「刻もう、諸共に。」
帝国暦一八一九年三月二十六日のこの追記以降、日記に残されたミルダネスの筆跡には、顕著な変化が見られた。
***
帝都バーレンハイム西部郊外、旧〈製菓商工組合団地〉跡。
貧民窟系鬼人族の顔役、〈祖国革命指導者〉ローゼティエン・ブルガネスの護衛であったルドは、帝国軍部隊によって遠巻きに包囲されながら、呆然自失としていた。
(撃てなかった。いいや、撃たなかった。俺は、引き金を引けたはずだった。)
ルドは拳銃を手放していない。今からでも階段を駆け上って行けば、ミルダネスの首を獲ることができるかもしれない。その場合、ルドは間違いなく狙撃手によって蜂の巣にされるが——ブルガネスのためなら、ブルガネスが掲げた理想のためなら、それでも釣りが出るはずだった。
ルドの脳裏に、階段を駆け上る自分の姿が浮かぶ。英雄ルド。祖国革命の救い主ルド。ルドがミルダネスを討てば、ルドは〈歴史〉になることができる。そうすれば、あるいは鬼人族もまた、その汚名を雪ぐことができる。
それでも、できなかった。ルドの足は、果たすべき役割を忘れた。
数々の死線をくぐってきたルドである。これは怯懦ではない。理屈でもない。ただ、これまで長くルドを生き延びさせてきた直感が、「そこを動くな」と囁いている。
ルドは学校を出ていない。そうであるから、国定教科書に刻まれたミルダネスの事績を、整然とは知らない。ただ漠然と、黴の生えた〈英雄サマ〉としか思っていなかった。
しかし、先刻。戦列を掻き分け、ゆったりと前へ、前へと進んできたミルダネスを見たとき、ルドは硬直した。
ルドには嗅覚がある。相手が目の前の勝負に何を賭けているのかを、ルドは瞬時に判断することができた。
詐欺師は、何も賭けない。臆病者は、小銭を賭ける。勝負師は、大金を賭ける。人でなしは、他人を賭ける。
そして——ミルダネスは、明確に賭けていた。
彼の、生命を。
建国期の英雄。〈常勝元帥〉。元帥摂政公。そんな男が、ただ真っ直ぐに、怯みもせずに、前へ、前へと歩いていた。
(あれは——確かに同じ目だった。)
先刻のミルダネスは、ルドに一瞥もくれなかった。ただ、階段の上にある〈野戦放送局〉を見ていた。
ルドは、そういう目を知っている。ひとりはルドが最初に殺した男。もうひとりは、ルドが同志と認めた女。自我を、もっと大きな何かに吸い取られてしまった者に特有の、深淵。時計の針を進めようとする者の、時計の針しか見ていない目。
ルドは瞑目し、改めて目を見開くと、視線を落としてため息をついた。
(ああ、煙草。吸いてぇなあ、もう一本。今度は、じっくりとよ。
——ホントに、間が悪いや。)
足元には、先程捨てた吸殻が転がっている。もしかすると、最後の煙草だったかもしれない。
改めて視線を、今度はあたりの高所へと移す。そこで、ふと気づいた。
(狙撃手が、いない?)
革命派の首魁を狙った包囲戦である。当然、逃走を図るブルガネスを狙撃し、あるいはミルダネスを援護するための狙撃手が配置されているものとばかり思っていた。
(オイオイ、あのジジイ——狙撃手の援護もなしに。狂っていやがる。)
おそらく、隠密性を優先したのであろう。高所に狙撃手を配置してルドのような手練に正体が露見すれば、軍事的奇襲も、精神的奇襲も成立しない。
(いや、待て。ひとり、いるな。——ひとりってことは、ジジイの部下が、年寄りの冷や水に尻尾を巻いて、独断専行か。)
ルドは月明かりに、微かに反射するものを見つけた。
(だが、妙だな。——正規の狙撃手なら、反射するモンは外すか、ヤスリをかけるはずだ。)
ルドにも覚えがある。敵対する組織の顔役を闇討ちするときに、狙撃兵崩れの殺し屋の助言で、そうしたものだった。
***
〈野戦放送局〉の中で、奇妙な茶会が始まった。
砂海原産の薬草茶がミルダネスの懐から取り出され、方々の木箱から水と、炉と、薬缶が取り出される。
「水も、火も、薬缶もあるとは。砂海の天幕よりもよほど快適ですな、ここは。」
ミルダネスは呑気な様子で、その大ぶりな手先を器用に動かしながら、茶を用意していた。
「〈御大〉ともあろうお方が、随分と素朴な茶を淹れなさる。」
ブルガネスも落ち着いた様子で、主人然として席についている。
「女史。砂海の茶は、薬缶で直接、煮出すのが肝要なのですよ。
ぐらぐらと、火の番をしながらこちらも茹だるくらいに、強火でね。」
ミルダネスは、目を細めて薬缶を見守っている。
「ほう。灼熱の砂海でそれでは、むしろ——。」
「そう、贅沢。現地ではこれを、客人をもてなすのに出すのです。
強火で煮出すと、水分の多くが飛んでしまう。それが、もてなしの心を表すと言われていましたな。」
砂海大陸は、灼熱の地である。大河や湖もあるが、流れは緩慢で、濁りが強い。それゆえ、飲水に苦労することが多い。そんな中、汗をかきながら茶の支度をし、しかも水分はほとんど飛ばしてしまうというのだから、確かに贅沢であった。
「それで、〈御大〉。まさか貴方は、この茶で私を説得しに来たのではありますまい?」
茶の支度がひと段落し、カップに茶を注ぐミルダネスに、ブルガネスが問いかける。
「然様。これは飽く迄、隠居者のささやかな手慰みというもの。
——女史。私は、貴方に話を聞きに来たのだ。」
好々爺然とした表情を残したまま、ミルダネスの気配に、鋭さが宿った。
「話! 〈御大〉なら、私の著作を一度はお読みになったことがあると思うが。」
ブルガネスの気配にも、鋭さが宿る。
「ああ、買い被りというものだ、女史。
私は浅学非才の、凡暗貴族でね。貴方の著作を手に取りはしたが——内容は半分とわからぬ。」
ミルダネスの告白に、ブルガネスは唖然とする。
「馬鹿な。帝国軍がいくら腐敗していても、それで仕事が成り立つはずがない。貴方の領地にしても、それで治まるはずがない。」
「私はね、女史。貴方が思っているほど、皆が思っているほど、優秀でも、怜悧でもないのだ。
わからないから、聞きに行く。わからないから、頼りに行く。その繰り返しで、ここまで誤魔化してきてしまった。」
「だから、女史。貴方の話を、聞かせてほしい。
私にこの時計を作ってくれた、貴方の御両親のことも。」
ミルダネスは、軍服のポケットから懐中時計を取り出すと、そっと卓上に置いた。
「——ご存知と思うが、〈お客様〉。その時計は。」
「然様。遺作だ、御両親の。」
「その時計のために。」
言いかけて、ブルガネスは言葉を区切った。
「いかに、多くの不正と、搾取があったか。それを知らぬ貴方ではあるまい。」
「そう。この凡暗が公爵閣下と、元帥閣下と呼ばれ、こんな贅沢品をぶら下げていられるのは、間違っている。」
ブルガネスは吐き捨て、ミルダネスは瞑目した。
「貴方がそれを言うか!」
ブルガネスが、腰まである髪を揺らして立ち上がった。
「貴方がいかに多くを奪ったか! 貴方が誰を殺したか! 何が英雄だ、何が貴族だ、何が軍人だ!」
「然様。私は、人殺しだ。軍人であるとは、そういうことだ。貴族であるとは、そういうことだ。」
ミルダネスが微かに目を開く。暗く、鋭い視線がそこにはある。
「だが、敢えて言おう。私は、だからここへ来た。」
ミルダネスの声色は、深く、冷たい。
***
「〈同志〉ブルガネス。貴方は、選ぶことができる。」
沈滞した表情を保ったまま、ミルダネスは立ち上り、そのまま、室内を歩き始める。
ミルダネスの軍靴の音が響く。静かに、冷たく。
「ひとつは、私を撃ち殺すことだ。」
ブルガネスの腰のベルトには、護身用の拳銃があった。弾丸は、装填してある。
ブルガネスのこめかみを、雫が伝った。
「そしてもうひとつは、降伏勧告の受諾を、放送することだ。」
ミルダネスが、放送機器の前で立ち止まる。
そしてミルダネスは、その場で両手を広げた。
「ひとつ目を選ぶなら、躊躇なく撃ち給え。無理に心臓を狙わない方がよかろう。
あまり撃ち慣れない人間が心臓を狙うと、たいてい、弾丸が逸れる。狙うなら、身体の中心。腹のあたりがよかろう。老人相手だ。どこかに当てれば、それで、確実に殺すことができる。」
まるで、士官学校の新入生に銃の操法を教え諭すように、淡々と告げる。
自分はただの的だと、ブルガネスには聞こえた。
ブルガネスは、静かに拳銃を構える。
「だが、私だけなのだ。」
「——祖国を、救えるのが?」
ようやく呪縛が解けたかのように、ブルガネスが声を発する。
「いいや、私は帝国を救わない。救うのは、臣民でなければならない。」
「ならば、なぜ止める!
私を! 私たちを! 私たちの大義を! 私たちの祖国革命を!」
ブルガネスが叫ぶ。
「——幕を引くのが、私の仕事だからだ。帝国という国家の葬式を執り行うのが、私の仕事だからだ。
この幕間に、貴方がた青年の出番はない。」
「将来の再起を期せと?」
「再起できるかどうかは、臣民が決めることだ。貴方がたは、種を撒くがよい。」
「どういう……つもりだ。」
ブルガネスは、強い眩暈を感じた。
「正直に言おう。今日、私は貴方を殺すことができた。
そして混乱に乗じて貴方がた革命派を一掃し、帝都を血で染めることができた。」
事実である。ミルダネスが丸腰で階段を昇っていなければ、ブルガネスは蜂の巣にされている。
ブルガネスを突如として失った革命派は、恐慌状態の中で瓦解するであろう。
「温情かね?」
ブルガネスが、冷たく笑いながら問う。
「いいや、温情ではない。私はただ、この高く高く伸びた枝を、剪定したくなかったのだ。
この枝を剪定してしまえば——将来、芽吹くはずの花が、実るはずの実が、失われる。」
「花? 実? これは驚いた。女を捨てた私が、花よ実よと重んじられるとは。」
「帝国の再建には、人が必要だ。優秀で、熱意に溢れた人々が。私のような凡暗ではなく、貴方がたのような。
だが、貴方がたが力を振るうのは、今ではない。今、貴方がたが旗を握れば——旗竿を伝って流れる血で、貴方がたの手は、永遠に穢れることになる。」
ミルダネスは、卓上の地図と、その上に置かれた自分の懐中時計を見た。
「私は、剣だ。中身のない剣だ。人殺しの道具だ。果てしなき内戦を終わらせるために、引き抜かれた。
——だから、この混乱を終わらせれば、私は去ろう。辺境の土となり、ただ、風と共に。」
気づけばどちらともなく、腕を下ろし、拳銃を下ろしていた。
***
「——ティメル。ティメルの、おじさま。」
ブルガネスの声色に、これまではなかった温かさが宿る。
「その名で呼ばれるのは久しいな、ローゼティエン嬢。」
かつてブルガネスの両親が健在であった頃。ミルダネスが激務の合間を縫って、親しく工房を訪ねていた頃。ふたりは確かに、そう呼び合っていた。
薄暗い海賊ラジオ局が、その時だけは、過ぎ去った工房での日々と同じ温度をしていた。
「原稿は、書き上がりました。——この万年筆を、貴方に。」
ブルガネスは、万年筆に蓋をすると、ミルダネスへと差し出した。
銀の鍍金に、金のペン先。全体に施された細かな細工は、このペンが明らかに貴族に出自を持つものであることを示している。統治する者のための、ペンだった。
「それは、私の呪縛だ。今度は、貴方に。」
ミルダネスは万年筆を受け取ると、ハンカチに包んで、懐に入れた。
「では、私からも。——ローゼティエン嬢、この時計を、貴方に。」
ミルダネスは、卓上に置いた懐中時計を、ブルガネスへそっと差し出した。
「砂海でも、辺境でも、その時計は寸分たりとも狂いを見せなかった。肌身離さず持たれよ。」
ブルガネスは懐中時計を受け取ると、抱きしめるように握り、瞑目した。
胸元から、歯車の音がする。幼きに日に毎日聴いていた、馴染みの音。工房に笑顔を運んでいた、あの音がした。
「——では、〈御大〉。私は放送に入る。邪魔だてはしないでいただこう。
祖国革命指導者ローゼティエン・ブルガネス、最後の仕事だ。」
次に目を開いたとき、もはやそこに、少女の面影はなかった。
***
〈祖国革命指導者声明〉
今や皇帝なき帝国となった、我が祖国の市民諸君に告げる!
過日、革命的共和主義労働者・兵士の代表である中央評議会は、真なる政府の崇高な責務、国家統治の遂行を引き受けることを決意し、立ち上がった。
我らは武器を鳴らして立ち上がり、太鼓を打ち鳴らしながら、「我ら、ここにあり!」と叫んだ。
反動どもは恐慌し、搾取と矛盾は告発され、我らの正義と大義は、確かに祖国全土に轟いたのである!
そして無能極まる反動偽政府は、自らの犯罪的無能を糊塗すべく、あろうことか辺境の老将を呼び戻し、祖国の無辜の人民を駆り出して、見苦しい抵抗を試みた! 無辜の人民を相争わせ、多くの血を流し、祖国革命の流れに歯止めをかけんと試みたのである!
そして我らは、ついに軍事的敗北を喫した。認めよう。我らは、軍事において敗北した。
これ以上の抵抗は、有為の同志を損ない、無辜に流血を強い、真の祖国革命の火種を消すことを意味する。
それゆえ、私、中央評議会書記局筆頭書記にして祖国革命指導者、ローゼティエン・ブルガネスは、憲法制定国民議会による帝国摂政、元帥にして公爵を自称する市民、ティメル・ヴェールスガル・ケーレン・アンスロス・ヴェル・ミルダネス氏による降伏勧告を、ここに受諾する。
しかしながらそれは、祖国革命の敗北を意味しない。
むしろ、革命は今や、短期決戦から長期戦へと移行したのである。
祖国革命同志諸君! これより獄中に入る祖国革命指導者として、諸君に命ずる。
武器を置き、戦場を離れ、市井に浸透せよ! 再起の時を待ち、革命の火種を保て!
時計の針が、諸君に命じている。時を刻め。時を進めよ。今や、巻き直しの時である!
——我らは、我らの手で時計の針を進める。いくら目を瞑ろうと、逸らそうと、日は昇るのだ。
中央評議会 書記局筆頭書記
祖国革命指導者
ローゼティエン・ブルガネス
***
この声明は、革命派の海賊ラジオ局を通じて、そしてそれを中継した摂政政府管理下の公共ラジオ局を通じて、帝国全土へ向けて放送された。
多くの戦場で革命派は武器を置いて逃走し、検挙された者もあったが、多くは混乱の最中、地下に潜った。
一部の者は頑強に抵抗を試みたものの、むしろ同じ革命派内の降伏派によって鎮圧されることとなる。
鎮圧された中には、〈労農運動指導者〉スターンソン・ウーレンの姿もあった。
そして、帝国暦一八一九年三月二十六日、午後十時三十分。帝都バーレンハイム西部郊外、旧〈製菓商工組合団地〉跡。
〈野戦放送局〉の扉が開き、ミルダネスが姿を見せ、兵士たちへ向けて手を挙げる。兵士たちは皆ミルダネスの無事に安堵し、勝利への確信が、場を高揚させていた。
続いて、〈祖国革命指導者〉ローゼティエン・ブルガネスは、〈野戦放送局〉を出て、外階段をゆっくりと降りはじめる。
ルドたち護衛は、ブルガネスの放送を聞き、武装を解除して手を挙げている。
周囲には——おそらく皇太女博士宮ヴィクタリースの手回しで、多数の新聞記者が詰めかけていた。
帝国軍の兵士たちは歓呼の声を上げ、再び〈元帥行進曲〉を演奏し始める。
「進め 進め 灰色の背中」
ミルダネスの私服の一張羅が灰色の背広であるのは、砂海時代から変わっていなかった。
ブルガネス家の工房へ訪問する際にも、ミルダネスが灰色の背広を着ていたのを、ブルガネスはよく覚えている。その背中に、おぶってもらったこともあった。
「老いてなお立つ 我らの将」
(今、この背中に飛びついたら、どうなるだろうか——。)
そんなくだらないことを考えながら、一歩一歩、歩を進める。
ミルダネスも、ブルガネスも、もうあの頃のふたりではない。
ブルガネスは、背筋を伸ばして悠然と階段を降りる。
「ラッパひとたび 空を裂けば」
空は、見事な月明かりであった。
(これから、長い裁判と、獄中暮らし。——音楽を覚えるのも悪くは、ない。)
高等学校に進んで以来、ブルガネスは趣味らしい趣味も、持ってこなかった。
獄中で耐え、そして生きること。それがこれからの、ブルガネスの戦いである。
「常勝の名の 旗が往く」
そうして、曲のサビが終わり、二番へ移行しかけたところで。
一発の銃声が、響く。
***
「——これで、永遠だ。アンタも、もしかすると、俺も。
〈祖国革命〉万歳。」
近くの廃屋。〈革命戦士幕僚団指導者〉ハネス・クルックピークは、狙撃銃を置くと、手にした軍用時計をコンクリートの床に叩きつけながら、呟いた。