闇の魔術大好き少女が認められるまで 作:闇の魔術連盟名誉会員
そこで、ようやく違和感に気づいた。
部屋の中央、普通なら洗面台のあるはずの床に、大きな穴が開いている。まるで最初からそこに入口が用意されていたかのように、地下へ続く暗い空間が口を開けている。
私は穴の縁まで近づき、そっと中を覗いた。底は見えない。それに、下から湿った空気が上がってくる。
「……秘密の部屋、だったりする?」
そこまで言った瞬間だった。背後で、杖を振る気配がした。
「ストゥーピファイ!」
赤い閃光が飛んでくる。
咄嗟に身体をひねると、呪文は私の肩を掠めて洗面台へぶつかり、陶器を派手に砕いた。私は床を滑るように距離を取りながら、杖を向ける。
そして、相手の顔を見て動きを止めた。
「……ジニー!?」
そこに立っていたのは、間違いなくジニーだった。赤い髪も、小柄な身体も、見慣れたローブ姿も。
けれど明らかにおかしい。いつものジニーなら、こんなふうに杖を構えない。
何より、目が違った。
私を見ているはずなのに、その視線には知っている人間へ向けるものが何もない。冷たく、値踏みするような目で、ただ邪魔なものを見ている。
ジニーの口元がゆっくり持ち上がった。
「バジリスクをつけていたことには気づいていたが、まさかお前とはな。この小娘から、お前のことは散々聞かされている」
声そのものはジニーのものだった。
でも、喋り方がまるで違う。
「……誰?」
問いかけながら、私は考える。
ジニーの身体を使っている。
憑依か精神支配、もしかすると魂の上書き。どれかは分からない。
ただ、相手がジニーの身体に入っている以上、普段のように好き勝手な魔法を撃つわけにはいかなかった。それに、バジリスク以外の敵のことは頭になかったので、準備もおろそかだ。
中にいるものだけを狙って引き剥がすには、まず構造を見なければならない。
ほんの一瞬。レンズを変えようとして、手が止まった。
相手はそれを見逃さなかった。
「クルーシオ!」
視界が白く弾けた。
「あ、あああああああっ!!」
声が自分のものだと分かったのは、喉が裂けるように痛んでからだった。
痛い、なんて言葉では足りない。
皮膚の下へ無数の熱した針を刺し込まれ、その一本一本で神経を掻き回されているようだった。背骨の奥から頭の先まで一気に電流が駆け抜け、身体中の筋肉が勝手に強張る。逃げようとしても、どこへ逃げればいいのかすら分からない。身体そのものが痛みの発生源になっていた。
膝が折れた。床へ倒れた衝撃さえ、別の痛みとして全身へ広がる。
握っていた杖が指の間から零れ落ちたけれど、拾おうとすることすらできなかった。指を曲げるだけで腕の奥を焼かれるように痛み、呼吸をしようと胸を膨らませれば、その動きまで罰するように新しい苦痛が走る。
「ぁ……っ、や、ぁあああ……!」
息ができない。なのに叫び声だけは勝手に漏れる。
涙で視界が滲み、唾液が口元から垂れているのが分かる。それを拭うことも、口を閉じることもできない。身体を丸めようとしても筋肉が痙攣するばかりで、床の上で無様に震えることしかできなかった。
どれだけ続いたのか分からない。数秒だったのかもしれないし、ずっと長かったようにも感じた。
その向こうで、ジニーの姿をした何かが笑っている。
見慣れたはずの顔に浮かんでいるのに、その笑みだけはまるで知らないものだった。
「随分と妙な魔法を知っているそうだな。だが、身体はただの小娘らしい」
何かが私の杖へ触れた。ジニーの靴先だった。
まずい…………そう思ったときには、もう遅い。杖は床を転がり、そのまま開いた穴の縁を越えた。からん、と一度だけ石に当たる音がして、そのまま暗闇の底へ消えていく。
痛みで震える手を、ローブの内側へ滑らせる。
予備はある。こういうことがあるから杖は一本しか持たない主義を、私はあまり信用していない。
指先が柄に触れる。
「エクスペリアームス!」
赤い光が走った。相手は身体を捻って避ける。
完全には当たらなかった。けれど、呪文を避けるために集中が途切れた瞬間、全身を締めつけていた磔の呪文が消えた。
私は床を転がって距離を取り、そのまま杖を振る。
「コンフリンゴ!」
爆発。
ただし、直接ジニーへは当てない。
二人の間の床を狙った。石床が弾け、粉塵と破片が一気に吹き上がる。
「ステューピファイ!」
向こうから赤い閃光が飛んでくる。私は砕けた洗面台の陰へ飛び込み、呪文をやり過ごした。
強い。というより、慣れている。ジニー本人の技量ではない。
一年生が咄嗟にここまで正確な決闘をするとは思えないし、磔の呪文を何の躊躇もなく使うとも思えない。
最近のジニーは確かにおかしかった。
疲れていた。ぼんやりしていることもあった。話しかけても反応が遅い日もあった。
でも、こんなものに完全に身体を奪われているようには見えなかった。外から妙な霊魂が入り込んで、生徒一人へ取り憑き続けるなんて簡単にできるとは思えない。
私は洗面台の陰から杖だけを出す。
「あなた、何者?」
返事はすぐに返ってきた。
「名乗る必要があると思うか?」
「ジニーに何をしたの?」
少し間があった。
そして、ジニーの顔を使っているというのに、その笑い方だけがひどく大人びて見えた。
「何も。私はただ、この娘が望んだ通りに話を聞いてやっただけだ。寂しい、怖い、誰にも言えない――実にたくさんのことをな」
ぞっとした。
その言葉で、日記帳が頭に浮かんだ。いつもジニーが持っていた、あの古い日記。
「……日記?」
相手の笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
当たりらしい。
「お前は余計なところで勘がいい。だからこそ、ここで見られた以上、生かして帰すわけにはいかない。ダンブルドアに知られるのは、まだ早い」
その言葉に引っかかった。
けれど、考える暇は与えてくれなかった。ジニーの身体を使った何者かが、ゆっくりと穴の方へ杖を向ける。
そして人間の喉から出たとは思えない、低く擦れた蛇語を発した。
『来い。バジリスク』
穴の奥から。
ずる。
さっきまで追いかけていた音が聞こえた。
ずる、ずる、と。
今度は遠ざかる音ではない。近づいてくる。地下の暗闇から、何か巨大なものが石壁へ身体を擦りつけながら登ってくる。
私は眼鏡の位置を確認し、杖を握り直した。
やがて、暗い穴の中から巨大な頭がゆっくりと姿を現した。
まず見えたのは鼻先。次に、鱗に覆われた頭部。そして、こちらを探すように動く大きな目。
「……大きい」
思わず声が漏れた。
バジリスクで間違いない。
だが問題は、大きさだった。
「うちの子より、かなり大きい……」
巨大な怪物が私の前に現れた。
鱗に覆われた頭だけでも、私が家で見慣れている個体より明らかに大きい。狭いトイレの中へ無理やり押し込まれたような巨体が身をくねらせるたび、石床に鱗の擦れる重い音が響いた。
そして、ジニーの口から蛇語が飛ぶ。
『バジリスク、そいつを殺せ!』
怪物の首が動き、真正面からこちらを向いた。
次の瞬間、頭の奥を太い針で貫かれたような痛みが走る。
「っ……!」
視界が大きく揺れた。
目そのものが焼けるような感覚ではない。もっと内側から、脳を直接掴まれているような嫌な痛みだった。でも、動けないほどではない。レンズは効いている。
少なくとも、まともに目を合わせた瞬間に死ぬことだけは防げているらしい。
それが分かっただけでも十分だった。
私はすぐに杖をジニーへ向ける。
「インペディメンタ!」
呪文が命中し、ジニーの身体がぐらりと後ろへ傾いた。完全に動きを止めることはできなかったけれど、杖を振る速度は明らかに落ちる。
その隙に距離を取ろうとした。
けれど、身体が思ったようについてこない。さっき受けた磔の呪文のせいだ。
脚に力を入れているつもりなのに、膝が遅れて動く。指先もまだ細かく震えていて、身体全体が自分のものではないような感覚が残っている。
バジリスクが一気に間合いを詰めてきた。
速い。あの巨体で、信じられないほど速い。
私は床を蹴り、飛び上がるようにして横へ逃れようとした。
けれど、一歩目で脚がもつれる。
まずい。
巨大な顎が開き、牙が見える。
避けきれない。いっそのこと、自分で死ぬしか……
そう思った瞬間、口から言葉が出ていた。
『待って!』
バジリスクの動きがぴたりと止まった。開きかけていた顎がそのまま止まり、巨大な頭が私の目の前で静止する。
私は床へ半ば倒れ込んだまま、その姿を見上げた。
「……え?」
ジニーも止まっていた。
ジニーの身体を使っている何かが、初めて明らかに動揺していた。
『殺せ! 何をしている!』
再び命令が飛ぶ。
バジリスクの頭がわずかに動く。けれど、今度はすぐには襲ってこなかった。
怪物はジニーの方を見て、それから私を見る。まるで、どちらの命令に従えばいいのか分からないとでもいうように。
私は息を整えながら、もう一度蛇語で命じた。
『そこにいて。動かないで』
バジリスクはしばらくこちらを見つめたあと、ゆっくりと頭を下げた。
……通った。
私の命令も。
バジリスクは巨大な頭を低くしたまま、私とジニーを交互に見ている。
さっきまで殺意をむき出しにして襲いかかってきた怪物が、今は命令を待つようにその場で止まっていた。
その光景を見ていたジニーの顔から、初めて余裕が消えた。
ジニーの体を使っている、何かの声が落ちる。
「……どういうことだ」
私は答えず、視線だけを足元へ向けた。少し離れたところに、さっき落とした予備の杖が転がっている。
ほんの少し身体を動かせば届く…………。
その前に、ジニーがこちらへ歩み寄ってきた。
逃げようとしたけれど、磔の呪文を受けた身体はまだまともに動いてくれない。肩を壁へ押しつけられ、そのまま顎を掴まれて無理やり顔を上げさせられた。
近い。
見慣れたジニーの顔なのに、そこに浮かんでいる表情だけが完全に別人だった。
「お前は何者だ?」
「セレフィナ・ミッドナイト。魔法工房の看板娘」
「そういう意味ではない」
指に力が入る。
相手の視線は、私ではなく、その向こうにいるバジリスクへ一度だけ向けられた。
「このバジリスクは、サラザール・スリザリンが自らの継承者のために残したものだ。私以外の命令に従うはずがない。それが、お前の言葉で止まった」
そこでようやく、私も意味を理解した。
蛇語が通じたからではない。
問題は、このバジリスクが私の命令に従ったこと。相手も同じ結論へ辿り着いたらしい。
「まさか……お前も、スリザリンの血を引いているのか」
「知らない」
これは本当だった。
親族についてお母様からは殆ど聞いたことがない。父親について聞いたことはわずかに、私の強い魔力が父親由来だと言っていたことがあった程度だ。
少なくとも、あなたの父親はサラザール・スリザリンの子孫です。なんて話をされた覚えはなかった。
相手は私の顔をしばらく眺め、それから何かを探るように問いかけてきた。
「父親は誰だ?」
「知らない。聞いたことないから」
その答えに、ほんの一瞬だけ眉が動いた。
「自分の父親すら知らない?」
相手は小さく笑った。
「だが、間違いなく何かある。そうでなければ、この怪物がお前の命令を受け入れる説明がつかない」
その言い方は、妙に確信に満ちていた。
「お前には偉大な魔法使いの血が流れているのだろう。もっとも――」
私のローブや、床に転がっている杖、それからバジリスク対策用の眼鏡へ視線を巡らせる。
「教育には少々問題があったようだが」
失礼だな。お母様の教育はかなりしっかりしている。
そう思いながら、私は顎を掴まれたまま、ゆっくりと足を動かした。
杖まで、あと少し。指を伸ばす。
相手の目が私の手元へ落ちた。
「クルーシオ」
「あああああっ!」
悲鳴と同時に、身体が弓なりに跳ねた。
全身へ一気に痛みが走り、伸ばしていた手が床へ落ちる。一度目の磔の呪文で痛めつけられた身体へ、同じ場所を選ぶようにもう一度苦痛を流し込まれている。
それが何よりきつかった。私もよく使っているので、効果のほどは理解しているつもりだった。それでも、生きていたくないくらいに苦しい。
神経が覚えている。次にどこが痛むのか、身体だけが先に知ってしまっている。
だから痛みが来る直前から身体が怯え、肩が震え、指が床を掻く。それでも逃げる場所はなく、次の瞬間にはまた全身が大きく跳ねた。
「や……っ、ぁああああっ!」
しばらくして呪文が解かれる。
私は壁にもたれたまま、荒い呼吸を繰り返した。今度は杖を拾う余裕すらなかった。
相手はそんな私を見下ろしながら、静かに口を開く。
「まだ名乗っていなかったな」
ジニーの顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「トム・マールヴォロ・リドル」
聞いたことのない名前だった。
少なくとも、すぐに何者か分かる名前ではない。
「覚えておくといい」
トムはそう言って、私の顎から手を離した。
「私はお前を殺すつもりだった。だが、気が変わった」
その視線が、再びバジリスクへ向かう。
「これが偶然でないのなら、お前にもサラザール・スリザリンの血が流れている。しかも、この小娘から聞いた限りでは、お前は一年生にしては異常なほど多くの魔法を知っているらしい。ずいぶん歪んだ教育を受けたようだが、素材そのものは悪くない」
「歪んでない」
そこだけは訂正しておく。お母様への侮辱は許さない。
トムは気にも留めず、むしろ私の反応を楽しむように続けた。
「お前がこれまで何を教えられてきたかなど、どうでもいい。重要なのは、これから何になるかだ。サラザール・スリザリンが残したものを受け継ぐ資格があるのなら、こんな学校で凡庸な魔法使いたちに混じり、教師の決めた範囲で温いおままごとを続ける必要などない」
ずいぶん大きな話になってきた。
「私に従え、セレフィナ。お前には力がある。正しく導けば、いずれ偉大な魔女になれる。私なら、お前にその道を示してやれる」
妙に穏やかな声だった。
だからこそ、まったく信用できなかった。
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