ルーデウス視点
七星から「次の術式が完成するまで、早くても二、三週間は掛かる」と言われてから、まだ数日しか経っていなかった。
その短い間にも、家ではいくつかのことがあった。
ノルンとアイシャを迎えるための部屋が一通り整い、その区切りとして三人だけで小さな祝いをした。普段は酒を口にしないレイネが自分からほんの少しだけ果実酒を飲み、俺とシルフィへいつもより素直に甘えてくれたことは、たぶんしばらく忘れないと思う。
そして、その翌朝。
レイネは、ミレイという人物について少しだけ話してくれた。
かけがえのない親友の一人。
二人ともBランク冒険者として、およそ十年もの間、各地を旅していたという。
レイネが熱を出した時、料理の得意ではないミレイが代わりに食事を作り、二人して黙って食べる程度の出来だったという小さな思い出まで聞いた。
それだけだった。
それ以上、俺もシルフィも聞かなかった。
けれど、数日経っても、その「十年」という数字だけは頭の中へ残っていた。
レイネは二十九歳だ。
俺が生まれた時には十四歳で、その頃にはすでにグレイラット家へ来ていた。そこから十五年が経ち、現在二十九歳になっている。
計算は合う。
大学へ入る時にも、本人がそう答えている。
問題は、その人生のどこへ十年間を入れればいいのか、俺にはまったく分からないことだった。
もちろん、俺がレイネの人生をすべて知っているわけではない。
俺と離れていた時期もある。
俺へ話していない過去も山ほどあるだろう。
それでも、一人の親友と十年間、冒険者として暮らせるほどの時間を丸ごと入れられるような空白は、どう考えても見当たらなかった。
なのに、作り話だとは思えない。
むしろ逆だった。
ミレイが上手とは言えない料理を作った時のことを話していたレイネの顔は、設定を考えながら説明している人間のものには見えなかった。
本当にあった出来事を、遠いところから取り出しているように見えた。
だから知りたい。
ミレイとは、いつ出会ったのか。
十年とは、いつの十年なのか。
どうして俺の知るレイネの人生と時間が合わないのか。
そして、その親友は今どうしているのか。
ただ、知りたいと思うことと、今すぐ答えを聞き出すことは別だ。
レイネ自身が、話せる時が来たらもう少し話すと言ってくれた。
なら、待つ。
自分で勝手な仮説を作り、それを事実のように扱うつもりもなかった。
その日の朝食でも、気づけば俺は何度かレイネの方を見ていたらしい。
食器を片づけていたレイネが手を止め、こちらを向いた。
「ルーデウス様。何かございましたか?」
「ああ……すみません。この前聞いた話を、少し思い出していました」
何の話かまでは言わなかったが、十分伝わったらしい。
「まだ、気になっておられますか?」
「かなり気にはなっています。でも、続きを聞くつもりはありません」
素直に答える。
「レイネがまだ話したくないなら、待ちます」
シルフィも向かい側から頷いた。
「僕も同じだよ。気にはなるけど、レイネが自分から話せるようになった時でいい」
レイネは俺とシルフィを順番に見ると、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
それだけだった。
俺たちも、それ以上は尋ねない。
分からないことが一つ増えたからといって、毎日の生活まで変わるわけではない。
朝食が終われば、レイネは食器を片づける。
シルフィは今日のアリエル様の予定を確認する。
俺は大学へ持っていく本を鞄へ入れる。
知らないことが残っていても、同じ食卓で朝を迎えられる。
今は、それでよかった。
◇
七星の研究室へ顔を出したのは、それから二日後だった。
実験を急かしに来たわけではない。
七星から借りている《シグの召喚術》を読み進めるうちに、どうしても理解できない箇所が出てきたからだ。
研究室へ入っても、新しい召喚陣はまだ完成していなかった。
床ではなく、机という机が紙で埋まっている。
小型実験で使った魔法陣。
そこから得られた魔力流の記録。
記号を変更した際の差。
新しい大型陣らしい下書き。
七星はその中央で、数枚の紙を見比べながら何かを書き込んでいた。
「おはようございます」
「おはよう」
声は普通だ。
顔色も悪くない。
「進んでいます?」
七星が顔を上げる。
「前に言ったでしょう。二、三週間」
「ああ、いえ。催促じゃありません」
「なら何?」
俺は《シグの召喚術》を取り出した。
「質問です」
七星は椅子を少し横へずらす。
「どこ?」
隣へ行き、印をつけておいた一節を示した。
「召喚対象を固定する部分です。最初は場所を指定する話だと思ったんですけど、その後にも似た記述がありますよね」
「ああ。そこは座標だけじゃない」
「違うんですか?」
七星は近くにあった紙の端へ、簡単な図を描き始めた。
「同じ種類の対象が複数ある場合、どれを呼ぶか決めないといけない。普通の召喚術なら、契約や魔力的なつながりが識別子の代わりになることもある」
「識別子?」
「どれかを見分けるための条件」
なるほど。
「契約した魔物を呼ぶ場合、その魔物と術者の間には最初からつながりがある。でも、私がやろうとしている召喚にはそれがない」
「日本から物を呼ぶとしても、こっちからは何のつながりもないから?」
「そう。『日本にある物』だけじゃ範囲が広すぎる。場所だけ決めても、対象が曖昧なままになる」
完全に理解したとは言えない。
それでも、どうして七星があれほど細かく条件を分けているのかは少し分かった。
俺がさらに尋ねようとしたところで、研究室の扉が開いた。
「サイレント様、おはようございます」
レイネだった。
「おはよう」
レイネは室内へ入り、机の端に置かれた皿を見る。
何かを食べた痕跡がある。
「本日は朝食を召し上がられたようでございますね」
「食べた」
「睡眠時間は?」
「六時間半」
「それでしたら問題ございません」
七星が、なぜか少しだけ得意そうに見えた。
俺は笑ってしまった。
「何?」
「いや。ちゃんと寝たと報告して、少し満足そうだったので」
「違う」
「そうですか」
「あなたたちが毎回聞くから、答えられるようにしてるだけ」
レイネが真面目な顔で頷く。
「十分な成果でございます」
七星は何とも言えない顔になり、そのまま設計図へ視線を戻した。
「次の実験までは、私から呼ぶまで来なくてもいい」
「邪魔ですか?」
「そういう意味じゃない。今やってるのは設計だから、ルーデウスが来てもやることがない」
確かに。
七星自身には魔力がないから、実際に術式を動かす時には俺の魔力が必要になる。
だが、設計そのものは別だ。
召喚術を学び始めたばかりの俺が横に座ったところで、七星の作業を早められるとは思えない。
「分かりました。完成したら呼んでください」
「そのつもり」
二、三週間。
なら、その間は待つ。
七星が自分の研究を進めるなら、俺は俺のやるべきことを進めればいい。
◇
その後の一週間ほど、七星の研究室へ入ることはほとんどなかった。
食堂や廊下で姿を見ることはある。
食事をしているか。
顔色が極端に悪くなっていないか。
その程度は気になった。
けれど、会うたびに、
「どこまでできました?」
「あと何日です?」
などと聞くことはしなかった。
待つと決めたのだから待つ。
俺自身は講義へ出ながら、《シグの召喚術》を読み進めた。
召喚魔術は、俺が普段使っている魔術とは考え方がかなり違う。
火なら燃やす。
水なら生み出し、動かす。
土なら地面や岩へ干渉する。
そういった魔術は、魔力を使ってその場へ現象を起こすものだから、俺にも感覚的には理解しやすい。
召喚術は違う。
どこかにある何かへ条件を設定し、それをこちらへ呼ぶ。
だから対象。
距離。
位置。
固定。
接続。
そういう言葉が何度も出てくる。
難しい。
同じ段落を何度読み返しても、結局意味が分からないこともある。
それでも、読んでいる意味はあった。
次に七星の魔法陣を見る時、一本の線がなぜそこにあるのかを少しでも考えられるなら、それだけで今までとは違う。
大学では、ザノバとジュリの人形作りも続いていた。
ある日の午後。
研究室へ入るなり、ザノバが人形の腕を持ってこちらへ来た。
「師匠! ご覧くだされ!」
「何です?」
「今回はジュリが自分で考えた構造でございます!」
「ジュリが?」
横を見る。
ジュリが少し緊張した顔で頷いた。
「はい」
ザノバから腕を受け取り、ジュリが肘を動かす。
「前のだと、曲げた時にここがぶつかります。だから、こっちを丸くして、少しだけ内側を削りました」
小さな指が、肘関節の内側を示す。
動かしてみる。
確かに、前より深く曲がる。
しかも単に削って隙間を増やしただけではなく、力が掛かる部分には厚みを残していた。
「いいですね。かなり自然です」
ジュリの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「はい」
「師匠もそう思われますか!」
なぜかザノバの方が本人より喜んでいる。
「余もまったく同じことを申し上げたのでございます! ジュリは確実に成長しておりますぞ!」
「ザノバもちゃんと教えているんですね」
「もちろんでございます!」
胸を張る。
《ルード人形・第一号》を壊されたことを、今になって必要な出来事だったと思うつもりはない。
嫌だった。
今でも思い出せば腹の中に引っ掛かる。
けれど、その後にザノバとジュリが積み上げた時間まで否定する理由もない。
ザノバは、完成した物を見るだけではなく、ジュリがどう考えたのかを聞くようになった。
ジュリも、教えられた通りに削るだけではなく、自分から構造を考えるようになっている。
起きてしまったことは戻せない。
だからこそ、その後をどうするかは別の話なのだと思う。
◇
クリフ先輩とエリナリーゼの研究も続いていた。
こちらは、まだ分かりやすい成果が出たわけではない。
ある日の午後、研究室へ入ると、クリフ先輩が机いっぱいに記録を広げていた。
「分からん!」
挨拶より先に言われた。
「何がです?」
「何もかもだ!」
「大変ですね」
「適当に返すな!」
横でエリナリーゼが笑っている。
「ここ数日ずっとこうなのよ」
「笑い事ではない!」
クリフ先輩は一枚の記録を持ち上げた。
「変化はあるんだ。食事量、睡眠、魔力消費、体調。それぞれで微妙に数値は動く。でも、どれが直接影響しているのかが切り分けられない!」
「だからといって、症状を悪くして調べたりはしていませんよね?」
露骨に嫌そうな顔をされた。
「当たり前だ。エリナリーゼの身体だぞ」
迷いはなかった。
エリナリーゼが少し嬉しそうに笑う。
「試してみたい条件自体はあるんですか?」
「いくらでもある」
クリフ先輩は記録を机へ戻した。
「だが、確認したいからといって本人へ危険を負わせるなら順序が逆だ」
そこで少し黙る。
「早く治したい。できるなら今すぐ解決したい。でも、だからこそ焦って取り返しのつかないことをするのは嫌なんだ」
「クリフ」
エリナリーゼが呼ぶ。
「何だ?」
「好きよ」
「なっ……!」
一瞬で顔が赤くなった。
「どうして今それを言う!」
俺は笑ってしまった。
「笑うな、ルーデウス!」
怒られた。
けれど、研究そのものは止まっていない。
答えがないだけだ。
記録は増えている。
分からないものを、分からないまま誤魔化さず、一つずつ条件を減らしている。
七星も今頃、同じように紙へ向かっているのだろう。
◇
七星に「二、三週間」と言われて十日ほど経った頃、ノルンとアイシャのことも少しずつ気になってきた。
大学の受付には一日一度だけ立ち寄っている。
冒険者ギルドにも、二人が俺とレイネを訪ねてくる予定だと伝えてある。
それでも連絡はない。
手紙と人間では移動速度が違う。
子供二人を連れた旅なら、普通より時間も掛かる。
しかも父さんの手紙にあった護衛が本当にルイジェルドさんなら、安全を犠牲に日程を詰めるとは思えない。
頭では分かっている。
でも、旅で問題になるのは戦闘だけではない。
悪天候で街道が閉じることもある。
宿場で病気になるかもしれない。
橋や道が使えなくなれば迂回も必要だ。
考え始めれば、心配の理由はいくらでも増えていく。
だから、その日の夕食で二人へ話した。
「ノルンとアイシャのことなんですが」
シルフィがすぐに顔を上げた。
「心配になってきた?」
「はい。何かあったと考えるほどではないんですけど、少し気になります」
言葉へすると、自分が何を不安に思っているのか整理できた。
危険が起きたと確信しているわけではない。
ただ、会えると思って待っている二人がなかなか来ないから心配なのだ。
レイネも頷いた。
「私も心配しております」
「レイネも?」
「はい。問題が生じている可能性が低いことと、心配しないことは同じではございません」
その言葉を聞いて、少し安心した。
俺だけが考えすぎているわけではない。
「ただし、現時点では問題が起きたという情報もございません。もう少し待ち、それでも到着なさらない場合には、街道状況や主要な町の通過記録を確認するのがよろしいかと存じます」
「僕もそれでいいと思う」
シルフィが続ける。
「いきなりルディたちが捜しに出るより、まずどこまで来てるのか調べた方がいいよね」
「はい。そうします」
シルフィがじっとこちらを見る。
「本当に?」
「そこまで信用ありません?」
「少しだけ」
笑われた。
俺自身も笑う。
心配だから、今すぐ何かをしたい気持ちはある。
けれど、俺たちが北へ向かってしまい、その間にノルンたちがシャリーアへ到着したら、それこそ余計に混乱する。
今は待つ。
必要になれば調べる。
情報が揃ってから次を決める。
三人でそこまで話したところで、胸の中の落ち着かなさは少し軽くなった。
◇
二週間目に入っても、七星から連絡はなかった。
予定通りだ。
最初から二、三週間と言われているのだから、二週間経ったという理由だけで催促する必要はない。
一度だけ、食堂で一人で食事をしている七星を見掛けた。
料理を持って近づく。
「隣、いいです?」
「いいけど」
向かいではなく、隣の席へ座った。
「研究の話は聞きませんよ」
「なら何しに来たの」
「一人だったので」
「私は大体一人よ」
「今日は僕がいます」
七星が呆れたように見る。
それでも席を立たなかった。
俺は大学の講義の話や、ザノバがジュリの作った肘関節を本人以上に自慢していた話をする。
七星は特に興味がある様子でもなかったが、無視もしなかった。
少ししてから、今度は彼女の方から尋ねてきた。
「妹、まだ来てないの?」
「はい」
「心配じゃないの?」
「心配ですよ」
「じゃあ捜しに行かないの?」
「今出ても入れ違いになるかもしれませんし、何か問題が起きたという情報もないので」
七星が少し意外そうに俺を見る。
「あなた、何でも自分でどうにかしようとしそうなのに」
「そういうところはあると思います」
「自覚あるんだ」
「何人かに繰り返し言われましたから」
七星がほんの少し笑った。
「そう」
今度はこちらから尋ねる。
「サイレントさんは、予定を縮めようとしてません?」
「研究の話を聞かないんじゃなかったの?」
「進み具合は聞いてません。寝ないで無茶してないかを聞いただけです」
少し嫌そうな顔になった。
「急いではいる」
「はい」
「でも、言った期間は守ってる」
「ならよかったです」
「完成したら呼ぶ」
「待っています」
それ以上は聞かなかった。
食事を終えた七星は、研究棟へ戻っていく。
その背中を見ながら、俺は改めて考えた。
俺にとって、この世界は今の人生そのものだ。
シルフィもいる。
レイネもいる。
エリスもいる。
父さんも母様も、ノルンもアイシャもいる。
もし日本へ戻れる道が今すぐ目の前に出てきたとしても、俺はそこへ帰りたいとは思わない。
七星は違う。
彼女にとって召喚術は、興味深い研究だから続けているものではない。
帰るための手段なのだ。
そこだけは、手伝う側の俺が忘れてはいけないと思った。
◇
三週間目へ入った。
父さんの手紙が届いてから数えれば、そろそろ一か月近い。
ノルンとアイシャはまだ到着していない。
俺たちは、そろそろ街道状況や途中の町の記録だけでも確認しようと話し始めていた。
そんな日の午後。
講義を終えたところで、大学職員に呼び止められた。
「ルーデウス・グレイラット君」
「はい」
「サイレント・セブンスターさんから伝言です」
胸が少し高鳴る。
「『できた』と」
短い。
それだけで十分だった。
二、三週間。
七星は本当に、その時間を使った。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
そのまま研究棟へ向かいたくなった。
数歩進んだところで、足を止める。
レイネにも伝えなければならない。
今日すぐ実験するとも限らない。
それに、実験は俺一人でやるものではない。
早く見たい。
どんな術式になったのか気になる。
それでも、数十分早く見るためだけに一人で飛び込む必要はない。
俺は方向を変え、レイネを捜した。
◇
実験は翌朝に決まった。
完成した当日に七星自身が、
「今日は動かさない。一晩置いて、明日の朝にもう一度全部確認する」
と決めたからだ。
そして翌朝。
俺とレイネは一緒に研究室へ向かった。
扉を開けた瞬間、思わず足が止まる。
床のほとんどが、一つの巨大な召喚陣で覆われていた。
これまで使っていた小型の術式とは比較にならない。
幾重にも重なる円。
外側から中心へ伸びる線。
複雑に交差する回路。
その間へ、細かな記号がびっしりと描かれている。
二、三週間掛かった理由が、見ただけでも分かった。
「すごいですね……」
思わず口から漏れる。
七星は中央近くに立っていた。
「二年分よ」
「二年?」
「本格的に召喚術を研究し始めてから作ってきたものと、最近の実験で分かったことを全部入れた」
三週間だけで作った魔法陣ではない。
七星が帰還方法を探してきた年月のうち、召喚魔術へ本格的に取り組んだ二年間。
その積み重ねが目の前の一枚へ集められている。
そう考えると、さっきまでの期待へ別の重さが加わった。
「何を召喚する予定です?」
「小さな物」
「何です?」
「この世界には存在しない物。成功したかどうか、見ればすぐ分かるようにする」
具体的な対象そのものより、異世界から意図した物体を移動させられるかどうかが重要なのだろう。
レイネは外周をゆっくり歩き、昨日確認した魔法陣と差がないか見ている。
「サイレント様。昨日の最終確認後、術式へ変更はなさっておりませんね?」
「ない」
「ルーデウス様へ供給いただく魔力量も、打ち合わせ通りでございます」
「はい」
安全条件も決めてある。
俺自身が制御できなくなった場合。
術式へ明確な破損が生じた場合。
想定範囲外の急激な魔力吸収が起きた場合。
そのどれかが起きれば供給を止める。
ただし、今日の目的は可能な限り術式を最後まで動かすことだ。
小さな揺らぎだけで止めるつもりもない。
七星が俺を見る。
「準備は?」
「できています」
指定された位置へ座り、召喚陣へ手を置いた。
少し冷たい。
緊張している。
成功するかもしれない。
七星が日本へ戻るための道が、本当に一歩前へ進むかもしれない。
俺まで期待している。
だからこそ、失敗の可能性も忘れないようにした。
「ルーデウス様」
レイネの声。
「はい」
「開始は、ご自身の判断でお願いいたします」
俺は一度息を吸った。
今朝シルフィにも言われた。
レイネがいるから何とかなると思って無理をしないこと。
魔力を流すのは俺だ。
止める判断も俺自身が持つ。
「始めます」
魔力を流した。
最初は何も起こらない。
指定された量を一定に維持する。
やがて外周の記号が淡く光り始めた。
光は一本の線へ移り、そこから次の術式へ進んでいく。
一つ。
また一つ。
巨大な機械が、外側から順番に起動していくようだった。
「外周正常。供給量も予定範囲内でございます」
レイネが読み上げる。
七星は設計図と床を交互に見ている。
「第一段階正常。維持して」
「はい」
光が内側へ進む。
前の小型実験で見つけた魔力流も、予定通りの順番で通過していく。
七星の呼吸が少し速くなる。
俺も手のひらから伝わる感触へ集中した。
魔力は流れている。
無理に吸われる感じはない。
不自然な抵抗もない。
さらに中央へ。
そして。
ある場所で、光が止まった。
「……あれ?」
七星の声。
俺は魔力を維持する。
止まった線の手前までは光っている。
そのすぐ先だけが暗い。
「ルーデウス、維持して」
「はい」
流している。
しかし、その先へ進まない。
「供給量は変化しておりません」
レイネが言う。
七星が床へ膝をつき、暗いままの接続部分を見る。
「ここ……?」
設計図を確認する。
線自体はつながっている。
記号もある。
少なくとも、俺には間違っているようには見えない。
七星が指で紙の上を追う。
「何で……」
もう一度設計図。
もう一度床。
「ルーデウス、少しだけ上げられる?」
俺はレイネを見る。
彼女は測定器を確認した。
「事前に設定した増加範囲内でございましたら問題ございません」
「では、一割だけ」
魔力を少し増やす。
止まっている箇所の手前まで、光が強くなる。
だが。
その先には進まない。
むしろ、手前で何かが詰まっているような感触が出始めた。
「サイレントさん。ここで抵抗があります」
「もう少しだけ維持して」
「分かりました」
量は増やさない。
そのまま保つ。
七星が何度も設計図を見る。
「つながってる……ちゃんとつないだ……」
光は進まない。
俺から送る魔力が、その一点で行き場を失っている。
次第に抵抗が強くなる。
「サイレントさん」
「待って。ここのはずなの。ここさえ通れば――」
乾いた音が響いた。
パシッ。
その瞬間。
手のひらへ伝わっていた流れが途切れた。
「……っ」
反射的に供給を止める。
止めたというより。
それ以上、流せなくなった。
「術式破断を確認いたしました。これ以上の供給は行わないでくださいませ」
レイネの声が響く。
床を見る。
光が急速に失われていく。
さっきまで中央へ向かっていた線も、外周の記号も、順番に暗くなった。
数秒もしないうちに。
すべて消えた。
静かになった。
召喚陣の途中。
光が止まった場所へ、細い亀裂が入っている。
何も出てこなかった。
空間も変わらない。
物体もない。
ただ、魔法陣が一箇所で割れている。
七星はそこを見つめていた。
「サイレントさん」
返事がない。
レイネがまず俺の方へ来た。
「ルーデウス様、お身体に異常は?」
「ありません。魔力の流れも普通です」
「承知いたしました」
最低限だけ確認すると、レイネは破断箇所へ視線を移す。
「中央寄りの接続部一箇所に破断を確認いたしました。周辺の紙面にも軽度の焦げがございます」
七星は動かない。
「……失敗ね」
小さな声だった。
俺は何を言えばいいのか分からない。
途中までは予定通りだった。
破断した場所も分かる。
記録もある。
そこから原因を調べればいい。
そんな言葉が頭へ浮かんだ。
けれど、口には出なかった。
これは俺にとっての一回の失敗とは違う。
七星が本格的に召喚術を研究してきた二年間。
その集大成として作ったものだ。
たった数秒で、
「またやればいい」
と言っていい重さではない気がした。
七星はゆっくり立ち上がった。
「今日は……もう帰って」
「サイレントさん?」
「実験は終わり。帰っていい」
仮面がこちらを向かない。
レイネを見る。
彼女も何か考えているようだった。
ただ、七星本人が一人になりたいと望んでいる。
今この場で無理に話を続けるべきか判断できなかった。
「分かりました」
俺は答える。
「何か必要になったら――」
「帰って」
今度は少し強かった。
「……はい」
俺とレイネは研究室を出た。
扉を閉める。
廊下を歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
胸の奥に妙な感覚が残っている。
ただ落ち込んでいただけだろうか。
二年間の研究が失敗した。
一人で整理したいのかもしれない。
でも。
あの声は。
七星の背中は。
俺が足を止めた。
ほぼ同時に、レイネも止まった。
目が合う。
「レイネ」
口を開いた瞬間。
研究室の奥から、激しい音が響いた。
何かが床へ落ちた音。
続いて。
「何でよ!」
叫び声。
俺たちは同時に引き返した。
扉を開ける。
机が倒れていた。
紙が床一面へ散らばっている。
七星が、近くにあった器具を掴み上げる。
「サイレントさん!」
「何で!」
壁へ投げようとした腕を、俺が咄嗟に掴む。
「離して!」
「危ないです!」
「離してよ!」
強く振り払われる。
俺より身体能力はずっと低い。
それでも力任せに振り払おうとするせいで、本人の腕を痛めそうだった。
俺は器具を持つ手だけを押さえ、無理に身体全体を拘束しない。
レイネは床に落ちた割れ物と七星の間へ入り、危険な器具だけを遠ざけていく。
「サイレント様」
「邪魔しないで!」
「怒られることも、泣かれることも、お止めいたしません」
レイネの声は静かだった。
「ですが、ご自身を傷つける可能性のある行動だけは止めさせていただきます」
「どうでもいい!」
その言葉に背中が冷えた。
七星から急に力が抜ける。
その場へ膝をついた。
俺も手を離し、近くにしゃがむ。
「二年……」
声が崩れている。
「二年やったのに……」
涙が仮面の下から落ちた。
「ずっと……これができれば次に行けるって……」
両手が床へつく。
「帰れるって……」
俺は何も言えない。
「帰りたいだけなのに……」
肩が震える。
「私……帰りたいだけなのに……」
その声を聞いていると胸が苦しくなった。
俺には、この世界へ帰る家がある。
シルフィがいる。
レイネがいる。
家族も、仲間もいる。
日本での人生は、もう終わったものとして俺の中にある。
七星は違う。
普通の日常の途中で突然この世界へ連れてこられ、家族も友達も学校も、住んでいた町も、向こう側へ全部残してきた。
俺はその違いを理解しているつもりだった。
でも。
目の前で崩れている七星を見ていると、分かったつもりになっていただけではないかと思う。
「私……」
七星が顔を上げる。
「帰れないの?」
答えられない。
「ルーデウス」
涙で濡れた顔が俺を見る。
「私、帰れないの?」
大丈夫。
必ず帰れる。
そう言えれば、少しは安心するかもしれない。
けれど、俺には保証できない。
今日の実験は失敗した。
だからといって、それだけで未来まで決まったわけでもない。
「分かりません」
俺は答えた。
七星の顔が歪む。
「僕には、サイレントさんが必ず帰れるとは言えません」
「じゃあ……」
「でも、今日失敗したから、絶対に帰れないとも言えません」
「失敗した!」
「はい」
否定しない。
「失敗しました」
「二年やったのに!」
「はい」
「ずっとやったのに!」
「はい」
「じゃあどうすればいいのよ!」
その答えも持っていなかった。
だから。
「今は分かりません」
と答えた。
七星の拳が俺の胸へ一度だけ当たった。
「分からないって何よ……」
強くはない。
「……ごめんなさい」
そう言い掛けて、やめた。
謝ることでもない。
代わりに、できることだけを言う。
「今は一人にはしません」
七星が俺を見る。
「……何で」
「今、一人にしていい状態だと思えないからです」
「放っておいてよ……」
「嫌なら話さなくていいです」
俺は床へ座ったまま続けた。
「何も考えなくていいです。僕も今すぐ研究の話をするつもりはありません」
七星は何か言おうとして。
結局、声にならなかった。
そのまま泣いた。
声を抑えようともせず。
子供のように。
俺もレイネも、泣き止ませようとはしなかった。
レイネは少し離れた場所で、危険な破片だけを片づけている。
それ以外は触れない。
七星の研究資料も。
壊れた魔法陣も。
今はそのままだ。
しばらくして。
泣き続けた七星の呼吸が大きく乱れ始めた。
肩が何度も上下する。
息を吸う間隔が短い。
「サイレントさん」
返事がない。
身体が前へ傾いた。
俺が支える。
「レイネ」
「はい」
すぐに近くへ来る。
「サイレント様。私の声が聞こえますか」
七星が僅かに頷く。
「大きく息を吸おうとなさらなくて結構でございます。まず、ゆっくり吐くことを意識してくださいませ」
レイネが一定の速さで呼吸を示す。
少し時間は掛かったが、徐々に七星の呼吸が戻ってきた。
七星はぐったりしている。
「医務室へ行きましょう」
レイネが言う。
七星は立とうとする。
膝へ力を入れたところで、身体が揺れた。
俺が腕を支える。
「無理しなくていいです」
「……歩ける」
レイネが七星と目線を合わせた。
「歩けることと、今ご自身で歩く必要があることは別でございます」
七星は何も言わない。
「お身体を支えてもよろしいでしょうか」
少し間があった。
「……お願い」
「承知いたしました」
レイネが七星の身体を抱き上げる。
七星は抵抗しなかった。
研究室を出る。
俺もすぐ横を歩く。
途中。
七星の手が伸び、俺の袖を掴んだ。
声はない。
弱い力だった。
俺は、その手を見る。
「一緒に行きます」
七星の指から、僅かに力が抜けた。
◇
階段を下りたところで、ちょうど向こうからザノバとジュリが歩いてきた。
「師匠!」
ザノバの大きな声が響く。
すぐに、レイネが抱いている七星へ目を向ける。
「これは……どうなされた!」
「実験に失敗しました。その後、サイレントさんが少し体調を崩して」
俺の説明だけで、ザノバの表情が変わった。
普段の大げさな調子が消える。
「医務室へ?」
「はい」
「余も参ります」
「ザノバ?」
「師匠の顔も、まったく大丈夫には見えませぬ」
言われて気づく。
自分もかなり動揺しているらしい。
「僕は大丈夫です」
「その言葉を信じてよい時と、信じてはならぬ時くらい、余にも分かるようになりましたぞ」
何も言い返せなかった。
ジュリも心配そうに七星を見ている。
「サイレントさん、いたいですか?」
七星はすぐに答えられなかった。
少しして。
「……痛くない」
小さく返す。
ジュリはそれ以上聞かなかった。
四人で医務室へ向かった。
◇
診察の結果、七星の身体に深刻な異常はなかった。
怪我もない。
実験による身体的な異常も確認されない。
強い精神的な負荷と疲労、それに長く泣いたことで呼吸が乱れたのだろうと説明された。
七星は寝台へ横になっている。
白い仮面は外されていた。
泣いた跡が残っている。
俺は少し離れた椅子へ座った。
レイネも近くにいる。
ザノバは医務室の入口付近に立っていた。
ジュリはザノバの隣だ。
しばらくして、廊下から急ぐ足音が聞こえた。
扉が開く。
「ルディ!」
シルフィだった。
まだフィッツとしての仕事着のままだ。
「シルフィ?」
「大学の人から聞いたよ。サイレントさんが実験中に倒れたって」
「倒れたというより……」
言葉を選ぶ。
「実験が失敗して、その後かなり取り乱しました」
シルフィはまず七星を見る。
眠ってはいない。
天井を見ている。
「身体は?」
「大きな問題はないそうです」
「ルディは?」
「僕も大丈夫です」
シルフィがじっと俺を見る。
ザノバが後ろから口を挟んだ。
「肉体的には、でございましょうな」
「ザノバ」
「事実でございます」
シルフィが俺の近くへ来た。
「家で話そう」
「家?」
「サイレントさんも」
俺は七星を見る。
「一人にしない方がいいと思う」
シルフィは続けた。
「ここに泊まってもいいかもしれないけど、医務室って落ち着かないでしょう?」
それはそうだ。
「でも、本人がどうしたいかを聞きましょう」
レイネが言った。
「はい」
俺は七星の寝台へ近づく。
「サイレントさん」
ゆっくり顔がこちらを向く。
「今日、一人で研究室へ戻るつもりですか?」
返事がない。
「僕たちの家へ来ませんか」
七星の目が僅かに動く。
「妹たちのために準備した客室があります。まだ二人も到着していませんし、今は空いています」
「……迷惑」
「迷惑かどうかは、僕たちが決めます」
そこまで言ってから、シルフィを見る。
「ですよね?」
「うん」
即答だった。
レイネも頷く。
「私も異存ございません」
七星が目を閉じる。
長い間。
そのまま。
「……今日だけ」
やっと返事が来た。
「分かりました」
今日だけ。
今はそれでいい。
明日のことは明日決めればいい。
◇
七星を家まで運ぶ役目は、結局ザノバが引き受けた。
「レイネ殿へ任せてもよいのでしょうが、余も何か役に立ちたいのでございます」
本人がそう言った。
レイネも、
「サイレント様が了承なさるのであれば」
と判断を本人へ委ねる。
七星はしばらくザノバを見た後、
「……お願い」
と答えた。
「お任せあれ!」
声が大きい。
「ザノバ。もう少し静かに」
「し、失礼いたしました」
急に小声になった。
少しだけ。
本当に少しだけだが。
七星の口元が動いた気がした。
大学を出る。
ザノバが七星を慎重に抱え、俺とレイネ、シルフィが横を歩く。
ジュリもザノバのすぐ後ろについてきたが、途中で研究室へ戻る必要があるため、大学の門で別れた。
「サイレントさん、おだいじに」
「……ありがとう」
七星が答える。
ジュリは少し安心した顔で手を振った。
家へ着く。
三人で用意した二つの客室。
ノルンとアイシャのために、新しい寝具を入れたばかりの部屋。
そのうち、庭側の一室へ七星を寝かせることにした。
ザノバが慎重に寝台へ下ろす。
「では師匠、余は大学へ戻ります」
「ありがとうございました」
「何かございましたら、いつでもお呼びくだされ」
少し迷ってから。
ザノバが眠っていない七星へも声を掛けた。
「サイレント殿」
七星が目だけを向ける。
「余は召喚術など分かりませぬ」
そこから一度言葉を止める。
「ですが、師匠が大切にしておられる方が苦しんでおるのであれば、余にできることがあれば力を貸しますぞ」
七星は返事をしなかった。
けれど、ザノバは無理に求めなかった。
「では」
頭を下げ、帰っていった。
俺たちは三人、部屋へ残る。
「お腹は?」
シルフィが尋ねる。
七星が首を振る。
「食べたくない」
「分かった。後で食べたくなったら言ってね」
「……うん」
レイネは水だけを寝台の横へ置いた。
「体調に変化がございましたら、すぐにお呼びくださいませ」
「分かった」
俺は何を言えばいいのか迷った。
研究の話はしない。
励まさない。
次があるとも言わない。
今は。
ただ休ませる。
「僕たちは下にいます」
七星がこちらを見る。
「一人でいたいなら、ここには入りません。でも、呼んだら来ます」
少しだけ間があった。
「……分かった」
それ以上言わず、部屋を出た。
扉は完全には閉めず、少しだけ開けておく。
七星が嫌だと言えば閉めるつもりだったが、何も言われなかった。
◇
一階へ降りる。
三人で食卓へ座った。
誰もすぐには話さなかった。
最初に口を開いたのはシルフィだった。
「怖かった?」
俺へ聞いている。
少し考えて。
「はい」
正直に答えた。
「サイレントさんが、あそこまで追い詰められているとは思っていませんでした」
レイネが俺を見る。
「ご自分を責めておられますか?」
「少し」
誤魔化さない。
「もっと早く分かったんじゃないか、とは思っています。帰りたがっていることは知っていましたし、研究に失敗した時の重さも、もっと考えられたんじゃないかって」
レイネはすぐに否定しなかった。
「その可能性はございます」
その返事がありがたかった。
何もかも俺にはどうにもできなかったと言われても、たぶん今は納得できなかった。
「ですが、ルーデウス様がすべてを事前に察知し、防ぐこともできません」
レイネは続ける。
「サイレント様ご自身も、本日の結果を見るまでは、ご自分がどこまで心を追い詰められるのか把握しておられなかった可能性がございます」
「そうですね」
成功する。
少なくとも大きく前へ進む。
七星自身が、そう期待していた。
だから、壊れた瞬間に、それまで支えにしていたものまで一緒に崩れたのかもしれない。
シルフィが言う。
「今は一人にしない。それでいいんじゃないかな」
「はい」
「研究のことは?」
少し考える。
「サイレントさんが自分から話せるようになるまで、こちらからは聞かないつもりです」
レイネも頷いた。
「私もその方がよろしいかと存じます」
「壊れた魔法陣も、そのままです」
「本日は触れない方がよろしいでしょう」
「はい」
七星の研究は終わっていない。
でも。
今日すぐ、次の方法を考えなければならないわけでもない。
今、俺たちが勝手にザノバやクリフ先輩へ研究資料を見せ、解決策を探し始めるのも違う。
あれは七星の研究だ。
どこまで他人へ見せるのか。
誰へ助けを求めるのか。
それを決めるのも本人であるべきだ。
「今日は、何もしません」
俺は言った。
「夕食だけ用意して、食べられそうなら食べてもらいます。それ以外は休んでもらいます」
「うん」
シルフィが頷く。
「明日のことは?」
「明日、本人と話します」
レイネが少し笑う。
「それでよろしいかと存じます」
二階を見上げる。
あそこには、本来ノルンかアイシャが使うはずだった部屋がある。
今は七星が眠っている。
ノルンとアイシャはまだ来ない。
母様もまだ帰っていない。
七星も日本へ帰る道を見つけていない。
レイネについても、俺の知らないことは多い。
今の俺の周りには、待っていることがたくさんあった。
少し前までの俺なら。
待っているだけでは何もしていないようで不安になり、何かできることを無理に探したかもしれない。
でも。
待つことと、放置することは違う。
ノルンとアイシャについては、そろそろ街道の情報を確認する。
母様については、ここでできる研究と準備を続ける。
レイネについては、本人が自分から話せる時を待つ。
七星については。
まず、目を覚ますのを待つ。
今はそれだけでいい。
夕方が近づく頃。
俺は一度だけ二階へ上がった。
扉の隙間から、中を見る。
七星は眠っていた。
泣いた跡はまだ顔に残っている。
寝台脇の水は少し減っていた。
俺は部屋へ入らなかった。
声も掛けない。
そのまま扉の前で数秒だけ立つ。
今日の実験では、何も召喚できなかった。
二年間積み上げてきた術式は、一箇所でつながらず、そのまま破断した。
原因も。
解決方法も。
今は分からない。
だから、七星が起きたら聞けばいい。
次にどうしたいのか。
俺たちに何をしてほしいのか。
答えを俺が先に決める必要はない。
静かに階段を下りる。
台所から、シルフィとレイネが夕食を準備する音が聞こえている。
俺は食卓の椅子へ座り、二階から誰かが呼ぶ声が聞こえた時にすぐ動けるよう、そのまま待つことにした。