ルーデウス視点
バーディガーディとの決闘から、五日が経った。
不死魔王が大学の演習場で上半身を吹き飛ばされ、その直後に自分を倒した相手を三発殴って気絶させたという話は、五日程度で消えてくれるようなものではなかったらしい。
廊下を歩けば遠巻きに視線を向けられ、食堂へ入れば、それまで続いていた会話が一瞬だけ小さくなる。背後から「魔王を一撃で倒した」と聞こえたかと思えば、少しして「でも最後は殴られて気絶したらしい」と続くこともある。
どちらも事実なので、わざわざ訂正する気にはなれなかった。
結局、バーディガーディは魔法大学の特別生として正式に受け入れられた。
何か特定の学問を修めたいわけではないらしく、本人に理由を聞けば、
「ルーデウスと同じ場所へ通うのは面白そうである!」
と豪快に笑うだけだった。
大学側としても、不死魔王へ強引に退去を求めるより、正式な立場を与えて行動を把握できる場所へ置く方がいいと判断したのだろう。
俺としては、これ以上突然誰かを殴ったり、決闘を始めたりせず、大人しくしていてくれればそれでいい。
何より、次にあの男と何かを約束する時には、拳の数まで確認すると決めている。
そんな騒動の余韻がまだ大学全体に残っていた朝、俺たちはいつものように三人で食卓を囲んでいた。
シルフィは午後からアリエル様の護衛へ入る予定なので、今朝は少し時間に余裕がある。
レイネは焼いたパンを切り分けながら、昨日商会から届いた返事について説明していた。
「ラパンへ向かう三つの経路のうち、南方街道を利用する商隊は、予定より早く出発したとのことでございます」
「手紙も一緒に?」
「はい。資金を受け取るための証書と、《転移の迷宮探索記》から抜き出した資料の写しを預けております」
「残りの二つは?」
「冒険者ギルド経由のものは次の定期便を待っております。アリエル様よりご紹介いただいた商人へ預ける分は、本日シルフィがお渡しになる予定でございます」
話を振られたシルフィが頷いた。
「預かってくれる人とは昨日もう一度話したよ。途中の町まではアリエル様の使者と一緒に行くから、ほかの二つより早く南へ進めると思う」
「ありがとうございます」
「もう何度も言ってるでしょう?」
シルフィが少し笑う。
「僕たち三人で相談して決めたことなんだから、ルディだけがお礼を言い続けなくていいよ」
「……はい」
頭では分かっている。
それでも、母様を助けるために二人が自分の時間や人脈を使って動いてくれていることを、当然のように受け取ってしまいたくはなかった。
三つの経路すべてが無事にラパンまで届く保証はない。
街道が封鎖されるかもしれないし、港へ着いても船が出ない可能性もある。魔物や盗賊の被害に遭い、荷物そのものが失われることだって考えられる。
だからこそ、一つへ全部をまとめなかった。
どこか一つが途切れても、残りが届く可能性を残す。
今の俺たちにできるのはそこまでだ。
パンへ手を伸ばしたところで、玄関の扉が叩かれた。
朝食の時間に訪ねてくる者は珍しい。
レイネが立ち上がろうとしたので、俺が先に椅子を引いた。
「僕が出ます」
玄関へ向かい、扉を開ける。
外に立っていたのは大学の事務職員だった。
見覚えがある。
保存書庫の閲覧申請を出した時にも対応してくれた男性だ。
「おはようございます。ルーデウス・グレイラット様でいらっしゃいますね」
「はい」
「先日申請されました、召喚魔術研究者との面会について、回答をお持ちいたしました」
その言葉を聞いた瞬間、意識が完全にそちらへ向いた。
フィットア領転移事件について調べる中で、俺とレイネは転移と召喚の関係についても資料を集めている。
ところが関連する専門書のかなりの数が、名前を公開していない一人の特別生によって長期間借り出されていた。
調べてみれば、その人物は召喚魔術を研究しているという。
そこで、俺とレイネの連名で正式に面会を申請していた。
「許可が下りたのですか?」
「はい。ただし、面会を認められたのは申請者として記載されたお二人のみです」
職員が封筒を差し出した。
受け取り、表面を確認する。
俺とレイネの名前が並んでいる。
「面会は本日の午後。研究棟第三棟、最上階の個人研究室です。正午を少し過ぎた頃、第三棟入口で案内役がお待ちしております」
「今日ですか?」
「先方からの指定でございます」
随分と急だ。
「分かりました。ありがとうございます」
職員は一礼して大学へ戻っていった。
扉を閉め、食卓へ戻る。
シルフィとレイネがこちらを見た。
「例の研究者からでございますか?」
レイネが尋ねる。
「はい。今日の午後に会えるそうです」
封を切って書類を広げた。
日時、場所、同席を許可された俺とレイネの名前。
そして、面会相手。
サイレント・セブンスター。
「サイレント・セブンスター……」
シルフィが名前を読む。
「ルディ、聞いたことは?」
「名前だけなら」
俺は答えた。
ここ数日調べるうちに、その人物について断片的な話は耳にしていた。
召喚魔術を研究している特別生。
魔術ギルドでもかなり高い地位を持ち、大学へさまざまな新しいものを持ち込んだ人物。
黒板のような、俺には妙に見覚えのある発想まで彼女が関わっているらしい。
ほかにも、こちらの世界ではあまり見ない仕組みや料理についての話を聞いた。
一つだけなら偶然だと思っただろう。
二つ、三つと重なると、どうしても考えてしまう。
俺以外にも、同じ世界から来た人間がいるのではないか、と。
ただし、まだ何の証拠もない。
「本名ではなさそうですね」
「そうだね」
シルフィが答える。
レイネは面会許可書を確認した。
「申請理由には、フィットア領転移事件に関する転移および召喚現象の調査と記載しております」
「《転移の迷宮》のことは?」
「記載しておりません」
「そのまま分けておきましょう」
母様がいる可能性の高い《転移の迷宮》と、フィットア領転移事件。
両方に転移という言葉が関わっているとはいえ、同じ仕組みで起きている証拠はない。
今日会う相手が召喚や転移について詳しかったとしても、母様のいる迷宮についてまで知っているとは限らない。
必要のない家族の事情まで最初から全て出せば、話が散らかるだけだ。
「持っていくのはフィットア領転移事件の資料だけにします」
「承知いたしました」
シルフィが同席者の欄を見る。
「僕は行けないね」
「申請したのが僕とレイネだけですから」
「うん。それは仕方ないけど……」
少しだけ心配そうな顔をしている。
「相手がどんな人か分からないから、無理に合わせないでね」
「無理に?」
「ルディ、必要な情報が手に入ると思ったら、少しくらい変な条件を出されても飲もうとするでしょう?」
反論しようとして、やめた。
完全には否定できない。
「先に条件を確認します」
俺は答えた。
「危険な実験を求められても、その場では決めません。何か重要なことを決める時は、レイネとも相談します」
「うん」
ようやくシルフィの表情が少し和らぐ。
レイネも許可書を畳み、俺へ返した。
「まだ午前の講義へ出る時間はございます。講義の後、持参する資料をもう一度確認してから向かいましょう」
「はい」
朝食を再開する。
けれど、先ほどまでと同じようには食べられなかった。
サイレント・セブンスター。
大学の召喚魔術研究者。
俺の知っている世界を思わせるものを、いくつも大学へ持ち込んだ人物。
もし本当に。
そう考えるだけで胸が落ち着かない。
それでも期待だけを大きくしないようにする。
今日会った結果、単なる偶然だったと分かる可能性もある。
そして、その人物が俺と同じ世界から来た人間だったとしても、それだけで母様の救出方法が分かるわけでもない。
一つずつ確認すればいい。
◇
午後。
俺とレイネは研究棟第三棟の入口へ向かった。
手には、これまで整理してきたフィットア領転移事件の資料を持っている。
確認された転移先。
転移者同士の関係。
事件発生時に接触していた者が同じ場所へ飛ばされたと思われる例。
建物や物品ごと転移した事例。
転移後に発見された魔力の痕跡。
原因へ直接届くようなものはない。
それでも、分かっていることと分かっていないことを混ぜないよう、できる限り整理してきた。
《転移の迷宮》の資料は家へ置いてきた。
父様たちの現在地や、母様が迷宮の奥にいる可能性についても、必要になるまでは伏せる。
第三棟入口では、若い男性職員が待っていた。
面会許可書と俺たちの顔を確認すると、余計な質問をすることなく建物の中へ案内する。
第一棟や第二棟より、明らかに人が少ない。
扉には研究内容ではなく番号だけが記され、上階へ進むにつれて窓まで減っていく。
壁には何かを遮断するためらしい術式も刻まれていた。
音か。
魔力か。
実験に失敗した際の被害を抑えるためか。
俺には判断できない。
最上階の奥まで進む。
扉には、七つの星を並べたような小さな印が刻まれていた。
「こちらです」
職員が三度扉を叩く。
少し間があった。
「入って」
中から女の声がした。
胸の奥に僅かな引っ掛かりを覚える。
どこかで聞いた。
そんな気がした。
職員が扉を開く。
「申請者のお二人をお連れしました」
「ありがとう。下がっていいわ」
「承知いたしました」
職員が横へ退く。
俺とレイネは研究室へ入った。
最初に目へ飛び込んできたのは、床へ描かれた巨大な魔法陣だった。
普通の召喚魔法陣とは明らかに違う。
複数の円が幾重にも重なり、幾何学的な線が内部を複雑に走っている。所々には魔石を設置するための台座があり、壁際には途中まで描かれた魔法陣の紙が何十枚も貼られていた。
机の上には魔術書や魔力付与品、透明な容器、植物の種、金属片などが几帳面に並んでいる。
そして。
部屋の奥に、一人の女が立っていた。
白い仮面。
その瞬間、身体が動かなくなった。
指から資料が滑り落ちる。
白い仮面の向こうにあるはずの研究室ではなく、雪の残る山道が見えた。
龍神オルステッド。
地面へ倒れたエリス。
ルイジェルド。
何も通じなかった魔術。
そして、自分の胸へ入ってくる腕。
息が止まる。
今は何もされていない。
分かっている。
それでも身体が理解してくれない。
胸の奥が痛い。
傷などないのに、心臓をもう一度握り潰されたように力が抜けた。
「ルーデウス様」
隣からレイネの声がした。
腕へ触れられる。
強く掴まれたわけではない。
倒れないよう、肘の少し上へ手を添えられただけだ。
「呼吸を」
小さく言われる。
息を吸う。
途中で詰まった。
もう一度。
今度は肺へ空気が入った。
視界が少しずつ研究室へ戻ってくる。
床の魔法陣。
壁の紙。
白い仮面。
そして、すぐ隣にいるレイネ。
あの日とは違う。
ここにはオルステッドがいない。
レイネが白い仮面の女へ顔を向けた。
「オルステッド様は、こちらにいらっしゃいますか」
普段より声が硬い。
「いないわ」
「この建物にも?」
「いない。今日は私一人」
女は短く答えた。
その声で、記憶がつながった。
間違いない。
あの山道で、オルステッドの隣にいた女だ。
「あなたたちだったのね」
白い仮面がこちらを向く。
「申請書で名前を見た時、似ていると思ったけど」
そして俺を見る。
「龍神に殺されかけた少年と、その後に龍神へ向かっていった白髪の女」
殺されかけた。
胸の奥で、その言葉へ違和感が生まれる。
俺は一度死んだ。
少なくとも、俺はそう認識している。
心臓を潰され、意識が完全に途切れた。
そこからレイネに戻してもらった。
ただ、そのことを今ここで説明する必要はない。
「あなたは……」
喉が乾いている。
「オルステッドさんと、一緒にいた人ですね」
「ええ」
否定しない。
「サイレント・セブンスター。大学ではそう名乗っている」
目の前の人物。
俺たちが会おうとしていた召喚魔術研究者。
そして、オルステッドと共にいた白い仮面の女。
「面会を取りやめますか」
レイネが俺へ尋ねた。
無理をする必要はない。
今ならまだ帰れる。
朝、シルフィともそう約束した。
胸はまだ少し苦しい。
けれど、目の前にオルステッドはいない。
サイレント自身も敵意を見せていない。
俺たちを襲うためだけなら、大学職員を通して正式な面会など設定する必要もないはずだ。
それに、この人物が俺の疑っている通りなら。
聞きたい。
「続けます」
俺は答えた。
「ただ、扉を完全には閉めないでもらえますか」
サイレントは少し首を傾げた。
「構わないわ」
扉が僅かに開けられる。
廊下まで直接出られる。
それだけでも、閉じ込められた感覚がかなり薄れた。
レイネが落ちた資料を拾い、順番を崩さず机の端へ置く。
俺たちは用意された椅子へ座った。
レイネは右隣。
サイレントは机を挟んだ向かい側だ。
「申請書は読んだわ」
サイレントが言う。
「フィットア領転移事件と、召喚魔術の関係を調べているそうね」
「はい」
「あなた自身も、あの事件で転移した」
「僕とエリスは魔大陸へ飛ばされました」
「彼女は?」
視線がレイネへ向く。
俺が答えるより先に、本人が口を開いた。
「私はミリス大陸へ転移いたしました」
「ミリス大陸?」
「はい。転移後はミリシオンを拠点とし、フィットア領から転移された方々の救助と移送へ携わっておりました。その後、ルーデウス様と合流するため北上し、ザントポートから海を渡っております」
「再会した場所は?」
「ウェンポートです」
今度は俺が答えた。
俺とエリス、ルイジェルドは魔大陸を北から南へ横断してウェンポートへ到着した。
レイネはミリス大陸側から一年近く掛けて北上し、ザントポートから海を渡った。
同じ転移先へ飛ばされたわけではない。
別々の大陸へ飛ばされ、それぞれまったく違う経路を進んだ末に港町で再会している。
「それだけ離れていたのに、どうやって居場所を?」
「ルーデウス様へお渡ししていたお守りがございました」
レイネが説明する。
「お守り?」
「正確な位置を示すものではございません。ルーデウス様が生きておられることと、深刻な異常が生じていないこと、それから大まかな方角だけを確認できるものでございます」
「距離は?」
「分かりません」
「場所も?」
「はい。ルーデウス様が少しずつ南へ移動していることだけを頼りに、私は北へ向かいました」
サイレントはレイネをしばらく見ていた。
そして、俺たちが持参した資料へ目を落とす。
「転移した瞬間、あなたとエリスは接触していた?」
「正確には覚えていません。ただ、目を覚ました時にはエリスを抱えた状態で、魔大陸の上空から落下していました」
「なら、接触していた人間同士が同じ場所へ飛ばされる可能性はある」
「可能性はあります」
俺は頷いた。
「父様とノルンも一緒でした。ただ、それだけでは説明できない例も多いです。同じ場所にいた人たちが、まったく別の地域へ飛ばされた事例もあります」
「そうね」
サイレントが資料の数頁をめくる。
「少なくとも、あなたたち三人を一つの例として扱うのは違う。ルーデウスとエリスを一組として、レイネは別の一例にした方がいい」
「その方が正確かと存じます」
レイネが答えた。
そこからしばらく、転移事件の資料について質問が続いた。
分からないことを尋ねられた場合には、分からないと答える。
サイレントも、そこへ無理に推測を入れようとはしなかった。
確認できた事実と仮説を分けている。
研究者としては、かなり信頼できそうだった。
一通り目を通したところで、サイレントが資料を机へ戻した。
「本題へ入る前に確認したいことがある」
「僕に?」
「そう」
彼女は一度レイネを見る。
「あなたは、そのままでいいわ」
「私も同席してよろしいのでございますか?」
「構わない」
俺だけへ確認したいのに、レイネを退室させる必要はないらしい。
サイレントが白い仮面へ手を掛ける。
ゆっくり外した。
現れたのは、若い女の顔だった。
黒い瞳。
黒に近い髪。
こちらの世界ではあまり見掛けない顔立ち。
見た瞬間。
今度は山道とは別の記憶が浮かんだ。
雨。
道路。
迫ってくる大型車。
そして、道路上にいた学生たち。
顔をはっきり覚えていたわけではない。
それでも目の前の少女の顔を見たことで、遠くなっていた記憶の一部が不意につながった。
どこかで見たことがある。
それも、前世の最後に。
サイレントは俺の反応を確認すると、机から紙を一枚取り出した。
筆記具を手にする。
こちらの世界で使われている文字ではない。
見慣れているはずなのに、何年も目にしていなかった文字。
紙へ二つの名前が書かれた。
篠原秋人。
黒木誠司。
心臓が大きく鳴った。
日本語。
間違いない。
「読める?」
彼女が日本語で尋ねた。
声に出して日本語を聞いた瞬間、ひどく奇妙な感覚がした。
懐かしい。
しかし、それだけではない。
この身体で日本語を使った記憶がほとんどないせいか、自分の中に長くしまい込んでいた何かを突然開かれたようだった。
隣のレイネは何も言わない。
表情にも出さない。
だから俺は、この言葉の意味は彼女には伝わっていないのだと思った。
「……読めます」
俺も日本語で答えた。
サイレントの表情が変わる。
「どっち?」
「どちらでもありません」
「この二人を知ってる?」
「名前は知りません」
「じゃあ、あなたは?」
「今はルーデウス・グレイラットです」
「そういう意味じゃない」
前世の名前か。
そこは言いたくなかった。
この世界で俺はルーデウスだ。
今さら、捨てたつもりだった名前を誰かへ名乗る気にはなれない。
「前の名前は話したくありません」
サイレントは少し俺を見たが、それ以上追及しなかった。
「日本人だった?」
「はい」
「いつこっちへ来たの?」
「来た、という言い方が合っているのかは分かりません」
「どういうこと?」
俺は少し迷った。
全部を話す必要はない。
事故の具体的な状況も。
最後に何をしようとしたのかも。
「日本で事故に遭って死にました」
サイレントの眉が僅かに動く。
「死んだ?」
「はい。その後、この世界で赤ん坊として生まれました」
「……転生?」
「そうだと思います」
サイレントはしばらく黙った。
予想していなかったらしい。
「私とは違う」
「あなたは?」
「身体ごと飛ばされた」
そして、少し迷ってから日本語で名乗った。
「七星静香」
その名前を聞き、顔を見る。
やはり。
前世の最後に見た学生の一人。
俺の記憶は曖昧だ。
けれど、目の前の彼女を見ていると、あの日の道路へいた少女と重なる。
七星の方は、俺の反応を見てもその意味までは分かっていないようだった。
当然だ。
俺は、あの事故の現場へ自分が割り込んだことを話していない。
彼女にとって俺は、
日本で事故死し、こちらへ転生した知らない男
でしかない。
それでいい。
今はまだ。
「私は五年前に、この世界へ来た」
七星が続ける。
「気づいた時にはアスラ王国の草原にいた。日本で使っていた身体のまま」
「一人で?」
「そう。そこへオルステッドが来た」
あの男。
それだけで身体が僅かに強張る。
七星は気づいたのかもしれないが、何も言わず続けた。
「最初は言葉も分からなかった。オルステッドに助けられて、この世界の言葉を覚えた。それから元の世界へ戻る方法を探すために、いろいろな場所を回った」
「オルステッドさんと?」
「途中までは」
七星は淡々としている。
「古い転移魔法陣も使った」
「転移魔法陣?」
思わず身を乗り出した。
「実在するんですか?」
「する。今の時代にはほとんど使われていないけど、古いものが残っている場所がある」
それはかなり重要な情報だった。
これまで書物でしか確認できなかった古代転移術。
実際に使用経験を持つ人間が目の前にいる。
「どんな仕組みでした?」
「今ここで全部説明する気はない」
即座に止められた。
「私だって完全に理解してるわけじゃない。ただ、転移そのものは失われた空想の技術じゃない。それを実際に使って移動したことはある」
それだけでも十分大きい。
「その旅の中で召喚術を?」
「召喚術に詳しい人間にも会った。私の状態を調べてもらって、こちらへ召喚された可能性があると言われた」
「召喚……」
「だから調べてる」
七星が机の上の魔法陣を見る。
「召喚が、遠くにいる何かをこちらへ呼ぶ術なら、逆に送り返す方法も作れるかもしれない」
日本へ。
彼女は本気で、それだけを目指している。
「あなたは帰りたくないの?」
突然聞かれた。
答えはもう決まっている。
「帰りません」
七星の眉が寄った。
「方法が見つかっても?」
「はい」
「どうして?」
「僕は日本で一度死んでいます」
それ以上の前世について話すつもりはなかった。
長く引きこもっていたこと。
家族へ迷惑を掛けたこと。
最後までまともに立ち直れなかったこと。
会ったばかりの相手へ全部晒す必要はない。
「今の僕の家族は、この世界にいます」
シルフィ。
レイネ。
父様。
母様。
リーリャ。
ノルン。
アイシャ。
ロキシー。
エリス。
それ以外にも、ここで知り合った人たちがいる。
「僕は、この世界で生きたいです」
七星には理解できないらしい。
「こんな世界で?」
「はい」
「日本より不便で、魔物もいる。戦争も普通に起きる」
「それでもです」
「……分からない」
七星ははっきり言った。
「私には理解できない。私は帰る」
「はい」
「絶対に」
その言葉には、俺が口を挟めるような隙がなかった。
彼女にとって、この世界は故郷ではない。
突然奪われた日常へ戻りたい。
それを俺の価値観で否定する理由もない。
「一つ聞いていいですか?」
「何?」
「七星さんは、魔術を使えるんですか?」
「使えない」
即答だった。
「私の身体には、この世界の人間みたいな魔力がない。調べてもらっても、ほとんど検出されなかった」
「ほとんど?」
「少なくとも、魔術に使えるような量はない」
七星が自分の手を見る。
「魔術は使えない。闘気もまとえない。身体能力だって日本にいた頃と大差ない」
それでオルステッドが近くにいたのか。
この世界では、普通の人間よりはるかに危険だ。
「それと」
七星が少し不機嫌そうな顔をした。
「歳も取らない」
「……はい?」
「五年前に来た時から、身体がほとんど変わってない」
思わず隣のレイネを見そうになり、止めた。
レイネは成長している。
極端に遅いだけだ。
七星とは別の現象だろう。
「食事は?」
「必要」
「睡眠も?」
「必要。怪我もするし、病気にもなる」
「でも成長しない?」
「そう」
七星は明らかに嫌そうだった。
「だから帰りたい理由が増えた。この身体が、この世界にどれくらい適応できるか分からない」
そこで気づく。
「僕には魔力があります」
七星が俺を見る。
「何?」
「僕はこの世界で生まれた身体なので。魔術も使えます」
七星の目が僅かに見開かれた。
「転生だから?」
「たぶん」
「どれくらい?」
「かなり多い方だと思います」
「かなり?」
七星の視線が鋭くなる。
研究者の顔だ。
俺は少し嫌な予感がした。
「具体的には?」
「正確な量は分かりません。ただ、大規模な魔術を何度か使っても、そう簡単には尽きません」
「……なるほど」
七星が魔法陣へ視線を戻す。
その反応で何を考えているのか大体分かった。
「僕の魔力が欲しいんですね」
「そう」
隠そうともしない。
「今までの研究では、必要な規模まで術式を動かすための魔力を確保できなかった。私は自分で供給できない」
「召喚術そのものは?」
「小規模なものなら成立してる」
七星は机の横から何枚かの記録を出した。
植物。
物体。
召喚用の魔法陣。
「この世界の召喚術自体はある程度再現できる。でも、私がやりたいのは、この世界の中から何かを呼ぶことじゃない」
「異世界との接続」
「そう」
求める規模が違う。
だから必要な魔力も違う。
「取引をしましょう」
七星が言った。
「あなたは私へ魔力を貸す。私は、これまで集めた召喚術と転移術の資料をあなたへ見せる」
「フィットア領転移事件についても?」
「私が知ってる範囲なら」
「七星さん自身が調べている理由は?」
そこで、七星が少し黙った。
「私がこの世界へ来たのも五年前」
「五年前……」
「フィットア領転移事件と、時期がほぼ同じ」
胸の奥がざわついた。
「場所は?」
「アスラ王国。何もない草原だった。少なくとも、私はそこがフィットア領だったとは聞いてない」
「事件が起きた瞬間を見たんですか?」
「見てない」
七星ははっきり否定した。
「気づいた時にはこの世界にいた。私が現れたことと転移事件に関係があるのかも分からない」
そこは決めつけない。
「召喚された結果、転移事件が起きた可能性は?」
「あるかもしれない」
「逆に、転移事件へ巻き込まれて七星さんがこっちへ?」
「それも考えた」
「証拠は?」
「ない」
簡潔な答えだった。
「だから調べてる」
俺は息を吐いた。
怒りがないわけではない。
フィットア領転移事件によって、大勢の人間が死んだ。
家族が離れ離れになった。
父様は何年も母様を捜している。
レイネも転移した人々を助けるために長い時間を使った。
もし、全てがたった一人をこの世界へ呼ぶために発生したのだとしたら。
考えたくない。
けれど、目の前の七星を責める理由にはならない。
本人は望んで来たわけではない。
彼女自身も、日本から突然引き離された被害者だ。
「関係がある可能性はある。でも、七星さん自身が起こしたわけではない」
「私は何もしてない」
「分かりました」
そこで話を止める。
今は原因を決めつける段階ではない。
「取引についてですが」
俺は言った。
「僕の魔力は提供します」
七星がこちらを見る。
「ただ、実験内容については先に教えてください。何を起こすのか分からない術式へ、いきなり大量の魔力を流すことはできません」
「当然よ」
予想よりあっさり返ってきた。
「私だって、五年前と同じ規模の現象をここで起こしたいわけじゃない」
そこはやはり、無謀な人間ではないらしい。
「過去の実験記録も見せる。使った魔法陣、触媒、供給した魔力量、失敗した時の状態も残してある」
「ありがとうございます」
俺は一度レイネを見る。
ここから先は、俺だけで決めない。
「レイネ」
「はい」
「この研究へ、協力してもらえますか?」
レイネはすぐには返事をしなかった。
机の上の魔法陣。
七星が積み上げた研究記録。
部屋そのもの。
最後に俺を見る。
「ルーデウス様は、参加を望んでおられますか?」
「はい」
「この研究が、フィットア領転移事件の原因へつながる可能性があるからでございますか?」
「それもあります」
俺は答える。
「でも、僕一人では召喚術の安全性を判断できません。レイネに全部任せたいわけではないです。ただ、一緒に見てもらえるなら助かります」
しばらくして。
レイネが頷いた。
「私も参加いたします」
「ありがとうございます」
そこで初めて七星へ向き直る。
「七星さん。レイネにも共同研究者として参加してもらいたいです」
七星がレイネを見る。
「彼女を?」
「はい」
「オルステッドと戦った人間でしょう」
「それが問題ですか?」
七星は少し考える。
「……別に」
完全に警戒がないわけではないらしい。
「何をするの?」
レイネが答えた。
「まず、これまでの実験記録を確認させていただきたいと存じます」
「全部?」
「可能な範囲で構いません」
「かなりあるわよ」
「拝見いたします」
「その後は?」
「実験内容を確認した上で、危険が生じた際に停止する手段を用意したいと考えております」
七星が僅かに眉を寄せる。
「慎重ね」
「大規模な転移現象との関係を疑っている研究でございますので」
それだけで納得したのか、七星は反論しなかった。
「停止の判断は誰がする?」
「少なくとも、明確な異常が発生した場合には私から中止を申し出る権限をいただければ」
「私が続けたいと言っても?」
「危険である理由をご説明いたします」
「それでも私が納得しなかったら?」
「その場合、ルーデウス様が魔力供給を継続なさるかは、ルーデウス様ご自身がお決めになることかと存じます」
レイネは俺を見なかった。
自分が俺の判断を決めるとは言わない。
俺も答える。
「危険だと判断したら止めます」
七星が俺とレイネを交互に見る。
「分かった」
思ったより早かった。
「私も研究を壊したいわけじゃない。記録を見てから、次の実験を決めましょう」
「はい」
「ただし」
七星が指を立てる。
「私が別の世界から来たことは、むやみに他人へ話さないで」
「分かりました」
「ルーデウスのことは、本人が決めればいい。私から言うつもりはない」
「ありがとうございます」
そこまでの会話の大半は日本語だった。
レイネは一度も口を挟まず、表情もほとんど変えなかった。
俺は、彼女には内容が分かっていないものと思っていた。
七星も同じように考えたらしい。
ここでこの世界の言葉へ戻す。
「待たせたわね」
「お気になさらず」
レイネが答える。
七星は研究へ関係する範囲だけ、自分の事情を説明した。
「私は、この世界とは異なる場所で生まれた。身体ごとこちらへ移動してきた」
レイネは黙って聞いている。
「こちらへ来たのは五年前。フィットア領転移事件とほぼ同じ時期よ」
「因果関係は確認されておりますか」
「されていない」
「出現時に召喚術式や術者と思われる方をご覧になりましたか?」
「何も見てない。気づいた時には草原にいた」
「元の世界へ戻るために召喚術を研究しておられるのでございますか?」
「そう」
七星が俺を見る。
「ルーデウスも、私と似た事情を――」
「サイレントさん」
俺が止めた。
七星が口を閉じる。
「僕のことは、僕から話します」
「分かった」
それ以上は言わなかった。
レイネも何も求めない。
今ここで必要なのは、七星が別世界から身体ごと移動してきたことと、その時期がフィットア領転移事件と重なっていること。
研究へ必要な情報としては、それで十分だ。
七星は棚から数冊の研究記録を取り出した。
机へ積む。
「これが直近一年分」
「一年だけで、これですか?」
「失敗も含めて全部記録してあるから」
「その前のものは?」
「別にある。まずこれを読んで。必要なら次も出す」
レイネが一冊を開く。
魔法陣。
使用した触媒。
供給した魔力量。
発光。
温度変化。
召喚対象。
失敗理由の仮説。
かなり細かく残されている。
「きちんとしていますね」
俺が言うと、七星の目が少し細くなった。
「当然でしょう」
少し機嫌を損ねたらしい。
褒めたつもりだったのだが。
「次はいつ来られる?」
七星が尋ねる。
俺はレイネを見る。
「この量ですと、数日は必要かと存じます」
「三日?」
「ルーデウス様には講義と、別の調査もございます」
七星が俺へ顔を向ける。
「どれくらいなら?」
「七日後でお願いします」
「一週間……」
明らかに長いと思っている顔だった。
ただ、文句を押しつけるような言い方はしなかった。
「この資料を読んで、次の実験内容まで確認してから来ます」
俺は説明する。
「急ぎたい気持ちはあります。でも、急いで壊したら余計に遅くなるでしょう?」
七星が研究記録を見る。
「……そうね」
短く答えた。
「七日後。同じ時間でいい?」
「はい」
「資料は持ち出していい。でも複写するなら、誰にも見られないようにして」
「承知いたしました」
レイネが答える。
俺たちは借りる記録をまとめた。
席を立つ。
七星が再び白い仮面を手に取った。
顔へつける。
さっきまで日本人の少女だった顔が隠れ、再びサイレント・セブンスターになる。
研究室を出ようとした時だった。
「ルーデウス」
呼び止められる。
日本語だった。
俺は振り返る。
「何ですか?」
同じ言葉で答えた。
「あなたが帰りたくないことは、まだ分からない」
「はい」
「私は帰るためにここまでやってるから。帰れるのに残るっていう感覚は、たぶん今は理解できない」
「無理に理解しなくていいと思います」
七星が少し黙る。
「……そう」
それだけだった。
今の七星には、その方が自然に感じた。
俺たちは目的が違う。
同じ日本から来たからといって、同じものを望む必要はない。
「じゃあ、七日後」
「はい」
俺とレイネは研究室を出た。
◇
長い階段を下りていく。
研究棟の中は、来た時と変わらず静かだった。
けれど、俺の中では何も同じではない。
サイレント・セブンスター。
本名は七星静香。
日本から身体ごとやって来た少女。
召喚。
転移。
フィットア領転移事件。
そして、古代の転移魔法陣。
今まで別々に存在していたものの間へ、細い線が何本も引かれ始めた。
まだ、どれもつながったと断定できない。
七星が来たからフィットア領転移事件が起きたのかも分からない。
事件が起きた結果、七星が巻き込まれたのかもしれない。
まったく別の原因によって、二つが同時に起きただけという可能性だってある。
それを調べるために共同研究をする。
ただ。
それとは別に。
俺には、レイネへ話していないことがあった。
研究室の中で七星と交わした日本語。
少なくとも俺は、その内容がレイネへ伝わっていないと思っている。
俺が日本という別の世界で生きていたこと。
その世界で死んだこと。
七星の顔を見て、前世の最後に見た少女の一人だと気づいたこと。
全部を今すぐ説明する勇気はなかった。
レイネは隣を歩いている。
何も聞かない。
「レイネ」
階段の踊り場で呼ぶ。
足を止めた。
「はい」
「サイレントさんと僕には、共通する事情があります」
「はい」
驚いた様子はない。
「でも、完全に同じではありません」
「そのようでございますね」
「分かるんですか?」
「サイレント様は、元の世界へ戻ることを目的として研究しておられます」
レイネは静かに答えた。
「そしてルーデウス様は、ご自身の事情をお話しになる前から、今のご家族や生活についてお考えになっているように見受けられました。お二人が望んでおられる結末は、同じではないのでしょう」
七星がこの世界の言葉へ戻してから、自分の目的についてはレイネへ説明している。
そして俺が、自分の事情を七星から勝手に話されることを止めた場面もレイネは見ている。
そこから考えたのだろう。
「僕は、この世界で生きたいです」
俺は言った。
「はい」
「シルフィと、レイネと、それから家族や皆のいる場所で」
赤い瞳が俺を見る。
「日本に懐かしいものがないわけじゃありません。便利だったものもありますし、もう一度食べたいものもあります。でも」
少し考える。
言いたかったことは、もっと単純だった。
「僕が今、帰りたいと思う場所は、あの家です」
レイネの目元が僅かに柔らかくなる。
「では、一緒に帰りましょう」
ほんの少しだけ笑った。
「はい」
俺も頷く。
前の人生について全部を話したわけではない。
今ここで全てを打ち明けるつもりもない。
それでも、自分が今どう思っているのかは隠さずに伝えられた。
それでいいと思った。
再び階段を下りる。
外へ出ると、冷たい風が頬へ当たった。
これから家へ戻る。
シルフィにも今日のことを話さなければならない。
サイレント・セブンスターが、オルステッドと一緒にいた白い仮面の女だったこと。
別の世界から身体ごと来たこと。
フィットア領転移事件と同じ頃に現れたこと。
古代の転移魔法陣を実際に使った経験があること。
そして、今後俺とレイネも召喚術の研究へ加わること。
話せることは多い。
一方で、自分が日本でどういう人間だったのかや、七星と前世の最後の記憶とのつながりは、まだ俺の中へ置いておきたかった。
何もかも一度に話さなければならないわけではない。
けれど、怖いという理由だけで、今の家族から何もかも隠し続けるつもりもない。
「七日後までに、かなり読み込まないといけませんね」
俺がレイネの持つ記録を見る。
「はい。ただ、本日はまずシルフィへ面会内容をご説明いたしましょう」
「そうしましょう」
「明日から記録の整理を?」
「はい。《転移の迷宮》とは別に管理します。情報が混ざったら困るので」
「承知いたしました」
七星との研究は始まってすらいない。
日本へ帰る方法が本当に見つかる保証もない。
フィットア領転移事件の真相へ届く保証もない。
まして、それが母様を救い出す方法へ直接つながるとは限らない。
それでも、今日まで存在しなかった道が一つ増えた。
その道の先がどこへ続いているのかは分からない。
だからこそ急がず、確かめながら進む。
七星は帰るために。
俺は、この世界で生き続けるために。
同じ研究を、違う目的で追う。
そんな関係が、今日から始まったのだった。