「行軍! 行軍の間は、全てを忘れることができる。行軍! 兵卒にも将帥にも、平等に訪れる静寂!」
帝国暦一八一九年三月二十一日。ミルダネスは眠気をうかがわせる筆致でこう書き残した。
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古帝国に割拠する諸長官が独立を強めて以来、一〇〇〇年の永きにわたって、帝国は分裂状態にあった。そのため帝国の諸地域は、その地理に応じてまったく異なる産業基盤を有している。
大まかに述べれば、帝国西部は重工業、帝国中南部は軽工業と精密機械産業、帝国東部は農業を基盤として、大陸全土へ精力的に産品を輸出し、諸君侯の国庫を富ませてきた。諸君侯は、富と力の源泉であるこれらの産業を一層守り立てるべく、原材料の輸送と製品の輸出のため、精力的に鉄道網を整備した。分裂著しかったとはいえ、統一前の帝国においても、諸君侯は〈帝国〉という国家の諸長官であるという建前が生き続けていたことも大きい。これがまったく縁のない外国との国境であれば、当然、国防上も産業保護上も、鉄道の整備は及び腰になるものである。
こうした経緯から、祖国統一戦争を経た帝国には、統一の当初から、網の目のごとき鉄道網が存在した。特に、東部の中心都市レギスヘーエンと帝都バーレンハイムとの間には、早くから〈帝国横断鉄道〉の東半分、〈帝国東部鉄道〉が整備された。ミルダネス家がボレアニス朝に早くから服属して祖地レギスヘーエンを割譲したこと、そしてレギスヘーエンが東部辺境地帯の海陸における食品集積地であったことから、いわば〈帝都の食糧庫〉への大動脈として、帝国東部鉄道の整備は最優先で行われた。
帝国東部鉄道の存在は、一方では東部辺境地帯の農民・漁民の所得を高めもしたが、他方では東部辺境地帯の食品供給基地化と、帝都および西部工業地帯への人口流出をもたらした。帝国東部鉄道沿線一帯には、広大な農業・漁業地域が広がり、工業化の歩みは極めて遅いか局地的なもの、あるいは加工食品製造などに限られている。特に帝国東部鉄道の終点にあたるレギスヘーエンではその傾向が著しく、レギスヘーエンがミルダネス〈大公〉治世下の栄華を失った要因のひとつが、帝国東部鉄道の存在にあった。
世界大戦における志願兵の割合も東部辺境地帯出身者が際立って多く、徴兵検査合格率も東部辺境地帯出身者の方が高かった。そのことが戦時下における一層の人口流出をもたらし、〈死の領域〉管理の不全と妖魔被害の増大、そして帝国における破局的な食糧不足を招いたのは、歴史の皮肉というほかない。
しかし、今や帝国における全権を掌握したミルダネス率いる摂政体制にとって、東部辺境地帯および帝国東部鉄道沿線一帯のこうした事情は、むしろ帝都救援のための好材料として働いた。
帝都バーレンハイムと東部軍管区司令部のあるレギスヘーエンとの間には、革命派包囲下にある大都市が一切存在しない。無論、途中にはレギスヘーエン以外の港湾都市や接続駅も存在し、局所的に工業化が進んでいる地域もある。そうした地域で革命派が個別の拠点を占拠していることは考えられるが、それを除けば、帝国東部鉄道沿線一帯は素通りできると考えて差し支えなかった。
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帝国暦一八一九年三月二十一日、帝国東部鉄道レギスヘーエン駅。
元帥摂政公ミルダネスは、急造装甲列車〈大公号〉食堂車にあった。
「国鉄東部支社の報告によりますと、帝都とレギスヘーエンの中間を少し過ぎたあたり。ステリノールの操車場に、革命派が立て篭っているようです。」
帝国軍東部軍管区司令官ヴェイルワード中将が、卓上に置かれた路線図を指し示した。
レギスヘーエンを〈帝都の食糧庫〉とするなら、ステリノールは〈帝都の勝手口〉である。帝国北西部の一大港湾地帯には及ぶべくもないが、最小限の造船設備と物流基盤が整えられ、小型船舶や小規模輸出入の拠点とされていた。
「操車場? 現地守備隊では制圧できなかったのか。」
ミルダネスが疑問をぶつける。ステリノールは軍管区司令部こそ置かれていないが、それでも〈帝都の勝手口〉。小規模な造船所と港湾を守る程度の守備隊は置かれているはずであった。
「はい、元帥閣下。革命派はスクラップにする予定の廃棄車両を引っ張り出してきて即席のトーチカに仕立てたようで、突破が難しいと。」
「そうは言っても、革命派が重機関銃を持ち出したわけでもあるまい。火力での突破は?」
「持ち出した廃棄車両には旧式の機関車が含まれております。あれは鉄の塊ですから——。」
「突破に更に火力が要るが、下手に火力をぶつけると操車場が破壊される、か。難題だな、中将。」
ミルダネスとヴェイルワードが思案していると、列車の前方から汽笛が聞こえてきた。
出発の準備が、整いつつある。
「敵の破壊工作は?」
「連中も鉄道施設を破壊したくはないようです。郊外の倉庫を襲って当面の食糧を得たとはいえ、それでも限度はありますから。」
「帝都制圧の後、東部辺境地帯を略奪するには、ステリノールの操車場が必要不可欠か。
妖魔も革命派も、食い意地にかけては我々と変わらん。
——どう落としたものか。」
ホームから、出発を告げる笛の音が聞こえてくる。
ミルダネスはそれを合図に、曖昧な思考の海に沈んだ。
***
ミルダネスは若き日の祖国統一戦争において、優れた戦略眼を発揮して〈いない〉。
祖国統一戦争におけるミルダネスの戦功が事実無根であるとか、ミルダネスが詐欺師であるというのではない。ミルダネスが若き日に戦った戦争は、そもそも優れた戦略眼なるものを必要としなかったからである。
祖国統一戦争の頃のミルダネスは、軍服に煤ひとつ付かない新品少尉だった。祖国統一戦争におけるミルダネスの戦功とは、前線での果敢な陣頭指揮や、眼前で危機に陥った味方部隊の救援、そして降伏した敵軍に対する寛大な取り扱いといった、いわば部分最適の蓄積である。これらの戦功はミルダネスという軍人の勤勉と善良を示すものではあるが、それらは決して、優れた戦略眼という類のものではない。祖国統一戦争におけるミルダネスは、ただ〈生き延びる〉ことに終始したと言ってよい。
そして、皇孫教導官と中央勤務を経て、より高い階梯の指揮官として臨んだ海外における植民地戦争でも、事情はそう変わらない。限られた戦力しか持たない敵に、同じく限られた戦力で臨むのが、ミルダネスの時代の植民地戦争である。帝国暦十八世紀後半における植民地戦争とは、列強が本国同士の全面戦争に陥らない範囲内で行う〈制御された戦争〉であり、〈紳士達の決闘〉であった。無論、そこに植民地の先住民や植民者の生命財産という犠牲はつきまとったが、破局的な全面戦争よりはより〈文明的〉である、というのが同時代的な認識であった。
植民地戦争における海外派遣軍の任務とはすなわち、点と線の制圧である。若き日のミルダネスの任務も、まさにこの点にあった。植民地とはすなわち巨大な未開発地帯であり、そうである以上、点在する開発・交易拠点と、それらを結ぶ幹線鉄道や幹線道路は極めて貴重な存在である。この時代、ある植民地の制圧とは、これら点と線の制圧と同義であった。
植民地は広大である。帝国が主要な植民地を獲得した南方の〈砂海大陸〉などは、広大な砂漠や草原、山脈や密林が連なっており、そこに長大で曲がりくねった大河が天然の防壁を作っている。物流も人流も、まるで糸のように細く存在するに過ぎない。
こうした環境で点と線を保持しようとすれば、力押しでは成功しない。第一に、大兵力を送り込んでも維持することができない。第ニに、仮に大兵力を維持できても、結局細い幹線鉄道や幹線道路でしか移動させることができない。
砂海大陸の植民地戦争でミルダネスが学んだのは、現地勢力との協調、宣撫工作の重要性であった。現地の隊商しか使えないような抜け道を使って、物資を補給する。現地の部族を傭兵として用い、戦力を補強する。現地の住民に協力を呼びかけ、情報を収集する。制圧する際にも、先住民と植民者の別なく寛大に扱い、以後の協調・宣撫への布石とする。
敵味方の出血も、最小限に抑えなければならない。何しろ広大な砂海大陸である。敵味方に過剰な出血を強いて、仮に先住民や植民者が激昂すれば、地の利のある彼らは広大な砂漠、草原、山脈、密林、そして大河を用いて、ゲリラ戦術を採るだろう。
あるいは他の列強の海外派遣軍を相手に過剰な出血を強いれば、やはり本国の世論が激昂して、破局的な全面戦争を招くだろう。
なればこそ、若き日のミルダネスとかつての帝国の植民地戦争においては、慎重かつ地道な調整と、成功の約束された進軍が必要だった。それは彼らの善性ゆえにではない。無論、彼らは外見上は紳士的人道主義を唱道したが、その根底にあったのは冷徹な合理主義であった。
ミルダネスは、こうした実に地道で地味な調整の果てに、植民地の大規模反乱を鎮圧し、あるいは他の列強の干渉を排除して、帝国の版図を広げた。
ミルダネスは、村落で現地の首長を懐柔し、要塞で他の列強の士官と会談し、時には大河を挟んで妖魔と数カ月睨み合って、無数の調整、無数の妥協、無数の準備によって、進軍を成功させた。
そしてその戦功は、本国では戦場伝説として語られた。
帝国は、かつての勇猛な野戦士官が地道な調整家になったなどという真実を許容しなかった。帝国は、むしろ英雄をこそ必要とした。背景には、植民地戦争という侵略行為への罪悪感もあったことだろう。罪悪を覆い隠すには、神話が必要である。
こうしてミルダネスは、〈英雄〉になった。〈常勝〉の英雄に。
〈常勝元帥〉ミルダネス。彼は、一度としてそのように名乗ったことはない。
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(——これは世界大戦ではない。鉄条網も、機関銃も、大砲も、戦車も、飛行機も、毒ガスも、敵は持っていない。)
車窓に広がる田園地帯を眺めながら、ミルダネスは曖昧な思考の海から抜け出し、一つの確信を得た。
ミルダネスの新しい〈戦争〉。革命派との内戦。その形態について、ミルダネスは自らの誤解を解きつつある。
(これは、若者の戦争ではない。前線に立っているのは若者だが、戦争の本質はひどく、ひどく古い。)
ミルダネスは、帝国東部の地理地勢を想起する。
広大な平原。その間に、肥沃な穀倉地帯を支える大河がいくつも流れ、間にはいくつかの森林地帯がある。
そして、沿岸部にいくつかの中小都市。レギスヘーエンとステリノール。その間を、帝国東部鉄道が結んでいる。食糧輸送を支える、点と線——。
「中将、後発の列車には我が領の自警団の者が乗っているな?」
「はい、元帥閣下。正規軍の選抜部隊と共に、乗車しております。我が方の民兵——郷土防衛隊の中では抜群に練度が高い部隊ですから。貨車には、彼らの持参した食糧も載せられるだけ載せるよう指示してあります。」
ミルダネスの質問にヴェイルワード中将が応じる。
既に、操車場制圧の材料は手元にあった。
「よろしい。では、後発の列車に伝達。直ちに自警団の者を私服に着替えさせよ。私服には、徽章や階級章も付けてはならん。私服はなるべく薄汚れているものがよい。汚れがないならステリノールで古着を買うか、あるいは泥でも付けさせよ。」
「私服に? それは——。」
突然の指示にヴェイルワード中将は困惑するが、ミルダネスは構わず続ける。
「それから、ステリノールの守備隊に伝達。近隣の荷車の類をかき集めさせよ。手押しでよい。足りなければ乳母車でも何でも構わん。量は……そうだな、後続の貨車の食糧が全部乗り切るくらいが望ましい。」
「私服の民兵と荷車の束で、一体何をなさるおつもりです?」
「老兵には、老兵のやり方があるということだ、中将。」
***
帝国暦一八一九年三月二十一日、帝都バーレンハイム郊外。革命派〈野戦放送局〉。
革命派最高指導者ローゼティエン・ブルガネスは、ラジオ演説を一区切りすると、革命派幹部との会議に入った。
「旧市街地制圧の目処が立たない?
共和派左派への内通工作は任せろと言ったのは、同志、あなたではないか?」
ブルガネスは、小ぶりな指先をテーブルへ小刻みにぶつける。目の下には深い隈が見え、疲労と睡眠不足は誰の目にも明らかだった。
「同志ブルガネス、やはり、蜂起時のラジオ放送でボアライトに先手を打たれたのが痛かった。せめて帝都だけでも先行して放送できていれば。そうすれば、日和見主義者共も雪崩を打って合流し、旧市街地は混乱したはずだ。」
ブルガネスに詰問された革命派幹部の男が、そう応じる。男の上着には、赤黒い塊がこびりついていた。
「一時間! たった一時間だぞ、同志。あなたは、たった一時間の差で覆るような内通工作とやらで、私に、そして中央評議会に啖呵を切ったわけだ。」
「今度の蜂起で重要なのは速度だと言ったのは、同志ブルガネス、あなただ! 私はそれを信じたまでのことだ!」
「——およしなさい、お二人とも。これは軍事作戦です。計算外というのはいくらでもあるものだ。」
「同志大佐! 君こそ怠慢ではないのか? あんなバリケードなど、さっさと突破したらどうだ!」
ブルガネスと幹部の男の論争が、〈無断除隊〉者の大佐に飛び火する。
「そうは言いますがね、同志。まさかビルを発破して横倒しのバリケードにするなんて無茶、普通はやらんでしょうが。あの軍人皇子の差し金でしょうが、これで敵の守りは強固になった。」
「革命精神があれば、物の数ではない!
それより例の集団投降、あれはどういうことだ! 諸君ら脱走兵には、革命戦士としての自覚があるのか?!」
幹部の男は、テーブルをまるで太鼓のように打ち鳴らしつつ、先般発生した帝都北部での革命派民兵の集団投降の件を糾弾する。
「——ミルダネスの〈御大〉が生きていたんです。そりゃあ動揺もするでしょう。こいつも計算外だ。」
「奴が脅威にならんと言ったのは君だぞ、同志大佐!」
「奴がバーレンハイムにたどり着くには、東部鉄道を使うしかない。我が方が制圧したステリノールの操車場は、火力で落とそうとすれば失われ、火力を使わなければ落とせない、一種の戦術的袋小路だ。落ちるには時間がかかる。そういう意味で、奴が差し迫った脅威ではないというのは、今も変わらず事実ですよ。」
「同志大佐の判断を信じようじゃないか、諸君。
——同志、ステリノールの守りは万全なのだろうね?」
ブルガネスが、〈無断除隊〉者の大佐へ助け舟を出す。ステリノールの操車場は、この幹部の男の管轄だった。
「無論だ、同志ブルガネス。国鉄労組時代の信頼のおける部下が、現地を固めている。
彼は革命教育に熱心だし、彼や部下たちは、鉄道作業員としての判断力も腕っ節もある。まず間違いはない。」
「それを聞いて安心したよ、同志。
——問題は食糧だ。旧市街の方が干上がるのは早いが、我々の手持ちも心許ない。ステリノールの操車場はもっと深刻だろうと思うが、どうかね?」
「その点については率直に認めるよ、同志ブルガネス。あの操車場は食糧備蓄の拠点ではない。旧市街制圧の目処が立ち次第、救援に向かうべきだ。
ステリノールの市街地を制圧できていれば違ったのだが——バーレンハイムもそうだが、どの街も守備隊の動きが妙に機敏だった。この点はどう考えるかね、同志大佐。」
「おそらく、軍人皇子のヴァイネスが自分の権力を盾に横車を押したんでしょうな。軍人として申し上げますがね、事前の対処計画でもなけりゃ、ああも機敏には動けない。」
「同志大佐、その対処計画からステリノールの操車場が漏れていたのは幸運かね? それとも罠か?」
「同志、罠を張るならここ、バーレンハイムでやるでしょうよ。ステリノールの件は、私の無断除隊の理由と根が同じです。」
ブルガネスと幹部の男、そして〈無断除隊〉者の大佐の議論は、糾弾を経て、建設的で実務的な色彩を帯びつつあった。
「——深刻な兵站軽視。帝国軍はずっとそうだが、特にあの軍人皇子はね。いつも肝心なところを見落とすんですよ。」