「……おい、開いたぞ」
俺が呆然と呟くと、背後から驚愕の混じった声が響いた。
「ちょ、ちょっとあんた! あんたが今、それを開けたのかい!?」
おばちゃんが信じられないといった様子で目を見開いている。
「ああ、少し手をかけて、ぐっと押しただけで開いたぞ?」
「あんた、ルーディア値はいくつなんだいッ!?」
「2だ」
俺がそう答えると、おばちゃんは一瞬きょとんとした後、はぁと大きなため息をついた。
「だったら担当の奴が鍵を閉め忘れたんだね」
閉め忘れ……か。だが、理由はどうあれ扉が開いたのは紛れもない事実だ。これは、この地獄から逃げ出す絶好のチャンスなのではないか。
俺は開いた扉の隙間から少しだけ顔を出し、周囲の様子を窺った。
「逃げ出せそうだな。見張りもいないし」
ここへ連れてこられた時は厳重に鎖で繋がれていたが、今はそれも外されている。動きを制限するものはない。
「そこにはいなくてもね、敷地の入り口には見張りが二人いるよ」
おばちゃんが冷ややかに教えてくれる。
「となれば、あっちの裏山からなら逃げられるかもしれないな」
「どうかねぇ。夜の山は危険だからね」
「それでも、こんな家畜小屋に閉じ込められているよりはマシだろ。俺は逃げさせてもらうよ」
「そうかい。好きにしな。捕まらないといいねぇ」
不思議なことに、俺が脱走を口にしても、他に行こうとする者は誰一人としていなかった。あまりの過酷さに、もうここの生活に心が慣れちまって、諦めているのかもしれないな。
だけど……一人だけ、じっと俺を見つめて付いてきたそうにしている奴がいた。
「ナナミ。来るか?」
俺がしゃがみ込んで目線を合わせると、彼女は小さく、だが力強く頷いた。
「……うん。勇太に付いていく」
どうやらナナミは、俺のことを兄か何かの頼れる存在と思ってくれているようだ。この健気な子の未来のためにもなんとかここを無事に逃げ出さないと。
俺はナナミの手を引き、気配を殺して小屋から静かに抜け出した。
確かにおばちゃんの言う通り、屋敷の正面入り口の方には厳つい見張りが二人立っていた。が、屋敷の裏手にある山の方には誰も見張りがいない。それだけ夜の山が危険だから誰も来ないという証拠かもしれない。だが、逃亡を図る俺たちにとっては好都合極まりなかった。
採掘場の脇を通り抜けて山へと入ると、そこは道なんてない険しい藪だった。生い茂る草木を掻き分けて強引に進んでいく。元の世界にいた頃より何故か体力的には全く問題ないように思えたが、小さなナナミにとってはやはり辛い悪路のようで、だんだんと呼吸が苦しそうになってきた。
「ナナミ、俺がおぶってやるよ」
「おぶる?」
「こうするんだよ」
俺は彼女の前に背中を向けてしゃがみ込み、ナナミを背中に担ぎ上げた。
「勇太……」
ナナミは背中から、俺の首のあたりをギュッと力いっぱいに抱きしめてきた。物心つく前に家族に売られるような生活をしていたんだ、人におんぶしてもらうような温かい経験も今までなかったのだろう。
俺達は一晩中休むことなく歩き続け、山を越えた。危険だと言われていたのは、おそらく奴隷たちにそう思わせて逃亡する気を失せさせるための、主人の嘘だったようだ。道中は辛かったが、魔物に襲われることもなく、なんとか無事に山を越えることができた。
そして山の向こうに広がっていたのは、活気のある大きな街だった。
「ここなら、何か仕事があるかもしれないな。待ってろよナナミ、俺が働いて金を稼いで、美味いものを何か食べさせてやるからな」
俺の言葉に、ナナミは嬉しそうに大きく頷いた。
……しかし、現実はそう甘くはなかった。仕事のありそうな商店や宿屋を回って「働きたい」と申し出ると、決まって不躾にこう聞き返された。
「お前のルーディア値はいくつだ?」
俺が正直に「2です」と答えると、誰も彼もがゴミを見るような目で俺を一瞥し、二度と相手にしてくれなくなる。どうやらこの世界では、ルーディア値が高くないと、まともな仕事にすらありつけないらしい。まったく、この異世界はどこまでも生きづらい世界だ。
だが、働かなければ宿にも泊まれないし、食べ物だって買えない。俺はまだしも、小さなナナミをこれ以上ひもじい目に遭わせるのは辛かった。俺は必死に街を探し回り、ようやく、ルーディア値に関係なく働かせてもらえるという怪しげな場所を見つけた。
「ヘヘヘッ、いいぜ。働かせてやるよ。そっちのチビな女の子も一緒にか?」
出迎えた男が下品に笑う。
「働くのは俺だけでいい。この子は関係ない」
「そうか。まあ、仕事は簡単だ。船のモーターを回す仕事さ」
「モーター?」
「船の動力だよ。ただ力任せに動かすだけの簡単な仕事だから、誰にでもできる。飯は一日二回支給、給金は週に3ゴルドだ。それでいいか?」
「構わない。頼む」
この世界の正確な金銭感覚が不明な以上、3ゴルドが高いのか安いのかすら分からなかったけれど、今の俺に選ぶ権利など残されていなかった。
俺とナナミが連れていかれたのは、港に停泊している巨大な木造の船だった。
「この中がお前の仕事場だ。中で寝泊まりもできるから安心しろよ」
寝泊まり、か。それなら宿代も浮くし助かるな。そう思ったのも束の間だった。
「ほら、入れ!」
男に背中を押されて船の薄暗い底へと入ると、背後でガタタッ! と凄まじい音を立てて扉が閉められ、外から鍵をかけられた。……ナナミが恐怖と不安から、俺の手をぎゅっと強く握りしめてくる。
暗がりの奥へと進んでいくと、そこには大勢の人間がひしめき合っていた。どいつもこいつも、みすぼらしい格好をして目に生気がない。
「新入りか……。名前はなんて言うんだ?」
暗闇から声をかけてきたのは、髪の白い痩せた老人だった。
「勇太です。こっちはナナミ」
「そうかい。で、お前のルーディア値はいくつだ?」
「2です」
俺がそう告げた瞬間、周囲のあちこちから、落胆と諦めの入り混じった深い吐息が漏れ聞こえてきた。
「まあ、数がいないよりはマシだろ……。いいか、ここの仕事の説明をするぞ。あれを見ろ」
老人が指差した方向を見ると、そこには巨大な風車をそのまま横に倒したかのような、信じられないほど大きな丸い歯車が鎮座していた。
「あれを動かすのが俺たちの仕事だ。あの突き出た持ち手をみんなで掴んで、グルグルと回すんだよ。ルーディア値が高ければ高いほど魔導の力が乗って楽に回せるんだがね、ここにいる連中はみな100以下の最下層の連中ばかりだ。だから信じられないくらい重いのなんのってな……。覚悟していな」
老人の説明を聞いて、嫌な予感が胸を過る。
「わかりました。それより、ここで寝泊まりできると聞いたのですが、俺たちの部屋はどこですか?」
「ハッ、何寝ぼけたことを言ってるんだ。ここがそうだよ。ここで寝て、ここで食って、ここで働く。それが俺たちの生活のすべてさ」
「……外には出られないんですか?」
「当たり前だろ。自分をなんだと思ってるんだ? ここにいる全員、
老人の言葉に、頭を殴られたような衝撃が走った。
「まあ、今は船が動いてないから楽なもんさ。慣れればそんなに悪いところじゃないから、安心しな」
せっかく屋敷の家畜小屋から逃げ出したというのに、今度は船の底の奴隷か。なんとも運の悪いことか。ナナミ、ごめんな。また辛い思いをさせちまう。