皇帝なき帝国の物語   作:天野 推灯

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間章 終戦群像
018 間章:塹壕教室


「一条の光。」

 ——ラトル・シックルベール著『塹壕からの素描』より。

 

  ***

 

 帝国暦一八一八年三月十五日朝、西部戦線、共和国領北東部に広がる、帝国軍占領下の塹壕地帯。〈バーレンハイム蜂起〉、すなわち帝国皇帝セラレス四世の退位に先立つこと、八ヶ月前。

 上級指揮官の相次ぐ戦死によって大隊の指揮権を継承したばかりの常人族の帝国陸軍中尉、カーレス・フォージライトは、背中の激痛と共に、大隊指揮所で目覚めた。

 

「——シックルベール。シックルベール上等兵はいるか。」

 フォージライトは寝所から身を起こそうとするが、力が入らない。そこで、自身の従卒兼伝令である、同じく常人族のラトル・シックルベール上等兵を呼び出した。

「フォージライト中尉殿、シックルベールはここにおります。」

 傍らには、すでにシックルベール上等兵が控えている。毎朝、起床ラッパよりも前に起きてフォージライト中尉の世話をするのが、シックルベール上等兵の日課であった。

「ああ、シックルベール。みっともない姿ですまないが、見ての通り、身体が動かんのだ。

 ——身体を動かして、背中を見てもらえるか。」

 フォージライト中尉の言葉に従って、シックルベール上等兵が、寝所のフォージライト中尉の身体を動かす。

「失礼いたします。」

 断りを入れ、シックルベール上等兵がフォージライト中尉の服をめくると、背中には明らかな鬱血の形跡が認められた。

「言わんでも分かっているよ。酷い色なのだろう、きっと。」

「中尉殿、すぐに先生を呼んで——。」

「いいや、シックルベール。それには及ばない。

 私にはわかる。これは、手遅れだ。」

「しかし、中尉殿!」

「私を誰だと思っている。私は〈教授〉だ。

 軍医の先生からも、先日破片を摘出するときに、説明を受けた。

 私はここで、前線とはお別れらしい。」

 

 カーレス・フォージライト中尉。帝立バーレンハイム大学法学部教授にして、法学・哲学博士。帝国軍上層部も進んで意見を求める俊英は、しかし、自らの意思で前線に身を投じ、そして塹壕に倒れた。

 フォージライト中尉の背中には、先の戦闘で受けた戦傷が残っている。炸裂した砲弾か、周囲の瓦礫か——何らかの微細な破片が彼の背中に無数に突き刺さっていた。軍医は懸命に破片を取り除いたが、前線の劣悪な環境では全て取り切れるはずもなく、フォージライト中尉には「いずれ、残った破片による後遺症が出る。」という軍医からの告知がなされた。

 フォージライト中尉は、とうに覚悟していたはずであった。前線という最も追い詰められる極限環境に身を投じ、その身を以て人間存在の真の姿に迫ろうと決めた時、自らもまた、こうして追い詰められることはわかっていた。いずれ、その生命が塹壕の泥に沈むことも。

 しかし、今になってフォージライト中尉には、未練が生じていた。自身の生命にではない。

 

「よく聞け、シックルベール。これから私は、次席指揮官にこの大隊の指揮を引き継ぎ、後送される。

 だが——君には、やってもらうことがある。」

 フォージライト中尉は、最前線においても、この若き上等兵、ラトル・シックルベールの前でだけ、〈教授〉の顔をしていた。

 

  ***

 

 ラトル・シックルベールは、帝国南部の地方都市に生を受けた。父親はこの地方都市の市参事会に奉職する事務官であり、母親はそんな父親を支える専業主婦であった。両親は揃って温和そのもので、シックルベール家のひと粒種である息子に、惜しみない愛情を与えた。

 父は青年期に詩人を目指して挫折した知識人であり、母方の実家は家具の絵付工房であったことから、シックルベール家には同時代の帝国の中産階級の標準を超えて、文化的な気風が漂っていた。

 幼少期のシックルベールは、母方の実家の工房に出入りして職人の絵付を観察し、端材を貰ってくると、父の書斎の本棚に、父の詩を題材にした〈絵付け〉を施すのを日課とした。

 シックルベールが成長すると、父は我が子により深い教養を与えるべく、大学進学を勧めた。中産階級の中でも決して豊かな経済状況ではない、精々が中の下という家庭であったから、これは思い切った決断であった。しかし、シックルベールは画家を志し、帝国南東部にある美術大学の受験を決意する。

 結論から言えば、父の夢も、シックルベールの夢も叶うことはなかった。美術大学受験のため出立しようとした矢先に、父が事故死したためである。

 

 以後、シックルベールは母方の実家で絵付職人の修行に励みつつ、休みの日には父の書斎に入り浸り、独学に熱中した。詩人を志した父の書斎には、古ぼけた膨大な文学書と——最近買い求めたらしい、絵画の理論書が並んでいた。

 そうして、工房の近所の子供たちに、自己研鑽を兼ねて絵画を教えているうちに、小規模な絵画教室が立ち上がっていった。はじめは子供のための手習教室の域を出ることはなかったが、段々と近所の評判を呼ぶようになり、子供のための手習教室は主婦と老人のための教養教室へ、やがては地元の学校の課外活動の場へと、徐々に変化していった。

 学校長の計らいで小規模な個展も開催できるようになり、シックルベールは母とふたり、充実した日々を送っていた。

 しかし、帝国暦一八一四年七月末、帝国・共和国国境地帯の係争地における両国民族主義者の小規模な衝突をきっかけとして世界大戦が勃発すると、シックルベールは自ら進んで前線へ身を投じた。シックルベール、二十四歳のことである。

 贔屓目に見ても、シックルベールは決して勇敢な人物ではない。むしろ、慎重で内気な人物であると言ってよかった。それでも志願したのは、あるいは亡き父の背中を——祖国への奉仕を、自らも志した故かもしれない。

 

  ***

 

 フォージライトがシックルベールと出会ったのは、大戦初期、まだ帝国軍が小規模な戦術的勝利を重ねて、快進撃を繰り広げていた頃のことである。

 帝立大学教授であったフォージライトは本来、兵役を免除されていた。しかしフォージライトは、知識人としてその国策の確立に少なからぬ影響を与えた帝国という祖国の行く末に責任を感じ、自ら志願して前線に身を投じていた。学術的好奇心と知識人としての責任感が、フォージライトを冒険へと駆り立てていた。

 そんなフォージライトにとって、シックルベールは自身の指揮下にある平凡な一兵卒に過ぎなかった。大学でもよく見る、粗野でも怜悧でもない、模範的な市民——それが端的な感想であった。

 

 しかし、ある日フォージライトが部隊を視察していると、小休止中の部隊の輪の中に、シックルベールがいた。決して雄弁な男ではなく、人の輪の中心になる人物でもなかったはずである。

 疑問を覚えてしばらく観察してみると、シックルベールは戦友たちに、粗末な鉛筆と官製葉書で、絵葉書を仕立ててやっていた。

 絵葉書の内容は多岐にわたる。まず、兵士の似顔絵。これは、後方の家族や友人へ無事を報告するためのもので、同郷同士、共同で送る場合もあった。次に、勲章や階級章の絵。開戦当初、快進撃の中で勲章を受け、あるいは進級した兵士たちは、家族や友人に競って自身の功績を誇った。そして、戦場の些細な日常の絵。これはあまり人気がなく、特に描く物が思いつかないという者に「折角だから」とシックルベールが描いてやったものであった。

 前線からの私信は全て検閲される。部隊の所在や作戦の経過が露呈するような内容は削除されるか、葉書ごと処分される。それゆえ、必然的に絵葉書の内容は当たり障りのない内容に限られていた。特に戦場の些細な日常の絵は、周囲の遠景が描けない以上、単調な静物画や日常素描になりやすい。

 しかし、フォージライトの目を惹いたのは、まさにその戦場の些細な日常、単調な素描であった。

 フォージライトの手記を引く。この手記を書いたあと、フォージライトはシックルベールに、自らの従卒兼伝令となることを命じた。

 

〈ラトル・シックルベールの印象〉

 

 最初、私は彼を単なる趣味人だと思っていた。前線での手慰みに、戦友のために絵葉書を描く、親切な趣味人。尊敬すべき気質であるが、目を惹くほどではない。

 しかしある日、彼の描いた絵葉書が私の手に渡ってきた。それは砲弾の破片で穴の空いた鉄帽を描いた素描である。

 

 鉄帽の穴から一条の光が差し込み、内側を照らしている。

 

 そして、その絵の下には小さな文字でこう書かれていた。

《破壊されてこそ見える真実。壊れてこそ入り込む光。》

 

 この言葉に私は衝撃を受けた。

 一介の兵卒が、なぜこのような洞察を持ちえたのか。

 私は、彼の何を見誤っていたのか。

 

  ***

 

「ただ、見えるものを描き、感じることを書いているだけです。」

 フォージライトの呼び出しを受けたシックルベールは、フォージライトの質問に、ただこう応じた。

 以後、フォージライトはシックルベールを表向きは従卒、すなわち士官たる自身の世話役として、そして実際には、自身の前線における〈生徒〉として、身辺に置いた。

 フォージライトはシックルベールと共に前線を移動しながら、塹壕の中で、あるいは野営地で、自らの持てる知識を惜しみなく与えた。

 

 シックルベールは、フォージライトの提示する難解な概念を、ごく直感的に理解した。抽象的理論を、シックルベールはすぐさま目の前の戦場の風景と結びつけ、具体的な図像に変換した。

 フォージライトが〈存在の忘却〉について述べれば、シックルベールは廃墟となった神殿を描き、その横に「神聖なものが忘れ去られるとき、廃墟がその痕跡を留める」と記した。

 フォージライトが〈友と敵の境界〉について問えば、シックルベールは戦死した敵兵と味方の兵士が互いに寄り添うように倒れている様子を描き、「死においてのみ、敵と味方は真に一つになる」と添えた。

 フォージライトは、シックルベールの才能を、哲学者というより詩人や芸術家のそれであると理解した。それゆえにまた、シックルベールが、フォージライトを凌ぐ洞察に到達しうると信じた。フォージライトが言葉の迷宮で立ち止まるとき、シックルベールは印象の翼で真理に近づく——フォージライトは、シックルベールの洞察の中に、一条の光を見出した。

 

「死という究極の地平において、あらゆる政治的区別は溶解する。」

 フォージライトは、シックルベールの素描——敵味方の兵士が寄り添って倒れる素描に、こう注釈をつけた。

 

  ***

 

 帝国暦一八一七年、秋。既に大戦が長期戦に移行して久しく、あらゆる前線が塹壕と要塞線の前に停滞しながら、決定打を探して、際限ない出血を繰り返していた頃。

 フォージライトは、シックルベールに一冊のバインダーを見せた。シックルベールが〈授業〉を受けて提出した素描を、フォージライトが整理したものであった。

「私は、これを帝都に送るつもりだ。

 ——君の洞察は、人々に知られるべきだ。」

 フォージライトはこう告げると、帝都の学術出版社に渡りをつけ、帝国軍上層部の知己を説得して、ラトル・シックルベールの名義で、一冊の画集を出版した。

 『塹壕からの素描』と題されたこの書籍は、シックルベールの描いた素描と、ごく短い哲学的洞察、そしてそれに対するフォージライトの注釈をまとめたものであった。

 物資不足の折、しかも戦時下で検閲が一層激しさを増す中でこの画集を出版しえたのは、ひとえにフォージライトが戦前に築いた名声と、そのフォージライトを駆り立てた、一連の素描に対する情熱のゆえである。

 

 『塹壕からの素描』は、出版されるや全国から注文が殺到し、想像を遥かに超える反響を呼んだ。

「銃後の人々は、政治的プロパガンダでも、感傷的な英雄譚でもない、等身大の戦場の真実に飢えていた。彼の素描と洞察の素朴さは、それを満たした。」

 フォージライトは、出版社へこう手紙を送った。

 『塹壕からの素描』の冒頭には、こうある。

「今日も激しい砲撃が続く。多くの者が死ぬ。私もまた例外ではない。

 だからこそ、記そう。一人の兵士について、一条の光について。」

 

 そして帝国暦一八一八年三月、フォージライトは前線で負傷し、その後遺症により、帝国西部の工業都市、モナシュテーリアの陸軍病院へ後送された。

 それを追うように、一八一八年十月末に行われた連合国軍の秋季大攻勢の折、シックルベールもまた前線で負傷し、昏睡状態に陥った。

 この報を受けたフォージライトは、一八一八年十一月のはじめに、私信をシックルベールに宛てて送っている。この私信は、過日フォージライトが出版社に送り、その後返送されてきたバインダーの裏表紙に記されていた。

 

  ***

 

 帝国暦一八一九年、四月。ラトル・シックルベールは、昏睡状態から目覚めた。

 

「——天井? 白い、天井?」

 寝所に寝かされたシックルベールが目を覚ますと、純白の天井が目に入った。

「ラトル。ああ、ラトル。お前が生きていて、本当によかった。」

 声のする方へ頭を向けると、シックルベールの傍らには、母親の姿がある。

 シックルベールが前線へ身を投じて、四年以上。久方ぶりに会う母は、家を出た時よりも年老いて見えた。

「確か僕は、前線に。ここは、病院? 母さん、なんで。」

 シックルベールが覚えているのは、昏睡状態に陥る寸前、焼煙と土埃に煤けた、野戦病院の灰色の天幕であった。この天井は、あまりにも、白い。

 母親は、郷里に置いてきたはずである。そうであるならば、ここはあるいは。

 

「ここはね、モナシュテーリアだよ。西の、大きな工場がある、あの街さ。

 お前はもう、五ヶ月も眠っていたんだよ。」

 シックルベールは突然のことに眩暈を覚え、苦痛に表情を歪めながら、母親に問うた。

「ああ、母さん。僕は……生き延びたんだ。」

 シックルベールの言葉に、母親も笑顔を見せる。

「そうさ、お前は立派に勤めて、立派に生き延びたのさ。

 だから、もう少し寝ていなさい。詳しいことは、後で、ゆっくり聞かせるから。」

 母親がそう宥めると、シックルベールの眩暈は、当初より軽く感じられた。

 

「待って、母さん。モナシュテーリアなら——先生が、カーレス先生が。フォージライト中尉が。」

 混乱する記憶の中でも、シックルベールははっきりと覚えている。カーレス・フォージライト予備役中尉は、確かモナシュテーリアの陸軍病院に入院していたはずである。

「ああ、フォージライト少佐からはね……預かっているものが、あるんだよ。」

 シックルベールに、一冊のバインダーが手渡される。

 

 病室に置かれたラジオでは、先に鎮圧された〈評議員たちの蜂起〉の首魁、ローゼティエン・ブルガネスの政治思想と、カーレス・フォージライト予備役〈少佐〉の政治思想を比較して論じ、蜂起鎮圧後の摂政体制の今後を占う教養番組が流れていた。

 教養番組は、その題を〈失われた叡智〉と言った。

 

  ***

 

〈私的命令〉

 

帝国暦一八一八年十一月一日

発:カーレス・フォージライト 法学博士、哲学博士にして中尉

宛:ラトル・シックルベール 上等兵

 

 貴官の従卒兼伝令および前線勤務の任を永久に解く。

 貴官は、ただ眼前の敵を打倒する一兵卒にはあらず。

 

我が生徒 ラトル

 

 私は、見届けることができない。

 君は、もっと大きなものと戦いなさい。

 

学友にして同志 カーレス

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