存在する《転移の迷宮》。
そして三枚目は、ベガリット大陸への移動および遠距離連絡手段についてだ。
「これまで、少し混ぜて考えていました」
俺は三枚の紙を見ながら言った。
「フィットア領転移事件と《転移の迷宮》は、どちらも転移が関係しています。ですが、同じ現象とは限りません」
「はい」
レイネが頷いた。
「フィットア領転移事件は、広大な地域と多数の人間を無作為に近い形で各地へ転移させた、大規模な災害でございます。一方、《転移の迷宮》は内部へ設置された転移魔法陣や転移罠によって、侵入者を決められた場所、あるいは複数の場所へ移動させる迷宮です。同じ転移という言葉を用いておりますが、規模も発生条件も異なります」
俺は頷いた。
大学へ来た理由の一つは、フィットア領転移事件そのものを調べるためだ。
なぜ、あれほど広い範囲が巻き込まれたのか。
なぜ一箇所ではなく、世界中の異なる場所へ人々が飛ばされたのか。
生物だけではなく建物や土地の一部まで、何を基準として転移させられたのか。
そして、あれだけの大規模転移を引き起こした膨大な魔力は、どこから供給されたのか。
そこへ近づくには、通常の転移魔術だけを調べていても足りない。
召喚術、大規模な魔力災害、空間の歪み、古代の魔法陣など、複数の分野を横断する必要があるだろう。
一方で、母様を今すぐ救うためにより直接必要なのは、《転移の迷宮》そのものについての情報だ。
迷宮内部の魔法陣がどのように配置されているのか。
何を条件に転移が起こるのか。
過去に誰が攻略を試み、どこまで進んだのか。
階層の構造はどうなっているのか。
転移先をどう記録すればよいのか。
迷宮内で行方不明になった人間を、どのように捜索した例があるのか。
そして、最深部へ到達するための手掛かりが存在するのか。
二つの研究は関係している可能性がある。
それでも、最初から全部を同じ箱へ入れて調査してしまえば、目の前の情報が何の目的で必要なのか分からなくなる。
大規模転移の原因を考えるための資料と、今まさに迷宮へ入ろうとしている父様たちへ渡すべき情報は違う。
「まず、《転移の迷宮》の方から調べましょう」
俺は言った。
「父様たちへ、直接役立つ可能性が高いです」
「承知いたしました」
俺たちは目録から《転移の迷宮》という名前を探した。
ところが、固有の迷宮名として記録されている資料は、予想していたより少ない。
単純に危険度が高いからではないらしい。
内部の大部分が転移魔法陣によってつながっているため、通常の迷宮のように通路を歩き、地図を作ることそのものが難しいのだ。
右へ進んだからといって、その先が地理的な意味で右側へ続いているとは限らない。
魔法陣へ一歩乗れば、まったく別の階層へ飛ばされる可能性がある。
同じように見える部屋でさえ、どの魔法陣から侵入したかによって出口が異なることもあるらしい。
そうした迷宮なら、正確な攻略情報そのものが高い価値を持つ。
冒険者や商人が個人的に保管し、わざわざ大学へ提供していない記録も多いのだろう。
「こちらに、一冊ございます」
書庫の職員が古い目録を示した。
そこに記されていた題名は、
『転移の迷宮探索記』
だった。
胸が大きく動いた。
初めて、目的へ直接つながる可能性のある資料を見つけた。
それだけで今すぐ本へ手を伸ばしたくなる。
「閲覧できますか?」
「保存書庫の資料です。持ち出しはできませんが、申請すれば閲覧できます」
「申請します」
即答した。
職員は少し驚いた顔をしたものの、すぐ必要書類を用意してくれた。
申請理由には「フィットア領転移事件の被災者捜索に関係する迷宮調査」とだけ記す。
ゼニスという名前は書かない。
父様たちの現在地も、《転移の迷宮》へ向かっている者がいるということも、必要以上に記録へ残すつもりはなかった。
しばらくして運ばれてきたのは、革張りの古い写本だった。
表紙は擦れ、頁の端には何度も人の手によってめくられてきた跡が残っている。
著者は過去に《転移の迷宮》へ何度も挑戦した冒険者らしい。
ただし、最深部まで踏破した完全な攻略記録ではない。
何度も迷宮へ入り、転移魔法陣の行き先を調べながら、生還することのできた範囲だけをまとめたものだった。
「完全な攻略記録ではありませんね」
思わず言うと、僅かに落胆している自分へ気づいた。
この一冊を読むだけで、母様のところまで進む方法が全部分かる。
どこかで、そんな都合のよい期待を抱いていたらしい。
「ですが、何もない状態とは大きく異なります」
レイネが頁をめくった。
「はい」
完全な答えではない。
だからといって、役に立たないわけでもない。
探索記には、一つの転移魔法陣へ入る前に、必ず細かな特徴を記録するべきだと書かれていた。
魔法陣の形状、発光する色、周囲の壁や床に刻まれた傷まで記しておく。
一見同じ魔法陣に見えても、細かな違いによって行き先が変わる可能性があるからだ。
転移した直後には全員が揃っているか確認し、一人でも欠けている場合は、無闇に次の魔法陣へ進まず直前の転移先を調べる。
帰還用に見える魔法陣であっても、必ず元の場所へ戻れる保証はない。
持ち込んだ物を魔法陣付近へ置いておき、再度同じ場所へ転移したのか確認する方法も記されていた。
「父様たちは、これを知っているでしょうか」
「ギース様やタルハンド様であれば、基本的な迷宮探索の知識はお持ちでしょう」
「ですが、《転移の迷宮》特有の記録までは分かりません」
「はい」
必要な箇所を書き写していく。
魔法陣を識別する方法や、転移元と転移先を一対として記録する形式、仲間とはぐれた場合の基本原則、過去に転移先から戻れなくなった事例、通常の地図が役に立たなくなった場合にどう記録を作るか。
本を丸ごと一冊書き写す時間はない。
父様たちへ送るのなら、重要な部分を選び、理解しやすい形へ整理しなければならない。
「この本自体を借りることはできませんか?」
「難しいと存じます」
レイネが答えた。
「なら、必要なところを写本にします」
「私もお手伝いいたします」
二人で分担する。
俺は魔法陣と転移先の記録方法を中心にまとめ、レイネは負傷者や行方不明者が出た場合の対応を抜き出す。
迷宮内部の簡単な図も書き写した。
ただし、ここに記されているものが現在もまったく同じ構造を保っている保証はない。
古い迷宮は成長する。
時間とともに通路や魔物の配置が変わる場合もあるし、転移魔法陣の行き先自体が変化している可能性さえ否定できない。
だから父様へ送る資料には、必ず大きく、
『古い探索記の情報であり、現在も同じとは限らない』
と記しておく必要がある。
役に立つ情報であるほど、同時に危険性も伝えなければならない。
情報の正しい部分だけを渡したつもりでも、父様たちが古い記録を信じすぎれば、かえって危険な場所へ誘導する可能性がある。
それでも、何も知らずに入るよりはいい。
父様たちが、すでに迷宮内部へ入っているなら間に合わないかもしれない。
その考えが浮かぶたび、俺の手は自然と速くなった。
早くまとめなければならない。
早く送れる形にしなければならない。
しかし、焦って書き間違えれば、それ自体が危険な情報になる。
「ルーデウス様」
レイネが俺の手元を見た。
「一度、お休みください」
「まだ大丈夫です」
「三つ前の魔法陣と、こちらの番号が重複しております」
指摘された箇所を見る。
確かに同じ番号を書いていた。
本来まったく別の二つの魔法陣を、同一のものとして記録してしまっている。
このまま父様たちへ送っていれば、二つの違う魔法陣を同じものとして扱わせるところだった。
最悪の場合、戻れると考えて乗った魔法陣から別の場所へ飛ばされる。
迷宮内部では、その小さな記録ミス一つが命を奪う可能性すらある。
「すみません」
「急がれるお気持ちは理解しております」
レイネは俺が作った表を、最初から確認し直していく。
「ですが、迷宮の転移先を取り違えることは、命へ関わります」
「はい」
深く息を吸う。
母様を助けたい。
父様たちへ一刻も早く情報を届けたい。
その気持ちと、正確に調べることは対立するものではない。
急いでいるからこそ、間違えてはいけないのだ。
早く書き終えることが目的ではない。
父様たちが実際に使える情報を、安全な形で届けることが目的なのだから。
俺は新しい紙を用意し、最初から番号を振り直した。
◇
《転移の迷宮》について確認できる資料をひととおり調べた後、今度はフィットア領転移事件そのものの調査へ戻った。
こちらは、対象となる範囲があまりにも広い。
通常の転移魔術や召喚術、物体のみを移動させた記録、人間が意図せず遠方へ飛ばされた事故、魔力暴走によって空間そのものが歪んだという伝承、転移効果を持つ魔力付与品、古代の転移魔法陣。
似た言葉が使われている資料は多い。
けれど、フィットア領で起きたように町や村を含む広大な地域から、大量の人間を世界中へ散らした事例は一つも見つからなかった。
「やはり、通常の転移魔術を大規模にしただけでは説明できませんね」
複数の資料を見比べながら言う。
「通常の魔法陣には、転移元と転移先が必要でございます」
レイネが答える。
「ですが、フィットア領転移事件では、被災者の転移先が一か所ではございません」
「魔大陸、ミリス大陸、中央大陸、ベガリット大陸。確認できているだけでも、世界中へ散らばっています」
「何らかの基準によって転移先が分けられたのか、あるいは制御されていない力によって無作為に飛ばされたのか。それすら不明でございます」
同じ場所へいた人間同士でも、別々の場所へ飛ばされている。
一方で、父様とノルンのように転移の瞬間に接触していた人間が、同じ場所へ飛ばされた例もある。
俺とエリスも同じだった。
ただ、それが互いに接触していたことによるものなのか、単なる偶然なのか、それともまったく別の条件が作用しているのかは分からない。
一般的な転移現象について研究することは、《転移の迷宮》攻略へ直接役立たない可能性もある。
それでも、母様がなぜベガリット大陸へ飛ばされ、どうして《転移の迷宮》へ関わることになったのかを理解するには、フィットア領転移事件そのものへ近づく必要がある。
そして将来、再び同じような大規模転移が起こる可能性だってある。
原因を知らなければ、防ぐことも被害を減らすこともできない。
俺たちが経験したことを「運が悪かった」で終わらせてしまえば、また同じことが起こった時に誰も備えられない。
「召喚魔術の資料も調べましょう」
俺は言った。
「転移と召喚は同じではないと考えられていますが、離れた場所から対象を移動させるという点では共通しています」
「はい。召喚先を固定する方法が分かれば、転移先が決まる仕組みを考える手掛かりになるかもしれません」
目録を確認した。
古代の召喚陣、異世界からの召喚、魔力災害による空間の歪み、転移陣の固定。
しかし、読みたいと思った資料の大半へ貸出中の印が付いていた。
しかも貸出先は、どれも同じ記号で伏せられている。
「このあたりだけ、ほとんど残っていませんね」
書庫の職員へ尋ねると、相手は目録を確認した。
「特別生へ優先的に貸し出されています」
「特別生?」
「ええ。大学の許可を受け、召喚魔術を研究している方です」
召喚魔術を専門に研究している特別生。
まさに今、フィットア領転移事件へ近づくために俺たちが調べたい分野そのものだった。
「名前は教えていただけませんか?」
「本人の希望により非公開です」
「返却予定は?」
「未定です。ただし、研究上必要であることを申し出れば、一部の資料について閲覧を交渉できます」
「本人とですか?」
「担当教員を通じて、となります」
レイネと顔を見合わせた。
大学へ来た目的へ、直接つながる可能性がある。
一般的な転移現象や召喚、空間の歪み、それらとフィットア領転移事件。
その特別生が実際に何を研究しているのかは分からない。
俺たちの目的とは何の関係もないかもしれないし、《転移の迷宮》については何も知らない可能性も高い。
それでも、フィットア領転移事件そのものを調べるうえでは、一度接触する価値がある。
話を聞いてもらえないかもしれない。
資料の共有を拒否される可能性もある。
だからといって、申請さえ出さなければ何も始まらない。
「交渉の申請を出します」
俺は言った。
「必要な書類をいただけますか」
職員は申請書を一枚差し出した。
申請理由には、
『フィットア領転移事件に関する、転移・召喚現象の調査』
と記した。
今度は《転移の迷宮》という名前を書かない。
二つの調査を、必要以上に混ぜないためだ。
相手が召喚研究者なのなら、まずは大規模転移と召喚術の関係について話をする。
母様や父様の事情まで、最初から全て明かす必要はない。
申請書へ署名した時、資料室の外から大きな話し声が聞こえてきた。
廊下の向こうでは、リニアとプルセナが大量の粘土袋を運んでいる。
二人とも見るからに不満そうな顔だ。
その前をジュリが歩いていた。
「そっちは作業場へ持っていく」
「分かってるニャ」
「重いの」
「ザノバさま、もっと重いの、もつ」
ジュリがそう言うと、二人は黙った。
昨日の件について、二人がすでに全てを理解したとは思っていない。
俺に負けたから仕方なく来ているだけかもしれないし、レイネが怖いという理由もあるかもしれない。
それでも逃げずに来た。
ザノバが次の人形を作るために必要な材料を、自分たちで運んでいる。
理解というものは、一度謝罪すれば突然完成するわけではないのだろう。
ザノバが何度失敗し、どれほどの時間を掛けるのか。
それを見続けながら、少しずつ知っていけばいい。
それも一つの前進なのだと思う。
俺も申請書へ視線を戻した。
できることを、一つずつ行う。
フィットア領転移事件を調べ、《転移の迷宮》についても情報を集める。
父様たちへ資金と情報を送り、救援要請が届いた時にはすぐ出発できる準備をしておく。
今の俺にできるのは、それだけだ。
だからこそ、途中で別の問題が起きたとしても、終わった後に何度でもここへ戻ればいい。
全てを一度に完璧に進めることはできない。
一度中断したからといって、諦めたことになるわけでもないのだから。
◇
家へ帰った時、シルフィはまだ戻っていなかった。
レイネが厨房へ向かおうとしたため、俺は声を掛ける。
「今日は僕が火をつけます」
「では、私は食材を準備いたします」
「一緒に作りましょう」
「はい」
生活をレイネ一人へ任せない。
何か特別なことをしているわけではない。
同じ家へ暮らす人間として、俺にもできることをするだけだ。
竈へ火をつけ、鍋へ水を入れる。
二人で夕食を作り始めてしばらくすると、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
シルフィの声だ。
俺は厨房から顔を出した。
「お帰りなさい」
レイネも続ける。
「お帰りなさいませ」
シルフィは少し疲れた顔をしながらも、俺たちを見ると笑った。
「話してきたよ」
「アリエル様へ?」
「うん」
外套を脱ぎながら居間へ入る。
「近いうちに、南方へ向かう使者がいるんだって。ベガリット大陸までは行かないけど、途中の大きな商業都市までなら、手紙を一通預かってくれるって」
「本当ですか?」
「うん。ただし、アリエル様の名前は使わない。個人的に同行する商人へ頼む形になるって」
それで十分だった。
商会やギルドとは別の経路が、もう一つ増える。
どの道が一番早く届くのかは分からない。
それでも一つが途絶えた時、別の道が残る。
「ありがとうございます」
「僕じゃなくて、アリエル様に言ってね」
「もちろんです」
食事を終えた後、俺たちは今日行ったことを互いに報告した。
送金方法について調べ、資金を複数経路へ分けたこと。
父様へ手紙を書いたこと。
そして転移に関する調査を、今日から二つの大きな目的へ明確に分けたこと。
「二つ?」
シルフィが尋ねる。
「一つは、フィットア領転移事件そのものです」
俺は机へ今日作った紙を置いた。
「大規模な転移がなぜ起きたのか、どうして転移先が世界中へ散らばったのか、通常の転移魔術や召喚術との違いを調べます」
「もう一つは?」
「母様がいる可能性の高い、ラパン近郊の《転移の迷宮》です」
『転移の迷宮探索記』から書き写した資料を見せる。
そこには、転移魔法陣を識別する方法や、行き先を記録する形式、仲間とはぐれた場合の行動、そして古い資料のため現在も同じとは限らないという注意書きまでまとめてある。
「これを、父様たちへ送ります」
シルフィは何枚もの紙を順番に確認した。
「同じ転移でも、別々に調べるんだね」
「はい」
俺は頷く。
「フィットア領転移事件を理解することは、母様がなぜそこへ飛ばされたのかを知るために必要です。でも父様たちが今すぐ必要としているのは、《転移の迷宮》へ入るための情報です」
「どちらか一つを選ぶのではなく、両方を調べるのでございます」
レイネが補足した。
「ただし、目的と確実性を混同しないよう、記録は別に管理いたします」
「うん。その方が分かりやすいと思う」
シルフィは探索記の写しへ目を落とした。
「明日からも、調べるの?」
「はい」
「授業やザノバのこともあるよね」
「時間を決めます」
今日、レイネと相談して大まかな予定も組んだ。
週に一日は《転移の迷宮》の攻略記録や、迷宮に関係した人間について調べる。
もう一日は、フィットア領転移事件と、一般的な転移・召喚現象を研究する。
さらに一日は、冒険者ギルドや商会へ新しい情報が届いていないかを確認する。
残りの時間は大学の授業や、ザノバとジュリの人形研究、自分自身の魔術研究へ振り分ける。
必要であれば、資金を補充するために冒険者として依頼を受けることも考える。
全てを毎日行うことなどできない。
だから、何をいつ行うのかを決める。
一日の中へ全部を無理やり押し込めば、どれも中途半端になる。疲労と焦りが増し、結果として間違いも多くなるだろう。
今日だって、俺は魔法陣の番号を書き間違えたばかりだ。
母様のためだからと無理を重ねて誤った情報を送り、そのせいで父様たちを危険へ導けば、助けるどころか状況を悪化させることになる。
「家のこともあります」
レイネが言った。
「修繕と生活を止める必要はございません」
「はい」
俺は二人を見る。
「正直に言うと……」
少しだけ言葉を選んだ。
自分の中にあるものを隠さず話す。
それも、三人で暮らすと決めた時に少しずつやっていこうと思ったことだった。
「最近、幸せでした」
シルフィが瞬きをする。
レイネは静かに続きを待っている。
「二人と結婚することを決めて、家を買い、一緒に暮らし始めた」
「うん」
「それが、悪いことのように感じる時がありました」
「どうして?」
「母様が、まだ見つかっていないからです」
父様たちは母様を探している。
その間に、俺は恋をした。
家を買って、家族と笑った。
ザノバが初めて人形を完成させた時には、皆で喜んだ。
誰かから責められたわけではない。
父様に「お前だけ幸福になるな」と言われたわけでもない。
それでも俺自身が、この生活を許してしまってよいのか分からなくなることがあった。
「僕だけが、安心できる場所にいるように感じました」
シルフィはすぐには答えなかった。
レイネも俺を遮らない。
「でも……」
俺は続けた。
「幸せになったことと、母様を忘れることは同じではありません」
今日、資金について二人へ相談した。
父様へ手紙を書き、《転移の迷宮》について資料も調べた。
その中で、ようやく少しだけそう考えられるようになった。
苦しそうな顔をしていることだけが、母様を心配している証明ではない。
自分の幸福を捨てることが、母様の救出へ近づく方法になるわけでもない。
「この家を買ったことも、二人と暮らしていることも、間違いだったとは思いません」
「うん」
シルフィが小さく頷く。
「ただし……」
俺は今日作った二つの調査記録へ手を置いた。
「幸せだから、もう何もしなくていいと考え始めたら、その時は違います」
俺が大学へ来た理由は消えていない。
フィットア領転移事件を調べる。
母様の救出へ役立つ情報を探し、《転移の迷宮》について調べ、それを父様たちへ届ける。
父様たちとは別の方向から、母様へ近づく。
その目的を、今の生活へ埋もれさせてはいけない。
「僕は、母様を忘れていません」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
忘れていない。
そう自分自身へ言い聞かせているようにも感じた。
本当に忘れていないのか。
安心した生活を手に入れるにつれて、少しずつ優先順位を下げていたのではないか。
その疑いが完全に消えたわけではない。
「分かってるよ」
シルフィが言った。
「私も存じております」
レイネも続けた。
「ですが、忘れていないと証明するために、ルーデウス様が幸福を捨てる必要はございません」
言葉が静かに胸へ届く。
「帰る場所を持ち、大切な方々と食事をし、笑うことは、ゼニス様への裏切りではございません」
「うん」
シルフィも頷いた。
「ゼニスさんを助けるために、ルディが壊れる必要はないよ」
俺はすぐには答えられなかった。
母様が見つかっていない。
父様たちは遠いベガリット大陸で母様を捜している。
その一方で、俺はシルフィやレイネと再会し、結婚を決め、三人で暮らす家まで手に入れた。
だからこそ、時折怖くなる。
自分がこうして穏やかに暮らしている間にも、母様はどこかで助けを待っているのではないか。目の前の生活を大切にするようになったことで、母様を捜すことを後回しにしてしまっているのではないか。
けれど、その不安を打ち消すために、自分の持っているものを全部差し出したところで、母様を助けられるわけではない。
今朝、俺が個人資金を全額送ろうとしたことだってそうだ。
金を残さず送れば、それだけ母様のために動いたことになるような気がしていたのかもしれない。
だが、その結果として俺自身が動けなくなり、後からシルフィやレイネへ負担を掛けるのなら意味がない。
母様を助けるために必要なのは、俺が何かを失うことではない。
必要な情報を集め、資金を用意し、人手や装備、移動手段を確保し、助けを求められた時に動ける状態を保っておくことだ。
そのためには俺自身もきちんと食事を取り、眠り、冷静に考えられる余裕を持っていなければならない。
この家は、俺を母様から遠ざけるものではない。
必要になればここから出発する。
そして、できることなら母様を連れてここへ帰ってくる。
そういう場所なのだ。
「ありがとうございます」
俺は言った。
「二人とも」
「うん」
「はい」
明日も大学へ行く。
《転移の迷宮》について調べ、フィットア領転移事件についても研究する。
送った手紙が届くよう祈り、必要なら金を稼ぐ。
ザノバの人形作りも手伝いながら、シルフィやレイネとの生活も大切にする。
一つを選ぶために、ほかの全てを捨てる必要はない。
全部を完璧にはできなくても、優先順位を決め、誰かの助けを借りながら、一つずつ続けていけばいい。
俺は、そのことを少しずつ学んでいる。
食事を終えた後、俺たちは今日の調査記録を二つの箱へ分けて収めた。
一つ目は、
『フィットア領転移事件・転移および召喚現象』
二つ目は、
『迷宮都市ラパン・《転移の迷宮》攻略資料』
まだ、どちらの箱にも中身はほとんど入っていない。
確かな答えもない。
それでも、これから一つずつ増やしていけばいい。
母様へつながる情報を。
その夜、自分の部屋へ戻ろうとした俺は、玄関の近くで足を止めた。
この扉を開けば、外へ出ることができる。
いつか母様を助けるために、ここから旅立つ日が来るかもしれない。
その時は、この家を一度置いていくことになる。
けれど、捨てるのではない。
帰ってくるために出ていくのだ。
シルフィとレイネがいるこの場所へ。
そしてできるなら、母様を連れて戻りたい。
母様がこの玄関から入り、シルフィとレイネへ挨拶をする。
四人で同じ食卓を囲む。
そんな未来を、俺は初めてはっきりと思い描いた。
都合のよい願いなのかもしれない。
必ず実現できる保証もない。
それでも、目指す未来として思い描くことはできる。
俺は誰もいない玄関へ向け、小さく呟いた。
「待っていてください、母様」
返事はない。
当然だ。
それでも、自分の声が暗闇へ消えていっただけだとは思わなかった。
遠く離れた場所にいる母様へ、今の俺たちは少しずつ道を伸ばし始めている。
資金を送り、手紙を書き、迷宮の情報を集め、転移事件そのものも研究する。
どれも今すぐ母様のもとへ届くものではない。
けれど、何もせず待っているわけでもなかった。
俺たちは忘れていないし、立ち止まってもいない。
この家で生きながらフィットア領転移事件の真相を追い、《転移の迷宮》へ挑もうとしている父様たちを支え、母様のもとへたどり着くための準備を一つずつ始めている。
ここは、母様を忘れるために作った家ではない。
いつか母様とともに帰ってくるための家なのだ。