001 老将の憂鬱
「今年の冬は、ずいぶんと厳しいものになりそうだ。」
これは、帝国暦一八一八年十一月十日に書かれた、一人の老人の日記である。
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この、齢七十を過ぎた老人は、名をティメル・ヴェル・ミルダネスといった。
本来はより長大な全名を持ち、その家史は帝国の——つまりはこの大陸における主要文明の開闢と等しいと信じられた、れっきとした名門貴族である。
これはすなわち、彼がこの大陸の支配種族である、常人族の貴種であることを意味した。
そしてまた、彼は若き日には帝国の祖国統一戦争に従軍し、敵国の宮殿で行われた統一帝の戴冠式に参列する栄誉に浴した英雄であり、老いては人臣として最高位である元帥号を受けた、陸軍の長老であった。
しかし、この頃のミルダネスと相対したとしても、彼が名門貴族家の当主であり、またかつては前線を縦横に駆け巡った歴戦の宿将であったと信じることはできまい。
なるほど、見た目には然程年齢を感じさせない。日々の散歩や庭の手入れを疎かにしなかった彼は、背筋は伸び、全身に活力がみなぎっている。頭部の白髪は尚も豊かであり、これを切り揃え、清潔に撫で付けている。
とはいえ、国民の多くが——軍人としてであれ軍属としてであれ、何らかの形で——従軍経験を持つこの国では、老人がこの種の頑健さを示すのは、そう珍しいことではなかった。ましてや、この国には〈長命種族〉、すなわち、長耳族、鍛冶族、穴居族といった、老いても常人族よりも若々しい容貌を湛えた種族が存在したから、なおのことである。
軍人であった頃の習慣で質素堅実を好んだミルダネスは、散歩をするにも庭の手入れをするのにも、濃灰色の背広を好んだ。質は良いが瀟洒とは無縁の羊毛仕立てで、汚れが目立たず、擦り切れず、ちょうど若き日に親しんだ軍服のように、ミルダネスはこの背広を愛用した。これと、夏用に仕立てた同様の麻の背広が、隠居後のミルダネスの「制服」であった。
そう、彼は隠居の身である。かつての英雄にして陸軍の長老は、近代戦争の目まぐるしい進歩を前に、戦場を去り、辺境の領地へ居を移した。
領地といっても、中央集権化が著しく進み、貴族称号が名誉以外の何物も保障しなくなったこの時代においては、単に先祖伝来の地所であるに過ぎない。その先祖伝来の地所にしても、ミルダネスはその大半を陸軍中尉である息子へ贈与し、隠居料収入になる程度の不動産だけを手元に置いて、あとは日々を散歩と庭の手入れ、そしてたまの狩猟に費やした。
ミルダネスは、もはや全てに倦んでいた。何しろ、当時普及し始めたラジオも手元に置かず、新聞も週に一度、領地近郊の鉄道駅のスタンドで買い求めるだけであった。
「軍人としての自分の命数はもはや尽きた。」とは、一八一四年七月末、大陸全土を巻き込んだ大戦の勃発を知ったミルダネスが日記に記した言葉である。戦場は変わった。大規模化と機械化が進んだ近代戦争からは、もはやかつての魔術的な、あるいは叙事詩的な魅力が失われたように思われた。
ミルダネスは、かつての英雄である。度重なる戦いにことごとく勝利し、国定教科書にもその名を刻んだ、正真正銘の英雄である。そうであればこそ、ミルダネスは自らの限界を熟知していた。若き日の闊達さが円熟した慎重さに、そしてやがては優柔不断に取って代わられるのを、ミルダネスは自覚していた。
「今度の戦争は長くない。遅くとも、冬至祭までには終わろう。そのような時に、私のような老耄が居座るものではあるまい。」
開戦を告げに来た軍中央からの使者にミルダネスがこのように告げたのは、謙遜ではなく本心であった。即決即断が求められる新しい戦争において、もはや自分は老廃でしかない。若者に道を譲り、その勝利を過去の英雄として心から祝福してやるのが務めだと、そう確信していた。
しかし、戦争の大規模化と機械化は、この大戦——後に世界大戦と呼ばれる——に、思わぬ波紋を生じさせた。この大陸に位置するありとあらゆる列強の予想に反して、戦争は長期化した。
どの列強も、自国軍の打撃力を過信し、敵国の防御力を見誤り、何らの準備も済まないままに、大戦はなし崩し的な長期戦へ移行した。
もとより、突発的な開戦であった。複雑を極めた列強諸国の勢力均衡が、些細なきっかけから破綻し、ドミノ状に崩壊した結果生じた、偶発的な事故と言うべき戦争であった。それでも短期決戦ならばと、列強はその膨大な国力を、戦場へ惜しげもなく注ぎ込んだ。
その結果が、ミルダネスを含めて誰一人として予期しなかった、四年間にわたる長期戦である。
長期戦の愚は、列強の中枢にいる者なら誰しもが熟知するところであった。もちろん、ミルダネスもその一人である。
第一に、列強はいずれも複雑な通商関係を持ち、いずれの国家もその必要とする資源を自給自足することができない。従って、長期戦に伴う通商関係の停滞は、必然、資源の不足、国家経済の破綻を意味した。特に、海外植民地との通商関係が海上封鎖によって途絶すれば、それは国家経済の破綻を通り越して、壊死さえ意味しかねなかった。
第二に、この大陸、この世界には、人間の支配の及ばない領域が存在した。攻撃的な異形の生態系を有し、武装なしでは侵入することもままならない、〈死の領域〉。〈死の領域〉からは定期的に妖魔が溢れ出し、周辺地域に深刻な被害を与えていた。有史以来、いずれの国家においても、この〈死の領域〉への対処は、国家と軍隊の重要な責務である。ミルダネスにしても、殺めた人の数よりも、〈間引き〉した妖魔の数の方が多いことは明らかだった。しかし、長期戦となれば、この〈間引き〉が疎かになる。ましてや、今回の大戦は列強全てを巻き込んだ戦争である。前線に兵備が集中し、後方——〈死の領域〉は辺地に位置する——が手薄になるのは、当然の帰結であった。
ミルダネスの領地でも、日に日に長期戦の影響が顕在化していった。
第一に、資源の不足。食糧生産が盛んな東部辺境の農村であったから、食糧には事欠かない。しかし、燃料や日用品が不足した。また、都市部では配給制が敷かれたが、これを逃れようと種族の別なしに市民や商人が訪れ、農村で不足する物資や、時には札束を積んで食糧を買い求めようとした。
むろん、軍人として規律を重んじるミルダネスはこのような不正を許さなかった。それでも、訪ねてきた人々には夕餉を馳走してやり、よく諭して街へ帰らせるのが常であった。
第二に、妖魔の影響。樹木と見紛う巨大な牙を備えた大猪が畑を襲い、農民を殺傷した。家屋ほどの背丈を持つ大熊が崖を崩し、水路を塞いだ。巨虫の群れが森の木々を食い尽くし、地滑りが起きた。季節が巡るたびに、〈間引き〉されずに残った妖魔たちが〈死の領域〉から溢れ出し、辺境の村を苦しめた。
ミルダネスは自身の領地で働く小作人たちや、近隣の自作農たちを集めて自警団を組織したが、それでも自ずから限界があった。
何しろ戦時である。頑健な働き手は男女の別も種族の別もなく兵士として徴兵され、さもなくば軍属として徴用される。それでも戦争初期の頃は猶予があったが、長期化につれて、いよいよ老人と子供、あるいは後送されてきた傷痍軍人か、徴兵も徴用も免れた身体虚弱者、あとはせいぜい産業や統治機構を守るために残された者ばかりになっていった。ミルダネスの領地で最も若く頑健なのが、村役場の出納係の男——徴兵に不適格な半病人——だというのだから、笑えない話であった。
それでも、ミルダネスは粘り強く妖魔と相対し、時に正面から数を恃んで、時に側面から知略を尽くして、これを狩り出した。
そうして、大戦勃発から四年が過ぎ、何とか領地周辺の妖魔の数が適正な範囲に収まりだした、一八一八年十一月十日のことである。ミルダネスは、いつものように領地を見周り、余勢を駆って散歩へ出かけ、庭を手入れして、日記帳に先の「今年の冬は、ずいぶんと厳しいものになりそうだ。」という文句を記した。この年の冬は厳冬の気配があり、特に燃料不足への不安が大きかったことから、その事実を端的に記したものであった。
領外では、食糧不足が極めて深刻であり、帝都では餓死者も出たという。長期戦による食糧輸入の途絶に、食糧供給地での〈間引き〉不足による妖魔の氾濫が重なった上に、一八一八年の夏は記録的な冷夏であった。
さらに、馬匹・鉄道・自動車の類も軒並み前線へ駆り出され、ロバすら不足するあり様では、貴重な食糧を国土全域へ行き渡らせるための輸送手段がない。仮にあったとしても、飼葉や燃料の類も不足しているから、長距離輸送に耐えない。
こうした事情は、隠居して世情に疎いミルダネスでさえも実感を持って熟知するところであった。もしも自分がこの領地に隠居していなかったら、この領地はどうなっていたことか——そう想像するだけで、ミルダネスの背筋が凍った。
あくる一八一八年十一月十一日、いつものように早朝に目覚め、いつもの濃灰色の背広に着替え、庭先に出て配達された牛乳——これも都市部では深刻な不足を来している——に口をつけたところで、ミルダネスの視界の遠方に、濛々と立ち込める土煙が映った。
舗装のない田舎道であっても余程の速度で走らなければ、遠目にわかるほどの土煙など上がるものではない。すわ、妖魔の氾濫か野盗の行軍かと警戒心を抱きかけたが、様子を見るに、この辺境には珍しい自動車のようであった。
「これは珍しく来客かな。」
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久方ぶりの来客、それも辺境には珍しい自動車を駆ってやってきた訪問者は、近隣の軍駐屯地からの使者であった。
「元帥、ミルダネス閣下、突然のご無礼をお許しください——危急の事態です。」
息を切らしてやってきた鍛冶族系——短躯だが屈強な、編み髭の陸軍大尉は、駐屯地のある地方都市からこの辺境まで、不休で車を飛ばしてやってきたのだという。
「結構、まずは掛けたまえ。またどこかの戦線で敗れでもしたか。この老骨に鞭打たざるを得ぬほどに、戦況は悪いのか。」
なるほど、戦況は悪い。帝国は敵に囲まれている。西方に位置する陸軍大国〈共和国〉、南方に位置する〈都市国家連合〉、世界最大の植民地を誇る海軍国家〈連合王国〉、そして新たに、海向こうの眠れる大国〈連邦共和国〉が戦列に加わった。東方に位置した〈神聖王国〉こそ、革命騒ぎで王朝が倒れて戦線から脱落し〈評議会人民国〉と名を変えたが、それでも西部・南部の諸戦線において、帝国は圧倒的不利を被っていた。
「昨晩、帝都……帝都バーレンハイム近郊にて、市民の暴動が——現地守備隊の多くも暴徒に与し、もはや収拾もままならず……! 皇帝陛下は、内戦を避けるべく今朝早くに国事不関与を宣言され、中立国へ……〈低地諸国連邦王国〉へと御出立を……。」
ミルダネスは瞠目した。持って回った言い方ではあるが、これはすなわち、革命と亡命である。
確かに戦況は悪く、食糧不足が続き、国民生活は悪化の一途を辿っている。このような状況下で、革命騒ぎが生じるのは当然の理である。しかしながら、それが一挙に皇帝の亡命にまで急展開を見せたことに、ミルダネスは驚愕を禁じ得なかった。
「なんと、なんと畏れ多いことか。——しかし、玉体の安全が保たれたことに安堵せねばならんな。後を襲うのは皇太女殿下か。いや、皇太女殿下は軍を掌握しておられぬな。ならば皇子殿下か。」
混乱をきたしつつも、ミルダネスはかろうじて思考を立て直す。戦前から、帝位継承をめぐる国政の分裂と混乱は周知の事実であった。皇帝の健在と、外敵の存在が、かろうじてこの国を繋ぎ止めている。
「それが、暴徒らは帝室の排斥を……共和制の樹立を訴えており、議会内にもそれに同調する動きがあります。今や、帝都では〈即時講和〉〈帝政廃止〉〈制憲議会〉を訴える横断幕が、そこかしこに翻っております。内閣は陛下の国事不関与と同時に総辞職を宣言し、諸党派の代表者が暫定内閣樹立へ向け協議を重ねています。」
「なんたることだ。帝都は忘恩の都に堕したか——。」
帝室崇敬の念が強いミルダネスにとって、共和制とは講学上の観念か、あるいは不倶戴天の隣国たる共和国の国制にすぎなかった。
「軍内部にも不穏の動きがございます。当軍管区も一枚岩ではなく、対応を決めかねております。陛下が帝国を去られる今、これを抑えるため、元帥閣下にお頼りすることになるやもしれません。我々としても心苦しく、誠に情けない限りでございますが。何卒、何卒。」
帝位継承をめぐる対立は、以前より軍に深く根を張っていた。そこに共和制やより過激な革命へ同調する勢力が加われば、血で血を洗う内戦が待っている。
大戦と妖魔に苦しみ、瀕死の帝国。ミルダネスに、躊躇は許されなかった。
「判った。この老骨でも出汁になるというなら、喜んで差し出そう。」
「閣下……!」
とはいえ、ミルダネスにも守るべきものがあり、日々の糧があった。
「本来ならすぐにでも出立したいところだが、この領のこともある。このまま休戦となれば、心配も少ないが——自警団の引継ぎやら、領地運営の引継ぎやらを済ませねばならん。」
この判断はごく常識的な在地領主のそれであって、特段責められるものではない。もとより隠居の身であったから、無理を通しているのは軍であり、そして現在の特異な情勢そのものである。
「それは理のあることでございます。閣下の当地安定のためのお骨折りには、軍管区司令部としても感謝してもしきれぬところ。閣下のお力がなければ、当地一帯がどれほどの惨劇に襲われたことか……。どうか、遺漏なきよう、万全を期されたく。」
「心遣い、痛み入る。私の力が必要になるような事態にならねば良いのだがな。」
しかしながら、この時の領地残留の判断を、ミルダネスは生涯にわたって後悔することとなる。