皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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「私が〈歴史〉なのだとしたら。私が守っているものは、自分の身か、帝国か。」

 帝国暦一八一九年三月二十六日の日記には、こう追記があった。

 

  ***

 

 帝都バーレンハイム西部郊外、旧〈製菓商工組合団地〉跡。〈祖国革命指導者〉ローゼティエン・ブルガネスが配置した十二の〈野戦放送局〉のうち、九番目の海賊ラジオ局が、そこにあった。

 戦前は製菓工場が軒を連ね活況を呈したこの一帯では、戦時下の統制経済によって製菓工場が次々に廃業すると、軍需工場の建設が計画された。それを期待して多数の失業者が一帯に居を構えたが、〈帝都暴動〉による皇帝退位、そして敗戦により計画は白紙となり、一帯は完全に貧民窟の様相を呈していた。

 

 少数の護衛を伴って〈野戦放送局〉の置かれた廃工場の前に到着したブルガネスは、医薬品輸送車両に偽装した自身の専用車を降りると、周辺の粗末な小屋から聞こえてくる〈元帥行進曲〉の微かな音色を正確に聞き分け、ため息と共に眉間を揉んだ。

 

「——一刻も早く放送を再開しなければ。〈帝国〉の侵略と搾取の象徴が祖国革命の場を汚すのは、これで最後にせねばならない。」

 周囲の護衛に同意を求めるでもなくつぶやくと、貧民窟系鬼人族の護衛の一人が、ブルガネスに紙巻煙草を差し出した。

 

「まあ、姐さん。一服つけましょうや。

 ヒガシの方じゃお仲間がドンパチの真っ只中みたいだが、こっちも休めるときに休まねえと。」

「同志ルド、今日の分の煙草は先程吸った分で仕舞いだよ。それは同志、あなたの分だ。」

「へ、へ、へ。そんな堅いこと言わずに。心配しなくても、これに〈薬〉は入れてませんぜ。手前のショーバイ道具に手をつけるんじゃあ、俺たちの名折れってもんです。」

 ルドと呼ばれた護衛は、ブルガネスの謝絶を猜疑心の表れと解釈したようで、重ねて煙草を勧める。

 

「疑ってはいないよ、同志。あなたがたも、不正と圧制の被害者なのだから。

 ——たとえ煙草でも規則正しく摂らなくては、私の気が済まないのだよ。これは私の思想と性分の問題だ。だから、それはあなたが吸ってくれていい。」

 ブルガネスはそう言うと、廃工場の錆びた外階段に足をかけて、昇っていく。

 ルドは肩をすくめると、他の護衛と共に煙草に火をつけながら、周囲を見渡した。

 

「俺は軍人も学者馬鹿も大嫌いだし、眠たい話をがなりたてる長耳野郎も気に入らない。地下の御同類なんぞ、クソ喰らえだ。」

 ルドは紙巻煙草の紫煙を味わいながら、〈野戦放送局〉を見上げる。

 

「だがな、あの姐さんは別だ。あの姐さんからは、軍人どもとは違った鉄火場の匂いがする。

 賭けと殴り合いの匂いだ。」

 ルドは貧民窟系鬼人族の顔役のひとりで、主に賭博と金融でのし上がった人物だった。

 

「何が〈常勝元帥〉だ。くだらねえ。

 ——泥を啜って、ぶん殴って、ぶん殴られて。手前の命をチップにしなけりゃあ、生きているとは言えねえよ。」

 ルドはそう言うと、紙巻煙草を地面へ吐き捨て、強く踏みつけた。

 

  ***

 

 〈野戦放送局〉室内の静寂の中、万年筆が紙上を走る音だけが響いている。帝都バーレンハイム東部における砲声が、ここまで届くことはない。もとより、すっかりスラムと化した廃工場街である。夜ともなれば、静寂が支配するのは当然であった。

 紙上を走り続ける万年筆は、ブルガネスが高等学校に進学するにあたって、時計職人であった父と、それを支えた母が贈ったものである。この万年筆を質屋から買い求めるために、ブルガネスの両親は、その生命を時計の歯車に変えた。永遠に、取り返しのつかない形で。

 

 時計職人とは、精密機械工であるとともに、宝飾職人でもある。ブルガネスの両親は、類稀なる知性を見せた勝気な娘に——穴居族らしからぬ愛娘に——、その知性の輝きにふさわしい手足を授けようと考えた。

 銀で鍍金された外装に、純度の高い金のペン先。ペン先はその角度を変えられるように細工がしてあり、その日の自身の調子や、使う紙に合わせて、自在に調節することができる。

 細工好きのある放蕩貴族が、方々の職人に大枚をはたいて作らせたが、その後破産し、質に流れた品であった。

 銀の外装は、邪悪に染まらぬ心根の証に。金のペン先は、しなやかな思考への願いに。そしてそのペン先には、父の手ずから、たった一言、祝いとも戒めともとれる言葉が刻まれた。

「時を、刻め。」

 

 過労が祟って病床につき、高額な治療費に見合わぬごく短い入院期間を経て父親が永遠に時間の彼方へと旅立った時、ブルガネスはちょうど、高等学校の入学式を控えていた。

 優秀な成績と、時計職人であった父の伝手——顧客である多数の貴族や資本家の紹介——によって学費を免除され、あまつさえ無利子無返済の奨学金さえ手にしたブルガネスは、父の後を追うように病床の人となった母からこの万年筆を手渡されると、一度はこれを窓の外に放った。

 

 職人に見合わぬ、大それた買い物。いくら両親が自分に期待していると言っても、こんなもののために生命を削るのは馬鹿げている。そう母に罵声を浴びせたブルガネスは——しかし今、この万年筆を使っている。

 母が死の間際に握りしめていたのが、この万年筆であったから。ブルガネスが自ら放り出したブルガネスの未来への願いを、父を奪った忌まわしい棒切れを、その妻であった母が握りしめていたから。

 母の死因は、過労や、それによって得た病ではない。

 母の死因は、肺炎であった。ブルガネスが万年筆を窓の外に放った夜、確かに一帯は、雨であった。

 

 ブルガネスは、善良な職人を愛する。そして、善良な職人を殺す全てのものを、職人への愛と同じだけ、憎んでいた。

 ブルガネスの万年筆には、血が滲んでいる。父が、時計の歯車に換金した血。母が、それを拾い上げるために吐き出した血。自分が、それを購うために、己の喉と肺から流した血。

 この万年筆は、まるではじめからブルガネスのために作られたものであるかのように、見事にブルガネスの手に馴染んだ。この万年筆を握っていると、いくらでも言葉が浮かんでくる。これはブルガネスにとって、まさに魔術であった。それも、神官や迷信家が言うそれではない。これを作り出した職人たちが、そしてこれを見出した職人たちが、ブルガネスに力を与えてくれる。少なくともブルガネスは、そのように信じた。

 今も、この万年筆を握っている間、ブルガネスは自らの喉と肺が上げる悲鳴を、無視することができる。

 

(だから私は、時計の針を進める。

 あらゆる善良な人々が、二度と血を吐き、泥にまみれないように。

 こんな棒切れが、生命を左右しないように。)

 

 万年筆の音が止まる。次の放送の原稿は、書き上がった。

 一刻も早く、これを放送せねばならない。

 

 しかし。

「なぜ、この部屋のラジオからは、あの曲が聞こえない?」

 部屋に入ったとき、確かにブルガネスは、ラジオの電源を入れていた。

 

  ***

 

「砂が海鳴る 陽が火を吐く」

 〈野戦放送局〉の静寂を、砂海大陸風の陽気な音楽が切り裂く。室内に置かれた全ての通信機から、周波数の微妙な誤差による不協和音を伴いながら、熱気を帯びた音程が鳴り響く。

 

「水筒ひとつで 越えてゆく」

 金属が重みを帯びて擦れる音が聞こえる。この音は、通信機のみから聞こえるのではない。

 

「鍋を打ち鳴らせ 薬缶を叩け」

 鍋状の金属を打ち鳴らす音が聞こえる。先程よりも、その音は近い。

 

「故郷に届かぬ この足音」

 軽快な足取りと、それに反した重みを感じさせる、地鳴りが聞こえる。軍靴が、鳴っている。

 

 外から、銃声は聞こえない。

 本来、近辺には革命派民兵が多数、潜伏していたはずである。何か異常があれば必ず報らせが来るか、さもなくば銃撃戦が始まっているはずであった。それにしては、あまりに一帯は静寂に包まれている。

 帝都バーレンハイム東部では、今も砲撃戦が続いている。帝国東部から鉄道線を辿ってやってくるミルダネスを迎え入れるために、帝国軍が帝都バーレンハイム東部に解囲作戦を仕掛けたからである。クルックピーク大佐は、ブルガネスを前に確かにそう明言した。最短経路で、最高効率で、兵站線を結ぶ。それが、今次大戦における、兵站上の常識であると。

 

「——ああ。」

 ブルガネスは、原稿を書き終えてもなお握りしめていた万年筆を、そっと卓上に置いた。

「迎えに来たか。〈歴史〉が。我らの〈歴史〉が。」

 

  ***

 

(あんまりにも、間が悪いや。)

 帝国軍に突如包囲されたルドは、大きな目を忙しなく運動させながら、内心で悪態をついた。

 〈労農運動指導者〉スターンソン・ウーレンの指示により、護衛を最小限度に減らした矢先のことである。隠密行動に自負があったルドは、その最小限度の護衛を自信を持って引き受けたが、こうも手際よく包囲される事態は、もとより想定していない。

 

(なぜ、ここが露呈した? 裏切りモンか、臆病者か——。)

 ブルガネスに対する現状の護衛計画は、そもそもブルガネスの所在が全く露呈しないことを前提として組み立てられている。貧民窟系で腕に覚えのある鬼人族による、交代制の警護。闇夜に紛れて、目的地と目的地の間を最短経路の裏道で迅速に移動する、隠密行動。少なくとも、道中で尾行の気配を感じたことはない。

 

(ああ、そうか。)

 そこまで思考を巡らせて、ルドはふと気づく。

 貧民窟に生まれ育ち、自身の生命をチップにしての博打を繰り返してきたルドであったが、今度ばかりは、賭け損ねた。

 

(日和見野郎が気に入らなくて、外道に入ったってのに……。)

 握りしめた拳銃には、格言が刻まれている。直線的な筆致で、おそらく、ナイフで刻んだのであろう。この拳銃は、ルドの父親の形見であった。

 父親は、当局に協力して貧民窟の裏社会の情報を官憲に流す、補助警官——有体に言えば、裏切り者。

 眠っている父を、この拳銃で然るべきところに送るのが、裏社会におけるルドの最初の仕事であった。

 

(信じちまったんだ。)

 拳銃の把っ手には、〈秩序と正義と調和〉と刻まれている。

 父がルドに、何度も言って聞かせた言葉。ルドが一度として、聞き入れたことのない言葉。

 そして、他ならぬ〈同志〉ブルガネスが、大罪を犯してでも実現しようとしている言葉。

 

(こんなもの、ぶら下げてよう。)

 ルドの着た、三つ揃いの背広。ルドの、一張羅。そのベストにぶら下がった、金色の鎖。鎖の先には、懐中時計が繋がっている。時を刻み、時を進め、混沌とした時間に秩序をもたらす道具が。

 闇と泥の中に生きたルドは、それゆえにこそ、自分たちの手で時計の針を進めたくなった。

 だから、撃つことができなかった。

 

(あの、クソジジイ。)

 ルドの目には、ルドの父と、ルドの同志と——丸腰で歩いてくる老人が、同じものに見えた。

 

  ***

 

「〈中央評議会〉書記局筆頭書記、〈祖国革命〉指導者、ブルガネス女史に告げる。」

 今度の声は、通信機からではない。〈野戦放送局〉の薄い金属板でできた壁越しに、ブルガネスの身を震わせながら、確かに響いてくる。

 問題は、この声の主であった。

 ブルガネスは目を瞑り、眉間を抑える。

 

「貴殿は既に包囲されている。」

 事実であろう。周囲にいるはずの同志たちは、未だにブルガネスに対して何も言ってこない。おそらく護衛たちは、下の廃工場で包囲部隊を前に釘付けになっている。下手に動けば蜂の巣になるような、そのような修羅場なのであろう。

 ブルガネスから見て、ルドは粗野ではあっても、優秀で冷静な同志である。迂闊に動いて生命を粗末にし、好機を逸するような愚者ではない。

 それにしても、この声には聞き覚えがある。

 聞きたくもない声がする。

 

「貴殿の類稀なる識見と勇気とが、正しく用いられることを祈る。」

 降伏勧告にしては、妙な台詞回しである。まるで、ブルガネスを心の底では逆賊と思っていないかのような、妙な言葉運びであった。

 そして、声は近づいている。金属の外階段を、何者かが昇る音がする。

 この足音にも、覚えがあった。

 

「——〈御大〉。誰かと、お待ち合わせかね?」

 ブルガネスが背後へ向けて声をかけると、扉が開け放たれた。

 

「ああ、女史。あなたと、砂海の茶をね。——ここにも薬缶が、あればよいのだが。」

 古ぼけた、しかし手入れの行き届いた軍服を纏った巨躯の老人は、そう応じた。

 父の工房によく注文を出していた——父の作品である懐中時計をぶら下げて、元帥の階級章を輝かせた男が、そこにはいた。

 

  ***

 

 ところ変わり、帝都バーレンハイム東部郊外、革命派野戦陣地。

 

「同志諸君。我らは、我らが祖国の未曾有の危機にあって、常に立ち上がってきた。」

 大尉の階級章をつけた革命派男性民兵が、瓦礫の上で叫ぶ。

 周囲には、みな一様に泥と煤にまみれ、切り傷と綻びに満ちた、〈無断除隊者〉の一群の姿があった。

 

「我らは、何故に立ったか。

 廃帝の求めに応じたのではない。自らを、家族を、郷里を、そしてそれらが紡いだ、祖国の歴史を守らんがためである。」

 〈大尉殿〉は、切り傷の目立つ頬を盛んに動かして、叫び続ける。

 治りかけた頬の傷が突っ張り、鋭い痛みを発する。しかし、構うことはない。

 

「然るに、廃帝セラレスは祖国の歴史を裏切り、自らの生命を惜しんで、彼方へと去った。

 我らを死地に置いて、自らは玉砕することもなく、生命と財産を保ったのである。」

 〈大尉殿〉が拳を振り上げ、鋭い音を立てながら、振り下す。

 この隊は、革命派にあって幸運であった。何しろ、人民裁判にも粛清にも関わることがなく、ひたすらに通信設備の設営に邁進することが許されていたのである。

 

「それゆえに、我らは再び立った。

 はじめは、祖国を戦火から救うために。次には、祖国を裏切りから救うために。」

 息を吐き切ると。〈大尉殿〉は目を瞑り、深呼吸をして、大きく見開く。

 一世一代の大博打に、〈大尉殿〉は敗れた。しかし、それならそれなりの、身の引きようがある。

 

「そして今や——我らの祖国の〈歴史〉そのものが、我らの敵となった。

 我らが立ったのは、祖国を戦火から、裏切りから救うためである。

 祖国の〈歴史〉と戦うためではない。」

 〈大尉殿〉を取り巻く泥と煤に、さざ波が生じた。戸惑いと不安が、場を支配する。

 しかし、それは杞憂である。少なくとも〈大尉殿〉は、これを杞憂で終わらせるつもりでいる。

 

「同志諸君、戦友諸君。我が隊はこれより革命派を離脱し、元帥摂政公に帰順する。

 ——帰ろう。〈親父殿〉のもとへ。

 諸君に罪はない。吊るされるのは——私だけで良い。」

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