「勲章の曇り。」
——ラトル・シックルベール著『塹壕からの素描』より。
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帝国暦一八一九年一月八日夜、帝国南部の地方都市、ミウバエッヘ。
ひとりの長耳族系女性——帝国陸軍航空隊の飛行士、エルマ・セラ・ギユーリン少佐は、あてどなく街頭を彷徨っていた。ギユーリン少佐の軍籍は、書類上、現在も有効である。彼女は軍政上は〈無断除隊者〉として扱われるが、誰も彼女を追跡することはなかった。
ギユーリン少佐が誰からも追跡されないのは、彼女が帝国陸軍航空隊と共にもはや用済みとなったからである。帝国暦一八一八年十一月十七日午前六時に発効した帝国と連合国との休戦協定により、帝国陸海軍の保有する全航空機はその飛行を全面的に禁止され、最前線に存在した全航空機は、一部の輸送機と偵察機を除いて連合国軍へと引き渡された。
彼女にとっては幸福なことに、そして帝国陸軍にとっては不幸なことに、ギユーリン少佐の愛機と彼女が率いた戦闘機大隊の僚機は、ギユーリン少佐の機転によって、武装解除のための対敵引き渡しという恥辱を免れた。
ギユーリン少佐は、彼女たちの〈相棒〉である戦闘機をむざむざ敵の手に渡すまいと、停戦発効直前の最後の偵察飛行の際に、意図的に機体を不時着させ、スクラップにしてしまったのであった。これは、空飛ぶ騎士を自認した彼女たち戦闘機乗りにとって、全く幸運なことである。そしてそのことが連合国軍の査察官を激怒させ、現地における連合国軍の武装解除が一層苛烈さを増したのは、ギユーリン少佐の上官、ひいては帝国陸軍航空隊にとって、明らかな不幸であった。
休戦協定下、武装解除に対するこの種の抵抗は頻発し、帝国軍総司令部の頭痛の種となった。その主な担い手となったのはギユーリン少佐のような中堅士官であり、特に陸海軍の航空隊や、海軍の水上艦隊——兵器そのものが自身の生死を託す〈相棒〉、あるいは居場所となる組織——において顕著であった。
航空機を失った航空隊、艦船を失った艦隊には、もはや前線指揮官の居場所はない。それでも、ギユーリン少佐が水上艦の艦長であったなら、あるいは艦を同じくした部下たちの面倒を見ることを選んだかもしれない。しかし、ギユーリン少佐は陸軍の、それも航空大隊の前線指揮官である。空飛ぶ騎士を自認した帝国陸軍航空隊の飛行士たちは、たとえ僚友といえども、その風下に立つのを潔しとしなかった。
今や、帝国陸軍航空隊は開店休業状態であり、陸軍航空本部に詰める軍官僚を除けば、ほとんどの部隊が自然消滅的に霧散し、特に飛行士たちは、三々五々に行方をくらませていった。中には律儀に近隣の陸軍部隊に出頭する者もあったが、陸上においても手に職のある整備兵や事務方と異なり、ただ飛ぶことに特化してきた飛行士たちは、多くの場合敬遠され、なけなしの軍への愛着を擦り減らしていった。
ギユーリン少佐もまた、当初は大隊の飛行士たちを率いて軍管区司令部へと出頭したが、愛機なき飛行士、それも航空士官に後ろ指を差す者は多く、飼い殺しの日々に辟易して、ギユーリン少佐とその部下たちはなし崩し的に〈無断除隊者〉となっていった。
幸いにして、長引く前線生活と高額な飛行手当はギユーリン少佐の口座残高を極めて潤沢にし、しばらくは気ままに街頭を彷徨う自由を得ることができた。ギユーリン少佐は貴族称号こそ持たないが貴族の傍系に連なる裕福な商家に生を受けたから、郷里へ帰って心身を休める選択肢もあった。しかし、ギユーリン少佐は彷徨を選んだ。
空を飛んでいる間、ギユーリン少佐にとっての世界とは極めて単純なものであった。飛行計画を練り、訓練飛行をし、偵察飛行をし、航空支援をし、敵戦闘機との航空戦を戦い、そして地上に降りて休養する。戦場における彼女の航空大隊は、地上の兵士にとっては救世主であり、敵国の兵士にとっては悪魔であり、敵機の航空士にとっては好敵手であり、そして帝国という国家にとっては英雄であった。
しかし、ギユーリン少佐がその愛機と栄光の航空大隊を失って地上に降りたとき、もはやそこに、彼女の知っていた世界は存在しなかった。彼女の航空大隊は行き場を失った厄介者であり、彼女がぶら下げた勲章は輝きを失い、彼女の戦績は単なる記録へと変わった。ギユーリン少佐の栄光は、愛機と共に地に堕ちた。
それを自覚したとき、ギユーリン少佐には、潤沢な口座残高も、撃墜王の称号も、帝国陸軍士官の地位も、全く空疎な絵空事に感じられた。
それゆえに、ギユーリン少佐は各地を彷徨した。
ミウバエッヘの裏通りにある居酒屋で、貴重な輸入ワイン——つまり、帝国が海上封鎖の憂き目にあった世界大戦中期以前にもたらされた高級品——を呷り、ギユーリン少佐は旅籠へと歩を進めた。
ギユーリン少佐の旅に、目的はない。ミウバエッヘにいるのは、生家からほど近く土地勘があったからである。それでも生家に顔を出さないのは、ギユーリン少佐が自分でも説明できない後ろめたさを感じていたからであった。
裏路地には、至るところに煤けた横断幕が見える。〈即時講和〉〈帝政廃止〉〈制憲議会〉。皇帝退位を招いた、あの〈バーレンハイム蜂起〉の後、革命派の活動家たちが掲げたものである。煤けているのは、革命派の活動が旧市街地ではすっかり低調になったからであると、噂になっている。
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「なあ、姐さんよ。ちょっとばかり、食い扶持を恵んじゃあくれないかい。」
ギユーリン少佐が旅籠の近くに差し掛かったところで、浮浪者風の鍛冶族の男が、ギユーリン少佐の前に立ちはだかった。
「邪魔だ、どいてくれ。」
「そんな意地の悪いことを言わないでおくれよ。仲間じゃあないか、な、な?」
ギユーリン少佐は押し退け進もうとするが、男がギユーリン少佐の腕を掴む。
「何が仲間だ。これが見えんのか。」
ギユーリン少佐は、詰襟の軍服、その首元にある勲章を誇示した。
「なんだそりゃあ。メダルか?
——なんだ、勲章か。煤けちまって、何だかわからなかった。
もう、そいつでいいよ。そいつをくれよ。」
戦時中には、従卒が毎日、塵ひとつ残さず磨いてくれていた勲章。帝国陸軍の前線指揮官としては、最高等級の勲章。それを指差して、男は笑った。
「黙れ、下郎!」
ギユーリン少佐は拳銃を取り出すと逆手に銃口を握り素早く男の肩を殴打した。拳銃の把手が男の肩骨を砕く音がする。
「これは、私の望みなんだ! これは、私のすべてなんだ! これは——〈親父殿〉の!」
ギユーリン少佐は叫びながら、繰り返し、繰り返し、男を殴りつけた。鈍い音が夜の街路に響く。
「ありゃあパーエルの親爺じゃねえか? おい、何をしていやがる!」
騒ぎを聞きつけ、近所の住人たちが窓から顔を出す。浮浪者が路地裏のねぐらから飛び出してくる。
途端に、ギユーリン少佐は浮浪者の男女に取り囲まれ、報復を受けた。
後のことを、ギユーリン少佐はよく覚えていない。
ただ覚えているのは、浮浪者たちに蹴り飛ばされながら、首元の勲章だけは、決して離さなかったということだけである。
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あくる日、ギユーリン少佐は診療所で目を覚ました。
穴居族系の女性看護師が、ギユーリン少佐に声をかける。
「お目覚めですね、軍人さん。いま、先生をお呼びしますから。」
「——警察も、呼ぶのではないの。」
ギユーリン少佐は、看護師に疑問をぶつけた。絡まれたのはギユーリン少佐である。しかし、先に手を出し激昂したのもまた、ギユーリン少佐である。警察に通報されれば、ただでは済まない。
「妙なことを言うのね、軍人さん。呼んだって、来やしませんよ。知っているでしょう?」
「どいつもこいつも、私と同じか。酒浸りか、薬漬けか——腐っているな、どこも。」
そう言うと、看護師とギユーリン少佐は、顔を合わせて笑った。
そういえば、皇帝が退位して以来、久しく笑っていなかったことを思い出す。
「軍人さん——少佐さんかしら。飛行士さんなの?」
「元ね。私の隊も、他の隊も、みんな飛行機——なくしちゃったから。」
「なくしたのは、みんな一緒よ。ここに来るのは、みんなそう。」
「ああ、それはそうだろう。帝国人は、みんな、なくしたんだ。」
ギユーリン少佐の声は湿気を帯びていたが、表情は先程よりも明るかった。
「その表情ができるなら、大丈夫ね。
先生に診てもらって、お薬を飲んだら、ゆっくり休むのよ。」
そう言うと、看護師は医師を呼びに去っていった。
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さらにあくる日、薬を飲んで熟睡していたギユーリン少佐が目を覚ますと、隣の病床に急患が担ぎ込まれてきた。
顔を見れば——先般、ギユーリン少佐を蹴りつけていた浮浪者の中に、見かけた顔だった。
「ああ、アンタかい。」
看護師の処置を受けて多少清潔になった常人族の女は、苦々しそうにギユーリン少佐を睨みつけた。
「それはお互い様というものだ。
——パーエル、だったか。あの男は、あの後。」
「パーエルの親爺ならね、昨日も懲りずに物乞いをしているところをどこかの旦那に見つかって、連れてかれていったよ。どこぞに、いい仕事があるんだとさ。」
「そうか……。そうか。それは、本当に良かった。」
ギユーリン少佐はほうっとため息をついた。
「どうだかね。肩の骨を折った親爺を捕まえて、何をさせるんだか。」
対する女は、乾いたため息をつく。
「今の帝国は、仕事も足りないが、人手も足りないんだ。あるところにはあるんだろうよ、仕事も、居場所も。」
「だといいんだけどね。私も早いところ、仕事を見つけにゃ。」
「あてはあるのか。」
「ないんだよ、これが。全く、医者にかかる金だってなんとか捻り出したのにさ。」
「それなら——それなら、私が紹介状を書くよ。」
「アンタがかい? 脱走した不良軍人に、アテなどあるのかね。」
女はそう言いつつも、穏やかな表情で、ギユーリン少佐に微笑みかけた。
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さらに数日して、ギユーリン少佐の体調が、すっかり回復した、ある日のことである。
この日も熟睡から目覚めたギユーリン少佐は、病室の景色に微かな違和感を認めた。
患者の人数は増えても、減ってもいない。病床の配置も変わっていない。ただ、よく見慣れたものがない。
「——私の勲章は、どこだ。」
壁に掛けてあったギユーリン少佐の軍服。その傍らの台上から、昨日まではあったはずの勲章が、消えていた。
ギユーリン少佐はそのことに気づくと素早く飛び起き、回復したばかりの身体を酷使して、診察室へ急いだ。
診察室の扉を開けると、白衣を着た医師が、頭を抱えてうずくまっていた。
「ああ……。ギユーリンさんか。」
ギユーリン少佐の気配を察知すると、常人族の医師が、床に座ったまま、ギユーリン少佐を見上げて言った。
「悪いが、あなたには今日限りで退院してもらう。見ての通りの有様で、しばらく……しばらくは、休みだ。」
そう言われて我に返り、ギユーリン少佐が診察室を見渡すと、棚という棚がひっくり返され、さながら戦場のような混沌が、診察室を支配していた。
「空き巣か? 強盗か? すぐに警察に——。」
「どちらでもない。警察に言っても、まあ、無駄だろう。」
医師が、力なくつぶやく。
「うちの看護師だよ、やったのは。
——この部屋の鍵、彼女しか持っていないんだ。」
温和そうな、穴居族の看護師。ギユーリン少佐に笑顔を取り戻させた、あの看護師が、下手人だという。
「馬鹿な、なぜそんなことを。」
「薬だの、注射器だのというものには、いろいろな使い道が、あるからね。
……まあ、気持ちはわかる。行きずりの患者に公定価格で処方するよりも、よほどの実入りだ。」
「私の病室からも、勲章が消えた。」
ギユーリン少佐が告げると、医師は乾いた声で笑い、それに応じた。
「それも、たぶん彼女だろう。大きな勲章には、宝石が埋め込まれているんだろう?」
「宝石といっても、微々たるものだ。若者が小遣いをはたけば買い揃えられる程度の。」
ギユーリン少佐の勲章には、たしかに砂海大陸産のダイヤモンドが埋め込まれている。しかし、いかに勲章といっても量産品であって、富豪や王侯貴族でなければ買い求められないようなものではない。そんなことは、ギユーリン少佐には常識だった。戦前なら、かろうじて高級レストランの飲み代になる程度の代物である。
「その微々たるものでも——今は、人を殺す理由に、なるんだ。」
そう告げると、医師は懐中から短くなった紙巻煙草を取り出して、火をつける。
「ギユーリンさん。あなたのことは、以前に新聞で読んだことがあったよ。」
煙を吐きながら、医師はぽつり、ぽつりと続けた。
「敵戦闘機を次々と撃墜する、名飛行士。
撃墜王、空の女王。戦争の景気がいい頃は、こちらでもよく見かけたものだ。」
ギユーリン少佐は、大戦初期の快進撃を思い返した。あの頃、ギユーリン少佐はしばしば新聞やラジオの取材を受けたものだった。
「銃後にいて、不安な日々でもね。そんな活躍、ひとつひとつに勇気をもらったもんだ。」
医師は煙草を床で揉み消すと、静かに立ち上がり、ギユーリン少佐の肩を掴んだ。
「なあ、ギユーリンさん。あなたが欲しいのは、勲章かい?」
ギユーリン少佐が誇り、執着する勲章。何故に、ギユーリン少佐はそれにこだわったのか。
「ギユーリンさん。あなたは、今は飛べないかもしれない。私たちは、何もかも失ったのかもしれない。」
医師の手が、ギユーリン少佐の肩に沈んでいく。医師の細腕から出ているとは思えぬ力を、ギユーリン少佐は感じた。
「だがね、ギユーリンさん。飛んだことのない人間の、わがままを言わせてくれ。」
ギユーリンは、医師から目をそらすことができない。
「飛ぶんだ、もう一度。勲章のためじゃあない。地上から見上げる、私たちのために。」
医師の目は、かつてのギユーリン少佐と同じだった。
士官学校で、初めてミルダネスを見たときの、ギユーリンと。ミルダネスの首元の勲章に目を奪われた時の、ギユーリンと。