ルーデウス視点
クリフ先輩とエリナリーゼが初めて二人だけで食事へ出掛けた翌日、俺は朝から少し落ち着かなかった。
二人を引き合わせたのは俺だ。
エリナリーゼが自分の呪いについてクリフ先輩へ打ち明けた場にも同席したし、その後、レイネが長い訓練の中で編み出した《魔力移譲》を初めて逆向きに使い、エリナリーゼの体内へ蓄積していた魔力の一部を引き出すところまで見ている。
だからといって、昨夜二人が何を話したのかまで俺が知る必要はない。
俺が仲介したからといって、その先にできた関係まで俺のものになるわけではないのだ。
そう頭では分かっているのに、大学へ向かう途中でエリナリーゼとすれ違えば表情を確かめてしまったし、講義室へ入ってクリフ先輩を見つければ、昨日と何か変わっていないか観察してしまった。
エリナリーゼの方は、ほとんど普段どおりだった。
こちらへ向ける笑みも、歩き方も、身なりも特に変わらない。食事について自分から報告してくることもなく、俺と目が合えばいつものように軽く手を振っただけだ。
本当に何事もなかったのか、俺へ話す必要がないだけなのかは分からない。
一方、クリフ先輩は分かりやすすぎた。
「おはよう、ルーデウス」
「おはようございます」
挨拶を返す。
それなのに、クリフ先輩は俺の前から動かなかった。
普段なら魔術理論か研究について話し始めるところだが、今日は妙にそわそわしている。胸こそいつもどおり張っているものの、何か言いたそうに俺を見ては視線を外していた。
仕方ない。
「昨日はどうでした?」
途端に顔が上がった。
「非常に有意義だった」
「研究会ではありませんよね?」
「分かっている!」
思った以上に声が響き、周囲の学生がこちらを見る。
クリフ先輩は咳払いをすると、少しだけ声を落とした。
「彼女とは、いろいろ話した」
「どんなことを?」
「それは言えない」
「では、どうして僕のところへ報告に来たんです?」
クリフ先輩が黙った。
本人も分かっていないらしい。
昨夜の内容を勝手に漏らすつもりはない。しかし楽しかったという事実だけは誰かへ伝えたい。その相手として俺のところへ来たのだろう。
「次の約束は?」
「今日も会う」
「今日もですか?」
「何か問題があるのか?」
「ありませんけど、早いですね」
「時間を空ける理由がないだろう」
実にクリフ先輩らしい。
「今日の放課後は、まず呪いの研究をする。その後、また一緒に夕食を取ることになった」
「研究が先なんですね」
「当然だ。僕はあの場の勢いだけで、治してみせると言ったわけではない」
そこだけは真剣だった。
昨日クリフ先輩は、何年掛かろうと研究すると言い切った。
恋がどうなるかについてはまだ何も分からない。それでも、少なくとも昨日の様子を見る限り、食事を一度断られた程度で呪いの研究まで投げ出すようには見えなかった。
「昨日、レイネが抜いた魔力についても調べるんですよね?」
「無論だ」
クリフ先輩の顔が、少しだけ研究者のものへ変わった。
「あれは極めて興味深い。魔力を人間同士で直接受け渡す技術など、僕も初めて見た。しかも逆向きに使えば、体内の魔力を外から引き出せる」
「ただ、普通の魔力まで一緒に抜ける可能性があるそうです」
「だから調べる」
即答だった。
「レイネが昨日移した量と、エリナリーゼ自身の魔力量の変化を測定する。それから、呪いによる魔力の再蓄積がどれくらいの速度で始まるかも確認する」
「無茶はしないでくださいね」
「分かっている」
「本当に?」
「君は僕を何だと思っている?」
「興味を持った研究を前にすると、かなり前のめりになる人だと思っています」
クリフ先輩の眉が跳ね上がった。
「僕は彼女を実験材料だと思っているわけではない!」
今度こそ講義室全体へ響いた。
教壇にいた教師まで顔を上げる。
「クリフ君」
「……申し訳ありません」
注意されると、クリフ先輩は素直に自分の席へ戻った。
俺も席へ着こうとすると、少し離れた場所に座っていたレイネと目が合った。
口元がほんの僅かに緩んでいる。
俺は隣へ腰を下ろして、小声で尋ねた。
「笑っています?」
「いいえ」
「そう見えました」
「クリフ先輩が、エリナリーゼを大切にしようとなさっていることを、好ましく感じただけでございます」
「それを微笑んでいると言うんじゃないですか?」
「微笑ましく感じております」
ほとんど同じだと思う。
ただ、そんなレイネの反応を見ること自体は嫌ではなかった。
「今日も研究するそうですね」
「はい」
「昨日の魔力移譲の結果を?」
「それも調べます」
レイネは声を落とした。
「私自身も、あの方向へ使用したのは初めてでございましたので」
元の技術は、オルステッドからレイネへ魔力を渡すためのものだった。
昨日初めて流れを逆転させ、エリナリーゼからレイネへ魔力を引き出した。
成功はした。
しかし、特殊な魔力だけを綺麗に抜けたわけではない。
「今日は僕も行った方がいいですか?」
レイネはすぐには答えず、少し考えた。
「エリナリーゼご本人が希望されるのであれば」
「なら、僕から行くと言う必要はないですね」
「はい」
詳しい検査では、呪いの周期や体調だけでなく、男性と関係を持った前後の状態まで聞くことになるかもしれない。
俺が知りたいと思うことと、知っていいことは別だ。
「必要なら呼んでください」
「承知いたしました」
そこまで話したところで教師がこちらを見る。
今度は俺たちまで注意される前に会話をやめ、講義へ意識を戻した。
◇
放課後、俺は一人で書庫へ向かった。
クリフ先輩とエリナリーゼ、そしてレイネの三人は、治癒魔術実習室の奥にある準備室へ入っている。
フィットア領転移事件と《転移の迷宮》について調べる仕事も止めるわけにはいかない。
召喚魔術を研究している特別生へ面会申請は出してあるものの、まだ返事はなかった。
俺は古い転移魔法陣の資料を開き、転移先を指定するために必要な魔力量や、転移対象の質量について書かれた記録を整理していく。
ときどき三人のことが頭へ浮かぶ。
クリフ先輩は無茶をしていないだろうか。
レイネは反対に慎重になりすぎていないだろうか。
エリナリーゼは二人へ遠慮していないだろうか。
心配ではある。
それでも、任せると決めた。
俺がいなくても、三人はそれぞれ自分で考えられる。
エリナリーゼ自身が嫌なら止められるし、クリフ先輩とレイネが意見を違えたなら話せばいい。
俺が心配だからという理由だけで様子を見に行けば、結局は「自分がいなければ駄目だ」と考えていることになる。
それは違う。
俺は目の前の資料へ意識を戻した。
母様へ届くかもしれない一行を、見落とさないために。
夕方。
書庫を出た俺は、食堂近くの廊下で三人と合流した。
クリフ先輩の両腕には大量の紙が抱えられている。
「かなり増えましたね」
「当然だ」
紙の表題を眺める。
症状の発生周期。
通常魔力量。
魔力移譲前後の変化。
体調。
魔力結晶の形成時期。
過去に使用した薬や魔道具。
昨日の出来事が、すでに大量の研究項目へ変わっていた。
「結果は?」
俺が尋ねると、クリフ先輩が一枚の紙を抜いた。
「まず、昨日レイネが移した分だけ、エリナリーゼの総魔力量も減っている」
「ということは、普通の魔力も一緒に?」
「その可能性が高い」
レイネが補足する。
「通常の魔力と、呪いによって蓄積した魔力を、現在の私では完全には分けられません」
「でも、体調は少し良くなったんですよね?」
エリナリーゼが頷いた。
「ええ。劇的ではありませんけれど、身体の重さは少し減りましたわ」
クリフ先輩が紙を指で叩く。
「だから効果自体はある。ただし、この方法だけで全部抜くのは危険だ」
思ったより慎重な結論だった。
「すぐ全部抜こうとはしなかったんですね」
「僕だってその程度は考える!」
レイネが横から言う。
「最初は、もう少し量を増やして確認したいとおっしゃっていました」
「少しだ!」
「現在の三倍でございました」
「比較するには、それくらい必要だ!」
「本日は行いませんでした」
「結果的には納得しただろう!」
どうやら順調に意見はぶつかっているらしい。
それでも険悪な雰囲気ではない。
「それから」
クリフ先輩が続ける。
「今のラノア魔法大学で使われている魔力測定器なら、かなり細かく変化を取れる。レイネの感覚だけに頼る必要はない」
「クリフ先輩は、現在大学で使用されている測定魔道具について、私より詳しく扱っておられます」
レイネが素直に認めた。
「レイネより?」
少し驚く。
「私は構造と理論は理解できますが、現在こちらで改良され、研究用に使用されている機器を日常的に扱っているわけではございません」
「僕は扱っている」
クリフ先輩が得意そうに胸を張った。
なるほど。
レイネが知らない魔術をクリフ先輩だけが大量に知っている、という話ではない。
大学で使われている現行の測定器については、日頃から研究へ使っているクリフ先輩の方が手慣れているということだ。
「なら、相性はよさそうですね」
「当然だ」
「努力いたします」
二人の答え方はまるで違った。
その横でエリナリーゼが楽しそうに笑っている。
「明日も研究するんですか?」
「無論だ。その前に昨日の魔力結晶を――」
クリフ先輩が言いかけたところで、エリナリーゼが口元へ指を当てた。
「その話はここまでですわ」
「あ」
周囲には学生がいる。
エリナリーゼの呪いは秘密だ。
クリフ先輩は慌てて口を閉じた。
「……明日も続ける」
「はい」
「それでエリナリーゼさんは?」
「今日は研究を終えましたので、これからクリフと食事へ行きますわ」
呼び方が変わっている。
昨日はまだ「クリフ君」だったような気がする。
クリフ先輩の耳が赤くなっていた。
「では、行きましょうか」
「もちろんだ!」
クリフ先輩は抱えていた紙束をレイネへ渡そうとして、一度止まった。
「……いや。研究室へ置いてから行く」
「その方がよろしいかと存じます」
「分かっている!」
そう言いながら、エリナリーゼを待たせないよう早足で研究室へ向かっていく。
エリナリーゼも笑いながら後を追った。
二人を見送る。
「速いですね」
「はい」
「上手くいくと思いますか?」
「まだ分かりません」
レイネはそう答えてから、遠ざかっていく二人へ視線を向けた。
「ですが、少なくとも互いを知ろうとなさっております。悪い出発ではないと感じます」
俺もそう思う。
今後どうなるかは分からない。
クリフ先輩がエリナリーゼの呪いに耐え切れなくなるかもしれないし、エリナリーゼの方が年齢や経験の差を理由に離れるかもしれない。
それでも、始める前から相手の答えまで決めてしまうよりはいい。
◇
二人の距離は、そこから驚くほど早く縮まった。
朝になればクリフ先輩が女子寮の外でエリナリーゼを待ち、昼になれば一緒に食事を取り、放課後にはレイネを加えて呪いについて研究する。
研究が終われば、今度は二人で町へ出掛ける。
それまでのクリフ先輩は空いた時間の大半を書庫か研究室で過ごしていたのに、今では朝から俺へ、
「この辺りで一番うまい菓子を出す店を知らないか?」
などと尋ねてくるようになった。
「僕に聞くよりエリナリーゼさん本人に好みを聞けばいいでしょう」
「それでは驚かせられない!」
「驚かせる必要があるんですか?」
「ある!」
よく分からない。
研究の方では、それ以上に熱心だった。
前日に行った魔力移譲の結果を何度も測定し、エリナリーゼの体内へ特殊な魔力が溜まる速度を記録する。
次の魔力結晶ができると、エリナリーゼ本人の許可を取った上で研究室へ持ち込み、通常の魔石や魔力結晶と比較した。
レイネによる《魔力移譲》も何度か試した。
ごく少量。
体調と通常魔力を測定しながら、決して一度に大量を抜かない。
その結果、一つだけはかなり確かになった。
レイネが魔力を抜けば、エリナリーゼの症状は一時的に軽くなる。
男性を必要とするまでの時間も、多少は延ばせるらしい。
しかし、根本的な解決にはならない。
一度抜いても特殊な魔力は再び蓄積するし、それだけを選んで完全に除去することもできない。
ある日の研究では、クリフ先輩が測定結果を睨みながら言った。
「おかしい」
「何がでございますか?」
「僕の計算なら、これだけ抜けば蓄積量はもっと下がるはずだ」
「ですが、測定値はこちらでございます」
「測定器の誤差じゃないのか?」
「別の二機でも同様の値が出ております」
クリフ先輩が黙る。
「なら、測定方法が――」
「三種類使用しております」
また黙った。
かなり悔しそうだった。
それでも紙を破り捨てるようなことはせず、しばらく数字を睨んだ末に新しい紙を取り出した。
「……なら、僕の仮定が間違っている」
すぐに人格が丸くなったわけではない。
最初に自分の理論を疑うような人でもない。
それでも、実際の結果を何度突きつけても無視し続けるほど頑固でもなかった。
「蓄積した魔力を外へ出せば終わるわけじゃない。やはり身体の側で何かが作られ続けている」
「私も、その可能性が高いと考えております」
「なら次は、蓄積量だけじゃなく、生成される直前の魔力循環を測る」
「はい」
「呪いそのものを止める必要がある」
その言葉を聞いたエリナリーゼが、静かにクリフ先輩を見ていた。
クリフ先輩は気づいていなかった。
研究に夢中だからだ。
その横でレイネだけがエリナリーゼへ目を向け、少しだけ微笑んでいた。
俺はそこへ入らなかった。
三人でちゃんと進んでいる。
それで十分だ。
一週間も経たないうちに、クリフ先輩とエリナリーゼは正式に交際を始めた。
報告を受けたのは昼休みだった。
俺とレイネ、ザノバ、ジュリが食事をしていると、二人が揃ってやってきた。
「報告がある」
クリフ先輩が妙に改まった声で言う。
エリナリーゼは隣で楽しそうに笑っている。
「僕たちは、恋人として付き合うことになった」
「おめでとうございます」
素直にそう思った。
「ありがとうございます、ルーデウス君」
エリナリーゼが答える。
ザノバは首を傾げた。
「交際とは、具体的にどの段階を指すのでしょうか」
「黙っていろ、ザノバ」
「ですが今後の人形研究へ影響する場合、予定を調整する必要が――」
「ない!」
ジュリがクリフ先輩を見上げた。
「クリフさま、うれしそう」
クリフ先輩が固まる。
「そ、そう見えるか?」
「うん」
エリナリーゼがその横で柔らかく笑った。
「わたくしも嬉しいですわ」
一瞬でクリフ先輩の顔が真っ赤になった。
本当に分かりやすい。
「それから、研究はこれまでどおり続ける」
どうにか気を取り直したクリフ先輩が言う。
「恋人になったからといって、治療を適当にするつもりはない」
「はい」
レイネが頷く。
「ただし、治療方針は今後もエリナリーゼご本人の意思を最優先といたします」
「当然だ」
「また、身体へ直接作用する新しい術式をお一人で試そうとなさらないでください」
クリフ先輩の顔が僅かに引きつる。
「……試していない」
「昨日、術式を起動なさろうとしました」
「起動はしていない!」
「私が止めたためでございます」
「だから実験はしていないだろう!」
まだまだ安心はできなさそうだ。
けれど、これくらいの方が二人らしい気もする。
◇
そこから数か月が過ぎた。
俺たちがラノア魔法大学へ入ってからも、それなりの時間が流れている。
日々は一つの出来事だけで埋まっているわけではなかった。
俺は授業へ出ながら、ザノバやジュリの人形研究を手伝い、フィットア領転移事件と《転移の迷宮》について調査を続けた。
申請している召喚魔術研究者との面会も待っている。
シルフィはフィッツとしてアリエル王女の護衛を続け、生徒会の仕事にも関わる。
レイネは自分の研究を進めながら、ときどきクリフ先輩とエリナリーゼの研究へ加わっていた。
呪いの方に劇的な変化はない。
《魔力移譲》による一時的な症状軽減はできる。
ただしレイネ自身の魔力は自然回復が極端に遅いため、気軽に何度でも受け取れるわけでもない。
抜いた特殊魔力がレイネの中で何か悪影響を起こさないことも、少量ずつ確認する必要があった。
幸い、今のところ異常は出ていない。
それでも、あくまで補助だ。
クリフ先輩は最終的に、身体へ直接何かをし続ける方法より、呪いそのものの働きを抑える魔道具を作る方向へ研究を進め始めていた。
まだ理論段階。
試作品すらまともにはできていない。
けれど、クリフ先輩は諦めていない。
エリナリーゼとの関係も続いている。
研究室では言い争い、終われば一緒に町へ出掛け、次の日にはまた二人で食堂へいる。
そんな光景が大学の中で珍しくなくなった頃、短い秋がやってきた。
シャリーアの町では、長い冬へ備える準備が一斉に始まった。
市場には穀物や根菜が積まれ、道を行く荷車には薪や保存食が山のように載せられている。
しかし、魔法大学で最も目につく変化は別のものだった。
獣族の学生たちである。
普段より耳や尾の動きが落ち着かず、校舎の外へ出れば獣族同士が向かい合って決闘している姿まで目に入る。
最初は秋恒例の武術大会でも始まったのかと思ったが、朝食の時にシルフィから事情を聞いた。
「求婚の決闘だよ」
家の中なので、シルフィは濃色の眼鏡を外している。
「この時期、獣族は発情期に入るんだって。それで、好きな相手へ決闘を申し込むことがあるの」
「決闘して結婚するんですか?」
「決闘しただけで決まるわけじゃないよ。でも結婚することになった場合、勝った側が家族という群れのボスになる、っていう考え方があるみたい」
「負けた方が全部言うことを聞くとか?」
「そこまで単純じゃないと思う。家の中でどちらが中心になるか、みたいなものじゃないかな」
隣で食事をしていたレイネが尋ねる。
「断ることは可能なのでしょうか」
「もちろん」
シルフィの表情が少し険しくなった。
「ただ、この時期は普段より感情を抑えにくくなる人もいるんだって。断られても無理に決闘を始める人がいるから、大学も守衛と生徒会の巡回を増やしてるよ」
合意した者同士の決闘までは文化として認める。
しかし拒否した相手への襲撃は認めない。
当然だと思う。
「ルディも気をつけてね」
「僕も?」
「強い人を求めてる女の子から、決闘を申し込まれることもあるから」
「それが求婚かどうか、先に分かるんですか?」
「分からないこともあるみたい。だから、よく知らない獣族からこの時期に決闘を申し込まれたら、簡単に受けない方がいいよ」
「それはそうですね」
今の俺にはシルフィとレイネがいる。
さらに、遠く離れたエリスとの約束も残っている。
意味を知らなかったからという理由で、別の誰かと婚姻を前提にした決闘へ合意するわけにはいかない。
「断ったら、その場を離れてね」
シルフィが念を押す。
「ルディは、どうして決闘したいのかくらいは聞こうって、その場に残りそうだから」
「そこまで分かりますか」
「分かるよ」
反論できなかった。
俺自身にも、そうする姿が想像できる。
「分かりました。断った後は離れます」
「うん」
シルフィが今度はレイネを見る。
「レイネも気をつけてね」
「承知しております」
「強い女の人へ求婚する男の人もいるから」
その話を聞いた瞬間、胸が僅かにざわついた。
レイネへ求婚する男。
当然、存在する可能性はある。
俺が妻だからという理由だけで、ほかの人間が好意を持つことまで止められるわけではない。
それでも、嫌なものは嫌だった。
「ルーデウス様」
レイネが俺を見る。
「はい」
「私は、求婚を目的とした決闘をお受けする予定はございません」
顔に出ていたらしい。
「少し安心しました」
俺はそのまま答えた。
レイネが僅かに目元を和らげる。
「そのようにお伝えできて、よかったと存じます」
俺が安心したからといって、レイネの自由まで俺のものになるわけではない。
その区別さえ忘れなければ、嫉妬すること自体まで隠す必要はないのだと思う。
◇
その日から、リニアとプルセナが講義へ姿を見せなくなった。
一日目は、単なる欠席かと思った。
二日目も来ない。
三日目も来ない。
教師も特に騒いでいないところを見ると、大学側は事情を知っているらしい。
四日目の朝、俺宛てに一通の手紙が届いた。
送り主はリニアとプルセナ。
内容は短かった。
秋が終わるまで女子寮から出ない。
ボスには迷惑を掛けるが、後のことは任せる。
だいたい、そんな内容だ。
プルセナ本人が書いた部分には、いつもの調子で「頼んだの」と添えられていた。
「後のこと、とは?」
俺が首を傾げると、レイネも横から紙を見る。
「記載されておりません」
「講義の資料でも届けてほしいのでしょうか」
「それでしたら、必要な講義名を書かれるのではないでしょうか」
確かに。
「二人はドルディア族の姫君ですよね」
「はい」
発情期には、二人へ求婚するため遠方から獣族の戦士まで集まってくるらしい。
二人のどちらかと結ばれれば、その男が次期族長候補として有力になることもあるという。
本人たちに結婚する気がないなら、女子寮へ籠城するのも一つの方法なのだろう。
しかし、どうして後のことを俺へ任せるのか。
俺は二人の保護者ではない。
ボスと呼ばれているだけで、群れを率いると認めた覚えもない。
「エリナリーゼさんかシルフィに、女子寮で事情を聞いてもらった方がいいでしょうか」
「急ぎでなければ、次にお会いした際でもよろしいかと」
「そうですね」
その時は、まだその程度に考えていた。
答えは同じ日の午後に出た。
俺は一人で図書館へ向かっていた。
レイネはクリフ先輩たちの研究へ参加しており、シルフィはアリエル王女の護衛と生徒会の巡回へ出ている。
渡り廊下へ入ったところで、大柄な獣族の男が真正面から道を塞いだ。
犬系らしい尖った耳と太い尾。
全身を灰色の毛が覆っている。
大学の制服は着ていない。
男は俺を見つけると、胸の前で拳を合わせた。
「貴殿が、A級冒険者《泥沼》、ルーデウス・グレイラットとお見受けする!」
「はい」
「我が名はブルク・アドルディア!」
男は大きく胸を張った。
「プルセナ様へ求婚し、いずれアドルディアの長とならんとする者なり!」
やはり、そういう人か。
「プルセナ先輩なら、今は女子寮にいます。本人へ手紙を送ってください」
「既に送った!」
「返事は?」
「受け取った!」
男の太い指が俺へ向いた。
「プルセナ様は、現在貴殿を群れのボスとして仰いでおられるという!」
嫌な予感がした。
「プルセナ先輩が、僕を倒せと?」
「そのような言葉はない!」
直接差し向けられたわけではないらしい。
それなら帰ってもらえるだろうか。
「僕にはプルセナ先輩の結婚相手を決める権利はありません。僕に勝っても、彼女と結婚できるわけではないですよ」
「無論!」
ブルクは力強く頷いた。
話が通じている。
そう思ったのも一瞬だった。
「されど、群れの長より弱い者が、その配下へ求婚することなどできぬ!」
なるほど。
彼の中では、リニアとプルセナは俺の群れにいるらしい。
まず俺を倒し、自分がより強いと示す。
それから改めてプルセナ本人へ求婚する。
そういう順序か。
「僕は群れの長になったつもりはないんですが」
「決闘に勝利したのであろう!」
「はい」
「ならば長だ!」
「その理屈には同意していません」
「同意は関係ない!」
俺は小さく息を吐いた。
文化を完全に理解するまで話し続ける必要はない。
相手の事情は聞いた。
俺の意思も伝えた。
今朝シルフィへ約束したばかりでもある。
「申し訳ありませんが、決闘はお断りします」
そのまま横を通り抜けようとする。
「待て!」
叫ばれた。
それでも止まらない。
「貴殿に拒否権はない!」
「あります」
足音が一気に近づいた。
振り返る。
ブルクが低く身構え、そのまま突進してくるところだった。
大柄な身体に似合わず速い。
ただし、あまりに直線的だった。
俺は足元の石床を泥へ変える。
両脚を取られ、勢いを失ったブルクの身体が前へ傾いた。
そこへ威力をかなり抑えた岩砲弾を撃ち込む。
胸へ命中。
巨体が後方へ飛び、そのまま床の上を何度か転がった。
動かなくなる。
すぐ近づき、呼吸を確認した。
大丈夫。
生きている。
骨も折れてはいないようだ。
単に気を失っている。
戦闘が始まってから、ほんの数秒だった。
「……これで終わりならいいんですが」
終わらなかった。
ブルクを倒して図書館へ向かう途中、さらに五人に止められた。
猫系。
犬系。
熊に似た大柄な男。
大学の学生もいれば、明らかに外から来た戦士もいる。
目的はリニアだったりプルセナだったりと違うが、俺を越えなければ二人へ求婚できないという点だけは全員同じだった。
俺は全員へ一度断った。
それで引いた相手はいない。
襲い掛かってくる以上、倒すしかなかった。
ただし、相手によって強さがまるで違う。
ブルクへ使った威力がそのまま通用する者もいれば、もっと闘気が強い者もいる。逆に弱い相手へ同じものを当てれば、必要以上の怪我を負わせる危険もある。
魔力そのものには余裕がある。
むしろ、一人一人を殺さず、大怪我もさせず、相手の強さに合わせて威力を調節する方が疲れた。
しかも途中から、求婚者たちの間で順番までできていた。
「次は俺だ!」
「割り込むな! こちらが先に待っていた!」
俺への決闘は強制しようとするのに、自分たちの順番だけは律儀に守っている。
妙なところで真面目だった。
図書館の前へ着いた時には、十人以上が待っていた。
「申し訳ありませんが、調べ物がありますので」
全員を無視して建物へ入る。
不思議なことに追っては来なかった。
少なくとも図書館内で決闘を始めるのは、彼らの中でも駄目らしい。
ようやく静かになった。
俺は席へ座り、転移魔法陣についての資料を開いた。
一行読む。
外から声がする。
二行目を読む。
また誰かが俺の名前を呼ぶ。
頁をめくると、今度は順番で揉めている。
集中できない。
それでも、ここで苛立ちに任せて資料を雑に扱うわけにはいかなかった。
俺が調べているのは母様へつながる可能性のある情報だ。
書き写しを間違えれば、後から父様たちへ送る資料にも誤りが入る。
一度手を止めて呼吸を整え、もう一度最初から文章を追った。
夕方になる頃には、窓の外へ集まっている獣族が三十人近くまで増えていた。
◇
「ルーデウス君」
声を掛けられ、顔を上げる。
フィッツとしての服装をしたシルフィが机の前に立っていた。
濃色の眼鏡越しでも、少し呆れているのが分かる。
「外が大変なことになっていますけど、何をしたんですか?」
人前なので、こちらもフィッツ先輩へ話す時の態度を崩さない。
「僕は何もしていません」
「何もしていない人のために、三十人近く並ばないと思います」
もっともだ。
俺は朝届いた手紙から、ブルクとの会話、それから図書館へ来るまでの出来事まで簡単に説明した。
シルフィの眉が寄っていく。
「それは、おかしいです」
「やっぱりそう思います?」
「ルーデウス君はドルディア族の族長じゃありません。一度リニアとプルセナに勝ったからって、二人の結婚相手を決める権利が生まれるわけでもありません」
「同じことを説明したんですが」
「発情期の獣族には、理屈で止まらない人もいるから……」
シルフィが窓の外を見る。
「本当なら、全部断っていいです」
「でも、帰ってくれないんですよね」
「うん」
困ったものだ。
「生徒会で追い出すことは?」
「外から来た人たちは、見学の名目で正式に大学へ入ってるの。それに、合意のある決闘自体は規則で禁止されてないから」
「僕は合意してないです」
「だから本当は戦う必要はないよ」
シルフィは少し考える。
「でも、一度負ければ諦める人がほとんどだと思う」
「全員倒せと?」
「……結果的には」
簡単に言ってくれる。
まあ、シルフィも俺へ無理やり戦わせたいわけではないのだろう。
ほかの方法が見つからないだけだ。
「一人だけ、女の人もいたよ」
「女性もリニアかプルセナへの求婚者ですか?」
「分からない」
シルフィは首を横へ振った。
「獣族じゃなかったし、ほかの人たちみたいに列へ並んでる感じでもなかった。剣を持った女の子だったよ」
「剣士?」
「うん。ずっと周りを見てた」
求婚者とは違うらしい。
なら、今は気にする必要はないだろう。
「どうしますか?」
シルフィに尋ねられる。
窓の外を見る。
三十人。
ずっとここへ籠もっているわけにもいかない。
「一度だけ外へ出ます」
「全部受けるの?」
「いえ。もう一度断ります。それでも襲ってくる人だけ倒します」
「大丈夫?」
「できる限り怪我をさせないようにします」
「そっちじゃなくて、ルーデウス君が」
一瞬、答えに詰まった。
「危ないと思ったら逃げます」
「本当に?」
「はい」
「なら僕も行きます」
「フィッツ先輩としてですか?」
「生徒会の巡回中だからね。規則を破る人がいたら止めるよ」
それなら断る理由はなかった。
二人で図書館を出る。
外へ一歩出た瞬間、何十もの視線がこちらへ向いた。
獣族の戦士たちが一斉に立ち上がる。
俺はまず両手を上げた。
「先に言っておきます。僕はリニア先輩とプルセナ先輩の結婚相手を決める立場ではありません。決闘を受けるつもりもありません」
ざわめき。
予想どおり、納得して帰ろうとする者はいない。
「ならば力で示してもらう!」
「群れの長が逃げるな!」
勝手だ。
一人目が出てくる。
俺はもう一度断る。
それでも構えた。
仕方ない。
数分後。
最初の一人が倒れた。
次。
その次。
一度に全員と戦うわけではない。
彼ら自身が一対一の順番を守るため、俺にとってはむしろ助かった。
相手が強ければ泥沼で足を止め、魔術を防いでから倒す。
弱ければ、威力をさらに落とす。
途中、一人だけかなり強い闘気を纏う男がいたが、それでも俺を追い詰めるほどではなかった。
時間は掛かった。
神経も使った。
それでも一人ずつ倒していく。
最後の数人になる頃には、俺自身より待っている獣族の方が疲れた顔をしていた。
そして。
あと一人。
そう思ったところで、突然、校門の方から低い笑い声が響いた。
「ふはははははははは!」
大声だった。
戦っているわけでもないのに、空気そのものが震えたように感じた。
獣族たちが一斉に振り返る。
校庭の入口に、巨大な男が立っていた。
黒い肌。
異常なまでに鍛え上げられた巨体。
そして腕が六本。
俺より遥かに大きい。
獣族ではない。
人族でもない。
男は集まっていた戦士たちを見ると、さらに大きく笑った。
「ルーデウス・グレイラットへ挑む者どもであるか!」
誰かが答える。
「そうだ!」
「ならばまず我輩を倒してみよ!」
どうしてそうなる。
一人の獣族が怒鳴りながら殴りかかった。
巨大な男は避けなかった。
拳が腹へ当たる。
効いていない。
次の瞬間、六本ある腕の一本が動き、獣族の男が吹き飛んだ。
そこからは、ほとんど一方的だった。
一人。
二人。
五人。
十人。
何人で掛かっても関係がない。
巨体は攻撃を受けても止まらず、拳を一度振るえば獣族の戦士が宙を舞う。
さっきまで俺へ挑戦するため順番を守っていた者たちが、途中から全員で一斉に襲い掛かり始めた。
それでも結果は変わらなかった。
あっという間だった。
三十人近くいた戦士たちが、次々と地面へ転がっていく。
俺は杖を握り直した。
シルフィも隣で息を呑んでいる。
そして少し離れたところには、さっきシルフィが話していたらしい女剣士もいた。
濃い青色の髪を後ろでまとめた少女。
獣族ではない。
彼女もいつの間にか剣を抜いていた。
何かを確かめるように巨大な男を睨み、地面を蹴る。
速い。
少なくとも、さっきまでの求婚者たちとは明らかに違う。
鋭い一撃が巨漢へ届く。
けれど。
「ぬうん!」
巨漢の腕が振られた。
少女はまともに受けることすらできず、地面を何度も転がった。
剣が手から離れる。
意識を失ったのか、起き上がってこない。
名前は知らない。
ただ、かなり腕の立つ剣士なのは分かった。
その少女まで倒したところで、巨大な男はようやくこちらを見た。
口元が大きく吊り上がる。
「ふはははは!」
六本の腕を広げた。
「約束どおり全員倒したぞ!」
約束した覚えはない。
俺が訂正するより早く、男が胸を張った。
「我が名はバーディガーディ!」
聞き覚えのある名前だった。
「不死魔王、バーディガーディである!」
魔王。
隣のシルフィが僅かに身体を強張らせた。
俺も杖を握る手へ力を込める。
魔王だからというだけで敵と決めるつもりはない。
キシリカだって魔界大帝を名乗っていた。
ただし、目の前の男が三十人近い戦士を一人で叩き伏せた事実は変わらない。
「バーディガーディ……」
「その予見眼!」
男が俺の右目を指した。
「貴様こそ、ルーデウス・グレイラットであるな!」
「はい」
なぜ魔眼を知っている。
その疑問へ答えるように、バーディガーディがさらに笑う。
「我がフィアンセ、魔界大帝キシリカより、貴様の話は聞いておる!」
「キシリカ様から?」
「うむ!」
なるほど。
それなら予見眼を知っていることにも説明がつく。
「キシリカ様は、僕を何と?」
「随分と褒めておったぞ!」
「褒めていたんですか?」
「人族にしては異様な魔力量を持ち、魔眼を授ければすぐ使いこなし、なかなか愉快な小僧であったとな!」
少し話が盛られている気もする。
魔眼をもらった直後の俺は、未来が見えすぎてまともに歩くこともできなかった。
キシリカの中では、あれも「すぐ使いこなした」に入るのだろうか。
「それで、僕を見に?」
「左様!」
バーディガーディの笑みが一段と深くなる。
「キシリカがあれほど楽しそうに語る人族が、どれほどのものなのか! 我輩自身の目で確かめてみたくなった!」
ただ見に来ただけなら助かる。
そう思ったが、目の前の男はつい先ほど三十人を殴り倒したばかりだ。
嫌な予感しかしない。
「見るだけ、ですか?」
「無論!」
大声で答えた直後。
「戦ってな!」
やっぱり。
「僕は決闘を受けるとは――」
「ふははは! まあ待て!」
バーディガーディが手を上げる。
「無理に襲い掛かるつもりはない!」
意外だった。
少なくとも、さっきの求婚者たちよりは話が通じる。
「我輩は、ただ貴様と力比べをしたい!」
「断った場合は?」
「その時は仕方あるまい!」
本当に話が通じる。
だからこそ、少し困る。
こちらへ強制してこない相手へ、戦う必要はない。
けれど。
不死魔王。
キシリカの婚約者。
そしてこれだけの人数を一人で倒す実力者。
単純に、どれほど強いのかという興味はある。
もちろん、興味だけで命を懸けるつもりはない。
俺が返事を考えていると、後方から足音が近づいてきた。
「ルーデウス様」
レイネだった。
振り返る。
クリフ先輩とエリナリーゼも一緒にいる。
騒ぎを聞いて研究室から来たのだろう。
レイネは俺の前へは出なかった。
俺のすぐ後ろで立ち止まり、右手もまだ剣には掛けていない。
ただ、バーディガーディから視線を外してはいなかった。
今すぐ割り込むつもりはないらしい。
少なくとも、俺にはそう見えた。
バーディガーディの視線が俺から外れる。
シルフィ。
クリフ先輩。
エリナリーゼ。
そして最後に、レイネで止まった。
一瞬。
本当に一瞬だけ、巨大な笑みが僅かに薄くなったように見えた。
金色の瞳が細くなる。
レイネの白い髪。
赤い瞳。
細い身体。
腰へ下げた剣。
上から下まで、値踏みするように視線が動く。
レイネは何も言わない。
いつもと変わらない姿勢で立っている。
バーディガーディも、しばらく何も言わなかった。
やがて。
笑みが戻った。
それどころか、さっきより少し楽しそうに見える。
「ほう」
低い声が漏れた。
「何ですか?」
俺が尋ねる。
「いや!」
バーディガーディは豪快に笑った。
「面白い学校であると思っただけよ!」
何を感じたのかは分からない。
レイネの強さへ気づいたのかもしれないし、単に珍しい白髪と赤眼へ興味を持っただけかもしれない。
俺から決めつけることはできない。
バーディガーディは改めて俺を見る。
六本の腕を広げ、地面が震えそうなほどの大声で宣言した。
「さあ、ルーデウス・グレイラット!」
その顔には、敵意よりも純粋な期待が浮かんでいた。
「不死魔王バーディガーディと、一戦交えようではないか!」
俺は目の前の魔王を見上げながら、杖を握り直した。